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2019.09.28

スプリンターズステークス直前予想

 いよいよ2019年後期GIの開幕――スプリンターズステークス。

 長い文章の読み方を講義してきたとは言え、私としては「できるだけ短い予想と回顧」を心がけています。「ほんとに?」と言われそうですがほんとです。
 どうも「書き始めるとあれもこれも追加したくなる」のが「ぼくの悪い癖」(杉下右京の口癖)なのであります(^_^;)。どうか懲りずにお付き合い下さい。

 さて、近年荒れ放題の短距離GI。たぶんこれといった絶対的エース不在なのでしょう。軸が不確定なら、ヒモも「わけわからん馬の激走」だったり、昔の栄光馬が突如突っ込んだり、粘ったりと……どうにも困ります。過去3年実近一覧ABは掲示板にも載りません。
 ところが、今回は予感どおり、1、2番人気が予想される08タワーオブロンドンと02ダノンスマッシュが一覧ABに入りました。さて切るのか。久し振りに連絡みするか。検討してみると、来ても全く不思議ないし、消える可能性なきにしあらず。
 かくして心は千々に乱れます。

 直前予想の前に後期も過去3年の実近一覧1~5着を掲載(ABのみ着外の結果も掲載)して傾向を探ります。

【GIスプリンターズS、過去3年の実近一覧結果】

  2019 |2018 2017 2016 |2019年
年=人|着|人|着|人|着|人|着|番馬名(トップ4頭とH8番人気まで)
A=B| |B|7|H|6|A|12|08タワーオブロンドン
B=A| |H|10|C|11|D| |02ダノンスマッシュ
C=D| |C|5| | |B|2|09ディアンドル
D=F| |09|2| | |12|5|13ミスターメロディ

E=E| | | |A|1| | |04リナーテ
F=C| |A|1|E|2|E|4|07モズスーパーフレア
G=G| |10|4| | | | |16ファンタジスト
H=09| | | | | | | |03セイウンコウセイ

QA=H| | | | | | | |05レッツゴードンキ
QB= | | | |09|3|C|1|01
QC= | | | | | | | |12
QD= | | | |16|4| | |14

QE= | |13|3| | | | |15
QF= | | | | | | | |11
QG= | | | | | | | |10
QH= | | | |12|5|G|3|06
QI= | |×| | |×| |×|×
QJ= | |×| | |×| |×|×
頭=16   16 16 16 16
    ※注「人気」は前日馬連順位

 過去3年の傾向としてはとにかく一覧ABが全滅。CDは2着2回。
 抽出したいのはE~Hの上位人気でしょうか。QA~ADの上位人気も無視しづらいところです。
 特筆すべきはA~Hの上位8頭から3着馬が出ていないこと。逆にQA以下の人気薄から3着激走馬が出ています。よって、思い切って出現予測をするなら、A~Hは上位人気馬を取り出し、人気薄馬はカット。3着穴候補としてQA以下の人気薄馬を(何かいい点を見つけて)ピックアップする……というのはどうでしょうか。

*****************************
 【スプリンターズS 実近一覧表】 中山 芝12 16頭 定量57キロ
                  (人気は前日馬連順位)
順=番|齢|馬        名|予OZ{実近}人=[全芝]騎 手|格距TM3F
A=08|牡4|タワーオブロンド| 2.3{AB}B=[6322]ルメル|○○◎◎
B=02|牡4|ダノンスマッシュ| 3.7{CA}A=[6205]川 田| ▲ △
C=09|牝3|ディアンドル  | 4.4{BC}D=[5200]藤岡佑| ◎

D=13|牡4|ミスターメロディ| 9.6{FF}F=[2104]福 永|◎ 
E=04|牝5|リ ナ ー テ |11.4{10D}E=[6318]三 浦| ▲▲▲
F=07|牝4|モズスーパーフレ|11.7{08E}C=[6118]松 若| ○
G=16|牡3|ファンタジスト |11.7{EH}G=[3204]武 豊|○△
H=03|牡6|セイウンコウセイ|12.8{GG}09=[641-]幸 英|◎△
QA=05|牝7|レッツゴードンキ|13.4{D11}H=[375-]岩 田|▲△ △
QB=01|牡7|アレスバローズ |14.4{1109} =[754-]菱 田|  ◎

QC=12|牝6|ダイメイプリンセ|18.3{1310} =[721-]秋 山|  ○○
QD=14|牡3|ハッピーアワー |22.5{H14} =[3213]横山典| 
QE=15|牝3|イ ベ リ ス |24.3{1213} =[3023]浜 中| △
QF=11|牡7|マルターズアポジ|33.2{1512} =[814-]丸 山| 
QG=10|牝4|ラブカンプー  |35.1{1415} =[2818]酒 井| △
QH=06|牝3|ノ ー ワ ン |65.7{1616} =[2033]内田博|△
             TM…タイム優秀 3F…上がり3F優秀
--------------------------
 成績補足
H=03|牡6|セイウンコウセイ|12.8{GG} =[641.13]幸 英|
QA=05|牝7|レッツゴードンキ|13.4{D11} =[375.14]岩 田|
QB=01|牡7|アレスバローズ |14.4{1109} =[754.17]菱 田|
QC=12|牝6|ダイメイプレンセ|18.3{1310} =[721.19]秋 山|
QF=11|牡7|マルターズアポジ|33.2{1512} =[814.22]丸 山|
---------------------------
※年齢 3歳=5 4歳=5 5歳=1 6歳=2 7歳=3 16頭
※牡牝 牡=8頭(セ=0頭) 牝=8頭 
※格
G1V=3頭
 A13ミスターメロディ[1001]
 B03セイウンコウセイ[1104]
 C05レッツゴードンキ[150.14]

G2V=3頭(GIV除く)
 A08タワーオブロンド[3000]
 B16ファンタジスト [1200]
 C06ノーワン    [1000]

 昨年1234着馬の馬番(今年の出走馬は馬名付加)
 1着=4枠08番  2着=5枠09番(10ラブカンプー)
 3着=1枠01番  4着=3枠06番(12ダイメイプリンセス)

--------------
 [枠連順位]
 枠連型=A流れF[AB型] 枠順AB=3.9
 馬連型=3巴  [AB型] 馬連AB=5.2

 枠連=AB//CDEF//GH 
 枠順=41//2587//36
 馬順=BA EDGF H12
 代行=C11 09141013 1516
 ―――――――――――――
 結果=

------------------------
 ○ 展開予想

※展開(3Fは前走の上がり優秀5頭)
 逃げ     先行     差し     追込
 07 10 15 03-09 13 02 11-08 12 06 01-04 16 05 14
覧6 ▲ △ ○ ◎ 5
3F C A C C B
本 ○ ◎ ▲ ●

************************

 ※ 直前予想

 まずはまさかの穴馬券成立――ラグビー日本大大金星、おめでとうございます(^_^)。世界ランク2位のアイルランドに勝つと一体誰が予想したでしょうか。
 初戦ロシア戦勝利は格下だったしまーわかる。4年前の南ア勝利は奇跡と言われた。だが、2度も起こっては奇跡の名がすたる(^.^)。

 私は「僅差負けの勝ち点+1なら良し」と思って競馬を最終レースまで見てそれからラグビー日本戦にチャンネルチェンジ。
 そうしたら9対12だったので、「おおー頑張ってるじゃん」と思い、以後は試合終了まで観戦。
 後半逆転しても、まだ信じてなくて(^_^;)、残り10分で7点差になったときは、「よっし。悪くとも同点引き分けだ」とつぶやき……残り1分で「あれっまさか勝つの?」とまだ信じてなくて……とうとうジャイアントキリング達成です。なんだかうるうる来ました。

 もちろん日本強かったけれど、地の利気候の利がかなりあった感じです。試合場の気温は27度だったとか。アイルランドの選手には真夏でしょう。彼らばてばてでしたね。
 それにしても、日本選手の半数は国外出身。でも、彼らが何のために戦っているかと言えば、ジャパンのため。私は別に国粋主義者じゃないけれど、じーんと来ました。
 げに「信じなければ」いけませんね。競馬も穴が出ると信じて、あるいは本命サイドと信じて「穴馬券を買わない」とか……こちらは無理でしょうか(^_^)。


 さて、スプリンターズS予想に戻って。

 改めての説明ですが、実近一覧表というのは成績、タイム、上がり、距離別、芝ダート別、競馬場別、人気、格など各データを総合して算出しています。
 つまり、上位にいくほど(当然ながら)好成績の馬です。そして、順位と共に予測オッズは能力を表している――と思って作成しています。
 今回トップABCは以下のように予測オッズ5倍以下で抜けています。

A=08|牡4|タワーオブロンド| 2.3{AB}B=[6322]ルメル|○○◎◎
B=02|牡4|ダノンスマッシュ| 3.7{CA}A=[6205]川 田| ▲ △
C=09|牝3|ディアンドル  | 4.4{BC}D=[5200]藤岡佑| ◎

 しかも、馬連順位もA~D内に入っている。ABC3頭が123着になることはめったにないけれど、ごくまれに本命決着となることもあります。なので、まずはこの3頭の3複1枚買っておきます。3単もA→B→C順に1枚。

 次に3複総流しのために1頭カットするなら、牝3歳の09ディアンドル。
 全成績[5200]、芝12[5200]の鬼ですが、GI・G2初が引っかかります。G3は前走小倉の北九州記念の2着1回のみ。それを勝っていれば、まだ「上がり馬」と見なせたのですが2着。
 また、今回古馬(牡馬)より4キロ減は魅力的ながら、前走比較なら1キロ増です。いまだ芝12のタイム最高1080では、消える可能性あり、と見て3複軸はAB2頭とします。よって[08-02→総流し]を1枚買っておきたいと思います(^_^)。

 さて、これでもう悔いはないので、あとは好きなように推理して好きな馬券を買いたいと思います(^_^;)。

 まずは◎。これはもうルメール牡4歳08タワーオブロンドン。全成績[6322]、いまだGIVはないけれど、G2は3勝無敗。前走まで芝12は[0110]だったので、芝14の馬で芝12はイマイチと思っていました。
 が、前走芝12G2セントSは7番手から上がり最速33.2を出してコンマ5差の楽勝。勝ちタイム1067と来ては、当時からスプリンターズSのど◎と決めていました。鞍上ルメールも言うことなし。
 不安は中山コース初と父馬「Raven's Pass」が聞いたことなく、供出7年目なのに産駒はわずか6頭。勝利も重賞勝ちもタワーオブロンドン1頭のみという点。それでGIVなら、ものすごい確率です。
 さすがに勝ちきれない可能性は高く、馬連の軸と考えます(調べたら父馬はアメリカ産で12戦[6411]でした。GIは2勝)。

 次に○ですが、先程書いたように09ディアンドルは評価を下げ、もう1頭02ダノンスマッシュも△に下げたいと思います。理由は全成績[6205]、芝12[4101]はいいけれど、G2初でGI実績[0003]が引っかかります。そのGIとは2歳朝日杯4番人気5着、3歳NHKマイル13番人気7着。ここまではマイルだからわかるけれど、今年3月高松宮記念でも1番人気4着でした。つまり、前哨戦で勝って本番で裏切られる……雰囲気があるので、ここも良くて3着ではないかと。

 そこで、新たに○▲としたのが、○福永牡4歳13ミスターメロディと▲三浦牝5歳04リナーテです。

 ○13ミスターメロディは前走セントSの1秒差8着(2番人気)には目をつむって(^_^;)今年の高松宮記念1着からの抜擢です。
 高松宮の前はG3阪急杯1番人気7着→そして高松宮3番人気1着。今回も柳の下を狙っているのではないかと。父馬Scat Daddyはイマイチですが、すでにGIを勝った以上、大したことなしとして○です。

 次いで▲04リナーテはこれも一本釣りの感じ。今回逃げ先行多く、ハイスピードが予想されるので、差し追いから1頭選びたいと思っていました。それに該当するのがこのリナーテ。全成績[6318]は大したことないけれど、芝12は[4112]、だいたい4角中団から上がりベスト3内で追い込んでいます。

 最後に3着△候補として一覧BCの02ダノンスマッシュと09ディアンドル。まさかの人気薄GIV馬の牡6歳03セイウンコウセイと牝7歳05レッツゴードンキ。そして逃げAの松若牝407モズスーパーフレアを追加します。

 最後にタワーオブロンドン2着のときのウラ●。
 騎手がイマイチですが(^.^)、大外武豊牡3歳16ファンタジストを抜擢します。
 同馬は全成績[3204]と平凡。しかし、新馬VからG3→G2と3連勝。この距離は芝12→12→14でこれが光ります。その後も全て重賞でG出走率(8/9)は全馬のトップ。
 ところが、勝ったのはその3連勝だけ。これは父ロードカナロアもあって4走目以後[朝日杯→スプリS→皐月賞→NHKマイル]とへんな色気を出したからで、これが良くなかったと思います(スプリSは2着)。

 さすがに中距離をあきらめ、2走前芝12の北九州記念に戻りました。これは古馬との初対戦とあって14着と惨敗した(着差はコンマ9)けれど、前走セントSではタワーオブロンドンの2着。つまり、芝14までの5走に限れば[3101]の成績なのです。しかも、うち3戦はG2で[1200]です。格的には09ディアンドルより上。
 前走はタワーオブロンドンにコンマ5差負けたけれど、他の古馬陣には先着したわけです。私は3歳馬の中ではこの馬がトップだと思います。前走は先行したけれど、大外に入った以上、今回は追い込みにかけると思います。一歩届かず2着かなあと思いつつ、●→◎中心に、他上位人気にも馬連馬単流します。
------------------------
 本紙予想
 印番馬      名 性齢 馬順
 ◎08タワーオブロンドン牡4 B
 ○13ミスターメロディ 牡4 F
 ▲04リ ナ ー テ  牝5 E
 △02ダノンスマッシュ 牡4 A
 △09ディアンドル   牝3 D
 △03セイウンコウセイ 牡6 09
 △05レッツゴードンキ 牝7 H
 △07モズスーパーフレア牝4 C
 ●16ファンタジスト  牝3 G

 さて結果は?

==============
 最後まで読んでいただきありがとうございました。

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2019.09.26

別稿『一読法を学べ――学校では国語の力がつかない』第20号実践編九 (その二の1)

 前号は一読法と三読法を交えた実践解説となったので、ちょっとわかりにくかったかもしれません。そこで『鼻』の授業実践後半に入る前に、前半を一読法実践に絞っておさらいすることにしました。
 ところが、さらりと復習のつもりだったのに、書き始めたら今回も長くなってしまいました。そこで、「一読法による前半の授業実践」のみの公開といたします。後半はさらに次号です。なお、この一読法実践は実際の授業に基づいていますが、想定問答とご理解下さい。

 九 一読法はなぜ通読をしないのか(その二) [小見出し]
 (1)一読法による『鼻』の授業実践(前半復習)
 (2)芥川龍之介『鼻』の授業実践(後半)    [以下次号]
 (3)なぜ通読をやめようと言うのか

--------------
 本号の難読漢字
・沙弥(しゃみ)・供奉(ぐぶ)・勿論(もちろん)・中童子(ちゅうどうじ)・惧(おそ)れる・毀損(きそん、傷つくこと)・喧伝(けんでん)・筈(はず)・極(きわ)めて・操(あやつ)る・聴従(ちょうじゅう)・茹(ゆ)でる・嗤(わら)う・抑(おさ)える

********** 小論「一読法を学べ」**********
 『 一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』 20

 九 一読法はなぜ通読をしないのか(その二)

(1)一読法による『鼻』の授業実践(前半復習)

 私は『鼻』の冒頭二百字ほどを「最初の立ち止まり地点」として一時間使いました。三読法の通読ならすぐに読み終える部分で、なぜ冒頭から時間をかけてあれこれふくらませるのか。
 そのわけは「どのような書き込みがなされたか」を見れば、おわかりいただけると思います。以下、漢字や難語句の[?]を除いた一読法のつぶやき例です。
 なお、池の尾とは今なら人口数千人くらいの地区、沙弥(しゃみ)とは修行僧、内道場供奉(ぐぶ)とは宮中に出入りできる高僧であり、京奈良で修行僧を含めた僧侶数万人の中に十名しかいないと確認した上での書き込みです。

 ※ 芥川龍之介『鼻』の冒頭、書き込み例
------------
 禅智内供(ないぐ)の鼻と云えば、池の尾で知らない者はない。
 [みんな知っている理由は? 鼻が長いから・[「有名な人だから」は追加]]
 長さは五六寸あって上唇の上からあごの下まで下がっている。形は元も先も同じように太い。いわば細長い腸詰めのような物が、ぶらりと顔のまん中からぶら下がっているのである。
[自分が内供だったらかなり悩むと思う]
 五十歳を越えた内供は、沙弥の昔から内道場供奉の職にのぼった今日まで、
[内供の年齢! 僧侶を志したのは二十歳前後か なぜ高僧になれたのか? 産まれたとき母や父、周囲の大人はどう思っただろう? 子ども時代は、少年時代はどうか?]
 内心では始終この鼻を苦に病んできた。
[自分一人しかいなければ心細いだろうし、当然の気持ちだ]
 勿論表面では、今でもさほど気にならないような顔をしてすましている。
[「今でも」とあるから、昔もそうだったんだ 誰にも相談しなかったのだろうか? 内心と外見にうそがあるけれど、普通同じようなことを考えるのではないか]
------------

 生徒の書き込みはここまで多くありません。私が質問したことも含めて掲載しました。
 早くも一行目から、私は他の可能性について質問を開始します。
「『池の尾で知らない者はない』とある。みんなが内供を知っている理由は?」と。
 生徒は「鼻が長いから」と答えます。そして、それだけしか答えません。
 私は「他にあるだろう。もっとよく読め」と考えさせます。「先を読まなくていい。この部分に答えがあるじゃないか」と付け足して。
 そして、「内道場供奉だから、身分の高い有名な僧だから」との答えを得ます。
 もちろん鼻が長いという、めったにない特徴はかなり評判になる理由ではある。がしかし、村中、町中知るとなると、それだけでは難しい。やはり村長さんとか町長さん、つまり、みんなの前に出る機会が多い人、有名な人であること。それなら「知らない者はない」と言えます。

 このへん「一言一句注意して読もう」という所だし、最初の段階で「内道場供奉」の意味を確認しなければならない理由です。
 以前「禅智内供の長い鼻は時代を問わない、僧侶であることも関係なく、誰でも起こる可能性がある」と書きました。それは「どこか別世界のお話ではない。今を生きる自分にも起こりえることとして考えてほしい」ゆえの言葉です。
 しかし、作品をしっかり理解するためには内供の年齢や身分を無視するわけには参りません。五十歳とは平均寿命五十年前後の時代ならかなりの高齢であること。また、内供は高名な僧であり、今で言うなら、職場の長とか学校の校長先生、議員など「人前に出る機会の多い人」であることは見落としてはならない記述です。平の僧侶だったら、内供の悩みはさほど深くないかもしれません。

 ――と書くと、細部を注意して読んでいるとは言えません。「内供は平の僧侶時代から鼻の悩みが深かった」と読みとれる表現があるからです。「どの言葉からそれがわかるかな?」と質問します。答えは「始終」と「今でも」。
 本文には「沙弥(しゃみ)の昔から内道場供奉(ぐぶ)の職にのぼった今日まで、内心では始終この鼻を苦に病んできた」とあります。「始終」とは「始めから終わりまで」の意味。つまり、内供はあまり人に知られていない修行僧時代から今日まで、長い鼻をずっと気にしていたことがわかります。
 しかも、それは「気にしていた」程度の話ではない。「苦に病む」を辞書で確認すると、「たいそう気にして思い悩む。苦にする」とあり、内供の悩みがものすごく深かったことがわかります(ここで逆の質問として「内供の悩みがとても深かったことがわかる表現がある。それはどこか?」と聞くことも可能です)。
 もう一ヶ所「表面では、今でもさほど気にならないような顔をしてすましている」の「今でも」にも注目しなければなりません。ここには「昔もさほど気にならないような顔をしてすましていた」が隠れています。そして、五十歳を過ぎた《今でもそれは変わらない》との意味です。
 このように、「苦に病む・始終・今でも」の言葉は内供の悩みが深刻であること、若い頃からずっと続いていることを的確に表現しています。「ぼーっと読んではいけない」ところです。そして、□を囲って余白に抜き出すべき重要語は「内心」と「表面」であり、そこに書きたい言葉として「内供のうそ!」でしょう。

