『続狂短歌人生論』27 愛エネルギーがほしい
――最近読み始めた読者各位へ――
『続狂短歌人生論』第1号は2023年3月7日開始「前置き」です。
これまで26号発行しています。
長文ばかりですが、おヒマなら最初からお読みください(^_^;)。
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前号にて『続編』の内容を整理し、「脅迫・批判・傍観・受容」の生き方を変えること、相手に変わってほしいと要求することはとても難しいとまとめました。
その中で「ここまでを前半とするなら、これから後半は『ではどうするのか』に突入します。自分を変えるにはどうすればいいか。身近の人を変えるにはどうしたらいいのか」と書きました。
これを読めば読者各位は当然「次号から後半に入るだろうな」と思われたことでしょう。
ところがぎっちょん、今号はまだ前半です(^_^;)。
だけでなく、あと数回前半の論旨が続きます。「なにそれ?」とあきれないでください。
本来なら、前半を終えてから「前半のまとめ」を書くべきです。
まだ前半の途中なのに、前半のまとめなんて(某テレビ番組の言葉)「ありえへん」でしょう。
なのに、前号にてそれまでの内容をまとめて迷路を整理した……。
これはもう私の勘以外の何ものでもありません。「ここらでまとめておかないと、読者は道に迷うであろう」と。そう思って急きょ前半のまとめを書きました。
となると「今後さらに同じ分量の後半を読まねばならないのか」とうんざりされるかもしれません。
しかし、ご安心ください。これまでの分量は全体の3分の2です。あと数回で山頂に達し、後は下るだけ。
残り3分の1とは計10号くらいでしょうか。よって、私の腹勘定としては年末で本稿を終えるつもりでいます。今しばらくお付き合いいただけると幸いです。
そんなわけで、今号は「四タイプの生き方を変えることはなかなか難しい」との趣旨を別観点から語ります。久しぶりに「愛エネルギー」が登場します。
四タイプは人に愛エネルギーを与えることが苦手である、へたくそである。
逆に「私を認めてよ、もっと誉めてよ、愛してよ」と思っている。
先んじて結論を言うなら、彼らは人に愛エネルギーを与えることができず、自分こそ愛されてしかるべきと思っている。まるで子どものまま大人になってしまったような人たちだ。
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(^_^)本日の狂短歌(^_^)
○ 愛されたい 認められたい 誉められたい 心に秘めて人と付き合う
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********* 「続狂短歌人生論」 *********
(^_^) ゆとりある人のための20分エッセー (^_^)
【『続狂短歌人生論』27 愛エネルギーがほしい 】
まずは「愛エネルギー」について前著の復習です。
私たちは死が訪れる瞬間まで生き続けるためにエネルギーを必要とする。
毎日必ず何かを食べている。よく「生きるために食べているのか、食べるために生きているのかわからない」などとつぶやかれることがあります。
この答えは「生きることは食べることである」と言うべきでしょう。「食べることは生きることである」とも。つまり、どちらが目的だ、手段だとかではなく、イコールだと思います。
ものを食べて元気が湧くとは自然のエネルギーを得たことを意味します。
また、私たちはどぶ川を見るとがっかりして元気をなくす。逆に荘厳な山とか美しい清流、白砂清松の浜から海を眺めて爽快になり、元気を得る。これも自然のエネルギーを得たと言えるでしょう。
一方、人と交流することで元気が出ることがある。相手から励まされたり誉めたりされると、何だか元気が湧いてくる。これを愛エネルギーと呼びました。
愛エネルギーを与えてくれる人との交流は、私たちを元気にしてくれる。
ところが、脅迫・批判・傍観・受容の四タイプはエネルギーを与えてくれない。むしろ我々の元気(エネルギー)を奪う人たちだ。
なぜそんなことになるのか。四タイプを詳細に見ていきます。[以下「である」体]
脅迫者
脅迫者は天上天下唯我独尊である。人が自分を誉めたたえ、自分のために何かをするのは当たり前だと思っている。だから、彼に感謝の言葉は出てこない。
自分が絶対的に強く正しく、人は弱くて愚か者ばかりだと思っている。(だからこそ自分が彼らを支配し命令を発しているんだ!)
軽蔑して見下す者の言動に「誉める」要素などありえない。だから、脅迫者は身近の人に「誉める」形の愛エネルギーを与えることができない。
批判者
批判者も脅迫者同様自分が常に正しく、周囲は愚かな連中ばかりだと思っている。(だからこそ自分がリードして良い方向に導くのだ!)
