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2020.01.29

別稿『一読法を学べ――学校では国語の力がつかない』第27号「一読法からの提言」

 前号後紀に書いたように、「提言」をどうするか迷って筆(キーボード入力)が進みませんでした。
 本稿は「一読法」を勧める小論であり、つまりはそれが提言の全て。その他の「提言」なんぞ、所詮酒場の片隅でぶつくさつぶやいているじいさんの繰り言みたいなもの。誰かが言っている可能性も高く、別に公開しなくとも良いのではないか、と感じました。
 それが数日前「やっぱり書こう」に変わりました。なぜ変わったのか、ちょっと長い前置きです。

 どうにも執筆が停滞していたとき、ある調査結果をネットで知りました。昨年(2019年)11月に発表された、日本財団による「18歳意識調査」というものです。世界九ヶ国の若者(17歳から19歳の男女千名ほど)を対象にしたアンケート結果がまとめられていました。9ヶ国は米英独、中韓日、インド、インドネシアにベトナム。経済大国から中間、新興国といったおもむきでしょうか。

 それによると、日本の《18歳》男女で「自分を大人だと思う」と答えた若者は三割弱(29.1パーセント)でした。他国との比較では、1位が中国で9割超。米英独、インド、インドネシアの5ヶ国も8割前後の高さ。ベトナムが6割、8位の韓国でも5割。比べてみると、日本の3割は抜けた最下位であることがわかります。

 また、「自分は責任のある社会の一員だと思いますか」との質問に、8ヶ国が9割「イエス」と答えているのに対して、日本の若者は4割強(44.8パーセント)でした。さらに、「自分で国や社会を変えられると思いますか」との質問に対して1位のインドが8割。他国が6、5、4割と下がって8位の韓国で4割(39.6)。そして、日本の若者は2割に達しない18.3パーセントでした。

 つまり、日本の若者の多くは高卒段階では「自分はまだまだ子ども」と感じているということです。選挙の投票権が二十歳から十八歳に下げられたけれど、投票率三、四割というのと重なります。
 自分で考え、自分で選び決定して生きる。それを「大人」と呼ぶなら、日本の学校は小中高12年間を通じて「大人」を育てられなかったことを示しているように思えます。
 私にはそのわけが(ちと極端な言葉ながら)「命令と服従による良い子を育てること、競走に勝つことが最大目標」となった学校教育にあるような気がしてなりません。良い子であることに疲れ、競走に負けたと感じた18歳が「今後日本は良くなると思うか」との質問に9.6パーセントしか「良くなる」と答えられない姿であるような気がします(8位のドイツでも21.1パーセント)。

 こうなると、俄然書く意欲が湧いてきました。現在の学校教育の中でひそかに一読法をやる程度では障害障壁が多すぎます。生徒は「やりたくもないのに、やらなければならない」ことでアップアップしています。
 私の結論は入試を廃止し、校則・テスト・宿題も廃止し、ゆとり教育のさらなる徹底――「教育内容を半減して好きなこと、やりたいことをたくさんやる学校への転換」です。
 早速「愚論・暴論だ」と言われそうです。が、これは私が今中学生なら「行きたい」と思う学校です。結論よりもなぜそう思うのか、そちらを一読法でじっくり読んでください。
 もしも「そこは誤解だ、明らかな誤りだ」と思われるところがあれば、遠慮なく指摘してください。直ちに改稿したいと思います。

 [以下今号] 一読法からの提言 その一
[1] 前号の復習
[2] 一読法からの提言 その一 「~~(ほにゃらら)をやめませんか」
 ( 1 ★ )スマホ・ラインをやめませんか。
 ( 2 ★ )「人に迷惑をかけるような人間になるな」と言うのをやめませんか。
 ( 3 ★ )「優秀な人間を求めている」と言うのをやめませんか。

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 本号の難読漢字
・会意(かいい)文字・『六国史』(りっこくし)・『三教指帰』(さんごうしいき)・檄文(げきぶん)・凌駕(りょうが)する・妬(ねた)む・携(たずさ)わる・著(あらわ)す
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*********** 小論「一読法を学べ」************
 『 一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』 23