 次に、質問というより「想像してみよう」と呼びかけることがあります。それは「もしも自分の鼻が長かったら、どうだろう?」という問題提起です。
「内供は五十歳を越えるまでずっと鼻が長いままだった。赤ん坊のときは気付かない。たぶん二歳か三歳で自分が人と違うことに気付く。それから子ども時代、少年時代、やがて僧侶を目指した。修行僧の時代を経て徐々に身分が上がり、やがて宮中に出入りできるほどの出世を果たした。彼の人生で何が起こったか。もしも自分の鼻が長かったらどう思い、どう感じるだろうか?」と。これは主として男子に聞きます。
 一方、女子生徒に「もしも君が産んだ子が鼻が長かったらどうだろう」と想像させたのはこのときです。この唐突な質問に「いやだあ」との声はほんとうに出てきます。そして、「鼻じゃなくても障害を持って産まれることは普通にある。そのとき君は我が子を愛せるかい?」とも尋ねます。

 このように、わずか二百字足らずの冒頭にはものすごく深い内容がこめられています。
 それをさらりと読み流せば、作品の理解度三〇のレールに乗って、浅い理解と誤解を積み重ね、ひたすら終点に向かって突っ走るだけです。その先渓谷の鉄橋がなくなっていても、列車は止まれず、谷底に落下するでしょう。
 ちなみに、このたとえはあるSF映画を思い浮かべています。現在を変えるには過去を変えねばならない、未来を変えるには現在を変え、さらに過去を変えねばならない。それは同時に自分を変えることでもあった――というタイムトラベルの名作でした。
 しかし、我々はタイムマシーンを持っていません。今後もこれだけは発明されないでしょう。我々にできることは現在地点の選択だけ。どう考えてどう生きるか。その選択が近い未来、遠い未来に影響を与えると意識して、強く感じて決断しなければなりません。だからこそ、ある地点で立ち止まって未来をあれこれ想像する必要がある。学校において未来を読む訓練をするべきだ、と私は考えています。

 それはさておき、冒頭の精読を終えると、「では、ここで抜き出すべき重要語は?」と聞いて以下の語句や表現を板書します。
--------------
 ・禅智内供、五十歳、生まれたときから長い鼻、今は有名な僧侶、内道場供奉
 ・[内心]始終この鼻を苦に病んできた。
 ・[表面]今でもさほど気にならないような顔をしてすましている。
   =内供の生き方・考え方、内供のうそ!
--------------

 ここに早くも心の中と外見の《うそ》が描かれていることがわかります。「内心」と「表面」は余白に抜き出すべき重要語であり、「さほど気にならないような顔をしてすましている」も傍線が引かれるだけでなく、余白に書いたり、[!]を付けて「内供の生き方・考え方、内供のうそ!」とまとめておきたいところです。

 よって、冒頭の段階で未来予想をすれば、この先どんなことが起こるかわからないけれど、「鼻をめぐって何か事件が起こり、そのとき内供の内心と表面が一致していないことは事件の原因になるかもしれない」と推理することができます。

 さらにもう一つ。作品の末尾まで読み終えたとき、私は「内供が中童子に対して暴力までふるう事件を起こした。その原因が周囲だけでなく内供にもあるとすれば、どこまでさかのぼれるだろう」と聞きます。
 一読法なら、どんどん前にさかのぼって「冒頭にあった内供の内心と表面の違い、うそをついていたこと」にたどりつくのはさほど難しいことではありません。

 ただし、この答えを得たときも、「だから、内供だけに起こった事件で自分には関係ない」と感じてほしくない。そこで、以下のように話します。
「君たちはみんな長い鼻の持ち主ではない。では、誰にも打ち明けていない、打ち明けたくない何か秘密は持っていないだろうか。たとえば、家庭内にもめ事やトラブルがある。あるいは、最近友人との間が気まずくなっているとか、自分の性格について悩んでいる……などなど内心は気にしていることがある。けれど、表面は気にならないような顔をしてすましている。そんなことって誰でも持っているんじゃないかい?」と。つまり、内供の出来事はやはり他人事ではない、あくまで《自分の問題》として感じ、考えることを求めます。
 自分の問題として受け止めるためにはさあっと読んではダメです。一言一句注意して読む必要がある。冒頭からこんなにも立ち止まってあれこれ考えるわけは「いろいろな物事を自分のこととして感じ考える」ためであり、未来をしっかり予想するためなのです。

 そして、ここまで精読しておくと、作品の未来として次のような予想も可能です。
・今後内供の内心と表面のうそがもっと描かれるだろう。
・周囲の反応はここにない。これから描かれるだろう――と。

 後者は「そこまで予想できるだろうか」と思われるかもしれません。
 しかし、内供は山奥で一人暮らしているわけではありません(もしもそうなら、この話は全く異なった展開を示すでしょう)。彼は当時の首都である京近くの寺に住み、弟子を抱え、葬式に出てお経を読み、喪主らと付き合い、法事にも出るはず。宮中にまで出入りして天皇皇族・貴族高官の方々とも言葉を交わす……と想像すれば、周囲の人々は内供をどう見てどう付き合ったか、それは避けることのできない過去であり、現在であり、これから起こるはずの未来です。

 このように冒頭の精読と未来予想を終えると、作品を読み進めます。そして、予想どおり内供の「現在」が描かれます。詳細は作品を読んでもらうことにして抜き出した重要語と表現を掲載しておきます。

---------------
※ 内供の現在
・自尊心 長い鼻に苦しんだ最大の理由は「自尊心が傷つけられる」こと
 内供は日常の談話の中に、鼻という語が出てくるのを何よりも惧(おそ)れた。=鼻の話題を避ける、鼻について語らない。
※ 自尊心の「毀損(きそん)」を回復しようと試みたこと
・消極的苦心 鏡を見ながら長い鼻を短く見せる工夫、誰か長い鼻を持つ人はいないか探す。絶えず人の鼻を気にした。書物の中に鼻の長い人を探して「せめても幾分の心やりにしたい」と思った。――効果なし
・積極的方法 カラスウリを煎じて飲む、ネズミの尿を鼻に塗る。――効果なし
 一人でもいれば安心できる。だが、自分一人しかいない=不快、心細さ
---------------

 ここには冒頭と結びつけられる表現があります。「内供は日常の談話の中に、鼻という語が出てくるのを何よりも惧れた」は彼の「内心」の気持ち。書かれていないけれど、「では外見は?」と問えば、冒頭の「今でもさほど気にならないような顔をしてすましている」につながります。
 さらに、「内供は自分の悩みが深刻であること、消極的、積極的にいろいろ試みていることを誰かに打ち明けただろうか」と問えば、ほぼ全員「打ち明けていないと思う」と答えます。
「根拠は?」
「昔も今もさほど気にならないような顔をしてすましている、とあるから」、「日常の談話の中に鼻という語が出てくるのを何よりも惧れた、とあるんだから話すはずがない」
「じゃあ聞きたい。内供はなぜ悩みを打ち明けないんだ?」と問えば、「自尊心が傷つけられるから」もあっさり出てきます。
 このへんで「自尊心」について調べたいところですが、私は深入りしません。というのは「自尊心が傷つく」は「心が傷つく」といったニュアンスで使われているからです。

 私はむしろここで作品に《書かれていないこと》を想像させます。
 まず一つ目は長い鼻をめぐる笑い話のようなエピソードのところ。食事の際は鼻もたげの板を使って弟子に介助してもらわねばならない。ところが、あるとき弟子の代わりをした少年僧の「中童子」がくしゃみをしたせいで内供の鼻がお粥の中に落ちてしまった。この話は「京都にまで喧伝(けんでん)された」とあります。
 書かれていないけれど、おもしろおかしく話題を伝えた起点は中童子であろうことを確認し、「このとき内供は中童子に対してどのような態度を取っただろうか?」と質問します。生徒からは「さすがに怒っただろう」とか、「いいよ、いいよと平静を装ったのではないか」などの答えが出ます。ここではこの程度にとどめて「どちらが正しいだろうか」といった質問はしません。

 もう一つは周囲の人の内心と外見です。「内供の悩みが深刻であること、鏡を見ながら工夫していること、いろいろ治療法を試していたこと。周囲の人はそれに気付いていただろうか」と。これも本文にありません。
 生徒の考えは「内供が内心を明かさないんだから、気付くはずがない」から、「全員じゃなくても誰かは気付いているかもしれない」に分かれます。また、「気付いていたとしても、内供が鼻のことを話題にしないのだから、周囲の人も気の毒だと思って鼻の話題を避けるのではないか」とかなり的確な推理も出てきます。が、ここもあまり深入りしません。
 この問いはある意味「周囲はどうだろう?」との疑問であり、(ここまで書かれていないと言う意味で)未来予想です。この後ある存在が描かれるので、この答えがわかります。それは都で治療法を見つけた一人の弟子です。

 作品はここまでのまとめでもあるかのように、内供の現況について「しかし何をどうしても、鼻は依然として、五六寸の長さをぶらりと唇の上にぶら下げているではないか」と書かれます。ここにも見落としてはいけない表現があります。それは文末の「ではないか」です。
 そこで「~ではないか」を辞書で確認します。これには「疑問・反問」だけでなく「詰問」の意味もある。たとえば、「誰か来たか」は単なる疑問。だが、「誰か来たのではないか」や「たった今言ったではないか」となると、詰問口調になり、非難の意味合いが込められる。
 よって、「ぶら下げているではないか」には「内供の不快や不安、心細さ。長い鼻への恨み。もうどうしようもできない、死ぬまでこのままか、といった絶望感まで読みとれる」と話します。
 ここはプロ作家の巧みなところです。「内供の内心を表す言葉をたくさん並べるのは普通の作家。優秀な作家は文末を『ではないか』とすることで、それを表そうとする。逆に言うと、文章を読むときはこの部分に内供の内心が描かれていることに気付かねばならないよ」と解説します。

 次の段の冒頭は「ところがある年の秋、内供の用を兼ねて、京へ上った弟子の僧が、知己(しるべ)の医者から長い鼻を短くする法を教わって来た」とあります。
 ここは「おやっ、話題が変わったぞ」とつぶやきたいところです。
 一読法なら接続詞の「ところが(話題転換)」、時候を示す「ある年の秋」――この二つを読んだだけで、「次の変化がやって来るぞ!」と気付きます。当然傍線を引いて上部に抜き出します。

 前号で一読法の立ち止まりとは「事件が起こるはるか前であり、何かしら変化が起こったときであり、そろそろ事件が起こりそうな地点である」と書きました。「長い鼻を短くする法を教わって来た」を読めば、何かしら変化が起こる、との予感が働きます。
 なお、「知己」は知人、知り合いの意味であり、「ちき」と読むのが本来ながら、「ここは《しるべ》と読ませている」と補足します。

 こうして作品は弟子が知った治療法を試す場面へと続くのですが、その前に一筋縄ではいかない奇妙な展開を見せます。内供は「そうか。すぐやってみよう」と言わないのです。ここでの最重要語はもちろん「策略」。板書事項が以下、

---------------
※ 弟子の僧が長い鼻を短くする治療法を発見
・内供の策略
 「いつものように、鼻などは気にかけないという風をして、わざとその法もすぐにやってみようとは言わずにいた」、「一方では、気軽な口調で、食事の度毎(たびごと)に、弟子の手数をかけるのが、心苦しい」と言って「内心では勿論弟子の僧が、自分を説き伏せて、この法を試みさせるのを待っていた」というような態度を見せる。
・弟子の反応
 「内供のこの策略がわからない筈はない。しかしそれに対する反感よりは、内供のそういう策略をとる心持ちの方が、より強くこの弟子の僧の同情を動かした」ので、「口を極めて」この治療法を勧めた。
---------------

 この部分一読法なら、作品冒頭で「内心・表面」を抜き出しているので、「内心では勿論」のところですぐ「内心」を□で囲みます。そして、その前の内供の様子が描かれたところに「表面」と書き込むことはさほど難しいことではありません。内供の内心と表面の違いが現れた部分だとわかります。
 ところが、後半の弟子の反応が描かれたところは、一読法でもさらりと読み流す可能性が高い。ここは「策略」云々のところで「おやっ?」とつぶやいて、「なぜこの弟子は内供の策略に気付いたのだろうか」との疑問を書き込んでほしいところです。が、「策略・反感・同情」を余白に抜き出せても、「内供のこの策略がわからない筈はない」に傍線を引き、[なぜ?]と書き込める生徒はなかなかいません。

 これは一言一句注意して読む一読法がまだ身についていないからだと言えるけれど、そうとも限りません。作者が「内供のこの策略がわからない筈はない」と断定しているからです。
 私たちはこれを読むと、「この件は誰でも気付く策略なんだ」と思ってしまいます。だが、そうだろうか(と問わねばなりません)。
「そもそも」と私は尋ねます。「我々は人が仕掛けた策略を簡単に見抜けるかい?」と。
 別に近年流行りの特殊詐欺を例に出す必要もありません。生徒は「難しい。特に普段から付き合っている人だと、策略を仕掛けるなどと思わない」と答えます。
 だからこそ、この場面も「誰でも気付く策略だろうか。この弟子はそれが策略だとなぜ見抜いたのか」について考えねばなりません。

 その前に「策略」の意味を確認するため、「策」と「策略」に分けて辞書を引きます。同時に「よく使われる語句に『策を□(ろう)する』がある。この漢字書けるかな」と尋ねて「策を弄する」も確認させます。
 まず「策」を調べれば「はかりごとや計画」の意味であり、物事をうまく進めるための手段・方法であること。政策・対策の「策」であり、別に悪い意味ではない。
 だが、策略になると「自分の目的を達成するために相手をおとしいれるはかりごと」となってかなり悪いニュアンスが含まれる。また、「弄する」には「相手をもてあそぶ。思うままに操る」とあって「策略」・「策を弄する」はかなり響きが悪い言葉であると確認します(余談ながら「弄」の訓読みは「弄(いじ)る」であること、部首は下の部分で「こまぬき・にじゅうあし」と呼ぶから、「王に、にじゅうあしと覚えよう」と言います)。

 次に治療法を聞いたときの内供の反応を細かく分けます。
-----------------
1 いつものように、鼻などは気にかけないという風をして……すぐにやってみようと言わない。=外見
2 気軽な口調で「食事の度毎に、弟子の手数をかけるのが心苦しい」と言う。=言葉
3 内心では勿論弟子の僧が自分を説き伏せて、この法を試みさせるのを待つ。=内心
-----------------

 さらっと読むと、内供の様子が書かれているように見えるけれど、よく読めば[1・2]は目に見え、耳に聞こえるけれど、[3]は内供の心中であり、内供がそのように語っているわけではないことがわかります。
 これを逆に言うと、[3]が内供の内心の言葉であることを把握していないと、一体どこが内供の「策略」なのかわかりません。
 ところが、作者はずいぶんあっさりと「内供のこの策略がわからない筈はない」と書いています。これは内供の内心でも弟子の言葉でもない、作者の解説である――このことも気付かねばなりません。
 弟子から見てわかることは内供の外見と内供の言葉だけであってその内心はわからないはずです。「では、この弟子はなぜ内供の言葉や態度を見てそれが策略だと見抜いたのだろうか」と問います。

 ここで先程の質問――周囲の人の内心と外見について問うた「内供の悩みが深刻であること、鏡を見ながら工夫していること、いろいろ治療法を試していること。周囲の人はそれに気付いていただろうか」が意味を持ってきます。
 そのとき生徒の答えは「内供が内心を明かさないんだから、気付くはずがない」から、「全員じゃなくても誰かは気付いているかもしれない」に分かれました。
 すると、「そうか。内供の悩みに気付いていた一人がこの弟子だ!」との言葉が出てきます。
「そうだと思う。少なくともこの弟子だけは内供の悩みが深いこと、表面は気にしない風をよそおっていること、実はひそかにカラスウリを煎じて飲んだり、ネズミの尿を鼻に塗っていることを何かの拍子に知ったと考えられる。だからこそ、彼は内供のために何かしたいと思い、京都まで出かけたとき、知人に『長い鼻を短くする治療法はないか』尋ねた。相手が中国渡来の僧だったことも、日本では治療法がないと知っていたからだろう。では、この弟子の心にある思いは?」――と聞けば、「同情」の言葉が返ってきます。

 さらに続けて「弟子は思ったはずだ。だったら、正直に悩みを打ち明けて『すぐにでもやってみよう』と言ってくれればいいではないか。ところが、内供様はそう言わない。弟子の方から熱心に勧めるのを待っている」と。
 弟子は内供の本心がわかった。だが、外見は大したことではないとすましている。その一方で「食事の時は弟子に苦労をかける」と心にもないことを言う。いや、それは本心の言葉であろう。だが、治療に関しては自分から「ぜひやってみたい。やってくれ」と言わない。弟子の方から「ぜひ治療してみましょう」と言わせようとしている。
 かくして弟子は内供の内心がわかるゆえに、内供の反応や言葉が策略だと見抜いた。
「では、内供の策略に気付いた弟子の心中を表す言葉は?」と聞けば、「反感」と返ってきます。操られているとわかって気持ちのいい人はいないでしょう。

 弟子についての考察を終えると、今度は内供が策略を用いた理由を探ります。
「弟子の僧は内供の言動が策略であることを見抜いて同情と反感を抱いた。では、策を弄した内供はどうだろう。それが悪いことと言うか、相手に反感を抱かせるようなことだと思わなかったのだろうか」と。
 もっとも、この答えはすぐに出てきます。
「先生。悪いと思ったら、やらないよ。策を弄しても悪いと思わないからやるんでしょ」
「そうだな。その通りだ。でも、もう一つ策を弄する理由があるだろ?」
 ――と聞けば、この答えはそう簡単に出てきません。悪いと思っても、なぜ策を弄するのか。

 そこで、内供が全僧侶の中から十名しか選ばれない高僧であること、すなわち優秀な人であること。この弟子は内供の策略に気付いたけれど、「他の僧だったらどうだろう?」などとヒントを出すと……、
「そうか。内供は自分の策略に相手は気付かないと思ったんだ」との答えを得ます。
「たぶんそうだろう。昔の戦でも敵の背後を奇襲するなど策略が使われる。でも、それが策略だと見抜かれたら、逆に返り討ちにあう。だから、策略とは相手に気付かれないようにやる必要がある。内供は相手に気付かれないだろうと思って策を弄した。だが、この弟子は策略に気付いたわけだ。そうなると、弟子が返り討ちにする方法が一つあるね。漫才なんかでもよく使われるやり方だが……」と聞くと、
「この弟子が『わかりました。それじゃあ、治療法を試すのはやめましょう』と言うことですか」との答えが返ってきます。
「内供は試したくて仕方がないんだから、そう言われたら困るだろうねえ。でも、弟子はそう言わなかった。この場では同情が勝ったからだ。しかし、今後はわからないよね」と話します。

 さて、これをもって「ここの解釈は一件落着」と言えるでしょうか。
 内供は策略を用いても相手は気付かないだろうと思った――との解釈は「内供がなぜ策を弄したのか」の答えではありません。私はさらにもう一段の深読みを求めて次のように問題提起します。

「内供は弟子が策略だと気付かないだろうと思って策を弄した――この解釈は当然あり得る。詐欺師の策略と同じだ。だが、内供はもしかしたら弟子が策略だと気付いても構わないと思ったかもしれない。そして、弟子もまた内供の策略に気付いたが、ここは同情が勝ったので、気付かない振りをして『外来の新しい治療をやってみましょう』と口を極めて説得した……この可能性はないだろうか」と。
 生徒からは「そりゃあ、先生考えすぎです。お互いそんなことまで考えて喋ったり行動するとは思えません」との反応が返ってきます。

