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2024.03.31

『続狂短歌人生論』56 『杜子春』を一読法で読む 後半 その4-2

 前号タイムトラベル理論に続いて鉄冠子が「実はタイムトラベラーであった」との推理を語ります。
 彼は仙人です。だから、タイムマシンは必要ない。すでに空間はジェット機並みの速度で飛び回れる。よって修行の結果「時間を飛び越えて過去に行けるようになった」と考えれば良いのです。
 では、仙人はなぜ杜子春の前に現れたのか。以下『杜子春』別稿――『鉄冠子の独白』を創作してみました。

 仙人・鉄冠子はなぜ杜子春を三度も助けるのか。
 なぜ杜子春を殺すつもりだったと言うのか。
 鉄冠子が未来からやって来たと考えると、この疑問が解決されます。
 彼はある目的をもって杜子春に会いに来た……。

 青空文庫『杜子春』は→こちら

3月25日(月) 52号 『杜子春』を一読法で読む 後半その1
 〇 かなえたい夢が我らを強くする されど命とどちらを選ぶ?

3月27日(水) 53号 『杜子春』を一読法で読む 後半その2
 〇 夢のため耐えて唇噛みしめる 自分を 人を 犠牲にしても

3月29日(金) 54号 『杜子春』を一読法で読む 後半その3
 〇 [狂短歌は本文末尾に掲載]

4月01日(月) 55号 『杜子春』を一読法で読む 後半その4-1
 〇 仙人はまさかのタイムトラベラー(?) 過去を訪ねたその目的は

4月03日(水) 56号 『杜子春』を一読法で読む 後半その4-2―――本号
 〇 仙人はまさかのタイムトラベラー(?) 過去を訪ねたその目的は

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 (^_^)本日の狂短歌(^_^)

 ○ 仙人はまさかのタイムトラベラー(?) 過去を訪ねたその目的は

================
****** 「続狂短歌人生論」 ******

 (^_^) ゆとりある人のための20分エッセー (^_^)

 【『続狂短歌人生論』56 『杜子春』を一読法で読む 後半 その4-2

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 別稿『鉄冠子の独白』

  [一]

 おれは泰山の麓にある小さな村に住む仙人。名を鉄冠子と言う。
 住まいはぼろ屋だが、雨風と冬の寒さはしのぐことができる。普段は畑を耕し、桃を育てて暮らしている。周辺の散歩にあきると杖にまたがって空をひとっ飛び。北の海を見下ろし、南の青山上空を飛び回る。
 人はおれの姿を見て「空を見ろ!」「鳥だ!」「いや、人間か?」と叫ぶひまもない。
 先代鉄冠子が亡くなって早10年。おれにも古代稀なる古稀が近づいている。

 近隣の人と助け合って暮らしているものの、彼らはおれが仙人だと知らない。貧しい一人暮らしのじいさんと思っているだろう。なんとなれば、おれは仙人の能力を一切見せないからだ。

 それは先代の戒めでもある。見せればうらやましがられ、頼られ、やがて疎まれ、嫌われる。王家王臣に取り入ろうとすれば、最初こそ稀有なる人材として重宝されるだろう。
 だが、先代は言った。「お前の能力はやがて王臣にとって脅威となる。彼らは自身の地位をお前に奪われることを恐れるであろう。よいか。決して仙人の力を人間に見せてはならぬぞ」と。

 自分は元貧しい家の生まれで、二十代の終わりころ仙人になろうと思い、先代に弟子入りした。修行に耐えること数十年。片目を失ったものの、仙人になることができた。

 しかし、仙人となって自分は一体何をやっているだろうかと思う。海上を歩き、空を自由に飛び回れる。地面のどこに黄金が埋まっているか透視できる。
 それがなんだと言うのだ。いまだ一度も黄金を掘り起こしたことはない。

 先代を失くした今、おれのことを知る者はいない。愛してくれる人もいない。愛する人もいない。それはおれがもはや人間ではないから。仙人だから。

 おれは仙人になるためこの数十年を犠牲にした。そして、年老いて夢をかなえた。
 だが、この数十年に意味があるのか。夢をかなえても、おれは一人ぼっちで死にゆくばかりだ。不死の命を得たわけではない。老いはいずれやって来る。若さを取り戻すこともない。

 おれは地獄で馬となって鞭打たれる父母の姿を見ても声を発しなかった。
 目覚めると、先代鉄冠子は「よくぞ試練に耐えたな」と言い、弟子になることが許された。
 だが、あれは間違いだった。今ならそう言える。

 この十年。おれは時を超える力の習得を目指した。そして、ようやくかなった。
 おれはこれから昔の自分に会いに行く。そして、彼に教えようと思う。
 お前の思いを変えよ。黄金に頼る生き方を、友人をあてにする生き方を変えるのだ。仙人になる夢など意味がないことに気づけと。

 自分を犠牲にして夢をかなえようと言うのか。人を犠牲にしても自分の夢をかなえたいと言うのか。仙人になる夢など捨てるのだ。
 もしも若い自分が気づかなければ、おれは自分をこの世から抹消しようと思う。この若者に自分が犯した最大の過ち、仙人になるための厳しい修業に進ませたくないのだ。

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 (以下御影祐補足)
 このように推理すると、鉄冠子の言葉「もしお前が黙っていたら、おれは即座にお前の命を絶ってしまおうと思っていたのだ」が納得できます。
 また、杜子春と3年後のその日、そのとき出会うこと、黄金のありかを教えることも、相手が《過去の自分》なら不思議ではありません。

 鉄冠子とはかつての杜子春である。未来から杜子春の前に現れた目的は彼を変えること、仙人になる夢をあきらめさせることだった。
 タイムトラベル理論について考えたこともない鉄冠子は「もしも杜子春が変わらなければ、かつての自分を殺そう。その瞬間今の自分もこの世から消えるだろう」と思った。
 だが、多次元時空理論によれば、鉄冠子が過去に飛び込んだときから、新たな時空が始まっている……。

 鉄冠子の独白は続く。

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  [二]

 おれはある春の夕暮れ、洛陽の西門に行った。前日おれが頼りにしていた最後の一人から「もう来ないでくれ」と言われ、今夜泊まるところがない正にその日だ。おれ自身先代鉄冠子と初めて会った。やはり杜子春はいた。

 先代から聞いたようにおれも杜子春に黄金のありかを教えた。あのときおれは夕日に伸びた影の「頭、胸、腹」の三カ所を掘って大金持ちとなり、金が尽きれば乞食同然となった。

 今思うに、先代は「仙人の力を見せるな」と言いながら、おれにはそれを見せた。あるいは、後継者を探していたのかもしれない。
 何人かの若者に黄金のありかを教えた。彼らは大概それを隠して交友を絶ったり、高利貸しなどをしながらひっそり暮らした。「三度ともぜいたくをして全て失ったのはお前だけじゃ」と言われたものだ。

 そして、三年目の春、やはり杜子春は西門の外にたたずんでいた。おれはまた黄金のありかを教えた。

 ところが、さらに三年目の春。おれが三度目の黄金のありかを教えようとすると、意外なことが起こった。杜子春が「金はもういい。仙人になりたい」と申し出たのだ。それは自分が知る過去と違う事態だ。
 もっとも、これはおれにとって喜ばしい異変だ。おれはにやにや笑って
「そうか。いや、お前は若い者に似合わず、感心に物のわかる男だ」と言った。

 杜子春は変わり始めたではないか。これなら存外たやすく変わってくれるかもしれない。それなら進むべき未来を教えてみるか。
 そう思って「ではこれからは貧乏をしても、安らかに暮して行くつもりか」と聞いた。これは先代鉄冠子が言わなかった言葉だ。

 だが、杜子春はためらいつつ「今の私には出来ません」と言って弟子になりたい旨を繰り返した。さすがにこの程度のことで昔の自分は変わらぬか。
 もっとも、あのとき先代からそう言われたとしても、自分は杜子春と同じことを答えただろう。やはり峨眉山、地獄と仙人修行に進むしかあるまい。だが、期待は持てる。昔の自分はどこかで変わってくれるかもしれない。

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 (以下御影祐補足)
 その後は過去と全く変わらぬ流れが始まります。峨眉山での三つの試練。杜子春は固く口をつぐむ。そして、神将の登場。神将に変化(へんげ)した鉄冠子は三又の戟(ほこ)が刺さる前に、「やめて!」と叫ぶことを期待する。だが、杜子春は黙り通す。ならば地獄へ行くしかない。

 地獄でも杜子春は変わらない。脅しても、地獄の責めを課しても歯を食いしばって耐え続ける。
 再び森羅殿に引き立てられた杜子春を見て(鉄冠子が変化した)閻魔大王は眉をひそめ、暫く思案に暮れた。

 なお鉄冠子の独白は続く。

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  [三]

 やはり杜子春は変わらぬか。峨眉山で殺されても気づかない。自分が痛い目にあっても我慢し続ける。過去を変えることはやはり不可能なのか。

 このままでは最後の手段に頼らねばならぬ。そこでも黙り続ければ、おれは昔の自分を殺すことになる。何か別のいい手だてはないものか。
 だが、何も思いつけない。やはり父と母を引き立てて鉄の鞭を打たせるしかないようだ。

 おれは「この不孝者めが。その方は父母が苦しんでも、その方さえ都合が好ければ、好いと思っているのだな」と怒鳴った。
 依然として杜子春は口を開かない。おれはかつての自分に敵意を覚えた。

「打て。鬼ども。その二匹の畜生を、肉も骨も打ち砕いてしまえ」と命令した。
 鬼どもは一斉に「はっ」と答えて鉄の鞭を取り、四方八方から未練未釈(みしゃく)なく打ちのめした。鞭はりゅうりゅうと風を切って所嫌わず雨のように馬の皮肉を打ち破った。

 不思議なことだ。このときおれの心には目の前の杜子春が自分だと思えなかった。
 両親を鞭打てと命令したことも、やむを得ぬこととは言え、心の痛みを感じなかった。

 馬は――畜生になった父母は苦しそうに身を悶え、眼には血の涙を浮べたまま見てもいられない程嘶(いなな)いた。
 杜子春は必死に目をつぶっている。閻魔大王のおれは辛い場面を見ている。