[1] 前号の復習

 提言の前に、これまで書いたことと重なりますが、前号の補足を少々。
 勘違いしないでほしいことがあります。私は三読法を否定しているのではありません。「通読をやめよう」と言っているのです。通読をやめたときの名称が一読法なのです。難しいことは何もありません。通読をやめて最初から《精読する》だけです。
 むしろ一つの論文、小説などの文章を「何回も読む」のはとても良いことです。三読法を「一つの作品を何度も読む」の意味にするべきだと思います。

 余談ながら、漢字の元となった象形文字において「三」は「たくさん」の意味を持ちます。
 たとえば、1本の木は「木」、2本になると「林」、3本になると「森」。4本以上を一文字で表す漢字はありません。すなわち、「木」が3本集まった「森」とは「たくさんの木々が集まっている」様子を表しています。
 他には品物の「品」(いろいろな器物が3つ)、大衆の「衆」(上部「血」はお日様、目、城郭など諸説ありますが、下部は人が3人集まっている様子)など、三つ集まれば「たくさん」という意味です。
 私は高一漢文授業の最初に、このような象形・会意文字の面白さを伝え、「漢字に興味を持とう」と話したものです。

 閑話休題。一読法で読んだから「一回で完璧に理解できた」と思うのは傲慢です。難しい作品は一読法でも理解度三〇かもしれません。あるいは、とても簡単な作品でも――いや、簡単だからこそ深い意味を有し、それを読みとれない可能性があります。

 私は芥川龍之介の「鼻」を中学校で読み、十代後半でも読み、教員になってからは授業でやるたびに読み直しました。そして、今回数十回目の読みです。ある時期からは常に一読法で、初めての気持ちで読み、解釈してきました。
 それでも、『鼻』には「傍観者の利己主義」が描かれている、利己主義には裏の感情がある、結末は「あるがまま」が描かれている、と気付いたのは今回がはじめてです。

 これは極端としても、たとえば、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』は児童文学と思われ、小学校児童に読ませたら、それで終わっているようです。
 私は「蜘蛛の糸」を高三の現代文で必ずやりました。短編(掌編)小説の名作であるだけでなく、人間の「自我(エゴ)」について深く考えさせられる作品だからです。
 私は『蜘蛛の糸』を全ての国語教科書に、そして中学、高校の教科書に掲載し、小中高の計三回読ませてほしいと思います。必ず以前と違う読みと感想が出るはずです。
 もちろん何度読んでも、基本はつぶやきながら読む一読法です(おっと、早くも一つ目の提言です)。

 もう一つ大切な事。それは教科書や本を、文字で読んで書き込みをすることです。鉛筆を握って文章を読み、何かしら書き込むこと。これが一読法の《要》、最重要ポイントです。
 なぜ人は学校を離れると、文章を二度読もうとしないのか。理由は再読に同じ時間がかかるからであり、二度読んでも(三、四割の)理解度が変わらないからです。
 なぜ理解度が変わらないかと言うと、精読をしないからです。集中して一言一句注意して読み、途中で前後を読み直し、「ああでもない、こうでもない」と考えつつ読む――つまり精読することで、「一度目の読みは浅かったなあ」と気づきます。ぼーっと読んでいる限り、二度読んでも理解は深まりません。

 しかし、文章に傍線を引いたり、書き込みさえやっていれば、再読時間は十分の一で済みます。理解度も格段に上がります。二度読み、三度読みに時間がかからない――これが一読法最大のメリットとも言えます。
 私は空海を小説に書こうと決めたとき、奈良時代末期から平安初期の時代背景、当時の仏教界をいかに書くかという最大の難関にぶつかりました。詳しい日本史や仏教史を読んでも全くイメージが湧かず、目に見えるように描くという小説の課題をこなせるとはとても思えなかったのです。
 ならばと読み始めたのが日本史の原典となる「六国史」の『続(しょく)日本紀』・『日本後紀』・『続日本後紀』の三冊です。
 それらを一読目は「面白そうなところ、使えそうなところ」に傍線を引き、上部に[○]印をつけておく。二度目はその部分だけを読んで、さらに「これは」と思えるところに[◎]をつける。
 そして、三読目に[○]と[◎]の部分を読み直したとき、ようやく「時代背景も当時の仏教界の実態も書ける」との自信を得ることができました。空海の『三教指帰』も同じようにして[?]や○・◎を書き込み、ノートに抜き出してあれこれ考察する――それを繰り返した結果、面白い発見が得られました。