「じゃあ、内供と弟子のやり取りの部分をもう一度よーく読んでごらん」と言って以下を再読させます。
 本文は連続していますが、ここは改行して三つに分けます(読者各位も先を読まずに立ち止まって考えてみてください)。
--------------
・(内供は)気軽な口調で、食事の度毎に、弟子の手数をかけるのが、心苦しいというような事を言った。内心では勿論弟子の僧が自分を説き伏せて、この法を試みさせるのを待っていたのである。
・弟子の僧にも、内供のこの策略がわからない筈はない。しかしそれに対する反感よりは、内供のそういう策略をとる心持ちの方が、より強くこの弟子の僧の同情を動かしたのであろう。弟子の僧は、内供の予期通り、口を極めて、この法を試みることを勧め出した。
・そうして、内供自身もまた、その予期通り、結局この熱心な勧告に聴従することになった。
--------------

 注目したい言葉は内供の「勿論弟子の僧が自分を説き伏せて」の「勿論」と、二ヶ所出てくる「予期通り」です。内供は何を予想したのか。なぜ予想したのか。

 これまでの内供を振り返るなら、ずっと長い鼻に苦しめられてきた。だが、外見は何でもない風を装ってきた。治療法はなく、もうあきらめかけていた。そこへ弟子が新しい治療法を見つけてくれた。それも中国渡来の治療法だ。内供の本心は「すぐにでも試したい。飛びつきたい」であろう。
「だが、この気持ちを正直に出せない理由が内供にはあったね。それはなぜ?」と聞けば、一読法ではすぐに答えが出ます。「内供は日常の談話の中に、鼻という語が出てくるのを何よりも惧(おそ)れた」からであり、内供の「内心と表面のうそ」です。それが昔から今も続いていた。
 内供はここでも「新しい治療法をすぐにでも試したい」との内心を隠し、表面はさりげなく装う。
「なぜそうまでして隠すのだろうか」と問えば、「自尊心が傷つくから」の答えも出ます。

 しかし、私は「心が傷つく」だけでなく、内供が五十歳を越えていること、僧侶の中で十人しかいない高位に就いたことからも「内心を隠したい」理由を探り、次のように話します。
「内供が内心を隠すわけはそれが過去五十年の生き方そのものだからだ。内供はこれまで人に自分の悩みを知られないことで、ずっと生きてきた。そして、僧侶になり、頑張って内道場供奉という高位にも就けた。ここで本心を明かすことはある意味そうやって生きてきた自分自身を否定することになる。それはこわい。それはしたくないんだ」と。
「ではどうするか。ここで内供は考えた。内心を明かさないまま、新しい治療を試すにはどうすればいいかと。この弟子は自分が『もういい、もういい。何をどうやっても鼻を短くすることはできない。私はもうあきらめている』と言ったら、どう出るだろうと予想した。(生徒の一人に)君がもしもこの弟子だったらどうする?」
「内供に対して同情があるし、せっかく治療法を見つけてきたんだから、ぜひ試しましょうと説得すると思います」
「そうだよね。おそらく百人中九十九人はそう言ってくれる。百人に一人くらいは『そうですか。じゃあ治療法を試すのはやめましょう』と言うやつがいるかもしれない。が、この真面目な弟子ならそんなことはない。きっと私を熱心に説得してくれるだろう。なら、私は内心を明かす必要はない。『何をどうやっても鼻を短くすることはできない』などと余計なことを言う必要はないではないか、と考えた」

 こうした心理の流れを経て内供は「いつものように、鼻などは気にかけないという風をして、わざとその法もすぐにやってみようとは言わず」、「一方では、気軽な口調で、食事の度毎に、弟子の手数をかけるのが、心苦しい」と本心を隠し、弟子が自分を説得してくれるような言葉を発した。

 つまり、内供にとって最も大切なことは自分の本心を知られないことであり、自分の言動が策略だと相手に見抜かれなければそれで良し。仮に見抜かれたとしても、自分の本心を知られるよりはまし。そう思って策を弄した。弟子は策略に気付いたとしても、きっと新しい治療法を勧めてくれると予想した。

 そして、弟子の方もこの全てを見抜いた。だが、反感より同情が勝ったので「口を極めて、この法を試みること」を勧めた。この弟子は内供が予期した路線に乗ってあげた、とも言える。
 私は最後に「『弟子の僧にも、内供のこの策略がわからない筈はない』と『内供自身もまた、その予期通り、結局この熱心な勧告に聴従する』の《も》に注意してほしい」と話します。これは内供も弟子も策略だとわかっていたことを表していると。内供は相手が策略だと見抜いても、この策略に従ってくれるだろうと予想できたから、策を弄した。
 要するに、まるでドラマの脚本があるかのように、内供も弟子も全てわかった上で「予期通り」の流れを演じたのではないか――と私は解説します。

 この説明を聞いた生徒の反応は「そうかなあ」と懐疑的であったり、「そこまで考えて喋るなんて内供さんが嫌いになる」とか、「大人ってめんどくさい」もありました。
 中には「どうして内供はそんなに自分の悩みを隠すんだろう」も出てきます。私は「その件は最後にもう一度考えよう」と言うにとどめます。

 もう一つ「ここに描かれたのは一つの心理戦だ。もしも興味があるなら、夏目漱石後半の『行人』・『こころ』・『道草』などを読んでごらん。いやになるほど心理戦が描かれているよ」と話します。そして、「漱石が『鼻』を激賞した理由の一つは、この心理戦をかくも短く鮮やかに描いたところだと思う」と補足します。

 さて、このような経緯を経て、いよいよ長い鼻を短くする治療が始まります。
 まとめると以下、
---------------
※ 鼻の治療法――長い鼻を熱湯で茹でて足で踏む
・内供の内心
 苦笑、「痛うはないて」腹を立てたような声、不足らしく、「弟子の僧の親切がわからないわけではないが、自分の鼻を物品のように取り扱うのが不愉快」、不服らしい顔
・弟子の態度
 気の毒そうな顔で「痛うはござらぬかな」、独り言を言いつつ一生懸命作業をする。
---------------

 私はここでようやく「自尊心が傷つく」について考えます。
 これまでの内供は自身の長い鼻について周囲の人はきっと嗤っているだろうと感じている。彼はこの話題を避け、そんなことは大したことではないと外見を装っている。それは鼻について話題にすると「心が傷つくから」と読みとれる。だが、この治療を受ける場面には心が傷つく以上の「自尊心が傷つくこと」だとわかる表現がある。
 そこで私は「ぜひ傍線を引きたい重要な部分はどこだろう」と聞きます。

 その際「自尊心」について辞書を引くことなく、「自分の心と自尊心との違いは《尊》があるかどうかだ。つまり、自尊心とは自分を尊いと思うことだ。なら、内供の内心を描いた部分に自分を尊いと思えない、そう思えないことをされる表現がある。それはどこだろう?」と聞けば、「自分の鼻を物品のように取り扱うのが不愉快と感じるところ」と返ってきます。
「そこだよな。内供にとって長い鼻は自分自身だ。持て余しているけれど、自分の一部だ。自分は人間であって物ではない。それを足で踏んづけられる。物品のように扱われてはたまらないと感じる。我々だって自分が人間として扱われなかったら、きっと不愉快な感情が芽生えるだろう?」と話します。
 しかし、「弟子の僧の親切がわからないわけではない」とあるように、内供もこう感じることは良くないことだと思う。思いながらも、わき出る不快を抑えることができない。それを作者は「内供はやはり、八の字をよせたまま不服らしい顔をして、弟子の僧の言うなりになっていた」と描いています。もしも治療をするのが弟子でなく、正式な医師であったら、内供はそこまで感じなかったかもしれません。

 ちなみに、私がここで「自尊心」を辞書で確認しないのは、英語では「プライド」の意味であったり、「アイデンティティ」であったりと、心理学的にかなり深入りせざるを得なくなるからです。作品理解にはこの程度で充分と考えての実践です。

 作品に戻って、かくして治療は成功、長かった鼻はかぎ鼻程度の短さになります。
 一日経っても元に戻らないとわかったとき、内供は「幾年にもなく……のびのびした気分」になります。「こうなれば、もう誰も嗤うものはないのにちがいない」と思って。

 治療が成功したところで、私は生徒に一つ尋ねます。それはまたも本文に書かれていないことです。
「鼻の治療を終えたとき、内供は普通言っていい言葉を発していない。それは作者が書き忘れたのだろうか。それとも内供はその言葉を本当に言っていないのだろうか」と。
 その言葉とはもちろん「ありがとう」です。そして、上記内供の内心を表している言葉――腹を立てたような声、不足らしく、不愉快、不服――をたどれば、作者が書き忘れたのではなく、内供は「ありがとうの言葉を言わなかっただろう」と読みとれます。
 この弟子は内供の策略に気付き、それでも同情が勝ったから、「この法を試してみましょう」と説得し、一生懸命治療した。なのに、内供から感謝の言葉は返ってこなかった。「君ならどう思う?」と聞けば、「かなり失望すると思う。反感が強くなるかもしれない」といった感想が出てきます。

 長くなりました。ようやく前号でまとめた前半最後の立ち止まり地点――鼻が短くなったところで内供がつぶやいた「こうなれば、もう誰も嗤うものはないのにちがいない」につながります。私はここでも丸々一時間使って「周囲の反応(未来の可能性)」をあれこれ考えさせました。

 なぜ鼻が短くなった地点で多くの時間をかけたのか。ここが重要だと認識して立ち止まるのはなぜか――最後にそれについて解説しておきます。
 生徒は口をとがらせて言いました。「結末まで読むと、内供は鼻が短くなっても元のように長くなっても、同じことをつぶやいたことがわかる。先生はそれを知っているから、前半最後で立ち止まっていろいろ考えさせるんでしょ。ずるいよ」と。
 私は以下のように話します。
「鼻が短くなったところでしばらく立ち止まる理由があるんだ。それは先を読んだからではない。結末を知ったからでもない。主人公の内供は齢(よわい)五〇を過ぎた現在まで、生まれてこの方ずっと鼻が長いままだった。子ども時代、少年時代を過ごし、僧侶を志して仏門に入った。子どもの頃はおそらくいじめられただろう。十代の初恋はあきらめただろう。そして修行を積んで、今や「内道場供奉(ぐぶ)」という高位に就いた。寺の住職として弟子を何人も抱え、天皇にもお目通りがかなうほどの出世を果たした。この間鼻は一度も短くなったことがない。ところが、ここで人生初の出来事が起こった。長い鼻が短くなるという《人生最大級の事件、驚愕の出来事、ものすごい変化が起こった》。
 ならば、読者にしても、ここで立ち止まり、最大級の関心を持って『この後一体どうなるのだろう?』と予想するのは当然じゃないか。だからこそ、ここで時間をかけて検討する。過去を振り返り、未来像として一〇〇ヶの可能性を探るんだ」と。

 もしも内供自身と会話するなら、と想像してみましょう。長い鼻を持つ内供さんから「こんなことがありました」と話を聞く。「ようやく長い鼻が短くなりました。これでもう誰も私を嘲笑することはないだろうと思いました」と言って口を閉ざす。どうも後は言いづらそうだ。
 そうなると、こちらとしては「その後どうなりましたか?」と聞きたくなる。もしも内供さんが「どうなったと思いますか」と聞き返したら、「もちろんみんな良かったですねと言ってくれたんでしょ」と答える……。こう考えれば、この地点で立ち止まるわけがわかってもらえると思います。

=============
 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:そろそろ本稿全体の終わりが見えていますが、改稿に改稿を重ねた結果、実践編ラストの「まとめ」も書き換えねばならない状況に陥りました。ちょっと週刊が厳しくなったので、次号より中2週に戻したいと思います。ご了解お願いいたします。

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2019.09.24

スプリンターズS、昨年回顧

 今年の夏は無事乗り越えられたでしょうか。
 私の実家近辺では巨木の枝が折れて電線に乗っかりました。
 実家の道を隔てたすぐ上に明治時代から続く小学校があります。そこに樹齢数百年のイチョウの巨木が立っていますが、8月6日の台風でぶっとい枝(長さ10メートル)が1本折れて道路上の電線に乗っかりました。
 朝の7時半ころ、ばりばりって音で目が覚めたのでびっくり。幸い電線は切れず、実家に被害もなし。夕方には九電によって処理されました。
 それに比べれば、千葉県の被害は甚大だと思います。被災した方々にはお見舞い申し上げます。

 さて、今夏競馬における話題は2頭の名馬(名種牡馬)の他界でしょうか。7月30日ディープインパクトに続いて8月9日キングカメハメハも天国に逝きました。ディープは2002年の生まれで享年17歳。キンカメは1つ年上でした。あの頃から競馬参戦の方々はどちらもよく覚えておいででしょう。

 ほぞ噛みメルマガは2004年皐月賞の創刊なのでキンカメについて結構書いています。特にNHKマイルとダービーの変則2冠は震えました。NHKマイルは5馬身差、走破タイム1325はレースレコード。ダービーの勝ちタイム2223はそれまでのレースレコードを2秒も縮める勝利でした。
 回顧で「秋になったら天皇賞に出てほしい。楽勝だろう」と書いています。「中央競馬50周年を飾る名馬になるだろう」とも。ところが、好事魔多し。秋初戦神戸新聞杯楽勝後、浅屈腱炎を発症して引退しました。
[7010]の成績でした。
 3冠ディープインパクトに関してはすご過ぎて特に言うべき事はありません(^.^)。

 今回たまたまのように2頭の逝去が重なったので、改めていろいろ調べてみました。意外なところではこの2頭馬主が同じ「金子真人」氏でした。あのころ私は馬主に興味がなかったので「へえっ」て感じです。
 いとこがGIで金子氏の馬が出てくると、必ず単勝を買うというのもむべなるかな、です(今年はGI未勝利)。

 そして、キンカメは翌2005年から種牡馬生活入り。ディープは5歳で引退して2007年から。初年度産駒が走り始めたのはキンカメが2008年、ディープは2010年でした。

 キンカメの産駒成績は52位→9位と来て2010年1位→11年1位、以後昨年まで7年連続2位です。
 では「この7年間の1位は?」と問えば、当然おわかりでしょう。
 答えはもちろんディープインパクト。2010年40位→4位と来て2012年から昨年まで連続1位。ワンツーを7年続けたのだから、改めてものすごい2頭だったんだと実感します。

 産駒の重賞勝利は2019年現在ディープが206勝、GI51勝。キンカメは重賞116勝、GI22勝ですから、ディープの勝ちでしょうか。しかも、今年キンカメ産駒はGI未勝利ながら、ディープ産駒は前期5勝です。
 今後も目が離せないけれど、後期どこかでキンカメ産駒のGI勝ちがあるのではと、勝手に予想しています(^_^)。

 ところで、今年のダービー、ウラ●として単勝93倍を獲ったロジャーバローズはディープインパクト産駒でした。同馬は父ディープが3着に終わった凱旋門賞挑戦を表明していたのに、ディープ逝去後屈腱炎を発症して引退となりました。キンカメ引退と同じ病気というのも何かの因縁でしょうか。
 レースレコードを出したキンカメのときは「楽勝」と思っていました。今年のロジャーバローズもダービーレコードを出して……残屈腱炎。どうも近年の高速馬場は馬に負担をかけ過ぎているのでは、と思えてなりません。

 馬はレースで億単位の金を稼ぎ、種牡馬となっても種付け料でたんまり稼がせる。では、宝石を身につけたり、高級スポーツカーに乗ってステーキや寿司をたらふく食べるわけでもない(^.^)。香港ではセン馬にしてGIを勝たせようとしているし、神になった天国の2頭は「貪欲が過ぎると天罰が下るぞ」と言っているのではないでしょうか。
 ……などと感じた8月でした。

 以下週末のGIスプリンターズS、昨年の結果報告です。
 今年の週中予想を試みるなら、2強気配でしょうか。川田牡4ダノンスマッシュとルメール牡4タワーオブロンドン。しかし、もう1頭が難解。目下の予想は[◎-○→総流し]路線です(^_^;)。

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 (^_^) 前回GI、結果とほぞかみ (^_^)

 2018スプリンターズS、結果は◎-△の馬連馬単的中(^_^)

 1着―川 田 08牡5ファィンニードル……[◎]F 単勝=2.8
 2着―和 田 09牝3ラブカンプー…………[△]D
 3着―武 豊 01牡7ラインスピリット……[?]13
 4着―秋 山 06牝5ダイメイプリンセス…[?]G
 5着―岩 田 10牝6レッツゴードンキ……[△]C
                       ↑実近順位
 前日馬順[A→09→13→10→C]枠順[A-D’-H-E-D]

 枠連=4-5=11.5 馬連=08-09=41.4 馬単=52.6
 3連複=08-09-01=653.7 3連単=2096.2
 ワイド12=13.4 W13=37.4 W23=138.5

--------------------------
 ○、展開予想

※展開(3Fは前走の上がり優秀5頭)
 逃げ     先行     差し     追込
 03 09 11 12-06 08 01 14-07 15 10 02-05 04 16 13
覧 △ ◎ 6 5 ▲ ○
3F E D B A C
本 △ ○ ◎ △ ● △ △ △
結 2 4 1 3 5
----------------------------
 本紙予想
 ◎番馬      名 性齢 馬順 結果
 ◎08ファインニードル 牡5 A  1
 ○12ナックビーナス  牝5 B  
 △09ラブカンプー   牝3 09  2
 △10レッツゴードンキ 牝6 C  5
 △05アレスバローズ  牡6 D  
 △16レッドファルクス 牡7 H  
 △14ラッキーバブルズ セ7 11  
 ●15ムーンクエイク  セ5 F  
 ?01ラインスピリット 牡7    3
 ?06ダイメイプリンセス牝5    4

*************************
 【GIスプリS 実近一覧表】 中山 芝12 16頭 定量58キロ
                  (人気は前日馬連順位)
順=番|齢|馬     名|予OZ{実近}人=[全芝] 騎 手|格距TM3F 着
A=12|5|ナックビー牝| 2.4{AA}B=[6656] モレイ| △   7
B=16|7|レッドファル| 5.7{BH}H=[6138] 戸崎圭|◎  ◎ 10
C=10|6|レッツゴー牝| 5.9{CE}C=[365.11]岩 田|○    5
D=09|3|ラブカンプ牝| 6.1{FD}09=[2712] 和 田| △▲  2
E=15|5|ムーンクエイ| 6.2{EF}F=[6304] ルメル|  △△
F=08|5|ファインニー| 8.3{12B}A=[922.13]川 田|▲○   1
G=06|5|ダイメイプ牝| 8.5{09C}10=[621.12]秋 山|  ○▲ 4
H=11|5|セイウンコウ|10.2{11G}G=[630.10]池 添|△
QA=05|6|アレスバロー|10.8{1010}D=[744.12]藤岡佑| ▲◎○
QB=03|5|ワンスイン牝|11.5{1309}E=[7319] 石橋脩|
QC=07|6|キャンベルジ|11.7{D12}12=[5517] 田 辺|
QD=04|10|スノードラゴ|13.9{G15} =[151.17]大 野|
QE=01|7|ラインスピリ|18.7{1413}13=[863.29]武 豊|     3
QF=02|7|ヒルノデイバ|19.2{1514} =[050.15]四 位|
QG=13|8|ティーハーフ|19.2{H16} =[736.26]国分優|
QH=14|7|ラッキーバブ|21.5{1611}11=[8728] ブレブ|△◎
             TM…タイム優秀 3F…上がり3F優秀
--------------------------
 成績補足……今回は4着以下フタケタ馬が9頭と多いので、
       上記に掲載しました
-------------------------
※年齢 3歳=1 5歳=6 6歳=3 7歳=4 8歳上=2頭
※牡牝 牡=11頭 牝=5頭
   (セ=2頭 14ラッキーバブルズ 15ムーンクエイク)
     
