『続狂短歌人生論』32 なぜ変えられないのか その4 「愛してくれるから」後半
なぜ変えられないのか、4「愛してくれるから」後半です。
以前27号において四タイプの「愛エネルギーを与えられない=愛することができない」姿を多々語りました。その後記で以下のように書いています。
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しかし(以前も書いたように)「そんなことはない。相手を愛しているから自分は脅迫したり、批判したり、傍観したり、全て受け入れているんだ」との反論があっていいところです。
この問題はいずれ語ります。反論を試みてください。
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今号はこの「反論」にあたります。子どもは尊敬できる親、愛してくれる親と思えば「変わってほしい」などと思わない。が、深掘りすると「愛してくれる姿かもしれないけれど、そう思えない」との気持ちが芽生えることに気づきます。
そこでもう一つ狂短歌を詠みました。
〇 四タイプ それは愛かもしれないが 愛されてると感じられない
11月08日 なぜ変えられないのか その1「長所と信じるから」
〇 四タイプ それが長所と信じれば 変えなければと思うことなし
11月15日
なぜ変えられないのか その2「尊敬されるから」
〇 三タイプ 誉められ認められるなら 変えようなどと思いもしない
11月22日
なぜ変えられないのか その3「愛してほしいから」
〇 幼子は人を愛することよりも 愛してほしいと思う生き物
11月29日
なぜ変えられないのか その4「愛してくれるから」前半
〇 四タイプ それがあなたの愛ならば 人は続けてほしいと思う
11月30日
なぜ変えられないのか その4「愛してくれるから」後半―――――本号
12月06日
なぜ変えられないのか その5「感情と理屈が結びついているから」
〇 人間は性善なのか性悪か 溶け合っている理屈と感情
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(^_^)本日の狂短歌(^_^)
○ 四タイプ それがあなたの愛ならば 人は続けてほしいと思う
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******** 「続狂短歌人生論」 ********
(^_^) ゆとりある人のための20分エッセー (^_^)
【『続狂短歌人生論』32 なぜ変えられないのか 】
その4「愛してくれるから」後半
前著と続編でくどいほどに取り上げたのは脅迫・批判・傍観・受容という四タイプについて。この特徴を露にする親では「愛されている」と感じられない。これまではこの趣旨で語ってきました。今回は「愛されている」と感じられるパターンについて語ります。
四タイプの親が子どもにとって「愛されている」と感じられることを、(機械的に)書いてみると次のようになります。
[四タイプの親は私を愛してくれる]
1 脅迫・威嚇する脅迫者の親は自分を愛していると感じられる。
2 批判の多い厳しい批判者の親は自分を愛していると感じられる。
3 いつも傍観している傍観者の親は自分を愛していると感じられる。
4 何でも受け入れてくれる受容者の親は自分を愛していると感じられる。
以前も書いたように、我々は当初自分の親しか知りません。
某テレビ局に地方・地域の食習慣を紹介する「秘密の~~」なる番組があります。その中でよく見る光景が以下。
リポーターがその地方独特の食習慣についてインタビューした後「その習慣ってここだけですよ」と言うと、現地の人はみんな「えーっ」て驚く。
そして「日本全国そうだと思っていました」と続く(^.^)。
これを親と子の関係にあてはめると、子どもはある年齢まで、殴る親、説教する親、何も言わない親、何でも受け入れる親が「親という人」だと思う。
では、「えーっ、違うんだ!」と思うのはいくつになってからか。
これは親戚の親、近隣の親、友達の親などを知り始めたころでしょうか。
あるいは、「だだこね」と呼ばれる第一反抗期(1歳半から3歳くらい)のころかもしれません。
