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2021.02.03

別稿『一読法を学べ――学校では国語の力がつかない』第42号 「新しい教育システムの構築」その3(後半)

「新しい教育システムの構築」その3――英語教育の半減(後半)

 以下本号の前置き冒頭を全てひらがなで書いています(^_^;)。
 うんざりしないで、できたら声に出して読んでみてください。

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 わたしはこれまですうかいがいこくりょこうをしたことがあります。つあーだったので、すべてげんちがいどがつきました。どのくにのがいどさんもにほんごがぺらぺらだったので、そのつど「なんねんくらいべんきょうしましたか」ときいたものです。こたえは「2~3ねん」でした。「にほんごはむつかしい」というのはていひょうですが、そのころから「ちがうんではないか」とおもいはじめました。
 そして、ぎのうじっしゅうせいとしてはたらいているとうなんあじあけいのわかものが、やはり2ねんくらいのべんきょうでにほんごをふつうにしゃべり、のーとにびっしりとにほんごにっきまでしたためているのをみて「にほんごはかんたんなんだ」とのけつろんにいたりました。
 だが、かんじかなまじりぶんをかくのはものすごくむつかしい。わかもののにほんごにっきはおーるひらがなでした。かれがかんじ・ひらがな・かたかなまじりのにほんぶんをかけるようになるには、10ねんかかるかもしれません。
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 どうでしょう。なんとも読みづらく、意味の取りにくい《日本文》であることか。もしも私の文章が全てひらがなで書かれていたら、誰も読んでくれないでしょう。

 これは以下のようにカタカナにしても同じ。こちらは適度に空白を入れてみました。それでもたどたどしくて見るだけでいやになります。まるで昔のロボットか人工知能の言葉ですね。

「ワタシハ コレマデ スウカイ ガイコクリョコウヲ シタコトガ アリマス。ツアーダッタノデ、スベテ ゲンチガイドガ ツキマシタ……」

 そして、以下はいつもの漢字かな交じり文の前置きです。

 私はこれまで数回外国旅行をしたことがあります。ツアーだったので、全て現地ガイドがつきました。どの国のガイドさんも日本語がぺらぺらだったので、その都度「何年くらい勉強しましたか」と聞いたものです。答えは「2~3年」でした。「日本語は難しい」というのは定評ですが、そのころから「違うんではないか」と思い始めました。
 そして、技能実習生として働いている東南アジア系の若者が、やはり2年くらいの勉強で日本語を普通に喋り、ノートにびっしりと日本語日記まで認めているのを見て「日本語は簡単なんだ」との結論に至りました。
 だが、漢字かな交じり文を書くのはものすごく難しい。若者の日本語日記はオールひらがなでした。彼が漢字・ひらがな・カタカナ交じりの日本文を書けるようになるには、10年かかるかもしれません。

 ――このように「漢字かな混じり」であることが日本語最大の特徴です。もちろん世界トップクラスの難しさであり、めんどくささです。ところが、日本人にとってはとても読みやすく、意味がすっすっと頭に入る(ように感じる)はずです。

 今号はこの件について語ります。そして、もうおわかりですね。
 前号ラストで「日本語に習熟すると、日本人は英文など読みたくもない、見たくもないと感じます」と書いたわけ。
 当然ながら英文はアルファベットのみで漢字もカタカナもない。それは我々にとって「ひらがなだけで書かれた文章」なのです。いくら英語を勉強しようとも、多くの日本人は英語の小説・論文を読みたいと思わない、英文日記を書こうとも思わない。それは全てひらがなの小説・論文を読む気がせず、書く気になれないのとイコールなのです。
 なお、前号予告の小見出しを思うところあってかなり変更しました。

 [前号]
 新しい教育システムの構築「中学校までの教科書を中高6年間で学ぶ」その3 ――英語教育の半減(前半)
 [1] テストをやるから日本人は英語を喋れない
 [2] 日本語は世界で最も簡単な言語――聞くこと・話すことが

 [以下今号]
  その3 ――英語教育の半減(後半)
 [3] 日本語は世界で最も難しい言語――読むこと・書くことが
  (一) 日本語は世界に冠たる文字数の多さ
  (二) カタカナを廃止できるか
  (三) 漢字を廃止できるか
  (四) 漢字読みの訓練だけは廃止できる
 [4] 英語は高校教育・大学教育に必要か?
 [5] 中学校・高校の英語を英会話教育に転換する
  (一) 文法的に間違っていても構わない、通じればいい英語を教える
  (二) 中高の日本人英語教師を半減して外国人講師に変える
  (三) 名詞の可算・不可算を覚えることはやめる
  (四) 例文は紹介するが、話すことに関しては1例か2例に集約する

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 本号の難読漢字
・認(したた)める・拗音(ようおん)・促音(そくおん)・撥音(はつおん)・連声(れんじょう)・行脚(あんぎゃ)・語弊(ごへい)・割(さ)く・必須(ひっす)・納得(なっとく)・先達(せんだつ)・碩学(せきがく)・縷々(るる)・侮蔑(ぶべつ)

************ 小論「一読法を学べ」**********

 『 一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』 42

 「新しい教育システムの構築」その3――英語教育の半減(後半)


 [3] 日本語は世界で最も難しい言語――読むこと・書くことが

 (一) 日本語は世界に冠たる文字数の多さ

 日本語は読むこと・書くことにおいて世界で最も難しい――と言うより最も「めんどくさい」言語でしょう。
 もちろんそれはひらがなだけでなく、カタカナを覚え、漢字を習得しなければならないから(漢字はすでに読み書きにおいて元祖中国語とあまりにもかけ離れたので「日本語」と見なします)。
 そして、このことが日本人にとって英語のみならず、外国語習得を困難にした最大の理由です。

