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2019.10.24

別稿『一読法を学べ――学校では国語の力がつかない』第22号実践編九 (二の2)

 ようやく『鼻』の授業実践後半です。今回はいつものように「一言一句注意して読む」だけでなく、「書かれていないことまで想像力をふくらませて読む」ところにも注目してください。「傍観者の利己主義」と結末についておそらく驚嘆の解釈を提示します(前号の答えは文中にて)。
 なお、『鼻』が発表されたのは一九一六(大正五)年二月、第四次『新思潮』創刊号です。芥川龍之介二十五歳、その一、二年前に書かれたと推測されます。
 ちなみに、『鼻』を激賞した夏目漱石は同年十二月に逝去しました(この前置き、ぼんやり読んではいけません。二度読んで記憶にとどめてください)。
 もう一つ、加筆を重ねた結果、思った以上に長くなりました。そこで、どこまで読んだか確認できるよう、予定になかった小見出しをたくさん付けました。一度に読み切ろうとせず、少しずつお読み下さい。また、「傍観者の利己主義」の詳細については次号に回しました。

 九 一読法はなぜ通読をしないのか(その二) 
 (1)一読法による『鼻』の授業実践(前半復習)
  [以下今号 小見出しの小見出し]
 (2)芥川龍之介『鼻』の授業実践(後半)
 [ 一 ]  鼻が短くなると予想外の反応が
 [ 二 ]  周囲の反応と傍観者の利己主義説
 [ 三 ]  内供の豹変とその理由?
 [ 四 ]  作者はなぜ理由を解説したのか
 [ 五 ]  作者から読者への挑戦状
 [ 六 ]  周囲の反応123を検証する
 [ 七 ]  内供には明が欠けている?
 [ 八 ]  内供に理由がわからなかったわけ
 [ 九 ]  「傍観者の利己主義」説、最重要語は?
 [ 十 ]  二つのたとえ話
 [ 十一 ] 不幸とは?
 [ 十二 ] 推理と邪推
 [ 十三 ] 我々はいつでも傍観者の利己主義を発揮するか?
 [ 十四 ] 普遍的真実ではなく内供の邪推
 [ 十五 ] 漱石を土台として『鼻』はある
 [ 十六 ] 鼻が元に戻った内供の未来を予想する
 [ 十七 ] もう一つ「ありのままに生きる」未来予想

  [以下次号]
 (3)「傍観者の利己主義」について
  ・なぜ「傍観者の利己主義」と書いたのか
  ・作者の思い――愛すべき内供
 (4)なぜ通読をやめようと言うのか

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 実践編 目 次
 実践編前置き(1)・(2)
 一 社会(日本史) 二 社会(文化史)
 三 現在の学校で一読法を実践するには
 四 誤答率四割の原因を探る
 五 挫折に終わった一読法授業、その一
 六 実践編執筆の裏話と卒業試験問題
 七 国語教材と日本史教材の違い
 八 挫折に終わった一読法授業、その二
 九 一読法はなぜ通読をしないのか(その一)
 九 一読法はなぜ通読をしないのか(その二)
 (1)一読法による『鼻』の授業実践(前半復習)
 (2)芥川龍之介『鼻』の授業実践(後半) ―――本 号
 (3)「傍観者の利己主義」について
 (4)なぜ通読をやめようと言うのか
 十 実践編の「まとめ」

 理論編・実践編の後書き
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 本号の難読漢字
・可笑(おか)しそうな・慳貪(けんどん、欲深く思いやりのない人間のこと)の罪を受ける(仏教において「地獄に堕ちるぞ」といった意味合いの言葉)・陥(おとしい)れる・豹変(ひょうへん)・機嫌(きげん)・一括(ひとくく)り・些細(ささい)・勿論(もちろん)・喧伝(けんでん)・貶(おとし)める・平生(へいぜい)・被(こうむ)る

********** 小論「一読法を学べ」*************
 『 一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』 21

 九 一読法はなぜ通読をしないのか(その二)

(2)一読法による『鼻』の授業実践(後半)

[一] 鼻が短くなると予想外の反応が

 さて、前半最後における未来予想を終えると、いよいよと言うか、ようやく後半に進みます。内供の「長い鼻が短くなった」ところまでは意味段落三でした。私はそこまでを前半としたので、これから後半です(二つに分けると、分量では前半が四分の三、後半が四分の一です。それで構わないと思います)。
 内供は鼻が短くなったことで、「こうなれば、もう誰も嗤うものはないのにちがいない」と思った。
 授業では、これを内供の未来予想(期待)の言葉として、周囲の反応もあれこれ予想しました。
 我等の予想は三つに分けられ、「相変わらず嗤った=反感?」と「鼻が短くなって良かったですね」と言ってくれる=同情?」。そして「どちらでもない」反応として「ア・イ・ウ」とまとめました。予想の板書を再掲します。
 なお、授業では3の「ア・イ・ウ」に「傍観者・愛情・ありのまま」を追加しました。
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 ○ 鼻が短くなった内供に対して周囲の人は《未来予想》

※ 内供の期待
 「もう誰も嗤うものはないのにちがいない」
 (普通の人としてみてくれるはず、陰で嗤うことがなくなるはず)
※ 周囲の反応
1 冷淡かもしれない。相変わらず陰で嗤うかもしれない。(内供に反感を抱く人?)
2 鼻が短くなって「良かったですね」と言ってくれる。(内供に同情している人?)
3 どちらでもない[反感・同情どちらの態度も示さない]
 (ア)内供に興味関心がない人。(気付かないかも?) 傍観者
 (イ)内供を愛している人(母親)。(黙っている?) 愛情
    内供に同情しているが、黙っている人。
 (ウ)内供の鼻が長くても、短くてもそれでいいと思える人。 ありのまま
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 前号のように、作品前半を詳細に精読していれば、この予想にもう一つ「もっとひどい反応が示される」と入れたくなるかもしれません。それほどに内供の内心と表面の違い、策を弄したところ、感謝の言葉が出ないなど、悲観的な未来が起こるかもしれないと予感させます。つまり、ひどい事態が起こったとき、その理由はとても周囲の人だけに負わせるわけにはいかない、と感じます。

 それはともかく、鼻が短くなった内供が「幾年にもなく……のびのびした気分」」になった数日後、予期せぬことが起こります。
 前号で書いたように、次の段の冒頭は「ところが二三日たつ中(うち)に、内供は意外な事実を発見した」とあって、逆説の接続詞「ところが」で始まるので、「おやっ、次の変化が始まったぞ」とわかります。しかも、それは何か反対の出来事であると。一読法では前半をじっくり読んでいるので、「意外な事実」の内容は内供の期待と予想を裏切る事態、相当の事件が起こったな、と予想できます。

 では何が起こったか。意外な事実を確認していきます。出来事を内供の反応(内心)を含めて箇条書きにすると、以下の通りです[書き込みも入れました。数字は本文にはありません]。
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※ 数日後の意外な事実 と(内供の内心)

1 内供と対面したある侍は「前よりも一層可笑(おか)しそうな顔をして~じろじろ内供の鼻ばかり眺めて」いた。
 初登場 ある侍! なぜ内供の鼻ばかり見ていたのか? 
2 鼻もたげを失敗した中童子は「下を向いて可笑しさをこらえていたが、とうとうこらえかねたと見えて、一度にふっと吹きだしてしまった」。
 再登場 中童子! 吹きだした理由は? 反感か?
3 内供の用を言いつかった下法師たちは「面と向かっている間だけは、謹んで聞いて」いるが、「内供が後さえ向けば、すぐにくすくす笑い出した」。
 初登場 下法師! くすくす笑った理由は? 反感か?
・内供(「以前はあのようにつけつけとは嗤わなかった」と不思議に思い、ふさぎこむようになった。
 内供の思い 不思議 ふさぎこむ 「つけつけ」とは?
【作者の解説】(周囲が示した言動の理由は「傍観者の利己主義」である)
 理由! 矛盾した二つの感情! 「傍観者の利己主義」とは? 作者なぜ?
・内供(「そこで内供は日毎に機嫌が悪くなった。二言目には、誰でも意地悪く叱りつける」ようになった)
  内供の変化! 不機嫌 誰でも意地悪く叱りつける なぜ?
4 鼻の治療をした「弟子の僧でさえ、『内供は法慳貪の罪を受けられるぞ』と陰口をきく程に」なった。
 再登場! 治療をした弟子 法慳貪の罪? なぜ陰口を言ったのか? 反感か?
5 ある日いたずらな中童子が二尺ほどの木の棒を持ち、「鼻を打たれまいぞ」と言ってむく犬を追い回していた。それは内供が食事の時に使っていた鼻もたげの板だった。
 中童子はなぜそんなことをしたのか? 反感か?
・内供(「中童子の手からその木の片(きれ)をひったくって、したたかその顔を打った……内供はなまじいに、鼻の短くなったのが、かえって恨めしくなった」)
 内供の怒り! 暴力! 彼はなぜ怒ったのか、なぜ暴力までふるったのか?
 結局「鼻が短くなって良かったですね」と言ってくれた人は一人もいない。
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 ここでは前半最後の未来予想がどうなったか、その書き込みも増えます。最大の予想不的中は誰も「鼻が短くなって良かったですね」と言ってくれなかったことです(作者が書き忘れたのでないことは明らか)。