よって、人が常にがんばっている自分を称賛したり、何かをするのは当然と考える。脅迫者と違って感謝の言葉を言うことはできるが、それは本心からではない。
いつも100点満点、最低でも90点以上を求める完璧主義者は人への批判をやめることができない。平凡な人間は正解の90点を見て称賛する。だが、完璧主義の批判者は間違った10点を見て物足りなさを覚えるからだ。
それを指摘することは非凡さの証明ともなる。完璧主義者は「よく気づきましたね」と言われることが嬉しくて仕方ない。だから、批判者は人や物事への批判を止めることができず、自らも満足ということを知らない。
ゆえに批判者もまた誉めたり、感謝の気持ちを心から言うことができない。唯一反省できる批判者が自分の決定的な間違いに気づいたとき素直になれるだけだ。結局、批判者も他者に愛エネルギーを与えるのが苦手である。いや、そんなことはする必要がないと考えている。
脅迫者・批判者は常に自分が正しく人は間違っていると思っている。脅迫者は絶対の自信家であり、批判者も(特に自分の専門分野において)相当の自信家である。
だから、彼らは人の言動の悪いところはすぐ気づく。だが、良いところはなかなか気づかない。
ここに百パーセントの完璧主義が混じると、人には良いところなど一つもないと思う。当然人が行う言動に対して尊敬や感謝の念など起こらない。
周囲が90点の出来を称賛しても、「100点ではないのに誉められるなんて」と思うからうれしくない。よって、周囲の誉め言葉はお世辞だと考える。お世辞と思うから、完璧主義者は人を誉めることができない。
完璧主義の批判者は周囲を苦しめ、自ら苦しむ。なぜなら神ならぬ身の人間。人に100点満点の活動や人生などあり得ない。
周囲の人間は完璧主義者を満足させるため、いつも満点を目指して生きねばならない。完璧主義者自身も病気になったり、年を取ると満点の活動ができなくなる。80点、70点、60点に下がる自分にいら立ち、苦しむ羽目になる。
この二タイプは人を攻撃し、相手を負かすことによって元気を得る。結果負けた相手は元気をなくす。つまり、人のエネルギーを奪うタイプである。彼らは本質的に「愛エネルギー付与」ができない性格の持ち主なのである。
一方、傍観者と受容者について。
傍観者
傍観者は基本的に自分以外のことに関心がない。根底に《無関心》があるので、人(とその言動)をしっかり見つめることができない。誰かが当人のために良いことをやってくれても、気づかず感謝の言葉を言い損なう。傍観しているから人の誉めるべき要素を見落とす。
事態をぼーっと眺めれば誤解だって増える。自分が傷つくような場面でもないのに、傷ついたと思って人を責めたりする。当然感謝の言葉は出てこない。ここでも相手の言動を誉めることができない。
傍観者は自分が不利益を受けることを最も嫌う。芥川龍之介『鼻』の「傍観者の利己主義」について表と裏の感情を説明した。(『一読法を学べ』27号参照)
自分ひとりいい目を見たいのが表の感情であり、不利益を受けることは許せないのが裏の感情である。不思議なことに事態をぼーっと眺めているはずなのに、傍観者は自分だけが不利益を受けることにはとても敏感である。そのようなときは相手に対して敵意を露にする。
人に対する敵意とは愛エネルギーと真逆の感情である。ゆえに傍観者は他者への愛エネルギー付与ができない。
ただ、自分に多大の関心を抱き、自分を慰めてくれる人に対しては感謝の意を表すことができる。その人への絶大な奉仕や献身を示すことがある。
受容者
受容者は結局「自分」のことしか関心がない。四タイプの中では受容者が最も人を誉めている(ように見える)。だが、それは口先だけである。相手から嫌われないため、迫害されないために言うお世辞のようなものだ。ホンネを語らせればそれがよくわかる。誉められたいのはいつも被害にあっている、しかし、がんばって奉仕している自分の方だと思っている。
受容者タイプと話をすると、大概の人は被害・迫害を訴える受容者に同情する。が、自分を変えようとしない、あきらめて服従し続ける彼(彼女)にやがてうんざりする。
受容者もそれに気づいているが、受容と被害のドラマをやめることはできない。
相手の「うんざり感」に気づいている――つまり「この人は私と嫌々付き合っているのか」と思うから、相手に対して心からの感謝の気持ちが湧いてこない。
また、誰かが受容者にいろいろなことをやってあげても、彼(彼女)は「自分の被害の程度はそれくらいでは足りない、もっともっと」と思っているので、相手の言動に満足することがない。だから、受容者にも感謝の言葉が出てこない。
