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2019.11.07

別稿『一読法を学べ――学校では国語の力がつかない』第23号実践編九 (二の3)

 今号は第九節終了のつもりで「傍観者の利己主義」について深堀りする予定でした。ところが、前置きとして書き始めた前号の復習が思いの外長くなったので、独立させることにしました。
 これは前節が単なる一読法実践報告だけでなく、『鼻』の解釈について新発見があったことを語るものであり、同時に前号が長くなった言い訳でもあります。
 なお、これまで嘲笑する意味の「わらう」をずっと「嗤う」と表記してきました。『鼻』の原文は「哂う」です。私のパソコンでは漢字変換されなかったので、文字化けしてはいけないと思って「嗤う」を使いました(意味はどちらも嘲笑する)。その後文字化けしないことがわかりましたが、当分「嗤う」を使用します。

 九 一読法はなぜ通読をしないのか(その二) [小見出し]
 (1)一読法による『鼻』の授業実践(前半復習)
 (2)芥川龍之介『鼻』の授業実践(後半)
  [以下今号]
 (3)前節復習――『鼻』の解釈新発見について

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 本号の難読漢字
・披露(ひろう)・恥辱(ちじょく)・天網恢々(てんもうかいかい)疎(そ)にして漏(も)らさぬ・安堵(あんど)・煩(わずら)う
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*********** 小論「一読法を学べ」**********
 『 一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』 21-3

 九 一読法はなぜ通読をしないのか(その二の3)

 (3)前節復習――『鼻』の解釈新発見について

 前号後記で問題とした「『鼻』後半の解釈の中でどの部分が最近発見した新解釈なのか」――この問いに答えることができたでしょうか。「二つある」と書きました。
 小見出し十七ヶだし、新しい解釈らしきことはたくさんあった気がするし、そもそも読むのに精一杯で、「これまで『鼻』の論文を読んだこともない自分に、何が新しいかなどわかるわけないだろうが」とつぶやかれたかもしれません。

 そこが(失礼な言葉ながら)いつも自ら問うことなく、さあっと文章を読み、ぼんやり人の話を聞き、誰かに問われてから答えを考える。けれど、考えることはめんどくさく、間髪入れず「わかりません」と答えてしまう……ごく一般的な生徒像と重なります(いつも書いているように、私は生徒個人・読者各位を責めているわけではありません。探偵となって推理する訓練をさせていない国語教育を問題視しています)。
 もっとも、『鼻』の論文を一つも読んだことがない人にとって「どこがすでに提起済みの解釈で、どこが新発見なのか」、そりゃあわかるはずありません。

 それは私も同様で私は芥川龍之介研究家ではなく、『鼻』についての諸論文を「疎にして漏らさぬ」ほど読んでいるわけでもありません。よって、私が「新しい解釈」と呼んでいることは一般的な読後感に対しての異見(ちょっと変わった見解)というほどの意味です。

 つまり、読者にとって「ここで披露された解釈は自分が感じたこととはちょっと違うな」と思われた部分であり、それを言えるかどうか、尋ねたわけです。
 たとえば、前号の最も意外な解釈は「傍観者の利己主義」より「敵意」の方が重要だと言ったところとか、印象に残ったのは「笑い」と「嗤い」の漢字を使い分けていると指摘したところでしょうか。
 後者など「よくまー気付いたね」と感心されそうですが、一言一句注意して読む一読法なら、さほど難しいことではありません。立ち止まり読みで、「『笑』と『嗤』、漢字が違う?!」と抜き出す生徒は何人もいました。

 私はこれらを「新しい」と思って披露しました。一読法なら「こんなことも気付きますよ」といった感じで。だが、芥川龍之介研究家なら「そんなことすでに誰それが言っている。どこそこに書かれている」とおっしゃるかもしれません。
 こう言われることは研究者にとって最大の恥辱です。だから、天網恢恢、多くの研究論文を漏れなくあさらねばなりません。しかし、私は研究者ではなく、本稿も研究論文ではないので、《私にとって》新しいと感じたことを書いています。
  よって、読者も「これは自分の感想とちょっと違う。目新しい解釈だ」と感じたところを指摘してほしかったわけです。答えられることが、前節をしっかり読んで理解できた証にもなります。