 たとえば、日本語の文字数の多さは世界トップのめんどくささです。
 世界共通語たる英語はアルファベット26文字。他言語でドイツ語は26プラスαで33字。フランス語も26プラスαで46字。ただし大文字を入れると、全て倍になりますが、ほぼ同型の大文字を除けば英語はプラス15字です。
 対して日本語はひらがな46字、カタカナ46字。合わせて92字を読み書きできなければなりません。同型は「へとヘ」、似ているのは「うとウ」・「せとセ」・「りとリ」くらいで、後はかなり違う文字です。

 それに「ガザダバ」と呼ばれる濁点付き文字。「ぱぴぷぺぽ」の半濁音。合わせて5×5ヶ。「ひゃくえん・ぎゅうにゅう」などヤ行を小さく書く拗音。拗音は「きゃ・きゅ・きょ」から「ぴゃ・ぴゅ・ぴょ」まで3×11ヶあります。
 さらに、「おー」と伸ばす長音。「切って」とつまる促音、「飛んで」と跳ねる撥音。「行って」はつまるのに、「こっちに来て」はなぜか「来って」と言わないなど例外も結構ある。
 国語学的には「連声」と言うのもあります。「観音」とか「恩愛」とかの読みは「かんおん・おんあい」ではなく、「かんのん・おんない」。ところが、「恋愛」は「れんない」と読みません(詳細は「連声」をネット検索してください)。

 つまり、ひらがな・カタカナ(92字)以外の文字を1ヶ1ヶ勘定すると、計153ヶも文字の規則を覚えねばならない。さらに最大の難関、常用漢字2136字もあります。
 漢字は音のみ訓のみの漢字もあるけれど、ほぼ音と訓二つ以上。「行」の読みは訓の「行(い)く・行(おこな)う」、音は「行動・行列・行脚」など「コウ・ギョウ・アン」の三つ。
 すなわち、漢字の読み書きは倍の4000字以上。また、常用漢字とともに使われることが多い「表外漢字」1022字があり、人の名に使える(常用漢字以外の)人名漢字も863字(2017年時)。
 さらに、漢字の多くは熟語で使われることが多いので、一体プラス何千字になることやら。試みに「日本人が覚えなければならない漢字の数は?」とネット検索してみたら、「普通の漢和辞典は字種として3000字、音読み・訓読みで1万字くらい」とありました。完璧を期すなら数万字でしょうか。

 ちなみに、同じく漢字を元とする中国の簡体字は総数2235字。「日本と比べれば意外と少ない」と言いたいところですが、日本なら同じ「イー」とか「マー」とカタカナ表記しても、4つの声調(イントネーション)によって意味が全く違います。
 中国人にしてみれば、「文字が違うのだから、発音が違うのは当然だろう」ってことでしょう。とにかく聞き取ることがめちゃ難しく、話すことはそれ以上。世界を席巻しつつある中国ながら、中国語が世界共通語になることはなさそうです。
 日本語は発音こそ平坦で母音も5ヶしかないから、喋るのはとにかく簡単。しかし、この文字数では世界共通語にしたいとの思いはこちらも夢のまた夢でしょう。
 ならば、ひらがなとカタカナは同じ発音なんだから、せめてカタカナ46字だけでも減らせないか――これについて考えてみましょう。

 (二) カタカナを廃止できるか

 結論は直ちに出ます。カタカナも必要であると。
 なぜなら、カタカナは「英語など外国語をそのまま日本語化できる」という大きなメリットを持っているからです。
 たとえば、前号最初の前置きに書かれていたカタカナの語句を、以下のように全てひらがなにしてみます。
・教育しすてむ
・たまたまねっとで池上彰氏のこらむを読み
・世界のにゅーす解説
・私は大学ぷれてすと廃止論者

 なんとも読みづらいと感じませんか。意味も取りづらいし、何よりその言葉が持つイメージが頭に思い浮かびません。
 それどころか、「教育し、すてむ?」・「たまたまね、っとで?」・「池上彰氏のこ、らむ?」・「大学ぷれて、すと廃止?」などと読む可能性すらある。

・教育システム
・たまたまネットで池上彰氏のコラムを読み
・世界のニュース解説
・私は大学プレテスト廃止論者
 ――このように表記することですっと読めるし、頭にもなんなく入って来ます。

 注意してほしいことは私たちが人と会話するとき、相手が「きょういくしすてむ」と言えば、頭の中では「教育システム」という漢字とカタカナを思い浮かべていることです。「ネット」も「ねっと」ではないし、ネットがインターネットの略であることも知って会話している。

 もう一つ注意しておきたいことはシステムもネットも英語で覚えているのではない点です。つまり、「教育system」ではないし、「たまたまnetで見た」でもない。もしもそこに英単語をそのまま入れたら、やはり読みづらいし、意味もわかりにくいでしょう。
 余談ながら、「ネット」では英語圏の人に伝わりません。これはテニスや卓球の「ネット(網)」。インターネットの意味で使うには「On the internet」とちゃんと言わなければなりません。

 そして、日本人は外来語に対してとても順応力が高い。新たな英語が流入すると、カタカナにしてすぐに広まります。
 以前「パフォーマンス」という言葉が流行ったとき、最初「何それ?」でした。今は普通に定着して使っています。「人目を引く行為・活動」との意味で使われるとき、日本語には適切な単語(漢字)がない。そこで、そのまま使ってしまうのです。

 コロナ禍の今なら、「フェーズ」に「エビデンス」でしょうか。
 最初聞いたときは「なんじゃそりゃ?」と思いました。
 これを「ころな禍・ふぇーず・えびでんす」とひらがなにすると、外国語であることもわかりにくくなります。「えびでんす」で思い浮かべるのは天ぷらのエビで(ん)しょう。
 もちろん日本語翻訳してフェーズの言葉を使わず「段階」とか「局面」と言い、エビデンスは「根拠・証拠」と置き換えることは可能です。「そうすべきだ」という意見もよく聞きます。

 しかし、(おそらく)専門家やメディアは敢えて使っている。
 理由の一つは「エビデンス」が単なる証拠ではなく、科学的・統計的な証拠・証明であること。「科学的・統計的証拠」ではちと長すぎる。単なる「証拠」では言いたいことが伝わらない。だから、一語なら「エビデンス」がいい。

