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2021.01.15

別稿『一読法を学べ――学校では国語の力がつかない』第41号 「新しい教育システムの構築」その3(前半)

一読法を学べ 第419「新しい教育システムの構築」その3
  ――英語教育の半減(前半)

 新しい教育システムの提言、3回目。
 読者の中には「中学校までの教科書を中高6年間で学ぶ」との表題を読み、「面白いかも」とつぶやきつつ、「そんな施策が本当に実行されたら、大学で高等教育を学ぶ力が身につくだろうか」との不安を覚えた方がいらっしゃると思います。
 私の提言は政治家・官僚や有識者、大学の先生方から猛反対される……と言うより単に黙殺されるだけでしょう。

 私は自説の裏付けを「権威」に求めたくないけれど、前号公開後たまたまネットで池上彰氏のコラムを読み、大いに勇気づけられました。権威の裏付け(^_^;)として紹介します。

 池上氏はみなさんご存じ、日本や世界のニュース解説でおなじみの方です。その池上氏が昨年6月、佐藤優氏(作家・大学教授)との共著で本を一冊上梓されたそうです。
 その表題がなんと『人生に必要な教養は中学校教科書ですべて身につく』(2020年、中央公論社)というのです。正に本稿の援護射撃となる言葉ではありませんか。

 また、その中で佐藤優氏は次のように語っているそうです。
「(中学3年生までの義務教育レベルの国語学習を完璧に理解すれば、日本語の読解力は)大学の高等教育もそれで足りるし、社会に出ても十分耐えうるレベル」であると。
 私は大学プレテスト廃止論者ですが、どうしても残したいなら、プレテストは高校入試レベルとする。それでも大学教育に充分対応できるということです。
 ただ、本稿にて繰り返し主張しているように、国語の授業が三読法の「通読―精読」をやっている限り、読解力はつきません。お二人の言葉が実となるためには、どうしても一読法を学ぶ必要があります。

 もう一つ。前号にて「ある世界的学者は……苦手なことをやるより得意なことをやれと言っている」と書いた学者の名前ですが、その後別の下書きから出てきました。
 それは組織マネジメントで著名なピーター・F・ドラッカーの言葉です。10年ほど前、日本で「ドラッカーブーム」がありました。
 彼は「不思議なことに人間の長所はいくらでも伸びるのに、欠点はどれだけ努力しても並にしかならない」と語っています。これも権威の裏付けでしょうか(^_^)。

 さて、今節は「英語教育の半減」について語りたいと思います。「中学校までの教科書を中高6年間で学ぶ」システムにおいて、これはどうしても実現しなければならない、わかってもらわねばならない方針です。
 なお、私は国語学国文学はそこそこ勉強したけれど、英語に関してはほぼど素人です。外国人との英会話もできません。だからこそ日本の英語教育について語る資格がある、と考えています。
 なぜなら、多くの日本人がそうであるように、私も日本の英語教育の悲しき犠牲者だからです。

 私の最終提言は「日本人に英語を学ばせるより、世界共通語を日本語にしてもらうこと」です(^.^)。「アホか」とあきれる前に、まー以下の論説をお読みください(長くなったので、今号は前半の公開とします)。

 [以下今号]
 新しい教育システムの構築「中学校までの教科書を中高6年間で学ぶ」
  その3 ――英語教育の半減(前半)
 [1] テストをやるから日本人は英語を喋れない
 [2] 日本語は世界で最も簡単な言語――聞くこと・話すことが

 以下次号
  その3 ――英語教育の半減(後半)
 [3] 日本語は世界で最も難しい言語――読むこと・書くことが
 [4] 日本人は世界で最も外国語習得がへた
 [5] 日本人は日本語習得に多大の時間を必要とする
 [6] 18歳までの英語教育を英語圏小学校高学年レベルとする

 「一読法を学べ」全体目次 → トップページ」
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 本号の難読漢字
・強面(こわもて)・曖昧(あいまい)母音(ぼいん)・扇の要(かなめ)

*********** 小論「一読法を学べ」***********

 『 一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』 39

 「新しい教育システムの構築」その3――英語教育の半減(前半)