[二] 周囲の反応と傍観者の利己主義説

 実はこの書き込み部分はほとんど私の疑問や感想です。私は「侍」と「下法師」は「初登場!」、「中童子」と「鼻の治療をした弟子」は「再登場!」と書いて抜き出します。
 生徒の傍線や書き込みで最も多いのは「傍観者の利己主義」であり、これに疑問の[?]を付けたり、「周囲のひどい反応!」とか「理由=傍観者の利己主義!」と抜き出すことが多く、周囲の反応一つ一つはあまり重要視していません(つまり、さらりと読んで深く考えようとしないということです)。

 もちろん鼻の治療をした弟子が陰口を言った所に《同情が消えて反感!》と書くなら、これはかなり的確な書き込みです。この弟子は内供の策略に対して「反感と同情」を感じていた。あのときは同情が勝っていたが、態度が豹変した内供を見て同情が消え失せ、反感が表面化したというわけです。
 また、中童子が鼻もたげの板を持ってむく犬を追い回す場面は「なぜそんなことをしたのか?」と疑問を記す生徒が多い。ここはぜひ[?]を付けたいところです。

 問題はこの「なぜ?」に対してすぐに答えが出ることです。
 生徒に聞けば、「中童子は傍観者の利己主義を感じた」とか、「不幸を克服した内供に対してもう一度同じ不幸に陥れてみたいと思ったから」と返ってきます。
 しかし、この説明、わかったようで、よくわかりません。「同じ不幸に陥れてみたい」との気持ちが、どうして鼻もたげの板を持ってむく犬を追い回すことにつながるのか。疑問はむしろ深まるくらいです。

 私は周囲の反応と内供の心理、行動の全てに「なぜ?」と記し、周囲の反応は「反感か?」と[?]を付けました。と言うのは、周囲が示した言動はとても一つにくくれない、一括りにするべきではないと感じるからです。そこで周囲の反応を以下のように順番をつけて短く列挙しておきます。
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 [周囲の反応]
 1 ある侍(内供の鼻をじろじろ見た)
 2 中童子(ふっと吹き出した)
 3 下法師たち(くすくす笑った)
 ※ 作者登場「傍観者の利己主義」説→内供の様子が豹変した
 4 鼻の治療をした弟子(陰口をきいた)
 5 中童子(「鼻を打たれまいぞ」と言ってむく犬を追い回した)
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 作者が解説した傍観者の利己主義とは「人間の心には矛盾した二つの感情があり、誰でも他人の不幸に同情しない者はない。だが、その人が不幸を克服すると、物足りなさを覚え、もう一度同じ目にあわせたいと感じる。人はそのような意地悪な心を持っている」とまとめられます。つまり、内供の鼻が長かったときはみな内供に同情していた。だが、今や内供は不幸を克服した。それで周囲の人は物足りなさを覚え、もう一度その不幸に陥れてみたいという気持ちになった――と言わんばかりです。

[三] 内供の豹変とその理由?

 この解説を読んだ生徒は当然のように、周囲が見せた反応の理由として「傍観者の利己主義」を□で囲み、余白に抜き出します。そして、周囲の反応を一括りにして「ひどい行動」とまとめます。作者が解説しているのだから、そのようにまとめるのは無理からぬところです。
 そうなると、五つの反応の原因はただ一つ、「傍観者の利己主義」に集約されます。
 私は「そうだろうか。この作者の解説は正しいだろうか」と問題提起して1~5を一つ一つ検討します。

 その前に、周囲が見せた反応に対して「では内供の方はどの様な言動を取ったか」、それも以下のように抜き出しておきます。文頭の数字を(3)(5)としているのは上記123の後、45の後に入るという意味です。
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 [内供の反応]
 ※ 作者登場「傍観者の利己主義」説
(3)内供は日毎に機嫌が悪くなった。二言目には、誰でも意地悪く叱りつけるようになった。
  ↑(鼻の治療をした弟子の僧でさえ、「慳貪の罪を受けるぞ」と陰口を言った)
(5)ある日むく犬を追い回す中童子の手からその木の片(きれ)をひったくって、したたかその顔を打った。
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 もしも「傍観者の利己主義」説が書かれていなかったら、123の後直ちに(3)内供の変化へと続きます。すなわち、内供の短くなった鼻をじろじろ見た侍。次いで「ふっと吹き出した」中童子、「くすくすわらった」(ここはひらがなにします)下法師の様子が書かれた後、(3)内供は日毎に機嫌が悪くなって誰でも意地悪く叱りつけるようになった、という展開です。

 確かに人はわけもなく不機嫌になる生き物ではあります。しかし、「誰でも意地悪く叱りつける」となると、ただごとではありません。「誰でも」は周囲の人全て、寺に関係した人みんなと受け取れます。当然下法師も中童子もそこに入る。
 なぜそれができるかと言えば、内供がその寺で最も偉い人だからです。今で言うなら、社長に部長に課長、知事や市町村長など「長」と名の付く人。彼らは部下が失敗すると、責任ある者として叱責する。これもよくある話。

 だが、内供の叱り方は「意地悪く」というのです。これは周囲の者にとってかなり理不尽な、そんな些細なことも叱るのですか、と言いたくなるほどの叱責だったのではないか。
 あるいは、昨日も言ったばかりじゃないか。なぜ同じ失敗を繰り返すんだ、と怒鳴ったり、一つ叱り始めたら、あれもこれもと問題にしてなかなか説教が終わらない……等々部下にとって困った上司に変わったようです。

 この叱責は鼻の治療をした弟子には及んだのか。さすがに及ばなかった気はしますが、4にあるように弟子の方はあきれて陰口を言うほどだった。この「弟子でさえ」の「さえ」は注意したい言葉です。内供の悩みが深いことに気付き、同情した人でさえ陰口を言うのだから、内供の内心を知らない僧俗は、たくさんの陰口をひそひそ交わしただろうと想像できます。

 それほど内供の変化は過激なのに、作者がたった一行で済ませたのはちょっと不満ながら、ゆえに、こちらでふくらませねばなりません。
 余談ながら、4「弟子の陰口」に対して内供の反応となるべき(4)は本文にありません。
 敢えて創作するなら「弟子の言葉は陰口だったから、内供に届くはずもない」とでもなりましょうか。おそらく、内供に面と向かって「意地悪く叱りつけていないですか」と忠告する人もいなかっただろうと思われます。今で言うなら長と名の付く人が見せる「パワーハラスメント」でしょう。

 とにかく内供は激変した。そして、(5)ある日むく犬を追い回す中童子に対して暴力までふるった。ここはどうしても《内供が豹変した理由》を知りたい。作者からすると、読者が納得できる理由を書き込まねばならない。
 そこで作者は「傍観者の利己主義」説を挿入させた、ということになります。「人間というものは人が不幸を克服すると、もう一度その不幸に陥れてみたいと感じるような生き物だ。内供はそのような姿を見たので変わったんだ」と。

 こここそ次のようにつぶやいてほしいところです。「ほんとにそうなの? ほんとに周囲はそう思っていたの? 内供はそれをどうやって知ったの?」と。
 傍観者の利己主義説は4・5の後に入った理由説明ではありません。1・2・3の後に挿入されています。つまり「侍・中童子・下法師たち」は本当に内供をもう一度不幸に陥れてみたいと思ったのか。だから、じろじろ見たり、笑ったりしたのか――作者の解説は正しいか、検証されねばなりません。

[四] 作者はなぜ理由を解説したのか

 このように内供と周囲の様子をいろいろ想像したところで、いよいよ肝心の話題に移って私は次のように問題提起します。
「では、内供が豹変した理由は周囲が傍観者の利己主義を示したから、つまり周囲が意地悪な心を示したから――となるよね(生徒うなずく)。でも、周囲の人が意地悪な心を持っているからと言って人はそんなに変わるものだろうか。特に中童子を殴るほどの暴力行為を起こすだろうか」と聞くと、
「それは中童子が鼻もたげの板を持ってむく犬を追い回していたからでしょう?」との答えが返ってきます。

「確かにそれは関係ありそうだ。だが、中童子はなぜそんな行動を取ったんだろう? それも傍観者の利己主義であり、意地悪な心からかい?」と問えば、うなずく生徒だけでなく、頭をひねる生徒もいます。内供のように「どうもそれだけではない。もっと深い何かがありそうだ」と感じるからでしょう。
 中には「私もこの部分はよくわかりませんでした。なぜ中童子がむく犬を追い回したのか、それも鼻もたげの棒を持って『鼻を打たれないようにしろ』と言ったのか。そして、内供はなぜひどく怒って中童子をぶったのか。わかりそうだけど、うまく説明できません」と言う生徒もいます。
 私は「傍観者の利己主義説だけでは何か足りないと感じるのは鋭い感覚だよ」と応じます。

 結論を先に書くと、1・2・3で示された周囲の反応は驚きと「わらい」だが、この「わらい」を、内供は漢字の「嗤い=嘲笑」と感じた。そして、4の「陰口」は鼻の治療をした弟子が内供の豹変を見たゆえの言葉であり、5も内供の変化(意地悪く叱りつけるようになったこと)を受けて中童子が悪意ある行動を取った――それが描かれている。特に4と5は1・2・3と全く異なっており、決して同じ理由による言動ではない。
 だからこそ一つ一つ分けて検討する必要があるのです。