 また、その言葉は我々日本人に、聞きなれない言葉と思わせ、「おやっ」とか「何っ」と立ち止まらせることができる。つまり、「妙なことが起こっているぞ」と、事態の緊迫感を伝え、ニュースに聞き耳を立てる作用がある。だから、積極的に使っているのだと思います。
 もう国会や記者会見では一般化しました。そのうちこましゃくれた子供が親や先生に対して「エビデンスを示して」と言うようになるでしょう。

 ところで、これは日本人が昔から伝統的に行っている洋物・外国語摂取法です。
 最初は漢字。話し言葉としての和語はあったけれど、文字を中国から輸入して「日本語化」させました(ひらがな・カタカナも元は漢字)。その後ポルトガル語や江戸時代のオランダ語などそのまま導入しました。

 たとえば、ボタンやタバコ・かるたはポルトガル語。最近使わなくなったけれど、下着のメリヤスもポルトガル語。
 また、アルコール・オルゴール・インキはオランダ語。活発な女の子を指して言う「おてんば」は日本語だと思っている人が多いけれど、オランダ語の[ontembaar]からと言われます。

 明治時代に入って英独仏との交流が盛んになると、それらの外来語も日本語化しました。ズボンは諸説あれど仏語の「ジュボン」から。ワイシャツ(英語)、アルバイト(独語)、ビール(オランダ語・英語)。
 アルバイトはドイツ語[arbeit]が元なのに、英語と思っているかもしれません。よって、アルバイト・バイトなどを英語圏で使っても、全く伝わりません(英語では[part-time job])。

 余談ながら、酒飲みの友人と中国西安に出かけたとき、ホテルで注文するビールが外では半値以下で売られていると知り、二人でビールを買いに出たことがあります。スーパーもコンビニもなかったので、酒を売っていそうな小売店を回って「ビール? ビア(はないか)?」と聞くけれど、どの店も「ない、ない」とばかりに手を振ります。
 ホテルに戻って現地ガイドにこの話をしたら、「ビールは中国語ではピジャーです」と言われ、驚いたものです。翌日「ピジャー?」と言ったら、目当てのびんビールを出してくれました。でも、びんのラベルは英語の「beer」でした。

 日本では外国語の発音を、ほぼそのままカタカナにして導入します。たとえば[ice cream]は「アイスクリーム」、[beer]は「ビール」または「ビア(ガーデン)」のように。
 ところが、漢字の本家本元中国は必ず意訳します。意味を含めて中国語に変換するのです。よって、「ice cream」には「氷」を意味する簡体字が入り、「beer」も「酒」(簡体字も同じ)が入る。日本でビールを「麦酒」と漢字表記したのに似ています。

 ただ、日本では麦酒と書いても読みは「ビール」。しかし、中国語の発音たるや[ice cream]は「ピンキリェン」、「beer」は「ピジャゥ」となって、とても外国語と結びつきません(簡体字はここに表記できないので、ネット検索してください。発音も「Weblio 中日対訳辞書」で確認できます)。
 日本人の洋物に対する付和雷同的柔軟さと中国人の頑固一徹さはこのあたりにも原因がありそうです。

 (三) 漢字を廃止できるか

 次に日本語最大の難関である漢字。漢字を減らせるかどうか。いっそ廃止すればどんなに楽なことでしょう。

 これも結論は出ています。漢字をやめることはできない。前置きで「漢字のない日本文」を紹介しました。読みにくく、意味が取りづらくてとても耐えられないでしょう。
 がしかし、漢字を廃止できないのは単に「読み書き」だけの問題ではありません。日本語最大の弱点である「同音異義」の問題が漢字によって救われる。だから、漢字を廃止できないのです。

 たとえば、とある駅のホームで雑談しているA君とB君の会話を、以下のように全てひらがなで書き記してみます(適度に空白を入れました)。

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A「あそこの こうかは あかさびが ついて とても あぶない。なにか こうかてきな さびの とりかたとか ふしょくを ふせぐ ほうほうは ないもんかな」
B「たしかに。おれの こうはいに こうかだいがく そつぎょうせいが いるので きいてみよう。ところで じどうはんばいきで じゅーすを かう こうかが ないんだ。かして くれないか」
A「ああいいよ。そういえば こんど こうこうの どうきゅうかいが あるんだ。こうかを うたう きかくが あるらしい が、こうかなんてわすちまったよ」
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 ここには計5ヶの「こうか」が出てきます。その内容は以下のように漢字にすると、一目瞭然です。
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A「あそこの高架は赤サビがついてとても危ない。何か効果的なサビの取り方とか、腐食を防ぐ方法はないもんかな」
B「確かに。オレの後輩に工科大学卒業生がいるので、聞いてみよう。ところで自動販売機でジュースを買う硬貨がないんだ。貸してくれないか」
A「ああいいよ。そういえば今度高校の同級会があるんだ。校歌を歌う企画があるらしいが、校歌なんて忘れちまったよ」
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 漢字にすると一目瞭然――ということは、漢字を思い浮かべることができないと、二人の会話はちんぷんかんぷんです。

 前号で「日本語は聞くこと・話すことならとても簡単」と書きました。だが、ひらがなくらいしか学んでいない外国人にとっては、日本人が喋る言葉に漢字をイメージできません。だから、日常会話ならいざ知らず、ちょっと複雑な話になると、同音異義の問題にぶつかって「日本語はとても難しい」と感じるのです。

 ちなみに「こうか」は広辞苑によると36ヶあります。漢字を覚えるという点では大変ですが、単語の読みとしてはただ一つ「こうか」です。これが英語になると全て違うから36ヶ全て覚えねばなりません。

 日本史の先生が江戸時代末期の解説で「皇女和(かず)の宮の江戸こうか」と話しているとき、「江戸こうかって何?」と思います。
 しかし、教科書を読み、先生が黒板に書く漢字を見れば「降嫁」とわかります。「ああ嫁入りしたんだな」と。