 [1] テストをやるから日本人は英語を喋れない

 読者各位はこの小見出しを読まれて「確かにそのとおりだ」とつぶやいたでしょうか。あるいは、「はて?」と意味不明だったか。
 英語の先生なら「そんなことはない。とんでもない」とカンカンに怒ったかもしれません。
 しかし、私は声を大にして言いたい。私たちが英語を話せないのは、学校で英語を一所懸命勉強したからだと。

 我々日本人は中学・高校において6年間英語を学ぶ。外国語学部以外の大学に行けば、さらに2年ほど英語を勉強します。
 ところが、中学校を出ても、高校を出ても、大学を出ても、多くの人は英語による日常会話ができません。なぜでしょう。
 この疑問に対して(敢えて暴言を吐くと)、「それは日本人が中学・高校で英語を勉強しているからだ」と私は答えます。

 私たちは中高の英語授業で常にミスを指摘され、テストで間違いを犯して[×]を付けられています。多くの生徒の実力は偏差値にして40~60といったところでしょうか。つまり、英語を使えば、半分はミスをするということです。
 英語の授業やテストで間違いをさんざん指摘された結果、真面目な日本人はこう考えます。
「英語を喋るときは間違いのない、文法的に完璧な英語を使わなければならない」と。
 だから……喋れないのです。

 これを日本人の日本語学習にたとえるなら、幼児は親や周囲の大人たち、同学年前後の子供たちと遊んだり、会話することによって徐々に日本語を覚えていきます。その都度大人が幼児に対して「単語の使い方、文の構造など完璧な日本語を喋れ」と注意して月に一度テストをしていると想像してみてください。子供はやがて日本語を喋ることに恐怖と苦痛を覚えるでしょう。

 またも暴言を吐きます。このような言語習得の基本さえ知らない英語教育有識者・大学教授・文科省官僚が中高の英語習得システムをつくりました。まさか「英語を読めて書ければ、日常会話なんぞお茶の子さいさい」と考えたわけではないでしょう。がしかし、現実は(私が中高で英語を勉強したころは特に)そうで、高校入試も大学入試も読み書き中心でした。

 その後「これでは英語を聞き取れない、話せない」として入試に「聞く力」のテストが課され、授業にも「オーラルコミュニケーション」やALТ(外国語指導助手)などが導入されて英会話指導を行っています。

 しかし、英語教育の基本は現在に至るも変わっていない(と思います)。それは「テストを通じて単語的・文法的に正しい英語を使える日本人を育てる」ことです。
 この基本理念がある限り、日本人は学校を離れ、英語の細かいルールや単語・熟語を忘れると、(仕事や商売など必要に迫られない限り)異国の人と英語を使って会話を交わそうと思わないでしょう。

 もう一つ。「オーラルコミュニケーション」授業やALТの導入に関しても、私は悲観的です。
 私が通った高専1、2年には、週に一度アメリカ人講師の「英会話」授業がありました。当時の《高校》としては画期的なことでしょう。
 しかし、生徒はクラス40人。講師と会話する機会は1時間に1度あるかないかくらい。それも、当たり障りのない「ハウワーユー。ファインシェンキュー、アンジュー?」的な会話。ちょっと複雑になると、もう話せなかったし、教科書は「ある状況においてよく使われる英文」が列挙され、講師はその説明を《日本語で》してくれた記憶があります。

 これもまた日本人に英語を喋りづらくさせる理由です。
 日本人にとってある場面における言葉はほぼ一つ。たとえば、何かがほしいとき、「お菓子を食べたい・お菓子を取って」と言う。後者を丁寧に言えば「お菓子を取ってください」で終わり。もうこれ以外の言い方は(敬語を除くと)ありません。ところが、英語は――。
 たとえば、「コーヒーを飲みたい」なら、
「I want to drink coffee.」でしょうか。

 これに対して日本人の英語教師は「これでも伝わるが、コーヒーのところは[a cup of coffee]とか[some coffee]と言うべきだ」と正しい英語(!)を指摘してくれる。
 次いでネイティヴ英語教師も「これでもいいけれど、他にこんな言い方がありますよ」と言っていくつもいくつも例文をあげる。
 [I would like to have a cup of coffee.]とか、
 [Can I have some coffee please.]などと。

