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2019.09.26

別稿『一読法を学べ――学校では国語の力がつかない』第20号実践編九 (その二の1)

 前号は一読法と三読法を交えた実践解説となったので、ちょっとわかりにくかったかもしれません。そこで『鼻』の授業実践後半に入る前に、前半を一読法実践に絞っておさらいすることにしました。
 ところが、さらりと復習のつもりだったのに、書き始めたら今回も長くなってしまいました。そこで、「一読法による前半の授業実践」のみの公開といたします。後半はさらに次号です。なお、この一読法実践は実際の授業に基づいていますが、想定問答とご理解下さい。

 九 一読法はなぜ通読をしないのか(その二) [小見出し]
 (1)一読法による『鼻』の授業実践(前半復習)
 (2)芥川龍之介『鼻』の授業実践(後半)    [以下次号]
 (3)なぜ通読をやめようと言うのか

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 本号の難読漢字
・沙弥(しゃみ)・供奉(ぐぶ)・勿論(もちろん)・中童子(ちゅうどうじ)・惧(おそ)れる・毀損(きそん、傷つくこと)・喧伝(けんでん)・筈(はず)・極(きわ)めて・操(あやつ)る・聴従(ちょうじゅう)・茹(ゆ)でる・嗤(わら)う・抑(おさ)える

********** 小論「一読法を学べ」**********
 『 一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』 20

 九 一読法はなぜ通読をしないのか(その二)

(1)一読法による『鼻』の授業実践(前半復習)

 私は『鼻』の冒頭二百字ほどを「最初の立ち止まり地点」として一時間使いました。三読法の通読ならすぐに読み終える部分で、なぜ冒頭から時間をかけてあれこれふくらませるのか。
 そのわけは「どのような書き込みがなされたか」を見れば、おわかりいただけると思います。以下、漢字や難語句の[?]を除いた一読法のつぶやき例です。
 なお、池の尾とは今なら人口数千人くらいの地区、沙弥(しゃみ)とは修行僧、内道場供奉(ぐぶ)とは宮中に出入りできる高僧であり、京奈良で修行僧を含めた僧侶数万人の中に十名しかいないと確認した上での書き込みです。

 ※ 芥川龍之介『鼻』の冒頭、書き込み例
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 禅智内供(ないぐ)の鼻と云えば、池の尾で知らない者はない。
 [みんな知っている理由は? 鼻が長いから・[「有名な人だから」は追加]]
 長さは五六寸あって上唇の上からあごの下まで下がっている。形は元も先も同じように太い。いわば細長い腸詰めのような物が、ぶらりと顔のまん中からぶら下がっているのである。
[自分が内供だったらかなり悩むと思う]
 五十歳を越えた内供は、沙弥の昔から内道場供奉の職にのぼった今日まで、
[内供の年齢! 僧侶を志したのは二十歳前後か なぜ高僧になれたのか? 産まれたとき母や父、周囲の大人はどう思っただろう? 子ども時代は、少年時代はどうか?]
 内心では始終この鼻を苦に病んできた。
[自分一人しかいなければ心細いだろうし、当然の気持ちだ]
 勿論表面では、今でもさほど気にならないような顔をしてすましている。
[「今でも」とあるから、昔もそうだったんだ 誰にも相談しなかったのだろうか? 内心と外見にうそがあるけれど、普通同じようなことを考えるのではないか]
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 生徒の書き込みはここまで多くありません。私が質問したことも含めて掲載しました。
 早くも一行目から、私は他の可能性について質問を開始します。
「『池の尾で知らない者はない』とある。みんなが内供を知っている理由は?」と。
 生徒は「鼻が長いから」と答えます。そして、それだけしか答えません。
 私は「他にあるだろう。もっとよく読め」と考えさせます。「先を読まなくていい。この部分に答えがあるじゃないか」と付け足して。
 そして、「内道場供奉だから、身分の高い有名な僧だから」との答えを得ます。
 もちろん鼻が長いという、めったにない特徴はかなり評判になる理由ではある。がしかし、村中、町中知るとなると、それだけでは難しい。やはり村長さんとか町長さん、つまり、みんなの前に出る機会が多い人、有名な人であること。それなら「知らない者はない」と言えます。

 このへん「一言一句注意して読もう」という所だし、最初の段階で「内道場供奉」の意味を確認しなければならない理由です。
 以前「禅智内供の長い鼻は時代を問わない、僧侶であることも関係なく、誰でも起こる可能性がある」と書きました。それは「どこか別世界のお話ではない。今を生きる自分にも起こりえることとして考えてほしい」ゆえの言葉です。
 しかし、作品をしっかり理解するためには内供の年齢や身分を無視するわけには参りません。五十歳とは平均寿命五十年前後の時代ならかなりの高齢であること。また、内供は高名な僧であり、今で言うなら、職場の長とか学校の校長先生、議員など「人前に出る機会の多い人」であることは見落としてはならない記述です。平の僧侶だったら、内供の悩みはさほど深くないかもしれません。