 漢字のおかげで、日本人は一目見るだけで、その内容が頭に入ってきます。熟語の読みや意味にしても、いちいち覚えなくとも類推できる。これは漢字の大きなメリットです。「降嫁」を読めなくとも、前は「降下」の「コウ」、後は「稼業」の「カ」だから「コウカかな?」と推理できる。
 前の意味は「降(くだ)る」であり、後は「嫁(とつ)ぐ」。「コウジョ」も「皇女」とあれば、天皇家の娘だとわかる。つまり、各字の音と訓がわかっていれば、熟語の読みや意味はそれほど難しくないのです。

 これを逆に言うと、私たちは日本人同士で言葉を交わすとき、頭に漢字を思い浮かべている。いや、漢字を思い浮かべながら、相手の言葉を聞き、自ら喋る必要があるということです。
 なぜ小中高で漢字習得に多くの時間が費やされるのか。それはただ単に「文章を読むため」だけではありません。人と会話し、人の話を聞くとき、漢字を思い浮かべないと、相手が何を言っているか理解できない。もしくは大きく誤解するからです。

 最近お隣の国韓国で漢字復活が話題となっています。韓国も日本同様文字は長らく「漢字」だけでした。15世紀ころ作られたハングル文字は日本語のひらがなに似ています。その後「漢字ハングルまじり文」として使われ、1910年の日韓併合後も同様でした。しかし、1945年の独立とともに漢字を減らし、1970年には全廃しました。
 結果、ある年齢から上の人たちはハングル語を聞いて漢字を思い浮かべることができる。しかし、若者などはもはや漢字と結びつけることができず、読解力が低下しているとのこと。「再度漢字を習得すべきだ、いや必要ない」と論争になっているのです(詳細はネット検索してください)。

 韓国では漢字不要論者が半数はいるようです。日本で漢字不要論をとなえる人は一人もいないと思います。本稿前置き「ひらがなだけの日本文」を見せれば充分です。誰も「漢字はなくていい、ない方がいい」と言わないでしょう(詩や短歌・俳句なら全てひらがなで書かれることはあります)。

 結局、日本人にとって「ひらがな・カタカナ・漢字」はどれを取っても廃止なぞできないのです。

 先ほど書いた通り、この3種の文字は「読み書き」において必要なだけではない。私たちは人の話を聞いたり、自ら喋るとき、オールひらがなで聞き、オールひらがなで喋っているのではない。「漢字・ひらがな・カタカナ」交じりで聞き取り、喋っています。

 もっと言うなら、私たち日本人はいろいろ物事を考えるとき、ひらがなのみで考えているのではない。漢字とひらがなとカタカナを頭の中に思い浮かべて考えている。だから、漢字に習熟していない子供や一部の大人は考えることが苦手です。
 もしも読者が中高生で「小論文が苦手」と感じているなら、漢字能力の低さ、特に抽象語を使いこなせないことが原因だと思ってまず間違いないでしょう。

 (四) 漢字読みの訓練だけは廃止できる

 ここから出てくる結論はもうおわかりでしょう。日本人は日本語、特に漢字の習得に多大の時間を必要とするのであり、それは何事にも優先してやらねばならない。ちょっと語弊ある言い方ながら、「学習時間の半分を英語に使うなんぞ愚の骨頂である」と言いたいほどです。

 学習時間の半分を英語に割いたのは十代の私です。中学校時代の3年間、高専の3年と浪人の1年。私は入試で偏差値65に達するため、家庭学習の半分を英語に使いました。(またも愚痴ですが)それで英会話ができるようになり、英語の小説・論文をばりばり読み、今なら英文ツィッターを発信できる……なら、文句は申しません。

 だが、(何度も繰り返しているように)日本人の多くは中学校を出ても、高校を出ても、大学を出ても、英語を使えない、英会話ができない。そして、英語を必要とする職場で働く日本人は、再度駅前英語留学して英会話を学ばねばならない。あるいは、海外旅行で英語を使えるよう、やはり英会話を勉強しなければならない。
 それがめんどくさいと思った人はスマホや外国語翻訳機を使用して会話を交わそうとする。だったら、(極論ながら)思います。学校ではスマホや外国語翻訳機に習熟した方がいい。結局、中高で学んだ英語教育とは一体なんだったのか、と思います。

 最後に一つ。日本語の漢字・ひらがな・カタカナは減らせない。日本人は多大な労力を費やしてその習得に努めねばならない。だが、一つだけ減らせる漢字学習がある。それが漢字の「読み」です。教科書・新聞・週刊誌・雑誌・書籍・法律など公的私的文書は全てルビ付きとする。それによって漢字の音読み・訓読みの訓練をする必要がなくなります。
 戦前の日本がそうでした。だが、戦後やめてしまいました。敗戦のどさくさにまぎれた戦後最大の愚策・失策です。今すぐ全ての文章に総ルビを復活すべきだと思います。
 そして、これは将来移民が激増したとき、ひらがなだけの日本語習得から漢字につながりやすくなるためにも必須の方策です。


 [4] 日本の高校、大学に英語は必要か

 英語学習は半減すべきである。半減させて日本語・国語教育にその時間を注ぐべきだ――私はこの主張をさらに掘り下げたいと思います。

 日本人は中学、高校において当たり前のように英語を学ばされ、高校入試も大学入試にも必ず英語が入っています。さらに、中学から始めたのでは間に合わないとばかりに、とうとう小学校まで下りてきました。

 私は小学校から英語を始めた先駆者(?)の一人です。今からうん十年前、父親の指示で小学校5年からラジオの「英語基礎講座」をやりました。おかげで中学校の3年間、英語の定期テストはほぼ90点以上でした(でも、県一斉摸試の偏差値は60くらい)。そして、高専中退後大学で国語国文学を選び、卒業して高校の国語教員となり、早期退職して現在に至ります。