 ところが、こうした考察をさせてくれないのが本作です。作者は3の後で、周囲が示した反応の理由を一つにまとめて「傍観者の利己主義」と解説しました。内供はなぜつけつけ嗤われたのか。「その理由は人間が持つ傍観者の利己主義であり、それが内供に対して発揮されたから」と言うのです。
 本来の一読法なら、周囲の反応一つ一つを検討して「なぜ?」の原因・理由を探ります。しかし、その答えが作者によって明かされてしまいました。それも一つだけ。なぜ作者は答えを明かしたのか。この「作者なぜ?」はかなり難解です。
 もちろん「そんなの作家の勝手だろ」とは言わせません。純文学創作者は「どのように描くか」について心身をすり減らし、練りに練っている人たちです。思いつきをさらりと書くような作家など一人もいないと思います。

[五] 作者から読者への挑戦状

 私はこの部分を作者芥川龍之介による読者への挑戦状と受け取りました。
 まるで「ぼくは周囲が示した反応の理由を一つだけ書きます。読者は傍観者の利己主義説に賛同されますか。そんなことはありませんよね。もしも同意されるなら、あなたは内供さんと同じですよ」とでも言うかのように(後述)。

 以前次のように書いたことがあります。「生徒は『傍観者の利己主義(人は意地悪な心を持っている)』といった答えを知ると、なかなかそこから離れることができない」と。
 一読法の根本は極端に言うと、登場人物全ての言動、心理について「なぜ?」とつぶやくことです。しかしながら、表面に現れた一つの答えを知ると、生徒は「なぜ?」と問うことを忘れ、他の可能性がないか考えることをやめてしまう。結果、「それが重要だ」と思って「傍観者の利己主義」の方を一生懸命再読して、そちらの言葉には傍線を引いたり□で囲むのに、周囲の反応の方は「ひどい反応」の一言で終わりにしがちです。

 このようなことは以前もありました。鼻を短くする治療のところで、内供は策を弄し、弟子はそれを見抜いた。作者はそこで「内供のこの策略がわからない筈はない」と書いた。「何々しない何々はない」は二重否定であり、強い断定。自信にあふれた言葉です。

 私たちは人と話しているときなど、このように自信を持って断定されると、「あれっ」とつぶやいたり、「本当にそうだろうか?」と疑問を持つことを禁じられたような気持ちになります。相手から「こんなことは誰でもわかる。明白なことではないか」と言われた気がして「私にはよくわからないんですけど……」と言うのが恥ずかしい気持ちになるからです。

 だが、五歳児なら「知らないことが恥ずかしい」などと感じません。だから、何でも平気で「それはなぜ? どういう意味? ほんとにそうなの?」と問うことができます。一読法授業とは正に「五歳児に戻る」訓練なのです。
 私はここで「作者の解説を鵜呑みにしちゃいけない。周囲の反応についてもっと精読しなきゃ」と言います。

 ただ、このように書くと私が作者芥川龍之介を「批判している」と思われるかもしれません。
 もちろんそんなことはありません。この部分は読者が最も誤解しやすいところであり、その誤解に気付かねばならない。「傍観者の利己主義」と解説した作者がおかしいのではなく、読者が「答えはそれ一つ」と思い込んで、「なぜ?」と問い、さらなる検討をやめてしまう。そこが問題ありと言いたいのです。
 作者は周囲が見せた反応の理由を一つだけ書いた。「それでいいのですか」とひそかに問うている。もしも読者が「傍観者の利己主義」説を使って周囲の反応、対する内供の言動を全て説明しようとするなら、それは作者が仕掛けたわなにかかったことを意味する――と私は考えています。

[六] 周囲の反応123を検証する

 では、傍観者の利己主義の前に、内供が周囲の反応に対して不可解に感じた部分(1・2・3)をしっかり読んでいきます。
 内供は鼻が短くなったことで「こうなれば、もう誰も嗤うものはないのにちがいない」と思った。ところが、予期に反して嗤われている。

 最初に登場するのは内供と付き合いのあった一人の「侍」です。この人物は「僧俗」の「俗」を代表しています。「前よりも一層可笑しそうな顔をして~じろじろ内供の鼻ばかり眺めていた」とあり、一例であっても、そのような人は他にもいたであろうと想像できます。彼らは内供の鼻をただ見つめるだけで何も言わなかった。おかしそうな顔はしているのに。なぜか?

 ここで「ある侍はなぜ内供の鼻ばかり見て何も言わなかったのだろう?」と問えば、生徒の答えは明快です。「内供がこれまで長い鼻のことを何も語らず、気にしない顔をしてすましていたのだから、ここで改めて話題にすることもしづらいはず」と。

 私も「彼らは寺の僧ではない。内供とたまにしか会わない、いわば遠くの人。当然内供の内心を知らない。もしも内供がとても悩んでいると知っていたら、つまり、普段から長い鼻を話題にしていたら、すぐに「おや、鼻が短くなって良かったですね」と言っただろう。だが、これまで一度も鼻について話題にしたことがなかった。
 侍は『話もろくろくせずに、じろじろ内供の鼻ばかり眺めていた』とある。それは自分から鼻の話題は切り出しづらいので、内供から話題にしてくれるのを待っていた、と解釈できる。侍の心理を探るなら、『やっぱり内供さんは長い鼻を悩んでいたのか。だが、短くした今も何も語らない。さて、こちらから何か言った方がいいのか、言わない方がいいのか』という戸惑いの気持ちだろう。
 結局、二人はこの件を語ることなく、別れたようだ。もっとも、さほど親しくない人に自分の悩みを打ち明ける人はそんなにいないよね」と補っておきます。

 そして、次に登場するのが以前鼻もたげで失敗した「中童子」と、(初登場の)「下法師たち」。彼らは僧俗の「僧」を代表している。いわば内供の近くの人であり、日々内供と接している人たちです。

 まず中童子は「可笑しさをこらえかねた」ように「一度にふっと吹き出して」しまう。そして、用を言いつけた下法師たちは面と向かっているときは神妙に聞いているけれど、「内供が後さえ向けば、すぐにくすくす笑い」出す。それも「一度や二度の事ではない」とあります。一体この「わらい」は何だったのか。

 この疑問はしばし保留として先を読めば、内供がこれら周囲の反応に対して不可解な思いを抱いたことがわかります。「同じ嗤うにしても、鼻の長かった昔とは、嗤うのにどことなく様子がちがう。そこにはまだ何かあるらしい」と感じる。「前にはあのようにつけつけとは嗤わなんだて」と内供はつぶやきます。
 ここで当然「つけつけ」の意味を辞書で確認します。その前に何名かの生徒に「つけつけと嗤う様子を表現しなさい」と言ってよく演技してもらったものです。
 生徒はおかしさをこらえるように「くっくっ」と笑ったり、声は出さずににやにやしたり……面白いところでは、隣の生徒を引き込み、二人で顔を見合わせて「声を出さずに大笑いする」なんてのもあって、その仕草はそれこそ爆笑ものです。総じて笑い声は出ていないとイメージする方が多いようです。

「では、辞書で確認してみよう」と調べてみると、「つけつけ」とは「遠慮や加減をしないで、思ったことをはっきり言うさま。ずけずけ」とか、「無遠慮に振る舞うさま」とあります。意外にも遠慮なく、あからさまに嗤われたことがわかります。我々が受け取るイメージと違って内供には、はっきり嗤い声が聞こえていたようです。
 つまり、内供の鼻が長いときは、嗤っていたとしても遠慮がちであった。内供の目に見え、耳に聞こえるような嗤い方ではなかった。それが鼻を短くしたとたん、遠慮も加減もなく、ずけずけ嗤われるようになったというのです。「一体なぜ?」と思います。

[七] 内供には明が欠けている?