 ――と書くと、細部を注意して読んでいるとは言えません。「内供は平の僧侶時代から鼻の悩みが深かった」と読みとれる表現があるからです。「どの言葉からそれがわかるかな?」と質問します。答えは「始終」と「今でも」。
 本文には「沙弥(しゃみ)の昔から内道場供奉(ぐぶ)の職にのぼった今日まで、内心では始終この鼻を苦に病んできた」とあります。「始終」とは「始めから終わりまで」の意味。つまり、内供はあまり人に知られていない修行僧時代から今日まで、長い鼻をずっと気にしていたことがわかります。
 しかも、それは「気にしていた」程度の話ではない。「苦に病む」を辞書で確認すると、「たいそう気にして思い悩む。苦にする」とあり、内供の悩みがものすごく深かったことがわかります(ここで逆の質問として「内供の悩みがとても深かったことがわかる表現がある。それはどこか?」と聞くことも可能です)。
 もう一ヶ所「表面では、今でもさほど気にならないような顔をしてすましている」の「今でも」にも注目しなければなりません。ここには「昔もさほど気にならないような顔をしてすましていた」が隠れています。そして、五十歳を過ぎた《今でもそれは変わらない》との意味です。
 このように、「苦に病む・始終・今でも」の言葉は内供の悩みが深刻であること、若い頃からずっと続いていることを的確に表現しています。「ぼーっと読んではいけない」ところです。そして、□を囲って余白に抜き出すべき重要語は「内心」と「表面」であり、そこに書きたい言葉として「内供のうそ!」でしょう。

 次に、質問というより「想像してみよう」と呼びかけることがあります。それは「もしも自分の鼻が長かったら、どうだろう?」という問題提起です。
「内供は五十歳を越えるまでずっと鼻が長いままだった。赤ん坊のときは気付かない。たぶん二歳か三歳で自分が人と違うことに気付く。それから子ども時代、少年時代、やがて僧侶を目指した。修行僧の時代を経て徐々に身分が上がり、やがて宮中に出入りできるほどの出世を果たした。彼の人生で何が起こったか。もしも自分の鼻が長かったらどう思い、どう感じるだろうか?」と。これは主として男子に聞きます。
 一方、女子生徒に「もしも君が産んだ子が鼻が長かったらどうだろう」と想像させたのはこのときです。この唐突な質問に「いやだあ」との声はほんとうに出てきます。そして、「鼻じゃなくても障害を持って産まれることは普通にある。そのとき君は我が子を愛せるかい?」とも尋ねます。

 このように、わずか二百字足らずの冒頭にはものすごく深い内容がこめられています。
 それをさらりと読み流せば、作品の理解度三〇のレールに乗って、浅い理解と誤解を積み重ね、ひたすら終点に向かって突っ走るだけです。その先渓谷の鉄橋がなくなっていても、列車は止まれず、谷底に落下するでしょう。
 ちなみに、このたとえはあるSF映画を思い浮かべています。現在を変えるには過去を変えねばならない、未来を変えるには現在を変え、さらに過去を変えねばならない。それは同時に自分を変えることでもあった――というタイムトラベルの名作でした。
 しかし、我々はタイムマシーンを持っていません。今後もこれだけは発明されないでしょう。我々にできることは現在地点の選択だけ。どう考えてどう生きるか。その選択が近い未来、遠い未来に影響を与えると意識して、強く感じて決断しなければなりません。だからこそ、ある地点で立ち止まって未来をあれこれ想像する必要がある。学校において未来を読む訓練をするべきだ、と私は考えています。

 それはさておき、冒頭の精読を終えると、「では、ここで抜き出すべき重要語は?」と聞いて以下の語句や表現を板書します。
--------------
 ・禅智内供、五十歳、生まれたときから長い鼻、今は有名な僧侶、内道場供奉
 ・[内心]始終この鼻を苦に病んできた。
 ・[表面]今でもさほど気にならないような顔をしてすましている。
   =内供の生き方・考え方、内供のうそ!
--------------

 ここに早くも心の中と外見の《うそ》が描かれていることがわかります。「内心」と「表面」は余白に抜き出すべき重要語であり、「さほど気にならないような顔をしてすましている」も傍線が引かれるだけでなく、余白に書いたり、[!]を付けて「内供の生き方・考え方、内供のうそ!」とまとめておきたいところです。

 よって、冒頭の段階で未来予想をすれば、この先どんなことが起こるかわからないけれど、「鼻をめぐって何か事件が起こり、そのとき内供の内心と表面が一致していないことは事件の原因になるかもしれない」と推理することができます。