 このように、一読法こそ二度読み、三度読みを推奨しているし、一読法なら、二度読み、三度読みが簡単にできるのです(と言っても、この読みや考察に約四年が必要でした)。

 逆に言うと、書き込みをしなければ、一読法は通読に戻ってしまいます。読書が好きで本をよく買う人は、それを古書店に売ろうときれいに保つのではなく、大いに書き込みをしてほしいと思います。
 もちろん図書館で借りた本に書き込むことはルール違反。その場合は読書ノートを作って疑問や感想、予想を書けば、一読法に近づきます。
 この読書ノート、別に国語に限りません。数学、社会、理科なども読書ノートが作れます。十代で作成したノートは成長の証となるはず。そして、十年後二十年後ノートを読み返し、「おやっ?」と思った本を再読すれば、新たな発見や感動が得られること間違いありません。

[2] 一読法からの提言 「~~(ほにゃらら)をやめませんか」

 さて、本題に戻って種々雑多な提言を思いつくままに書きます。題して「★ やめませんか」シリーズ。表題は「やめませんか」ですが、もちろんそれは誇張表現。ホンネは「少し減らしませんか」から「半減しませんか」程度です。中身を読んでいただければ、わかると思います。
 また、「やめませんか」の逆には「やりませんか」があります。これもときどき「☆ ~~(ほにゃらら)をやりませんか」として提言します。

 読み進めると「あれっ、これさっき書いてあったことと矛盾していないか」と思える表現が出てくると思います。私の中ではあまり矛盾していないので、説明可能です。しかし、それを入れて書いていると、また長くなり、簡潔にまとめるべき提言がわかりにくくなります。前号「一読法独立宣言」が正にそれでした。
 具体例として取り上げた悪しき現象が日本国中、日本人全ての特質・特徴ではありません。真面目に働き、税金を納めている人、リーダーとして部下の心を推し量り、働きやすい職場を作っている人、国民のために活動している政治家の方。各所でたくさんいらっしゃると思います。学校において児童生徒のため日々奮闘している先生方のことも知っています。
 ほんとうはそれらを含めた「一読法独立宣言」をつくりたいところです。が、そこには目をつぶって「通読によってこんな悪い点が生み出されたぞ。だから、一読法を学ぶべきだ」と主張する檄文を作成しました。今節も悪い例は話半分としてお読み下さい。

1 ★ スマホ・ラインをやめませんか。

 アルコール摂りすぎの人が「休肝日」を設定するように、週に2日、せめて1日スマホを見ない日を設けようではないか、という提言です。この日は緊急事態以外、メール・ラインはやらないと決める。
 特に中学生、高校生諸君。学校で学び、家でもやりたいこと、やるべきことがあるはずです。ツイッターを読んだり、書く時間があったら、小説や論文を(文字で)読んで、《つぶやき》は書物に書き込んでください。

 毎日のように届く相手の言葉に応じなければ、友情を維持できませんか。
 「そんなこと言ったら、友人関係が壊れる」と思いますか?
 この程度で崩壊するような関係なら、なくなった方がいいと思います。
 この提案に「わかった。そうしよう」と言えない友人は、自分のことしか考えていない人、あなたのことなどどうでもいい利己主義者です。
 内心を正直に打ち明けられない相手は心からの親友とは言えません。
 恐れず言ってみてください。あなたのことを友と思っているなら、「わかった。いいよ」と言ってくれるはずです。
 よって、本当に言いたい提言は以下。
 ☆ ラインやメール交換は一週間に1日か2日としませんか。

2 ★ 「人に迷惑をかけるような人間になるな」と言うのをやめませんか。

 これは大人に対する提言です。親御さんが子どもに「人に迷惑をかけるな」と言うとき、それは「私に迷惑をかけるな」と言っているのと同じことです。「人」とは全ての人であり、その中に親も入るからです。
 だから、子どもは困った事が起こっても「親に迷惑をかけてはいけない」と思って「助けてほしい」と言えません。
 そして、親が年をとると、今度は親自身が(ホンネではないだろうけれど)「子どもに迷惑はかけられない」とつぶやくようになります。
 私には子どもがいませんが、この言葉を聞くたびに「さみしい親子関係だなあ」と思います。