仮に「ありがとう」を言ったとしても、それは心からではない。愚痴と泣き言を並べる受容者は、そうすることによって自分は弱く迫害されている人間だから、「もっと愛してくれ」と言っているに等しい。「自分こそ誰よりも人に愛されていい人間だ」と信じているから、愛が来ると奪い続ける。そうして自らは他者を心から愛することができない。
受容者は一見最も愛にあふれた人に見える。だが、受容者も他者への愛エネルギー付与ができないタイプなのである。
つまり、傍観者・受容者は基本的に自分のことしか関心がない。脅迫者と批判者の支配から逃れるため(自己を防御するため)、傍観者は「傍観」を、受容者は「弱者」を装って生きてきた。
結果この二者は人への関心を失ってしまった。相手から愛エネルギーを受けているのに、鈍感だったり、ときに拒絶したりする。
傍観者は誰か(特に批判者)が生き方を変えるよう口酸っぱく説得しても、冷たい無視の態度をとる。
それはまるで底なしの砂地獄である。説得した方は自分のエネルギーが吸い取られて元気をなくす。逆に傍観者はエネルギーを得る。
また、受容者は慰めてくれる相手に対して「あんたに私の気持ちはわからない。下手な同情はいらない」と拒否することがある。すると相手はがっかりして元気を失う。逆に受容者はエネルギーを得る。
彼らもまた相手からエネルギーを奪うタイプだから、「愛エネルギー付与」ができない。もっともっと自分に愛エネルギーをよこせという言動をとる。
傍観者は部屋の片隅で誰かが声をかけくれるのをじっと待つ。受容者は自分がいかに迫害されているか、泣き言を吐き、相手に「かわいそうだね」と思わせる。それによって愛エネルギーがやってくる。
傍観者・受容者もやはり「愛エネルギー」を奪うことしかできないのである。
結局、脅迫・批判、傍観・受容の四タイプは原性格のままでいる限り、他者の愛エネルギーを奪うことがその基本にある。だから、いずれのタイプも心からの「愛エネルギー付与」はできないということになる。
愛エネルギー付与ができないということは、つまり「人を心から愛することができない」ことを意味する。
本号前置きに次のように書いた。
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先んじて結論を言うなら、彼らは人に愛エネルギーを与えることができず、自分こそ愛されてしかるべきと思っている。まるで子どものまま大人になってしまったような人たちだ。
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子どもは親に対してしばしば「見て見て」と言う。それは自分を見てほしい、認めてほしい、誉めてほしいと要求する言葉。すなわち愛エネルギーを与えてほしいと求める姿である。
やがて子どもは「見て見て」の言葉を言わなくなる。違う言葉や態度で親や先生、大人からの「すごいじゃないか」の言葉を引き出そうとする。それに成功したのが脅迫者と批判者。失敗したのが傍観者と受容者である。
脅迫者
脅迫者のあなたは他者から愛され認められ注目されたいと思った。だから、強い人間になろうと思い、体を鍛え《力》と度胸を身につけることに成功した。だからあなたは力こそ絶対――の脅迫者になった。
批判者
批判者のあなたは他者から愛され認められ注目されたいと思った。だから、強く正しい人間になろうと思い、《理屈》を身につけ、完璧にやり遂げることに成功した。だからあなたは批判こそ正義、完璧こそ絶対――の批判者・完璧主義者になった。
傍観者
傍観者のあなたは他者から愛され認められ注目されたいと思った。だが、できなかった。
あなたは人に勝つことをあきらめ、人から支配されることを《傍観》によって防いだ。だから、あなたは部屋の片隅で傍観する。ひとりぼっちを装い、誰かが気づき声をかけてくれるのを待つ傍観者となった。
受容者
受容者のあなたは他者から愛され認められ注目されたいと思った。だが、できなかった。
あなたもまた人に勝つことをあきらめ、自ら進んで支配される道を選んだ。だから、あなたは相手の言うことに全て服従する。いつもにこにこと微笑んで決して敵意を表さない。だが、裏に回ると、人に脅迫され、迫害され虐げられている被害者であると、涙ながらに訴える受容者となった。
おわかりだろうか。四タイプが自らの性格、生き方を変えることの難しさ。
四タイプの特徴を露にする人に「変わってほしい、改めてほしい」と言っても、なかなか変わってくれない。
それは彼らが子ども時代、親に先生に「見て見て」と言い、自分を認めてほしい、誉めてほしい、愛エネルギーを与えてほしいと思った――そこから始まっている。
幼いころから親や大人との関係において構築した生き方を変えることは容易ではない。
ただ、気づかなければならない。四タイプの生き方は自分が愛されたい、エネルギーを得たいという生き方であること。その生き方は相手からエネルギーを奪っているということだ。