 さらにもう一つ。作品の末尾まで読み終えたとき、私は「内供が中童子に対して暴力までふるう事件を起こした。その原因が周囲だけでなく内供にもあるとすれば、どこまでさかのぼれるだろう」と聞きます。
 一読法なら、どんどん前にさかのぼって「冒頭にあった内供の内心と表面の違い、うそをついていたこと」にたどりつくのはさほど難しいことではありません。

 ただし、この答えを得たときも、「だから、内供だけに起こった事件で自分には関係ない」と感じてほしくない。そこで、以下のように話します。
「君たちはみんな長い鼻の持ち主ではない。では、誰にも打ち明けていない、打ち明けたくない何か秘密は持っていないだろうか。たとえば、家庭内にもめ事やトラブルがある。あるいは、最近友人との間が気まずくなっているとか、自分の性格について悩んでいる……などなど内心は気にしていることがある。けれど、表面は気にならないような顔をしてすましている。そんなことって誰でも持っているんじゃないかい?」と。つまり、内供の出来事はやはり他人事ではない、あくまで《自分の問題》として感じ、考えることを求めます。
 自分の問題として受け止めるためにはさあっと読んではダメです。一言一句注意して読む必要がある。冒頭からこんなにも立ち止まってあれこれ考えるわけは「いろいろな物事を自分のこととして感じ考える」ためであり、未来をしっかり予想するためなのです。

 そして、ここまで精読しておくと、作品の未来として次のような予想も可能です。
・今後内供の内心と表面のうそがもっと描かれるだろう。
・周囲の反応はここにない。これから描かれるだろう――と。

 後者は「そこまで予想できるだろうか」と思われるかもしれません。
 しかし、内供は山奥で一人暮らしているわけではありません(もしもそうなら、この話は全く異なった展開を示すでしょう)。彼は当時の首都である京近くの寺に住み、弟子を抱え、葬式に出てお経を読み、喪主らと付き合い、法事にも出るはず。宮中にまで出入りして天皇皇族・貴族高官の方々とも言葉を交わす……と想像すれば、周囲の人々は内供をどう見てどう付き合ったか、それは避けることのできない過去であり、現在であり、これから起こるはずの未来です。

 このように冒頭の精読と未来予想を終えると、作品を読み進めます。そして、予想どおり内供の「現在」が描かれます。詳細は作品を読んでもらうことにして抜き出した重要語と表現を掲載しておきます。

---------------
※ 内供の現在
・自尊心 長い鼻に苦しんだ最大の理由は「自尊心が傷つけられる」こと
 内供は日常の談話の中に、鼻という語が出てくるのを何よりも惧(おそ)れた。=鼻の話題を避ける、鼻について語らない。
※ 自尊心の「毀損(きそん)」を回復しようと試みたこと
・消極的苦心 鏡を見ながら長い鼻を短く見せる工夫、誰か長い鼻を持つ人はいないか探す。絶えず人の鼻を気にした。書物の中に鼻の長い人を探して「せめても幾分の心やりにしたい」と思った。――効果なし
・積極的方法 カラスウリを煎じて飲む、ネズミの尿を鼻に塗る。――効果なし
 一人でもいれば安心できる。だが、自分一人しかいない=不快、心細さ
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 ここには冒頭と結びつけられる表現があります。「内供は日常の談話の中に、鼻という語が出てくるのを何よりも惧れた」は彼の「内心」の気持ち。書かれていないけれど、「では外見は?」と問えば、冒頭の「今でもさほど気にならないような顔をしてすましている」につながります。
 さらに、「内供は自分の悩みが深刻であること、消極的、積極的にいろいろ試みていることを誰かに打ち明けただろうか」と問えば、ほぼ全員「打ち明けていないと思う」と答えます。
「根拠は?」
「昔も今もさほど気にならないような顔をしてすましている、とあるから」、「日常の談話の中に鼻という語が出てくるのを何よりも惧れた、とあるんだから話すはずがない」
「じゃあ聞きたい。内供はなぜ悩みを打ち明けないんだ?」と問えば、「自尊心が傷つけられるから」もあっさり出てきます。
 このへんで「自尊心」について調べたいところですが、私は深入りしません。というのは「自尊心が傷つく」は「心が傷つく」といったニュアンスで使われているからです。

 私はむしろここで作品に《書かれていないこと》を想像させます。
 まず一つ目は長い鼻をめぐる笑い話のようなエピソードのところ。食事の際は鼻もたげの板を使って弟子に介助してもらわねばならない。ところが、あるとき弟子の代わりをした少年僧の「中童子」がくしゃみをしたせいで内供の鼻がお粥の中に落ちてしまった。この話は「京都にまで喧伝(けんでん)された」とあります。
 書かれていないけれど、おもしろおかしく話題を伝えた起点は中童子であろうことを確認し、「このとき内供は中童子に対してどのような態度を取っただろうか?」と質問します。生徒からは「さすがに怒っただろう」とか、「いいよ、いいよと平静を装ったのではないか」などの答えが出ます。ここではこの程度にとどめて「どちらが正しいだろうか」といった質問はしません。