 そのときだ。過去と全く違うことが始まった。

 かつて森羅殿の階段の前で父は鞭打たれながらおれをののしっていた。
「この不孝者め。お前は親がひどい目にあっても見て見ぬふりをするのか。お前を育てた恩を忘れたか。お前のような奴は人間ではない。畜生以下のけだものだ」と。
 思い出した。あのときおれは閻魔大王と父の二人から責められていたのだ。
 そして、母は何も言わず黙って鞭に打たれていた。

 だが、今父に言葉はなく、ひたすら責めに耐えている。そして、母からは声とは呼べないくらいかすかな声が伝わって来た。
「心配をおしでない。私たちはどうなっても、お前さえ仕合せになれるのなら、それより結構なことはないのだからね。大王が何とおっしゃっても、言いたくないことは黙っておいで」と母は言った。

 おれはそれを聞いて目に涙が浮かんだ。閻魔大王であることを忘れ、吹上(ふきあげ)のように涙があふれ出た。
 母はこれほどまでに私を愛してくれていたのか。知らなかった。
 もしもあのときこの言葉を聞いていたら……。

 そのとき目の前の杜子春が動いた。
 転(まろ)ぶように母の側へ走りよると、両手に半死の馬の頸(くび)を抱いて、はらはらと涙を落としながら、「お母(っか)さん」と一声を叫んだ。

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 (以下御影祐補足)
 未来から来た鉄冠子こと杜子春はきっとつぶやいたでしょう。
「昔の自分が変わった!」と。
 それは過去の自分を殺さずに済む、その後の自分、今の自分を抹消しなくて済む瞬間でした。


 以上、数十年後の未来からきた鉄冠子を描いてみました。

 この別稿『鉄冠子の独白』を終えるにあたって『杜子春』の末尾にちょいと追加したいことがあります。
 というのは「泰山北斗」で有名な泰山は洛陽の都から東に400キロ以上も離れているからです。

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  [四]

「何になっても、人間らしい、正直な暮しをするつもりです」
 杜子春の声には今までにない晴れ晴れした調子がこもっていました。
「その言葉を忘れるなよ。ではおれは今日限り、二度とお前には遇(あ)わないから」
 鉄冠子はこう言う内に、もう歩き出していましたが、急に又足を止めて、杜子春の方を振り返ると、
「おお、幸い、今思い出したが、おれは泰山の南の麓に一軒の家を持っている。その家を畑ごとお前にやるから、早速行って住まうが好い。今頃は丁度家のまわりに、桃の花が一面に咲いているだろう」と、さも愉快そうにつけ加えました。
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 そして、鉄冠子は竹の杖にまたがって浮かび上がると、人けの消えた夕暮れの空をぴゅーんと飛んで行きました。
 杜子春はその後ろ姿を見送った後、ふと困ったことに気がつきました。

 すると、遠くの空にゴマ粒のような点が現れ、みるみる大きくなるや、再び鉄冠子が杜子春の前に降り立ったではありませんか。
「いやいや、肝心なことを忘れておった。ここから泰山まで歩けばひと月はかかるじゃろう。お前はどうやって行く?」
「はい。宿に泊まるお金はないし、どうやって泰山まで行こうかと考えていたところです」
「すまんすまん。わしならひとっ飛びゆえ、お前も行けるだろうと勘違いした。ほれ後ろに乗れ」
「いいんですか」
「もちろんじゃ」
 二人は竹の杖にまたがり、泰山目指して空に舞い上がるのでした。
                    (ちゃんちゃん)
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 最後は「あの《デロリアン》のように浮き上がって一目散に飛んで行った」と書きたかったけれど、やめました(^_^;)。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:中国で泰山は日本の富士山に当たるくらい有名な山で、1987年世界遺産に登録されています。標高1545メートルですが、麓は0メートル。海と同じ標高の平原にあるって感じです。
 山頂まで7000段の石段が整備されているそうで、しばしばテレビなどでそこを上る人々の姿が映し出されます。一度行って見たいところながら、最近中国観光をしたいと思いません。リーダーはいつになったら気づいてくれるやら。

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2024.03.29

『続狂短歌人生論』55 『杜子春』を一読法で読む 後半 その4-1

 峨眉山の試練も、地獄の責めも最初は杜子春の決意を確かめるためだった。だが、そのうち「仙人になりたい」との夢をあきらめさせることに変わった。人の心の痛みがわからないような人間が仙人になれば、多くの人を不幸にする。そんな怪物を生み出すくらいなら、ここで殺してしまおう――と鉄冠子は考えた。

 こう推理すれば、鉄冠子が杜子春を「殺すつもりだった」理由、わからなくもありません。
 が、それでもなお「あんたに杜子春を殺す権利があるのか」と言いたくなる。
 何があろうと人間に他の人間を殺していい理屈はない。それを強行することはテロの発想ではないかと。

 それにこの推理では「なぜ杜子春なのか」説明できません。
 仙人・鉄冠子は春のある日たまたま都を訪れた。たまたま西門の外でため息をつく杜子春を見出した。
 それはまーあるかもしれない。だが、黄金のありかを教え、二度目に都を訪ねたとき、またもたまたま杜子春を見出し、彼が黄金を使い切ったと知ってまたも黄金のありかを教えた。
 これ全てたまたまと言うのか。あの杉下右京なら「偶然とは思えませんねえ」とつぶやくでしょう。

 なぜそれほどまでに杜子春にラッキーを与えるのか。気まぐれも度が過ぎると言いたくなる。さらに、たまたまの三度目で、なおもう一度黄金のありかを教えようとした。まるでその日そのとき杜子春がそこにいると知っていたかのように。
 しかも、それだけひいきにしながら、「こいつはほんとに仙人になるかもしれない、危険な人間だ」とわかったら、「殺すつもりだった」なんて……「ええかげんにせえや」と怒りたくなる。

 そこでもう一つ、別の理由を考えてみました。
 それは仙人が未来から来たタイムトラベラーと考えることです(^_^;)。

 これまたSF小説・SFアニメの読み過ぎ、見過ぎのような「突飛な空想」と言われかねない。もちろん作者にそのような意図はなく、私の単なる妄想に過ぎません。
 しかし、こう考えると、鉄冠子がたまたまのように杜子春と出会う事、さらに杜子春を殺そうという理由が納得できるのです。

 なお、長くなったので、二つに分けて配信します。
 本号は前半タイムトラベル理論まで。
 次号仙人・鉄冠子タイムトラベラー説について。

 青空文庫『杜子春』は→こちら

3月25日(月) 52号 『杜子春』を一読法で読む 後半その1
 〇 かなえたい夢が我らを強くする されど命とどちらを選ぶ?

3月27日(水) 53号 『杜子春』を一読法で読む 後半その2
 〇 夢のため耐えて唇噛みしめる 自分を 人を 犠牲にしても

3月29日(金) 54号 『杜子春』を一読法で読む 後半その3
 〇 [狂短歌は本文末尾に掲載]

4月01日(月) 55号 『杜子春』を一読法で読む 後半その4-1――本号
 〇 仙人はまさかのタイムトラベラー(?) 過去を訪ねたその目的は

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 (^_^)本日の狂短歌(^_^)

 ○ 仙人はまさかのタイムトラベラー(?) 過去を訪ねたその目的は
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****** 「続狂短歌人生論」 ******

 (^_^) ゆとりある人のための20分エッセー (^_^)

 【『続狂短歌人生論』55 『杜子春』を一読法で読む 後半 その4-1 】


 まず初めにどうしても語っておきたい……タイムトラベル理論があります。
 SF好きの方はよくご存じでしょうが、興味ない人にとっては退屈な記述なので、さーっと通読されて結構です(^.^)。

 私が退職後初めて執筆、自費出版した小説『ケンジとマーヤのフラクタル時空』と(完結編となる)『時空ストレイシープ』はタイムトラベル小説です。だけでなく主人公の少年ケンジが心を成長させる物語でもあります。

 二冊合わせて原稿用紙1000枚の長編。とても一冊にはできないと前後編に分けました。長いし中身も妙だし、世の評判になることなく初版止まりもむべなるかな(^_^;)。
 作品の感想としてあの名作映画『バックトゥザフューチャー』に「似ている」と言われたことがあります。「そうですね」と応じたけれど、実はちょっと違います。

 その前に有名なタイムトラベル理論について少々。
 タイムマシンは決して発明されないと言われます。我々は空間を飛ぶことはできるけれど、時間を超えて過去や未来に行くことはできない。時間と空間は全く別のものだから。

 たとえば、ある科学者がタイムマシンを発明して自分が生まれる前の父に会いに行く。彼の目的は(かつて虐待された)自分の父親を殺すこと。しかし、それは不可能である。なぜなら、父を殺すことができたとしても、その瞬間彼は消え失せる。だが、彼は生きて数十年後に存在する。ゆえに、絶対に父を殺すことができない。タイムパラドックスとも言います。

 ちなみに『バックトゥザフューチャー』は本稿のテーマと大きく関係しています。「変わるため、変えるためには何が必要か」という点です。
 主人公は「チキン(臆病者)」と呼ばれるとすぐカーッとなる若者。彼には現在いやなことが多々起こっている。ある日親友でもある変人科学者が車型タイムマシンを発明したと知り、それを手伝う途中「デロリアン」に乗って父と母が高校生だった30年前に時間移動する。

 すると、母が主人公に恋して二人が結ばれない事態が発生しかける。主人公はこれはやばいと二人を結ばせるため悪戦苦闘して……成功する。現在に戻ると事態はとても良い方向に変わっていた。続編はそれが未来に行き、三作目はもっと昔に行って……主人公はようやく「チキン」と呼ばれても冷静でいられる人間に変わったというお話です。

 バックトゥザフューチャーでは時間はつながっている。だから、過去を変えれば現在が変わる。現在を変えれば未来が変わるし、もっと昔を変えれば、現在も未来も変わる。変えれば元の正しい時空に戻るというタイムトラベルです。
 ゆえに、高校生の父と母の恋が実らないと、主人公の兄姉が写真から消えかかる。彼の姿も次第に透明になるという不思議な現象が起きます。