くどいようだが、四タイプの原性格を根本に持つ人を具体的に述べておく。
常に怒りを露わにして暴力的な脅迫者は心から人を愛することができない。
常に他者を批判して悪口を言う批判者も心から人を愛することができない。
常に他者に無関心な傍観者は心から人を愛することができない。
常に服従して泣き言と愚痴をこぼし、被害を訴える受容者も心から人を愛することができない。
彼らはみな自分こそ愛してほしい、自分こそ愛される資格があると思っているのだ。
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最後まで読んでいただきありがとうございました。
後記:ここでも四タイプの「愛エネルギーを与えられない=愛することができない」姿を語っています。
しかし(以前も書いたように)「そんなことはない。相手を愛しているから自分は脅迫したり、批判したり、傍観したり、全て受け入れているんだ」との反論があっていいところです。
この問題はいずれ語ります。反論を試みてください。
以下は別件。
私は3つのメルマガを発行しています。うち競馬GIの予想と回顧を配信する『ほぞ噛み競馬予想』が先日1000号を達成しました。
以下、その記念号(?)後記の文章です。お読みいただければ幸いです。
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私的話題ながら、メルマガ『ほぞ噛み競馬予想』は通算1000号となりました(^_^)。
創刊号は2004年4月17日皐月賞予想から――ですが、前年10月御影祐のホームページにてGI予想を始めていました。もちろん題名は最初っから『ほぞ噛み競馬予想』です。
今となっては『御影祐の大歓喜的中予想!』とでもすれば良かったと後悔しております(^_^;)。
もっとも、「ほぞ噛み競馬予想」でネット検索してみてください。
私のブログと「まぐまぐ」読者登録サイトがトップ2に出現します。つまり、こんな題名をつけたのは日本で(世界で?)私ひとりということです(^.^)。
創刊号の前置きに以下の文章があります。
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今日(土曜日)お昼に近くの食堂でカレーライスを食べながら、スポーツ新聞を見ていたら、今年中央競馬会が創立50周年記念であると報じられていました。
なんだ中央競馬って私と同じ年だったんだと改めて気づき、なぜ私は競馬が好きなのか、理由の一端がわかったような気がしました(^_^;)。
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ちなみに1954年は自衛隊の発足年であり、日本で最も愛され、銀幕のスターとなった怪獣が生まれた年です。来月最新作が公開されるとか。
確かメルマガは読者60数名からスタートして一時期140台まで上昇したことがあります。
そして、今は75名の方にお付き合いいただいております。
創刊号からの読者なら、みなさんも私も20歳年食ったことになり、感慨深いものがあります。しかるに、依然として「ほぞ噛みが売りの予想ではなあ」と反省することしきり。
なんとか「ほぞ噛みなき競馬予想」にしたいものです(^_^;)。
それにしても、私的喜びの今日、ウクライナ戦争に続いてイスラエルとガザ・ハマスとの悲惨な紛争を伝えねばならないとは。世界はすでに第三次世界大戦に突入したような気がしてなりません。
地球温暖化、異常気象、貧富の格差、移民・貧困など、世界は待ったなしの課題に直面している。なのに、課題解決の方向に進めない。
古代恐竜が一発の隕石で滅亡したように、人類や多くの生き物も全滅に向かっているような……絶望感にとらわれます。
何より当該地域の子どもたちが悲しみに浸っているかと思うと、「どうかわかってくれよ。大人たち」と言いたくなります。
もしも神が私の願いを一つだけ聞いてくれるなら、「世界中の殺人兵器をおもちゃにしてほしい」と祈ります。
おそらく神は「私にそのような力はない」と答え、「そもそもどうしてそんな簡単なことができないのだ」と言うでしょう。
高尚なこと言って「競馬やるんだ」と言われそう。
しかし、3連単1千万当てて半分ユニセフに寄付する夢を持っています。
世界のことはただ平和と一人一人の覚醒を祈るのみ。
よって、競馬はやめないし、ほぞ噛み予想も続けます。
以後命尽きるまでほぞ噛みにお付き合いいただけると幸いです。
たぶん2000号を迎えることはないでしょう(^_^;)。
御影祐 m(_ _)m
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