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2020.12.08

別稿『一読法を学べ――学校では国語の力がつかない』第40号 「新しい教育システムの構築」その2

 前号の愚論暴論、いかがだったでしょうか(^_^;)。
「面白い」とつぶやいたか、「とんでもない。実現できっこない」と吐き出したか。もちろん私は(深い考察に基づく)まともな提言だと思っております。
 読者各位が大人なら自分の学校時代を振り返り、小中高のお子さん、お孫さんがいれば、彼らの今後を考えたかもしれません。
 なんにせよ、ちょっとした波紋を巻き起こしたとすれば、私の書き甲斐(?)もあろうかってもんです。

 さて、今号は「新しい教育システムの構築」その2。前号で概説した「高校入試を廃止して中学校の教科書を中高6年間で学ぶ」に対して、湧き出たであろう疑問・反論に対する考えを語りつつ、中身を深めたいと思います。

 [以下今号]
 新しい教育システムの構築 その2
 ――高校入試の廃止と午前基本午後選択の詳細

 [1] 中高の午後は好きなことをやる
 [2] 中高の午後に部活動を入れるネック
 [3] 挫折者が戻れる学校にする
 [4] 「今はきらいなことをやれ」は正しいのか
 [5] 座学が好きで深く学びたい生徒は
 [6] 教養と英語は必要だと感じたときに勉強する

 「一読法を学べ」前39号は11月 12日発行です。
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 本号の難読漢字
・破綻(はたん)・伴(ともな)う・思いを馳(は)せる・先達(せんだつ)・納得(なっとく)・僻地(へきち)

************ 小論「一読法を学べ」*********
 『 一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』 38
 「新しい教育システムの構築」その2

 高校入試の廃止と午前基本午後選択の詳細

[1] 中高の午後は好きなことをやる

 前号のポイントは「文明の進化とともに学ばなければならないことはめっちゃ増えた。結果、中学校卒業の15歳までに義務教育の基本を全て教えようとの理屈は破綻をきたしているのではないか。人生80年の長寿社会に合わせた新しい教育システムとして、中学校までの教育内容を18歳の高卒までに(午前基本として)学び、現在の高校の教育内容は全て選択として中高の午後に入れよう」というものです。

 さらに、午後の選択は学校内の授業だけでなく、部活動や学校外の活動も可であり、単位として認める。高校は(中学校を出たら働いても構わないので)一日中働くことはもちろん、午前は学校に通い、午後の選択にバイトを入れても良し。オリンピック目指して校外で活動したり、野球やサッカーなどプロの下部組織に属しても構わない。それら中卒後3年間の活動は全て単位として認める。
 そして、成人後20歳、30歳になって「もっと勉強すればよかった」と考える人、リタイア後の高齢者も中高再入学(もちろん無試験)、基本や選択授業の一部履修を認めようというシステムです。高校入試、大学プレテストは廃止されます。

 疑問・反論のつぶやきは直ちに出たことと思います。

 反論1、高校入試を廃止すると、高校ランクがなくなり、勉強したくない生徒に無理やり勉強させたり、生徒の学力格差で授業がしづらくなる。

 反論2、高校の学習内容を中高6年間の選択にすると、数学とか物理選択者が激減する。午後はずっと部活動やバイトも可とすると、座学の5教科を選ぶ生徒などいなくなる。

 もしも他に「中学校の教科書を高卒までに学ぶなんて高校入試・大学入試に対応できないではないか」との反論を思いついた方は、(失礼ながら)私の論考をちっとも読めていない。表題と結論を眺めただけ、と言わざるを得ません。

 私が提言する新システムに高校入試はありません。大学入試もプレテストを廃止するなど、大きく変わります。いや、廃止されなければ、このシステムは成り立ちません(プレテスト廃止に関しては追々語ります)。

 まず反論1ですが、これはむしろ高校入試・大学プレテストの廃止によってかなり解消されると考えます。
 入試のための勉強はほぼ国社数理英5教科の座学です。それがいやでいやでたまらない生徒は(午前中は我慢するとしても)午後は座学教科を選択しないでしょう。午後の座学系授業は「勉強したい」生徒だけが残ります。先生にとってはとてもやりやすい授業となるはず。
 もっとも、だからこそ「座学系教科の選択を取る生徒が激減するのでは」という2の危惧が生まれます。

