『続狂短歌人生論』29 なぜ変えられないのか その2「尊敬されるから」
脅迫・批判・傍観・受容の四タイプはなぜ変えられないか。二つ目の理由。
前号では「それが長所と信じるなら、変わろうなどと思わない」と語りました。
今号は前号の延長線上にあります。「尊敬されている」と思えば、変わろうと思わない。変わる必要など認めないでしょう。
11月08日 なぜ変えられないのか その1「長所と信じるから」
〇 四タイプ それが長所と信じれば 変えなければと思うことなし
11月15日
なぜ変えられないのか その2「尊敬されるから」―――――本号
〇 三タイプ 誉められ認められるなら 変えようなどと思いもしない
11月22日
なぜ変えられないのか その3「愛してほしいから」
〇 幼子は人を愛することよりも 愛してほしいと思う生き物
11月29日
なぜ変えられないのか その4「愛してくれるから」
〇 四タイプ それがあなたの愛ならば 人は続けてほしいと思う
12月06日
なぜ変えられないのか その5「感情と理屈が結びついているから」
〇 人間は性善なのか性悪か 溶け合っている理屈と感情
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(^_^)本日の狂短歌(^_^)
○ 三タイプ 誉められ認められるなら 変えようなどと思いもしない
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****** 「続狂短歌人生論」 ******
(^_^) ゆとりある人のための20分エッセー (^_^)
【『続狂短歌人生論』29 なぜ変えられないのか 】
その2「尊敬されるから」
さすがに一読法でなくとも、冒頭狂短歌の異常さ(?)に気づかれたことと思います。
これまでずっと「四タイプ、四タイプ」と連呼して脅迫・批判・傍観・受容の違いと共通する特徴について語ってきました。ところが、今回は初めて「三タイプ」で始まっています。
いつもなら作者から次のようなクイズ的質問が出されていいところです。
A 尊敬されると思うから変えようと思わない三タイプとはどれどれか。
B 逆に言うと、尊敬されない一タイプとはどれか――と。
ここでチョー難解な一読法「作者なぜ」の質問です(^_^)。
前号「変えられない理由その1」の前置きには以降5回分の見出しと狂短歌が掲載されていました。
その最後に[五首の狂短歌を読んで、「ありゃ、いつもと違う歌があるな」とつぶやきましたか。気づかなかったら、ぼーっと読んでいる証です。数字ですよ、数字(^.^)]と書かれています。
さすがにぼーっと読んだ人もちょっと狂短歌を読み返して
11月08日 〇 四タイプ それが長所と信じれば……
11月15日 〇 三タイプ 誉められ認められるなら……とあって
「おおっ、確かに三タイプだな」とつぶやかれたはず。
そして、通読に毒された三読法読者はこうつぶやいて終わり。
ABについて考えることはない(前号にこの答えはないのに)。
だが、一読法を実践する読者なら、上記A・Bの疑問について考え、その場(か全体を読み終えて)この答えを考えようとする――これが《その都度立ち止まって考える》一読法です。
よって、いつもなら、私は前号後記に「ところで、前置き最後のつぶやきについて考えましたか。ABについて次週までに考えてみてください」と書くでしょう。
そして、今号前置きに「さて、ABの答えです。尊敬されるから変えようと思わない三タイプとは……」と答えが明かされる――これが最近の流れです。
ところが、私はこの疑問をクイズにしなかった。
かくして、チョー難解な一読法「作者なぜ」の質問が以下。
Q 作者はなぜABのつぶやきを前号のクイズにしなかったのか。
これは一読法ハイレベルの「つぶやき」です。
「作者は今までの流れだとクイズにするだろうに、今回はクイズにしていない。なぜだろう」とつぶやくのがハイレベルの一読法実践者。ほとんど私並み(^_^;)。
答えは二つ。一つはここで書きます。が、もう一つは『一読法』に関係する質問(つまり本旨とは無関係)なので、本号では答えず次号にて明かします。
一つ目の答えは「クイズにするほどでもない。とても簡単だから」です。
「ええっ、簡単じゃない。難しいよ」とつぶやいた方は四タイプの特質をまだ理解できていない人です。もっと集中して読むか、少なくとも前28号を再読してください。
閑話休題(おかしな使い方ですが)。
ではAB「尊敬されるから変えようとしない三タイプ」に関して本論開始。
前号各タイプの長所を短くまとめた部分を再掲します。
1 脅迫者……勇気 2 批判者……正義
脅迫者・批判者……強さと頼もしさ
3 傍観者……忍耐 4 受容者……やさしさ
傍観者・受容者……弱さと思いやり
子どもが親を尊敬して「親のような人間になりたい」と思うことは大いにあります。特に1と2。脅迫者の勇気と行動力、批判者の正義と説得力。すごい、強い、かっこいいと思えば、親を尊敬して自分もそうなりたいと思う。子どもは強い親、正しい親を尊敬します。
それは子どもにとどまらない。大人であっても、周囲を見渡せば、尊敬できる人を何人か見出します。尊敬する人に対して「変わってほしい」と思うことはない(でしょう)。
それが(長所にあふれた)強~い脅迫者と、いつも正義派の批判者。
そして、自分のわがままを何でも聞いてくれる受容者の親。子どもは「変わってほしい」などと思わない。
というわけで、「なぜ変えられないか」というテーマに関して「人は尊敬されていると思えば、変わる必要を認めない」ことになる。脅迫・批判・受容の三タイプがこれにあたります。[ね、簡単でしょ?]