 では答えです。「新しい解釈」として紹介したことは七つ。さらにまとめると三つです。

 そこで、「私にとっての新発見」を推理しようとすると、道程は以下の通り。
 まず、私が最近発見した解釈は『鼻』の前半――治療によって鼻が短くなったところまで――にはない。もしあれば、最初から打ち明けているだろうから。つまり、新解釈は後半にある(もっとも、これは「後半の中で」とあるので、当然わかったでしょう)。

 次に後半に示されたもろもろの中で「自分の感想とはちょっと違うところは何だったろう」と小見出しを振り返りながら考えてみると、以下の七点にまとめられると思います。A・Bの「問い」に答えつつ、読んでください。

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1 内供の周囲が示した反応のうち最初の「わらい」は嘲笑でも敵意でもなく、単なる「笑い」だったこと。
2 しかし、内供はそれを嘲笑の「嗤い」であり、敵意と見なしたこと。
3 「傍観者の利己主義」説は「敵意」に置き換えた方が理解しやすいこと。
 A 問い [123に共通した言葉は?]
4 明の欠けた人の特徴は「ものごとを一つの可能性しか考えられず、自分を語ることなく、人の内心を聞こうとしないこと」と説明したこと。
5 小説『鼻』は「明の欠けた」内供の不幸と悲劇が描かれているとまとめたこと。
 B 問い [45に共通した言葉は?]
6 だが、結末部は長い鼻をありのままに受け入れ、周囲のこともありのままに受け入れようとする内供が描かれていると解釈したこと。
7 短編小説『鼻』は芥川龍之介が夏目漱石の小説を学び、漱石が抱いた疑問に対する回答として書かれたこと。
 C 感想 [6・7も一つにまとめられる]
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 Aの答えは「敵意」、Bの答えは「明の欠けた」。つまり、この七点、さらにまとめると三つになります。
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A 123はまとめれば「傍観者の利己主義」についてであり、
  「敵意」がキーワードとなる言葉であることを語っている。
B 4と5は「明の欠けた人」とはどういうことか語っている。
C 6と7は結末の解釈(未来予想)として「ありのままに生きる」があり、
  この結末は漱石の問いに対する答えであると語っている。
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 これでかなり絞れました。このABCの中に「私が最近発見した新解釈が二つある」と言うのですから、的中確率3分の2です。

 ただ、先程書いた通り、芥川研究家ではなく、『鼻』についての論文をたくさん読んでもいない人にとって、ABCはみな「新しい解釈」と思えるかもしれません。特にAと、Cの前半は実際のところあまり批評家・研究者が指摘していない見解だと思います。よって、「新しい解釈として披露されたのはこの三点か」と思って構いません。前節で書かれていたことを短くまとめれば、「この三つである」と確認してほしくて提起した質問ですから。

 なので、以下は余談に近いお話しと思ってお読み下さい。ABC三つの中から二点とはどれか。さらに、推理すると……、
 三点の中ではBの解釈は本文そのものです。内供は一つの可能性しか考えられず、作者はそれを「明が欠けている」と批判している。『鼻』を読み終えた読者の多くもこの意見に賛同されるでしょう。そこは私も同感。よって、みんなが等しく感じる解釈なら《新しさ》はない。

 そうなると、私が今回新たに発見した解釈はAとCである――かというと、さにあらず。答えはBとC。
 Aは現役時すでに気付いていたことであり、三読法でも一読法でもその読みに生徒を導きました。

 ここでヒントにしてほしかったのは「私にとって」の新しさです。本稿全体は一読法について語っています。『鼻』の授業実践報告はあくまで一読法をより知らしめるための具体例です。一言一句注意してじっくり読むこと。そうすれば、気付くことがたくさんある。立ち止まって丹念に読むからこそ、「あれっ、これは何だ? どうして?」と疑問も湧く。さあっと読むことはしない。ゆっくり読むからこそ気付く。それが一読法です。
 また、『鼻』は短編だから、省略されたり、一言二言ですましているところが多い。だから、そこをふくらませて読む必要がある――そうした思いで実践報告を書きました。

