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2019.09.18

別稿『一読法を学べ――学校では国語の力がつかない』第19号実践編九 (その一)

 今回は前号で問題とした「文章の先に答えがあるのに、途中で立ち止まってあれこれ考えるのはなぜか」について深掘りします。これは当初「実践編 まとめ」の中に短く書いていました。が、それだけでは弱いと考え、芥川龍之介『鼻』の授業実践を例として語ることにしました。この件は一読法が「通読をやめて最初から精読するべきだ」と主張する理由でもあります。
 なお、本節はどうしても触れたいことが多く、これまで以上に長くなったので、二つに分けました。立ち止まりつつ、考えつつゆっくり読むことを勧めます。

 九 一読法はなぜ通読をしないのか(その一) [小見出し]
 (1)一読法は先を読むのを許さない
 (2)芥川龍之介『鼻』の授業実践(前半)

 九 一読法はなぜ通読をしないのか(その二) [以下次号]
 (1)芥川龍之介『鼻』の授業実践(後半)
 (2)なぜ通読をやめようと言うのか

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 本号の難読漢字
・必須(ひっす)・惹(ひ)かれる・辟易(へきえき)・不興(ふきょう)・披露(ひろう)する・百花繚乱(ひゃっかりょうらん)・禅智内供(ぜんちないぐ)・勿論(もちろん)・中童子(ちゅうどうじ)・喧伝(けんでん)・内道場供奉(ぐぶ)・嗤(わら)う・短兵急(たんぺいきゅう)な・所詮(しょせん)。他人事(ひとごと)
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************ 小論「一読法を学べ」***********
 『 一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』 19

 九 一読法はなぜ通読をしないのか(その一)

 (1)一読法は先を読むのを許さない

 三読授業はいつでもどこでも[通読→精読]です。三読法にとって、まず全体像を把握するための通読は必須。それからもう一度読んで精読する。前号で述べたように、これは美術(絵画や彫刻)の理解・鑑賞法です。
 しかし、学校を離れると、人は文章をさあっと読む、ぼーっと一度読むだけで終わる。精読しないので、文章の理解度三〇である。
 ちなみに三〇とは記憶残存率でもあり、とある小説を読んで「いい作品だったなあ」と思った。ところが数年経ったら、「どんな内容だったか、どこに感動したか」全く思い出せない。

 対して最初から精読するのが一読法。通読しないので、全体像はつかみづらい。だが、音楽を聞くように、部分をゆっくりじっくり読むことで全体像はやがて明らかになる。難語句はその都度辞書を引くかネット検索する。「あれっ?」と思ったり、「ちょっと難しい」と感じたら、そこで止まって考える。前に戻って部分の二度読みをやり、「さてこの後どうなるんだろう?」と予想するなど、あれこれ考えつつ読む。

 これによって一度読みだけでも、理解度は合格点の六〇に達する。そして、記号・傍線を付けた部分を再読すれば、作品の理解・鑑賞度、記憶残存率はもっと上がる。
 音楽の二度目、三度目は全く同じ時間を必要とする。だが、一読法なら、二度目、三度目は初読時間の十分の一。内容も感想もしっかり語ることができるし、数年経っても思い出せる。忘れたとしても、あるいは、後に必要となったときは記号と傍線だけを再読すればいい。初読時間の十分の一で当時の印象が鮮やかによみがえる。十年、二十年経ってみると、以前と違う部分に惹かれ、読み直して別の感想が涌くこともある。
 ――と、これまでの論述をまとめればこうなります。

 私にとって三読法と一読法を比較するなら、「一読法の優位は明らか」と思って一読法授業を開始しました。ところが、生徒は拒否反応を示した……(もっとも、当時このような理論面からスタートしなかったことは反省点です)。
 開始当初は「一読法に慣れていないからだろう」と思いました。が、ある時期から「どうもそうでもないようだ。生徒は立ち止まっていろいろ考えることに、心理的抵抗を感じている」と気づきました。そこんとこ前節で以下のように書いています。

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 私は授業において立ち止まったところで「なぜか」と問い、答えが出ても「それだけじゃないだろう、まだあるはずだ」としつこく尋ねます。答えが出なければ、「この可能性もある、めったにないけどこう考えることだってあるぞ」と確率1パーセントの可能性まで列挙します。~略~
 ともあれ、末尾まで読んだ生徒は「先に答えがあるじゃないか」とうんざりし、先を読んでいない生徒も「なぜこんなにあれこれ考えさせるんだろう」と辟易した……。
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 確率1パーセントは言い過ぎながら、立ち止まり地点では生徒から疑問や感想のつぶやきを提起してもらうのが基本です。
 しかし、何も出ないこともしばしば。そのときは私の方から「なぜ?」と尋ねたり、「この後どうなるんだろう」と問うことになります。
 先を読んでいる生徒は当然答えを言えます。作品内ではもちろんそれが正解。
 ところが、一読法はもちろん三読法においても、私は「他にあるだろう。違う可能性が考えられるんじゃないか」と十分、二十分かけて追及します。もちろんそれまでの表現・内容から推理しますが、書かれていないことまでも、可能性としてあり得る未来予想を求めます。そして、それらを板書して派生する問題についてさらに考えます。これは一見すると、作品をどんどん離れているように感じられる(ようです)。

 この立ち止まり授業に不興の風が吹いたのは読者各位も同感されると思います。もしもみなさんが私の授業を受けたら、「どうしてこんなにあれこれ考えさせるのか」と、うんざりされることでしょう。