 反論1・2は主として高校の先生方――特に座学の教員から出る反論です。私も元教員だけに、そして一時間の授業中雑談を交わすなど落ち着いて勉強しようとしない生徒を相手にしたことがあるだけに、よーくわかります。

 しかし、高校入試・大学プレテストがなくなれば、午前の授業も様変わりします。座学授業は入試のための項目・解法丸暗記がなくなり、より魅力的な、面白い授業を展開することができる。私はそう思います。

 一部の保護者も1、2の反論に同意するでしょう。成績上位者から下位者までごちゃ混ぜの中学校を見ているから、高校がABCDEにランク付けされていることはとてもありがたい。「今のままがいい。高校入試を廃止すると、ランクが消えて大学進学のための勉強がしづらくなる」と考える。高校入試の廃止はいわゆる「公立名門進学校」消失を意味する――と感じられるでしょう。

 敢えて暴言を吐くなら、このような主張は自分のことしか考えない(自分の子供のことしか考えない)利己主義者の発想だと思います。
 おそらくあなたは(公立私立問わず)AランクかBランク高校の卒業生である。もちろん大学にも行った。そのおかげで現在があると考えている。だから、我が子にも「A・Bランク高校→できたら国立私立のA・B大学に進んでほしい」と考えている。高校入試を廃止したら、その根幹が失われる……と思って猛反対するでしょう。

 ほらね。自分のことしか、我が子のことしか考えていないではありませんか。
 もっと言うなら、我が子のことをほんとに考えているだろうか。
 子どもはAB高校、AB大学(もしかしたらAB私立中学校)に進学することが至上命題とされている。そのプレッシャーとストレスを感じていることに思いを馳せることがない……と敢えて書きます。

[2] 中高の午後に部活動を入れるネック

 外部の人は気づかないかもしれませんが、中高の先生方からはとても妥当な疑問がすぐに提起されたことでしょう。それは午後に座学系・実技系の選択だけでなく、部活動も入れることです。施設面において相当の困難が生じます。

 もちろん最大のメリットは中高教員の働きすぎをかなり解消できることです。
 現在部活動は(当然のように)放課後の午後4時くらいから始まり、午後6時、ときには午後7時ころまで学校内で行われる。
 私が現役教員だったころ、顧問は必ずしもそばについているわけではなかった。職員会議など全教員が一室に集まっていても、生徒は勝手に活動していました。
 しかし、特に運動系の部活動において事件・事故が起こると、「顧問がその場にいたか」、その責任が問われるようになりました。

 自ら願って部活顧問になったならいざ知らず、多くの顧問は割り振られて仕方なくなっている。それで事故の責任を取らされてはたまりません。何より勤務時間を過ぎても学校に残らねばならず、それが労働時間過多の大きな原因になっています。
 もしも部活動を午後に入れれば、教員の勤務時間は適正なものになるはずです。
 新システムはそのための提言でもあります。

 午後生徒の活動は全て午後5時で終了、放課となる。選択は2コマとしても、部活動は午後1時半から4時半まで3時間活動すれば充分でしょう。教員の残業はあったとしても1時間くらいで終えられます。

 ただ、最大のネックは施設面。中高の先生なら、午後に座学系・実技系の選択授業・部活動など全て入れることは「不可能だ」と知っています。
 具体的には音美体なら、音楽は音楽教室、美術は美術教室、そしてバスケに卓球、野球にサッカーなど、体育系はグランドや体育館を使う。どうしても選択授業と部活動がバッティングします。授業と部活動で同時に使用できないのです。

 これに対してみなさんは(特に学校の先生方は)何と答えますか。
 「不可能だ」と言ってあきらめますか。

 私なら「施設をもう一つ建設しましょう」と答えます。
 必要なものは第2グランド、第2体育館。必要数の教室。教室は大小のプレハブでいいかもしれません。顧問は希望する先生以外は外部から招く。

 金がかかることは間違いありません。しかし、このシステムを「面白い・有意義だ」と思うなら、国が――つまりは国民全体が建設費を出そうと決めればいいだけの話です。これによって生徒は「自分が好きなこと、やりたいことのできる」学校に通うことができるのですから。