 前節「内供は明が欠けている」とあったところで「明が欠けた生き方=一つのことしか考えられない。明のある生き方=可能性をいろいろ考えられる」とまとめました。

 そのとき読者は「おやあ後者は一読法のことじゃないのか?」とつぶやかれたでしょうか。一読法とは正に立ち止まって可能性をいろいろ考えることであり、『鼻』の前半で実践してきました。
 内供の鼻が短くなったとき、内供は一つの未来しか予想できなかった。我々は「いろいろ考えられるね」と未来をいくつも予想した。私は「明のある生き方」のところで、「これこそ一読法の目指すところだ」と書きたかったのを(大げさながら)懸命に我慢しました。読者にそうつぶやいてほしかったからです。

 もう一つ、ヒントとして思い出してほしかったことが、以前「一読法を実践したとき生徒が見せた反応」のところです。「八 挫折に終わった一読法授業、その二」のところで、まとめると次のように書いています。

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 生徒は「先生の授業はよくわからない」と言いました。比喩として言うなら、内蔵移植の拒絶反応でしょうか。身体が受け入れないと言うか、感情的に拒否されたかのような印象でした。生徒は小学校入学から十八歳まで十二年間(高校入学時は九年間)、三読法を学び、一度目はさあっと読んだり、飛ばして読む通読の癖が身体にしみついています。それは簡単な読み方です。きつくない、疲れない、楽な読み方です。
 対して一読法はめんどくさい読み方です。一言一句集中して読むのはしんどい作業です。途中で立ち止まってああでもない、こうでもないと考える――考えさせられる授業。生徒は「なぜこんなにあれこれ考えさせるんだ」とうんざりしていました……。
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 当時の私は生徒が見せた拒否反応に対して「いや、断固一読法がいいんだ」と説得できませんでした。高校三年生に十ヶ月一読法を実践してみて、生徒のうんざり感を払拭できる理屈を見いだせず、「これは無理だ」と思って撤退するしかありませんでした。

 今ならこう言えます(この「今」とは『鼻』の後半を一読法で読み直していた最中のことです)。
「途中で立ち止まってあれこれ考えること、未来をいくつも予想すること。これこそ明のある生き方だ。我々は一読法でその訓練をしているんだ」と。
 Bの「明が欠けた内供」との表現を読んだとき、一読法とは「明のある人間を目指している」ことに初めて気付いたのです。

 今回『鼻』を一読法実践報告として紹介しようと思ったのは、生徒が(おそらく現在の読者も)「傍観者の利己主義」説に振り回されている。それより「敵意を重視して解釈した方がわかりやすい」との気持ちからです。文章は最初から一言一句注意して読むことで理解が深まる――その具体的な教材として『鼻』は最適だと思って取り上げました。

 ところが、後半の冒頭を再読しているとき、周囲の僧俗はなぜ笑うのか、「明の欠けた内供には理由がわからない」との表現があることに目が止まり、「おや~これは何だ?」と思いました。「明が欠けている」と書かれているだけで、内供の何がどのように欠けているのか、説明がなかったからです。
 そこで、前後をよく読み直し、内供は鼻を短くしたことで「こうなれば、もう誰も嗤うものはないのにちがいない」と一つの未来しか予想できなかった――これが「明の欠けた人」の姿だとわかりました。

 その瞬間です。「おお、内供の逆が明のある生き方なら、一読法とは途中で立ち止まって過去を振り返り、未来をあれこれ予想することだ。正に明のある生き方ではないか」と思ったのです。「明の欠けた生き方とは一つのことしか考えられないことであり、明のある生き方とは現在や未来をいくつも予想できることなんだ」と。これこそ《立ち止まり読みの目的ではないか》と思いました。

 なんと『鼻』の中に「一読法は有意義だ。立ち止まってあれこれ考えるのは明のある人間を目指すからだ」と教えてくれる記述を見出したのです。『鼻』を授業でやっていた現役時代には全く気付かなかったことであり、今回思いもしなかった嬉しい発見でした。もちろん「これは念入りに書かねば」と思いました。

 前号で、「内供と周囲」について「明の欠けた・明のある」生き方を追記したとき、後半にもう一言《一読法》と書きたかったほどです。
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※ 内供の期待「もう誰も嗤うものはないのにちがいない」
 明が欠けた生き方=一つしか考えられない。自分を語ることなく、周囲の内心を聞こうとしない。