 これは通読→精読の三読授業と最初から精読する一読法授業最大の違いでもあります。小説にせよ論説文にせよ、三読法は結末を知ってから前に戻ることを許し、一読法はそれを許さない――と言うこともできます。

 ここで読者が「許さないはオーバーだろう。別に先を知ってから戻って考えても構わないじゃないか」とつぶやかれるなら、私は「いえ、絶対に認めません」と言わなければなりません。なぜか。本節においてそのわけを語ります。

 もう一つ、「おやー、三読法と一読法の違いは以前どこかで問題にしていたような気が」とのつぶやきが出たなら、「しっかり読まれてきましたね」と敬意を表したいと思います。

 そのとおりでして「理論編のまとめ」に以下のように書いています。
「三読法は通読して精読する。対して一読法は最初から精読し、記号・傍線をたどってもう一度読むのが良い。つまり、一読法とは精読→通読のようなものだ」として、「だったら、三読法も一読法も同じではないか」との疑問が湧く。
 これに対して「ぼーっと読む通読ではどこで何を疑問としたか忘れてしまう。一読法なら記号や傍線を付けて最初から精読するので、それを振り返ることで解決されなかった疑問が確認できる」と一読法の優位を説明しました。

 しかしながら、この理屈は「一読法では先を読むことを許さない」にあてはまりません。
 なぜなら、《精読しさえすれば、一読法も三読法も同じではないか》と反論されると、「そのとおりです」と答えざるを得ないからです。
 要するに、一読法も三読法も精読が絶対条件。そして、どちらも精読すれば理解度六〇に達する。よって、「精読しさえすれば一読法と三読法に優劣はない」と言えることになります。

 前号でも引用した実践編前置き(2)の部分でそう結論づけています。
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 今後読者各位はさまざまな文章を読まれると思います。もしも理解度六〇に達したいと思われるなら、選択肢は二つです。「一言一句注意して疑問や感想をつぶやきながら一度読む」か、「一度目はさあっと読んで、もう一度考えつつ再読する」か。
 ここでも読者のつぶやきが聞こえます。
「一読法ってかなりめんどうだな。そんなことなら二度読んだ方がいい」と。
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 私はこの段階では「精読するなら、三読法でも一読法でも構わない」との気持ちで書いています。学校を離れると、人は多くの文書類を二度読まない。三読法が通読のみで終わるから問題なのであって、二度読んでくれるなら三読法も充分力を発揮する。精読しさえすれば三読法と一読法は同格・対等であると。

 しかし、「精読をどの段階で行うか」との観点で比較すると、一読法と三読法は決して同等ではなく、大きな差がある。そして、それゆえに私は一読法の方がはるかに優れていると考えています。

 この結論はとても簡単です。なので、当初は「実践編まとめ」に入れました。しかし、結論を披露するだけでは不充分だ。そう思って芥川龍之介『鼻』の授業実践を例として詳しく語ることにしました。
 なぜ『鼻』かと聞かれたら、「たまたま」だと思ってください。高校現代文の教科書によく採用され、私も三読法で何度かやったし、一年間だけ実践した一読法授業の中にたまたま『鼻』が入っていました。また、実践編七において平塚らいてう『原始、女性は太陽であった』と『鼻』を並列した(けれど、『鼻』の解釈は提示しなかった)ことも関係しています。

 さて、もしも余裕があるようでしたら、ここで立ち止まって「一読法は三読法より優れている」点について(先を読まずに)考えてみてください。
 相変わらずのほにゃらら問題で恐縮ながら、結論はこうです。
「三読法とは人生を□□□□□地点から眺める読み方であり、一読法とは未来は何が起こるか□□□□□という地点での読み方である」と。
 ひらがなだと五文字の空欄を埋めることができた人は「具体的に説明できるか」試みてください。ここまでを二度読みすれば、説明できると思います。

(2)芥川龍之介『鼻』の授業実践(前半)

 再度国語・現代文授業における三読法と一読法を短くまとめておきます。

 三読法=通読して全体を知ってから、前に戻って細部の精読に入る。
 一読法=全体を知ることなく、最初から細部を精読して読み進める。

 両者とも「途中であれこれ考える」精読は必須であり、この点違いはありません。最大の違いは(特に小説において)三読法が結末を知った上で前に戻ってあれこれ考えるのに対し、一読法は結末を知ることなく、最初からあれこれ考えることです。

 教師の側から見ると、一読法ではしばしば「この先どうなるだろう」と質問することがあります。しかし、三読法では九十九パーセント問う事がありません。当然でしょう。結末まで読んで「どうなったか」の答えをすでに知っているのですから。
 ただし、唯一の例外があって通読→精読終了後、「この後どうなるか予想してみよう」と提起することがあります。
 たとえば、芥川龍之介の『羅生門』は高校現代文の教科書によく採用されています。主人公の「下人」は羅生門の上で死体の髪の毛を抜く老婆との会話から、自分も盗人になろうと決意し、老婆の着物をはぎ取って闇の中に消えます。その末尾は「下人の行方は、誰も知らない」とあるので、「この後下人はどうなるだろう」と話し合わせたり、「下人のその後」と題して百字から二百字程度の作文を書かせたりします。
 この際生徒の未来予想は一人として同じものがない、「極悪人になる」から、「改心して善人になる」まで、正に百花繚乱の「続編」が提出されます。しかし、それ以外三読法では作品の途中で「この後どうなるだろう」と問われることはありません。