 私はこのタイムトラベル理論に対して多次元時空理論を採用しました。「今の時空は無限大にある時空の中の一つに過ぎない」と考えるのです。
 現在という時間は存在しないので、無限大の未来は0時空の現在を経て一つの過去に収斂(しゅうれん)する。虫眼鏡で集めた太陽光が一点に集中するようなもの。「∞の0乗=1」がその方程式(^.^)。

 よって、確定した過去に行くことはできるが、未来は見ることしかできない。過去は一つだけれど、未来は無限大にあるのだから、明日普通に生きて暮らす未来があれば、交通事故で大けがを負っている、地震と津波に飲み込まれて死んでいる未来だってある――となります。

 この理論ではタイムトラベラーが過去に旅してそこに降り立った瞬間、新しい(別の)時空が始まると考える。このことは言葉が証明しています。未来人は「未来からやって来た」と過去形で語る。すなわち、未来人が住んでいた世界はこの時空の《過去》にあるのです。

 とまれ、未来人は今の世界を生きて活動する。最初こそ自分がよく知る過去の事実が起こる。だが、そのうち違う出来事が起こり始めて未来人は不思議に思う。これも別の時空に飛び込んだと考えれば当然の事態である。
 新しい時空が始まった以上、この先何が起こるか全くわからない。よって、彼はこの世界で自分の父親を殺すことができる。自分が生まれる前の父を殺しても彼自身は消えない。

 私の作品はもう一つ生身の人間はタイムトラベルできないけれど、「魂」なら過去に行けるのではないか、との理屈も採用しました。輪廻転生の逆バージョンです。
 未来人「マーヤ」はある日中三の少年「ケンジ」の前に現れる。マーヤはタイムトラベルに成功したと思っているけれど、実はある少女の心の中にもぐりこんだとの構想です。

 そこからケンジとマーヤの交流が始まる。マーヤにはある目的がある。それはひ弱でいいかげんで、うそをつくは万引きをするはのケンジを変えること(なぜ変えたいのかは最後にわかります)。
 ところが、ケンジはなかなか変わらない。マーヤは「やっぱり確定した過去を変えることはできないんだ」とがっかりしつつ、ある日を境にケンジが変わり始めたことに気づく。ただ、それはケンジ自ら変わっているようであってマーヤはわけがわからなくなり、後編では自衛隊が絡んで大変な事件が起こる……といった感じで話は展開します。
 一読法を学んだ読者各位ならついてこられるかもしれません。いずれメルマガ配信を、と考えています。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:「さーっと通読されて結構」と書きながら、一読法でじっくり読んでいれば、「どーいうこと?」とつぶやいた箇所が一つあったのではと推察します(^.^)。

 多次元時空理論について語ったところに「今の時空は無限大にある時空の中の一つに過ぎない~~現在という時間は存在しないので、無限大の未来は0時空の現在を経て一つの過去に収斂(しゅうれん)する」とあります。この「現在という時間は存在しない」って妙な言葉ですよね。

 でも、「私たちは現在という時間を自覚できるだろうか」と考えれば納得できます。
 たとえば、時計を見ながら早口で「現在だ!」と言って見てください。叫んだ瞬間1秒経っています。つまり、過去になっている。とても「この1秒が現在です」とは言えない。100分の1秒としても同じ。現在と自覚した瞬間時間は過去になっています。つまり、現在という時間はない、0である――というわけです。

 なお、文中『ケンジとマーヤ~』・『時空ストレイシープ』について書いていますが、CМではありません。2冊はすでに絶版となっているし、中古書店でもなかなか手に入らないでしょう。
 もしも「(本を)読んでみたい」と思われるなら、私の家に何十部か残っているので、送料受取人払いにてお送りします(代金不要)。以下[E-MAIL]宛てご連絡ください。

E-MAIL:mikageyuu@@yahoo.co.jp (@マークを1ヶ外してコピペしてください)

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2024.03.28

『続狂短歌人生論』54 『杜子春』を一読法で読む 後半 その3

 前号末尾にて作品の結末に描かれた「桃の花」について触れました。
 今まで「春は描かれていなかった」とつぶやいたけれど、第三節に「春の夕暮れ」があったと。
 その後(これで何度目になるか)念のため『杜子春』を最初から読み直しました。
 すると作品冒頭に……
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 ある春の日暮です。
 唐の都洛陽の西の門の下に、ぼんやり空を仰いでいる、一人の若者がありました。
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 とあるではありませんか。「そこからあったんかいぃ!」とつぶやいたものです(^_^;)。

 あれっと思いつつ、さらに季節に注意して読み進めました。
 すると、仙人と杜子春が再会する場面(二度目)に「とうとう三年目の春、又杜子春が以前の通り、一文無しになって」とありました。さらりと「三年目の春」(-_-)。その後「ある日の夕方(仙人と再会する)」と出てきます。

 次の三年後(二節末尾から三節冒頭)に「春」はないけれど、三節末尾に「晴れ渡った春の夕空」を峨眉山に飛んで行く場面があります。
 つまり(ちっとも春らしくないけれど)、仙人と杜子春が出会う三度は全て「春」だった。それも「日暮れ・夕方・夕空」という夕暮れの時間。
 前半に「春」と「夕方」は計【三度】登場していたのです。気づかなかったあ……。

 芥川龍之介『羅生門』の冒頭は「ある日の暮方の事である」から始まります。「夕暮れ」の言葉は世紀末に生まれた(1892年)作者を象徴する言葉として有名です。『杜子春』にもそれがあったとは。痛恨の「僕としたことが…」(杉下右京)です。

 いつも「一読法で読んでいる」と自慢しながらこのていたらく。
 敢えて弁解させてもらうと、ネットでは傍線引きつつ読まないし、読めません。
 本なら傍線を引いて余白に「春の日暮れ」と抜き出すから、結末との対照、並びに三度出たことを見落とすミスはなかったでしょう。
 えっ、「そう言えば、題名にも《春》があるね」ですって?
 確かに……(^^;)。

 気を取り直して本号。第五節から六節、最大の難問について考えます。

 仙人・鉄冠子は杜子春が母の言葉を聞いても黙っていたら、「お前の命を奪うつもりだった」と言う。それはなぜか。
 杜子春は何も反論していないけれど、普通は「もしも黙っていたら殺すだなんて…そりゃないよ」とクレームの一つも言いたいところです。

 私が子どもの頃『杜子春』を読んで、どうにも納得できなかったのがこの部分。
 みなさんはどう思いますか。
 すでに私は1月以降たぶん10回近く『杜子春』を再読しています。
 それでも作品からこの答えを見出すことができませんでした。

 ただ、最近「そりゃ推理のし過ぎだ」と言われかねない答えを思いつきました。
 第五節を一読法で読んだとき「おやっ」とつぶやき、そこから考察がふくらみました。
 解釈として二つあります。本号ではその一つを語ります。

 青青空文庫『杜子春』は→こちら


3月13日(水) 47号 『杜子春』を一読法で読む 前半その1
 〇 続編の掉尾を飾る具体例 それは『杜子春』 最適最高

3月15日(金) 48号 『杜子春』を一読法で読む 前半その2
 〇 過ちを繰り返すこと二度三度 愚かなれどもそれが人間?

3月18日(月) 49号 『杜子春』を一読法で読む 前半その3
 〇 痛い目にあってようやく変えられる 三度目ならばまだ救われる

3月20日(水) 50号 『杜子春』を一読法で読む 前半その4
 〇 やさしさと弱さゆえに変えられぬ 絶望の中希望はあるか

3月22日(金) 51号 『杜子春』を一読法で読む 前半その5
 〇 三度目に変わることなく 四度目を 迎えたならば命を失くす

3月25日(月) 52号 『杜子春』を一読法で読む 後半その1
 〇 かなえたい夢が我らを強くする されど命とどちらを選ぶ?

3月27日(水) 53号 『杜子春』を一読法で読む 後半その2
 〇 夢のため耐えて唇噛みしめる 自分を 人を 犠牲にしても

3月29日(金) 54号 『杜子春』を一読法で読む 後半その3―――本号
 〇 [今号の狂短歌は本文末尾に掲載。表に出さないってことです]

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 (^_^)本日の狂短歌(^_^)

 ○ [今号の狂短歌は末尾に掲載。理由は後記に]

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***** 「続狂短歌人生論」 *****

 (^_^) ゆとりある人のための20分エッセー (^_^)

 【『続狂短歌人生論』54 『杜子春』を一読法で読む 後半 その3 】


 杜子春は地獄の責めにあう母の言葉を聞いてようやく「お母(っか)さん」の声を発する。
 そして、六節。杜子春の「その後」が描かれます。
 鉄冠子が「どうだな。おれの弟子になったところが、とても仙人にはなれはすまい」と言うと、杜子春は「なれません。なれませんが、しかし私はなれなかったことも、かえって嬉しい気がする」と答え、「いくら仙人になれたところが、私はあの地獄の森羅殿の前に、鞭を受けている父母を見ては、黙っている訳には行きません」と言います。

 すると仙人・鉄冠子が(私には問題と思える)言葉を吐く。
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「もしお前が黙っていたら――」と鉄冠子は急に厳かな顔になって、じっと杜子春を見つめました。
「もしお前が黙っていたら、おれは即座にお前の命を絶ってしまおうと思っていたのだ」
------------------------------

「黙っていたら殺すだなんて…」とつぶやいて言いたいクレームは

・そりゃないでしょ。あなたが口をきくなと言ったんじゃないですか。
・あのとき声をあげないことは死刑に当たるほどの重罪なんですか。
・そもそも私を殺す権利があなたにあるんですか。

 もちろんこの反論に対して「いや。あそこで何も言わないことは死罪に値する」との考え方はあるでしょう。閻魔大王が「この不孝者めが。その方は父母が苦しんでも、その方さえ都合が好ければ、好いと思っているのだな」と言うように、親不孝は重罪と見なされる時代もありました。が、さすがに死刑にはならない。