 これがまた我々を悩ませる。「そのうちどれを使えばいいのか」わからないし、できたら覚えるのは一つだけにしたいからです。
 そもそも「飲みたい――のに、なんでhaveなんだ?」とぼやきたくなります。[have]は現在完了形にも出てきます。ここでも「なんでhaveを使うんだ?」と思ったけれど、先生から説明された記憶がありません。

 正しい英語、たくさんの例文を教えようとする英語・英会話教育。これが我々日本人に英語を喋れなくする原因となっている。私はそう思います。

 ここでも英語教育関係者に敢えて暴言を吐きたい。
 あなたは日本の子供たちに「正しいけれど、使えない英語」と「間違っているけれど、使える英語」のどちらを教えたいのですか、と。

 これに対して「それは二択ではない。正しくて使える英語を教えたいんだ」と答えるなら、本節をもう一度読み直してください。
 私はあなたに日本の有名なことわざ「二兎を追うもの一兎を得ず」を献呈したいと思います。
 正しい英語とは「読み書き」において必要であり、意味はある。だが、「聞くこと話すこと」においては不要であり、英語を話したいとの気持ちを阻害さえする――と私は思います。

 さて、多くの日本人同様、私も学校を離れると、英語は忘却の彼方へ消え去りました。しかし、生涯一度だけ「もっと英会話を勉強して異国の人と言葉を交わしたい」と思ったことがあります。それは30歳のころアメリカの軍人(A氏とします)と一緒にゴルフコースを回ったときです。彼は巨漢で一見強面ながら、とてもやさしい男性でした。

 当時職場の同僚だったBさんは米軍基地のA氏と知り合いで、彼らは基地内にあるゴルフ場でゴルフをしていました(軍人は使用料1ドル)。そのうち私も同行するようになり、しばしば3人で回ったものです(こちらの費用は1万くらいだったと思います)。

 あるとき、別の同僚C君も参加して4人で回る計画を立てました。
 ところが、当日朝Bさんは急用で参加できなくなり、私とC君、そしてA氏は10歳くらいの娘を連れ、この4人でラウンドすることになったのです。

 私とA氏がそれまで同伴したのは5、6回。普段の会話はそこそこ英語ができるBさんとA氏の間で交わされ、私はもっぱら聞き役でした。A氏は日本語がほぼ通じない。C君に聞けば、「英会話は全くできない」と言うので、勢い私が通訳と言うか、会話の主体にならざるを得ません。
 朝の9時ころからクラブハウスでの昼食休憩、そして夕方まで残りのプレー。全く言葉を交わさないわけにはいかないので、私はスタート前ものすごく緊張しました。

 しかし、半日回って不思議なことが起こりました。私はA氏の喋る英語がほぼ理解できたのです。私が聞き取った内容をC君に伝えると、彼は「よくわかるなあ。ちんぷんかんぷんだ」と言いました。
 もちろんA氏はゆっくり喋ってくれたし、難しいことを話したわけではありません。彼の英語に聞き慣れていたこともあるでしょう。
 彼がゆっくり喋ってくれたことは娘さんとの比較でわかりました。彼女は父親と結構言葉を交わしていましたが、それは早口でほとんど聞き取れなかったからです。

 そして、ラウンド中、あるホールでC君が一度戻って後方から打ち直す場面がありました。彼から数十メートル離れた右斜め前に私とA氏父子がいました。C君には「シャンク」と言って、打ちミスするとボールが右前に飛び出す癖がありました。
 そこで、私はA氏に「フェン ヒー ヒッツ ザ ボール…ライト……」と身振り手振りを交えて話し、最後に「イッツ デェィンジャー!」と言いました。

 最後は厳密には「It's dangerous」が正しいようです。それでも彼は「オッケー」と言って娘ともども近くのカートの陰に隠れました。
 私は素朴に「自分の英語が通じた!」と思って嬉しかったものです。

 ところが、その後も何度かラウンドしたけれど、私とA氏の間で英会話が交わされることはありませんでした。Bさんが参加すると、彼が主として喋って通訳してくれ、私はまたうなづく程度に戻ったからです。そして、A氏が帰国すると、私の英会話熱も冷めました。