 もう一つは周囲の人の内心と外見です。「内供の悩みが深刻であること、鏡を見ながら工夫していること、いろいろ治療法を試していたこと。周囲の人はそれに気付いていただろうか」と。これも本文にありません。
 生徒の考えは「内供が内心を明かさないんだから、気付くはずがない」から、「全員じゃなくても誰かは気付いているかもしれない」に分かれます。また、「気付いていたとしても、内供が鼻のことを話題にしないのだから、周囲の人も気の毒だと思って鼻の話題を避けるのではないか」とかなり的確な推理も出てきます。が、ここもあまり深入りしません。
 この問いはある意味「周囲はどうだろう?」との疑問であり、(ここまで書かれていないと言う意味で)未来予想です。この後ある存在が描かれるので、この答えがわかります。それは都で治療法を見つけた一人の弟子です。

 作品はここまでのまとめでもあるかのように、内供の現況について「しかし何をどうしても、鼻は依然として、五六寸の長さをぶらりと唇の上にぶら下げているではないか」と書かれます。ここにも見落としてはいけない表現があります。それは文末の「ではないか」です。
 そこで「~ではないか」を辞書で確認します。これには「疑問・反問」だけでなく「詰問」の意味もある。たとえば、「誰か来たか」は単なる疑問。だが、「誰か来たのではないか」や「たった今言ったではないか」となると、詰問口調になり、非難の意味合いが込められる。
 よって、「ぶら下げているではないか」には「内供の不快や不安、心細さ。長い鼻への恨み。もうどうしようもできない、死ぬまでこのままか、といった絶望感まで読みとれる」と話します。
 ここはプロ作家の巧みなところです。「内供の内心を表す言葉をたくさん並べるのは普通の作家。優秀な作家は文末を『ではないか』とすることで、それを表そうとする。逆に言うと、文章を読むときはこの部分に内供の内心が描かれていることに気付かねばならないよ」と解説します。

 次の段の冒頭は「ところがある年の秋、内供の用を兼ねて、京へ上った弟子の僧が、知己(しるべ)の医者から長い鼻を短くする法を教わって来た」とあります。
 ここは「おやっ、話題が変わったぞ」とつぶやきたいところです。
 一読法なら接続詞の「ところが(話題転換)」、時候を示す「ある年の秋」――この二つを読んだだけで、「次の変化がやって来るぞ!」と気付きます。当然傍線を引いて上部に抜き出します。

 前号で一読法の立ち止まりとは「事件が起こるはるか前であり、何かしら変化が起こったときであり、そろそろ事件が起こりそうな地点である」と書きました。「長い鼻を短くする法を教わって来た」を読めば、何かしら変化が起こる、との予感が働きます。
 なお、「知己」は知人、知り合いの意味であり、「ちき」と読むのが本来ながら、「ここは《しるべ》と読ませている」と補足します。

 こうして作品は弟子が知った治療法を試す場面へと続くのですが、その前に一筋縄ではいかない奇妙な展開を見せます。内供は「そうか。すぐやってみよう」と言わないのです。ここでの最重要語はもちろん「策略」。板書事項が以下、

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※ 弟子の僧が長い鼻を短くする治療法を発見
・内供の策略
 「いつものように、鼻などは気にかけないという風をして、わざとその法もすぐにやってみようとは言わずにいた」、「一方では、気軽な口調で、食事の度毎(たびごと)に、弟子の手数をかけるのが、心苦しい」と言って「内心では勿論弟子の僧が、自分を説き伏せて、この法を試みさせるのを待っていた」というような態度を見せる。
・弟子の反応
 「内供のこの策略がわからない筈はない。しかしそれに対する反感よりは、内供のそういう策略をとる心持ちの方が、より強くこの弟子の僧の同情を動かした」ので、「口を極めて」この治療法を勧めた。
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 この部分一読法なら、作品冒頭で「内心・表面」を抜き出しているので、「内心では勿論」のところですぐ「内心」を□で囲みます。そして、その前の内供の様子が描かれたところに「表面」と書き込むことはさほど難しいことではありません。内供の内心と表面の違いが現れた部分だとわかります。
 ところが、後半の弟子の反応が描かれたところは、一読法でもさらりと読み流す可能性が高い。ここは「策略」云々のところで「おやっ?」とつぶやいて、「なぜこの弟子は内供の策略に気付いたのだろうか」との疑問を書き込んでほしいところです。が、「策略・反感・同情」を余白に抜き出せても、「内供のこの策略がわからない筈はない」に傍線を引き、[なぜ?]と書き込める生徒はなかなかいません。