 ただ、日本には長らく「尊属殺人」という決まりがあって直系の父母を殺せば、死刑か無期懲役になっていました。廃止されたのは1995年です。もちろん芥川龍之介が生きていた時代、この法律は存在するから、杜子春の父母を見捨てるかのような言動(「言」はないけれど)は「死罪に値する」と思う人がいるかもしれません。

 私は小学校のころ『杜子春』を読んで無感動でした。母の言葉――すなわち母の愛に対して「そういう親がいるかもしれないが、全員とは限らないだろう」と思ったし、何より「それで殺そうとするか」と反発がありました。
 以前も書いたように十年ほど前再読して「母だけは自分を愛してくれた」物語だと気づいて涙が出ました。しかし、「杜子春を殺すのはおかしいやろ?」との感想は続きました。

 実は今回十度近く読んでも、作品からこの答えを見いだすことができませんでした。
 つい最近第五節を一読法で読み直し、「傍線を引いて授業で質問するならこの場面かな」と思ったとき、一気に想像が広がり、ある推理に到達しました。

 それは鬼どもが黙り続ける杜子春に音を上げ、再度森羅殿に引き立てたところです。
 閻魔大王は以下のように描かれます。
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 閻魔大王は眉をひそめて、暫く思案に暮れていましたが、やがて何か思いついたと見えて、
「この男の父母(ちちはは)は、畜生道に落ちているはずだから、早速ここへ引き立てて来い」と、一匹の鬼に言いつけました。
------------------------------
 私はここを読んだとき「おやっ」と声が出て、「《眉をひそめて、暫く思案に暮れる》って前にもあったな」とつぶやきました。

 そう。生徒に「暫くってどのくらいだろう。1分か」と演技してもらったところです。
 第三節、杜子春が「仙人になりたい」と言うと、
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 老人は眉をひそめたまま、暫くは黙って、何事か考えているようでした……
------------------------------
 とありました。眉をひそめて暫く考える――これはたまたまか、自然な流れか。 あるいは、作者のうっかりか、深い意図があるのか。

 授業をやるなら、ここでも生徒に「閻魔大王はしばらく何を考えたのだろう」と聞くでしょう。「思案に暮れる」とは辞書に「どうしようかと考えあぐねる。迷って考えがまとまらないさま」とあります。この答えはさほど苦労なく出ると思います。

 [閻魔大王の思案]
・これほどの責め苦を与えても声を上げないか、これは困った。
・こいつの決意はそれほどまでに固いのか。さて、どうしたものか。
・そうだ。こいつの両親は畜生道に堕ちて馬になっているはず。親を痛めつければさすがに口を利くのではないか。

 このように下書きをまとめていたとき、ひょいと「閻魔大王って仙人・鉄冠子が変化(へんげ)した姿ではないか?」とひらめきました。

 考えてみれば、第四節の峨眉山、第五節の地獄、全て仙人・鉄冠子が杜子春に見せた夢のような、幻覚幻影の世界。最後に目が覚めてまた都の西門にいるのだから、これは間違いない。途中何度か「本物かもしれない」と思った。が、やはり幻覚であった――と杜子春も我々も知る。

 このときの読みをドラマや演劇で考えるなら、仙人・鉄冠子は監督であり、神将や閻魔大王は俳優。だが、監督=俳優だってある。
 よって、峨眉山で杜子春を突き殺す神将とは鉄冠子であり、閻魔大王も彼その人である。これまでは全く別人と思っていたけれど、神将と閻魔大王の顔をよーく見れば、鉄冠子が浮かんでくる(?)。
 作者芥川龍之介はそれを意識させるべく、閻魔大王に「眉をひそめて暫く思案に暮れ」る演技をさせた(そう描いた)のかもしれません。

 このように解釈すると、以前鉄冠子が眉をひそめた理由と閻魔大王が眉をひそめた理由が重なってきます。
 杜子春が「仙人になりたい」と言ったとき、鉄冠子が眉をひそめて暫く考えた理由を再掲すると、
------------------------------
・杜子春が仙人になりたいなどと言うとは思わなかった。これは困った。
・言うかもしれないと思ってはいたが、まだ三度目だから黄金を得れば満足すると思った。まさか二度目で言われるとは。どうしよう?
・仙人になる修行は厳しい。こんなひ弱な若者にできるだろうか。
・いや、たぶん無理だ。ならば、しばらくその気分だけでも味わわせてやるか。どうせすぐ音を上げるに違いない。あれこれ悩むほどのことではない――等々。
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 この思いを峨眉山の神将、地獄の閻魔大王に置き換えることができます。
 峨眉山の試練も、地獄の責めも実はすでに仙人修行が始まっていた。鉄冠子は杜子春の「仙人になりたい」との決意がどの程度か試すつもりだった。「決して口を利くな」と言っても大概の人間は守れない。杜子春だってすぐに声を出すに違いない。鉄冠子はそう思って峨眉山の試練を始めた。
 猛虎と大蛇→自然の驚異→空を埋め尽くす神兵。それでも声を上げない杜子春。
 ここでは「なかなかやるじゃないか」と内心つぶやいたかもしれません。

 だが、わけもなく殺されるとわかって「やめてくれ!」と言わない人間はいない。
 だから、神将は杜子春に三又の戟を突き刺す――刺してみる――ことにした。
 それが刺さる寸前、杜子春はきっと「やめて!」と叫ぶだろうと予想した。
 ところが、杜子春は悲鳴さえあげない。

 そのときの神将すなわち鉄冠子の内心を想像すると……
「なんと死んでも黙り通したか。決意の固さはよくわかった。だが、こうなると仙人にするわけにはいかん。ならば、地獄に堕としてあきらめてもらおう」

 そして、鬼による地獄の責め。鉄冠子は「さすがにこれで音を上げるだろう」と思った。
 地獄の責めに耐えられる人間はいない。きっと悲鳴を上げる。「勘弁して」と哀願し、「私が悪うございました。心を入れ替えます」と言う。地獄の責めに耐える人間なぞいない。だが、杜子春は歯を食いしばって耐え続ける。

 かくして閻魔大王(=鉄冠子)は「これは参った。ここまで痛めつけても悲鳴さえ上げぬか。さて、どうしたものか」と《眉をひそめて、暫く思案に暮れ》た……。

 これは鉄冠子のくせだったかもしれません。それがひょいと閻魔大王に表れたと見ることもできます。
 ここまで来ると、演劇なら仙人と閻魔大王は別人ではない。仙人は閻魔大王として舞台に立っている。

 こうして杜子春の父母を鉄の鞭で責め立てる最後の手に出た。杜子春にその様子を見せて「お前はそれでも喋らぬか。それでいいのか」と迫る。

 このように仙人・鉄冠子の内心をたどってみると、彼が「もしお前が黙っていたら、おれは即座にお前の命を絶ってしまおうと思っていた」理由に思い至ります。

 それはやはり三度を超えたこと。峨眉山の杜子春を一度目とするなら、二度目は地獄で痛めつけられても変えようとしない杜子春。三度目は人を――杜子春の父母を痛めつけても自分の夢にこだわり続ける人間杜子春が現れている。

 以前例にあげた、弱みを握られた善良な市民でも三度強請られたら殺意を覚えるように、さすがのお人好し仙人・鉄冠子も三度目にして殺意が芽生えた(かもしれません)。

 しかも、ここにはもう一つ別の深い理由もありそうです。
 それは「このような人間を仙人にするわけにはいかない。ここで殺してしまおう」という考えです。

 自分を犠牲にする人間、人を犠牲にしても構わないと考えるような人間、自分を最も愛してくれる人(父母)でさえ犠牲にしても構わないと考える――そのような人間が仙人の能力を得たらどうなるか。鉄冠子は杜子春の未来を予想した。

 このまま黙り続けたら杜子春は仙人になるための修行に入る。そして、仙人になるかもしれない。だが、仙人になった杜子春は最も危険な存在ではないか。

 もしもこのような人間が仙人の能力を持ったなら、この男は何をやるだろう。
 以前と同じように自ら黄金を掘り当てて豪亭でまた遊び暮らすか。いや、杜子春はひと椀の水さえ恵んでくれなかった友人たちに報復するかもしれない。仙人の能力を使えば、人を殺すことなぞ造作もない。誰にも見られず実行できる。
 あるいは、その能力を使って王家に取り入ることだってできる。出世して家臣筆頭となり、やがて帝王に取って代わることだってたやすいだろう。するとどうなる。

 杜子春は人の心の痛みがわからぬ独裁者となってこの世に君臨するかもしれない。
 この男は一体何人の人間を不幸にするだろう。何人の親や子を悲しませるだろう。
 そのような人間を生かしておくわけにはいかない。今ここで殺すしかない――と鉄冠子は考えた。

 〇 人間の痛みを感じない者は 殺すしかない 殺して当然
 鉄冠子は言います。
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「もしお前が黙っていたら――」と鉄冠子は急に厳かな顔になって、じっと杜子春を見つめました。
「もしお前が黙っていたら、おれは即座にお前の命を絶ってしまおうと思っていたのだ」と。
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 ときどき小説や映画にありますね。科学者がとてつもない能力を持つ超人間を生み出した。だが、彼は人類に害を及ぼす怪物だった。科学者は生み出した者の責任として彼を消滅させようとする。仙人・鉄冠子の言葉はそう解釈できるかもしれません。

 私が思い浮かべる古典的小説はメアリー・シェリー作『フランケンシュタイン』です。つぎはぎだらけの怪物として有名ですが、彼はやがて知能・感情と言葉を得て次から次に殺人を繰り返し、生み出した科学者から憎まれる。
 怪物の孤独、伴侶を作ってくれと頼むなど、単なる怪奇小説を超えた深みのある作品です。

 鉄冠子は杜子春に仙人の力を見せたこと、仙人になれるかもしれないとの希望を抱かせたことを後悔しているかもしれません。それが弱々しくともやさしい若者を強くした。だが、そのせいで杜子春は人間にとって最も大切なことを失いかけた。