 確かに世の中にはルールを守らない、相手の気持ちを考えない自己チュー人間、表の利己主義、裏の利己主義を発散する人を見かけます。しかし、全員ではありません。むしろ私たちは「迷惑をかけ合って生きている、助け合って生きている」ことを感じるべきではないでしょうか。
 よって、「人に迷惑をかけるような人間になるな」と言うのではなく、
 ☆ 「お互い助け合う人間になろう」と言いませんか。

 ただ、電話で「助けてほしい。すぐ金がいる」と言ってくる息子に関しては、残念ながら詐欺である可能性が高い。だまされないために合い言葉を決めましょう。決めていなくとも、「まず合い言葉を言え。山!」と言って「川!」と答えたら、「お前は詐欺師だな」と見抜けます。

3 ★ 「優秀な人間を求めている」と言うのをやめませんか。

 これは大学や企業、官庁・公務員のお偉いさんたちへの提言です。
 長と名の付く人が入試や採用に関係すると、「優秀な生徒が入学してほしい、優秀な学生が入社、入省してほしい」とよく言います。その意味を深く考えたことがあるでしょうか。
 その言葉はあなたが「自分は優秀ではない」と白状しているのと同じです。「楽して生きたい」と言っているようなものです。
 優秀でない新米を優秀に育てることができる人こそ、真に優秀な指導者でしょう。新米を手取り足取り育てることがめんどくさい、その能力に乏しい。だから「優秀な人が来てほしい」と言っているのではありませんか。

 そして、本当に「優秀な人間がやって来てほしい」と思っているのか、自ら問うてほしいものです。
 あなたを凌駕するような人が現れたとき、あなたはその人を妬み、そねみ、「このままでは自分の身が危ない」と感じ、策を弄してその人を排除するような利己主義者ではありませんか? 出藍の誉れを受け入れる人間ですか? 科学者の歴史はしばしば前者であることが多いようです。
 あるいは、新しい人材が真に優秀な人だからこそ、会社や省庁の上役に反対意見を述べ、「それは正しくない」と主張する。そのような人を「あいつは物わかりが悪い。空気が読めない。組織から追い出してしまえ」と思うような上役ではありませんか。

 そして、優秀な大学の先生方へ。自分の研究と学部学科にしか関心がなく、入試に携わっている偉い人たちへ。あなたの存在が入試に些末な項目暗記主義をもたらしている――そうは思いませんか。
 私は空海を研究したとき感じました。空海は四書五経を暗唱するほど学び、さらに仏教を研究し、数々の書物を著した天才です。当時の西安中国語もぺらぺらだったようです。
 しかし、ひがみ気分で思います。空海は数学を勉強しなくて良かった。生物、化学、物理もやらなくて良かった。日本の歴史を「六国史」(初期)で読んだかもしれないけれど、世界史は(中国の歴史以外)全く勉強しなくて良かった。もちろん英語なんぞやる必要もなかった……。
 果たして空海が今の世に生まれ、小中高に通ったとき、彼はその天才的能力を発揮できただろうか、と思います。

 何を言いたいのか。優秀な研究者であるあなたは研究分野の細かいことまですらすら言えるはずです。その優秀さを大学を目指す全ての学生に求めていないか、と言いたいのです。そして、「我が学部学科にはこのレベルの学生が必要だ」と思ったことを、全ての受験生に求めている。だから、大量の些末な知識を求めているのではないかと。

 念のため、もっと簡単に言っておきます。国文学、日本史を学ぶのに、数学や英語の偏差値七〇以上、六〇以上が必要ですか。数学、物理を学ぶのに、古典や地歴の偏差値六〇以上が必要ですか。学部学科の科目さえハイレベルなら――それも知識丸暗記のパソコン人間ではなく、自分で調べて考えたり、答えを探そうとする人材なら、「他の科目は四〇以下でも構わないではないか」と言いたいのです。

 この結論を受け入れてもらえるなら、当然のように導き出される提言があります。
 ☆ 国社数理英の試験で偏差値70(~60)以上を求める大学入学用(センター・共通)試験をやめませんか。

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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:まずは穏やかにスタートしました。これからもっと過激な提言を書きます。
 なぜ入試を廃止し、校則・テスト・宿題も廃止し、ゆとり教育のさらなる徹底――「教育内容を半減して好きなこと、やりたいことをたくさんやる学校への転換」を提言するのか。