 私が学ばされた英語教育はその後の人生に大いに役立ち、大いに有意義であった――と口が裂けても言えません。
 これは私一人の体験だったのでしょうか。いやいや、おそらく高卒・短大卒・大卒の日本人10人中9人の実感ではないでしょうか。小学校からの英語学習は「無駄な努力、無意味な労力」を子供たちに課そうとしている。私にはそうとしか思えません。

 ここらで本質的・根本的な問題を考えるべきではないでしょうか。
 日本の高校教育、大学教育に「英語は必要なのか」と。

 この問いに対して「グローバリズムの世の中、世界と闘うにあたって英語は必須だ」などと当たり前の返答を聞きたくはありません。これは日本の《高校教育》に英語は必要か、《大学の高等教育》に英語は必要なのか、という問題提起です。

 日本の高校には国社数理英の五教科、そして体育・保健、美術・書道・音楽、家庭・情報などがあります。この中で英語を必要とする教科はいくつありますか。
 質問を変えると、「国語や社会、数学や理科の授業において英語は必要ですか。体育、音楽、美術などは英語で授業が行われていますか。中学校3年間で英語を学んでいないと、高校の授業で何か支障が起こりますか」と聞きたいのです。

 答えはもちろん明らか。「高校の授業で英語を必要とするのは《英語》だけである」と。
 他の教科では(英語の単語や人名がちょこっと出てくることはあっても)ほぼ日本語で書かれた教科書を、日本人教師が、日本語で、解説してくれます。
 異国の歴史を学ぶ世界史の授業、最先端のパソコンやプログラミングを学ぶ情報の授業でも、解説・質疑応答全て日本語で行われます。
 こう考えると、英語の授業でさえ、英語の教科書を説明するのは多く日本人教師であり、日本語が使われます。
 ということは《英語を学んでいなくても、日本の高校教育に支障はない》ということです。

 これが(いくつかの発展途上国のように)もしも数学や理科、情報の教科書が英語で書かれており、教える先生が英語でしか説明できないなら、「高校教育に英語が必要である」と言えます。
 あるいは、かつてのイギリス植民地のように「英語が公用語」という国もあります。公用語が英語なら、子供のころから英語を学び習熟しないと、まともに生活できません。自国の歴史でさえ、英語で書かれているかもしれません。

 対して日本はどうか。公用語は日本語です。どこでも役場に行けば、日本語を使って用を果たします。そして、高校の教科書は(英語以外)全て日本語であり、先生はそれを日本語で解説する。英語は高校教育に(九割方)必要ないのです。

 大学もまた状況は同じ――と言いたいところですが、さすがに大学になると英語が必要な学部があります。外国語学部はもちろん、理数系の生物・化学、工学部など最先端の理論を知りたければ、そして論文を英語で発表するなら、英語の読み書きができる必要があるでしょう。

 がしかし、それらの学部でさえ、専門的な知識を学ぶための書籍や論文はほぼ日本語翻訳されている。先生は日本語で講義を行っている。卒業論文、卒業研究も英語の論文を求めるところは限られており、多くは日本語で構わない……。
 私なんぞ国語国文研究でした。英語の論文はあったけれど、そこまで読んでいるヒマはなかった。まず膨大な作品や(日本語の)論文を読まなければならなかったからです。つまり、国語学・国文学に英語は必要なかった。英米文学との比較研究をしたい学者だけが「英語を学べばいい」と今でも思っています。

 そして、必要なければ、使わなければ、外国語はどんどん忘れます。使わなければ衰えるのは肉体であり、脳みそであるというのは健康問題の常識。いくらパソコンの使い方を学んでも、一か月に一回の使用では操作を忘れてしまう。そのように英語もまた1年使う機会がなければ、単語も熟語も文法も脳内から欠落していきます。

 高校教育に英語は必要ない、大学教育においても多くの学部は英語を必要としない。なのに、高校入試、大学入試には必ず英語が入っている。なぜでしょう。

 この疑問に対して私の答えは単純明快。「入試で受験生を落とすために英語を使っている」と考えています。

 暴論かもしれない。邪推に過ぎるかもしれません。しかし、私は日本の高校入試、大学入試に英語が入っているのは「受験生を落とすためである」と思います。合格者を選別するため、明確な不合格者を出すために、日本人にとって最も難しい英語のテストを課しているのです。

 大学まで行った読者なら覚えがあると思います。高校の先生や塾・予備校の先生は言いました。「合否を左右するのは英語である」と。だから、「英語を一所懸命やれ」と言うのです。

 大学プレテストに英語があれば、どの学部でも英語が受験科目に含まれます。文系でも英語、理系でも英語。文系で言うなら、国語・社会のテストに大きな差がつかない。一方、理系の学部も数学・理科のテストで大きな差がつかない。文系は国社が得意な生徒、理系は数理が得意な生徒がその学部を受験するからです。
 そこで、英語を取り入れる。英語なら10点20点の差がつく。「不合格を納得させるために英語を利用している」――私にはそうとしか思えません。

 余談ながら、高等教育を日本語で受けられるようにしたのは明治時代の先達のおかげです。当時西欧の先端技術・理論を教えてくれるのは英独仏の外国人教師だった。日本人のエリートは必死で外国語を覚えたと思います。
 やがて外国人教師が帰国したり引退すると、日本人が講師となって後進を講義する日がやってくる。そのとき道は二つに分かれた。外国語の中で最も簡単な英語を習得させ、高等教育を英語で講義するか。あるいは、外国語――特に抽象語を漢字転換して「日本語を使って高等教育を行う」か。

 選ばれたのは後者でした。西周(あまね)を始めとする碩学が人文系・自然科学系の英語を漢字に置き換え、原書をどんどん日本語に翻訳しました。
 彼らの尽力がなければ、私たちは大学で英語の専門書を読み、教官の解説を英語で聞かなければならなかったでしょう。
 さて、そんな別次元に生まれていたら、私は大学に行こうと思ったか。たぶん行かなかっただろうと思います。