 そして、当面「すでに使われなくなった学校施設」が全国いたるところにあります。廃校施設です。
 過去20年から10年、少子化が進んだ地方は中学校・高校が統合され、小学校もどんどん消えました。結果、歩いて行ける距離、自転車や交通機関で30分以内のところに、使われなくなった中学・高校・小学校施設があります。そこを午後の選択授業や部活動に使用することができます。

 前号でも書いたように、そこには成人後の大人や高齢者が集まります。彼らの多くは座学か音楽、美術、情報などを選ぶ。だから、選択授業が成立しないということはないでしょう。そのうち都市部も少子化の波が押し寄せ、統合が始まります。近くの廃校を第2施設として使うことができます。

 現在都市部においても使われなくなった学校施設が増加しています。
 私が在職した神奈川など、約3、40年前人口増加に合わせて「高等学校100校計画」が実行されました。そのころ多くの新設高校は1学年12クラス、全学36クラスでした。
 やがて少子化とともに、クラス数は激減し、現在は学年6クラスまで下がっています。同時に統合も始まって転用された学校施設も増えています。

 クラス数が減った学校は教室が余っています。あとは第2グランド・第2体育館を建設するだけ。それも数校の生徒が集まると考えれば、2校か3校に一つでいいかもしれません。
 この提言が有意義であると認めるなら、必ずしも全国一律に開始する必要はない。都市部には都市部の、地方には地方のやり方でシステムをつくり、教育を進めて構わないと私は思います。

[3] 挫折者が戻れる学校にする

 新システムについてもう少し補足します。
 私は中学・高校における「勉強」――中でも5教科の座学について以下のように考えています。

 1 勉強は好きなことをやる。面白いと思ったことをやる。
 2 勉強は必要だと思ったときにやる。目的に合わせてやる。

 私が提言する「高校入試を廃止して中学校までの教科書を中高6年間で学ぶ」システムはこの基本理念に基づいて考案されています。

 だからと言って「食わず嫌い」になってほしくない。
 今は好きではないが、後で好きになることがある。今は必要だと思えないが、後で必要になるかもしれない。大ざっぱな知識は持っていた方がいい。それは高校教育の知識ではない。中学校の教育内容で充分だ。いや、小学校・中学校の教育内容でさえ、ころりと忘れてしまうことを防がねばならない。

 ゆえに、中高の午前中は嫌いな教科であっても必修とする。実技は好きだが、国社数理英は苦手。逆に座学は好きだが、体育は嫌い。そのような生徒であっても、最低限の座学と実技は学んでもらう。ただ、3年間ではなく6年に延ばしてじっくりやる。

 また、15歳から18歳までの活動を全て単位化するのは大学入学資格を得るためです。3年間働いた人やプロの下部組織で活動した人、午前は授業に出て午後は部活動とかバイトに明け暮れた人、自宅に閉じこもった人でさえ、中卒程度の学力があれば、「みな等しく大学入学資格を持つ」――という教育システムにするのです。
 当然大学入試も変わらねばならない。5教科のプレテストは廃止され、結果としてアメリカのように「入りやすく出にくい」大学になるでしょう(ただし、大学のいわゆる二次試験は廃止されません)。

 ……とまとめれば、「そりゃあひどい。中学校までの教育内容を18歳まで伸ばしておいて高校に行かなかったら、一部の生徒は最低限の教育内容さえ受けないまま18歳となる。当然大学入試に受からないし、高校に行った生徒と比べて大きなハンデを負うではないか」と反論されると思います。

 これに対して私は「それでいいのです」と答えます。
 これこそ人生80年時代における十代後半の生き方です。

 今――今ですよ今、やりたいことを思う存分やれば後悔はない。その後高校に戻って勉強をやり直すことで数年の遅れを取ったとしても、20歳から80歳まで60年もあるのです。
 かたや本当は自分のやりたかったことがあったのに、普通高に行き、大学受験のための勉強をやって大学に行く。後に「あのころほんとはあれをやりたかった」と後悔する人と、かたや3年間やりたかったことをとことんやった人。後者の人生に悔いはない、と私は思います。