※格
G1V=6頭
 A16レッドファルクス[2024]  B10レッツゴードンキ[1501]
 C08ファインニードル[1002]1 D14ラッキーバブルズ[1204]
 E11セイウンコウセイ[1002]  F04スノードラゴン [1108]
 参考、うち3頭にG2V
 A08ファインニードル[2勝]1 B14ラッキーバブルズ[2勝]
 C16レッドファルクス[1勝]

G2V=1頭(GIV除く)
 A15ムーンクエイク [1勝]東京G2芝14スプリングS1着

※芝12優秀馬
 A14ラッキーバブルズ[8705]  B08ファインニードル[8207]1
 C05アレスバローズ [6329]  D12ナックビーナス [5434]
 E09ラブカンプー  [2410]2 F16レッドファルクス[4012]

※中山コース優秀
 A04スノードラゴン [5525] B12ナックビーナス [3510]
 C07キャンベルジュニ[2301] D03ワンスインナムー[2011]
 E16レッドファルクス[2001] F11セイウンコウセイ[1101]

※昨 年123着     (人気)前走
1着=08レッドファルクス(1人)G1安田記念  3着(3人)
2着=02レッツゴードンキ(5人)G1ヴィクトリア11着(3人)
3着=06ワンスインナムー(7人)OP朱鷺S   1着(1人)

今年=08ファインニード 1 02ヒルノデイバロー 06ダイメイプリンセス
--------------
 [枠連順位]
 枠連型=3巴  [AB型] 枠順AB=5.0
 馬連型=A流れH[Ab型] 馬連AB=6.7

 枠連=AB//CDEF//GH 
 枠順=46//8532//71
 馬順=AB FCDE 1113
 代行=12G H091014 1615
 ―――――――――――――
 結果=1 524 3 結果=A-D’-H-E-D

***************************
 ※ レース回顧

 後期初GIスプリンターズ・ステークス――。
 ゴール直後最初につぶやいたのは「豊来るんかぃぃ」でした(^_^;)。
 騎乗馬は高齢7歳01ラインスピリット。過去6戦重賞ながら最高5着。確率は良くないし、GI・G2実績[0004]、G3Vなく最高3着。中山[0003]。総流し以外とても買えません。

 唯一拾えるのは芝12の最内枠であることくらい。鞍上武豊は4000勝も達成したことだし、だいたい人気薄での激走はない、と思って「まー総流しで入れてあるからいいか」程度でした。
 同馬の複勝1400円は豊騎手の最高複勝だそうです。さもありなん。

 逆に言うと、わけわからん人気薄馬の激走が予想されたから[◎○-総流し]路線を採用したとも言え、その予感は◎ファインニードル1着、13番人気3着だから間違っていなかったようです。
 問題は○(一覧トップAA)の牝5ナックビーナスが来なかったこと(-.-)。中山[3510]だから「悪くとも3着」と思いましたが、結果7着。
 もしもナックビーナスが1番人気だったら、「牝馬の1番人気は危険」ルールが使えたのですが、敗因不明です。

 それに一覧トップ3頭はどれか1頭が確率90で3着内に入る、その候補は「トップのナックビーナスと3位のレッツゴードンキであろう」と思っての印でした。「トップ3頭が消えたか~(-_-;)」と、後期初戦から10回に1回の「まさか」が起こってある意味ショックでした。

 次につぶやいたのは○消滅もあって「くあーっ、ラブカンプー○にすりゃあ良かった」でした(^_^;)。△筆頭の09ラブカンプー2着。
 信じてもらえないかもしれませんが、かなり考えました。今回とにかく妙な人気薄馬の激走が想定されたので、総流し路線をとる方針は決めていました。
 △トップに09ラブカンプーを置いたように、唯一3歳、確率ハイレベル、特に芝12[2410]は「悪くとも3着内」を感じさせました。ただ、▲にもしなかったのは脚質がぎんぎんの逃げ[指数1.3]であり、今回1.9を切る逃げ馬が3頭も出て共倒れの公算が大きく、「3着候補筆頭かなあ」の位置づけとなりました。ウラ●にもしなかったのは唯一G2V馬がいたからです。
 ここらがまだまだ厳しい予想、厳しいルール適用ができていないところだと反省です。

 それでも、馬券は◎の1着で◎-△の馬連・馬単を買っていたので、馬連41倍、馬単52倍の的中。もっとも、◎-○ど本線だっただけに、抑えの抑えの各1枚購入のみ(-.-)。ほげ。
 もしもラブカンプーを○にしていたら、3複6万の的中だったし、せめて▲なら、もっと買っていたから、再度「くあーっ」でした。

 さて、1着ファインニードル。強かったですね。レースは稍重としてはやはりハイペースで、同馬は終始6~8番手を追走して直線残り200で一気に前の馬を抜き去り、楽勝でした。
 全成績[922.13]に見られる通り過去走全体の実績は12位、しかし、近走は2位。GI高松宮を勝ってから「化けた」って感じでしょうか。
 勝ちタイム稍重1083は1秒引くなら1073で、まずまずのタイムです。一貫して2番手だったラブカンプーが2着で、3、4番手にいたラインスピリットが3着ですから、やはり稍重馬場の関係で「逃げ先残り」となったようです。

 過去3走を指数化した展開予想では以下のように逃げ先7頭から4着以内4頭が出ています。

 ※展開(3Fは前走の上がり優秀5頭)
  逃げ     先行    
  03 09 11 12-06 08 01 14-
 覧 △ ◎ 6
 3F E D
 本 △ ○ ◎ △
 結 2 4 1 3

 最後に、結果論ながら「まさかの3頭単純馬券」出現となっていたことを報告します。
 前走をレース格・着順で並べたとき、トップは唯一GI安田記念出走9着の16レッドファルクス。その次は前走G2(阪神セントウルS)出走馬で3頭いました。
 その3頭とはG2セント[1着ファインニードル、2着ラブカンプー、5着ラインスピリット]です。それがそのまま123着……。
 トップのレッドファルクスが近走イマイチなだけに、次のG2出走馬はねらえたところです。少なくともこの4頭の3複は4点。

 トライアル1、2着が本番1、2着――であるだけでなく、(前走唯一)G2出走3頭で123着。この3複1点6万、◎1番人気からの3単2点で20万。「くあーっ!」(^_^;)。
 いつかまたこのパターンが出現するときのために、記憶に留めておきましょう。

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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

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2019.09.18

別稿『一読法を学べ――学校では国語の力がつかない』第19号実践編九 (その一)

 今回は前号で問題とした「文章の先に答えがあるのに、途中で立ち止まってあれこれ考えるのはなぜか」について深掘りします。これは当初「実践編 まとめ」の中に短く書いていました。が、それだけでは弱いと考え、芥川龍之介『鼻』の授業実践を例として語ることにしました。この件は一読法が「通読をやめて最初から精読するべきだ」と主張する理由でもあります。
 なお、本節はどうしても触れたいことが多く、これまで以上に長くなったので、二つに分けました。立ち止まりつつ、考えつつゆっくり読むことを勧めます。

 九 一読法はなぜ通読をしないのか(その一) [小見出し]
 (1)一読法は先を読むのを許さない
 (2)芥川龍之介『鼻』の授業実践(前半)

 九 一読法はなぜ通読をしないのか(その二) [以下次号]
 (1)芥川龍之介『鼻』の授業実践(後半)
 (2)なぜ通読をやめようと言うのか

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 本号の難読漢字
・必須(ひっす)・惹(ひ)かれる・辟易(へきえき)・不興(ふきょう)・披露(ひろう)する・百花繚乱(ひゃっかりょうらん)・禅智内供(ぜんちないぐ)・勿論(もちろん)・中童子(ちゅうどうじ)・喧伝(けんでん)・内道場供奉(ぐぶ)・嗤(わら)う・短兵急(たんぺいきゅう)な・所詮(しょせん)。他人事(ひとごと)
----------------------
************ 小論「一読法を学べ」***********
 『 一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』 19

 九 一読法はなぜ通読をしないのか(その一)

 (1)一読法は先を読むのを許さない

 三読授業はいつでもどこでも[通読→精読]です。三読法にとって、まず全体像を把握するための通読は必須。それからもう一度読んで精読する。前号で述べたように、これは美術(絵画や彫刻)の理解・鑑賞法です。
 しかし、学校を離れると、人は文章をさあっと読む、ぼーっと一度読むだけで終わる。精読しないので、文章の理解度三〇である。
 ちなみに三〇とは記憶残存率でもあり、とある小説を読んで「いい作品だったなあ」と思った。ところが数年経ったら、「どんな内容だったか、どこに感動したか」全く思い出せない。

 対して最初から精読するのが一読法。通読しないので、全体像はつかみづらい。だが、音楽を聞くように、部分をゆっくりじっくり読むことで全体像はやがて明らかになる。難語句はその都度辞書を引くかネット検索する。「あれっ?」と思ったり、「ちょっと難しい」と感じたら、そこで止まって考える。前に戻って部分の二度読みをやり、「さてこの後どうなるんだろう?」と予想するなど、あれこれ考えつつ読む。

 これによって一度読みだけでも、理解度は合格点の六〇に達する。そして、記号・傍線を付けた部分を再読すれば、作品の理解・鑑賞度、記憶残存率はもっと上がる。
 音楽の二度目、三度目は全く同じ時間を必要とする。だが、一読法なら、二度目、三度目は初読時間の十分の一。内容も感想もしっかり語ることができるし、数年経っても思い出せる。忘れたとしても、あるいは、後に必要となったときは記号と傍線だけを再読すればいい。初読時間の十分の一で当時の印象が鮮やかによみがえる。十年、二十年経ってみると、以前と違う部分に惹かれ、読み直して別の感想が涌くこともある。
 ――と、これまでの論述をまとめればこうなります。

 私にとって三読法と一読法を比較するなら、「一読法の優位は明らか」と思って一読法授業を開始しました。ところが、生徒は拒否反応を示した……(もっとも、当時このような理論面からスタートしなかったことは反省点です)。
 開始当初は「一読法に慣れていないからだろう」と思いました。が、ある時期から「どうもそうでもないようだ。生徒は立ち止まっていろいろ考えることに、心理的抵抗を感じている」と気づきました。そこんとこ前節で以下のように書いています。

--------------
 私は授業において立ち止まったところで「なぜか」と問い、答えが出ても「それだけじゃないだろう、まだあるはずだ」としつこく尋ねます。答えが出なければ、「この可能性もある、めったにないけどこう考えることだってあるぞ」と確率1パーセントの可能性まで列挙します。~略~
 ともあれ、末尾まで読んだ生徒は「先に答えがあるじゃないか」とうんざりし、先を読んでいない生徒も「なぜこんなにあれこれ考えさせるんだろう」と辟易した……。
--------------

 確率1パーセントは言い過ぎながら、立ち止まり地点では生徒から疑問や感想のつぶやきを提起してもらうのが基本です。
 しかし、何も出ないこともしばしば。そのときは私の方から「なぜ?」と尋ねたり、「この後どうなるんだろう」と問うことになります。
 先を読んでいる生徒は当然答えを言えます。作品内ではもちろんそれが正解。
 ところが、一読法はもちろん三読法においても、私は「他にあるだろう。違う可能性が考えられるんじゃないか」と十分、二十分かけて追及します。もちろんそれまでの表現・内容から推理しますが、書かれていないことまでも、可能性としてあり得る未来予想を求めます。そして、それらを板書して派生する問題についてさらに考えます。これは一見すると、作品をどんどん離れているように感じられる(ようです)。

 この立ち止まり授業に不興の風が吹いたのは読者各位も同感されると思います。もしもみなさんが私の授業を受けたら、「どうしてこんなにあれこれ考えさせるのか」と、うんざりされることでしょう。

 これは通読→精読の三読授業と最初から精読する一読法授業最大の違いでもあります。小説にせよ論説文にせよ、三読法は結末を知ってから前に戻ることを許し、一読法はそれを許さない――と言うこともできます。

 ここで読者が「許さないはオーバーだろう。別に先を知ってから戻って考えても構わないじゃないか」とつぶやかれるなら、私は「いえ、絶対に認めません」と言わなければなりません。なぜか。本節においてそのわけを語ります。

 もう一つ、「おやー、三読法と一読法の違いは以前どこかで問題にしていたような気が」とのつぶやきが出たなら、「しっかり読まれてきましたね」と敬意を表したいと思います。

 そのとおりでして「理論編のまとめ」に以下のように書いています。
「三読法は通読して精読する。対して一読法は最初から精読し、記号・傍線をたどってもう一度読むのが良い。つまり、一読法とは精読→通読のようなものだ」として、「だったら、三読法も一読法も同じではないか」との疑問が湧く。
 これに対して「ぼーっと読む通読ではどこで何を疑問としたか忘れてしまう。一読法なら記号や傍線を付けて最初から精読するので、それを振り返ることで解決されなかった疑問が確認できる」と一読法の優位を説明しました。

 しかしながら、この理屈は「一読法では先を読むことを許さない」にあてはまりません。
 なぜなら、《精読しさえすれば、一読法も三読法も同じではないか》と反論されると、「そのとおりです」と答えざるを得ないからです。
 要するに、一読法も三読法も精読が絶対条件。そして、どちらも精読すれば理解度六〇に達する。よって、「精読しさえすれば一読法と三読法に優劣はない」と言えることになります。

 前号でも引用した実践編前置き(2)の部分でそう結論づけています。
--------------
 今後読者各位はさまざまな文章を読まれると思います。もしも理解度六〇に達したいと思われるなら、選択肢は二つです。「一言一句注意して疑問や感想をつぶやきながら一度読む」か、「一度目はさあっと読んで、もう一度考えつつ再読する」か。
 ここでも読者のつぶやきが聞こえます。
「一読法ってかなりめんどうだな。そんなことなら二度読んだ方がいい」と。
--------------

 私はこの段階では「精読するなら、三読法でも一読法でも構わない」との気持ちで書いています。学校を離れると、人は多くの文書類を二度読まない。三読法が通読のみで終わるから問題なのであって、二度読んでくれるなら三読法も充分力を発揮する。精読しさえすれば三読法と一読法は同格・対等であると。

 しかし、「精読をどの段階で行うか」との観点で比較すると、一読法と三読法は決して同等ではなく、大きな差がある。そして、それゆえに私は一読法の方がはるかに優れていると考えています。

 この結論はとても簡単です。なので、当初は「実践編まとめ」に入れました。しかし、結論を披露するだけでは不充分だ。そう思って芥川龍之介『鼻』の授業実践を例として詳しく語ることにしました。
 なぜ『鼻』かと聞かれたら、「たまたま」だと思ってください。高校現代文の教科書によく採用され、私も三読法で何度かやったし、一年間だけ実践した一読法授業の中にたまたま『鼻』が入っていました。また、実践編七において平塚らいてう『原始、女性は太陽であった』と『鼻』を並列した(けれど、『鼻』の解釈は提示しなかった)ことも関係しています。

 さて、もしも余裕があるようでしたら、ここで立ち止まって「一読法は三読法より優れている」点について(先を読まずに)考えてみてください。
 相変わらずのほにゃらら問題で恐縮ながら、結論はこうです。
「三読法とは人生を□□□□□地点から眺める読み方であり、一読法とは未来は何が起こるか□□□□□という地点での読み方である」と。
 ひらがなだと五文字の空欄を埋めることができた人は「具体的に説明できるか」試みてください。ここまでを二度読みすれば、説明できると思います。

(2)芥川龍之介『鼻』の授業実践(前半)

 再度国語・現代文授業における三読法と一読法を短くまとめておきます。

 三読法=通読して全体を知ってから、前に戻って細部の精読に入る。
 一読法=全体を知ることなく、最初から細部を精読して読み進める。

 両者とも「途中であれこれ考える」精読は必須であり、この点違いはありません。最大の違いは(特に小説において)三読法が結末を知った上で前に戻ってあれこれ考えるのに対し、一読法は結末を知ることなく、最初からあれこれ考えることです。

 教師の側から見ると、一読法ではしばしば「この先どうなるだろう」と質問することがあります。しかし、三読法では九十九パーセント問う事がありません。当然でしょう。結末まで読んで「どうなったか」の答えをすでに知っているのですから。
 ただし、唯一の例外があって通読→精読終了後、「この後どうなるか予想してみよう」と提起することがあります。
 たとえば、芥川龍之介の『羅生門』は高校現代文の教科書によく採用されています。主人公の「下人」は羅生門の上で死体の髪の毛を抜く老婆との会話から、自分も盗人になろうと決意し、老婆の着物をはぎ取って闇の中に消えます。その末尾は「下人の行方は、誰も知らない」とあるので、「この後下人はどうなるだろう」と話し合わせたり、「下人のその後」と題して百字から二百字程度の作文を書かせたりします。
 この際生徒の未来予想は一人として同じものがない、「極悪人になる」から、「改心して善人になる」まで、正に百花繚乱の「続編」が提出されます。しかし、それ以外三読法では作品の途中で「この後どうなるだろう」と問われることはありません。

 さて、芥川龍之介『鼻』の冒頭は以下、
--------------
 禅智内供(ないぐ)の鼻と云えば、池の尾で知らない者はない。長さは五六寸あって上唇の上からあごの下まで下がっている。形は元も先も同じように太い。いわば細長い腸詰めのような物が、ぶらりと顔のまん中からぶら下がっているのである。
 五十歳を越えた内供は、沙弥(しゃみ)の昔から内道場供奉(ぐぶ)の職にのぼった今日まで、内心では始終この鼻を苦に病んできた。勿論表面では、今でもさほど気にならないような顔をしてすましている。
--------------

 この冒頭部、漢字だけでも結構[?]が付きます。辞典を引いて「寸」とは約3センチ、よって五六寸は十五センチから十八センチ。腸詰めはもちろんソーセージ。そして、「池の尾」とは京都府宇治市池尾(実在の地名であると確認)、「沙弥」とは修行僧、「内道場供奉」とは宮中において天皇皇族や貴族を相手に仏教を講説する僧である――と確認します。これから禅智内供は寺の住職か、それ以上の高僧であることがわかります。
 余談ながら、『枕草子』の作者「清少納言」はよく「清少-納言」と区切って読まれています。が、正しくは「清-少納言」。つまり「少納言」は身分です。『鼻』の主人公「禅智内供」も「禅智」が僧名で「内供」は名前ではなく「内道場供奉」の省略。よって、『鼻』について何か論じるときは「禅智」を使うべきですが、作品内で「内供」と呼んでいるので、本稿もそれに従います。

 この二百字足らずの冒頭部、通読授業なら読むのに二、三十秒でしょうか。辞書を引いたり、注釈を確認すれば数分。もしも生徒が予習をしたと見なせば、止まることなくどんどん読み進めるはずです。
 私の一読法授業はここが最初の立ち止まり地点です。そして、この冒頭だけで一時間使います。なぜか。その詳細と理由はこれから明らかになると思います。

 さて、内供の長い鼻はさすがに食事の際は不便だし、何より人からじろじろ見られて陰で嗤っているだろうと感じる(この「嗤う」も辞書で「嘲り笑うこと」と確認します)。表面は気にしないような顔をしてすましているけれど、内心はとても「苦に病んで」いる。長い鼻を持つ人はいないかと仏典や古典をあさり、短く見えるにはと、鏡を見ながら苦心を重ねる。だが、どれもこれも空しい結果に終わり、ため息をつく。
 中でも食事中に起こったエピソードは目を引きます。長い鼻は弟子の僧に持ち上げてもらわないと、飯がうまく食えない。そこで、長さ二尺(六〇センチ)ほどの細長い板を使って弟子が鼻を持ち上げてやる。ある日介助の替わりをした「中童子(十二、三歳ほどの少年僧)」がくしゃみをしたせいで、鼻をお粥の中に落としてしまった。この話は宇治はもちろん「京都にまで喧伝(けんでん)された」とあります。
 「喧伝」を読めて意味のわかる生徒はほぼいないので、誰もが[?]を付けます。辞書を引いてその意味(盛んに言いはやして世間に知らせること)を確認します。もちろん傍線を引き、余白に抜き出します。
 また、この部分生徒から疑問の「なぜ?」が出ることはないので、私から「このとき内供は中童子に対してどのような態度を取っただろう?」と質問します。本文には書かれていません。生徒からは「さすがに怒っただろう」とか、「いいよ、いいよと平静を装ったのではないか」などの答えが出されます。
 さらにこの話題を喧伝する――世間に言いふらす人々の心理心情も「考えてみようか」と提起します。生徒の多くは「笑い話として、おもしろおかしい話題として伝えられたのではないか」と結構まともな答えが返ってきます。
 もう一つ、「京都まで伝わる起点となった人は誰だろう。内供だろうか」と問います。生徒は「鼻の話題を避ける内供が話すはずない。中童子でしょう」と答え、私も「たぶんそうだろうね」と応じます。「内供は日常の談話の中に、鼻という語が出て来るのを何よりも惧(おそ)れていた」から導かれる推理です。
 ただ、このあたりあまり深入りしません。本文に書かれていないこともあって「ちょっと想像しておこうか」程度です。