 私はその後授業でよく生徒に言ったものです。「君ら英会話ができるようになりたかったら、どんなつてを頼ってもいい、同世代の外国人と知り合いになれ。そして、その人と二人で遊園地に行って半日過ごせ」と。「日本人二人以上ではダメ。必ず一対一で会話するんだ。英語を使わなければならない状況に追い込まれると、片言でも文法ミスがあろうがなかろうが、とにかく喋る。ジェスチャーも混じれば充分伝わる」とも言いました。
 私はこれこそ「間違っても構わない、使える英語」習得法だと思います。


 [2] 日本語は世界で最も簡単な言語――聞くこと・話すことが

 さて、前節は英語教育関係者のお怒りを充分買ったことと思われます。もちろんこれは日本人に英語を喋りづらくさせた理由の一つであっても、全てではありません。

 最大の理由はこの小見出しに書いた通りです。私たちは日本語を学び、使うことで英語を聞き取れないし、なかなか喋れない。読み書きについても、英字新聞・英字小説を読もうとも思わず、英文日記を書くこともしない。それは私たちが「日本語を使うからだ」というのが、私の結論です。
 聞くこと・話すことにおいて世界で最も簡単な日本語に慣れてしまうと、外国語はどれもこれも難解でめんどくさいと感じるのです。

 まず聞くこと・話すことにおいて日本語のどこが簡単か。これについて5点思い浮かびます。以下箇条書きにしてみると、

《日本語の簡単さ》
(1) 日本語は単語1ヶに対して意味がほぼ一つしかない。
(2) 日本語の名詞は活用しない。動詞・形容詞などは活用するが、「語幹」の部分は全て同じである。
(3) 日本語は名詞に単数・複数の区別をつける必要がない。
(4) 日本語には母音が5ヶしかなく、曖昧母音がない。
(5) 日本語には厳しい語順がない。どんな順で喋っても意味が通る。

 これらは英語を始めとして多くの外国語にない、日本語独特の、そして聞き間違え・言い間違えを起こさない大きな特徴です。だから、外国人にとって「日本語はとても簡単」であり、これに慣れた日本人にとっては「どんな外国語も聞き取りづらく、使いづらい」と感じるのです。
 ただし、繰り返しますが、これは「聞くこと・話すことにおいて」であり、読むこと・書くことなら、日本語は世界で最も難しい言語です。

 ちなみに、この5項目を英語から逆照射すると、英語のめんどくささが際立ちます。
《英語の難しさ》
1 英語は単語1ヶに対して複数の意味がある。
2 英語は動詞だけでなく名詞も活用する。
3 英語の名詞には単複があり、数えられる名詞と数えられない名詞を区別しなければならない。
4 英語には5ヶの母音プラス曖昧母音や二重母音がたくさんある。
5 英語は「主語-述語-目的語(補語)」など厳密な語順がある。

 この5項目全て暗記しなければ、正しい英語になりません。多くの生徒・学生は学校を離れ、すぐに使う機会がなければどんどん忘れます。そのうちもはや忘れたことさえ忘れて英語0状態に回帰する日本人の完成です。


 では、各項目について深入りしない程度に解説してみます。

(1) 日本語は単語1ヶに対して意味がほぼ一つしかない。

 これは言語を学ぶ者にとってとてもありがたい性質です。日本語は単語1ヶに対して意味が基本一つしかありません。もちろん名詞はどこの国でも意味は一つ。たとえば、花とか鳥、森などは英語でも花であり、鳥であり森。

 困るのは動詞です。日本語で「行く」は「行く」しかない。漢字で「往く」と書くことがあっても、意味は「この場所から違うところへ行く」こと。
 しかし、英語の[go]は一つではありせん。ある英語解説サイトによると、8つから9つくらいあるようです(詳細は省きます。ネット検索して確認してください)。
 一例だけ上げると、『アナと雪の女王』で有名な歌「レディゴー(let it go)」の[go]は「行く」の意味ではありません。
 さて、この日本語訳を記憶している人、一体何人いることやら。