 おお!(とこれは私のつぶやき)何かを得たときには何かを失っている。
 夢を抱き固い決意に従って生きる強さを得たとき、杜子春から人の痛みを感じ取る力が失われてしまった――そう言うこともできそうです。

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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:「人の心の痛みがわからぬ独裁者」が誰を指しているか、おわかりでしょう。
 別にP大統領だけではない。今や世界の半数が独裁国家であり、独裁的リーダーがもてはやされています。

 狂短歌を本文に埋めることにしたのはこれがテロの発想だから。革命にしても、主義・宗教における原理主義にしても、もちろん独裁にも「目的のためには手段を選ばない。敵は滅ぼすべきだ。殺しても構わない」との発想があります。

 彼らの目的は平和であり、自由・平等であり、愛である。「えっ、愛はないだろ?」とつぶやきますか。
 家族を守るため、国を守るため敵と戦う――というのは《愛》ではありませんか。国家・世界統一という夢もあります。それが人を殺していい理由になっている。

 本文は仙人が杜子春を殺そうと思った理由を推理しました。
 私としては仙人が「自分が生み出そうとした怪物を自分の手で始末する」ことを認めたくない。やはり「あなたに人を殺す資格も権利もない」と言いたい。
 そこで、もう一つ別の理由を考えてみました。それを次号にて語ります。

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2024.03.25

『続狂短歌人生論』53 『杜子春』を一読法で読む 後半 その2

 四節も含めていよいよ起承転結の「転」にあたる第五節。
 五節単独で語れると思っていましたが、表現は巧みだから下手に要約したくないし、疑問とするところもちょっとだけでした。なので、第五、第六続けて読み解きたいと思います。

 前号後記の課題。杜子春は閻魔大王から「峨眉山にいた理由を言わなければ地獄の責めを味わわせるぞ」と言われたところ。ここで杜子春が「実は…」と喋っていたら、杜子春は地獄に堕ちたか天国に行けたか――この考察は本文にて。

 余談ながら、第五節(または四~五)を「転」として第六節を「結」とするのはわかりやすい分け方と言えるでしょう。
 が、杜子春が峨眉山で、また地獄で黙り通したことを「転」と見なせば、「結」は杜子春が「お母(っか)さん」と声を出した瞬間以後と見ることもできます。

 むしろ四節以後の後半はまた起承転結が始まっていると言えるし、第四、第五節自体起承転結と見ることも可能です。
 たとえば、第四節の「起」は猛虎と大蛇の出現、「承」は自然の驚異、「転」は空を埋め尽くす神兵の襲来、「結」は杜子春が神将から突き殺されたこと(お見事)。

 そして、杜子春はようやく鉄冠子の言った未来「これからは貧乏をしても、安らかに暮して行く」を心から受け入れます。

 青空文庫『杜子春』は→こちら


3月13日(水) 47号 『杜子春』を一読法で読む 前半その1
 〇 続編の掉尾を飾る具体例 それは『杜子春』 最適最高

3月15日(金) 48号 『杜子春』を一読法で読む 前半その2
 〇 過ちを繰り返すこと二度三度 愚かなれどもそれが人間?

3月18日(月) 49号 『杜子春』を一読法で読む 前半その3
 〇 痛い目にあってようやく変えられる 三度目ならばまだ救われる

3月20日(水) 50号 『杜子春』を一読法で読む 前半その4
 〇 やさしさと弱さゆえに変えられぬ 絶望の中希望はあるか

3月22日(金) 51号 『杜子春』を一読法で読む 前半その5
 〇 三度目に変わることなく 四度目を 迎えたならば命を失くす

3月25日(月) 52号 『杜子春』を一読法で読む 後半その1
 〇 かなえたい夢が我らを強くする されど命とどちらを選ぶ?

3月25日(月) 52号 『杜子春』を一読法で読む 後半その2―――――本号
 〇 夢のため耐えて唇噛みしめる 自分を 人を 犠牲にしても

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 (^_^)本日の狂短歌(^_^)

 ○ 夢のため耐えて唇噛みしめる 自分を 人を 犠牲にしても

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******「続狂短歌人生論」******

 (^_^) ゆとりある人のための20分エッセー (^_^)

 【『続狂短歌人生論』53 『杜子春』を一読法で読む 後半 その2 】


 第五節冒頭は以下。
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 杜子春の体は岩の上へ、仰向けに倒れていましたが、杜子春の魂は、静かに体から抜け出して、地獄の底へ下りて行きました。
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 前号でまとめたように、夢は生きてこそ意味がある。峨眉山で神将に殺された杜子春は三又の鉾が刺さる前に「待って!」と声を発して生き延びる道を選ぶべきだった。そう思えます。
 もっとも杜子春がそちらを選ばなかったのは明確な理由があります。
 それは自分を襲う試練はみな幻覚であり、現実ではないと思ったから。

 作品として解釈するなら、杜子春は死んで肉体は滅んだ。しかし、彼の心は依然として「仙人になるんだ」と思っている。身体はもうその夢を果たせない。だが、《心》は――魂はその夢を持ち続けている。
 なんと愚かな。死んでもまだ夢を果たせると信じているとは。しかし、それもまた人間。結局、心を、自分を変えることができない。

 先の例で言うなら、オリンピックを目指していたのに、足を切断して参加さえできなくなった。だが、心はそれを受け入れていない。これは現実ではない、夢だ、覚めてくれと思っている。だが、何度目覚めても脚はない。ならば、心が変わらねばならない。この現実を受け入れるしかない。
 そんなことはわかっている。だが、納得できない。感情が受け入れずに苦しんでいる……これもまた人間。
 どうやったら変わるか。鉄冠子は地獄において杜子春に「心を変える」最後のチャンスを与えた――そう理解することができます。

 地獄に堕ちてからも、口を利くチャンスは三回。
 1 閻魔大王の言葉と脅し。
 2 いくつもの地獄で責めにあう。
 3 馬となった両親と再会する。

 これを前置きで語ったように、起承転結とすれば、先頭に「杜子春は――」を置いて
 起 閻魔大王に厳しく詰問されても答えない。
 承 地獄の辛い責めを課されても黙っている。
 転 馬となった両親が痛めつけられても見て見ぬふりをする。
 結 母親が「私たちはどうなっても構わない。お前さえ幸せになれれば」と言うのを聞いて「お母(っか)さん」と声を出す。

 いずれも素晴らしい描写なので、そのいちいちを全て引用したいところですが、読者には原作をじっくり読んでもらうことにして、ここは以下3点について考えます。

(1) 閻魔大王の前で杜子春が「実は」と峨眉山にいた理由を喋っていたら、彼は天国と地獄どちらに行くだろうか。

 杜子春が生きているときの実績(?)は三度大金を得ながら三度も失ったこと。これは悪行ではない。残虐非道の犯罪でもない。ただ、愚かだっただけ。
 むしろ金持ちだった時杜子春は知人友人が訪ねて来て断ったことはない。貧乏になっても、彼よりもっと落ちぶれた人を泊めてあげ、乞食にはひと椀の水さえ恵んだ。

 閻魔大王は杜子春の生前の善悪を調べ上げて判決を下すのではないか。
「お前はバカな人間だったが悪人ではない。これらの善行によって天国行きとする」と。
 だが、杜子春は口を利かなかった。それは閻魔大王への反抗という許されない暴挙。だから、閻魔大王は地獄の責め苦を負わせて喋らせようとした。
 対して杜子春は『決して口を利くな』という鉄冠子の戒めの言葉を思い出し」て黙り続ける。

 冷静に考えれば、喋った方が自分のためになる。ここには仙人との誓いを後生大事に守る杜子春がいる。もはや仙人になるとの夢はつぶれているのに、それに気づかない。これこそマインドコントロールと言うゆえんでしょう。


(2) 承「地獄の責め」。転[父母の責め]はどう解釈されるのか。

 杜子春は地獄の責めにあうけれど、「我慢強く、じっと歯を食いしばったまま、一言も口を利」かない。
 次に馬となった杜子春の父母は鉄の鞭でさんざん痛めつけられ、「苦しそうに身を悶えて、眼には血の涙を浮べたまま、見てもいられない程嘶(いなな)き立て」る。
 だが、杜子春は「必死になって、鉄冠子の言葉を思い出しながら、かたく眼をつぶって」いた。つまり、杜子春は見ないふりをした。

 私ならこの二つを次のようにまとめるでしょう。

 承 夢をかなえるためには自分を犠牲にしても構わない。
 転 夢をかなえるためには人を犠牲にしても構わない。

 前半(三節)までの弱々しい杜子春と比較すれば、彼は比べようもないないほど強くなった――そう見えます。我慢強い、じっと歯を食いしばって耐える。必死になってかたく目をつぶる。だが、彼はここにおいてもこれが幻覚であり幻影だと信じているでしょう。

 峨眉山で神将に突き殺されたとき、杜子春はうっすら感じたはず。もう死んだ以上、仙人になりたいとの思い、それを実現させることは無意味になったと。
 その一方、あの後目覚めて鉄冠子から次のように言われることを期待したはず。

「よくぞ黙り通した。死んでもなお仙人になりたいというお前の固く強い意志は存分にわかった。お前は最初の試練に合格した。今後どんなに辛い修業があっても耐えることができよう。よってわしの弟子として認める」と。

 杜子春は自分に振りかかる全てのことは仙人になるための試練に過ぎず、決意の固さを試されていると思っている。よって「今起こっていることは全て幻影である。いつでもどこでも目覚めて『よくぞ一言も喋らなかった』と言ってもらえるはず(と考えている)。杜子春はそれを期待して黙っているとも言えます。

 あの弱々しい杜子春は確かに強くなった。だが、この強さ、我慢強さは「どこかおかしい」と感じる。
 なぜなら、これがもしも幻影ではなく現実なら、彼は夢のために自分を犠牲にしている。仙人になるという目的のために辛いことがあってもひたすら耐えている。