 さて、芥川龍之介『鼻』の冒頭は以下、
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 禅智内供(ないぐ)の鼻と云えば、池の尾で知らない者はない。長さは五六寸あって上唇の上からあごの下まで下がっている。形は元も先も同じように太い。いわば細長い腸詰めのような物が、ぶらりと顔のまん中からぶら下がっているのである。
 五十歳を越えた内供は、沙弥(しゃみ)の昔から内道場供奉(ぐぶ)の職にのぼった今日まで、内心では始終この鼻を苦に病んできた。勿論表面では、今でもさほど気にならないような顔をしてすましている。
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 この冒頭部、漢字だけでも結構[?]が付きます。辞典を引いて「寸」とは約3センチ、よって五六寸は十五センチから十八センチ。腸詰めはもちろんソーセージ。そして、「池の尾」とは京都府宇治市池尾(実在の地名であると確認)、「沙弥」とは修行僧、「内道場供奉」とは宮中において天皇皇族や貴族を相手に仏教を講説する僧である――と確認します。これから禅智内供は寺の住職か、それ以上の高僧であることがわかります。
 余談ながら、『枕草子』の作者「清少納言」はよく「清少-納言」と区切って読まれています。が、正しくは「清-少納言」。つまり「少納言」は身分です。『鼻』の主人公「禅智内供」も「禅智」が僧名で「内供」は名前ではなく「内道場供奉」の省略。よって、『鼻』について何か論じるときは「禅智」を使うべきですが、作品内で「内供」と呼んでいるので、本稿もそれに従います。

 この二百字足らずの冒頭部、通読授業なら読むのに二、三十秒でしょうか。辞書を引いたり、注釈を確認すれば数分。もしも生徒が予習をしたと見なせば、止まることなくどんどん読み進めるはずです。
 私の一読法授業はここが最初の立ち止まり地点です。そして、この冒頭だけで一時間使います。なぜか。その詳細と理由はこれから明らかになると思います。

 さて、内供の長い鼻はさすがに食事の際は不便だし、何より人からじろじろ見られて陰で嗤っているだろうと感じる(この「嗤う」も辞書で「嘲り笑うこと」と確認します)。表面は気にしないような顔をしてすましているけれど、内心はとても「苦に病んで」いる。長い鼻を持つ人はいないかと仏典や古典をあさり、短く見えるにはと、鏡を見ながら苦心を重ねる。だが、どれもこれも空しい結果に終わり、ため息をつく。
 中でも食事中に起こったエピソードは目を引きます。長い鼻は弟子の僧に持ち上げてもらわないと、飯がうまく食えない。そこで、長さ二尺(六〇センチ)ほどの細長い板を使って弟子が鼻を持ち上げてやる。ある日介助の替わりをした「中童子(十二、三歳ほどの少年僧)」がくしゃみをしたせいで、鼻をお粥の中に落としてしまった。この話は宇治はもちろん「京都にまで喧伝(けんでん)された」とあります。
 「喧伝」を読めて意味のわかる生徒はほぼいないので、誰もが[?]を付けます。辞書を引いてその意味(盛んに言いはやして世間に知らせること)を確認します。もちろん傍線を引き、余白に抜き出します。
 また、この部分生徒から疑問の「なぜ?」が出ることはないので、私から「このとき内供は中童子に対してどのような態度を取っただろう?」と質問します。本文には書かれていません。生徒からは「さすがに怒っただろう」とか、「いいよ、いいよと平静を装ったのではないか」などの答えが出されます。
 さらにこの話題を喧伝する――世間に言いふらす人々の心理心情も「考えてみようか」と提起します。生徒の多くは「笑い話として、おもしろおかしい話題として伝えられたのではないか」と結構まともな答えが返ってきます。
 もう一つ、「京都まで伝わる起点となった人は誰だろう。内供だろうか」と問います。生徒は「鼻の話題を避ける内供が話すはずない。中童子でしょう」と答え、私も「たぶんそうだろうね」と応じます。「内供は日常の談話の中に、鼻という語が出て来るのを何よりも惧(おそ)れていた」から導かれる推理です。
 ただ、このあたりあまり深入りしません。本文に書かれていないこともあって「ちょっと想像しておこうか」程度です。

 ところが、ある日弟子の僧が治療法を知り、それを試したらなんと長い鼻がかぎ鼻程度の短さになった。この治療の様子はとても詳しく、目に見えるかのように描かれているので、じっくり味わいます。また、傍線を引きたい箇所も多々あります……が、引用は省略します。
 そして、鼻を短くした内供がつぶやいたのが「こうなればもう誰も嗤うものはないのにちがいない」の言葉です。
 ここまでを前半とすると、内供のこの言葉は重要な立ち止まり地点であり、三読法でも精読のときかなり考えさせます(なぜ「重要な立ち止まり地点」と言えるのか。これも後ほど)。

 一読法では生徒に「どう思う? これでもう誰もバカにしたように笑わないだろうか」と質問します。これは同時に「この後どうなるだろう」という未来予想でもあります。
 ここで注意してほしいことはこの段階での未来予想はそれほど深刻なものではありません。大きく分ければ答えは二つ。「みんな嗤わなくなった」か「相変わらず嗤った」です。
 私の一読法授業では二つの予想以外に「それだけじゃないだろう。他にあるはずだ」とかなりしつこく予想を求め、派生する問題についてあれこれ考えさせます。

 対して三読法精読授業では末尾まで読み終えているので、かなり深刻な事態となったことがわかります。鼻が短くなったときの楽観的な予想と違い、内供にとっていやなことばかり起きる。内供は不機嫌になり、最後は中童子に対して(今で言うと)暴力事件まで起こす。内供は鼻の短くなったことが「かえって恨めしく」なった。そして、鼻がまた元のように長くなると、「これでもう誰も嗤うものはないにちがいない」とつぶやくところで作品は終わります。