※ 周囲の反応(ア)傍観者(イ)愛情・同情(ウ)ありのまま
 明のある生き方=可能性をいろいろ考えられる。自分を語り、周囲の内心を聞こうとする。《一読法が目指す人間像》
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 一読法とは文章をじっくりゆっくり読み、ああでもない、こうでもないと可能性をいろいろ探り、未来に何が起こるか、いくつも予想することです。
 それはめんどくさいことであり、生徒は「そんなにあれこれ考える必要があるんだろうか」と反発するようなことです(読者各位も同じではないでしょうか)。
 芥川龍之介はいろいろ考えることこそ「明のある生き方」であり、それが欠けていると「内供のようになりますよ」と教えてくれたのです。
 短編小説『鼻』は一読法の実践訓練とその意義を学ぶのに最適な教材であることがわかりました。かくして「これは後半の解釈に入れないわけにはいかない」と思って改稿を始め、結果、あのように長くなってしまったというわけです。

 次に「C 結末部」の意味するところについて。

 現役教員だったとき、私が内供の未来像として(生徒の感想をまとめつつ)提示できたのは三点でした。「悲観的未来」「楽観的未来」「明ある生き方に進む未来」。
 これは今まで何度か書いてきた、考える・推理する際のポイントです。あるところで立ち止まって現在や未来を分析し予想するとき、最低限三つを考えようと。悲観的未来か楽観的未来、そしてどちらでもない未来。

 また、我々は人の主張を聞いたり、意見文や小説を読んだり、ある作品(映画・ドラマなど)を見たりして「同感だ・賛成だ。良かった」とつぶやくと、だいたいそれで終わってしまいます。
 そのとき誰かは別の見方「違うと思う・反対だ」とつぶやいている人がいるはず。「どちらでもない」とつぶやいている人もいるだろう。そう思って「さて、その人はどのような感想を持っているだろうか」と推理する。これが明ある生き方。

 くどいようですが、逆の反応も書いておきます。
 ――我々は誰かが語る言葉を聞いて「その意見には賛成できない、反対だ」と思うと、それで終わりがち。そのとき「この意見に賛成の人もいるだろう。どうして賛成なのだろうか」と立ち止まって考える。それは同時に「自分はなぜこの意見に反対なのだろう?」と振り返り、自ら問うことにつながります。

 このように、「いろいろ考える――最低二つから三つは考える」ことこそ明のある生き方です。
 そして、これができると、小論文は簡単に書けるようになります。
 小論文とは「あああでもない、こうでもない」と考えたことを八百字にまとめる作業ですから。

 閑話休題。『鼻』の解釈としてもう一つ「ありのまま」があると気付いたのは別に映画『アナと雪の女王』を見たからではありません(実は私、歌と内容はある程度知っているけれど、映画そのものは見ないままでした)。
 むしろ十数年前空海を書こうと思い、仏教と空海密教を研究した結果、到達したところが「全肯定」であり、「ありのまま」でした。

 私は当初『鼻』の結末に関して「明の欠けた愚かな内供、最初から最後まで長い鼻、短い鼻に振り回され、周囲の視線を気にする人間の不幸と悲劇」との観点でまとめるつもりでした。
 これは『鼻』の解釈としてそれほど珍しいものではありません。読者各位もそのような感想を持たれたのではないでしょうか。そこに「人の不幸は蜜の味という。人間は誰でも意地悪な心をもっている。これは普遍的真実だ」との感想も含めて。
 ところが、結末部を一読法によって丹念に読んでみると、この解釈では「ほのかに漂う明るさ、内供のほっとした感じ、鼻はもう長いままでいいとつぶやいたこと」がうまく説明できない。それさえも《愚かである》と解釈するしかないからです。

 人を「なんと愚かな」と評することは相手を見下している、軽蔑している、批判してその生き方を改めなさいと言っていることを意味します。
 もしも読者各位が「内供は愚かな人だ」との感想を持ったなら、それは読者が「明のある」人であることを意味します。愚かでない生き方、愚かでない人間像を思い描くことができるから、内供の生き方、考え方を「愚かである」と言えるのでしょう。

 ――とこのように書いたとき、これを《皮肉》と受け取ってもらえたでしょうか。ちょっと振り返ってみれば、この見方もまた《決まり切った一つの見方・考え方》でしかないことに気付きます。我々が人を「愚かである」と言うとき、心中にあるのは以下のような思いでしょう。