 ところが、ここで「内供には、遺憾ながらこの問いに答えを与える明(めい)が欠けていた」と書かれます。「明が欠けていた」の「明」とは明らかな知恵、考える力であり、それが欠けている。つまり、内供にはなぜ周囲が以前と違う反応を示すようになったのか、その理由がわからなかった、と言うのです。

 もちろん、表面的な理由は内供の鼻が短くなったことにある。内供も「自分の顔がわりがしたせい」であり、「見慣れた長い鼻より、見慣れない短い鼻の方が滑稽に見える」からだろうと考えた。だが、もっと深い理由がありそうだ。それが内供にはわからない、というわけです。

「ちなみに『明が欠けていた』という表現は内供じゃなく、作者の言葉だね。それとこの表現には《上から目線》と言うか、少々軽蔑的な響きも感じられる」と補足します。
 ここでつぶやきたい疑問があります。それは「内供はなぜわからないのか? 明が欠けているからと作者は言う。では、内供に必要な考える力とは一体何だったのだろうか?」と。

 私はこの疑問を解明するために、「この部分普通は次のように書くのではないか」と提起します。

 「内供には、遺憾ながらこの問いに答えを与える明が欠けていた」
→「内供にはなぜ周囲の僧俗がつけつけと嗤うようになったのか、その理由がわからなかった」と。

 こう書けば済むところを、作者は「明が欠けていた」などと皮肉っぽく、しかし自信に満ちて断定した。彼に「わかるはずがない」とでも言うかのように。その一方、この少し前には、理由がわからず「ふさぎこむ」内供について「愛すべき内供」とあることにも注目させます。
 要するに、内供についてかたや「愛すべき」と言い、かたや「明が欠けていた」と言う。この二つの表現には作者の矛盾した心情が感じ取れます。『鼻』を執筆したのは芥川龍之介が二十歳を少々過ぎた頃です。

 矛盾した心情の一つは「あんたは五十にもなって、内道場供奉という高僧にも選ばれ、仏教を学んだだろうに、そんなことさえ気付かない。周囲の気持ちを推理できないのかい?」といった非難の気持ち。もう一つは「でも、なかなかわからないだろうね。それは無理からぬことかもしれない」という同情の気持ち。
 そこで「これまで周囲の心情として反感と同情の言葉が出てきた。作者もまた内供に対して反感と同情の気持ちを持っていることがここでわかる」と説明しておき、相反する感情がなぜ作者にわき起こるのか。そして、なぜそれを明かすのか――この疑問は「最後に改めて考えたい」とします。

[八] 内供に理由がわからなかったわけ

 もっとも、内供に周囲が示した反応の理由がわからなかったわけは、すでに前半に書かれています。内供はなぜわからなかったのか。作者が「明が欠けている」と見なした根拠はどこにあるのか。この答えを導き出すための質問が以下、
「鼻が短くなったとき、我々は未来を予想した。その中のある部分を読めば、『ああ、これでは内供に周囲の反応の理由はわからないだろう』と推測できる表現がある。それはどこ?」と聞けば、生徒はしばしの熟考後「『こうなれば、もう誰も嗤うものはないのにちがいない』のところですか?」との答えが返ってきます。
 内供は周囲が誰も嗤わないだろうと予測している。「予想外の出来事が起こったので、理由がわからないのだ」と。

「そう。内供は鼻が短くなったことで『もう誰も嗤うものはないのにちがいない』と思って他の可能性を全く考えなかった。我々は他の可能性をいくつも考えた。もしかしたら『相変わらず嗤われるんじゃないか』とか、『短くなって良かったですねと言ってくれるんじゃないか』とか、無関心で黙っているかもしれないとか。つまり、未来をあれこれ予想した。
 このようにいろいろ考えられるのが『明がある』人の特徴であり、逆に一つしか考えられない人のことを、作者は『明が欠けている』と言っているんだ」

 ここで私は板書した未来予想の内供のところに「明が欠けた生き方=一つのことしか考えられない」、周囲のところに「明のある生き方=可能性をいろいろ考えられる」と追記します。そして、「内供に必要な《明》ってこのようにいろいろ考えることができる力なんだ」と補足します。

 さらに、続けて「念願かなって鼻が短くなったとき、内供は未来を一つしか予想できなかった。『こうなれば、もう誰も嗤うものはないのにちがいない』と。ところが、『意外な事実を発見した』とある。この『意外』というのは、未来をいくつも予想した我々読者にとっての《意外》ではない。内供一人にとっての《意外な事実》だ。
 内供は他の可能性を全く考えなかった、考えられなかった、考えようとしなかった。だったら、理由がわからないのは当然じゃないか。だから、作者が登場して理由を教えてあげた……。

 だが、こう考えてみると、ある大変なことに気付くね。なんと作者は周囲が示した反応の理由を一つしか書いていないんだ。一つとは限らないじゃないか」

 そろそろ読者各位はお気づきでしょうか。この理屈を押し通すと、作者こそ《明が欠けている人》になりはしませんか。なぜなら、作者は周囲が示した反応の理由を「傍観者の利己主義(人は他人の不幸に同情するが、その人が不幸を克服すると、物足りない気持ちになってもう一度その不幸に陥れてみたいと感じる)」と一つしか書いていないからです。さあ、どうする?

 あるいは、このようにつぶやかれるでしょうか。「一つしか思いつけないなら、芥川龍之介だって明の欠けた人だ」と。そして、「人の不幸は蜜の味という。人間なんて誰でも人の不幸を喜ぶような意地悪な心を持っている。それは人間の普遍的真実だ」と作者の解説に同意されるなら、読者もまた《明の欠けた人》ということになりはしませんか。

[九] 「傍観者の利己主義」説、最重要語は?

 この疑問をどう解決するのか。そこはひとまず保留として、次の段落において「傍観者の利己主義」を含む作者の解説が披露されるので、それをもっと検討します。
 この部分、私としては「作者の解説は正しいか?」と書き込んでほしいところです。が、そのような疑問を提起する生徒はまずいません。そこで次のように質問します。

「『傍観者』・『利己主義』の意味がわかりづらいと[?]を付けた人も多いだろう。そこはひとまず置いといて、この部分の最重要語として《傍観者の利己主義》を□で囲って余白に抜き出した人は?」と挙手を求めます。
 生徒は当然のように全員手を挙げます。
「確かに傍観者の利己主義は周囲の反応がなぜ起こったのか。その理由を説明している。だが、ここにはもっと重要な言葉がある。その言葉こそ□で囲い、[!]を付けて抜き出さなきゃならない。それはどの言葉だ?」と尋ねてさらなる熟読を求めます。

 では、その言葉とは何か。以下「傍観者の利己主義」説を全て掲載しますので、読者各位も(先を読まずに)考えてみてください。
 私はその後「この作者解説はほんとに周囲の人の反応を説明する理屈だろうか。違うんじゃないか」と問題提起します。この質問の意味するところと、答えも考えてみてください。よーく読めば「わからない筈はない」と思います。

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 人間の心には互いに矛盾した二つの感情がある。勿論、誰でも他人の不幸に同情しない者はない。ところがその人がその不幸を、どうにかして切り抜けることができると、今度はこっちで何となく物足りないような心持ちがする。少し誇張していえば、もう一度その人を、同じ不幸に陥れてみたいような気にさえなる。そうしていつの間にか、消極的ではあるが、ある敵意をその人に対して抱くようなことになる。――内供が、理由を知らないながらも、何となく不快に思ったのは、池の尾の僧俗の態度に、この傍観者の利己主義をそれとなく感づいたからにほかならない。
 そこで内供は日毎に機嫌が悪くなった。二言目には、誰でも意地悪く叱りつける。……
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[以下の空白は答えを見る時間を延ばすためです。あれこれ考えた人は先へどうぞ]


 さて、答えです。「傍観者の利己主義」以上に重要な言葉、それは「敵意」です。
 そして、この部分は「周囲が示した反応を説明する理屈」ではなく、「内供の内心を――内供が心中感じたこと」を説明しています。作者が解説したのは内供の感情です。内供はつけつけと嗤う周囲に対して自分への敵意を感じ取ったのです。なぜそう言えるのか。

 さすがに再読三読して「傍観者の利己主義よりもっと重要な言葉は?」と聞けば、「これですか」と指摘できる生徒が増えます。しかし、「矛盾」とか「感情」と答えるなど、まだわからない生徒には、
「傍観者の利己主義のところはここに出てくる別の言葉に置き換えることができる。その言葉は?」と聞けば、ようやく「敵意ですか?」と返ってきます。

「そう。《敵意》だ。内供が何となく不快に思ったのは池の尾の僧俗の態度に、敵意を感じたからだ。敵意の方が傍観者の利己主義よりよっぽどわかりやすい。それも消極的な敵意とある。消極的の反対語は?」
「積極的!」
「消極的も積極的も以前登場していたね。では、積極的な敵意とはどのような態度、言動だろうか?」と問えば、「面と向かって激しくののしったり、憎々しい目をして暴力をふるわれそうになったり、事実暴力をふるわれること」などが出てきます。「アメリカだったら銃、日本だったらナイフを突きつけられたら、敵意を感じると思う」との発言もあります。

「そうだよね。では、内供が感じた消極的敵意を端的に表した言葉は?」
「つけつけと嗤う、ですか」
「そう。池の尾の僧俗――僧侶と一般の人は鼻が長かったときは嗤っていたとしても、陰に隠れていた。ところが、鼻を短くしたら、あからさまに、無遠慮に嗤う声が聞こえるようになった。内供はそれを自分に対する敵意と感じたわけだ。

 これを逆に言うと、鼻が長かったとき、内供は周囲の反応を敵意と感じたことはなかったことがわかる。なのに、鼻が短くなったら、敵意だと感じた。そして、消極的であろうが、敵意を感じたからこそ、その後の内供は変わった。『二言目には、誰でも意地悪く叱りつける』とある。内供は鼻が長かったとき、誰でも意地悪く叱りつけるような人ではなかった。ところが、内供は変わった。終いにはいたずらな中童子に暴力までふるってしまった。これこそ内供が示した敵意、敵対行動だ。報復と言っていいかもしれない。『お前達が私に敵意を示すなら、私も報復するぞ』といった感じだ。
 内供が周囲の態度や言葉、つけつけと嗤う声に敵意を感じたことは最後に『それとなく感づいた』とあることからもわかる。つまり、作者が説明したのは《内供の感情》なんだ」