 中高の授業が通読、精読の三読講義型授業である限り、入試もテストも、詰め込み教育も廃止できません。それらをやめると、「生徒は勉強しなくなる」と考えているからです。
 ところが、授業が最初から精読する一読法に変わると、生徒はテストや宿題がなくとも自ら勉強するようになります。これから読んでほしいのはそこです。飲んだくれのおやじと違って私の愚論暴論には根拠があります。「一読法からの提言」と書いたゆえんでもあります。

 さて、読者各位はここまで一読法を存分に学んできました。「一読法なら、なぜテストも宿題も入試も不要と言えるのか」考えてみてください。

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2020.01.08

別稿『一読法を学べ――学校では国語の力がつかない』第26号実践編十

 長くかかりました。ようやく一読法実践編の「まとめ」です。
 一読法はこれまで三読法の陰に隠れていました。三読法が王様で一読法は最後尾をおずおず歩く従者でした。
 だが、一読法こそ本来の継承者として王位に就く時代がやって来ました。
 実践編の最後に平塚らいてう『原始、女性は太陽であった』をまねて、「一読法独立宣言」を発したいと思います。

 なお、檄文としたので、具体例は悪い面を強調する手法を採用しています。そこは話半分としてお読み下さい(^_^)。

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 本号の難読漢字
・檄文(げきぶん)・択一(たくいつ)・隠蔽(いんぺい)
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 『 一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』 22

 十 実践編のまとめ

 一読法独立宣言――『一読法が太陽となる!』

 ★ 新芽の一読法は摘み取られた。

 五歳児が絵本を読むとき、彼らはつぶやきながら読む。
 「大変だ! 良かった! この後どうなるの?」と。
 五歳児は自分が知らない言葉を大人が口にすると、
 「それはどういう意味?」と聞く。

 彼らは大人の言葉を一言一句注意して聞いている。
 そう。人は一読法で人の話を聞き、一読法で文章を読み始める。
 一読法はやがて花開くはずのつぼみだった。

 だが、十年後の子どもはもうそれができない。
 つぶやくことをやめ、疑問の言葉を発することをやめた。
 覚えろと言われたことを、ただ丸暗記するだけの子どもになりはてた。
 いや、それは子どもに対して失礼だ。彼らをそうしたのは学校であり、先生だ。制度を決めたお偉いさんたちだ

 何のために勉強するのか。高校入試、大学入試のためだった。
 先生は「ここは試験に出るから重要だ」と言い、生徒は定期テストと入試のため丸暗記に励んだ。そして、試験が終わるときれいさっぱり忘れた。
 入試は生徒を服従させるためのおどし文句としても使われた。大人の言うことをよく聞く良い子がたくさん育ってくれた。

 ★ 一読法にかわって子どもに教えられたのが「まず通読」の三読法だ。

 国語で通読・精読・味読の三読法を学び、他教科も通読・精読の講義型授業ばかり。最初の読みは「さあっと読みなさい。ぼーっと読んでいいんだよ」と教わった。「後でしっかり読むから」と。
 だが、学校を離れたら、もはや二度読むことはない。そんなしちめんどくさいことを一体誰がしようか。
 結果、人は三、四割の理解度で文章を読み、人の話を聞く。そして、深く考えることなく言葉を発し、短文を書く。良いか悪いか、気に入ったか、気に入らないか。二者択一の言葉しか思いつけない人がたくさん育ってくれた。

 五歳児が持っていた一読法の芽は見る影もなくつみ取られ、もはや芽吹くことなく、花咲かせることもない。三読法が太陽となり、一読法は夜空の月でさえない。
 いや、精読のない通読のみの読み方、話の聞き方はもはや太陽の輝きを失っている。
 人々は薄暗がりの中、明かりも持たずに歩むしかない。

 ★ かつて優等生とは記憶力のいい、頭の回転の速い子だった。

 優等生は難読漢字を読める。日本や世界で何年に何が起こったかすらすら言える。元素記号を全て覚えている。先生の質問には常に正解を答える太陽だった。
 中学卒業時偏差値は70を超え、有名進学校に合格。さらに項目暗記に励み、偏差値の高い国公立、有名私立大学に進学した。高編差値の人間は太陽として輝き続けた。彼らはみな良い子として育ち、将来も約束された。