「人間という生き物は誰でも愚かな面をもっている。これは普遍的真実だ。だが、本人はそれに気付いていないことが多い。だから、相手の悪いところを指摘し、批判してやらなければならない。相手に変わってほしいと思ったら、悪い点を指摘して批判することだ」と。

 どうでしょう。多くの「明のある」人――特に大人がこのように思って行動する。長と名の付く立場に付けば、部下に対して。親と名の付く立場、先生と名の付く立場になると、我が子や児童生徒に対して。
 この人たちは「自分が正しい」と思っています。だから、これは一つの見方でしかない、と反省することがありません。おやおや、内供さんと同じですね。

 果たしてそれは正しいのか、他のやり方はないのか。可能性をいくつも考えることこそ「明のある生き方」だと学んだばかりです。なのに、「お前は愚かな人間だ」と指摘し批判する。《この解釈、このやり方こそ正しい》と思っているなら、それこそ一つのことしか考えられない内供さんと同じではありませんか。
 そして、このように考える人ほど、『鼻』の結末で内供が感じた安堵感、未来は明るいかもしれないと感じてはればれとした心持ちになる――その感情さえも否定し、「愚かな」と批判するわけです。

 池の尾の高僧禅智内供は鼻が長いときは周囲の視線を気にし、念願かなって鼻を短くすると、「こうなればもう誰も嗤うものはないのにちがいない」と思った。
 私はこの部分を読んだとき感じたことがあります。内供は「誰も嗤うものはないのにちがいない」とつぶやく前に、思うべきことがあった、やるべきことがあったと。

 それは鼻の治療をしてくれた弟子に感謝の気持ちを表すことであり、食事の際何年にも渡って鼻もたげをやってくれた弟子達に、「これでもうお前達の手を煩わせることがなくなった。今までありがとう」と言うことでしょう。だが、内供にその発想はなく、その言動もない。

 むしろ内供は周囲が見せた予想外の反応を敵意と感じ、暴言と暴力までふるってしまった。それを「鼻を短くしなければ良かった」と後悔した。
 ここでも反省すべきは暴力行為であり、中童子に「すまなかった」と謝ることでしょう。これではまるで「暴力をふるったのは私ではない。鼻のせいだ」と言わんばかりです。

 そして、鼻が元に戻れば、またも「こうなればもう誰も嗤うものはないに違いない」と同じことをつぶやく。
 内供は全く明のある生き方に進もうとしない……読み終えた読者としては「なんと愚かな」と言いたくなります。
 しかし、今も書いた通り、このようにまとめてしまうと、結末の安堵感と明るさも「愚かな内供の愚かな感情」としか思えない。さて、そうだろうか。他の見方はないだろうか。

 ――と考えたとき、四つ目の未来予想が思いつきました。「もう鼻を短くするのはやめた。鼻は長いままでいい」と決めたなら、それは長い鼻をあるがままに認め、受け入れることではないかと。

 以前内供の鼻が短くなった時点の未来予想として「1 内供の期待・2 周囲の反応・3 どちらでもない」と分け、3は「傍観者・愛情・同情」の他に「内供の鼻が長くても、短くてもそれでいいと思える」があるのではないか、とまとめました。『鼻』の結末はこの未来予想の最後「ありのまま」と対応しているではないか、と思ったのです。

 こう解釈すれば、結末の安堵感と明るさが説明できる。我々は「不幸と思われることを、ありのままに受け入れようとする人」を、決して「愚か」とは言わない。

 この(恥ずかしながら)突如浮かんだ思いつきも、結末をあれこれ考えていたとき、ひょいと出てきた言葉でした。「そうか、ありのままだ!」と。 

 こうして私の内心、執筆の裏事情を明かしてみると、『鼻』の後半がどうして異常なまでに長くなったか、おわかりいただけるかと思います。123だけ書かれるはずのところ、急きょ4~7を追加したので、ほぼ二倍に増えてしまいました。そして、これはどうしても入れたい追加でした。

 当初一読法の授業実践として『鼻』を紹介しようと思ったのはほんとにたまたまと言うか、短編だし、高校の教科書によく掲載されているし、丹念に一言一句読むには最適の作品である――その程度の思いでした。
 ところが、久し振りに一読法で読み直してみて「なんとこの作品は一読法の目指すところを語るに最適の作品ではないか」と気付き、大幅に加筆する事態になったというわけです。

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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

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