対して傍観者は果たして「尊敬される」だろうか。
言い換えれば、我々は傍観者を尊敬するだろうか。
これはそう単純ではありません。
前号では以下のように傍観者の長所を書きました。
[ちなみに、四タイプ全ての長所を書いたから、「えっ? 一タイプだけ尊敬されないってことはないんじゃないか。みんな尊敬されてる。じゃあ尊敬されない一タイプってどれだ?」と思い、「クイズになっていれば難しい質問だなあ」とつぶやく。よって、「簡単じゃない。難しいよ!」と叫ぶもむべなるかな(^.^)。
一読法から言うと、ここもハイレベルな精読作業が必要です。すなわち、四タイプの長所が語られているが、どれか一つは「突っ込みどころ」がある。読み直して「この長所の記述は正しいだろうか」と考えねばならないということです。
おそらく脅迫・批判・受容の三タイプに関しては違和感がない。「傍観者の長所」を読んだときだけ、「うーん。確かにそう言えるかもしれないが、そうかなあ」とつぶやいたはず。
そこで(一読法読者なら)その部分を再読して「傍観者のところだけは立派に言い過ぎだ」と気づく。かくして「尊敬されない一タイプとはたぶん傍観者だ」との答えに至ります(^_^)。]
以下「傍観者の長所」再掲。
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だが、弱々しいだけに、傍観者は人の弱さや心の痛みを思いやることができる。とても繊細で感受性が強い。
しばしばあることないことを想像して行動できないタイプであるが、逆に言えばそれだけ想像力豊かな人だ。純文学の小説家には傍観者タイプが多い。
傍観者は基本的に部屋の隅でやさしい言葉をじっと待つような性格である。
それだけにとても忍耐強い。しばしば無関心だと非難されがちだが、傍観しているだけに、一歩下がった中立的な立場で事態を眺めることができる。
行き詰まった状況を解決する第三案を提示できるのは冷静な傍観者タイプだけである。
脅迫者はすぐにかっとなる。批判者は自己の正しさをひたすら力説する。
そのようなとき傍観者は「落ち着け。他の見方もあるぞ」と意見することができる。
脅迫者や批判者が敵と戦うことだけで頭の中を一杯にしているとき、壁によりかかって耳を傾けていた傍観者が和解の可能性を冷ややかに主張したりする。
仲裁役、まとめ役として優れた能力を発揮するのは傍観者タイプである。
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これを読めば、「確かに傍観者だって尊敬できる」と思えます。
だが、私たちの周囲にあまたいる傍観者はこんな感じではない(でしょう)。
たとえば、上記を突っ込んでみると、
・傍観者が「人の弱さや心の痛みを思いやっているか、想像力豊かかどうか」わからんじゃないか。
・「行き詰まった状況を解決する第三案を提示」する傍観者を見たことがない!
・「落ち着け。他の見方もあるぞ」と意見する傍観者がいるか?
・「仲裁役、まとめ役として活躍する」傍観者なんかいやしない!