 日本人の感覚としては「そんなにたくさん覚えていられっか」と思います。異国の人が[go]を使えば(これを聞き間違えることはない)、「行くかなあ。違う意味かなあ?」と考えねばなりません。この瞬間会話は止まり、後が続きません。
 対して日本人が「行く」と言えば、行くの意味一つしかない。まれに「いってしまった」と言うとき、「逝く」の意味になることがあるけれど、それでさえ「天国に行った」の意味です。単語一つに意味一つの日本語はとても簡単な言語なのです。


(2) 日本語の名詞は活用しない。動詞・形容詞などは活用するが、「語幹」の部分は全て同じ。

 たとえば、日本語の「私」は変化しません。「わてーし」、「わとーし」「わちゃし」と言うことはない。誰が喋っても「わ・た・し」。
 ところが、英語は[I-my-me]と変化します(活用する)。これ日本語では「私は-私の-私を(私に)」など助詞をつければ済みます。つまり、「私」なる言葉は1ヶ覚えるだけ。英語は3ヶ覚えねばならず、条件によって使い分けねばなりません。動詞のgo(行く)も[go-went-gone]の3つがあります。なおかつ三人称単数では[he goes…]となるから、都合4ヶ覚えねばなりません。

 日本語も動詞・形容詞・形容動詞などは活用します。
 たとえば「行く」なら、カ行五段にわたって「行か-ない・行き-ます・行く・行く-とき・行け-ば・行け・行こ-う」のように。
 この活用、外国人にとっては「なんて簡単なんだ」と感じるでしょう。全て頭に「行(く)」の言葉が入っているからです。これを語幹と言いましたね。
 だから、相手が喋る言葉を聞き間違え、自身言い間違えることがありません。もしもインバウンド観光客が(日本語で)「昨日日光に行くました」と言っても、意味は通じます。

 ところが、英語はwentの言葉を忘れると、相手が[I went to Nikko yesterday]と言っても、聞く日本人には意味不明となります。
 さすがにこれは忘れないかもしれませんが、「wentって何だ? 日光に行きたいのか」と訳すかもしれません。それは[want to]。
 形容詞の「美しい」や形容動詞の「静かだ」も活用するけれど、語幹に「美(しい)」「静(か)」があるので、活用のルールさえ学んだら、聞き取ることも話すこともたやすいのです。


(3) 単数複数の区別がない。

 日本語に単数・複数の区別はほぼない。時折「(鳥)たち」とか「(我)ら」などを付けることで複数にすることはあるけれど、名詞を使う際別に単数か複数か明確にする必要はありません。
 このいいかげんさは日本人にとって楽なことであり、日本語を学ぶ外国人にとってもありがたい特徴でしょう。英語など数えられる名詞(可算名詞)は必ず単複を明らかにしないといけないし、数えられない名詞(不可算名詞)には別のルールがあります。

 たとえば、[pen・apple]は数えられる名詞。だから、必ず[a pen・an apple]か[pens・apples]と言わねばなりません。単独で使ってはいけない(!)のです。
 しかも、ここには[apple]の前は[an]にしなければならない別ルールも入っています。
 単複を区別しない日本人にとって「そんなことぁ、どうでもいいだろうが」と感じます。

 一方、数えられない名詞には[water・bread・coffee・art(芸術)]などがあります。こちらは[waters・breads]など勝手に[s]を付けて複数にしてはいけないのです(なんてめんどうな)。
 よって、数えられない名詞を使う際は、[a bottle of water・a slice of bread・a cop of coffee]など前に余計なものを付けなければなりません。

 また、同じ名詞なのに「数えられる・数えられない」両方の場合もあります。[fish]はもちん「魚」ですが、これが加算であり、不可算でもある。あるサイトに次のような笑い話がありました。

 日本人が異国の友人に「私は魚を食べることが好き」との意味で[I like to eat a fish]と言ったら、相手にびっくりされたと。
 この[a fish]とは「まるまる一本の生魚」との意味になるというのです。そりゃあ「日本人はワイルドだなあ」と驚嘆されることでしょう。

 日本語は水であろうが、パンであろうが、コーヒーであろうが、「私は朝はパンを食べる」「私もパンとコーヒーだ」と言っていい。そのパンを1枚食うか、2枚食うか。コーヒーはお替りするかどうか―そんなことはどうでもいい。言いたければ、「私はたいがいコーヒーを2杯飲む」「へえっ…」とさらに付け足すだけ。
 単複の区別がない日本語名詞、なんて簡単なのでしょう。