 [5] 中学校・高校の英語を英会話教育に転換する

 さて、中高の教育システムについての私案を(忘れた方のために)再度書いておきます。
 私の提言は高校入試を廃止して「中学校までの教科書を中高6年間で学ぶ」ことです。中高は午前必修、午後選択として午後は自分の好きなこと、やりたいことをやる。さらに、成人後「もっと勉強したい」と思ったときはいつでも中学・高校に戻って来られるよう、再履修、再入学を認める。これもあって高校入試は廃止されます。

 もちろん英語もこの中にあります。中学校までの英語教科書を中高の6年間で学ぶ。だが、これだけでは依然として英会話のできる日本人を育成することができません。前号で書いたように、英語教育の基本理念が「テストを通じて単語的・文法的に正しい英語を使える日本人を育てること」だからです。

 中高6年間で英会話ができる日本人を育てるためには、この理念の大転換が必要です。それが「文法的に間違っていても構わない、通じればいい英語を教えること」です。英語ど素人の、そして、英語教育の犠牲者であった私だから出てきた発想だと思います。
 以下、この理念と具体的方策を思いつく限り列挙してみます。

 (一) 文法的に間違っていても構わない、通じればいい英語を教える

 おそらく全ての英語教師、英語教育関係者が「とんでもない」と呆れるであろう大転換です。「間違っていても構わないよ」なんて教育者としても使いたくない言葉でしょう。

 しかし、根拠はこれまで縷々語ってきました。
 日本の公用語は英語ではありません。日本語です。子供を含めて多くの日本人は日々日本語を使って生活しています。そして、日本語は世界の中で、語順や発音に厳しくない、最もいいかげんな言語です(これは侮蔑の言葉ではありません。日本人にとってとても「いい湯加減」の日本語です)。だから、日本人は外国語の正しい語順、正しい発音で喋ることがとても苦手です。

 日本の英語教育はこれまで「読み(リーディング)と書き(ライトニング)」にかたよってきました。それは「読めれば聞けて喋れる」などと安易に考えたからではない(でしょう)。聞くこと・話すことを犠牲にしたのだと思います。

 なぜなら、語順がいいかげん、発音は簡単な日本語を使う日本人は、曖昧母音や難しい子音がある英語を聞き取り、その発音と正しい語順で喋ることはものすごく難しい。結果、読みと書きに集中するしかなかった(のだと思います)。

 だが、時代は変わった。多くの日本人に必要な英語力は英会話ができる能力であると。そこで高校入試、大学入試に「リスニングテスト」を導入した。本当は「スピーキングテスト」もやりたかったでしょう。しかし、面接でもやらない限り、スピーキングテストは不可能。
 結果、リスニングテストだけとなったけれど、生徒にとってリスニングテストなど刺身のツマでしかない。本命はリーディングで高得点が取れるかどうかだから。

 そもそも書かれた英文ばかり読んでいて英会話ができると思いますか。英語の授業では多く英文が朗読されます。だが、それは正当派英語(すなわち日本式発音)で行われている。だから、外国人が喋る英語が聞き取れず、日本人が話す英語はネイティヴの発音ではないから通じない。

 もひとつそもそも、高校英語になると、英文はどんどん難しくなる。政治経済、社会問題、人文系・自然科学系の論文を日本語訳できるようにならないといけない。なぜならそれが大学入試(プレテスト・二次試験)に出題されるから。

 そして、見事合格すれば、一所懸命覚えた難しい英単語は(関係学部以外)見かけることがない。しかも、そのような英単語は日常英会話でほとんど使われない。そのうち難しい英単語を忘れるとともに、簡単な英語さえ思い出せない。
 街角で「市役所へはどう行ったらいいか」と英語で問われ、(聞き取れたけれど)「ここをまっすぐ行って最初の信号を右に曲がって数分で着きます」と(英語で)説明できない。
 いや、「Could you tell me the way to the city hall?」を聞き取れず、意味がわからない。「city hallってなんや? ホールがあるところって市民会館かな」と(それは「civic center」)。

 いつか使うから穴を掘っておけと言われ、せっせせっせと掘ったのに、結局使われることはなくほったらかされる。これを称して無意味な穴掘りだとなぜ思わないのか。私には不思議でなりません。

 そこで「英会話も大切ですよ」とばかりに、リーディングテストに、脚本のような英会話文を数十行掲載して「どこが文法的に間違っているか答えよ」なんて問題を作る。なんと情けない発想であることか。これは英会話のできる日本人を育てるのではなく、英文のミスを発見できる校正者育成のためのテストです。

 要するに、入試の英語がリーディング中心だから、中高の英語授業もリーディングにかたよるのです。そして、正しい単語・熟語、文法的に誤りのない英語を記憶しようとする限り、英会話ができるようになりません。
 偏差値50――すなわち、相手の英語を半分も聞き取れず、自分の英語に自信がない。
「I can't speak English.」と言うしかないではありませんか。

 何をどうやっても、中高で英会話ができる日本人を育成することができない。とうとう万策尽きたのでしょう。文科省は公的機関の英語教育をあきらめ、民間の英語検定試験に頼ろうとしました。「読む・書く・聞く・話す」4能力を身につけさせるために。
 それは公教育・英語関係者の敗北だと思わなかったのでしょうか。いっそ次のように提言してくれた方がよっぽど効果抜群です。

 全ての日本人に「4能力の英語を習得させたいから、公用語を英語にしませんか」と。第二次大戦終了直後、「漢字を廃止せよ」とか「ローマ字に」とか「フランス語を公用語に」など(私以上の)愚論暴論が出ました。日本人にどうしても英語力を身につけさせたいなら、公用語を英語にすることです。

 さすがにそこまで考えていないでしょう。それにグローバリズムの世の中、世界共通語としての英語を勉強しないわけにはいきません。特に少子化が進行する日本に異国の人がどんどん流入し、コミュニティーの1割2割に達する日も近づいています。
 彼らにはぜひ日本語を勉強してもらいたい。そして、日本人は英語によって日常会話ができるようにする。今後日本人に必要な基礎的英語力は「読み書きの力」ではなく、「聞く力(リスニング)」であり、「話す力(スピーキング)」です。