 ところが、ある日弟子の僧が治療法を知り、それを試したらなんと長い鼻がかぎ鼻程度の短さになった。この治療の様子はとても詳しく、目に見えるかのように描かれているので、じっくり味わいます。また、傍線を引きたい箇所も多々あります……が、引用は省略します。
 そして、鼻を短くした内供がつぶやいたのが「こうなればもう誰も嗤うものはないのにちがいない」の言葉です。
 ここまでを前半とすると、内供のこの言葉は重要な立ち止まり地点であり、三読法でも精読のときかなり考えさせます(なぜ「重要な立ち止まり地点」と言えるのか。これも後ほど)。

 一読法では生徒に「どう思う? これでもう誰もバカにしたように笑わないだろうか」と質問します。これは同時に「この後どうなるだろう」という未来予想でもあります。
 ここで注意してほしいことはこの段階での未来予想はそれほど深刻なものではありません。大きく分ければ答えは二つ。「みんな嗤わなくなった」か「相変わらず嗤った」です。
 私の一読法授業では二つの予想以外に「それだけじゃないだろう。他にあるはずだ」とかなりしつこく予想を求め、派生する問題についてあれこれ考えさせます。

 対して三読法精読授業では末尾まで読み終えているので、かなり深刻な事態となったことがわかります。鼻が短くなったときの楽観的な予想と違い、内供にとっていやなことばかり起きる。内供は不機嫌になり、最後は中童子に対して(今で言うと)暴力事件まで起こす。内供は鼻の短くなったことが「かえって恨めしく」なった。そして、鼻がまた元のように長くなると、「これでもう誰も嗤うものはないにちがいない」とつぶやくところで作品は終わります。

 鼻が短くなったときと、元のように長くなったときつぶやいた言葉が同じである――これは作品の理解にとって最も大切なことなので、三読法精読でも生徒にいろいろ尋ねます。「鼻が短くなったときと元に戻ったとき、内供は同じ言葉をつぶやいた。これは一体どういうことだろう」と。
 三読法では結末まで読むことによって途中の言葉が重要だとわかります。しかし、一読法は結末を知らないので、鼻が短くなったときにつぶやいた言葉が「重要だ」と認識しなければなりません。「ここで立ち止まってじっくり考えるべきだ」と感じる必要があります(これも後述)。

 くどいようですが、三読法精読授業において内供の鼻が短くなった地点に戻ってきたとき、「未来を予想してみよう」と問うことはありません。
 その後周囲が見せた反応、それに対して内供が思ったこと、内供の行動など我々は通読によって全て知りました。最終的に鼻が元に戻ったことまで知っています。これは我々が内供と鼻をめぐる出来事を、結末から眺めていることを意味します。
 つまり、『鼻』という作品を一つの事件にたとえるなら、三読法の通読→精読作業とは《事件が終わった地点に立って過去の出来事を振り返る》形の読み方なのです。
 たとえば、殺人事件が発生して警察が犯人を捕まえた。刑事は事情聴取して「そのとき何が起こったんだ」と事件の経緯や動機を問いつめる。三読法の「精読」はこれと同じ活動です。

 かたや一読法の通読=精読は違います。立ち止まる地点は事件が起こるはるか前であり、何かしら変化が起こったときであり、そろそろ事件が起こりそうな地点です。その都度未来を予想して、事件が発生すると、「とうとう起こったか」と確認する。そのような読み方です。
 要するに、三読法精読では事件はすでに終わっている。一読法では事件はまだ発生していない。始まる前の地点に立ってあれこれ考えつつ読み進める――これが一読法の読み方なのです。
 刑事物ドラマにたとえるなら、こちらは探偵側。ある日妙齢の女性が訪ねてきて「父が行方不明になった。何か大変なことが起こっているような気がする」と言って探偵に調査を依頼する。探偵は(このドラマを見る我々も)一体何が起こっているのか、これから何が起こるのか全くわからない。
 その後探偵は探索活動を始め、少しずつ事態が明らかになる。そこへ第一の殺人事件が発生して娘の父親が逮捕された。父親は「私が殺した」と言っている。だが、娘は「父がそんなことをするはずがない」と強く言う。探偵はさらに娘と一緒に父親の過去と現在を探り、真実を求める。探偵は立ち止まっては推理し、また立ち止まっては推理する……一読法とは正に探偵のような読み方なのです。

 ここでちょっと立ち止まります。読者各位はここまで読まれてどう感じたでしょうか。依然として「三読法と一読法の読み方は大差ない」とつぶやかれるかどうか。事件が起こってから考えるか、それとも事件が起こる前に未来を予想して考えるか。私には天と地ほどの違いがあるように思えるのですが……。

 それはさておき、三読法精読に戻ると、「内供は鼻が短くなったとき、『こうなればもう誰も嗤うものはないのにちがいない』と考えた。実際の所どうだっただろう」と質問すると、生徒から「周囲の人は相変わらず陰で嗤った。もっとひどいことに面と向かってじろじろ見たり、くつくつとあからさまに嗤った」などの答えが返ってきます。
 これは当然のように後半の記述から引き出された答えです。そして、作品に書かれた答えしか返ってきません(「そんなの当然だろう」と思われるでしょうが、私はそこが不満です)。

 ともあれ、それを受けて「周囲の人はなぜそのような反応を示したのだろうか」と問えば、作者が解説として書いている「傍観者の利己主義」なる言葉が出てきます。
 それを簡単に言うと、「人の不幸は蜜の味であり、その人が不幸を克服すると、周囲の人はもう一度同じ目にあわせたいと感じる。人はそのような意地悪な心を持っている」と説明できましょう。
 三読法精読の場合、私はこの作者解説について「そうだろうか。傍観者の利己主義という分析は正しいだろうか」と生徒に問わねばなりません。他の反応を示す人はいないか考えるためです。
 一読法なら、この問いはありません。作者の解説など知らない――と言うより、小説において一体誰がこの後作者が登場して解説してくれると予想できましょう。一読法ではただ「この後どうなるだろう。周囲はどんな反応を見せるだろうか」と未来を予想するだけです。そして、周囲の反応に限らなければ、百人百通りの未来予想が出てきます(これが一読法の素晴らしいところです)。

 もしも『鼻』がここで終わるとして、生徒に「この後どうなるか」という作文を書かせたら、「羅生門――その後の下人を予想する」のように、百花繚乱の未来が語られるでしょう。その中には「鼻はすぐまた元のように長くなる」もあり得ます。
 たとえば、「翌日内供は朝の散歩で寺の外に出たら、走ってきた馬に蹴飛ばされ、打ち所が悪くて死んでしまった。周囲の人はせっかく鼻が短くなったのに、と内供を惜しみ、立派な人を亡くしたと言って盛大な葬式をやった」との未来予想が出てきたら、私は「その可能性は1パーセントもないだろうけど0ではない。よく考えたな」と誉めるでしょう。
 もちろん小説内の《現実》はそれまでの内容から大きく外れることはないので、この場合も未来予想は「鼻が短くなったことで周囲はどのような反応を見せるか」に絞って考えます。

 再度殺人事件を例とするなら、警察は犯人の動機を追及する。そして、犯人の自白によって動機が判明した。だが、裏付け捜査をしてみると、どうもその動機が疑わしい。そこで、さらに地道な捜査を続けると、殺人を犯さざるを得なかった深い動機が明らかになる……刑事物ドラマではよくあるパターンです。

 ドラマならごく普通の展開なのに、生徒は「他の可能性を考えてみよう」と問われることが苦手です。これは三読法でも一読法でも同じですが、三読法のように先を読んで、「傍観者の利己主義(人は意地悪な心を持っている)」といった答えを知ると、なかなかそこから離れることができません。

 そこで(三読法の場合)私は生徒ひとりひとりの実感を引き出すための質問をします。
「君はどうだ。人が不遇不幸を克服すると、もう一度同じ目にあわせたいと思うか」と聞いたり、「たとえば、君のお父さんやお母さん、または仲の良い友達がひどい病気にかかって入院したとしよう。その後治って退院したとき、君はもう一回病気になれと思うか」と。
 この問いに「はい」と答える生徒はまずいません。ほぼ全員が「自分は違う。そんなこと思わない」と答えます。
 では――と私は質問を変えます。
「もしもその人が君の嫌いな人間で、もっと言えば君をいじめたことがあるクラスメイトだったらどうだ。その子がひどい病気になって入院したらどう思う? そして、その子が病気を克服してまた登校してきたらどう思う?」と。

 この問いはかなり生徒を苦しめます。もちろん「治ってほしいと思う。治ったら良かったねと言うと思う」と答える生徒はいます(それも心から)。しかし、多くの生徒は「相手がいじめっ子だったら、いい気味だと思う」と言い、「退院してきたら、もう一回同じ病気になって学校に来なければいいのにと思う」など赤裸々な内心が打ち明けられます。
 これらの問いによって生徒は「他の反応を示す人がいる」可能性と、「内供自身に嫌われるような原因があるかもしれない」ことに気付きます。
 ここで三読法精読授業だと、「ではなぜ内供の周囲の人は傍観者の利己主義を発揮したのか」その理由を探る方向に進みます。作品前半から「こういう人だったら嫌われかねない」表現を探るわけです。

 しかし、一読法授業は先を読みません。よって、「どう思う? もう誰もバカにしたように笑わないだろうか」との質問はあくまで未来予想です。この予想は作品前半の内容を根拠として考えることになります。
 もちろんここで二度読みをします。重要と思われるところに傍線を引いたり、余白に抜き出していれば、それを読み直すので時間はさほどかかりません。

 先程述べたように、この未来予想は大まかに分けて二つ。鼻が短くなって「嗤わなくなった」か「相変わらず嗤った」か。
 一読法授業でも多くの生徒から「周囲の人は冷淡かもしれない。相変わらず陰で嗤うかもしれない」との答えが返ってきます。傍線を付け余白に抜き出した重要語などから、内供はどうも嫌われるような性格の持ち主だと読みとれるからです。私はこれを「1」として(ただし、上を三行ほどあけて)板書します。

 ここで先を読んでいた(これまでに『鼻』を読んだことのある)生徒から「周囲の人は鼻が短くなった内供を見て意地悪な心が涌いて内供を妙な顔で見たり、あからさまに笑うようになる」などの答えが出ることもあります。周囲のもっとひどい反応であり、作品においてはこれが百点満点の答えです。
 だが、未来がわからない地点では、それはあくまで可能性の一つに過ぎません。つまり、それが全てではない。なので、私は「その予想は一〇点だ。他の可能性が前半に書かれているじゃないか。まずそれを探せ」と言ったり、先程の「相手が君の両親や仲の良い友達だったらどうだろう」との質問をぶつけ、別の反応を考えさせます。
「もしも君のお父さんやお母さん、友人が退院したら、君はなんて言う?」と問えば、「おめでとうとか、病気が治って良かったねと言う」と返ってきます。
 ここで作品前半にある「同情」に傍線を引き、余白に抜き出していた生徒から、「内供に同情していた人は『鼻が短くなって良かったですね』と言うかもしれない」との答えが出てきます。私は「その通り。そこだよ」と応じ、「2」として板書します。

 この「同情」がある箇所には「反感」もあります。長い鼻を短くする治療法を見つけた弟子の僧が、内供にそのことを話すと、内供は「いつものように、鼻などは気にかけないという風をして」、「一方では、気軽な口調で、食事の度毎(たびごと)に、弟子の手数をかけるのが、心苦しいと」言って「弟子の僧が、自分を説き伏せて、この法を試みさせるのを」待つといった態度を見せます。
 弟子の僧は「内供のこの策略がわからない筈はない。しかしそれに対する反感よりは、内供のそういう策略をとる心持ちの方が、より強くこの弟子の僧の同情を動かした」とあります。「1」に重要語として「反感」を追加します。

 さらに、「1・2だけでは足りない。もっとあるだろう。はっきり未来予想が書かれている表現があるじゃないか!」と根拠となる表現を探すよう求めます。
 この答えもなかなか出てきません。そこで、ヒントとして「内供はどう思ったんだ?」と補うと、ようやく「こうなればもう誰も嗤うものはないのにちがいない――ですか」との答えが出ます。
「そうだよ。それだよ。内供自身の思いは内供の未来予想だ。長い鼻が短くなったのだから、もう誰もバカにしたように笑うことはないだろうと未来を予想する。もしも我々読者が主人公の内供に寄り添うなら、この未来予想を真っ先に考えるべきじゃないのか。内供が嫌われるような人柄だったとしてもだ。このように思うことは悪いことかい?」と問えば、生徒は「悪くない」と答えます。
 私はもう少し内供の思いを分析して「良かったですねと言ってくれなくとも、これからは普通の人としてみてくれる、陰で嗤うことがなくなる」との予想を引き出し、1・2の上段に「内供の期待」として追加します(もちろんこれが最初に出てきたときは上から順に書き留めます)。結局、以下のような板書となります。
-------------
 ○ 鼻が短くなった内供に対して周囲の人は《未来予想》

※ 内供の期待
 「もう誰も嗤うものはないのにちがいない」
 (普通の人としてみてくれるはず、陰で嗤うことがなくなるはず)

※ 周囲の反応
1 冷淡かもしれない。相変わらず陰で嗤うかもしれない。(内供に反感を抱く人?)
2 鼻が短くなって「良かったですね」と言ってくれる。(内供に同情している人?)
-------------

 ここで生徒から「先程出た周囲のもっとひどい反応は書かないのですか」と聞かれることがあります。それは作品の現実としても、未来の可能性としてもあり得る答えなのに、私は板書しません。「それは1に入っている」と答えます。
 そして、「いい質問だが、内供がつぶやいた『もう誰も嗤うものはないのにちがいない』の《誰も》に注意してくれ。これは『一人も嗤うものはいないだろう』という意味だ。つまり、内供は1が起こることを予想していない。当然もっとひどい対応をされることなど、全く頭にないことがわかる。ならば、我々の未来予想も『今までと変わらない』にとどめておくべきだと思うんだ」と補足します。

 生徒がこれで引き下がってくれればいいのですが、「もっとひどい対応をされる可能性があるのだから、書くべきです」と主張する生徒もいます。そのときは生徒と対決せねばなりません。
 そこで「君が周囲の人はもっとひどい反応を見せるかもしれないと予想する根拠はどこにあるんだ?」と聞きます。
 さすがに「この後そう書いてあります」と答える生徒はいません。一読法では先を読まない(ことになっている)のですから。
 根拠を言えなければ、「だったら、その予想は『翌日内供が馬に蹴飛ばされて死ぬ』と同じだ。そこまで予想しないし、板書する必要もない」として終わりにします。

 ところが、作品を最後までよく読んでいる(もしくは生徒用参考書を持っている)生徒は「周囲の僧たちがもっとひどく嘲笑するようになった」原因が前半の内供の《生き方》にあること、その具体例を言うことができます。

 先程三読法精読授業なら「ではなぜ内供の周囲の人は傍観者の利己主義を発揮したのか」その理由を探る方向に進み、作品の前半から「こういう人だったら嫌われかねない」表現を探ると書きました。
 そもそも作品は周囲がもっとひどい反応を示した原因は内供の生き方・考え方にある――とわかるような表現がなされているので、鋭い読みができる生徒は「ここが根拠です」と言えます。

 しかも、これは通読=精読の一読法でも、前半の読みで目指している到達点です。
 内供は鼻が短くなるや「これでもう誰一人嗤うことはあるまい」と楽観的未来を予想した。だが、周囲は(かなりの高確率で)鼻が長いとき以上に「くつくつ」と嗤い、バカにしたような態度を見せる。それも以前はひそかな態度だったのに、今やあからさまに嗤われる。その未来が予想できるのは前半に描かれた《内供の外見と内心のうそ》であり、最重要語を指摘するなら「策略」である――と見抜く生徒が出てきます。
 これを言えるということはその生徒が本文を一言一句おろそかにせず読んできたことのあかしであり、重要語をしっかり抜き出せたことを意味します。なので「よくそこまで読みとったな」と誉めたいところです。

 しかし、私は生徒がそう主張しても、「3」として「もっとひどい対応をされる」と書くつもりはありません。「策略」が書かれた部分に「弟子の僧は……内供のこの策略がわからない筈はない。しかしそれに対する反感よりは、内供のそういう策略をとる心持ちの方が、より強くこの弟子の僧の同情を動かした」とあって、[策略=反感]ではなく、[策略=反感と同情]とあるからです。
 つまり、この段階の未来予想はやはり「1 反感、2 同情」であり、「内供はとにかく『こうなればもう誰も嗤うものはないのにちがいない』と予想した。だから、そこにとどめておこう」と言います。
 もう一つ、このかなり悲観的な未来予想を認めると、先を読み、その事態が発生したとき、「ほーら。やっぱり起こっただろう」との感想が生まれます。すると、内供の「意外なことが起こった。まさか周囲の人たちがそんな反応を見せるとは思いもしなかった」との気持ちに共感できなくなってしまいます。ゆえに、「未来予想は『もう誰も嗤うものはないのにちがいない』にとどめよう」というわけです。

 ここでまた読者のために立ち止まります。
 このように説明すると、読者は「それなら、なぜ『周囲の反応』として、わざわざ1・2を板書するんだ?」との疑問が芽生えたかもしれません。

 それは作品に「同情・反感」という重要語がある以上、それを書き留めておかねばならないし、もっと大切な同情・反感以外の可能性について考えるためです。

 その前に「2についても、もう少し考えておこうか」と言って「内供に同情していた人がいたことは間違いない。ただ、彼らは鼻が短くなったのを見て『良かったですね』と言ってくれるだろうか」と問題提起します。
 生徒の答えは「同情と書かれているし、全員じゃないとしても誰かは言ってくれると思う」と、「いや、もしかしたら全くいないかもしれない」に分かれます。結末まで読んだ生徒はもちろん後者を主張します。
 ところが、先を読んでいなくても、一読法精読後なら「いないのではないか」と予想を立てる生徒がいます。なぜそう思うのか。ここでも根拠は先程と同じです。
 ただ、比率としては前者が多いので「先を読んでからまた戻って考えよう」と述べるにとどめます。

 こうした流れを経て「1・2」の下に「3 どちらでもない」を追加すると、 、生徒から「なにそれ?」の非難がごうごうと巻き起こります
 私は取りあえず「何かアンケートを取ると、必ず「どちらでもない」と答える人がいるだろ。ここだって同じだよ」と応じます……が、もちろん深い意味があります。犯人の自白に満足しない刑事のように、「本文には書かれていないけれど他にあるはず」と、別の可能性を探るわけです。
 作者芥川龍之介は1を指して「傍観者の利己主義」と呼んだ。だが、私は3に「傍観者」を入れ、それこそが本来の「傍観者ではないか」と言いたいのです。

 傍観者とは事態をぼんやり眺めて行動しない人のことです。内供に興味関心がなければ、何も思わず、なんの行動も取らないでしょう。
 内供に反感を抱いて嘲笑する1は傍観していない。内供に同情して「短くなって良かったですね」と言う2も傍観していない。ゆえに、「3 どちらでもない(傍観している)」を想定する必要があるのです。