この場合は違うタイプの親がいると気づくのではなく、「親は自分の言うことを聞いてくれない」と感じ始めるときです。
食事や衣類の着替え、靴を履くことなど、親が今までのようにやってあげようとすると、幼児は「自分でできる」とだだをこね、親の援助を拒否するようになる。つまり、反抗。
親が「じゃあ自分でやりなさい」と任せると、食べるのは遅いし、テーブルや床にぼろぼろこぼして後始末が大変。衣類の着替えも手順を間違えて時間がかかる。冬など外は寒く風邪を引くかもしれないから、たくさん着せようとすれば「いやだ」と言い張る。
結局、食事は親が手を出し、無理やり着せて外に出る。これは子どもにとって初めて芽生える自立の気持ちでしょう。
このとき多忙な親、心に余裕のない親、当然脅迫・批判タイプの親は叩いたり叱ったりして親がやってあげる。一方、傍観の親だって(傍観するわけにはいかないから)叱りつけて親がやる。
少なくともこの三者はやがて子どもがきちんとできるようになるまで親がやる。そして、受容者タイプの親だけは(できるようになっても)ずっとやってあげる(^.^)。
子どもは親の違いと言うより「なんかへんだぞ」と感じる。
今までは泣いたり、ぐずったり、甘えたり、怒ったりすると、親は自分の気持ちを優先してくれた。なのに、このときだけは自分の思うままにさせてくれない。むしろ、親の言うがままに行動させようとすると。
子どもが四タイプに固執する自分の親は「どこかおかしい」と思い始める最初のときだと思います。もちろん親からすると、当然の補助だったり躾である。
さらに成長して違うタイプの親がいると気づき、「自分の親の違い」を意識するようになる……のではないでしょうか。[しかし、それがどう違うか、なぜ違うのか――については私の本を読まないとわからない(^_^;)]
閑話休題。
ここで1~4すべての末尾を「愛していると感じられない」と否定形に置き換えて再読してみてください。本稿はこれまで「愛されていると感じられない」実態を眺め語ってきました。ゆえに《四タイプの生き方は良くないから、改めてほしい》との結論でした。
ところが、「親とはこういうもの」と思い、四タイプの親から「愛されている」と感じられるなら、子どもは親に対して「変わってほしい」などと思いません。
ちょっとくどいけど、再度四タイプの愛について眺めます。
周囲の人が四タイプの親に「変わってほしい、子どもへの態度を改めるべきだ」と忠告すると、彼らは以下のように答えるでしょう。
[四タイプの言い分]
1 脅迫者の親は「我が子を愛するから殴ったり乱暴な言葉を使う」のだ。
2 批判者の親は「我が子を愛するから子どもを正すために批判する」のだ。
3 傍観者の親は「我が子を愛するから自由にさせて傍観する」のだ。
4 受容者の親は「我が子を愛するから良いことも悪いことも全て受け入れる」のだ。
――となります。いかがでしょう。
うなずける部分があれば、「違うのでは?」と感じる表現もある。
4、1、2、3の順に解説します。
4 受容者
受容者に関しては誰も異存はないはず。子どもは自分の言う事、わがままなど何でも全て受け入れてくれる受容者の親は限りなく自分を愛してくれると感じる。当然「変わってほしい」などと思いもしない。
1 脅迫者
これは「そりゃないだろう」と感じる。子どもを殴るのは愛するからだ、なんておかしいと。
ところが、子どもを殴る大人について「子どもを愛しているからだ」と思って許容する人は結構多い。
例えば、中学・高校の部活顧問。部員を殴って指導する顧問は言います。
「私が生徒を殴ったり蹴ったり、乱暴な言葉を使うのは部を強くし、彼らを愛しているからだ。これは愛のムチだ」と。
保護者もその言葉を「そうだ、そうだ」と受け入れる。
特に乱暴な子どもをコントロールできない親は殴って言うことを聞かせてくれる部活顧問を「ありがた~い人」だと尊敬する。
もしも子どもがそのような脅迫者の親、脅迫タイプの顧問を尊敬していれば、変えてほしいと思わない。
自分を殴るのは親の、部活顧問の愛情だと考えれば、「殴ってくれてありがたい」と思う子どもだっている。
そして、その子が後に教員となり、部活顧問になれば、子どもを殴って蹴って乱暴な言葉で育てる教員になる……というわけです。やれやれ。
もう一つ、若い女性は恋愛の相手として脅迫者に最も惹かれます。