 これは一言一句注意して読む一読法がまだ身についていないからだと言えるけれど、そうとも限りません。作者が「内供のこの策略がわからない筈はない」と断定しているからです。
 私たちはこれを読むと、「この件は誰でも気付く策略なんだ」と思ってしまいます。だが、そうだろうか(と問わねばなりません)。
「そもそも」と私は尋ねます。「我々は人が仕掛けた策略を簡単に見抜けるかい?」と。
 別に近年流行りの特殊詐欺を例に出す必要もありません。生徒は「難しい。特に普段から付き合っている人だと、策略を仕掛けるなどと思わない」と答えます。
 だからこそ、この場面も「誰でも気付く策略だろうか。この弟子はそれが策略だとなぜ見抜いたのか」について考えねばなりません。

 その前に「策略」の意味を確認するため、「策」と「策略」に分けて辞書を引きます。同時に「よく使われる語句に『策を□(ろう)する』がある。この漢字書けるかな」と尋ねて「策を弄する」も確認させます。
 まず「策」を調べれば「はかりごとや計画」の意味であり、物事をうまく進めるための手段・方法であること。政策・対策の「策」であり、別に悪い意味ではない。
 だが、策略になると「自分の目的を達成するために相手をおとしいれるはかりごと」となってかなり悪いニュアンスが含まれる。また、「弄する」には「相手をもてあそぶ。思うままに操る」とあって「策略」・「策を弄する」はかなり響きが悪い言葉であると確認します(余談ながら「弄」の訓読みは「弄(いじ)る」であること、部首は下の部分で「こまぬき・にじゅうあし」と呼ぶから、「王に、にじゅうあしと覚えよう」と言います)。

 次に治療法を聞いたときの内供の反応を細かく分けます。
-----------------
1 いつものように、鼻などは気にかけないという風をして……すぐにやってみようと言わない。=外見
2 気軽な口調で「食事の度毎に、弟子の手数をかけるのが心苦しい」と言う。=言葉
3 内心では勿論弟子の僧が自分を説き伏せて、この法を試みさせるのを待つ。=内心
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 さらっと読むと、内供の様子が書かれているように見えるけれど、よく読めば[1・2]は目に見え、耳に聞こえるけれど、[3]は内供の心中であり、内供がそのように語っているわけではないことがわかります。
 これを逆に言うと、[3]が内供の内心の言葉であることを把握していないと、一体どこが内供の「策略」なのかわかりません。
 ところが、作者はずいぶんあっさりと「内供のこの策略がわからない筈はない」と書いています。これは内供の内心でも弟子の言葉でもない、作者の解説である――このことも気付かねばなりません。
 弟子から見てわかることは内供の外見と内供の言葉だけであってその内心はわからないはずです。「では、この弟子はなぜ内供の言葉や態度を見てそれが策略だと見抜いたのだろうか」と問います。

 ここで先程の質問――周囲の人の内心と外見について問うた「内供の悩みが深刻であること、鏡を見ながら工夫していること、いろいろ治療法を試していること。周囲の人はそれに気付いていただろうか」が意味を持ってきます。
 そのとき生徒の答えは「内供が内心を明かさないんだから、気付くはずがない」から、「全員じゃなくても誰かは気付いているかもしれない」に分かれました。
 すると、「そうか。内供の悩みに気付いていた一人がこの弟子だ!」との言葉が出てきます。
「そうだと思う。少なくともこの弟子だけは内供の悩みが深いこと、表面は気にしない風をよそおっていること、実はひそかにカラスウリを煎じて飲んだり、ネズミの尿を鼻に塗っていることを何かの拍子に知ったと考えられる。だからこそ、彼は内供のために何かしたいと思い、京都まで出かけたとき、知人に『長い鼻を短くする治療法はないか』尋ねた。相手が中国渡来の僧だったことも、日本では治療法がないと知っていたからだろう。では、この弟子の心にある思いは?」――と聞けば、「同情」の言葉が返ってきます。

 さらに続けて「弟子は思ったはずだ。だったら、正直に悩みを打ち明けて『すぐにでもやってみよう』と言ってくれればいいではないか。ところが、内供様はそう言わない。弟子の方から熱心に勧めるのを待っている」と。
 弟子は内供の本心がわかった。だが、外見は大したことではないとすましている。その一方で「食事の時は弟子に苦労をかける」と心にもないことを言う。いや、それは本心の言葉であろう。だが、治療に関しては自分から「ぜひやってみたい。やってくれ」と言わない。弟子の方から「ぜひ治療してみましょう」と言わせようとしている。
 かくして弟子は内供の内心がわかるゆえに、内供の反応や言葉が策略だと見抜いた。
「では、内供の策略に気付いた弟子の心中を表す言葉は?」と聞けば、「反感」と返ってきます。操られているとわかって気持ちのいい人はいないでしょう。