 このことを小説の中だけでなく現実社会にあてはめてみれば、実例をいくつも見出すでしょう。学校で、部活で、サークルで、職場で。

 一つだけ例を上げるなら、アイドルになるためボスが夜毎寝床にやって来て身体をまさぐっても耐えている少年。夢のために自分を犠牲にする悲惨な例でしょう。

 私はあのボスを死後であろうと裁判にかけるべきだと思います。きっと懲役刑が出されるでしょうから、アメリカのように墓を刑務所の中に設置するべきではないか。彼を閻魔大王の前に引き立てれば、閻魔は少年の夢を食い物にした人間を必ず無限地獄に突き落とすと思います。

 そして、父母が鉄の鞭を浴びる姿を見ても黙り続ける杜子春とは「自分の夢を実現するためには人が犠牲になろうと知ったことではない」といった感性でしょう。仙人になるという目的のためなら何をやっても構わないように見えます。
 閻魔大王はそれに対して「この不孝者めが。その方は父母が苦しんでも、その方さえ都合が好ければ、好いと思っているのだな」と言います。

 これもまた現実社会にあてはめてみれば、やはり実例をいくつも見出せる。学校で、部活で、サークルで、職場で。自分のため、会社のため、選挙に勝つためには法を犯しても構わないといった考え方の人や組織に見出せるでしょう。

 そして、四度目がやって来る。杜子春を変えたのは母の言葉でした。
 [引用に当たって一部改行します]
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 杜子春は必死になって、鉄冠子の言葉を思い出しながら、かたく眼をつぶっていました。するとその時彼の耳には、ほとんど声とはいえない位、かすかな声が伝わって来ました。
「心配をおしでない。私たちはどうなっても、お前さえ仕合せになれるのなら、それより結構なことはないのだからね。大王が何とおっしゃっても、言いたくないことは黙っておいで」

 それは確かに懐しい、母親の声に違いありません。杜子春は思わず、眼をあきました。
 そうして馬の一匹が、力なく地上に倒れたまま、悲しそうに彼の顔へ、じっと眼をやっているのを見ました。母親はこんな苦しみの中にも、息子の心を思いやって、鬼どもの鞭に打たれたことを、怨(うら)む気色さえも見せないのです。
 大金持になれば御世辞を言い、貧乏人になれば口も利かない世間の人たちに比べると、何という有難い志(こころざし)でしょう。何という健気な決心でしょう。
 杜子春は老人の戒めも忘れて、転(まろ)ぶようにその側へ走りよると、両手に半死の馬の頸(くび)を抱いて、はらはらと涙を落しながら、「お母(っか)さん」と一声を叫びました。
------------------------------

 自分のためには何をやっても構わない、夢のためには自分を犠牲にしても耐えられる、人がどうなろうと知ったことではない、人を犠牲にして生きる―それが人間の一面なら、「いや、それは間違っている」と考えるのも人間。杜子春はようやくそれに気がつきました。

 ここで以前提起した問題を取り上げます。

(3) 杜子春の母は「私たちはどうなっても」と言うけれど、父親は何も語っていない。どうして「私たち」と言えたのか。

 これはさほど難しくなかったのでは?
 父は杜子春を責める言葉を言っていません。たとえば、閻魔大王が言う「この不孝者めが。その方は父母が苦しんでも、その方さえ都合が好ければ、好いと思っているのだな」――この言葉を杜子春の父が言ってもいい。

 もっと進んで「どうして喋らないんだ。俺たちはこんなに苦しんでいるのに。現世でお前を育てた恩を忘れたのか」と叫んでもいい。
 だが、父は何も言わない。杜子春を責めることなく鉄の鞭に耐えている。母は「夫もまた私と同じ気持ちだ」と感じたからの言葉でしょう。

 ただ、次のようなうがった見方も可能です。父は果たして母と全く同じ気持ちだっただろうかと。
 作品創作的には母と全く同じことを父に言わせる――ようなことはしない。だが、父の内心で閻魔大王同様、杜子春を責めたい気持ちはあったかもしれません。黙っていることが半分は妻と同じ気持ち、もう半分は杜子春を責めたい気持ちの表れかもしれません。
 まーこれを書くと、せっかくの感動が薄れてしまうので、母も父も我が子のためなら自分が犠牲になっていいと感じている――と信じたいと思います。

 そして、杜子春はようやく鉄冠子の言った未来「これからは貧乏をしても、安らかに暮らして行く」を心から受け入れます。

 第六節冒頭が以下。
------------------------------
 その声に気がついて見ると、杜子春はやはり夕日を浴びて、洛陽の西の門の下に、ぼんやり佇んでいるのでした。霞んだ空、白い三日月、絶え間ない人や車の波、――すべてがまだ峨眉山へ、行かない前と同じことです。
------------------------------
 目の前には「片目眇(すがめ)の老人」がいて「微笑を含みながら」言います。
「どうだな。おれの弟子になったところが、とても仙人にはなれはすまい」と。

 だが、杜子春に悔いはない。
------------------------------
「なれません。なれませんが、しかし私はなれなかったことも、かえって嬉しい気がするのです」
 杜子春はまだ眼に涙を浮べたまま、思わず老人の手を握りました。
「いくら仙人になれたところが、私はあの地獄の森羅殿の前に、鞭を受けている父母を見ては、黙っている訳には行きません」
------------------------------
 すると仙人・鉄冠子が(私には問題と思える)言葉「もしお前が黙っていたら、おれは即座にお前の命を絶ってしまおうと思っていた」と言います。これについては次号。

 ただ、杜子春はその言葉を気にも留めないというか、殺されても仕方がないと思ったか、スルーします。
 そして、鉄冠子の「お前はもう仙人になりたいという望みも持っていまい。大金持になることは、元より愛想がつきたはずだ。ではお前はこれから後、何になったら好いと思うな」との言葉に対して次のように答えます。
------------------------------
「何になっても、人間らしい、正直な暮しをするつもりです」
 杜子春の声には今までにない晴れ晴れした調子がこもっていました。
------------------------------

 第三節末尾で「金はもういい。人間に愛想が尽きた」と言ったとき、鉄冠子は「これからは貧乏をしても、安らかに暮して行くつもりか」と問うた。
 だが、杜子春はためらう。「今の私にはできません」と言う。理屈ではその道に進むしかない。だが、感情が受け入れない。それがかつての杜子春でした。
 杜子春は峨眉山と地獄の仙人修行に失敗することで、ようやくこの未来を受け入れた――そう言えるでしょう。

 仙人・鉄冠子はそのご褒美でもあるかのように「泰山」山麓にある自分の家と畑を杜子春に与えます。
------------------------------
「今頃は丁度家のまわりに、桃の花が一面に咲いているだろう」と、さも愉快そうにつけ加えました。
------------------------------
 杜子春の晴れ晴れとした声、ピンク色の桃の花。自分を変えることの素晴らしさを謳歌しているように思えます。

 ただ、私は(9回目の?)末尾を読んで、一ついちゃもんつぶやきました。
 日本では桃の花が咲くのは4月上旬の春。洛陽も同じころ。確か今まで「季節が春」とどこにも出ていなかったよなと。
 念のため、第三節杜子春と仙人が再会して峨眉山に向かう場面を読み直しました。
 すると……
------------------------------
 竹杖はたちまち竜のように、勢いよく大空へ舞い上って、晴れ渡った春の夕空を峨眉山の方角へ飛んで行きました。
------------------------------
 ――とあるではありませんか。「しまった。春の夕空に傍線引き損ねた」てなもんです(^_^;)。

 うっかりぼーっと読んでしまったとは言え、そこには「杜子春は胆(きも)をつぶしながら、恐る恐る下を見下しました。が、下にはただ青い山々が夕明りの底に見えるばかり」とあって描かれたのは青く薄暗い景色。敢えて言うなら、先行きの暗さを象徴している(厳密に言うと、「晴れ渡った」から杜子春の「仙人になれるぞお」のわくわく感はある)。

「そうか。ここに明るく暖かい春景色は描かない。結末の桃の花が一層引き立つ」と対照の巧みさに感心したものです。

 最後の「お見事!」(^_^)。


=================
 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:「杜子春を一読法で読む」の最初に「この作品は続編にとって最適・最高」と書き ました。実は『杜子春』は昨年ある事件について書き、保留したテーマについても最適な物語でした。
 それは第15号「長野県N市、4人殺害事件」について語ったところです。
 狂短歌は以下。
 〇 リーダーが殺し合おうと言う世なら 普通の人も武器を持つ

 その後記に加害者が書いた中学校の卒業文集を掲載しました。
 その中で彼は「この世の中で最も大切なものは『命』だと思います。では二番目は何かと問われたら私は間違いなく『金』と答えるでしょう」と書いていました。

 これに対して私は「そんなことはないよ」と言って話し合わねばならない、問題はこの子とどのように話し合うか。彼の言うことを否定し、論破するだけではダメ」と書きました。後記最後に「いつか再度このテーマを取り上げたい」と記したけれど、(年末全体を再読したとき)「これを残りで取り上げるのは無理だな」と思いました。
 ところが、『杜子春』とは正にこのテーマについても最適な物語でした。
 彼の中学校時代に『杜子春』を読みながら、議論したかったものです。

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2024.03.24

高松宮記念、結果とほぞ噛み

 『続編』メルマガの作成・配信のため、本号は日曜夜に配信いたします。
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 高松宮記念、結果は――印がビミョーにずれて…馬券全滅(^_^;)

 1着―坂 井 02マッドクール……………[・] 単勝=9.6
 2着―浜 中 03ナムラクレア……………[〇]
 3着―リョン 10ビクターザウィナー……[△]
 4着―三 浦 13ウインカーネリアン……[?]
 5着―岩田康 12ロータスランド…………[?]