 鼻が短くなったときと、元のように長くなったときつぶやいた言葉が同じである――これは作品の理解にとって最も大切なことなので、三読法精読でも生徒にいろいろ尋ねます。「鼻が短くなったときと元に戻ったとき、内供は同じ言葉をつぶやいた。これは一体どういうことだろう」と。
 三読法では結末まで読むことによって途中の言葉が重要だとわかります。しかし、一読法は結末を知らないので、鼻が短くなったときにつぶやいた言葉が「重要だ」と認識しなければなりません。「ここで立ち止まってじっくり考えるべきだ」と感じる必要があります(これも後述)。

 くどいようですが、三読法精読授業において内供の鼻が短くなった地点に戻ってきたとき、「未来を予想してみよう」と問うことはありません。
 その後周囲が見せた反応、それに対して内供が思ったこと、内供の行動など我々は通読によって全て知りました。最終的に鼻が元に戻ったことまで知っています。これは我々が内供と鼻をめぐる出来事を、結末から眺めていることを意味します。
 つまり、『鼻』という作品を一つの事件にたとえるなら、三読法の通読→精読作業とは《事件が終わった地点に立って過去の出来事を振り返る》形の読み方なのです。
 たとえば、殺人事件が発生して警察が犯人を捕まえた。刑事は事情聴取して「そのとき何が起こったんだ」と事件の経緯や動機を問いつめる。三読法の「精読」はこれと同じ活動です。

 かたや一読法の通読=精読は違います。立ち止まる地点は事件が起こるはるか前であり、何かしら変化が起こったときであり、そろそろ事件が起こりそうな地点です。その都度未来を予想して、事件が発生すると、「とうとう起こったか」と確認する。そのような読み方です。
 要するに、三読法精読では事件はすでに終わっている。一読法では事件はまだ発生していない。始まる前の地点に立ってあれこれ考えつつ読み進める――これが一読法の読み方なのです。
 刑事物ドラマにたとえるなら、こちらは探偵側。ある日妙齢の女性が訪ねてきて「父が行方不明になった。何か大変なことが起こっているような気がする」と言って探偵に調査を依頼する。探偵は(このドラマを見る我々も)一体何が起こっているのか、これから何が起こるのか全くわからない。
 その後探偵は探索活動を始め、少しずつ事態が明らかになる。そこへ第一の殺人事件が発生して娘の父親が逮捕された。父親は「私が殺した」と言っている。だが、娘は「父がそんなことをするはずがない」と強く言う。探偵はさらに娘と一緒に父親の過去と現在を探り、真実を求める。探偵は立ち止まっては推理し、また立ち止まっては推理する……一読法とは正に探偵のような読み方なのです。

 ここでちょっと立ち止まります。読者各位はここまで読まれてどう感じたでしょうか。依然として「三読法と一読法の読み方は大差ない」とつぶやかれるかどうか。事件が起こってから考えるか、それとも事件が起こる前に未来を予想して考えるか。私には天と地ほどの違いがあるように思えるのですが……。

 それはさておき、三読法精読に戻ると、「内供は鼻が短くなったとき、『こうなればもう誰も嗤うものはないのにちがいない』と考えた。実際の所どうだっただろう」と質問すると、生徒から「周囲の人は相変わらず陰で嗤った。もっとひどいことに面と向かってじろじろ見たり、くつくつとあからさまに嗤った」などの答えが返ってきます。
 これは当然のように後半の記述から引き出された答えです。そして、作品に書かれた答えしか返ってきません(「そんなの当然だろう」と思われるでしょうが、私はそこが不満です)。

 ともあれ、それを受けて「周囲の人はなぜそのような反応を示したのだろうか」と問えば、作者が解説として書いている「傍観者の利己主義」なる言葉が出てきます。
 それを簡単に言うと、「人の不幸は蜜の味であり、その人が不幸を克服すると、周囲の人はもう一度同じ目にあわせたいと感じる。人はそのような意地悪な心を持っている」と説明できましょう。
 三読法精読の場合、私はこの作者解説について「そうだろうか。傍観者の利己主義という分析は正しいだろうか」と生徒に問わねばなりません。他の反応を示す人はいないか考えるためです。
 一読法なら、この問いはありません。作者の解説など知らない――と言うより、小説において一体誰がこの後作者が登場して解説してくれると予想できましょう。一読法ではただ「この後どうなるだろう。周囲はどんな反応を見せるだろうか」と未来を予想するだけです。そして、周囲の反応に限らなければ、百人百通りの未来予想が出てきます(これが一読法の素晴らしいところです)。

 もしも『鼻』がここで終わるとして、生徒に「この後どうなるか」という作文を書かせたら、「羅生門――その後の下人を予想する」のように、百花繚乱の未来が語られるでしょう。その中には「鼻はすぐまた元のように長くなる」もあり得ます。
 たとえば、「翌日内供は朝の散歩で寺の外に出たら、走ってきた馬に蹴飛ばされ、打ち所が悪くて死んでしまった。周囲の人はせっかく鼻が短くなったのに、と内供を惜しみ、立派な人を亡くしたと言って盛大な葬式をやった」との未来予想が出てきたら、私は「その可能性は1パーセントもないだろうけど0ではない。よく考えたな」と誉めるでしょう。
 もちろん小説内の《現実》はそれまでの内容から大きく外れることはないので、この場合も未来予想は「鼻が短くなったことで周囲はどのような反応を見せるか」に絞って考えます。