 もう二兎どころか四兎を追うことはやめ、中高の英語教育を一兎に変えるべきだ。私はそう思います。それが「中学校・高校の英語を英会話教育に転換する」ことです。なおかつ、日本人独自の英会話能力を育成するために、「文法的に間違っていても構わない、通じればいい英語を学ぶ」ことです。

 今や英語学習において日本は明治以来の分かれ道に来ました。
 一つの道は相変わらず、リーディング重視の、正しい英語――そして、使えない英語を学び続けるか。もう一つの道は「単語的文法的には間違っているが、英会話ができる英語力」を身につけるか。

 私は英語・英語教育の専門家ではないので、この基本理念に賛同できる方に、ぜひ具体的な方策を考えていただきたい。取り合えず私が思いつく具体策を、いくつか列挙してみます。

 (二) 中高の日本人英語教師を半減して外国人講師に変える

 これは生徒が英語ネイティヴの発音に慣れるためです。(失礼ながら)日本人英語教師の多くは(日本語を使うがゆえに)ほぼネイティヴの発音ができません。各校一人のALТ(外国語指導助手)では少なすぎる。クラス数によるけれど、理想を言えば1クラス1人。最低でも2クラス1人のALТを導入する。
 これによって授業だけでなく昼休みや放課後、ALТと生徒が一対一で会話できるようになります。誰の補助もなく、二人だけで会話することが大切です。
 学んだ英語を直ちに使う、カタコト英語でも通じる。それが「英語をもっと勉強したい」との意欲をかき立てる近道です。

 私は難民申請した(英語を使える)外国人を受け入れ、ALTにしては、と思います。世界の悲惨な状況を知る機会にもなるでしょう。中高生が進路相談を英語でする。「I am being bullied.」と悩みを打ち明けることだってあり得ます。日本人教師とは一味違う答えを得られるのではないかと思います。

 (三) 名詞の可算・不可算を覚えることはやめる

 言語習得の基本は名詞です。日本の乳幼児なら「まんま・じいじ・ばあば・オシッコ」と名詞を覚え、次に「おいちー・行きたい」と形容詞や動詞、肯定から否定へと語彙が広がります。未知の島に漂着して、聞いたことのない言葉を使う原住民と暮らさなければならないとき、まずは名詞を教わります。

 日本の英語教育はこの言語習得の初っ端から生徒の気持ちを打ち砕きます。「英語には可算名詞と不可算名詞があるから、それを覚えろ」と。正しい英語を教えようとする最悪の弊害と言わざるを得ません。

 考えてみてください。英語を喋ろうとするとき、次に言いたい名詞は可算か不可算か考えていてどうして喋れますか。日本人は必要ない限り名詞の単複を表現しないのです。
 だから、日本の習慣に従って英語も単複表現をやめる。あるいは全部「a(an)」をつけ、可算・不可算を覚えることはやめる。

 たとえば、「Would you like something to drink?」(お飲み物は何にしますか?)と聞かれたら、「a water(ァ ワダー)」で良しとする。あるいは、「I have apple」と言っていい。大切なことは「アイハヴァンアポー」を聞き取れ、話せること。
「I like to eat a fish.」と言って構わない。
 相手が「amazing!」と言ったら、会話を続ければいい。
「why? It's normal?」(なぜ?普通のことだろ?)と。

 また、異国の友人A君から「Where did you go yesterday Sunday?」(昨日の日曜どこ行った?)と聞かれたら、
「I go to movie yesterday.」で良しとする。

 いや、もっと簡単に主語・述語など全て言わなくて構わない。
「I…movie theater」と言い、「the movie……kimetsu no yaiba」でいいということです。
 すると、A君は「Is that so? How was it?」(そう? どうだった?)と聞くので、
「Great! I…moved.」(良かった! 感動した)か、
「It's no good.because(maybe)… didn't read manga.」(イマイチだった。たぶん漫画を読んでいなかったからだ)と応じる。

 おそらく、日本人の英語教師はこの「間違いだらけの英会話授業」に耐えられないと思います。「それは間違っている」と言って訂正したくなるでしょう。だから、外国人講師にするとも言えます。

 外国人講師の基本は「ネイティヴはこのように発音するから聞き取りにくい」例をどんどん教えてもらうこと。「Let it go」を「レット イット ゴー」と喋ることはない。「レディゴー」である。
 一方、生徒が発する英語の文法ミスは訂正しない。通じればいいから。通じないとき、誤解するときに訂正する――これが基本です。

 これもまた日本人英語教師には難しいのではないか。「間違っていても通じるかどうか」判断できなければ、引退願いたいと思います(留学経験などがあり、ネイティヴの実情をよく知って判断できれば、日本人英語教師として残ってもらうのはもちろんです)。

 たとえば、「What are you doing?」(何をしてるの?)を「ホワット アー ユー デゥーイング」と喋ることはほぼない。
「ワダッユ デゥーイング?」とか「ゥワッチャ デゥーイン?」と喋っている(末尾の「グ」はかすかにしか聞こえない)。外国人講師にはこの発音で話してもらう。

 対して生徒が返す英語に関しては「間違っていても意味が分かる」なら、間違いを訂正しない。むしろ、平坦に喋ることに慣れている生徒に「もっと口を大きく動かし、強く喋ること」を求める。
 たとえば、語頭の「t」。『トム・ソーヤーの冒険』の「トム」は「t」を破裂させて「トゥオム」、新幹線の「(ネクスト)ターミナル」は「トゥアーミナー」。「victory」は下唇を噛み、「ヴィ」をものすごく強く言う。また、「r」は口を突き出し、「ゥ」や「ォ」の音を出してから舌を引きつつ喋る。「read」は「ゥリード」、「russia」は「ゥラッシャ」と。

 しかし、もしも生徒の片言英語・文法的に間違っている英語で通じなかったら、さすがに正しい言い方・発音を学ばねばなりません。

 そこで、生徒には会話の最後に次の言葉を使うよう指導します。
「Do you understand this English?」(この英語で通じる?)と。
 もしも講師が「Yes. Fine」とか「of course. I understand」
と言ってくれるようなら、それで良しとするのです。