 弟子についての考察を終えると、今度は内供が策略を用いた理由を探ります。
「弟子の僧は内供の言動が策略であることを見抜いて同情と反感を抱いた。では、策を弄した内供はどうだろう。それが悪いことと言うか、相手に反感を抱かせるようなことだと思わなかったのだろうか」と。
 もっとも、この答えはすぐに出てきます。
「先生。悪いと思ったら、やらないよ。策を弄しても悪いと思わないからやるんでしょ」
「そうだな。その通りだ。でも、もう一つ策を弄する理由があるだろ?」
 ――と聞けば、この答えはそう簡単に出てきません。悪いと思っても、なぜ策を弄するのか。

 そこで、内供が全僧侶の中から十名しか選ばれない高僧であること、すなわち優秀な人であること。この弟子は内供の策略に気付いたけれど、「他の僧だったらどうだろう?」などとヒントを出すと……、
「そうか。内供は自分の策略に相手は気付かないと思ったんだ」との答えを得ます。
「たぶんそうだろう。昔の戦でも敵の背後を奇襲するなど策略が使われる。でも、それが策略だと見抜かれたら、逆に返り討ちにあう。だから、策略とは相手に気付かれないようにやる必要がある。内供は相手に気付かれないだろうと思って策を弄した。だが、この弟子は策略に気付いたわけだ。そうなると、弟子が返り討ちにする方法が一つあるね。漫才なんかでもよく使われるやり方だが……」と聞くと、
「この弟子が『わかりました。それじゃあ、治療法を試すのはやめましょう』と言うことですか」との答えが返ってきます。
「内供は試したくて仕方がないんだから、そう言われたら困るだろうねえ。でも、弟子はそう言わなかった。この場では同情が勝ったからだ。しかし、今後はわからないよね」と話します。

 さて、これをもって「ここの解釈は一件落着」と言えるでしょうか。
 内供は策略を用いても相手は気付かないだろうと思った――との解釈は「内供がなぜ策を弄したのか」の答えではありません。私はさらにもう一段の深読みを求めて次のように問題提起します。

「内供は弟子が策略だと気付かないだろうと思って策を弄した――この解釈は当然あり得る。詐欺師の策略と同じだ。だが、内供はもしかしたら弟子が策略だと気付いても構わないと思ったかもしれない。そして、弟子もまた内供の策略に気付いたが、ここは同情が勝ったので、気付かない振りをして『外来の新しい治療をやってみましょう』と口を極めて説得した……この可能性はないだろうか」と。
 生徒からは「そりゃあ、先生考えすぎです。お互いそんなことまで考えて喋ったり行動するとは思えません」との反応が返ってきます。

「じゃあ、内供と弟子のやり取りの部分をもう一度よーく読んでごらん」と言って以下を再読させます。
 本文は連続していますが、ここは改行して三つに分けます(読者各位も先を読まずに立ち止まって考えてみてください)。
--------------
・(内供は)気軽な口調で、食事の度毎に、弟子の手数をかけるのが、心苦しいというような事を言った。内心では勿論弟子の僧が自分を説き伏せて、この法を試みさせるのを待っていたのである。
・弟子の僧にも、内供のこの策略がわからない筈はない。しかしそれに対する反感よりは、内供のそういう策略をとる心持ちの方が、より強くこの弟子の僧の同情を動かしたのであろう。弟子の僧は、内供の予期通り、口を極めて、この法を試みることを勧め出した。
・そうして、内供自身もまた、その予期通り、結局この熱心な勧告に聴従することになった。
--------------

 注目したい言葉は内供の「勿論弟子の僧が自分を説き伏せて」の「勿論」と、二ヶ所出てくる「予期通り」です。内供は何を予想したのか。なぜ予想したのか。

 これまでの内供を振り返るなら、ずっと長い鼻に苦しめられてきた。だが、外見は何でもない風を装ってきた。治療法はなく、もうあきらめかけていた。そこへ弟子が新しい治療法を見つけてくれた。それも中国渡来の治療法だ。内供の本心は「すぐにでも試したい。飛びつきたい」であろう。
「だが、この気持ちを正直に出せない理由が内供にはあったね。それはなぜ?」と聞けば、一読法ではすぐに答えが出ます。「内供は日常の談話の中に、鼻という語が出てくるのを何よりも惧(おそ)れた」からであり、内供の「内心と表面のうそ」です。それが昔から今も続いていた。
 内供はここでも「新しい治療法をすぐにでも試したい」との内心を隠し、表面はさりげなく装う。
「なぜそうまでして隠すのだろうか」と問えば、「自尊心が傷つくから」の答えも出ます。