 このように読みとると、またも「作者なぜ?」と書きたくなる新たな疑問が生まれます。
 読者にとっては以下のように、「傍観者の利己主義」を削除して「消極的な敵意」と書いてもらった方がわかりやすかったはずです。

 内供は理由を知らないながらも、池の尾の僧俗の態度に、消極的な敵意を感じた――と。

 ところが、作者は「敵意」としていいところを突然のように「傍観者の利己主義」と書きました。「一体それはなぜ?」とつぶやきたくなるし、先程書いたように、「なぜこの理由一つしか書かなかったのだろう?」との疑問が湧きます。

[十] 二つのたとえ話

 この件もまたひとまず保留として、私は周囲が見せた1~5の反応と内供の言動(3)と(5)をもっと精読し、作者による「人間の心には互いに矛盾した二つの感情がある~傍観者の利己主義」説について「一見人間の本質を語っているように思える。だが、そうだろうか」と提起します。
 ここで私が用意するたとえ話は二つ。一つは不謹慎ながら「校長先生のはげ頭」、もう一つは(前々号で取りあげた)「もしも自分の親や親友が病気で入院したら」の具体例です。

 まず周囲の僧俗が最初に見せた反応について
 1 ある侍は内供の短くなった鼻をじろじろ見た、
 2 中童子はぷっと吹き出し、
 3 下法師たちはくすくすわらった。

「これらは敵意だろうか」と問題にします。「たとえば、敢えて例に挙げると校長先生のはげ頭。男性の校長先生は一般的に頭髪の薄い人が多い。その校長先生が朝礼で『うそをつくのは良くないことです』と訓辞を垂れている。髪を赤く染めた女子生徒に対して『それは校則違反だ。頭髪は自然のままで。髪を染めるのはやめましょう』と説教している……としよう。

 ところが、ある日あるとき校長先生の頭がふさふさと真っ黒になっていることに気付く。彼はかつらをかぶった。それを見たとき、君らはぷっと吹き出し、みんなでそれを話題にして陰で笑うだろうね。それに見ちゃいけないと思いつつ、じろじろ眺めるんじゃないだろうか」
 生徒はほぼ全員うなずきます。

「でも、それは反感か? 敵意か?」と聞けば、「別に校長先生に反感とか敵意は持たない。ただ、何だか失望するし、今まで生徒に対して言ってきたことは何だったのだろうと感じる」と答えます。
 私はさらに「では、もしもかつらをかぶった校長先生が君たちを、がみがみ叱ったり、君の生活態度を厳しく注意したらどうだろう」と聞けば、「反感が強くなるかもしれないし、自分だけしつこく言われたら、敵意を感じるかもしれない」との感想が出てきます。

 これを内供と周囲の僧俗に当てはめれば、1・2・3は「反感」ではない。ぷっと吹きだして笑っただけ。嘲笑ではなかった可能性が高い。もちろん敵意なんかではない。ただ、鼻が短くなったことで「なんだ。そうだったんだ」と気付いた。「今まで内供様は鼻が長いことなど気にもしていない」と思っていた。そのような態度を示していたのだから。だが、それは外見だけであることがわかった。

 今まで内供の内心と表面の違いについて知っていた人は、鼻の治療をした弟子などごく少数であり、多くの僧俗は知らなかった。だが、鼻を短くしたことで、内供の内心が一気に表面化した。つまり、うそをついていたことが白日の下にさらされてしまった。今まで見せていた態度はうそだとわかった。

 周囲はこれまで内供を、皇室にも出入りするほどの高僧であり、有徳の人として尊敬していたかもしれない。だが、そのイメージは一気に崩れた。尊敬はおそらく失望や落胆に変わっただろう。周囲はその気持ちを、内供の鼻をじろじろ見るとか、くすくすわらうことで表した。鼻を短くした内供は普通の人になったのだから、もう遠慮する必要もないと感じた。だが、周囲が見せたこれらの反応は《敵意》ではない。嘲り笑うという意味の嘲笑でもなかった。

 このように、校長先生のたとえ話によって三者の反応は《敵意》ではないと理解できます。ただし、作者はそのつもりで書いているか、と疑問が湧くかもしれません。もちろん作者もそのつもりで書いています。それはある言葉からわかります。

「三者の《わらい》が嘲笑ではないと言い切れる根拠はある言葉からわかる。作者は侍、中童子、下法師の《わらい》はほぼ同じであること、対して内供が感じた《わらい》は別種のものとして明確に分けている。さて、その言葉とはどれだ?」と尋ねます。
 これは一言一句念入りに読まなければ出てこない問いです。わからないようだと「それは違う言葉ではない。同じ言葉で漢字表記を変えている」とヒントを出すと、さすがに「笑うと嗤うですか」と気付きます。

「そう。ある侍のところは『可笑しそうな顔』であり、中童子も『可笑しさをこらえていた』、下法師たちは『くすくす笑い出した』と全て《笑う》の漢字が使われている。だが、その直後内供の内心を描いたところでは、『同じ嗤うにしても~嗤うのにどことなく様子がちがう』と『嗤う(嘲笑する)』の漢字を使っている。作者はちゃんと分けているんだ」

 続けて「このように周囲が最初見せた《わらい》はあまり深い意味のない『笑い』だった。だが、内供はそれを嘲笑の嗤いと見なし、なおかつ自分への敵意がこめられていると感じた。だから、彼は機嫌が悪くなり、やがて意地悪く叱りつけるようになった。つまり、内供も敵意を露わにし始めた。

 すると、今君たちが言った通りだ。周囲もまた内供の敵意に対して反感と敵意を強める。鼻を短くする治療をした弟子でさえ、内供への同情が消え、反感の思いは『慳貪(けんどん)の罪を受けるぞ』と陰口として表された。ほんとは『地獄に堕ちるぞ』と言いたかったのかもしれない。そして、中童子だが、その前に……」

「どうだろう。もうそろそろ傍観者の利己主義と解説したところは周囲の人について書かれたものではないとわかったかい?」と聞きます。しかし、遺憾ながら生徒はまだぽかんとしています(読者各位もそうでしょうか)。

[十一] 不幸とは?

 ならば、と私は傍観者の利己主義説が言う「不幸」について考えます。「そもそも問いたい」と言って。
「一つ目、そもそも我々が長い鼻を持つことは不幸なのだろうか。二つ目、内供がそれを不幸であると感じていたなら、周囲の人はどうやって内供の内心を知ったんだ。三つ目。内供がその不幸を克服しようと努力していることを周囲はどうやって知ったんだ?」と。

 たとえば、長い鼻の場合、人間界に長い鼻を持つ人はいまだ一人も発見されていない。だが、猿の世界には「テングザル」と言って正に内供のような長い鼻を持つ猿がいる(知らなければ昔は百科事典で、今ならネットで確認させます)。
「では聞きたい。テングザルは自身長い鼻を持っていることを不幸と感じるだろうか」と。
「喋らないからわからないけど、たぶん感じないだろうと思います」
「そうだね。内供の悩みはそれが自分一人しかいなかったことだ。もしも長い鼻を持つ人がたくさんいたら、彼は食事の時など不便を感じたとしても、自分を不幸とは思わなかっただろう。

 そして、これでわかることがある。たとえば、私たちは片腕のない人を見ると、それは不幸だと思う。目が見えなければ、それも不幸だと思って同情する。だが、当人が不幸と感じているかどうか。不便であると感じても、不幸とは感じていないかもしれない。
 自分のことを不幸だと感じていれば、それは不幸なことだ。だが、不幸と感じていなければ、それは不幸でも何でもない、ごく普通のことになりはしないか。もしかしたら、不幸とは事実そのものではなく、不幸と感じることが不幸なのかもしれない……」

[十二] 推理と邪推

 そして、後の二点に移ります。こちらははすぐに答えが出ます。
 内供は物心ついて以来、表面では長い鼻を気にしないような顔をしていた。内心はかなり悩んでいたので、消極的・積極的な解決法を探ってきた。だが、全く効果がなかった。この全てを誰にも打ち明けていない。だから、内供の内心を知る人はいない。
「かと言って内供の悩みが深刻であることを誰一人気付かなかったか?」と問えば、これまた「そんなことはない」と言える。
 我々は前半をしっかり読んできたので、「気付いた人がいる。最低限鼻の治療をした弟子だけは内供の悩みが深刻であること、治療法を探していること、それらを隠していることを知っていた」との答えが返ってきます。

 ここで「もう一人、内供の内心を気付いた人がいるんじゃないか」と質問します。
 後半で登場した「ある侍、下法師、中童子」と読みあげれば、「鼻もたげで失敗した中童子だ!」の答えが出ます。
「そう。以前中童子が鼻を持ち上げるのを失敗した場面で、内供はどのような態度を取ったか、深く検討しなかった。だが、ここに来て内供が誰でも意地悪く叱りつけるようになったとき――その中に当然中童子も入っているだろう、内供はお粥事件を思い出して中童子には特に厳しくあたったかもしれない。