と言い切ってしまうと語弊があるので、「惹かれるのではないですか」と書き換えましょう(^.^)。
腕力があって度胸と勇気を持ち、何よりケンカに強い。そのような男性から「お前を絶対守るから結婚してくれ」と言われれば、そりゃあ「この人と一緒に暮らしたい」と思うでしょう。
そもそも自然界でメスは大きいオス、強いオスを生殖の相手に選択する。それが自然界の法則でもあるから、人のメスがそう思っても不思議ではありません(言い過ぎ?)。
ところが、いざ結ばれてともに暮らし始めると、脅迫者の夫の暴力に苦しむ羽目になり、離婚を考え始める。恋人であれば別れようと思う。
すんなり離れられればいいけれど、こじれると夫や恋人はストーカーと化すことがある。
これを子どもにあてはめると、脅迫者の親は自分を守ってくれると思えば、とても頼りがいのある親であり、愛されていると感じられることになります。
子どもは親に変わってほしいと思わない。いや、思ったとしてもおくびにも出さない。ゆえに、脅迫者の親も変わろうなどと思いもしない。
一方、2批判者、3傍観者に関してはちょっとビミョーです。
この微妙な点というのが私の父と友人が議論した「父を早くに亡くし、母を早くに亡くす」ことと関係します。批判者または傍観者を親に持つと、子どもは親と違うタイプにあこがれるのです。
子どもは批判者を親に持つと、毎日のように叱責され、批判され、努力を求められる。そこに完璧主義が入ると、子どもは自身100点満点を求める人間になろうとする。子どもは親の期待に応えなければならず、疲れるばかり。重い期待はやめてほしい、もっと自由にさせてほしいと思う。
一方、傍観者を親に持つと、子どもは親が自分に関心がないことを早くから思い知らされる。良いことをやっても誉めてくれない。悪いことをやっても正してくれない。だいたい上の空で生返事を返すばかり。子どもは「親ってこんなもんなんだ」と思って愛されることをあきらめる。
だが、両者が友人と付き合うようになると、「友人の親は自分のところと違う」ことに気づく。
母を早くに亡くした私の父は母の愛を求めた。父の友人は父を早くに亡くし、父の愛が必要だと主張した。
これを言い換えると、私の父は今はもういない母親がいてほしいと思った。父の友人は父親がいてほしいと思った。すなわち、子どもは親と違うタイプにあこがれ、そちらの親がうらやましいと感じることを語っています。
2 批判者を親に持つ子
子どもは友人の親を知るにつれ、傍観者の親にあこがれる。
「お前の親は何でもお前の自由にさせていいなあ。オレの親と来たら…」と傍観者の親を持つ友人にもらす。もっと自由に、やりたいことをやらせてほしいと思って批判者の父や母に反抗し始める。
長じて自分が親になったとき、「子どもは自由にさせよう」と傍観者の親を心がける。
3 傍観者を親に持つ子
子どもは友人の親を知るにつれ、批判者の親にあこがれる。
「オレの親は自分にちっとも関心がない。お前の親はいいなあ…」と批判者の親を持つ友人にもらす。もっと自分を見てほしい。いろいろ言ってほしいと思う。反抗はしないけれど、尊敬することはない。
長じて自分が親になったとき、子どもと大いに関わる批判者の親になろうとする。
つまり、この二タイプを親に持つと、子どもは親にないもの(なかったもの)にあこがれ、違うタイプを求めると言えます。
批判者を親に持った子は「傍観する親こそ理想の姿だ」と思う。
傍観者を親に持った子は「批判する親こそ理想の姿だ」と思う。
不思議だと思いませんか。
それが理想の親であり、子どもを愛する親だと思えば、後に子どもを得て批判者となった親、傍観者となった親は自分を変えようと思わないでしょう。
もっと言えば、批判者の親は言うはずです。「お前を批判してアドバイスするのはお前を愛しているからだ」と。
かたや傍観者の親は「自由にやりたいことをやれと言うのはお前を愛しているからだ」と心の内でつぶやく。
もちろん脅迫者と受容者の親だって同じことを叫びます。
「お前を殴るのはお前を愛しているからだ」、「お前の全てを受け入れるのはお前を愛しているからだ」と。
よって、子どもが親を尊敬し、親のようになりたいと思えば、親の言動を愛だと思う。