 しかし、私は「心が傷つく」だけでなく、内供が五十歳を越えていること、僧侶の中で十人しかいない高位に就いたことからも「内心を隠したい」理由を探り、次のように話します。
「内供が内心を隠すわけはそれが過去五十年の生き方そのものだからだ。内供はこれまで人に自分の悩みを知られないことで、ずっと生きてきた。そして、僧侶になり、頑張って内道場供奉という高位にも就けた。ここで本心を明かすことはある意味そうやって生きてきた自分自身を否定することになる。それはこわい。それはしたくないんだ」と。
「ではどうするか。ここで内供は考えた。内心を明かさないまま、新しい治療を試すにはどうすればいいかと。この弟子は自分が『もういい、もういい。何をどうやっても鼻を短くすることはできない。私はもうあきらめている』と言ったら、どう出るだろうと予想した。(生徒の一人に)君がもしもこの弟子だったらどうする?」
「内供に対して同情があるし、せっかく治療法を見つけてきたんだから、ぜひ試しましょうと説得すると思います」
「そうだよね。おそらく百人中九十九人はそう言ってくれる。百人に一人くらいは『そうですか。じゃあ治療法を試すのはやめましょう』と言うやつがいるかもしれない。が、この真面目な弟子ならそんなことはない。きっと私を熱心に説得してくれるだろう。なら、私は内心を明かす必要はない。『何をどうやっても鼻を短くすることはできない』などと余計なことを言う必要はないではないか、と考えた」

 こうした心理の流れを経て内供は「いつものように、鼻などは気にかけないという風をして、わざとその法もすぐにやってみようとは言わず」、「一方では、気軽な口調で、食事の度毎に、弟子の手数をかけるのが、心苦しい」と本心を隠し、弟子が自分を説得してくれるような言葉を発した。

 つまり、内供にとって最も大切なことは自分の本心を知られないことであり、自分の言動が策略だと相手に見抜かれなければそれで良し。仮に見抜かれたとしても、自分の本心を知られるよりはまし。そう思って策を弄した。弟子は策略に気付いたとしても、きっと新しい治療法を勧めてくれると予想した。

 そして、弟子の方もこの全てを見抜いた。だが、反感より同情が勝ったので「口を極めて、この法を試みること」を勧めた。この弟子は内供が予期した路線に乗ってあげた、とも言える。
 私は最後に「『弟子の僧にも、内供のこの策略がわからない筈はない』と『内供自身もまた、その予期通り、結局この熱心な勧告に聴従する』の《も》に注意してほしい」と話します。これは内供も弟子も策略だとわかっていたことを表していると。内供は相手が策略だと見抜いても、この策略に従ってくれるだろうと予想できたから、策を弄した。
 要するに、まるでドラマの脚本があるかのように、内供も弟子も全てわかった上で「予期通り」の流れを演じたのではないか――と私は解説します。

 この説明を聞いた生徒の反応は「そうかなあ」と懐疑的であったり、「そこまで考えて喋るなんて内供さんが嫌いになる」とか、「大人ってめんどくさい」もありました。
 中には「どうして内供はそんなに自分の悩みを隠すんだろう」も出てきます。私は「その件は最後にもう一度考えよう」と言うにとどめます。

 もう一つ「ここに描かれたのは一つの心理戦だ。もしも興味があるなら、夏目漱石後半の『行人』・『こころ』・『道草』などを読んでごらん。いやになるほど心理戦が描かれているよ」と話します。そして、「漱石が『鼻』を激賞した理由の一つは、この心理戦をかくも短く鮮やかに描いたところだと思う」と補足します。

 さて、このような経緯を経て、いよいよ長い鼻を短くする治療が始まります。
 まとめると以下、
---------------
※ 鼻の治療法――長い鼻を熱湯で茹でて足で踏む
・内供の内心
 苦笑、「痛うはないて」腹を立てたような声、不足らしく、「弟子の僧の親切がわからないわけではないが、自分の鼻を物品のように取り扱うのが不愉快」、不服らしい顔
・弟子の態度
 気の毒そうな顔で「痛うはござらぬかな」、独り言を言いつつ一生懸命作業をする。
---------------

 私はここでようやく「自尊心が傷つく」について考えます。
 これまでの内供は自身の長い鼻について周囲の人はきっと嗤っているだろうと感じている。彼はこの話題を避け、そんなことは大したことではないと外見を装っている。それは鼻について話題にすると「心が傷つくから」と読みとれる。だが、この治療を受ける場面には心が傷つく以上の「自尊心が傷つくこと」だとわかる表現がある。
 そこで私は「ぜひ傍線を引きたい重要な部分はどこだろう」と聞きます。