 そうなれば、中童子だって内供への反感を強め、自分だけ集中攻撃されていると、強い敵意を感じたはずだ。だから、中童子は鼻もたげの板をもってむく犬を追い回し、『鼻を打たれないようにしろよ』と内供への敵意を露わにした。
 ならば、鼻もたげで失敗したとき、内供が取った態度や言葉を想像できるのではないだろうか。内供は果たして『いい、いい。誰でも失敗はある』とか『大したことではない』と言っただろうか」
 生徒からは「かなりきつい、厳しい言葉で叱られたのではないか」との答えが出てきます。

「そうだね。あのときは知らなかったけれど、鼻の治療をしたとき、鼻自体は熱湯に浸かっても熱さを感じないとあった。つまり、長い鼻を熱々のお粥に落としても、別にヤケドするわけではなかったんだ。だが、自分の鼻が、つまり自分が粗末に扱われたと思えば、内供はかなりの剣幕で怒ったと想像できる。

 また、内供は寺の長だ。その他大勢の僧侶や修行僧は集まって食事を摂るけれど、内供の食事は一室で、鼻もたげの弟子と二人だけだったはず。中童子が鼻もたげを失敗したとき、内供は他の僧がいないこともあって余計に激しく叱責したかもしれない。結果、中童子は内供の内心と表面の違いに気付いた。彼が反感を覚えたことはそれを笑い話として言いふらしたことからもわかる。

 かと言ってまだ少年の中童子はそれを根に持つほど意地悪い人間ではないようだ。今や内供の長い鼻は短くなった。はじめてそれを見たとき中童子はぷっと吹き出す程度だ。下法師たちの笑いと大差ない。反感はあったとしても、ただおかしかっただけだ。
 そのとき内供は聞けば良かった。『何かおかしいことでもあるのかい?』と。
 中童子は正直に『内供様の鼻が突然短くなったのでびっくりしました。でも、短くなって良かったですね』と答えたかもしれない。
 だが、内供は聞かない。自分の内心を打ち明けないように、人の内心を聞こうとはしない。結局、内供は推理するしかない。あれは嘲笑であり、それ以上にひどい敵意に違いないと。

 その後内供が中童子を標的としてきつく叱っているなら、鼻もたげの失敗を、単なる推理ではなく邪推した可能性もある。邪推とは人の気持ちを悪く推し量ること。自分に悪意をもっていると疑ってかかることだ。
 回り回った笑い話は内供の耳にも入る。それを喧伝した張本人は中童子しかいない。内供は思う。『あのとき中童子はわざとくしゃみをしたのではないか。はじめから私を貶(おとし)めようと策を弄したのではないか』と」

 ここで生徒から「先生、そりゃあ考えすぎです」との言葉は出ません。内供こそ鼻の治療をしてくれた弟子に策を弄した人ですから。
 もちろんこの想像は策を弄する人ほど、他人の策に敏感であるという傾向を使っています。そういう人ほど相手は自然で素直な言動を取っているのに、策略ではないかと疑ってしまうのです。

 最後に私は中童子がむく犬を追い回した理由について解説します。
「このように考えをめぐらせれば、内供が中童子に対して特に意地悪く叱りつけるようになったことは充分想像できる。中童子は鬱憤がたまったのではないか。内供を殴ってやりたいと思ったことがあるかもしれない。だが、偉い人にそのようなことはできない。それくらいはわかる。結果、中童子は内供への敵意をむく犬に向けた。
 これはいじめを受けた子がいじめっ子に歯向かうのではなく、年下の子をいじめたり、小さな動物を虐待するのに似ているね。中童子は内供に直接手をあげることはできない。だから、むく犬を内供と見なし、鼻もたげの板を使って追い回したんだ。

 この場面でも中童子がまだまだ子どもとわかる表現がある。彼は最初から広々とした境内でむく犬を追い回したのだろうか。いや、おそらく隅っこの方だ。そこにたまたま捨てられた鼻もたげの板を見つけた。もう使われることはないと捨てられたのだろう。中童子はすぐそれに気付いて手に取る。
 さらにたまたま野良犬が尾っぽを振りつつ近付いてきた。よく見かけるむく犬だ。彼は寺で残飯にありつけるので人なつっこいはずだ。自分がひどい目にあうとは思ってもいない。
 中童子はむく犬の顔を鼻もたげの板でぱちんぱちんと叩いた。内供を殴っている気がして気持ちよかったはずだ。そのうち叩き方が強くなる。
 すると、犬はいやがって逃げ始めた。中童子はそれを追っかけた。彼はそれに熱中して広い境内に出てきたことを忘れ、周囲に人が集まり始めたことにも気付かず、『鼻を打たれないようにしろよ』とむく犬を追い回した。

 これもまた多くのいじめが初めはひそかに行われているのに、やがて大っぴらになるのとよく似ている。近くにいる人はそれに気付く。だが、いじめられている方が叫び声をあげないと、遠くにいる人は気付かない……」

 最後の話は「ちょっと本題から逸れるけどね」と言いつつ、私は内供と周囲の未来予想のところに、さらに以下の言葉を追記します。「明が欠けた生き方」とは自分を語らず、周囲の内心を聞こうとしないことであり、「明のある生き方」とは自分を語り、周囲の内心を聞くことだと。
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※ 内供の期待
 「もう誰も嗤うものはないのにちがいない」
 (普通の人としてみてくれるはず、陰で嗤うことがなくなるはず)
 明が欠けた生き方=一つしか考えられない。自分を語ることなく、周囲の内心を聞こうとしない。
※ 周囲の反応
(ア)内供に興味関心がない人。(気付かないかも?) 傍観者
(イ)内供を愛している人(母親)。(黙っている?) 愛情
   内供に同情しているが、黙っている人。
(ウ)内供の鼻が長くても、短くてもそれでいいと思える人。 ありのまま
 明のある生き方=可能性をいろいろ考えられる。自分を語り、周囲の内心を聞こうとする。
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[十三] 我々はいつでも傍観者の利己主義を発揮するか?

 もう一つのたとえは、前々号で紹介した「両親や親友が入院したらどう思うか」という具体例です。「傍観者の利己主義――人が不幸を克服すると、周囲の人はもう一度同じ目にあわせたいと感じる。人間はそのような意地悪な心を持っている」との説は人間の普遍的真実を語っているように思える。だが、本当にそうだろうか、と検討するためです。

「たとえば、君のお父さんやお母さん、または仲の良い友達がひどい病気にかかって入院したとしよう。その後治って退院したとき、君はもう一回病気になれと思うか」と聞きます。
 この問いに「はい」と答える生徒はまずいません。ほぼ全員が「自分は違う。そんなこと思わない」と答えます。ごくまれに「父さん(または母さん)に対してそう思うことがある」と内心を正直に打ち明ける生徒もいます。「でも、本当に病気になったら、やっぱり早く治ってほしいと思う」と続ける生徒がほとんどです。
 では――と私は質問を変えます。
「もしもその人が君の嫌いな人間で、もっと言えば君をいじめたことがあるクラスメイトだったらどうだ。その子がひどい病気になって入院したらどう思う? そして、その子が病気を克服してまた登校してきたらどう思う?」と。

 この問いによって生徒はあることに気付きます。それは人が本質的に他人の不幸を喜ぶような意地悪な心を持っているとしても、その気持ちは相手によって表したり、表さないことがある、ということです。このように考えれば、内供の周囲にいた人は《内供を嫌っていたので、意地悪な気持ちを表した》ことがわかります。つけつけ嗤う嘲笑として、消極的な敵意として。

 ――と安易に「意地悪な気持ちを表した」と書きました。だが、ここでも先程と同じ質問を、今度は内供さんにしなければなりません。
「一つ目。ある侍がじろじろ内供の鼻ばかり見ていたこと、中童子が可笑しそうに吹きだしたこと、下法師たちがくすくす笑ったこと。それは本当に嘲笑なのか、敵意なのか。二つ目。内供さん、あなたはなぜそれが嘲笑だ、敵意だとわかったのか。周囲の内心をどうやって知ったのですか?」と。

 すでに我々は侍や中童子、下法師が見せた笑いは「嘲笑ではない、敵意ではない」と確認しました。では、内供はなぜそれが嘲笑であり、敵意だとわかったのか。周囲の僧俗が内供の内心を聞かないように、内供もまた周囲の内心を聞くことがない。よって、周囲の反応は嘲笑であり、敵意だと確かめたわけではない。内供が《そう感じた》に過ぎないのです。
「このように周囲は自分に対して敵意を持っている、自分は迫害されていると感じることを、精神用語では被害妄想という」と補足します。

 そして、こう考えてくると、周囲が示す嘲笑と敵意は同じではないことに気付きます。内供は鼻が長かったとき、「嗤われている、嘲笑されている」と感じていた。だからと言って意地悪く叱りつけたり、暴力をふるうことはなかった。嘲笑だけなら、内供の暴言暴力は起こらない。
 だが、今回はそこに敵意が加わった。だから、内供は鼻のことを話題にしないという防御から、相手を責める攻撃へと打って出た。

 たとえば、ケンカや国同士の戦争はどちらが先に手を出したか、しばしばそれが問題となります。衝突が起こって「お前が先に手を出したな」と指摘すると、「先に手を出したのはこちらだが、相手が挑発したからだ」というのもよく聞く言い訳です。