 その陰で項目暗記が苦手な子は劣等生として軽蔑され、無能な人間とおとしめられた。魚の事、昆虫の事、動植物のこと。何か一つのことに集中し、自ら調べ、考えることができても、英語や数学ができなければ、上の学校に行けない。
 先生は「そんなことをやるのは後でいい。今は英語を勉強しろ」と言った。
 使えない英語のために、学校時代の5分の1が費やされた。忘れられる項目暗記に勉強の5分の3が使われた。やりたいことより、やりたくないことをやれと言うのが学校だった。

 ★ 良い子は良い大人になったか。

 太陽として学生時代を送った人たちはやがて各所の長となり、各界のリーダーとなった。彼らはとても良い大人になった。
 真面目に税金を払っていたらやっていけないと、脱税・節税に精出した。自ら汗水流すことなく、注文だけ受けて下請け、孫請けを働かせた。法律で決められた通りのことをやっていたら、儲けなどない。気付かれなければ、何をやっても構わないと不正に走った。会社のために不正をやれと部下に命令した。従わなければ、嫌がらせといじめを駆使して追い出した。
 上級公務員になるや、一部の人間を有利にする決定を下し、ばれそうになると隠蔽した。高偏差値の人間が政治家になると、秘書に暴言を吐き、運転手を無能とののしった。
 長と名の付く人がパワハラ、セクハラを繰り返す。それが良い子のなれのはてだ。
 さらに有能な方々はひそかにつぶやいている。「ばれるなんて無能な奴らだ。私はもっとうまくやっている」と。

 ★ 今や時代は変わった。真の優等生とは?

 今や難読漢字はスマホ検索で直ちに読める。理科社会の小さな項目はインターネットで確認できる。頭の中にパソコンを備える必要がなくなった。今後項目暗記と出力は人工知能AIが取って代わる。
 今や人間にとって必要なものは丸暗記の知識ではない、知恵だ。学んだことを応用できるか。疑問を抱き自ら答えを探せるか、創造的な作業に関われるか。その力は通読、項目丸暗記では生まれない。
 今こそ最初から考え、途中で立ち止まって未来を予想する訓練をしなければならない。
 一読法が必要な時代がやって来たのだ。
 真の優等生は未来を見通せる人間だ。長となっても人の心を思いやれる人だ。明のある人間こそ真の優等生だ。

 ★ 親が上で子どもが下ではない。先生が上で児童・生徒が下ではない。

 東日本大震災は我々に教えてくれた。
 大津波が来そうなときは、誰かの指示を待つことなく「逃げろ!」と。
 先生の指示を待った子どもは津波に飲み込まれて殺された。
 大人の指示を待たずに逃げた子どもが助かった。
 今は家庭も学校も「真っ先に逃げなさい」と教えている。

 ならば、大人は小学校1年生に教えねばならない。
「あなたの友達があなたをなぐったら、ひどいことを言われたら逃げなさい」
「親があなたをなぐったら、暴言を吐いたら逃げなさい」
「学校の先生があなたをなぐったり、わけもなく身体を触ったら逃げなさい」と。

「我慢することはない。耐えることはない。恥ずかしいことでもない。逃げることが正しい。大きな声をあげて逃げることが正しいよ」と教えねばならない。
 だが、逃げるにも訓練がいる。声をあげるために必要なことがある。
 それが国語の読みであり、人の話の聞き方だ。周囲を見る目も養わねばならない。
 残念ながら、三読法はそれができない。

 三読法が子どもに教えているのは我慢と忍耐だから。
 通読は意味のわからないところがあっても、途中でへんだと感じても、「とにかく最後まで読みなさい」と教える。それが人生において適用される。
 日々の生活の中で「あれっ、何か妙だ。おかしいぞ」と思っても、通読の癖で声をあげることができない。通読が「とにかく最後まで耐えなさい」と教えているからだ。
 親に殴られても我慢する子、部活顧問に蹴られても耐える良い子は通読が生みだしてくれた。
 通読を学んでいる限り、子どもたちは逃げることができない。声をあげることができない。

 通読を学んだ良い子はやがて社会に出て働き始める。
 彼らは「へんだ。おかしい」と思っても、先輩や上司の言葉をまず通読する。
 それが長時間労働であり、セクハラ・パワハラであり、不正を働けと指示されることであっても聞き続ける。おかしいと思っても、声をあげることがない。

 声をあげることができないのは本人の問題ではない。学校と名の付くところで、「まず通読せよ」の三読法を学んできたからだ。
 通読で書物を読み、通読で人の話を聞く訓練しか積んでいなければ、社会に出ても通読人生を送る。
 通読は立ち止まって声をあげることが許されない。黙って最後まで聞き続ける訓練である。
 結果、子どもたちは我慢と忍耐の人間になり、声をあげることのできない大人になった。