 再度殺人事件を例とするなら、警察は犯人の動機を追及する。そして、犯人の自白によって動機が判明した。だが、裏付け捜査をしてみると、どうもその動機が疑わしい。そこで、さらに地道な捜査を続けると、殺人を犯さざるを得なかった深い動機が明らかになる……刑事物ドラマではよくあるパターンです。

 ドラマならごく普通の展開なのに、生徒は「他の可能性を考えてみよう」と問われることが苦手です。これは三読法でも一読法でも同じですが、三読法のように先を読んで、「傍観者の利己主義(人は意地悪な心を持っている)」といった答えを知ると、なかなかそこから離れることができません。

 そこで(三読法の場合)私は生徒ひとりひとりの実感を引き出すための質問をします。
「君はどうだ。人が不遇不幸を克服すると、もう一度同じ目にあわせたいと思うか」と聞いたり、「たとえば、君のお父さんやお母さん、または仲の良い友達がひどい病気にかかって入院したとしよう。その後治って退院したとき、君はもう一回病気になれと思うか」と。
 この問いに「はい」と答える生徒はまずいません。ほぼ全員が「自分は違う。そんなこと思わない」と答えます。
 では――と私は質問を変えます。
「もしもその人が君の嫌いな人間で、もっと言えば君をいじめたことがあるクラスメイトだったらどうだ。その子がひどい病気になって入院したらどう思う? そして、その子が病気を克服してまた登校してきたらどう思う?」と。

 この問いはかなり生徒を苦しめます。もちろん「治ってほしいと思う。治ったら良かったねと言うと思う」と答える生徒はいます(それも心から)。しかし、多くの生徒は「相手がいじめっ子だったら、いい気味だと思う」と言い、「退院してきたら、もう一回同じ病気になって学校に来なければいいのにと思う」など赤裸々な内心が打ち明けられます。
 これらの問いによって生徒は「他の反応を示す人がいる」可能性と、「内供自身に嫌われるような原因があるかもしれない」ことに気付きます。
 ここで三読法精読授業だと、「ではなぜ内供の周囲の人は傍観者の利己主義を発揮したのか」その理由を探る方向に進みます。作品前半から「こういう人だったら嫌われかねない」表現を探るわけです。

 しかし、一読法授業は先を読みません。よって、「どう思う? もう誰もバカにしたように笑わないだろうか」との質問はあくまで未来予想です。この予想は作品前半の内容を根拠として考えることになります。
 もちろんここで二度読みをします。重要と思われるところに傍線を引いたり、余白に抜き出していれば、それを読み直すので時間はさほどかかりません。

 先程述べたように、この未来予想は大まかに分けて二つ。鼻が短くなって「嗤わなくなった」か「相変わらず嗤った」か。
 一読法授業でも多くの生徒から「周囲の人は冷淡かもしれない。相変わらず陰で嗤うかもしれない」との答えが返ってきます。傍線を付け余白に抜き出した重要語などから、内供はどうも嫌われるような性格の持ち主だと読みとれるからです。私はこれを「1」として(ただし、上を三行ほどあけて)板書します。

 ここで先を読んでいた(これまでに『鼻』を読んだことのある)生徒から「周囲の人は鼻が短くなった内供を見て意地悪な心が涌いて内供を妙な顔で見たり、あからさまに笑うようになる」などの答えが出ることもあります。周囲のもっとひどい反応であり、作品においてはこれが百点満点の答えです。
 だが、未来がわからない地点では、それはあくまで可能性の一つに過ぎません。つまり、それが全てではない。なので、私は「その予想は一〇点だ。他の可能性が前半に書かれているじゃないか。まずそれを探せ」と言ったり、先程の「相手が君の両親や仲の良い友達だったらどうだろう」との質問をぶつけ、別の反応を考えさせます。
「もしも君のお父さんやお母さん、友人が退院したら、君はなんて言う?」と問えば、「おめでとうとか、病気が治って良かったねと言う」と返ってきます。
 ここで作品前半にある「同情」に傍線を引き、余白に抜き出していた生徒から、「内供に同情していた人は『鼻が短くなって良かったですね』と言うかもしれない」との答えが出てきます。私は「その通り。そこだよ」と応じ、「2」として板書します。

 この「同情」がある箇所には「反感」もあります。長い鼻を短くする治療法を見つけた弟子の僧が、内供にそのことを話すと、内供は「いつものように、鼻などは気にかけないという風をして」、「一方では、気軽な口調で、食事の度毎(たびごと)に、弟子の手数をかけるのが、心苦しいと」言って「弟子の僧が、自分を説き伏せて、この法を試みさせるのを」待つといった態度を見せます。
 弟子の僧は「内供のこの策略がわからない筈はない。しかしそれに対する反感よりは、内供のそういう策略をとる心持ちの方が、より強くこの弟子の僧の同情を動かした」とあります。「1」に重要語として「反感」を追加します。

 さらに、「1・2だけでは足りない。もっとあるだろう。はっきり未来予想が書かれている表現があるじゃないか!」と根拠となる表現を探すよう求めます。
 この答えもなかなか出てきません。そこで、ヒントとして「内供はどう思ったんだ?」と補うと、ようやく「こうなればもう誰も嗤うものはないのにちがいない――ですか」との答えが出ます。
「そうだよ。それだよ。内供自身の思いは内供の未来予想だ。長い鼻が短くなったのだから、もう誰もバカにしたように笑うことはないだろうと未来を予想する。もしも我々読者が主人公の内供に寄り添うなら、この未来予想を真っ先に考えるべきじゃないのか。内供が嫌われるような人柄だったとしてもだ。このように思うことは悪いことかい?」と問えば、生徒は「悪くない」と答えます。
 私はもう少し内供の思いを分析して「良かったですねと言ってくれなくとも、これからは普通の人としてみてくれる、陰で嗤うことがなくなる」との予想を引き出し、1・2の上段に「内供の期待」として追加します(もちろんこれが最初に出てきたときは上から順に書き留めます)。結局、以下のような板書となります。
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 ○ 鼻が短くなった内供に対して周囲の人は《未来予想》