 学校を離れて好きなことを3年間やってみる。結果、18歳以降もそのまま好きなことに突き進む。この若者は高校や大学に行かないことを後悔しないでしょう。むしろさらにハイレベルなことができると、このシステムに感謝すると思います。
 ちなみに、比率で言うと100人に1人いるかどうか。

 だが、3年間やってみてその道に挫折する。もしくは進路を転換したい、勉強し直したい。実技・芸術系の大学に進んでもっと深く学びたい。あるいは、指導者となって子どもたちを教えるため、学校の先生を目指したい。
 このように考える若者は高校に再入学したり、大学進学のため1年か2年余分にかかったとしても、やはり「後悔しない」でしょう。
 なぜなら、自分のやりたいことを存分にやったからです。やってみて「自分には無理だ」とわかったから、進路を変えるのです。
 こちらはたぶん1000人中990人。

 ところが、現在の教育システムは高校を離れて好きなことをやることも、挫折して高校に戻ることも、何年後かに大学に進むことも――不可能ではないけれど――ものすごい困難が伴います。

 高校には入試があります。嫌いだった座学の5教科を勉強しないと再入学できない。高卒資格がなければ「大学入学検定試験」を受けねばならない。これも5教科中心です。
 そのため990人の挫折者は部屋に閉じこもって鬱々と勉強するか、塾や予備校に通うしかなく、多額の金と時間を必要とします。しかも、そうしたからといって大学に合格できるとは限らない。これが一番辛い点です。

 特に国公立(一部私立)大学にはプレテストがあります。学部には必要のない科目を、実質項目暗記、解法丸暗記の勉強をしなければならない。「一芸入試(AO)制度があるではないか」と言われそうですが、あれは100人中99人の挫折者を受け入れてくれる制度ではありません。

[4] 「今はきらいなことをやれ」は正しいのか

 自分の好きな道に挫折したとき、すぐに戻れる、大学にも行けるという保証がなければ、15歳の少年少女がそちらに進むことに二の足を踏むのは当然でしょう。
 つまり、現在の中高大の教育システムは生徒ひとりひとりの多様な要望に全く答えていない。むしろ自分の好きな道に突き進もうとすることはレールを外れるドロップアウトであり、戻ろうと思っても戻れない、大きなリスクとハンデを抱えることになる。これが現実です。

 それがわかっているから、保護者や中高の先生は言います。「お前の望む道は大変だぞ。とりあえず高校や大学に行った方がいいんじゃないか」と。
 このような人生の先達からの貴重なアドバイスを受け、本当にやりたいことをあきらめた生徒は一体何人いることか。

 私なんぞ正にそれで、中一のとき父に「小説家になりたい」と言ったら、「お前に小説家の才能はない」と断言されました。家に絵本はなく、小説の単行本・文庫本も数えるほどしかなかった。文才などない「父ちゃん、母ちゃんの子だから」と言われては納得の説得でした。
 中学校の国語の先生だって、作文が苦手だった私に「難しいと思うよ」と言ったでしょう(担任にも打ち明けたことがないので推量形です)。

 余談ながら、中二のとき夏休みの課題として読書感想文を出されたことがあります。私は小学校1年から何度も読んで好きだった児童文学の一冊を選び、原稿用紙10枚の感想文を書きました。
 もっとも、そのうち9枚は「読んだ本で最も感動したところ」をそのまま抜き書きしました。
 国語の先生は当然のように「そこを自分の言葉で書くんだよ」と言いました。私は「でも、ぼくが書き直したら感動が伝わりません。この部分は誰でも感動すると思うから、そのまま書いた方がいいと思いました」と答えたものです。
 これに対して先生が何と言い、その後どうなったか覚えていません。

 小説家希望がかなうのは100人どころか1000人に一人でしょう。飯の食えない、将来の展望も開けない、無謀な望みは捨てて「とりあえず高校に行け。学部は何でもいい、大学を目指せ」と言うわけです。

 私のことはさておき、「中学校までの教科書を6年間でやる」ことに対して「それでは高校に行かない生徒は半分しか学べない。やはり大きなハンデだ」との反論は大した問題ではありません。