 その際「自尊心」について辞書を引くことなく、「自分の心と自尊心との違いは《尊》があるかどうかだ。つまり、自尊心とは自分を尊いと思うことだ。なら、内供の内心を描いた部分に自分を尊いと思えない、そう思えないことをされる表現がある。それはどこだろう?」と聞けば、「自分の鼻を物品のように取り扱うのが不愉快と感じるところ」と返ってきます。
「そこだよな。内供にとって長い鼻は自分自身だ。持て余しているけれど、自分の一部だ。自分は人間であって物ではない。それを足で踏んづけられる。物品のように扱われてはたまらないと感じる。我々だって自分が人間として扱われなかったら、きっと不愉快な感情が芽生えるだろう?」と話します。
 しかし、「弟子の僧の親切がわからないわけではない」とあるように、内供もこう感じることは良くないことだと思う。思いながらも、わき出る不快を抑えることができない。それを作者は「内供はやはり、八の字をよせたまま不服らしい顔をして、弟子の僧の言うなりになっていた」と描いています。もしも治療をするのが弟子でなく、正式な医師であったら、内供はそこまで感じなかったかもしれません。

 ちなみに、私がここで「自尊心」を辞書で確認しないのは、英語では「プライド」の意味であったり、「アイデンティティ」であったりと、心理学的にかなり深入りせざるを得なくなるからです。作品理解にはこの程度で充分と考えての実践です。

 作品に戻って、かくして治療は成功、長かった鼻はかぎ鼻程度の短さになります。
 一日経っても元に戻らないとわかったとき、内供は「幾年にもなく……のびのびした気分」になります。「こうなれば、もう誰も嗤うものはないのにちがいない」と思って。

 治療が成功したところで、私は生徒に一つ尋ねます。それはまたも本文に書かれていないことです。
「鼻の治療を終えたとき、内供は普通言っていい言葉を発していない。それは作者が書き忘れたのだろうか。それとも内供はその言葉を本当に言っていないのだろうか」と。
 その言葉とはもちろん「ありがとう」です。そして、上記内供の内心を表している言葉――腹を立てたような声、不足らしく、不愉快、不服――をたどれば、作者が書き忘れたのではなく、内供は「ありがとうの言葉を言わなかっただろう」と読みとれます。
 この弟子は内供の策略に気付き、それでも同情が勝ったから、「この法を試してみましょう」と説得し、一生懸命治療した。なのに、内供から感謝の言葉は返ってこなかった。「君ならどう思う?」と聞けば、「かなり失望すると思う。反感が強くなるかもしれない」といった感想が出てきます。

 長くなりました。ようやく前号でまとめた前半最後の立ち止まり地点――鼻が短くなったところで内供がつぶやいた「こうなれば、もう誰も嗤うものはないのにちがいない」につながります。私はここでも丸々一時間使って「周囲の反応(未来の可能性)」をあれこれ考えさせました。

 なぜ鼻が短くなった地点で多くの時間をかけたのか。ここが重要だと認識して立ち止まるのはなぜか――最後にそれについて解説しておきます。
 生徒は口をとがらせて言いました。「結末まで読むと、内供は鼻が短くなっても元のように長くなっても、同じことをつぶやいたことがわかる。先生はそれを知っているから、前半最後で立ち止まっていろいろ考えさせるんでしょ。ずるいよ」と。
 私は以下のように話します。
「鼻が短くなったところでしばらく立ち止まる理由があるんだ。それは先を読んだからではない。結末を知ったからでもない。主人公の内供は齢(よわい)五〇を過ぎた現在まで、生まれてこの方ずっと鼻が長いままだった。子ども時代、少年時代を過ごし、僧侶を志して仏門に入った。子どもの頃はおそらくいじめられただろう。十代の初恋はあきらめただろう。そして修行を積んで、今や「内道場供奉(ぐぶ)」という高位に就いた。寺の住職として弟子を何人も抱え、天皇にもお目通りがかなうほどの出世を果たした。この間鼻は一度も短くなったことがない。ところが、ここで人生初の出来事が起こった。長い鼻が短くなるという《人生最大級の事件、驚愕の出来事、ものすごい変化が起こった》。
 ならば、読者にしても、ここで立ち止まり、最大級の関心を持って『この後一体どうなるのだろう?』と予想するのは当然じゃないか。だからこそ、ここで時間をかけて検討する。過去を振り返り、未来像として一〇〇ヶの可能性を探るんだ」と。

 もしも内供自身と会話するなら、と想像してみましょう。長い鼻を持つ内供さんから「こんなことがありました」と話を聞く。「ようやく長い鼻が短くなりました。これでもう誰も私を嘲笑することはないだろうと思いました」と言って口を閉ざす。どうも後は言いづらそうだ。
 そうなると、こちらとしては「その後どうなりましたか?」と聞きたくなる。もしも内供さんが「どうなったと思いますか」と聞き返したら、「もちろんみんな良かったですねと言ってくれたんでしょ」と答える……。こう考えれば、この地点で立ち止まるわけがわかってもらえると思います。

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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:そろそろ本稿全体の終わりが見えていますが、改稿に改稿を重ねた結果、実践編ラストの「まとめ」も書き換えねばならない状況に陥りました。ちょっと週刊が厳しくなったので、次号より中2週に戻したいと思います。ご了解お願いいたします。

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