※ 内供の期待
 「もう誰も嗤うものはないのにちがいない」
 (普通の人としてみてくれるはず、陰で嗤うことがなくなるはず)

※ 周囲の反応
1 冷淡かもしれない。相変わらず陰で嗤うかもしれない。(内供に反感を抱く人?)
2 鼻が短くなって「良かったですね」と言ってくれる。(内供に同情している人?)
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 ここで生徒から「先程出た周囲のもっとひどい反応は書かないのですか」と聞かれることがあります。それは作品の現実としても、未来の可能性としてもあり得る答えなのに、私は板書しません。「それは1に入っている」と答えます。
 そして、「いい質問だが、内供がつぶやいた『もう誰も嗤うものはないのにちがいない』の《誰も》に注意してくれ。これは『一人も嗤うものはいないだろう』という意味だ。つまり、内供は1が起こることを予想していない。当然もっとひどい対応をされることなど、全く頭にないことがわかる。ならば、我々の未来予想も『今までと変わらない』にとどめておくべきだと思うんだ」と補足します。

 生徒がこれで引き下がってくれればいいのですが、「もっとひどい対応をされる可能性があるのだから、書くべきです」と主張する生徒もいます。そのときは生徒と対決せねばなりません。
 そこで「君が周囲の人はもっとひどい反応を見せるかもしれないと予想する根拠はどこにあるんだ?」と聞きます。
 さすがに「この後そう書いてあります」と答える生徒はいません。一読法では先を読まない(ことになっている)のですから。
 根拠を言えなければ、「だったら、その予想は『翌日内供が馬に蹴飛ばされて死ぬ』と同じだ。そこまで予想しないし、板書する必要もない」として終わりにします。

 ところが、作品を最後までよく読んでいる(もしくは生徒用参考書を持っている)生徒は「周囲の僧たちがもっとひどく嘲笑するようになった」原因が前半の内供の《生き方》にあること、その具体例を言うことができます。

 先程三読法精読授業なら「ではなぜ内供の周囲の人は傍観者の利己主義を発揮したのか」その理由を探る方向に進み、作品の前半から「こういう人だったら嫌われかねない」表現を探ると書きました。
 そもそも作品は周囲がもっとひどい反応を示した原因は内供の生き方・考え方にある――とわかるような表現がなされているので、鋭い読みができる生徒は「ここが根拠です」と言えます。

 しかも、これは通読=精読の一読法でも、前半の読みで目指している到達点です。
 内供は鼻が短くなるや「これでもう誰一人嗤うことはあるまい」と楽観的未来を予想した。だが、周囲は(かなりの高確率で)鼻が長いとき以上に「くつくつ」と嗤い、バカにしたような態度を見せる。それも以前はひそかな態度だったのに、今やあからさまに嗤われる。その未来が予想できるのは前半に描かれた《内供の外見と内心のうそ》であり、最重要語を指摘するなら「策略」である――と見抜く生徒が出てきます。
 これを言えるということはその生徒が本文を一言一句おろそかにせず読んできたことのあかしであり、重要語をしっかり抜き出せたことを意味します。なので「よくそこまで読みとったな」と誉めたいところです。

 しかし、私は生徒がそう主張しても、「3」として「もっとひどい対応をされる」と書くつもりはありません。「策略」が書かれた部分に「弟子の僧は……内供のこの策略がわからない筈はない。しかしそれに対する反感よりは、内供のそういう策略をとる心持ちの方が、より強くこの弟子の僧の同情を動かした」とあって、[策略=反感]ではなく、[策略=反感と同情]とあるからです。
 つまり、この段階の未来予想はやはり「1 反感、2 同情」であり、「内供はとにかく『こうなればもう誰も嗤うものはないのにちがいない』と予想した。だから、そこにとどめておこう」と言います。
 もう一つ、このかなり悲観的な未来予想を認めると、先を読み、その事態が発生したとき、「ほーら。やっぱり起こっただろう」との感想が生まれます。すると、内供の「意外なことが起こった。まさか周囲の人たちがそんな反応を見せるとは思いもしなかった」との気持ちに共感できなくなってしまいます。ゆえに、「未来予想は『もう誰も嗤うものはないのにちがいない』にとどめよう」というわけです。

 ここでまた読者のために立ち止まります。
 このように説明すると、読者は「それなら、なぜ『周囲の反応』として、わざわざ1・2を板書するんだ?」との疑問が芽生えたかもしれません。

 それは作品に「同情・反感」という重要語がある以上、それを書き留めておかねばならないし、もっと大切な同情・反感以外の可能性について考えるためです。

 その前に「2についても、もう少し考えておこうか」と言って「内供に同情していた人がいたことは間違いない。ただ、彼らは鼻が短くなったのを見て『良かったですね』と言ってくれるだろうか」と問題提起します。
 生徒の答えは「同情と書かれているし、全員じゃないとしても誰かは言ってくれると思う」と、「いや、もしかしたら全くいないかもしれない」に分かれます。結末まで読んだ生徒はもちろん後者を主張します。
 ところが、先を読んでいなくても、一読法精読後なら「いないのではないか」と予想を立てる生徒がいます。なぜそう思うのか。ここでも根拠は先程と同じです。
 ただ、比率としては前者が多いので「先を読んでからまた戻って考えよう」と述べるにとどめます。