 一覧順位[D→A→QE→QD] 馬群[1→1→4→3]
 前日馬順[D→A→H→12] 枠順[C→B→G→D*]

 枠連=1-2=16.2 馬連=02-03=21.1 馬単=49.2
 3連複=02-03-10=100.2 3連単=587.4
 ワイド12=7.6 W13=19.0 W23=11.9

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 [本紙予想結果]
 印騎手番馬        名 馬 結果
 ◎川 田14ママコチャ     F  8
 〇浜 中03ナムラクレア    A 2
 △ルメル05トウシンマカオ   C  6
 △武 豊08ソーダズリング   E  14
 △リョン10ビクターザウィナー H 3
 ・西村淳06ム  ガ  ル   B  10
 ・坂 井02マッドクール    D 1
 ・吉田隼01ビッグシーザー   09  7
 ・松 山16ウインマーベル   G  12
 ?三 浦13ウインカーネリアン 12 4
 ?岩田康12ロータスランド   10 5

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【高松宮記念、過去9年の実近一覧結果】
    一 覧     馬 順     [1234]群
2024年 D→A→QE→QD D→A→H→12 1→1→4→3 乖離3着
2023年 QF→A→QD→D 12→A→15→H 4→1→3→1
2022年 B→QB→QD→QE H→E→16→G 1→3→3→4 乖離2着
2021年 A→D→B→QF B→A→D→17 1→1→1→4 
2020年 QE→B→F→QG F→B→D→15 4→1→2→4 乖離1・3着
2019年 G→QD→QI→A E→14→17→A 2→3→4→1
2018年 QF→G→B→C C→B→09→D 4→2→1→1 乖離1・2着
2017年 F→B→A→QH E→C→A→17 2→1→1→4
2016年 A→C→D→QJ A→B→C→18 1→1→1→4

 一覧ABのいずれかが3複軸になり得ると思ったが、結果はAの方。
 やはり第1群の逆乖離はなかなか激走しない。
 第4群の乖離馬はいい狙いだった。

 以下一覧データの結果です。
*************************
 【高松宮記念 実近一覧表】 中京 芝12 18頭 定量58キロ
                  (人気は前日馬連順位)
順=番|馬      名牝歳|予OZ{実近}[展]3F|馬|乖|3指単複 印着
[1]
A=03|ナムラクレア 牝5| 2.7{BA}[15]B|A| |ABCC 〇2
B=14|ママコチャ  牝5| 2.8{AC}[7] |F| |EEHF ◎8
C=06|ル  ガ  ル 4| 9.1{DB}[9]D|B| |BAAB ・10
D=02|マッドクール  5| 9.2{C09}[4] |D| |DFGA ・1
[2]
E=11|メイケイエール牝6|12.2{GD}[12] |11| |
F=01|ビッグシーザー 4|12.3{FE}[6] |09| |09G10H ・7
G=05|トウシンマカオ 5|12.4{EF}[8]E|C|乖|CCBE △6
H=16|ウインマーベル 5|14.6{HG}[14] |G| |G09FG ・12
[3]
QA=08|ソーダズリング牝4|15.3{10H}[13]C|E|乖|DFED △14
QB=12|ロータスランド牝7|21.8{1113}[17]A|10| |     ?5
QC=15|ディヴィーナ 牝6|22.4{0914}[11] |14| |
QD=13|ウインカーネリア7|27.4{1411}[1]逃|12| |     ?4
[4]
QE=10|ビクターザウィナ6|32.3{1710}[2]逃|H|乖|HHD09 △3
QF=18|シュバルツカイザ6|33.9{1612}[16] |18| |
QG=04|モズメイメイ 牝4|34.2{1218}[5] |15| |
QH=07|テイエムスパー牝5|34.5{1316}[3]逃|16| |
QI=17|マテンロウオリオ5|37.8{1515}[18] |17| |
QJ=09|シャンパンカラー4|48.6{1917}[10] |13| |
 注…「馬」は馬連順「3」は3複順「単複」は単複順位
---------------------------
 ○ 展開予想

※展開(3Fは前走の上がり優秀5頭)
 逃げ     先行     差し     追込
 13 10 07 02 -04 01 14 05 -06 09 15 11 -08 16 03 18 12 17
覧 △ 6 〇 ▲ 5 ◎
3F E D C B A
本 △ ・ ・ ◎ △ ・ △ ・ 〇
結4 3 1 2 5
--------------
 [枠連順位]
 枠連型=A流れF[A型、AB型] 枠順AB= 7.0
 馬連型=3巴  [   AB型] 馬連AB=10.6

 枠連=ABCD/EFG/H/ 
 枠順=3217 485 6   枠順[C→B→G→D*]
 馬順=BADF EGH 10   馬順[D→A→H→12]
 代行=C150912 161713 11
 代2= 14 18
 ―――――――――――――
 結果= 214 3 5

 [オッズ結果]

 予想に馬連3巴と枠Aの人気2頭同居について書いた。
------------------------------
 馬連はA03ナムラクレア・B06ルガル・C05トウシンマカオの3巴だが、この3複オッズ(1番人気)は前日22倍もあってとてもこの3頭で決まるとは思えない。問題は2頭残るか1頭か。はたまた3頭全て消えるか。
------------------------------
 結果、3巴3頭で残ったのは1頭A03ナムラクレアだった。
------------------------------
 さらに悩ませるのは枠連A3枠に馬順B06、C05が同居したこと。
 補強ならば枠A3枠の軸。オトリならば、A3枠は良くて3着。
------------------------------
 結果A3枠はオトリでB2枠が枠連軸となった。「AB型なら、馬券は[AB軸にCD蹴ってEFGH、ウラCD]」と予想したので、相手が枠Cでは実質本命決着と言わざるを得ず、不的中もやむをえない。

**************************

 ※ 回  顧

 やりましたねえ……タケルフジ(^_^)。
 なんだか競馬の馬名みたいなシコ名。
 新入幕の優勝は110年ぶりとか。彼十両も一場所通過なんですよね。
 競馬で言うなら、重賞・GI初出走で「優勝!」レベルの話。
 久しぶり龍虎の誕生でしょうか。
 来年か再来年には「尊大時代」の到来?(この熟語はちとまずいけど)
 ケガを押しての出場、そして優勝。おめでとうございます。

 それはさておき、高松宮記念。
 わたし02マッドクールについて次のように書きました。
------------------------------
 一覧D・馬順D牡5坂井02マッドクールは(昨秋スプリS2着ながら)ママコチャ同様3ヶ月休み明け。重賞は4戦[0112]とイマイチ。
------------------------------
 終わって振り返れば、ママコチャを◎にしたのだから、マッドクールだって
[▲]か、せめて[△]くらいにすべきでした。

 実は週中馬柱を眺めていたとき、「昨秋GIスプリSの123着馬が出ているな。この3複1点、馬連ボックス買っておくか」と思いました。
 それがママコチャ・マッドクール・ナムラクレアの3頭。
「しまった。買い損ねた」とほぞ(^^;)。

 相変わらず◎〇の打ち間違えもあるし、「そっちかよお」の連発でした。
 言い訳するなら、ママコチャはGIVがあるし、マッドクールは重賞未勝利。
 それと(書かなかったけれど)マッドクールの父は「ダークエンジェル」という聞いたことない馬。戦績不明で供用7年目で25勝、重賞0勝。これで評価爆下がりでした。

 今回展開のことは全く書きませんでしたが、指数1.9を切る馬が3頭もいて(重であっても)ハイペースが想定され、逃げ馬はたぶん消えるだろうと思いました。ところが、結果は以下。
------------------------------
 ○ 展開予想結果

※展開(3Fは前走の上がり優秀5頭)
 逃げ     先行     差し     追込
 13 10 07 02 -04 01 14 05 -06 09 15 11 -08 16 03 18 12 17
覧 △ 6 〇 ▲ 5 ◎
3F E D C B A
本 △ ・ ・ ◎ △ ・ △ ・ 〇
結4 3 1 2 5
------------------------------
 逃げの4頭から3頭掲示板だから参ります。
 そして、前走上がりB(03ナムラクレア)2着、上がりA(12ロータスランド)が5着。

 レースもこの展開予想通りの逃げとなり、ナムラクレアが4角10番手から最内を追い込む形に。よくまー2着まで追い上げたと言えるし、02マッドクールもよくまー逃げ粘ったな、というレースでした。香港の刺客ビクターザウィナーもよく3着に粘りました。

 ればたらはないけれど、03ナムラクレアを◎として「短距離だから逃げA以下4頭に流す」単純馬券なら、馬連・3複の的中がありました。
 来年はこの馬券を組みます(^_^;)。

 以上です。

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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

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2024.03.23

【 高松宮記念直前予想 】

 競馬以外のメルマガ集中配信……うんざりされているかもしれませんが(^_^;)、いよいよ24年前期芝GIの始まり。明日より4月一度の中断をはさんで毎週の開催。今年もほぞ噛みをよろしくお願いします。

 ただ、2月に終える予定だった『続編』脱稿がのびてしばらく二股が続きそうです。こちらは「短文予想」になるかもしれません。
 えっ、「と言いながら、短文になったためしがない」ですって?
 よーし。短文にするぞお――と今は決意しておきます(^_^;)。

 ところで、昨年引退した福永祐一氏。調教師となって先日から飼育馬が走り始めました。初戦は3月9日の阪神11レースOP「コーラルS」のレオノーレ。武豊騎乗単勝6.7倍の2番人気。逃げてハナ差2着。その後3頭走って2、2、8着だからまずまずではないでしょうか。

 昨年この予想で「福永騎手の後を継ぐのは誰か」と話題にしました。
 1年経ってみて結論は「群雄割拠というか(失礼ながら)どんぐりと言うか、抜きんでる(日本人)騎手が見当たらない」って感じです。

 ちなみに、2023年の騎手ランク年間100勝を超えたのは以下の7人。
 順騎 手-1着-GV 22年順位 (GVは重賞V)
 1ルメル-165-18 5位
 2川 田-151-14 1位
 3横山武-126-07 3位
 4松山弘-113-06 4位
 5岩田望-113-05 6位
 6戸崎圭-112-06 2位
 7坂井瑠-107-02 8位

 勝ち星と言い、重賞Vと言い、やはりルメール、川田騎手が抜けています。ルメールは22年109勝(重賞5勝)の5位だから不調だったんですね。
 2022年に福永騎手は年間101勝(重賞3勝)で7位でした。
 22年の上位が昨年も続いて上位であり、空位となった福永騎手の座に下位からどーんと上昇した人はいないようです。むしろルメールがどーんと奪ったと言うべきでしょう。