 読者各位は「考えすぎじゃないのか」とつぶやかれるかもしれません。生徒も「しつこいなあ」と感じているようです。しかし、私は未来予想としてここまで想定して先を読み進めることが、作品のより深い理解につながると考えています。
 答えは一つだけではない。ある事柄に対して意見や感想を求めれば、「賛成」があり「反対」がある。「どちらでもない」もある。あるいは、楽観論があり、悲観論がある。そして、楽観も悲観もしない人がいる。「大きく分ければ二つ」ではなく、大きく分ければ三つ。これは人々のごく普通の反応です。

 かくして私の一読法授業は「3 どちらでもない」の中身を探究する方向に進みます。
 今触れたように、そこにはまず傍観者が入る。それだけでなく「外見は傍観しているように見えても、内心は傍観していない人がいるのではないか」と問題提起するための質問を生徒にあびせます。
-------------
 3 どちらでもない。
 (反感の1、同情の2は傍観していない――のではないか?)
-------------

 そこで、次のように質問を展開させます。
「内供に興味関心がなければ、良かったですねとも言わないし、陰で嘲り笑うこともない。もしかしたら、内供の鼻が短くなったことに気付かないかもしれない」と言うと、生徒から「そりゃあないでしょう。誰でも気付きます」と非難の雨霰。
 そこで私はロングヘアーの女子生徒の隣に座る男子に聞きます。 「じゃあ君に聞くけど、隣の何々さんが肩まである長い髪の毛ばっさり切ったら、気付くかい?」と。
 当該生徒は「うーん。気付かないかもしれません」とあっさり認めます。
 遠くの席にいる男子にも同じことを聞けば、「離れているから気付かないと思います」の答えも得ます。

 私は「無関心だと気付かないよ。でも関心があれば、離れていても気付くし、『髪の毛切ったんだね』と口にするはずだ」と言って、「女子の側から見ると、ちょっと惹かれている男子から何も言われなかったら、『この人私に関心ないんだ』と思うし、どうでもいい男子から『髪の毛切ったんだね』と言われると、あれっと思ってそれから恋が芽生えたりする……こともある」と続けると、女子生徒は「まさかあ」と言いつつ、結構うなずいています。
 私は「そんなわけで3の内容として《内供に興味関心がない人》がまず入る。さて、それだけだろうか。他に[どちらでもない]態度を示す人はいないだろうか」と続けます。すなわち「鼻が短くなって良かったですね」と言わないけれど、陰でバカにすることもない。かといって興味関心がないわけではない……なら、「それはどんな人だろうか」との質問です。

 これは一見本文と関係ない質問に思えるかもしれません。しかし、人が示す態度として全く同じであっても、内心は違うことがある――というのはよくあることです。
 たとえば、いじめにおける傍観者とは「見ているだけで何も行動しない人」でしょう。では、その内心はと言うと、「自分には関係ないと思う」・「良くないと思うけど何も言えない」「大人は助けてくれない、へたに報告するとチクったと言われて次は自分がいじめられる」・「いい気味だと思って見ている」などに分かれます。それを「傍観している点ではみな同じ、五十歩百歩だ」と言い切ることは危険で短兵急な結論です。

 作品に戻ると、ここでもヒントとなる言葉は「同情」です。「家族の場合は同情と言わないよな?」と聞けば「愛情ですか」の答えが返って「内供のお母さんなら、もちろん嗤わないし、何も言わないかもしれない」との答えが出てきます。
 私は「もう一つあるんじゃないか」と尋ね、(今なら)「ほら『アナと雪の女王』の歌で有名な言葉があるじゃないか」と続けて「内供をありのままに見ている人ですか」の答えを引き出します。
 つまり、陰で嗤うこともないけれど、「良かったですね」とも言わない人として、内供の鼻が長くても短くてもそれでいいと思える人がいる――とまとめ、「3 どちらでもない」の中身を確定させます。これを板書すると、
-------------
 3 どちらでもない[反感・同情どちらの態度も示さない]
 (ア)内供に興味関心がない人。(気付かないかも?)
 (イ)内供を愛している人(母親)。(黙っている?)
  後ほど追加《内供に同情しているが、黙っている人》
 (ウ)内供の鼻が長くても、短くてもそれでいいと思える人。
-------------
 まだまだ前半の授業は終わりません。私は「(イ)は愛情があるから、もちろん内供をバカにすることはない。それなのに、鼻が短くなって『良かったね』とも言わず黙っている。なぜ愛情があるのに黙っているのだろうか?」と質問します。

 さすがにこの問いは難しいようで、なかなか答えが出ません。そこで、私はさらに生徒個々の未来を想像させます。
 男子に対しては「将来君が付き合っている女性が突然整形したらどう対応するかい?」とか、女子生徒に対して「もしもあなたが産んだ子が鼻がものすごく長かったらどうだろう」と。
 男子は「うーん」と絶句し、女子生徒の一部からは「いやだあ」と声が上がります。
 周囲を顧慮しない女子のつぶやきはホンネを表しています。そして、先程家族や友達の病気にたとえたように、ようやく内供とその周囲を自分のこととして考え始めるようになった、とも言えます。

 男子に恋人が整形したら「整形して良かったねと言うかい?」と聞けば、ほぼ「黙っているかもしれない」と答えます。私は「でも、愛しているとしたら、黙っていることはイコール無関心じゃないよね」と応じます。
 長い髪をショートにしたときの例もあげ、「だから、ちょっと惹かれている男の子が何も言ってくれなかったとしても、君に関心がないとは限らない。片思いだとあきらめる必要はないんだ。逆に『髪の毛切ったんだね』と言ってくれるやさしい男が、稀代のジゴロだって可能性もあるから、気をつけなきゃ」と言うと、「先生、ジゴロって何ですか」となって意味が伝わりません(「辞書引け」で済ませます)。
 また、「同情とはなんだろう」と質問したり、「なぜ『同情するなら金をくれ』と言って同情を拒否する人がいるんだろう」と問うこともあります。「相手が同情を拒否する人だとわかったら、安易な同情の言葉は避けるだろうね」と話して(イ)に「内供に同情しているが、黙っている人」を追加します。

 さらに、女子に「この場合は鼻だけど、赤ん坊が障害を持って産まれることもある。あるいは、お腹の中の胎児が障害を持っているとわかって産むか中絶するか、決断を迫られることだってある」と言ってさらなる議論を巻き起こします。
 出生前診断の件も「今授業をやるなら」の追加質問です。三十年前は本人の意志ではなく強制的に不妊手術を受けさせられた「優生保護法」を取りあげました。

 ここまで来ると、読者の中には「もう作品を離れてしまっているのではないか」と感じ、批判される方もいらっしゃると思います。

 この批判に対して私は開き直って反問します。
「作品を離れていろいろ考えることは悪いことですか」と。

 これらの質問は禅智内供や周囲の人間を《自分のこととしてとらえ、どう感じ、どう行動するか考える》ための問いです。作品をぼーっと読んでいると、誰かどこかの架空の話、所詮他人事で終わります。「鼻が長い子どもが産まれたらどう思う?」と問うことで、「そりゃあ大変だ」と感じ、「どうしよう」と一所懸命考えるようになるのです。

 もしも小説を読んで「自分だったらどうだろう」と考えることなく、「周囲の人間に振り回される内供はバカだ」とか「他人の不幸を喜ぶ人間は情けない」といった感想を語るなら、一見正論でありながら、私は「人の喜び、苦しみを自分のこととして想像できない、それこそ人生を傍観する者の感想ではないのか」と生徒に問います。

 小説を百冊すらすら読んで深く考える事なき人と、一冊の本をあれこれ考えつつ読む人。どちらがより深く作品を味わっているか。どちらが自分のこととして作品を読んでいるか。三読法が目指す読者像が前者なら、一読法は後者を目指します。
 いや、三読法だって目指しているのは作品を深く味わい、自分のこととして感じ考えてほしい読者です。なぜなら三読法は「読書百編意自ずから通ず」が基本です。芥川龍之介の『鼻』を、せめて十回読めば、内供も周囲も自分のこととして感じ考えられるようになるはずです。

 さて、このようにして前半最後における未来予想を終えると、いよいよ後半に進みます。(後半は次号)

 ところで、最初のほにゃらら問題。もう答えはおわかりと思います。
「三読法とは人生を□□□□□地点から眺める読み方であり、一読法とは未来は何が起こるか□□□□□という地点での読み方である」

 後半五文字はすぐに埋まったでしょう。未来は何が起こるか[わからない]と。前半は「終わった」とか「結末の」と入れてみて[過ぎ去った]が浮かんだかどうか。
 ここに「結末の」を入れることができないのは、人生の結末は死だからです。もはや棺桶の中で考えることはないと思います。

 なんにせよ、これが三読法と一読法最大の違いです。そして、三読法授業とは「事件が起こった後で過去を振り返る」訓練を日々重ねているのであり、一読法授業とは「事件が起こる前から過去と現在を振り返り、未来を予想する」訓練であるということができます。
 どちらを選ぶべきか。私には自明であるような気がするのですが……。

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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:本節はその一、その二と分けたため、問題提起されたいくつかの課題が次号に持ち越されてしまいました。特に『鼻』の冒頭二〇〇字ほどを「最初の立ち止まり地点として一時間使う理由」、鼻の治療が終わって短くなったところは「重要な立ち止まり地点」であり、先を読まなくとも「そこが重要だと認識しなければならない」と書いたところなど、未解決のままです。次号まで探偵になったつもりで、推理してみてください。
 また、「作者なぜ?」の書き込みとして「なぜ作者は周囲の反応を『傍観者の利己主義』と説明したのだろうか」もあります。

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2019.09.11

別稿『一読法を学べ――学校では国語の力がつかない』第18号実践編八

 今号は「挫折に終わった一読法授業 その二」です。生徒の拒否反応とはなんだったか。原因の一つ目は「今と三十年前の違い」でした。二つ目は「今も昔も同じ、一読法は□□□□□□(ひらがな6文字)」です。再読していればすぐに埋まると思うのですが。

 八 挫折に終わった一読法授業、その二 [小見出し]
 (1)挫折の原因、二つ目は……
 (2)再び三読法に戻る

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 本号の難読漢字
・怠惰(たいだ)・到底(とうてい)・辟易(へきえき)・雲散霧消(うんさんむしょう)
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 『 一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』 18

 八 挫折に終わった一読法授業、その二

 (1)挫折の原因、二つ目は……

 一読法授業挫折の原因について、一つ目は「パソコン・インターネットなどなかった三十年前は調べる作業がし辛かったから」とまとめました。が、主たる理由はそれではなく、生徒が示した一読法に対する《拒否反応》でした。

 大学時代に一読法を知り、高校教員になって十年ほど。私にとっては「満を持して」といった気持ちで始めた一読法授業。生徒はきっと感嘆して活き活きと実践してくれる……と思いました。
 ところが、生徒は「先生の授業はよくわからない」と言いました。比喩として言うなら、内蔵移植の拒絶反応でしょうか。身体が受け入れないと言うか、感情的に拒否されたかのような印象でした。後に「これはカルチャーショックか」と思うに至りました。

 この件も思い当たる記述は方々に出していました。
 実践編前置き(2)において「一読法授業が挫折に終わった」ことに触れ、「みなさんも原因を考えてみてください」と問題提起しました。その直後に書かれた記述が最初のヒントです。
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 今後読者各位はさまざまな文章を読まれると思います。もしも理解度六〇に達したいと思われるなら、選択肢は二つです。「一言一句注意して疑問や感想をつぶやきながら一度読む」か、「一度目はさあっと読んで、もう一度考えつつ再読する」か。
 ここでも読者のつぶやきが聞こえます。
「一読法ってかなりめんどうだな。そんなことなら二度読んだ方がいい」と。
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 理論編を読み終えた読者が「確かに一読法ってかなりめんどうだ」と感じたなら、三十年前の生徒も同じ感想を持ったわけです。一読法は□□□□□□=「めんどくさい」と。

 また、前置き(2)の途中には「考えさせられる」作品を敬遠する読者について「『だから私はそんな小説は読まない、そんな映画は見ない』と言う人も多いでしょう。考えさせられる作品は疲れます」と書いています。一言一句集中して読むのはしんどい作業です。
 例題一、二の実践でも、「生徒がこのようにつぶやくかもしれない」という実例をたくさん紹介しました。みなさん方はその具体例をじっくり読んだでしょうか。「こんなにつぶやくのか。めんどうだなあ」と感じて斜め読み、飛ばし読みしたのではないかと推測します。

 それが三読法通読の癖です。何度も書いているように、小学校入学から十八歳まで十二年間(高校入学時は九年間)、一度目はさあっと読んだり、飛ばして読む通読の癖が身体にしみついています。
 それは簡単な読み方です。きつくない、疲れない、楽な読み方です。

 かたや一言一句注意しながら読む一読法はしんどいです。めんどうです。立ち止まって「おやっ?」とつぶやいたり、前に戻って二度読みしたり、考えながら読む作業は疲れます。一回読み切るのに、かなり時間がかかります。しかし、文章の理解度は間違いなく六〇以上。
 対して三読法を通読だけで終えれば、文章の理解度は三〇しかない。本当はもう一度読まねばならない。それが国語・現代文授業で学んだ三読法だから。だが、学校を離れたら一度しか読まない。
 よって、文章を読む際、通読だけで終えることは悪癖だと言わざるを得ません。

 しかしながら、ここで「悪癖ですよ」と指摘されたからと言って簡単に変えることができましょうか。
 たとえるなら、油っこい食事、甘くておいしいケーキやチョコ、砂糖たっぷりの炭酸飲料。食べ始めたらやめられないスナック菓子と同じです。メタボだ、糖尿病予備軍だと医師に指摘されても、長年の食生活は簡単に変えられません。車を運転するようになると、自宅から1キロ先のコンビニでも車を使います。「歩かなければ」と思っても、人は楽な方を選択する……。

 また、「誤答率四割の原因を探る」では、例題一・二を見たときの生徒の気持ちを推理した表現があります。「例一は離れたところにある二つの文を、要素に分けて同じかどうか検討しなければならない。めんどくせえなあ……」、「例二はカタカナがたくさん並んでいて、まず『オセアニア』がどこにあるか発見しなければならない。めんどくせえ……」と。
 そうつぶやいて誤答した生徒が三、四割。同じことをつぶやいて「こっちにしちゃえ」とやってたまたま正解した生徒が二、三割。きちんと精読して正解した生徒は四割から五割だろうと私は推理しています。

 このように「人間とはいつもめんどくさいとつぶやき、なかなか自分を変えようとしない、変えられない、怠惰を愛する動物である」とまとめたら、さすがに言い過ぎです。人は何かをきっかけに劇的に変わる、変えられる動物でもあります。

 大げさに言えば、教員人生初の一読法授業は生徒のこの感情にぶつかりました。彼らは小中で一度も一読法を学んだことがありません。実践したのは高三でしたが、高校入学後ももちろん知りません。私の授業で初めて一読法の読み方を訓練したわけです。

 ちなみに、一読法授業を実践したのは私一人だけであり、同僚の国語教師に働きかけることはしませんでした。理由は三読授業に問題意識を持たない人を説得しなければならないし、まずは自分でやってみて「好結果が出るなら、その後働きかけよう」と考えたこともあります。

 生徒はもちろん私の指導に従ってくれました。鉛筆を握って疑問の[?]やつぶやきを教科書に書き込む作業を、黙々とやってくれました。当初「教科書をきれいに保ちたい」と言っていた女子生徒も、やがて教科書に記号や傍線を付け、どんどん書き込むようになりました。

 ところが、ここでぶつかった壁が今も書いた通読の悪癖です。生徒は最後まで早く読んでしまいたいと感じた(ようです)。
 たとえば、多くの教材は教科書数頁から長くとも十頁くらい。通読すると短ければ二十分、かかっても四十分ほどで読み終えてしまいます。逆に言うと、国語の多くはそのような教材が選ばれています。

 一読法授業は最初から精読するので、一時間(五〇分)では到底最後まで到達しません。やっても見開き二頁分くらい。切れたところでやめて次の時間に前の部分を再読しつつ、新しい部分に入ります。約五、六時間の授業はこの繰り返しです。

 生徒はこの遅々として進まぬ精読作業に耐えられなかった(ようです)。
 もちろん「予習はしないように」と教科書は学校に置かせている。「最後まで読んでしまうと一読法にならないから先を読むな」と言いました。
 確認はしていませんが、この指導に従ってくれた生徒が何人いたことか。多くの生徒は昼休みか放課後最後まで読んだようです。あるいは、残り二頁で終わりのチャイムが鳴ったら、もはや「先を読むな」とは言えません。彼らは「早く結末(結論)を知りたがった、早く読み終えたかった」のです。

 なぜそれがわかったかと言うと、次の時間新しい頁に入ったとき、書き込む[?]が激減したからです。そこが初めて読む頁なら、出てしかるべき疑問や感想が出てきません。
 この件に関しても13号「一読法授業で『予習をしない』わけ」で語っています。
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 前もって読んでいた生徒が授業で一読法を実践すると、彼らから疑問のつぶやきがなかなか出てこないという問題が発生します。~中略~妙な言い方ですが、前もって読んで疑問を解消してほしくない。初めて読む授業においてどんどん[?]をつけ、つぶやき、それを提示してほしい。だから、「予習をしないように」と言います。
------------------
 つまり、最後まで読まれてしまうと、もう一読法授業にならない。読み終えた生徒にとっては通読→精読授業でしかありません。しかも「どうしてこんなところにいちいち[?]をつけるんだ」と反感さえ芽生えたようです。

 一読法だから、「なぜ? どうして?」の答えを探して二度読みを行ったりします。前の部分に答えがないと、「読み進める前に疑問の答えを考えよう」と問い、立ち止まって「ああでもない、こうでもない」と推理し、それをノートに書き留めます。

 今回の「一読法授業が挫折に終わった」例で言うなら、「今から三十年前」のところで立ち止まって「今とそのころの違いは?」と考えるようなものです。あれやこれや思い出し、「そのことと一読法授業挫折の原因は関係しているか推理」します。
 しかし、先(すなわち五節や本号)を読めば「答えはそこに書かれている」。
 みなさん方は先に答えがあると知ったら、途中で立ち止まってあれこれ考えようと思うでしょうか。

 もちろんこれは全て読み終えてから精読に入る三読授業ではごく普通の活動です。
 たとえば小説なら、主人公の途中の言動について「なぜだろうか」と質問することがよくあります。この答えはその前にあったり後にあったりします。生徒はそれを探して「こうだと思う」と答えます。これが三読法における精読活動です。

 ところが、一読法では立ち止まったところで「なぜだろう」と考え、先を読みません。よって、先に書かれている(かもしれない)答えはわかりません。
 ではどうするかと言うと、それまでの表現からヒントを探します。もしも一つしか答えが見つからないと、私は「これ以外に考えられることがあるのではないか」と生徒にあれこれ推理することを求めます。これが生徒は苦手です。

 と言うのは彼らは小中高を通じた学習の悪しき結果として――敢えて「悪しき」と書きます――「正解は一つ」と思いがちだし、一つか二つの答えで満足して、それ以外の可能性について考えようとしないからです。

 私は授業において立ち止まったところで「なぜか」と問い、答えが出ても「それだけじゃないだろう、まだあるはずだ」としつこく尋ねます。答えが出なければ、「この可能性もある、めったにないけどこう考えることだってあるぞ」と確率1パーセントの可能性まで列挙します。

 ここで生徒が反感を持つのはある意味当然かもしれません。それを言葉にするなら、「先生は最後まで読んで《なぜ》の答えを知っているから、他にある、他にあると言うんでしょ」という気持ちです。後に出てくる「答え」を生徒が言うまで、追及をやめないと感じているのです。

 これはあながち的外れの批判ではないので、処理に困ります。私は初見の教材はもちろん一読法で読むけれど、授業でやるときは最後まで読み切った上の立ち止まりであったり、《なぜ》の問いを設定していることがあるからです。生徒が「ずるいよ」と感じるのもむべなるかな、です。