 この英会話授業が定期テストの対象にならないのは当然の帰結となります。単語も文法も間違った英語を使っているのですから。しかし、生徒は《間違いなく》英語を使って会話ができるようになるでしょう。

 余談ながら、ビートルズの「Let it be」が「レディビー」、『アナと雪の女王』の「Let it go」は「レディゴー」と言う。先ほどの「What are you doing?」も「ワダッ」と「d」で発音している。

 そのわけがある海外旅行体験でわかりました。日本語のタ行が濁音だとダ行になるように、英語の「t」も文中で「d」の発音になることがあると。

 それは友人と二人でカンボジアのアンコールワットに行ったときのことです。
 ホテルは英語なら通じました。部屋にはヘアドライヤーがなく、「使用したい人がその階のボーイに連絡してください」と言われました。ホテルは結構大きく、私たちが入った部屋は二階の230号室でした。すぐに電話して「プリーズ ブリングミー ヘアドライヤー」と言ったら、通じて部屋番号を聞かれたので「ツーサーティー」と答えました。「オッケー」と返事があって待ったけれど、30分経っても現れない。

 おかしいなと思って再度電話すると、「213号室に行ったけど、頼んでいないと言われた」と言う。私が「ノーノー、ツーサーティー」と訂正すると、ボーイは「オー、ツーサーディー」と言ったのです。そして、数分後ボーイがヘアドライヤーを持って来ました。

 なるほどと思いました。「サーティー」では「サーティーン(13)」に聞こえてしまう。「サーディー」と「t」を濁らせることで30になるというわけです。
 このボーイさん、現地カンボジアの若者でした。実戦的英会話を学んでいるんだ、と思ったことです。
 もっとも、後に「そういう場合はツー スリー オー」がいいと知りましたが……。

 (四) 例文は紹介するが、話すことに関しては1例か2例に集約する

 たとえば、「私は何々をしたい」と言うとき、
「I want to drink soy milk.」か、
「I'd like to drink soy milk.」の二例だけとする。
 しかし、聞くことに関しては、慣れる必要があるので、いろいろな例を教える。たとえば、
「I would like to have a cup of soy milk.」とか、
「Can I have some soy milk please?」も教える。

 ただし、聞き取れているかどうかのテストはしない。聞き取れなくて構わないということです。
 もしも相手の言葉が理解できなかったときは、次の英語を使えばいい(と指導する)。

「I'm sorry. Please speak more slowly.」(すみません。もっとゆっくり喋ってください)
「Pardon me. What did you say」(ごめん。何と言ったの?」
「What is the meaning of "soy milk"?」("soy milk"の言葉の意味を教えてください)などと。

 もしも発音も内容も全く聞き取れなかったときは正直に伝える。
「I don't understand.I'm not good at English」(よくわからない。英語は得意じゃないんだ)と言って話題を変える。
 最後は(用事などなくても)「I must be going.」(行かなきゃ)と言って別れる。

 他に、完了形は学ぶけれど使うことはやめ、現在形か過去形で通すとか、「go」や「make」など、いくつも意味・用例がある単語はしっかり使えるようにする――などもあると思います。特に「go・went・gone」は様々な場面で使えるので、余計な単語を覚えなくて済むようです(詳細はネット検索してください)。

 以上、かなりの暴論かもしれません。しかし、これくらいの大改革をしないと、日本人の大多数は英語を聞き取ることも、喋ることもできないまま一生を終えると思います。

 もちろん単語力をつけ、文法は学ばねばならない。だが、18歳までの英語教育の到達点は英語圏小学校高学年レベルで充分。つまり、それが中学校の教科書をしっかり学ぶことにあたると思います。

 繰り返しになりますが、英語に関する提言は「中高の英語教育を英会話主体に変える」ことです。これまで最も力を入れてきた「読み(リーディング)」から「リスニングとスピーキング」に変える。そして、できたら中卒後、せめて高卒後、日常英会話ができる英語力習得を目指す。そのためには「文法的に間違っていても構わない、通じればいい英語」を学ぶことが最善の方策だと思います。

 そうすると、大学外国語学部教官・有識者の方々から「その程度の英語力で外国語学部に来てもらっては困る」との苦情が出るでしょう。
 しかし、新システムなら、その心配は[absurd fears]に終わると思います。

 新システムでは中高の6年間、午後は「選択授業」となります。もしも中一とか中二の段階で「将来英米文学を学びたい」とか「将来翻訳家になりたい、通訳の仕事につきたい、外交官になりたい」と思った生徒は選択を全て「英語」とするでしょう。高一になってその志望を持ったとしても、まだ3年間午後(おそらく帰宅後の勉強も)英語ばかりやるでしょう。大学教官が望む「英語を素晴らしく勉強した生徒」が外国語学部を受験してくれるはずです。

 そのときこの生徒は数学・理科のハイレベルを学んでいる必要はない。(前号に紹介した池上・佐藤氏が述べていたように)高卒段階の教養としては中学校教科書の数学・理科で充分ということです。
 もしも外国語学部で「数学理科のハイレベルを教養として持つべきだ」と言うなら、それは大学入学後やればいい。これは文系、理系学部も同様です。他分野のハイレベルな教養は大学入学後に学べば良いのです。

 そもそも大学教官に問いたい。あなたがもしも深く高い教養の持ち主なら、20歳のころそれを獲得していましたか。教養とは一生をかけて身につけていくものではありませんかと。

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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:今号は前号より一週間後には発行できると考えていました。ところが、英語だけは「中学校の教科書を中高6年間で学ぶ」方針では依然として英会話ができるようにならないことに気づき、再考したので時間がかかって(なおかつまたも長くなって)しまいました。
 まー愚論暴論として黙殺される運命でしょうが、言いたいことはとことん書きました(^_^)。次号は「高校入試廃止」について論じます。

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