 余談ながら、名詞の単複に関して面白い話題があります。
 芭蕉の有名な俳句と来れば、「古池や蛙(かわず)飛び込む水の音」。

 このカエル、英語ではもちろん[frog]です。それが単数なのか複数なのかわからず、英語翻訳するとき、ある人は「a frog」と訳し、別の人は「frogs」と訳す。
 日本人の感覚としては「これは一匹だろう」と思うけれど、実際の景色ではカエルが一匹飛び込むと、続けて飛び込むことも多いようです。

 結局、芭蕉はどちらの景色を見ていたのか、わかりようもないし(実景ではなく芭蕉の心象風景だとの説もあり)、そもそも芭蕉は「そんなことはどうでも良い。この句は扇の要(かなめ)を示している。読者はそこからぱあっと広がる世界を想像してくれればいいんじゃ」と言ったのではと思えます。
 もしも日本語の名詞が単複を明確に表すものであったら、和歌とか俳句はことごとく字余りとなって駄作ばかりになったでしょう。


(4) 日本語には母音が「a i u e o」の5つしかなく、曖昧母音がない。

 これが聞くこと・話すことなら言い間違え、聞き間違えを起こさない日本語最大の特徴でしょう。発音に注意する必要がないのです。
 対して英語の母音は「a i u e o」以外の曖昧母音、長母音や二重母音なども含めると、母音が17ヶとか26ヶもあると言われています。

 意識したことがあるでしょうか。多くの日本人は口をしっかり開かず、ぼそぼそと喋っています。口をしっかり動かして喋っているのはテレビのアナウンサーと、(普通の人は)カラオケを歌うときくらいです。

 逆に英語圏の外国人は普段から口を大きく開け、突き出したり閉じたり、破裂させたり(p・t)、唇噛んだり(v)とかなり明確な喋り方をします。
 その理由はただ一つ。曖昧母音との区別をつけるためだと思います。

 たとえば、「cup(カップ)」と「cap(キャップ)」と「cop(コップ)」はみな違う単語です。それをもごもごと口の中で「カ」なのか、「キャ」なのか、「コ」なのか分かりづらい発音をされたのでは、違いが聞き取れない。
 最後の「cop」など「コップ」よりむしろ[o]と[a]が混じった「カップ」に聞こえます。[coffee]が「カフィ」と聞こえるのと似ています。

 これを日本人から見ると、外国人が「カップ」と言っているのか「キャップ」と言っているのかはっきり聞き分ける耳の力(?)を必要とする――けれど、私たちはその力を持っていないということです。

 特に私たちが言いづらく、聞き取りにくい子音があります。たとえば、「bとv」・「rとl」を聞き取れない。明治時代英語習得の先達はこれらをカタカナ表記するとき、しっかり分けていました。「バイオリン」は「ヴァイオリン」、「ロシア」は「オロシア」と。これ復活した方が良いのではないでしょうか。
 曖昧母音のない日本語は聞き間違え、言い間違えがほとんど起こらない。なんて簡単明瞭なのでしょう。

 余談ながら、日本語でも方言には曖昧母音があります。東北津軽弁や島根の出雲弁、鹿児島弁。宮沢賢治「永訣の朝」で有名な「ora ora de sitori egumo」の「えぐも」は「行くよ」ですが、これは「i」と「e」の中間音、つまり曖昧母音です。また、鹿児島の桜島大根は「さくらじま でゃあこん」と英語[cap]の[a]に似た曖昧母音です。


(5) 日本語には厳しい語順がない。どんな順で喋っても意味が通る。

 これもまた日本語の簡単さを示す大きな特徴でしょう。日本語は英語(だけでなくほぼすべての外国語)のように厳密な語順を必要としません。

 まず日常会話ではいちいち主語を示さなくていい。だから、「今日映画に行った」と言うなら、「映画に行ったよ、今日」でも、「今日は行ったよ。映画に」でも全て意味が分かる。

 別の例として告白の言葉「あなたが好きです」。これ「好きです!」でいいし、「好きです。あなたが」でもいい。国文法では主述を入れ替えることを「強調」と言って奨励までしている。