 ともあれ、末尾まで読んだ生徒は「先に答えがあるじゃないか」とうんざりし、先を読んでいない生徒も「なぜこんなにあれこれ考えさせるんだろう」と辟易した……これが始めてやった一読法授業の実態であり、生徒が示した拒否反応です(この件は次号にてもっと詳しく語ります)。

 生徒が感じた「途中で立ち止まってあれこれ考えつつ読むことはしんどい、結末まで早く読んでしまいたい」という気持ちをむげに否定できません。それまでずっと通読で、とにかく最後まで読み切る読み方をやって来たのであり、それは知の欲求とも言えます。当時の私は「とにかく早く読みきりたい」という生徒の気持ちに応える方法を見つけることができませんでした。

 今振り返るなら、一読法の重要性についてもっと説明すべきだったと反省しています。
 当時私は一読法を「読みの問題」とだけ考えて、それが人の話を聞くときにも使われる「話の聞き方」としてとらえていませんでした。
 もしも「人の話を聞くときは一度しか聞かない。だから、最初から一言一句注意して聞く必要があるよ」と説明し、さらに「それは文章を読む際にも使われる。だから、題名から文章の最初から一言一句集中して読む必要があるんだ」と理論面を説明してから実践に入っていれば、まだ生徒の反応は違ったかもしれません。

 このように私が一読法授業をわずか一年でやめたわけは、調べるための資料類がなかったことより、圧倒的に生徒の拒否反応でした。彼らは「一読法はとろとろ進むのでじれったい」とか「早く最後まで読んでしまいたい」とか「途中でああでもない、こうでもないと考えるのはしんどい」などと言いはしません。つぶやいた言葉は「先生の授業はわかりにくい」でした。

 そして、当時の私はその言葉の意味をくみ取ることができませんでした。特にそれまで慣れ親しんだ通読の癖で「早く最後まで読んでしまいたい」という欲求を一読法授業で満たすことはほぼ不可能。
 一読法とは長編小説の読み方です。長編小説はさあっと目を通すだけでも一日、二日かかります(二十四時間、四十八時間という意味です)。これを仕事や勉強など他の活動をしつつ一言一句注意しながら読めば、一週間、いや、ひと月、ふた月かかるでしょう。一気に読み切ることは不可能。これを短い文章でもやろうと言うのが一読法です。通読なら二十分で読み終える教材を、五コマ、五時間かけて精読する。しかも、「先を読むな」という一読法授業は生徒にとってめんどくさく、不可解だったようです。

 結局一年間一読法授業をやったけれど、疑問を書き込んだとしても調べることはできない、小中で三読法しか学んでいない生徒が一読法を身につけることは難しすぎる。そう思って一読法授業から撤退しました。

 もう一つ国語教師側の問題もあります、私個人で一読法を実践したのは三年生でした。一年後彼らは卒業しました。当時一読法授業を一年生でやることは「もっと困難だ」と思いました。
 と言うのは私一人が全クラスの現代文を担当するわけではなく、二人から三人で分担するからです。
 二年に上がるとクラスはシャッフルされます。となると、二学年のクラスには、私の指導によって一読法を知った生徒と知らない生徒が混在します。私にとっても他の国語教師にとってもやりづらい授業になることは明らかです。
 一読法授業をやるなら、一年の最初から国語教員全員でやらねばならない――それを働きかけるにはイバラの道が想像され、もはや一読法授業をやろうという気持ちが萎えてしまいました。

 余談ながら、四月に一読法を初めて半年後、生徒が最も記憶に残ったのは「途中で立ち止まれ」だったようです。当時担任だったクラスが文化祭で飲食店をやることになったとき、彼らは飲食店の名前に「ゆうさんの立ち止まり喫茶店」と名付けました。
 お客さんはきっと「なぜわざわざ立ち止まり?」と感じたことでしょう。私も「なんだ、その名は」とあきれつつ、立ち止まりは一読法の要なので、内心嬉しかったことを覚えています。

(2)再び三読法に戻る。

 私は生徒に一読法を教えることをあきらめ、再び三読法に戻りました。
 ただ、それまでの[予習をせよ→指名読みによる通読→二度読みによる精読]授業はやりたくない。そこで若干ヴァリエーションをつけました。
 題名読みはもちろんやる。作者読みは少々。そして、本文は必ず鉛筆を握って読むこと。もちろん「予習は厳禁」。
 よって、指名読みはやめました。私が最初から最後まで読み通す。難語句・意味不明語句はその都度短く解説して書き込ませる。そして、鉛筆を握っての記号付けは4つ。[?]と[○](感嘆・賛成)と[×](反感・反発)。さ らに、重要だと思われるところに傍線を引き、重要語は□で囲み、上部に[!]をつける。

 要するに、一言一句注意して読むことだけはやってもらう。結構ゆっくり読むし、一段落を終えたところで、ちょっと振り返る時間を与えることもありました。
 たとえば、小説なら状景が淡々と書かれたところはどんどん読み進め、「おやっ?」と思える表現のところはゆっくり読んだり、間をあける。論説文なら、難しい表現のところは「この段落もう一度読んで[?]があれば付けてごらん」と言ってちょっと待つ。
 本来の一読法授業なら、これは生徒自身がやるべき立ち止まり作業です。私が(ある意味無理矢理)同じところで立ち止まらせたと言えるでしょう。一時間内に読み切るためには仕方ありません。

 そして、「集中して読む」ために課したことが通読直後の「百字感想文」です。
 このかなりゆっくり読む通読でも、多くの国語教材は二十分~三十分ほどで読み終えます。残った時間に百字程度の感想を書いてもらう。
 基本何を書いてもいいけれど、ポイントは二つ。作品を読めば、部分において全体について「これはどういうことだろう」と疑問が湧く。答えはこうではないかと思った場合は自分なりの答え(解釈)を書く。答えがわからなかったら、その疑問を書きなさいと。
 以前本稿理論編で短文ツイッター否定論をぶちかました私ですが、授業では短文感想文を書かせていたのです。

 それはさておき、用紙はB4用紙の4分の1に原稿用紙(題名・氏名の二行とマス目は十字×十二行)をこしらえて生徒に書かせました。だいたい通読後の残り時間で書き終えます。私にとってはここからが大変です。
 生徒四十五人分の感想を次の時間までに読んで、約半数分の感想を取り出し、縮小コピーしてB4用紙2枚から3枚にまとめ、それをクラス人数分印刷して次の時間に「みんなの感想だよ」と配布。私が読みつつ寸評を加えました。

 基本優秀作品を掲載しましたが、疑問だけの感想ももちろん掲載する。それから徐々に「自分なりの答え」や「反論」など末尾に行くほど鋭い読み、深い読みができている作品を入選としました。
 当時一学年の学級数は六から最大十二。私が受け持つ現代文のクラスは三~四クラス。
 通読が終わると、次の時間にはもう百字感想文プリントを配って読み合わせます。次の時間まで一日とか二日、土日が入ればまだいいけれど、翌日ということもあります。そのときは自宅に持ち帰って作成することもありました。次の時間に感想を読み合うことに意味があるからです。

 通読を終えれば、三読法だから《精読》に入ります。その前に「この作品ではどんな疑問が湧いていたか、それに対して(ある生徒は)どう感じ、どのような答えを出したか」知ることができ、それを精読によって確かめる、あるいは、教師の側からより深い解釈、別の見方を提示することにつながる。要するに、より集中して精読活動に入れるからです。

 記名は実名かペンネームも可としました。題名は必須。ただし感想文によくある「~を読んで」だけは認めない。「書いたものの題名とは全体の要約になるんだから、内容にふさわしい題名にしなさい」と言いました。ときには「内容は普通だが、題名が素晴らしい」と誉めたりしたものです。
 基本クラスの半数を入選作としたものの、間に合えば他クラスの「鋭い解釈」などを紹介することもありました。

 この百字感想文、生徒はかなり熱心に読んでいました。まずは「自分の感想文が採用されたかどうか」が気になり、次に「自分はこう感じ、考えたけれど、他の人はどうなんだろう」と知ることができます。新しい単元に入るたびに書いてすぐに作品が公開されるので、「次は入選作になりたい」と意欲も湧き、初読の読みも集中度が増します。

 多くの教科書では最初の方に本文と関連した美術作品(絵画)が掲載されています。変わり種百字感想文として「この絵を見た感想を書きなさい」とやったことがあります。そのとき担当したクラスに「美術コース」があったからです。これは美術の意識が高い子どもたちだけに、かなりの優秀作ができあがりました。

 余談ながら、理論編において「美術と音楽の違い」を語りました。美術はぱっと一目で全体像がわかる空間芸術であり、音楽は鑑賞時間を短縮したり省略できない時間芸術であると。
 実は「精読活動」は美術・音楽においてもあります。音楽は自然に精読し、自然に三読法になります。というのは歌謡曲であろうが交響曲であろうが、時間をかけ、何度も何度も聞いてようやく「ああいいなあ」と感じるからです。やがて歌謡曲は自然に覚え、歌えるようになります。
 鑑賞に時間がかかることは音楽最大の短所だけれど、じっくりゆっくり《精読》して何度も聞いてもらえる点では最大の長所です。

 ところが、美術は《精読》してもらえません。展覧会の鑑賞者が一作品の前で何分立ち止まっているか、それを見れば正に一目瞭然。せいぜい十数秒で次の作品に移動しているはずです(高額作品なら時間をかけるでしょうが)。その他多くの作品は細部をじっくり見てもらえません。画家が百号以上のでっかい作品を描きたいと思うようになるのは、げに「立ち止まって細部をしっかり鑑賞してほしい」からでしょう。
 一目で全体像がわかることは美術作品最大の長所だけれど、ゆえに最大の短所でもあります。
 私は美術コースの生徒に「じっくり一作品を眺めて感想を持つ大切さを教えたい」と思って絵画の百字感想文を実践しました。

 ついでに小説や詩の文学について触れておくと、「全体が一目でわからない点で音楽に似ている」とまとめました。思うに三読法とはこの短所を補うために美術の長所を取り入れたと言えそうです。「全体像をつかむためにまずさあっと読もう」と通読を勧めたのです。
 ところが、多くの人が美術作品を細部に渡って《精読しない》ように、通読によって全体像をつかんだ読者は作品の前から立ち去ってしまう。すなわち、さあっと一度読むだけで精読しない読者を大量に生み出してしまった。結果、文学が持っていた音楽的長所(じっくりゆっくり読んで鑑賞すること)さえも雲散霧消してしまった、と言わざるを得ません。

 そろそろ本節の結論です。
 結局、その後一読法を復活させることはなかったけれど、私はこの一読法的三読授業を退職まで続けました。
 ちなみに、本稿を現役国語教師の方がお読みなら、通読直後の百字感想文作成は決して勧められる授業ではありません。生徒の読解力、作文力の醸成、人の見方を知るなど、効果は絶大です。しかし、どう見ても教員の負担が大きすぎるブラックな働き方としか言えないからです。

 私がやりたかったのは一読法です。一読法は通読=精読後に百字程度の感想文を書くことを推奨しています。しかし、一読法授業なら、私は精読後「百字感想文を書く」作業はしなかったでしょう。
 と言うのは一読法授業なら作品の理解・鑑賞度八〇に達します。作品をしっかり理解した上での「感想」は各自持てばいいことであり、もはや「この感想は作品の理解が浅い、甘い」と批評することはありません。
 これは三読法授業も同じで、通読→精読後に「感想を書く」作業はめったにやりません。処理が大変なだけでなく、作品をしっかり理解できたなら、どのような感想を持っても構わないからです。

 そうなると、理解度三〇でしかない三読法の通読直後に百字感想文を書かせることは「矛盾している」と言うか、「浅い読みの感想しか出てこないのではないか」と思われるかもしれません。
 そこが作文の面白いところです。生徒は「読んだらすぐに感想を書くよ」と言われると、初読から集中して読むようになります。ぼーっと読んでいたのでは感想なんぞ書けません。
 さらに、さっともう一度読み返して(ここで傍線や記号が役立ちます)理解度六〇に達した感想も出現します。私は「この感想は作品をしっかり理解している」と誉めます。
 三読法通読直後の百字感想文とは通読をできるだけ一読法に近づける、初読から一言一句集中して読ませるための作業でした。

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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:次回は今号で問題とした「文章の先に答えがあるのに、途中で立ち止まってあれこれ考えるのはなぜか」について、芥川龍之介『鼻』の授業実践を例として解説します。ネットの「青空文庫」に原文があり、閲覧無料です。一読しておくと、理解が一層深まると思います。
 一読法習得を意識されるなら、プリントアウトして傍線を引いたり、重要語を□で囲ったり、[?]や[○][×]を付けるなど、一読法で読まれることを勧めます。

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2019.09.04

別稿『一読法を学べ――学校では国語の力がつかない』第17号実践編七

 今年の夏は7月冷夏の長雨、8月猛暑、下旬また長雨といつにも増して異常でした。佐賀県の豪雨で被災した方々にはお見舞い申し上げます。
 さて、今号は前号の答え合わせと「挫折に終わった一読法授業 その二」のつもりでしたが、国語と他教科の違いについて語っていたら、思いの外長くなったので、独立させました。

 七 国語教材と日本史教材の違い [小見出し]
 (1)卒業試験問題の答え合わせ
 (2)『原始、女性は太陽であった』は国語教材か
 (3)『原始、女性は太陽であった』を国語科で読むと
 (4)国語と社会の連携

 八 挫折に終わった一読法授業、その二[以下次号]
 (1)挫折の原因、二つ目は……
 (2)三読法に戻る

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 実践編 目 次
 実践編前置き(1)・(2)
 一 社会(日本史)
 二 社会(文化史)
 三 現在の学校で一読法を実践するには
 (1)一読法授業で「予習をしない」わけ
 (2)現在の学校でひそかに一読法を実践するには?
 四 誤答率四割の原因を探る
 (1)誤答率四割の原因について
 (2)一読法でも誤答率四割
 五 挫折に終わった一読法授業、その一
 (1)試験時間を増やすか?
 (2)原因の一つは……
 六 実践編執筆の裏話と卒業試験問題
 (1)初稿から変化した思い
 (2)最初の仕掛け
 (3)次の仕掛け
 (4)前節「挫折の原因、一つ目」が長くなったわけ
 (5)一読法卒業試験問題
 七 日本史教材と国語教材の違い――――――本 号
 八 挫折に終わった一読法授業、その二
 (1)原因の二つ目は……
 (2)三読法に戻る
 九 実践編の「まとめ」

 理論編・実践編の後書き

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 本号の難読漢字
・容易(たやす)く・所謂(いわゆる)・極(きわ)めつけ・促(うなが)す・『青鞜』(せいとう)・禅智内供(ぜんちないぐ)・沙弥(しゃみ)・内道場(ないどうじょう)供奉(ぐぶ)・勿論(もちろん)・蒼白(あおじろ)い・初声(うぶごえ)・嘲(あざけ)りの笑(えみ)・頻発(ひんぱつ)・貧窮問答歌(ひんきゅうもんどうか)・鵯越(ひよどりごえ)・「仁勢(にせ)物語」・些末(さまつ)
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********** 小論「一読法を学べ」*************
 『 一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』 17

 七 国語教材と日本史教材の違い

 (1)卒業試験問題の答え合わせ

 まずは前号の質問「実践編の例題一、二はなぜ国語ではなく社会だったのか」について。
 ポイントとなる言葉は漢字かな混じり□□□(3文字)と書きました。ヒントとして「実践編の例題は必ず国語以外、特に社会を使おうと考えていた。国語にしたくない理由があった。答えてほしいのはそれです」や、「国語科はそれをあまり重視しない。対して他教科はそれを重視する。ゆえに、実践編は国語以外の教科を取り上げる必要があった」とも書きました。

 国語授業は難語句の読みや意味、外来語の意味など辞書を引く活動はします。その際使うのは「辞典」。対して社会や理科の教科書はだいたい読めるから辞書を引くことは少ない。世界史の人名なぞ全てカタカナです。さすがに日本史の人名や事項名は読めないことが多いので、それこそ「調べる」活動をします。しかし、その際使われるのは百科事典や歴史事典の所謂「事典」です(大学時代こちらは「ことてん」と呼んでいました)。理科の生物・化学・物理・地学なども各種「事典」があります。

 要するに、国語授業で調べる活動は辞書まで。事典を使うことがあっても深入りしない。一方、他教科の調べる活動は事典、さらにいろいろな資料・参考文献となります。
 なぜ実践編の例題は国語ではなく社会だったか。ほにゃらら□□□(3文字)は「調べる」でした。

 国語科は事典を使ってまで調べる活動はしない。対して社会の日本史・世界史は本来「調べる活動」をするべきだ。だが、ほとんど解説だけの講義型授業になっている。そのわけは三読法の通読→精読(解説)授業だから。
 一読法なら最初から疑問をつぶやく。その疑問が「調べる活動」のスタートとなる。ゆえに、社会科は一読法を使うべきである――こうした思いから実践編は日本史の例題を採用しました。

 ここでちょっと立ち止まります。ここまで読んで「あれっ?」とつぶやかれたでしょうか。「確か平塚らいてうのあれは生徒に調べさせたと書いていたようだが……」と。

 それはさておき、今回の卒業問題は前号で書いたように、実践編の開始当初、二つの[?]をつぶやいていれば、そして実践編で《調べる》が一貫して使われていたことに気付いていれば、簡単な問いでした。

 一つ目のつぶやきは「実践編の具体例は社会か。なぜ国語の小説や論説文ではなく社会なんだろう」であり、もう一つは例題一の解説を読みつつ、「おやー? なんか妙だぞ」とつぶやいたかどうか。
 例題一の「幕府は、一六三九年、ポルトガル人を追放し、大名には沿岸の警備を命じた」を一読法で読むには、「生徒は本文を読みながら、疑問やつぶやきを書き込み、その後それを発表。さらに調べたり話し合ったりした後先生が解説する」とあって早速「調べる」活動について語られます。

 その後「インターネットを使って調べる」など、この言葉が多用され、極めつけは「疑問とつぶやきから自身で調べて答えを探す一読法だから、『幕府は、一六三九年、ポルトガル人を追放し、大名には沿岸の警備を命じた』の一文がこれだけの広がりと深みを持つのです。授業でこれを実践すれば、先生の解説も含めて相当内容の濃い授業が成立するはずです」と書いています。

 ここらへんまで読んだとき、二つ目のつぶやき――「なんか妙だぞ」が出ていいところです。特に「疑問とつぶやきから自身で調べて答えを探す一読法」の部分において。
「はて? 理論編の一読法解説に『調べて答えを探す』なんてあったかなあ」と。

 この疑問がわいていれば、理論編「五 一読法の読み方」に戻って二度読みを行う必要があります。ここで三読法だと全文読み返さねばならず、一読法なら余白の記号や傍線をたどるだけで済みます。
 いずれにせよ、部分の二度読みを行えば、すぐに気付いたはずです。
「一読法の読み方に『自身で調べて答えを探す』なんてないじゃないか!」と。

 あるいは、毎号上部に掲載している理論編の目次や小見出しを眺めるだけでもわかります。「一読法の読み方」の小見出しには「読み終えたら、記号をたどって作品を振り返る、短い感想を書く」とあるけれど、「調べて答えを探す」の項目はありません。

 そもそも実践編とは理論編で語られたことを実践する場であるはず。しかし、理論編では「(事典で)調べる」活動について全く説明されていない。
 ところが、その言葉は実践編において突然飛び出し、以後ずっと「一読法では調べる活動が大切だ」とか、「私の一読法授業が挫折したわけは三十年前調べる活動がし辛かったから」と語られる。
 読者がこのことに気付けば、「それほど重要な言葉なら、理論編で説明せんかい!」と怒っていいところです。

 ただ、本稿は普通の論文と違って《読者が一読法で読んでいるか》至る所に落とし穴を掘っています。これもまたその仕掛けと見なせるところです。
 作者は一読法理論編で「調べる活動」について書かず、実践編でその大切さを説いた。一言一句注意して読んでいれば、「あれっ、一読法の読み方には『調べて答えを探す』なんてなかったぞ」とつぶやくはず。いや、つぶやいてほしい。
 それゆえ理論編では敢えて「調べる活動」について書かず、例題一においてさりげなく「調べる」言葉を出現させた。
 論文として評価するなら、かなり出来が悪い。だが、一読法読者なら、このいいかげんさ(仕掛け)に気付くはず、と読者に注意を促すための表現である……。