 と言うのは中学校の教科書を2分割して中高で分担するわけではありません。たとえば、社会科日本史なら「中学校3年間は1000年(平安時代末期)まで、高校3年間はその後現代まで」というように2分割すると、この問題が発生します。

 しかし、このシステムでは高校入試がありません。細かい年号と事項のつながりを「これはテストに出るから大切だよ」と教える必要がない。だから、根幹となる――大木で例えるなら枝葉にこだわらず、幹の部分をしっかり学ぶ授業(学習)に変わります。
 簡単に言うと、教科書を読むだけなら、中学校3年間(どころか数か月)で充分読み切れるということです。
 もちろんぼーっと読む通読ではダメ。一読法読書です。

 鎌倉時代の始まりを年号で暗記するのではなく、生徒ひとりひとりが自ら疑問を持って教科書を読む。すると「なぜ頼朝は京都ではなく、遠く離れた鎌倉に幕府を開いたのか。その後も秀吉は大阪、家康は江戸に政治の中心を置いた。なぜか」といったテーマを考え、探求する授業につながります。高校入試をなくせば、このような一読法、単元学習、流行りのアクティブ・ラーニングが可能です。
 逆に言うと、高校入試がある限り、このような(真に力となる)授業・学習は不可能だと思います。

 ちなみに、私は高校の基本授業に際して入学時改めて教科書を買う(無償化以後なら貸与する)必要はないと考えています。中一のときもらった教科書を6年間使えば良いのです。予算の削減になるし、読書法で言うと正に「三読法の再読」にあたります。高校では(傍線や気づいたこと、疑問などが書き込まれた)中学校の教科書をもう一度読むことになって理解は一層深まり、記憶残存率も大幅に向上するでしょう。

[5] 座学が好きで深く学びたい生徒は

 そして、好きなことをやる、必要だと思った時にやる「勉強」は違う言葉に置き換えることができます。
 サッカー・野球・ピアノ・バイオリン・絵画・パソコン・バイト・働くこと……等々。これら未成年時代の活動は全て「勉強」です。

 それが好きなことであり、今やりたいことであるなら、12歳から6年間の午後に入れていい。15歳から3年間は「一日中全て使ってやっていいじゃないか」ということです。それは好きなことであり、面白いことです。やりたいことだから存分にやるでしょう。
 これを逆に言うと「今必要ないと思ったらやらなくていい。嫌いなことはやらなくていい」というシステムです。

 前号では実技系の方がわかりやすいと思ったので、例としてあげました。座学系の教科だって国語・数学・理科・社会に英語……同じことが起こります。

 たとえば、一日中小説を読んでいたい、数学が好きだし得意だから、どんどん深く高度な数学を勉強したい、一日中植物や虫の観察をしたい、化学実験をしたい。戦国時代が好きだから、その時代だけ深く学びたい。そう思う生徒がいます。
 その教科が「好きだ、面白い、もっと深く学びたい」と中一の段階から思うなら、午後はそればかりやってもらおうというシステムです。

 ところが、高校入試があります。中学校で自分の好きな教科だけ深く勉強したいと思っても、取り合えず嫌いな教科を勉強しなければ高校に行けません。だから、先生も保護者も言います。「そんなことはもっと大きくなってから、大学に行ってやればいい。今は英語を勉強しろ」と。

 かくして現行の教育システムは生徒が抱く「この教科をもっと深く勉強したい」との思いをくじきます。そして、好きでもない他教科をいやいや丸暗記して目の前のテスト、高校入試をクリアするためだけの勉強――その場しのぎの勉強になる。結果、他教科の教養は身につかず、やりたい教科も中途半端に終わります。

 高校(普通科)ではさすがに2年3年になると、文系、理系に分かれ、取り合えず好きな教科を勉強できる。しかし、国公立(一部私立)にはプレテストがあります。ここでも余計な知識、学部に不必要な知識を頭に詰め込まねばなりません。

 しかし、私が提言するシステムでは、高校入試がありません。大学プレテストも廃止します。だから、中学校の午後好きな教科を思いっきり勉強できます。そして、高校に行けば、午後もっともっと専門的なことを学ぼうとするでしょう。当然大学の関係学部に進学したいと考えるはずです。