 こうした流れを経て「1・2」の下に「3 どちらでもない」を追加すると、 、生徒から「なにそれ?」の非難がごうごうと巻き起こります
 私は取りあえず「何かアンケートを取ると、必ず「どちらでもない」と答える人がいるだろ。ここだって同じだよ」と応じます……が、もちろん深い意味があります。犯人の自白に満足しない刑事のように、「本文には書かれていないけれど他にあるはず」と、別の可能性を探るわけです。
 作者芥川龍之介は1を指して「傍観者の利己主義」と呼んだ。だが、私は3に「傍観者」を入れ、それこそが本来の「傍観者ではないか」と言いたいのです。

 傍観者とは事態をぼんやり眺めて行動しない人のことです。内供に興味関心がなければ、何も思わず、なんの行動も取らないでしょう。
 内供に反感を抱いて嘲笑する1は傍観していない。内供に同情して「短くなって良かったですね」と言う2も傍観していない。ゆえに、「3 どちらでもない(傍観している)」を想定する必要があるのです。

 読者各位は「考えすぎじゃないのか」とつぶやかれるかもしれません。生徒も「しつこいなあ」と感じているようです。しかし、私は未来予想としてここまで想定して先を読み進めることが、作品のより深い理解につながると考えています。
 答えは一つだけではない。ある事柄に対して意見や感想を求めれば、「賛成」があり「反対」がある。「どちらでもない」もある。あるいは、楽観論があり、悲観論がある。そして、楽観も悲観もしない人がいる。「大きく分ければ二つ」ではなく、大きく分ければ三つ。これは人々のごく普通の反応です。

 かくして私の一読法授業は「3 どちらでもない」の中身を探究する方向に進みます。
 今触れたように、そこにはまず傍観者が入る。それだけでなく「外見は傍観しているように見えても、内心は傍観していない人がいるのではないか」と問題提起するための質問を生徒にあびせます。
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 3 どちらでもない。
 (反感の1、同情の2は傍観していない――のではないか?)
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 そこで、次のように質問を展開させます。
「内供に興味関心がなければ、良かったですねとも言わないし、陰で嘲り笑うこともない。もしかしたら、内供の鼻が短くなったことに気付かないかもしれない」と言うと、生徒から「そりゃあないでしょう。誰でも気付きます」と非難の雨霰。
 そこで私はロングヘアーの女子生徒の隣に座る男子に聞きます。 「じゃあ君に聞くけど、隣の何々さんが肩まである長い髪の毛ばっさり切ったら、気付くかい?」と。
 当該生徒は「うーん。気付かないかもしれません」とあっさり認めます。
 遠くの席にいる男子にも同じことを聞けば、「離れているから気付かないと思います」の答えも得ます。

 私は「無関心だと気付かないよ。でも関心があれば、離れていても気付くし、『髪の毛切ったんだね』と口にするはずだ」と言って、「女子の側から見ると、ちょっと惹かれている男子から何も言われなかったら、『この人私に関心ないんだ』と思うし、どうでもいい男子から『髪の毛切ったんだね』と言われると、あれっと思ってそれから恋が芽生えたりする……こともある」と続けると、女子生徒は「まさかあ」と言いつつ、結構うなずいています。
 私は「そんなわけで3の内容として《内供に興味関心がない人》がまず入る。さて、それだけだろうか。他に[どちらでもない]態度を示す人はいないだろうか」と続けます。すなわち「鼻が短くなって良かったですね」と言わないけれど、陰でバカにすることもない。かといって興味関心がないわけではない……なら、「それはどんな人だろうか」との質問です。

 これは一見本文と関係ない質問に思えるかもしれません。しかし、人が示す態度として全く同じであっても、内心は違うことがある――というのはよくあることです。
 たとえば、いじめにおける傍観者とは「見ているだけで何も行動しない人」でしょう。では、その内心はと言うと、「自分には関係ないと思う」・「良くないと思うけど何も言えない」「大人は助けてくれない、へたに報告するとチクったと言われて次は自分がいじめられる」・「いい気味だと思って見ている」などに分かれます。それを「傍観している点ではみな同じ、五十歩百歩だ」と言い切ることは危険で短兵急な結論です。

 作品に戻ると、ここでもヒントとなる言葉は「同情」です。「家族の場合は同情と言わないよな?」と聞けば「愛情ですか」の答えが返って「内供のお母さんなら、もちろん嗤わないし、何も言わないかもしれない」との答えが出てきます。
 私は「もう一つあるんじゃないか」と尋ね、(今なら)「ほら『アナと雪の女王』の歌で有名な言葉があるじゃないか」と続けて「内供をありのままに見ている人ですか」の答えを引き出します。
 つまり、陰で嗤うこともないけれど、「良かったですね」とも言わない人として、内供の鼻が長くても短くてもそれでいいと思える人がいる――とまとめ、「3 どちらでもない」の中身を確定させます。これを板書すると、
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 3 どちらでもない[反感・同情どちらの態度も示さない]
 (ア)内供に興味関心がない人。(気付かないかも?)
 (イ)内供を愛している人(母親)。(黙っている?)
  後ほど追加《内供に同情しているが、黙っている人》
 (ウ)内供の鼻が長くても、短くてもそれでいいと思える人。
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 まだまだ前半の授業は終わりません。私は「(イ)は愛情があるから、もちろん内供をバカにすることはない。それなのに、鼻が短くなって『良かったね』とも言わず黙っている。なぜ愛情があるのに黙っているのだろうか?」と質問します。