――とまー反論できます。
傍観者とは心の内を明かさない、意見を言わない。黙って傍観している……ような人を「傍観者」と呼びます。
傍観者最大の問題は無表情な外見です。脅迫・批判・受容の三タイプは外から見てすぐわかる。 今にも怒り出しそうなエンマ顔か(女性なら)般若顔、小言幸兵衛のしかめっ面、いつも優しい笑みを絶やさない仏顔。
対して傍観者の基本は無表情。それでは「人の弱さや心の痛みを思いやっている」のか、「中立的な立場で事態を眺めている」のかわかりづらい。悪く言えば「ぼーっと見ているだけじゃないのか」と言いたくなる。
仲裁役・まとめ役としての能力にしても、発言して行動しなければ、あるかないかわからない。まとめ役ならむしろ批判者タイプの方がよくやっているかもしれません。
要するに、傍観者とは事態を遠くから眺め、関わることを避けているタイプである。
多くの人はそれを「逃げている」と見なす。傍観する人に対して「もっと関心を持て。逃げないで戦え」と言いたくなります。
トーゼン、このような傍観者はあまり尊敬されない。
傍観者自身だって自分が逃げていると思えば、人から軽蔑される、尊敬されないとわかっている。だが、弱々しい自分を変えることは難しいと感じている。
つまり、傍観者だけは「尊敬されるから変わらない」にあてはまらない。
敢えて言うなら、「軽蔑されているけど変えられない」と言うことができます。
傍観者が《傍観》を変えられない理由は三つ。
一、臆病で勇気がない。強くなれないから。
二、何事も平均点以下しか取れず自信がないから。
三、傍観は楽だから。責任を負わずに済むから。
この具体例を書くのはやめます。「自分がそうだ」と思い、「あの人は傍観者だ」と思い当たる人が多いことでしょう。以前日本人の4割は傍観者だと語りました。
脅迫者と批判者は強さに自信がある。そこに完璧主義が混じっていつも100点満点、最低でも90点、80点の成果を出す人を、周囲の人は称賛し尊敬する。
また、受容者だって周囲の人を不平も文句も言わず受け入れる点において自分の優しさに自信を持っている。こちらも(受容者が愚痴や被害・迫害をもらさない限り)、周囲から賞賛を浴びる。昭和の時代、この女性は夫を助け、子どもに対して限りなくやさしいお母さんとして尊敬されました。なので、この3タイプは変わる必要を認めない。
ところが、傍観者だけは「尊敬されるから変わらない」にあてはまらない。
なので、冒頭の狂短歌が以下のようになりました。
〇 三タイプ 誉められ認められるなら 変えようなどと思いもしない
傍観者も取り入れると、以下の狂短歌が必要となります。
〇 傍観者 尊敬されることはない わかっちゃいるけどやめられない
年配の方なら、この後「あソレ、スイスイスーダラダッタ スラスラスイスイスイ~」の歌詞を口ずさむかもしれません(^.^)。意味不明の若手は検索を。
以上です。
結局、理由は何であれ「変わろうとしない」点において四タイプは共通しています。
――とこれで終わりにすると、傍観者が救われません(^.^)。
最後に傍観者だけが持つ、すなわち三タイプにはない長所を提起します。
それは「待つこと」です。待つことは傍観者しかできない。
狂短歌にすると以下。
〇 傍観者 三タイプにはない長所 待つことできる忍耐強さ
傍観者の長所は「忍耐強い」と書きました。この長所から生み出される特徴が「しばらく待つこと」です。
一方、三タイプは待つことができません。「脅迫者はすぐにかっとなる。批判者は自己の正しさをひたすら力説する」と書きました。彼らは反論や異見が出ると、直ちに怒鳴ったり、「あんたの言うことは間違っている」と間髪を入れず反論します。[「かんぱつ」と読んだ?]
親を例として説明します。
脅迫者の親は子どもが自分の言うことを聞かないとすぐ怒る。怒鳴ったり暴力をふるう。批判者の親は子どもが正しいことをしない、努力しないところを見ると、腹を立て即座に叱責し、小言を並べる。
この二者は子どもが直ちに従うことを要求する。つまり、改善を待てない。
端的な例は親や上司がよく言う「どうして同じ失敗を繰り返すんだ」との言葉。待てない親や上司の典型です。
一方、受容者の親は一見子どもの言うことを全て聞くから、よく待っているように思える。
ところが、幼子が崖のぼりなどしようとすると、「危ない!」と言ってやらせない。あるいは、子どもが親の元を離れて独立しようとしたり、連れてきた結婚相手が気にくわないと、即座に「やめなさい」と言う。
子どもと話し合ってそれでも言うことを聞いてくれないと、「こんなにあなたを愛しているのに」と泣き叫ぶ。受容者の親も待てない。
つまり、この三タイプは子どもの自立独立を認めようとしない。いつまでも子ども扱いする。子離れができない親ということができる。
一方、傍観者の親だけは子どもの自立自発を重んじるだけに、待つことができる。彼(彼女)は子どもが失敗するとわかっていても待つ。子離れが上手な親と言っていい。
ちなみに、学校というもの、学校の先生、そして保護者。だいたい待つことのできない人たちです。
生徒が茶髪やリーゼントにしたり、制服を勝手に変えると、先生は直ちに「生徒指導」に入る。保護者もそれを要求する。「あんたの学校はどうしてあんな子を放っておくんだ」と。
かつて教員だった私はよく「どうして待てないかねえ」とつぶやいたものです(^_^;)。
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最後まで読んでいただきありがとうございました。
後記:文中「間髪を入れず反論」のところ。「かんぱつ」と読んだ人はネット検索してください。散髪なら「さんぱつ」でいいのですが。
もう一つ。今号「傍観者のみの長所」のところを読んで、以下の感想を持ったかもしれません。
前著では傍観者の長所として「待つことができる」などと書いていない。どうしてここでそれを追加したのだろうかと。
この質問に対しては「なぜでしょう。考えてみてください」などと言いません。
なぜなら筆者にとってとても恥ずかしい、不甲斐ない理由だからです。
答えは「前著の時は思いつかなかった。本節を書いている途中で思いついたから」です(^_^;)。
まーそんなこともありますって。本書はこてこての研究論文ではないので。
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