[6] 教養と英語は必要だと感じたときに勉強する

 6年間専門科目を学んだ生徒が大学に進むなら、彼らは大学1年時から専門科目をさらに深く学びたいと思うでしょう。
 そのとき5教科(7科目)のプレテストは必要ない。学部によっては英語の実力さえいらない。
 いや、高校までに「中卒程度の英語力」を身につけています。外国語学部以外はその程度で充分だし、もっと必要なら、大学で高度な――というより《学部に必要な英語》を習得すれば良いのです。

 私は中学から5年制の高専(機械科)に進み、3年の時「材料力学」というのを学びました。これが英文教科書(単行本)です。そのとき先生は「同じ単語がたくさん出てくるから、それさえ覚えれば簡単だぞ」と言いました。確かに複雑な構文はとても少なかったと記憶しています。
 もっとも、私を含めて半数の生徒は日本語に翻訳された本を購入してテストに備えたものです。

 一般的な大学は1・2年が教養(学部)、3・4年が専門(学部)に分かれています。私が提言する中高の教育システムに変われば、大学の教養課程は廃止されるか、学生が必要だと感じた教養科目が残される程度で、1年時から直ちに専門科目を学び始めるでしょう。
 ここでも全員一律の教養科目必修はなくなります。もちろん選択として残される。だが、それは学生が必要だと感じたときに選択するシステムに変わります。

 たとえば、文系学部だが、理数系科目の「教養」が必要だと思った。そのときに理数系教養科目を学ぶ。理数系学部で国社系の「教養」が必要だと思ったら、それを選択する。もしも中学校教員になりたいと思ったなら、「体育・保健」の実技・教養科目を勉強し直す。いや、しなければならない。というのは僻地の中学校教員になったら、体育の授業を持たされることがあるからです。
 さらに、(外国語学部を除く全ての学部で)「中卒レベルの英語では不十分だ。もっと英語や第二外国語を勉強しよう」と思ったら、それを選択に選ぶということです。

 私は大学で国語国文学を専攻しました。第一外国語として英語が、第二外国語としても独・仏などから1つ選ばねばならず、私はドイツ語を選択しました(高専でも第二外国語としてドイツ語を2年間やっていたからです)。必修だから単位を取らないと卒業できません。
 では、英語やドイツ語は何か役に立ったか。国語国文学の演習・卒論研究に必要だったか。
 全く役に立たなかった。全く必要なかった、と言わざるを得ません。

 さすがに全くと言うと、言い過ぎの感があります。研究論文の中には部分的に英語が混じることがあり、英和辞典を引いたことはあります。でも、それは中卒程度の英語力で十分でした。

 なぜ国文学に英語が必要なのか。推察するに、英米の日本文学研究者が英文で研究論文を書いていることがある、それを「原文」で読むためでしょうか。あるいは、明治・大正・昭和前期の文学者は英語やフランス語を深く学んでおり、それが作品に影響している(ことがある)。その研究のためには英語と第二外国語も学ぶ必要がある――と、外国語を必修に決めた有識者や文科省のお偉方は考えたのでしょう。

 これはあまりに学生の現実を知らなさすぎます。日本人研究者による日本語の論文でさえ、膨大な量にのぼります。学生はそれを読むだけで精一杯。とても外国語の研究論文を英文で読んでいる余裕なんぞありません。卒論は大学3年から準備を始め、間に就職活動をはさんで実質1年半くらいで仕上げねばならないのです。

 なのに、大学教官は「今までの研究結果をなぞるだけでは意味がない。新しいことを付け加えろ」と言いました。私はそれを真に受けてもう一年余分に――つまり留年して5年間大学に行きました。
 真に受けたというより、国文の大学院に進みたかったけれど、あきらめたので、「ならばせめて大学院生並みの卒論を書こう」と思ったのが理由でした。一年後私の卒論『暗夜行路成立過程論』に対して先生方から「新しい解釈が書かれている」と言われたときは嬉しかったものです。

 繰り返します。勉強とは必要だと思ったときにやる。必要だと思った人は一生懸命勉強する。英語が必要かどうかは文科省や有識者、大学教官が決めることではない。学生自身に決めさせるべきだと思います。