 もしも(逮捕された?)内供さんに「あなたはなぜ周囲の僧俗に敵意を示し、暴力までふるったのですか」と事情聴取するなら、内供は「彼らが先に敵意を示したのだ。だから、私も対抗せざるを得なかったんだ」と答えるでしょう。
 そうなると、内供には嘲笑以上の理由――「それは敵意だ」と感じられる理由がほしい。「そちらがそのように考えているなら、こっちだってタダではおかない。私だって敵意を返すぞ」と納得できる理由を知りたい。

 そこで《内供は》推理した。周囲の反応を敵意と見なす理屈を(作者が登場しなければ、小説はこのような流れになります)。
 それが「人間という生き物は確かに他人の不幸に同情する。だが、その人が不幸を克服すると、何となく物足りないような心持ちがして、もう一度その人を、同じ不幸に陥れてみたい気持ちになる。そうして、消極的ではあるが、ある敵意をその人に対して抱くようなことになる」という理屈だった。

 ただ、内供はこのように説明できません。この理屈を感じただけです。文学的表現を拝借するなら、内供は心の中でささやく声を聞いた。「これが彼らの嗤いを敵意と見なす理由だ」と。

[十四] 普遍的真実ではなく内供の邪推

 もうおわかりでしょう。「傍観者の利己主義」説とは作者が人間の普遍的真実を語ったのではありません。内供の内心を、その感情を説明してあげた。そして、内供はこの一つしか思いつけなかった。「私に対して不当な敵意が示された」と。だから、理由も一つしか書かれなかったのです。

 作者芥川龍之介は明のある人です。「傍観者の利己主義」はいつも誰に対しても発揮されるものではないと知っている。意地悪な心は確かに誰でも持っている。だが、それを示す人がいれば、示さない人がいる。嫌いな人間が病気になれば、「いい気味だ。もっとひどい目にあえ」と思う。それが愛する人なら、とても心配するし、「病気が治ってほんとうに良かった」と心から思う。あるいは、嫌ってもいないし、好きでもない人なら、「大変ですね」と言いつつ、内心何も感じていないこともある。

 作者は可能性がいくつもあることを知っている。だが、内供はそのように考えられない。一つの可能性しか推理できない。なぜなら、内供は「明が欠けている」人であり、多くの可能性を思いつけない人だから。
 内供は「あの連中は自分をもう一度不幸に陥れようと敵意を示している。そうにちがいない」と感じた。一つのことしか予想できない内供は「いやいや、あれは単なる笑いだ。別に私を嘲笑しているわけではない」とか、「周囲が私に敵意を示すはずがない」と考えることができなかった。

 ここで作者と内供の関係を、ちょっとテレビドラマや映画風に表現してみると、次のようになります。

 作者は悪魔となって内供の耳元でささやいた。「お前にあいつらが見せた嗤いのわけを説明してあげよう。あいつらはお前の鼻が長いときはバカにした、嘲笑した。だが、今やお前が不幸を克服したので、物足りないと思ってもう一度不幸に陥れようとしている。なんてやつらだ。あいつらはお前の敵だ! お前は攻撃を受けた。報復するのは当然じゃないか」と。

 そのそばで作者はまた観音菩薩になってこうも語りかけているはずです。

「悪魔の言うことは間違っている。お前の鼻が長くとも、お前の母親はお前を愛していた。それを見せてあげよう。子ども時代お前は確かにいじめられた。だが、お前を見守っている人もいた。お前がいじめられていると訴えさえすれば、お前を助けてくれる人がいた。なぜそれを信じなかった?
 僧侶になってお前は一生懸命勉強して出世を果たした。それはお前一人の力だろうか。仏典の難しいところを先輩僧に尋ねたとき、彼らは快く応じてくれたはずだ。そのとき長い鼻を持つ者に、質問する資格はないと言われたか。お前もまた鼻のことなど忘れて先輩僧の言葉に耳を傾けていたではないか。
 これまでお前が出会った人はみな長い鼻を嘲笑しただろうか。もちろん嘲笑する者がいたことは否定しない。だが、お前に同情して治療法を探してくれる人がいた。お前の鼻が長かろうが、短かろうが、あるがままでいいと思って接した人もいる。
 だが、残念なことにお前は一つの見方しかできない。彼らに聞いてごらん。お前の心を打ち明けてごらん。そうすれば、彼らが敵意など持っていないことがわかるはずだ」と。

[十五] 漱石を土台として『鼻』はある

 私は以前「傍観者の利己主義」説について次のように書きました。
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 私はこの部分を作者芥川龍之介による読者への挑戦状と受け取りました。まるで「ぼくは周囲が示した反応の理由を一つだけ書きます。読者は傍観者の利己主義説に賛同されますか。そんなことはありませんよね。もしも同意されるなら、あなたは内供さんと同じですよ」とでも言うかのように。
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 作者は周囲が見せた反応の理由を一つだけ書いた。「それでいいのですか」とひそかに問うている。もしも読者が「傍観者の利己主義」説を使って周囲の反応、対する内供の言動を全て説明しようとするなら、それは作者が仕掛けたわなにかかったことを意味する――と。
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 残念ながら、多くの読者は作者のわなにかかり、傍観者の利己主義説に振り回されたのではないかと思えます。

 私には『鼻』を書き上げた作者がもらしたであろう不安のつぶやきが聞こえます。
「この作品は短編にするため、いろいろなことを省略した。だから、読者には書かれていないことまで想像をふくらませてもらわねばならない。大丈夫だろうか。読者はしっかり読みとってくれるだろうか」と。
 一方、「いや、我々は漱石を読んできた。彼の小説を学んでいれば、内供と周囲についていろいろな見方ができると気付いてくれるはずだ」とも。

 短編小説『鼻』は夏目漱石逝去の年(一九一六年)に発表されました。漱石の晩年、彼の邸宅に集まった俊秀たちは漱石の後を継ぐべく議論を重ね、小説を書きました。芥川龍之介にとって、その成果がデビュー作となる『鼻』であり、同時期に書かれた『羅生門』です。

 私は「作者芥川龍之介は明のある人間」と書きました。では、芥川龍之介はどこでどうやって《明》を学んだのでしょう。それこそ夏目漱石の小説群です。

 夏目漱石は『こころ』(一九一四年)の中で「先生」に語らせています。「悪い人間という一種の人間が世の中にいるのではない。平生はみんな善人であり、少なくとも普通の人間なんだ。それが、いざという間際に、急に悪人に変わるんだ」と。

 小説『羅生門』の主人公「下人」は正に普通の人間が、明日の食事もない、住むところもないという状況に陥ったとき、「生きるためには何をやってもいいんだ」と決意して悪の道に入る物語でした。

 そして、『鼻』は「明の欠けた、一つのことしか考えられない人間禅智内供」を描きました。
 内供は悪人ではない。だが、内心を知れば善人とは言い難い。ただ、寺の長として見れば、周囲にとっては「普通の人」でしょう。それがあるとき突然暴言を吐き、暴力までふるう人間に豹変した。芥川龍之介は漱石が(長編で)描いた世界を、短編によって見事に描ききったのです。

 私はここまでを締めくくる言葉として生徒に次のように話します。
「どうだい。もうわかっただろう? 作者が登場して解説した傍観者の利己主義説とは内供と周囲の関係全体を説明する言葉ではない。内供の内心だけを説明した言葉だ。だから、この理由は一つしか書かれない。だって、内供にはこの一つしか思い浮かばないからだ。内供は周囲が示した反応は自分に対する敵意としか感じられなかった。もうちょっと冷静に『敵意ではないかもしれない』と考え直すことさえなかった。なぜなら内供には『明が欠けている』から。
 明が欠けている人は自分のことも周囲のことも、現在も未来も一つの答えしか推理できない。作者がここで描こうとしたのはそういう内供の、『明が欠けている』人の姿だ」

[十六] 鼻が元に戻った内供の未来を予想する

 このように解釈すると、内供が中童子に暴力をふるった後感じた「なまじいに、鼻の短くなったのが、かえって恨めしくなった」も、自分がどうして暴力をふるうまでになったか、そのわけをいろいろ考えるでもなく、原因は「鼻が短くなったことにある」と、依然として《鼻》一つに集約していることがわかります。
 そして、ある夜、鼻がむずむずし始め、翌朝また元のように長くなったとき、内供がつぶやいた言葉、
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 ――こうなれば、もう誰も嗤うものはないにちがいない。
 内供は心の中でこう自分にささやいた。長い鼻を明け方の秋風にぶらつかせながら。
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 これもまた内供は一つの未来しか予想していないことがわかります。

 そうなると、作品を読み終えた我々の未来予想はどうなるか。作品全体をゆっくりしっかり読んできた我々には、いろいろな「内供のその後」が予想できるはずです。大きく分ければ次の二つ。

 《悲観的未来》
・ もしも内供が自分の生き方を振り返り、反省することなく、今後も不機嫌であり、意地悪く叱りつけるようなことが続けば、周囲の人はもはや以前のように内供に同情することはないだろう。両者の敵対関係はもっと激しくなるに違いない。

 《楽観的未来》
・ 内供の内心が変わらなかったとしても、外見は以前のように戻るのではないか。今後内供の不機嫌が治まり、意地悪く叱りつけることがなくなれば、周囲の人だって同情が復活する。そして、反感を覚えながらも、穏やかな関係を築けるのではないだろうか。