 さすがにこの問いは難しいようで、なかなか答えが出ません。そこで、私はさらに生徒個々の未来を想像させます。
 男子に対しては「将来君が付き合っている女性が突然整形したらどう対応するかい?」とか、女子生徒に対して「もしもあなたが産んだ子が鼻がものすごく長かったらどうだろう」と。
 男子は「うーん」と絶句し、女子生徒の一部からは「いやだあ」と声が上がります。
 周囲を顧慮しない女子のつぶやきはホンネを表しています。そして、先程家族や友達の病気にたとえたように、ようやく内供とその周囲を自分のこととして考え始めるようになった、とも言えます。

 男子に恋人が整形したら「整形して良かったねと言うかい?」と聞けば、ほぼ「黙っているかもしれない」と答えます。私は「でも、愛しているとしたら、黙っていることはイコール無関心じゃないよね」と応じます。
 長い髪をショートにしたときの例もあげ、「だから、ちょっと惹かれている男の子が何も言ってくれなかったとしても、君に関心がないとは限らない。片思いだとあきらめる必要はないんだ。逆に『髪の毛切ったんだね』と言ってくれるやさしい男が、稀代のジゴロだって可能性もあるから、気をつけなきゃ」と言うと、「先生、ジゴロって何ですか」となって意味が伝わりません(「辞書引け」で済ませます)。
 また、「同情とはなんだろう」と質問したり、「なぜ『同情するなら金をくれ』と言って同情を拒否する人がいるんだろう」と問うこともあります。「相手が同情を拒否する人だとわかったら、安易な同情の言葉は避けるだろうね」と話して(イ)に「内供に同情しているが、黙っている人」を追加します。

 さらに、女子に「この場合は鼻だけど、赤ん坊が障害を持って産まれることもある。あるいは、お腹の中の胎児が障害を持っているとわかって産むか中絶するか、決断を迫られることだってある」と言ってさらなる議論を巻き起こします。
 出生前診断の件も「今授業をやるなら」の追加質問です。三十年前は本人の意志ではなく強制的に不妊手術を受けさせられた「優生保護法」を取りあげました。

 ここまで来ると、読者の中には「もう作品を離れてしまっているのではないか」と感じ、批判される方もいらっしゃると思います。

 この批判に対して私は開き直って反問します。
「作品を離れていろいろ考えることは悪いことですか」と。

 これらの質問は禅智内供や周囲の人間を《自分のこととしてとらえ、どう感じ、どう行動するか考える》ための問いです。作品をぼーっと読んでいると、誰かどこかの架空の話、所詮他人事で終わります。「鼻が長い子どもが産まれたらどう思う?」と問うことで、「そりゃあ大変だ」と感じ、「どうしよう」と一所懸命考えるようになるのです。

 もしも小説を読んで「自分だったらどうだろう」と考えることなく、「周囲の人間に振り回される内供はバカだ」とか「他人の不幸を喜ぶ人間は情けない」といった感想を語るなら、一見正論でありながら、私は「人の喜び、苦しみを自分のこととして想像できない、それこそ人生を傍観する者の感想ではないのか」と生徒に問います。

 小説を百冊すらすら読んで深く考える事なき人と、一冊の本をあれこれ考えつつ読む人。どちらがより深く作品を味わっているか。どちらが自分のこととして作品を読んでいるか。三読法が目指す読者像が前者なら、一読法は後者を目指します。
 いや、三読法だって目指しているのは作品を深く味わい、自分のこととして感じ考えてほしい読者です。なぜなら三読法は「読書百編意自ずから通ず」が基本です。芥川龍之介の『鼻』を、せめて十回読めば、内供も周囲も自分のこととして感じ考えられるようになるはずです。

 さて、このようにして前半最後における未来予想を終えると、いよいよ後半に進みます。(後半は次号)

 ところで、最初のほにゃらら問題。もう答えはおわかりと思います。
「三読法とは人生を□□□□□地点から眺める読み方であり、一読法とは未来は何が起こるか□□□□□という地点での読み方である」

 後半五文字はすぐに埋まったでしょう。未来は何が起こるか[わからない]と。前半は「終わった」とか「結末の」と入れてみて[過ぎ去った]が浮かんだかどうか。
 ここに「結末の」を入れることができないのは、人生の結末は死だからです。もはや棺桶の中で考えることはないと思います。

 なんにせよ、これが三読法と一読法最大の違いです。そして、三読法授業とは「事件が起こった後で過去を振り返る」訓練を日々重ねているのであり、一読法授業とは「事件が起こる前から過去と現在を振り返り、未来を予想する」訓練であるということができます。
 どちらを選ぶべきか。私には自明であるような気がするのですが……。

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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:本節はその一、その二と分けたため、問題提起されたいくつかの課題が次号に持ち越されてしまいました。特に『鼻』の冒頭二〇〇字ほどを「最初の立ち止まり地点として一時間使う理由」、鼻の治療が終わって短くなったところは「重要な立ち止まり地点」であり、先を読まなくとも「そこが重要だと認識しなければならない」と書いたところなど、未解決のままです。次号まで探偵になったつもりで、推理してみてください。
 また、「作者なぜ?」の書き込みとして「なぜ作者は周囲の反応を『傍観者の利己主義』と説明したのだろうか」もあります。

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