 逆に一読法は我慢も忍耐も教えない。読み始めた最初から「あれっ?」とつぶやく。これはおかしいと感じたら「へんだぞ」とつぶやく。それが正しい読み方、正しい聞き方だと教える。これが人生に適用される。
 人が語る言葉に対して「おやっ?」とつぶやく。人が示す言動の初めから「なぜそうなのか」説明を求める。それが一読法による話の聞き方であり、生き方だ。
 一読法を学んでいれば、逃げることができる。途中で声をあげることができる。

 ★ 通読は子どもたちを、すなわち大人を傍観者にする。

 通読とはある出来事を最初から結末まで、ただ眺めるだけの読み方である。
 途中でへんだと思っても、声をあげることなく眺める事を傍観と呼ぶ。

 この読み方が人生にも適用される。自分と周囲で起こる事をぼーっと眺める。友人、先生、親、近くの出来事、遠くの出来事を「さあっと眺めましょう」と教わってきた。「何かおかしい」と思っても、そのことが終わるまで発言を控える。本当は知らんぷりしたくないと思っても、誰かが言い出すまで待つ。

 ひどい目にあっても、自分が傍観者だから、周囲も傍観者だと思い、誰も助けてくれないとカラに閉じこもる。
 途中で立ち止まらない通読とは傍観の勧めである。通読のおかげで、無関心な傍観者、見て見ぬふりの傍観者がたくさん育ってくれた。「助けて」と言わない傍観者を生みだしてくれた。

 一読法は傍観しない。途中で「おかしい」とつぶやく。そうつぶやいて自分にできる事を模索する。このままだとどのような未来がやって来るか予想する。逃げるか闘うか考える。そして、行動に移す。勝ち目がなかったら逃げる。別の正しいことが行われているところを探す。一読法を学べば、傍観しない人生を歩むことができる。

 ★ もしも傍観者であることに悩んでいるなら……。

 今あなたが傍観者である事に悩んでいるなら、それはあなたのせいではない。あなたに発言する勇気、行動する勇気がないからでもない。
 水泳の訓練をしなければ泳ぐことはできない。自転車に乗れなければ、大人になっても乗れない。
 訓練しなければ、できないのは当たり前のことだ。

 傍観しない訓練は子ども時代に学ばなければならない。だが、通読とはある結論、一つの結末を迎えるまで黙って眺める訓練である。通読活動は傍観を助長している。学問のすすめならぬ、傍観の勧めが通読である。

 そもそも傍観に訓練はいらない。人は自分が不利益になることは知らんぷりして傍観する生きものだ。傍観しない生き方こそ訓練を必要とする。
 傍観者になりたくなかったら、一読法を学ぶしかない。自ら考え、主体的に生きる力は「まず通読」の三読法では得られない。一読法こそ、時空を選ぶ力、未来を切り開く力を生みだしてくれる。

 ★ 子どもたちよ、若者よ。一読法を学べ。

 一読法が太陽になる。夜空の月となってあなたの人生を導いてくれる。
 学校は一読法を教えてくれない。先生は一読法を知らない。やろうとも思わない。どの教科の先生も一読法を学んでいないからだ。学んでいなければできないのは、先生であっても変わらない。大学や国のお偉いさんたちも千年、百年続く三読法を変える気はない。

 子どもたちよ。大人をあてにするな。今こそ自ら一読法を学ぶべきだ。
 一読法を学べば、暗い夜が明ける。
 トンネルを抜け、目の前に明るい世界が開けたと感じるはずだ。
 一読法が必要な時代、太陽となって輝く時が来た。
 三読法にかわって王位に就く時代がやって来たのだ。


==============
 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:前号で「次回はまとめと提言」と書きました。ところが、いつものように長くなったし、「これはこれで一つにしておこう」と思い、檄文風「実践編のまとめ」となりました。
 提言の方はどう書くか目下思案中です。あまりに多種・雑多になりそうで、「やめようか」とも考えています。提言を一つに絞れば、「三読法の通読をやめて一読法を開始すべきだ」に尽きるからです。その他の提言は別の機会に、と決めたときは、次号「全体の後書き」をもって本稿終了となります。

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