 後者の予想の面白いところは内供が明ある生き方に進まなくとも、内供と周囲の関係は以前のように戻る、と予想していることです。
 もちろん以下のように、内供は「反省する」という予想もあり得ます。これは明ある生き方に進むという予想でしょう。

 《明のある生き方を始める》
・ 内供は観音菩薩の声を感じて自分の生き方を反省し改める。そして、自分のことを語り、周囲の声をよく聞き、いろいろな見方を学ぶことで、周囲とより良い関係を築けるようになる。

 しかし、ここに至っても、一つのことしか考えられない内供が、果たして明ある生き方に進めるか、疑わしいところです。生徒の多くもそのような感想をもらします。
 私は「今後内供と周囲がどうなるか。それはある意味無限大にあり、どう予想するかは読者の自由だ。内供は一貫して一つの見方しかできなかったのだから、明ある生き方に進むのは難しい気がする。ただ、次のような未来予想も可能だ」と言って以前「周囲の反応」で取り上げた《ありのまま》について語ります。
 もしも内供が「私の鼻は長いままでいい」と感じたなら、それは《ありのまま》を認め、受け入れたことになるのではないかと。

[十七] もう一つ「ありのままに生きる」未来予想

 こう考えると、「なまじいに、鼻の短くなったのが、かえって恨めしくなった」との気持ちも少し違う読みができます。ここは「相変わらず内供は一つの見方しかできない。愚かな人間だ」と軽蔑的に見られがちなところです。

 一般的な話として長い鼻を短くした後、元に戻ったら普通の人はどう思うか。
 おそらく「せっかく鼻を短くしたのに、また長くなった。治療は失敗だった」とがっかりするはず。そして、「もう一度治療するしかない」と鼻を踏んづけてもらう人もいるでしょう。
 ところが、内供は短くしたことを後悔した。つまり、元のように長くなれと暗に願った。なぜそう思ったかと言えば、このままでは身の破滅だと感じたからでしょう……。

 ここまで解説したところで、話を中断して「内供が身の破滅だと感じたのはどこだろう?」と問えば、「中童子を殴ったとき」との答えが返ってきます。
「そうだね。中童子が鼻もたげの板を持ってむく犬を追い回したのは寺の庭だった。むく犬は『けたたましく吠えて』いた。内供が何事だと思って外に出たなら、他の僧俗だって外に出てきた可能性が高い。そのとき中童子が持つ棒が鼻もたげの板だと気付いた人が何人いたことか。もちろん内供はすぐに気付いた。

 そして、内供がその板を取り上げて中童子の顔をしたたかに打ったとき、そこにいた人たちは凍り付いたのではないだろうか。ちょっと文学的に表現するなら、むく犬は逃げ失せ、しーんとなった境内で内供は我に返った。そして、『私はなんてことをしたんだ』と思った。

 これまで内供は意地悪く叱りつけることはあっても、暴力をふるったことはない。もしかしたら、これが人生で初めて人を殴った瞬間かもしれない。
 禅智内供は寺の僧であり、仏教を信仰している。仏教は慈悲の心、優しい心を持ちましょうと説いている。自分はその教えに背く、正反対の暴力をふるってしまった……そのことに気付いたとき、内供は鼻を短くしたことで、自分は暴力までふるう人間になったと思った。短くなった鼻を恨めしく思い、長いときの方が良かった、と感じたのは正にこのときだろう」

 そして数日後、願い通りに鼻が長くなったとき、内供は「鼻が短くなった時と同じような、はればれとした心持ちが、どこからともなく帰ってくるのを感じ」、「こうなれば、もう誰も嗤うものはないにちがいない」とつぶやいた。
 ここも《情けない人》として批判的に見られがちなところです。私は次のように話して内供を弁護します。

「だが、この『はればれとした心持ち』は決して鼻が短くなったときの感情と同じではない。あのときは『やっと鼻が短くなった。これでもう誰も私を嘲笑しないだろう』という安心だった。『今後鼻が長くなれと願うことがあるかもしれない』など、夢にも思わなかっただろう。
 だが、鼻を短くしたことで、悪いことがどんどん起こる。鼻を短くしなければ良かったと思い、鼻が長くなることを願った。そして、その通りになったとき、内供は『もうこのままでいい。別に短くすることはない』と感じた。

 鼻が長いことは不幸であり、不便だと思い続けてきたのに、それを受け入れることに決めた。鼻よりも周囲の人と穏やかな関係を築く。その方が大切だと考えたからだろう。結果、内供は鼻が長いことを、ようやく心から受け入れた、とも言える。

 すると、ここで不思議なことが起こる。長い鼻を受け入れるということは、今後長い鼻を嘲笑されても構わないことになる。いわば『嗤いたければ、嗤えばいい。私はこのままでいい』ということ。つまり、周囲の感情さえもありのままに受け入れる――内供の言葉はそれを表明したことになる。

 内供はこの未来を予想した。それは長い鼻を苦に病むことのない未来、周囲の視線を気にする必要のない未来だ。だからこそ、彼は『はればれとした心持ち』になった。

 そして、観音菩薩と自然も内供のこの思いを支持する。
 鼻が元に戻った早朝、目を覚ました内供は『寺内の銀杏や橡(とち)が一晩の中に葉を落としたので、庭は黄金(きん)を敷いたように明るい』ことに気付く。さらに、塔の屋根に霜が降りて『まだうすい朝日に、九輪(くりん)がまばゆく光っている』のを見る――内供と周囲の未来は明るく、まばゆく光っている、と自然が教えてくれたのではないか」

 さすがに、最後の部分は「先生、それは言い過ぎでしょ?」との言葉が出てきます。
「でもね、秋の紅葉は今年の役目を終えてただ枯れているに過ぎない。それを美しい、明るいと感じるのは人間だ。この場面、作家は『重苦しい曇天で雨がざーざー降っている』とは書かない。内供の内心にふさわしい自然を描くんだ。
 それを自然が支持していると見るかどうかは置くとしても、とにかく内供は自分を、そして周囲も、ありのままに受け入れようと決めたのではないか。

 もちろん長い鼻を受け入れると決心しても、一直線にその境地に達するとは思えない。ときには食事で不便を感じ、周囲の嘲笑を意識してやっぱり短い方がいいと思うかもしれない。そこんところ作者は作品の最後に『長い鼻を明け方の秋風にぶらつかせながら』と書いている。右に揺れ、左に揺れ、上下に揺れ、斜めに揺れる。まだまだ揺れ動くであろう内供を予感させる表現だ。

 とは言え、この段階では間違いなく『鼻は長いままでいい』と感じた。よって、以下のように、もう一つの未来が予想できる。

 《ありのままに生きる》
・ 内供は自分の長い鼻と周囲をありのままに受け入れて生きる道に進む。

 この可能性もノートに書いておきたいね」

 この未来予想はもちろん『鼻』全体の解釈として提示しています。これをどう受け取るか、それもまた読者各位の自由です。ただ、『鼻』の結末十数行を読めば、作者はそのように描いているのではないか、と思えます。

 そして、小説『鼻』と、この結末は芥川龍之介による夏目漱石へのオマージュであり、漱石が投げかけた問いに対する回答であると私は考えています。

 漱石は小説『行人』(一九一二~一三年)の中で、主人公の兄「一郎」に「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。僕の前途にはこの三つのものしかない」と語らせています。一郎は苦しみに満ちたこの世を誠実に生きるには、と三つの道を考えた。誠実に生きることをあきらめて死ぬか、気が狂うか。あるいは宗教に行って安心を得るか。

 この問いに対して芥川龍之介は『鼻』を書いた。やや皮肉っぽく「宗教に進んでも、世俗と同じではないですか」と反問し、四つ目の生き方として「ありのままを受け入れて生きる道がありはしませんか」と投げかけた。

 漱石はこの試みに対してなんと答えたか。死を前にして『鼻』を激賞したことが、その答えだろうと思います。

 ただ、芥川龍之介は『鼻』の結末が持つ意味に気付いていたかどうか。彼が最終的に選んだ道が自死であったことを思うと、もしかしたら気付いていなかったかもしれません。

 作家は必ずしもある意図と目的をもって小説を書いているわけではありません。芥川龍之介が書こうとしたのは、長い鼻を意識しすぎて傍観者の利己主義に振り回される、明の欠けた内供の愚かさであり、その不幸と悲劇――そこまでを描こうと思っただけかもしれません。であるなら、私の解釈は深読みに過ぎることになります。

 あるいは、ありのままに生きる道があるとわかっていたけれど、できなかったか。何しろあらゆることを、ありのままに受け入れることはとてつもなく難しいことですから。

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 最後まで読んでいただきありがとうございました。
後記:『鼻』の後半を解釈するなら、「傍観者の利己主義」より「敵意」を取り出した方がわかりやすい。そう思っての実践授業です。
 ところで、前号にて「数日前(私にとっては)全く新しい解釈を発見して『これはどうしても入れたい』と思うに至りました」と書いて公開を延期しました。
 一読法を実践している私なら、「今号のどの部分が最近発見した解釈なんだろう」と思いながら読み進めます。
 最近気付いて追加した解釈は二点あります。さて、それはどこでしょうか。

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