 ここで正式に立ち止まります。
 さて、これは前号同様、読者が一読法で読んでいるか確認するための仕掛けでしょうか。あるいは、私の構想不足、執筆ミスでしょうか。

 正直に告白します。これは仕掛けではなく、私のミスです。自ら落とし穴にはまりました(^_^;)。もしも仕掛けだったら、前号「執筆上の裏話」で取り上げたでしょう。
 理論編の最後に「以上は国語科における一読法の読み方です。他教科の理科社会はここに追加して《調べる活動》が入ります」と書けば、うまくつながったはずです。

 もう少し説明すると、本稿全体の構成として、私は
 1 「一読法の読み方、理論編」=例として国語の小説・論説文を採用。
 2 「一読法の読み方、実践編」=例として社会の日本史を採用。
 ――と構想していました。

 つまり、私の中では理論編は国語教材、実践編は他教科――特に社会にすると決めていました。両者最大の違いは「調べる活動を重視するかどうか」にあるからです。
 理論編は国語教材だから、読みの活動まで。それを応用するのが他教科であり、特に理科社会において「調べる」活動が入る。
 よって、実践編の具体例は理科でも良かった。そうしなかったのは、理科の授業はすでに調べる活動が入っているからです。理科は実験や調査活動が入り、結果をレポートとして提出させたりする。その基本には「なぜこの現象が起こるのか」という疑問のつぶやきがある。もちろんこれは一読法。
 有名な事例を一つあげるなら、万有引力の法則には五歳児のような疑問、「なぜリンゴは木から落ちるのだろう」がありました。意識されていないけれど、すでに一読法なのだから特に言うべきことはない(相変わらず項目暗記主義の講義も多いようですが)。

 ところが、中高における社会の授業は「調べる」活動が入ることなく、講義・解説ばかりである。それは(繰り返しになりますが)三読法の通読→精読授業だからであり、入試の項目暗記主義ゆえである。もしも三読法から一読法に切り替えれば、[疑問のつぶやき→調べる]活動を取り入れることができる。そのような構想から実践編は国語ではなく理科でもなく、社会を例としました。

 以上、まとめると、
 国語は難語句や外来語について辞書を引くけれど、読み終えてさらに調べる活動はあまりしない。国語はどのように文章を読むか。どのように考え、どのように調べるかを学んでいるのであって、その先の《調べる》実地活動は無理にやらなくていい。
 国語(現代文)における「精読」とはあくまで解釈であり、解釈を深めるために調べる活動をすることはあっても、生徒に作品を超えて調べることまで要求しない。それが国語(現代文)の授業である。
 対して国語以外の教科は文章を読んで考えるだけでなく、体験したり実験したり、調べる活動が中心となる。いわば国語は基礎・基本であり、他教科が応用である。

 ――こう書くと、先程遠慮がちにつぶやかれた批判の言葉がはっきり口に出されたはずです。
「あんたは平塚らいてうの作品を単元学習でやったと書いていた。あれは生徒に調べさせる活動ではなかったのか」と。

 このつぶやきに対して私はこう答えます。
 それは「平塚らいてう『原始、女性は太陽であった』が国語の教材と言うより、社会の資料集に載るべき教材だったからです」と。

(2) 『原始、女性は太陽であった』は国語教材か

 平塚らいてう『原始、女性は太陽であった』は作者二十五歳(一九一一年)のときの作品です。雑誌『青鞜』創刊の辞として書かれました。『青鞜』は男性が編集に参画しない女性のみの文芸誌です。冒頭に置かれたのは与謝野晶子の詩「そぞろごと」。その第一行「山の動く日来(きた)る」は女性の解放・自立宣言として有名。

 一方同時期の一九一六年、二十四歳で漱石の激賞を受けて華々しくデビューしたのが『鼻』の芥川龍之介です。ともに高校現代文の教科書に掲載されていることがあります。
 この二作品をA・Bとして、私がなぜ『原始、女性は太陽であった』を単元学習でやったのか、その理由を説明したいと思います。

A 芥川龍之介『鼻』の冒頭部
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 禅智内供(ないぐ)の鼻と云えば、池の尾で知らない者はない。長さは五六寸あって上唇の上からあごの下まで下がっている。形は元も先も同じように太い。~略~五十歳を越えた内供は、沙弥(しゃみ)の昔から内道場供奉(ぐぶ)の職にのぼった今日まで、内心では始終この鼻を苦に病んできた。勿論表面では、今でもさほど気にならないような顔をしてすましている。
-------------

B 平塚らいてう『原始、女性は太陽であった』の冒頭部
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 元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。
 今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である。
 さてここに『青鞜』は初声を上げた。
 現代の日本の女性の頭脳と手によって始めて出来た『青鞜』は初声を上げた。
 女性のなすことは今はただ嘲りの笑を招くばかりである。
 私はよく知っている、嘲りの笑の下に隠れたる或ものを。
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 A『鼻』の時代背景は平安か鎌倉室町ころで、身分の高い僧侶のことが書かれています。しかし、内容は平安時代でなくてもいい、僧界でなくても起こりえるお話です。つまり「池の尾」がどこか、「沙弥(しゃみ)・内道場供奉(ぐぶ)」とは何か辞書を使って調べたとしても、さらに平安時代とか僧侶の階級について調べることはしません。
 ソーセージのような鼻を持つ中年男性が周囲の目を気にして悩み、改善しようと四苦八苦する話は時代を問わない。よって、『鼻』の感想文を書くなら、主人公の心理、周囲の人間の思惑、自尊心とか劣等感、作者解説の「傍観者の利己主義」についてあれこれ感じたこと、考えたことを書くでしょう。

 では、Bはどうか。この作品は国語の教科書に載ったけれど、実は社会の資料集(明治大正時代)に入っておかしくない作品です。
 そもそもBを国語に入れると、ジャンル分けに困ります。小説ではないし、論説文でもない。一文字下げて分かち書きされているので詩的雰囲気はある。だが、詩とは言いづらい。エッセー風ではあるけれど、随筆と呼んだら天国の作者は怒るでしょう。敢えて分けるなら「雑文」ですが、これも心外だと頬をふくらませるに違いありません。

 Bの文章は雑誌創刊の辞であり、男性に抑圧された女性の自由と解放を求める宣言文のようなものです。いわば『青鞜』という「女性の、女性による、女性のための雑誌」創刊宣言です。
 たとえるなら、フランス革命の「人権宣言」、アメリカの「独立宣言」、現代日本の「日本国憲法」に似ています。これら三例は国語と言うより、社会科の歴史、政治経済、倫理社会などで読まれるべき文章でしょう。
 歴史や公民の授業で「明治時代、男尊女卑の世の中で女性解放を訴えた女性活動家がいた」と解説し、その一例として読まれていい。すなわち、歴史資料のような作品です。
 社会科でBを扱うなら、まず語られるのは明治という時代と社会状況であり、その具体例として本文を読むでしょう。

 ところが、Bが国語の教科書に載りました。この場合国語科はどう読むか。

(3)『原始、女性は太陽であった』を国語科で読むと

 三読法では当然のように通読し、次いで精読に入ります。ここで教師にとってどこまで深く説明するか、かなりの難しさに突き当たります。深く解説すると、社会(日本史か公民)の授業になります。作品を理解するには明治時代をある程度知らなければならないからです。逆に浅く解説すると作品の理解も浅いままです。

 たとえば、「明治時代は男性中心の社会だった。外で働くのは男、女性は家庭を守って食事に掃除洗濯。出産と子育てに追われ、内助の功・良妻賢母が理想の姿だった。『三従の教え』と言って幼い頃は父に従い、嫁いでは夫に従い、老いては息子に従いなさいと教育された。自由な恋愛、結婚は許されなかった。明治とはそんな世の中だったんだよ」と説明するとします。さて、この程度でいいのでしょうか。
 この解説によって「元始、女性は自立して太陽のように輝いていた。だが、今は男の陰で病人のように蒼白い月だ」と訴える作者の激しい思いを感じ取れるか。女性のみで雑誌を作る困難さ、「女性のなすことは今はただ嘲りの笑を招くばかりである」の意味をどれだけ理解できるか。

 と言うのは作者はなぜこの思想に到達したか、生い立ちに何があったのか、誰のどのような影響を受けたのか。また、彼女の言葉や行動に対して嘲り笑うのが男性であることは間違いないけれど、女性の多くも歓迎どころか眉をひそめた……そこまで読みとる必要があるでしょう。作者自身の研究も不可欠です。
 要するに、平塚らいてう『原始、女性は太陽であった』は芥川龍之介の『鼻』と違って明治・大正時代と切り離せない、作者と不可分の、私小説のような作品なのです。

 これは一読法でやっても、同じ困難が伴います。
 たとえば、Bの冒頭を社会の例題一同様、生徒に「疑問や気付いたこと」を書き込んでもらうとしましょう。以下のように板書できます。

 [ 『原始、女性は太陽であった』冒頭部一読法板書例 ]
-------------
 元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。
 ↑「そんなことわかるの?」「なぜ太陽であったと言うの? 今はどうなの?」「真生の人ってどういう意味?」

 今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である。
↑「今っていつのこと?」「なぜ女性は月だと言うの?」「他によって輝くって月は太陽があるから輝くのだから当然だ」「青白い月の輝きをなぜ病人と言うの?」「そうか。昔女性は自ら輝く太陽だった。だが、今は太陽が男で女性は月だと言うのか!」

 さてここに『青鞜』(せいとう)は初声を上げた。
↑「『青鞜』って何?」「初声って?」

 現代の日本の女性の頭脳と手によって始めて出来た『青鞜』は初声を上げた。
↑「現代の日本の女性とは?」「男性は雑誌に全く参加しなかったの?」

 女性のなすことは今はただ嘲りの笑を招くばかりである。
↑「今はただ嘲りの笑みって誰があざけるの? 誰がバカにしたように笑うの? 男?」

 私はよく知っている、嘲りの笑の下に隠れたる或ものを。
↑「嘲りの笑みの下に隠れた「或もの」って何だ?」
-------------

 これらはもちろん私が高校生になったつもりでつぶやいた[疑問や感想]です。現役高校生でもこれくらいはつぶやけると思います。

 冒頭部から早くも最大の壁にぶつかります。「原始」はどこまでさかのぼるのか、そして「今」とはいつか。読者が読む時点の「今=現代」か。
 作者読みをすれば、この「今」は明治時代(後半)であるとわかります。しかし、すぐに昔の話としていいのかどうか。「現代の女性もいまだ男の陰ではないか」と考えつつ読み進めることは可能だし、そうすべきかもしれません。
 この教材をやった三十年前、中高の家庭科は女子のみ必修でした(男女必修になったのは一九九三年以後)。就職の求人票は男女別々であり、「男女雇用機会均等法」ができたのは一九八六年のことです。
 また、一九八九年の参議院選挙では社会党が大勝して与党を破り、女性議員が多数当選しました。歴代初の女性委員長土井たか子氏が「山が動いた」と与謝野晶子の言葉を引用して男女平等、女性の活躍を予感させる時代でもありました。

 が、それから三十年。今も国会議員に占める女性議員の比率は1割強で先進国最低の水準です。「女性への差別と偏見」は明治時代だけの話ではない。女性が参政権を得るには昭和二十年の敗戦と米国占領まで待たなければならない。女性活躍社会の到来と言われながら、男性の意識は変わっただろうか。中年男性の「子育ては妻に任せている」との言葉をどれだけ聞いたことか……などなど三十年前であっても「現代」であっても、語りたくなることが多々あります。

 いずれにせよ、三読国語授業では普通これらの疑問を先生が質問として生徒にぶつけます。しかし、この作品の場合、答えられる生徒はほぼ皆無でしょう。冒頭部以降の文章も「三従の教え」など、歴史的知識がなければ、答えられない箇所が頻発します。

 ちなみに、私がこの作品を授業でやったとき、日本史において明治時代が終わっていたかどうか、記憶にありません。高校生だから中学校である程度は学んでいたはず。しかし、生徒に明治時代の社会状況を質問してまともな答えが返ってくるとは到底思えません。結局、私が説明するしかなく、そのいちいちについて解説すれば、一体どれくらい時間がかかることか。しかもそれは詰まるところ社会の解説であり、社会科の講義です。

 これが同じ明治時代に書かれた作品でも、漱石とか鴎外、島崎藤村、芥川龍之介などの作品は多くの[?]がつけられたとしても、社会科の解説になることはありません。質問に対する答えは作品内の記述をヒントとして考えたり、答えることができるからです。志賀直哉など私小説作家の作品でさえ、ほぼ作品のみで解釈できます(私はむしろ安易に作者の事実から説明すべきではないと考えています)。

 いかがでしょうか。私が平塚らいてう『原始、女性は太陽であった』を授業でどう扱うか悩み、結局単元学習を選択したわけがわかってもらえたのではないかと思います。私はこの教材を社会科でやろうと決めました。
 しかし、講義型授業にはしたくない。ならば、社会科本来の「調べる活動」を生徒にやってもらおう――そう考えて単元学習としました。「本文の解釈」・「作者平塚らいてう」・「雑誌『青鞜』」・「江戸時代の女性と明治時代の女性」・「明治時代に輸入された西洋思想」・「参政権の歴史」など、テーマを設定して班毎に調べてもらい、発表させました。

 以前書いたようにこのときのクラスはとてもよく調べてくれました。しかし、私の内心は「学校の図書室資料では単元学習はできない」との失望であり、以後単元学習をやることなく退職しました。
 また、「生まれて初めて国語らしい授業をやった気がする」と感想を言った生徒は《調べて答えを探す》活動にとても充実感を覚えたことがわかります。
 それを聞いた私は「本当は国語じゃなく社会科で行われるべき活動なんだよ」と言いたかったところです。もちろん彼女の感動に水を差すようなことは言いませんでしたが。

 このように、平塚らいてう『原始、女性は太陽であった』は国語教材というより社会の資料集に掲載されるべき文章でした。そして、社会の授業で明治時代を採りあげたとき、この文章を読むのが相応しいと思います。理想を言えば、社会科で「作品の内容を調べる単元学習を行うこと」です。調査結果を報告して生徒同士議論すれば、より深く明治時代を、女性の実態を知ることができるでしょう。

 しかし、私は社会科の先生にこのことを働きかける気持ちにはなれませんでした。理由は何度も書いた通りです。国語教員にとって資料不足の図書室で調べる活動ができないなら、社会科の先生にとっても同じこと。それに、この部分だけ深く掘り下げても、大学入試にはまず出ない。出ても点数2点分くらい。もっと全体を、広く浅くやりきる――それが日本史の最大目標なのですから。

 以前も書いたように、私は日本史の先生を責めている訳ではありません。中学や高校の図書室に大学並みの資料を用意できないのは国の責任だし、高校入試や大学入試が項目・年号暗記確認テストに終始している以上、現場はそうせざるを得ないからです。

(4)国語と社会の連携

 今振り返れば、社会科と国語科が連携すれば良かったかなと思います。日本史の授業では省略されることの多い資料の読み。それを国語科で行うことです。日本史で明治時代をやっているとき、現代文で『原始、女性は太陽であった』を読むという形があります。

 特に高校では古文を学びます。たとえば、万葉集の「貧窮問答歌」は当時の民衆の生活を知る貴重な資料として社会の教科書や資料集に入っています。が、全文掲載されることはないようです。古文教科書にも(調べた限りでは)載っていません。
 これも日本史で奈良時代をやっているとき、古文で「貧窮問答歌」をやることができます。
 例題一に採りあげた江戸時代の鎖国についても、幕府の指示や長崎関係者の言葉は古文です。それを国語古典で読む(口語訳する)活動は正に国語で学んだことを社会で応用する、あるいは、社会で学んだことを国語で補強する実践だと思います。

 私は「おもしろ古文」と題して自主教材をやったことがあります。「貧窮問答歌」は全文紹介して口語訳させました。また、『平家物語』の「鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし」や『仁勢(にせ)物語』も採りあげました。前者は義経が一ノ谷の合戦で平家の背後を奇襲攻撃した有名な話です。読めば迫力満点、とても面白いです。後者は『伊勢物語』の逐語的パロディー作品。江戸時代の下世話な話が多く、高校の教科書にはまず載りません。

 ちなみに、「おもしろ古文」は1年間の4分の1くらいやりました。生徒は結構楽しく読んでいました。高校は偏差値レベルで言うと中位校で、しかも管理職には内緒でした。が、偏差値上位校では生徒から「こんな古文はやらなくていいです」と言われたかもしれません。管理職も知れば「源氏物語をやってください」と要求したでしょう。

 高校の国語科(古典)も大学入試を意識せざるを得ません。大学入試に「貧窮問答歌」は出ません。鎖国に関連した文章もまず出ないだろうし、「鵯越の逆落とし」も出たことがないだろうと思います。
 入試に出ない理由は単純で古文にとって簡単すぎるからです。別に知らなくてもいい難語句がある程度で、文法的にはとても簡単な古文。敬語多数で主語が省略され、難解な『源氏物語』と比較になりません。

 さて、今節の小見出しは「『原始、女性は太陽であった』は国語教材か」と疑問形で書かれています。末尾を「~国語教材であろうか」と書けば、反語的であり、「いや、国語教材とは言えない。社会の資料だ」となります。
 ここまでの流れでは「『原始、女性は太陽であった』は現代文の教科書に載せるべきではない」との結論となってもおかしくありません。

 しかし、私は(矛盾するようですが)「『原始、女性は太陽であった』は現代文の教科書に掲載されてもいい」と考えます。なぜか。

 理由は社会科に資料を読む時間も余裕もない以上、国語科でそれを行う――つまり単元学習を実行することは生徒の読解力・調査力の養成に大いに貢献すると思われるからです。
 インターネットのなかった三十年前、中高では「調べる活動」そのものがほぼ不可能でした。しかし、今や生徒個人が大学並み、いや国会図書館並みのデータとつながっています。各人の力に応じて事典を調べる活動、さらに参考文献を読む活動が可能となりました。パソコン1台、タブレット一つ持っていれば、一読法も単元学習も可能な世の中となったのです。

 ただ、ここでも最大の難関は高校・大学入試です。入試が些末な項目暗記主義を変えてくれない限り、中学も高校も「調べる活動」を重視する授業に変えることができません。
 なのに、大学の先生方から聞こえてくるのは「最近の学生は深く物事を考えていない。なおかつ知っていい常識的なことさえ知らない」という嘆きです。

 不思議なことです。入試が求めているのは「広く浅く知識を持っている学生」であって、「何か深く物事を追求している学生ではないでしょう」と言いたくなります。
 項目暗記主義は入試が終わればどんどん脳内から欠落していきます。すぐ忘却の彼方に消え失せます。大学史学科でない限り、「平安時代はどんな時代だったか、末期になって武士が登場したのはなぜか」と問われても、「平安時代が始まったのは鳴くよウグイスだから七九四年ですね。一一九二年に頼朝によって武士の時代が始まりましたね」くらいしか答えることができません。「江戸時代に幕府はなぜ鎖国をやったのか。なぜキリシタンは弾圧されたのか」と問われて答えることができる人(学生)が何人いるでしょう。

 ここで突然ですが、二〇二一年の大学入試改革について触れます。「大学入学共通テスト」は記述式問題が初めて取り入れられます。項目暗記偏重の反省からかと思ったら、記述式問題は国語現代文と数学のみで、社会と理科は依然としてマーク式のままとか。
 結局、昔も今もこれからも、学生に求められているのは脳内パソコンの優秀さでしかないことがわかります。
 私は入試についてある極論を考えています。それは全ての試験において受験者にスマホ・タブレット所持を認めることです。些末な項目暗記はパソコンに任せればいい。これからの人間に求められているのは記憶力の優秀さではないと思うからです。

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