やがて子どもが四タイプに固執する自分の親は「どこかおかしい」と思い、親を尊敬できなくなったとき、親の言動を愛だと感じなくなるのです。
いや、それが愛だと思ったとしても、親に対する反抗が始まる。それはつまるところ子どもを支配して言うことを聞かせようとする親への反抗です。
以下のまとめはこれまで何度も語ってきたことの繰り返しになりますが、敢えて掲載します。後半がちょっと違うことに注意してください。子どもは親に何を求めるか。
1 脅迫者の親へ
脅迫・威嚇して自分を支配し、服従を求める脅迫者の親は自分を愛していると感じられない。愛していると言うかもしれないが、私を脅迫し、怒鳴って服従させようとする生き方を改めてほしい。
2 批判者の親へ
常に批判し、完璧であることを求める批判者の親は自分を愛していると感じられない。愛していると言うかもしれないが、私の自由を認めてほしい。あなたの生き方を子どもに強要しないでほしい。
4 受容者の親へ
何でも受け入れてくれる受容者の親は自分を愛していると思っていたが、ほんとは親を愛してほしいから何でも受け入れているのではないか。本当に私を愛しているのだろうかと疑う。危険なことでも挑戦させてほしい。
子どもは脅迫・批判・受容の親は「私の自由にさせてくれない、縛っている」と感じるのです。
そして、傍観の親を持つ子どもは……。
3 傍観者の親へ
いつも傍観するばかりで自分に関心のない傍観者の親は自分を愛していると感じられない。愛していると言うかもしれないが、もっと私を見てほしい、関心を持ってほしい。
私はずっとこちらを問題として論じてきました。
ただ、四タイプであろうがなかろうが、親を尊敬していれば、子は自分を愛してくれると思うし、長じて(自分の子を得たとき)親のように子どもを育てようと思うでしょう。
かくして脅迫・批判・傍観・受容は永遠に親から子に引き継がれ、子は親になったとき子どもに対して脅迫・批判・傍観・受容の生き方を実践する。
見出しの狂短歌に関連してもう一首詠んでみると、
〇 四タイプ それは愛かもしれないが 愛されてると感じられない
ああ歴史は繰り返す……もはや人は四タイプの生き方を変えることなど不可能なのだろうか。
そして、会社や組織、世の中のあちこちに出現する犯罪者たち。暴力を使えば脅迫者であり、頭を使えば詐欺師。その犠牲となる傍観者と受容者たち。脅迫・批判が過ぎて独裁者になれば子どもから殺される。会社や組織ではセクハラ・パワハラ・モラハラが横行する、ボスの命令には服従するしかない受容者と化す。
家庭では親子喧嘩に夫婦喧嘩。一度は愛し合って結婚しながら不和となって離婚に至る。子捨て親捨てが蔓延する世の中。もはやそれを変えることは不可能なのだろうか。
だが、私は言いたい。99パーセントの絶望であっても、1パーセントの希望があると。
将棋やスポーツで「99パーセントの勝ち」が予想されても最後に大逆転があるように。
私は本稿最後に1パーセントのどんでん返しを提起したいと思います。
……って大袈裟ですが(^_^;)。
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最後まで読んでいただきありがとうございました。
後記:次回は「変えられない理由」第5回、「感情と理屈が一致しているから」。
ここでまたも(罠ではない素直な)クイズ的質問(^_^;)。
狂短歌に歌う「性善説と性悪説」は理論=理屈ですが、四タイプの感情と深く結びついています。脅迫・批判・傍観・受容の四タイプのうち、二タイプは一方に同意してそれを強く主張し、かたや二タイプは違う方に同意してそちらを強く主張する。では、
性善説に共感する二タイプはどれとどれか。
性悪説に共感する二タイプはどれとどれか。
難しいと思われるなら、本節後半を再読してください。
これまで一読法で読んでいたなら、難しい質問ではありませんよ。
もう一つ前号途中以下の部分に関して検索できるようにしていませんでした。
関心があるようでしたら、「御影祐のごちゃまぜホームページ」を検索しても、当該部にたどりつけます。
『一読法を学べ』第48号(提言編Ⅱの4)において「英語教育を英語圏小6レベルの英会話教育に転換すべき」と提起……
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