 また、座学においても、一度はその道に進んだけれど、途中で進路変更することがあり得ます。
 先ほど述べたように、私は中学卒業後高専に進学しました。1年から工場実習などがあったけれど、多くは5教科の座学であり、文系の教科は時間数が少なく、英語や数学、理工系の教科が多かった。
 高専に3年間通って「自分は理工系に合わない。文系の人間だ」とわかり、中退して大学国文に進路変更しました(さすがに現役合格は無理で1年間予備校に通いました)。
 2年の時「機構学」で学校人生初の0点を取り、歯車を製作する機械実習で「どうしてこの数値を入力すれば小さな歯車と大きな歯車がかみ合うのか」、その理屈がどうしても理解できず、「こりゃダメだ」とあきらめました。

 これをみなさんは「挫折」と呼び、「浪人は余計な1年だったね」と言いますか。
 挫折であったことは間違いありません。しかし、高専3年間のおかげで、私は「自分には理工系が合っていない」と知ることができました。今でも高専に行ったことを全く後悔していません。進路変更を認めてくれた両親にも感謝しています。

 と言うのは、もしも地元の普通高に進学していたら、果たして高校3年間で「自分は文系の人間だ」とわかっただろうか。もしかしたら、大学工学部を進路先に選んだかもしれない。そう考えると、ぞっとします。高専に3年間通い、理工系の教科をいやというほど学んだ(学ばされた)ことで、自分は文系だとわかったからです。

 このように座学系教科において「今好きなことを深くやろう」と思って始めたとしても、一年経ち二年経てば、「どうも自分には合わないようだ。違う科目に進んでみよう」と思う可能性があります。
 もちろん(高校入試のない)中高6年制になっていれば、途中でいくらでも進路変更して、そのための勉強に変えることができます。

 以上、中学校までの教科書を6年間で学び、中高の午後と高校の全日3年間は自分のやりたいことをやる。その道に挫折したり、進路を変えようと思ったら、いつでも中学・高校に戻ってこられる。そのためには高校入試を廃止し、大学プレテストも廃止する――という提言について深掘りしました。

 日本には「好きこそものの上手なれ」ということわざがあります。
 誰の言葉か忘れましたが、世界的な学者も「嫌いなことはいくら学習しても普通以上にはなれない。好きなこと、面白いことを学習してこそどんどん上達する」と語っていました。

 私の提言は12歳から15歳まで、少なくとも午後だけは「好きなこと、面白いと思ったことをやろう、それをどんどん深め上達させようではないか」というシステムです。
 そして、15歳から18歳までは「一日中好きなことをやっていい。挫折したらいつでも戻っておいで。そこからやり直しても充分間に合う。人生はとても長いのだから」と言って送り出すシステムなのです。

==============
 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:一読法の復習です。読み終えて「あれっ、あの反論に答えていないじゃないか」とつぶやきましたか。わざと書きませんでした(^_^)。
 反論2「高校の学習内容を中高6年間の選択にすると、数学とか物理選択者が激減する」のところです。

 この反論は主として理数系教員から出ます。私は「情けないことを言わないでください」と答えます。「あなた方は数学が好きだし面白い。物理や化学が好きで面白いからそれを専攻したのではありませんか。自分が面白いと思ったことを生徒に伝えてください。入試がなくなれば、それを存分に伝えることができます。生徒はきっと理数系教科を『もっと勉強してみたい』と思うでしょう」と。

 これは文系教科、実技系教科も同じです。私なら「志賀直哉」とか(今なら)「空海」、そして「面白い古文」や「小説の書き方」を選択教科として開講するでしょう。
 なお、これは理詰めの反論ではなく、感情論だから本文に入れませんでした。

 さて、昨年3月から連載を始めた『一読法を学べ』はとうとう2年目の大晦日も超えることになりました。たぶん残り数回、桜の開花ころには終われると思います。
 新型コロナ禍は第三波の流行期を迎え、「コロナで苦しむか、経済で苦しむか」と苦境に立たされる人が増えているようです。
 しかし、朝が来ない夜はない、出口のないトンネルはないと言います。お互い我慢と忍耐でその日を迎えようではありませんか。
 m(_ _)m 御影祐

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