 妙なことに助詞「が」は主語を表すはずなのに、ここでは目的格「(あなた)を」として使われています。「あなたが好きです」を英文法で解釈する――すなわち英訳してみると、《私》の告白の言葉とはなりません。[You like……]となるからです。

 日本語は単語だけでいい、語順はどうでもいいなんて、まるで幼稚語です。
 言葉を覚え始めた幼な子は母親に「おやつ」と言い、「おしっこ」と言う。それを聞いて母は「この子はお腹が減っておやつを要求している。おしっこに行きたいと思っているので、トイレに連れて行かねば」とわかる。

 英語でもおそらく最初は単語だけでしょう。しかし、そのうち「アイ ウオンナ ~」と言わなければ「通じないよ」と教えているはずです。
「おやつちょうだい」なら、「Can I have a snack please.」
「トイレに行きたい」なら、「I want to go to the bathroom.」とか「I have to go to th restroom.」

 ところが、日本では大人になった亭主関白のお父さんが奥さんに「おい、お茶」と言います。なんという幼稚語でしょう。
 しかし、これを聞いた奥さんは「はいはい」と応じてお茶を用意する。この状況が書かれた小説を読む日本人はみなこの言葉と状況が何を意味するかわかる。がしかし、外国人にはなんのことかわからない。

 いや、「Hey, tea」と言っても通じるようだから、理解できないわけではない(はず)。ただ、欧米の人はおそらく「いい大人がそんな幼稚語を使うなんて」と思っている。だから、「Honey,Can you make some green tea?」を使いなさい、というのでしょう。

 以上、5項目にわたって「日本語は聞くこと・話すことにおいていかに簡単か」解説してきました。
 他にもフランス語やドイツ語などは名詞に「男性名詞・女性名詞」があってその前の冠詞が変わります。日本語には全くありません。
 また、日本語は時制が少ない。現在形と過去形くらいで未来形も完了形もあってなきがごとしです。英語は現在形・現在進行形・現在完了形とあり、それが過去・未来にもある。日本語は「行った・行っている・行ってしまった・行くだろう」の4パターンで終わり。

 特に母音が5つしかなく、曖昧母音がないので、日本語は聞き間違えがまず起こりません。そして、いくつかの日本語ルールさえ覚えれば、話すことはとてもたやすい。語順など他言語はとても厳密なルールがあるのに、日本語は単語だけ使っても意味が通る。後は助詞を添えればもう大丈夫。

 聞くこと・話すことにおいて世界で最も難しいのは中国語でしょう。四声と言って同じ「イー」でも、平坦な[イー→]、語尾が上がる「イー↑」、語尾が下がる「イー↓」、最後に山形の「イ~ィ」。この4つの発音が全て違う漢字(簡体字)を表しています。中国語に比べれば、平坦に喋る日本語の簡単さが際立ちます。
 また、曖昧母音は英語だけでなく、ドイツ語・フランス語・イタリア語などにもあります。ヨーロッパ言語は語順などルールがとても厳密です。

 私が前置きに書いた「世界共通語を日本語にしてもらう」願望と言うか見解は「最も簡単な言語を世界共通語にした方がいい」との考えに基づいています。
 これにあてはまるのが日本語です。あながちアホな要望ではないと思いませんか。

 ただし、何度も繰り返しているように、これは「聞くこと・話すこと」において。日本語は「書くこと・読むこと」に関して世界中から嫌がられる大変さを抱えています。
 ところが、漢字かな交じり文というめんどくささに習熟すると、日本人は英文など読みたくもない、見たくもないと感じます。長くなったので、この件は次号に回します。

============
 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:2021年、今年もよろしくお願いいたします。年明け早々首都圏などに発出された二度目の「緊急事態宣言」。世界も日本も新型コロナに振り回されています。
 このままだと東京オリンピックも無理筋です。私の提案は4年繰り下げて「2024東京オリンピック-2028仏パリ-2032米ロサンゼルス」とすること。
 東京オリンピックを目指していたアスリートには気の毒ですが、新型コロナは終息していない、練習も対外試合もできない。「強行したはいいが選手はそろわない、観客は半分、応援の声出し禁止」ではあまりに悲しすぎます。

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