 我が愛しの――じゃなく「推し」の武豊騎手は22年73勝(GV3勝)の11位。昨年は74勝の10位。ただ、昨年重賞8勝は老いてなお、の印象(^.^)。これはルメール18勝、川田14勝に次ぐ3位でした。
 今年(3月17日現在)武豊騎手は23勝の9位、重賞2勝をあげています。
 今年のGIもルメール、川田、武豊は穴馬見つけたら取りあえず流しておくべきですね。

 ここで気づきました。
「こんなこと書いてるから長くなるんだ」と(^.^)。


 前置きはこの程度にして明日の高松宮記念。
 まずは過去8年の実近一覧結果から。

【高松宮記念、過去8年の実近一覧結果】
    一 覧     馬 順     [1234]群
2023年 QF→A→QD→D 12→A→15→H 4→1→3→1
2022年 B→QB→QD→QE H→E→16→G 1→3→3→4 乖離2着
2021年 A→D→B→QF B→A→D→17 1→1→1→4 
2020年 QE→B→F→QG F→B→D→15 4→1→2→4 乖離1・3着
2019年 G→QD→QI→A E→14→17→A 2→3→4→1
2018年 QF→G→B→C C→B→09→D 4→2→1→1 乖離1・2着
2017年 F→B→A→QH E→C→A→17 2→1→1→4
2016年 A→C→D→QJ A→B→C→18 1→1→1→4

 一昨年大荒れだったので、昨年は本命決着かと思いきや1、3着人気薄の本(特大)穴。昨年回顧に以下のように書いています。
------------------------------
 オッズは波乱含みを示していたが、まさか昨年に続く大荒れとは思いもしませんでした。振り返れば、一覧AかBのいずれかが1、2着した回数は7年中5回。今年も一覧トップAが2着でした。第4群の1、2着は7年中2回だけれど、4着内には7回全て入っている。ということは一覧A→第4群4頭で馬連79倍の的中だった……。結果論ながら、来年は(たぶん逆転現象が起こるだろうなあ)と思いつつ、買ってみます(^.^)。
------------------------------

 今年この一覧A→第4群以下6頭のうち下5頭はさすがに苦しそうです。
 過去第3群も結構2、3着に激走しているので、第3群の人気上位3頭と第4群1頭に流してみようかと思います。
 03ナムラクレア
 →10ビクター・08ソーダズ・15ディヴィーナ・13ウインカーネリ

 一覧とオッズから武豊08ソーダズリング、リョン10ビクターザウィナーは乖離馬です。ビクターザウィナーは香港の外国馬ですね。芝1200の13戦7勝は不気味。

************************
 【高松宮記念 実近一覧表】 中京 芝12 18頭 定量58キロ
                  (人気は前日馬連順位)
順=番|馬      名牝歳|予OZ{実近}[展]3F|馬|乖|3指単複 印着
[1]
A=03|ナムラクレア 牝5| 2.7{BA}[15]B|A| |ABCC 〇
B=14|ママコチャ  牝5| 2.8{AC}[7] |F| |EEHF ◎
C=06|ル  ガ  ル 4| 9.1{DB}[9]D|B| |BAAB ・
D=02|マッドクール  5| 9.2{C09}[4] |D| |DFGA ・
[2]
E=11|メイケイエール牝6|12.2{GD}[12] |11| |
F=01|ビッグシーザー 4|12.3{FE}[6] |09| |09G10H ・
G=05|トウシンマカオ 5|12.4{EF}[8]E|C|乖|CCBE △
H=16|ウインマーベル 5|14.6{HG}[14] |G| |G09FG ・
[3]
QA=08|ソーダズリング牝4|15.3{10H}[13]C|E|乖|DFED △
QB=12|ロータスランド牝7|21.8{1113}[17]A|10| |
QC=15|ディヴィーナ 牝6|22.4{0914}[11] |14| |
QD=13|ウインカーネリア7|27.4{1411}[1]逃|12| |
[4]
QE=10|ビクターザウィナ6|32.3{1710}[2]逃|H|乖|HHD09 △
QF=18|シュバルツカイザ6|33.9{1612}[16] |18| |
QG=04|モズメイメイ 牝4|34.2{1218}[5] |15| |
QH=07|テイエムスパー牝5|34.5{1316}[3]逃|16| |
QI=17|マテンロウオリオ5|37.8{1515}[18] |17| |
QJ=09|シャンパンカラー4|48.6{1917}[10] |13| |

 注…「馬」は馬連順「3」は3複順「単複」は単複順位
---------------------------
 ○ 展開予想

※展開(3Fは前走の上がり優秀5頭)
 逃げ     先行     差し     追込
 13 10 07 02 -04 01 14 05 -06 09 15 11 -08 16 03 18 12 17
覧 △ 6 〇 ▲ 5 ◎
3F E D C B A
本 △ ・ ・ ◎ △ ・ △ ・ 〇

--------------
 [枠連順位]
 枠連型=A流れF[A型、AB型] 枠順AB= 7.0
 馬連型=3巴  [   AB型] 馬連AB=10.6

 枠連=ABCD/EFG/H/ 
 枠順=3217 485 6
 馬順=BADF EGH 10
 代行=C150912 161713 11
 代2= 14 18
 ―――――――――――――
 結果=

[オッズ分析]
 馬連はA03ナムラクレア・B06ルガル・C05トウシンマカオの3巴だが、この3複オッズ(1番人気)は前日22倍もあってとてもこの3頭で決まるとは思えない。
 問題は2頭残るか1頭か。はたまた3頭全て消えるか。
 さらに悩ませるのは枠連A3枠に馬順B06、C05が同居したこと。
 補強ならば枠A3枠の軸。オトリならば、A3枠は良くて3着。

 普通このパターンは枠も3巴となることが多いけれど、A3枠からF8枠まで流れている。つまり、A枠が強いA型。結果枠連A-Hも20倍台でH6枠も切れない。
 A型なら枠Bは切りたい。だが、AB型なら、馬券は[AB軸にCD蹴ってEFGH、ウラCD]となる。もしもAB枠が両方消えると、EFGHの枠連が出現するかもしれない。

 結局、何が来ても不思議なく、とても当たると思えない。もちろん一周回って「何だよ。3巴ABC決着かよ」だってないとは言えない。
 というわけで馬券はケン。何か好きな馬の単勝とか枠連[A・B→G・H]を買って眺めてはいかがだろう。

*******************************

 ※ 直前予想

 オッズ分析の結論をそのまま採用すれば、本紙予想も「結論はケンです」で過去一短い直前予想ができあがります(^_^;)。

 しかし、それじゃあ面白くない。こうなるとオッズはあまり考慮せず、一覧と乖離馬を参考に馬券を組んでみたいと思います。
 上記一覧において馬順・3複2種・単勝・複勝より順位をつけた中から123着馬が出るとすれば以下の9頭が候補。
------------------------------
順=番|馬      名牝歳|予OZ{実近}[展]3F|馬|乖|3指単複 印着
[1]
A=03|ナムラクレア 牝5| 2.7{BA}[15]B|A| |ABCC 〇
B=14|ママコチャ  牝5| 2.8{AC}[7] |F| |EEHF ◎
C=06|ル  ガ  ル 4| 9.1{DB}[9]D|B| |BAAB ・
D=02|マッドクール  5| 9.2{C09}[4] |D| |DFGA ・
[2]
F=01|ビッグシーザー 4|12.3{FE}[6] |09| |09G10H ・
G=05|トウシンマカオ 5|12.4{EF}[8]E|C|乖|CCBE △
H=16|ウインマーベル 5|14.6{HG}[14] |G| |G09FG ・
[3][4]
QA=08|ソーダズリング牝4|15.3{10H}[13]C|E|乖|DFED △
QE=10|ビクターザウィナ6|32.3{1710}[2]逃|H|乖|HHD09 △
------------------------------

 単勝予測オッズはA牝5浜中03ナムラクレアと牝5川田14ママコチャが2点台で抜けている。
 だが、両馬とも5種オッズはイマイチ。特にB14ママコチャは(昨秋GIスプリS1着なのに3ヶ月休み明けが嫌われたか)逆乖離のF。ともに牝馬である点も気がかり。

 では一覧C・馬順Bの牡4西村淳06ムガルか。
 同馬は前走G3シルクロードS2番人気1着から単勝1番人気になっているけれど、GI初出走が引っかかる。重賞は4戦[1201]とまずまず。

 一覧D・馬順D牡5坂井02マッドクールは(昨秋スプリS2着ながら)ママコチャ同様3ヶ月休み明け。重賞は4戦[0112]とイマイチ。

 さらに第2群Gの馬順C(乖離馬)牡5ルメール05トウシンマカオは前走G3オーシャンS1着(2走前もG3京阪杯V)が評価されたようだが、同馬のGI実績は3戦6、8、15着。特に15着は昨年の高松宮記念(5番人気)。
ルメール(初乗り)とは言えビミョー。

 こうなると、一周回って一覧トップAB(^_^)。
 牝5浜中03ナムラクレアは16戦[5443]と善戦ウーマン。だが、逆に掲示板を外したのは1度だけ。芝12は9戦[5121]と複率89。GIは6戦[0123]だが、芝12のGIは3戦5、2、3着。
 また、牝馬の酷量56キロ(以上)は5戦して[1211]。中京は2戦[1100]。昨年G3(芝12)シルクロードV→高松宮2着がある。
 シルクロードSでは56.5キロを背負って4角8番手から上がりトップの32.9を出してのV。次走高松宮でも不良馬場の4角9番手から2着まで追い込んでいる。
 昨秋GIスプリSも(1番人気ながら)3着。頭は厳しいとしても、2着3着なら充分あり得る――と思って3複軸。

 そして一覧B牝5川田14ママコチャ。14戦[6224]はイマイチ。
 56キロは2戦[1001]だが、昨秋GIスプリSの1着(3番人気)が光る。着外が前走G2阪神Cの1番人気5着。中京は3戦[1110](全て条件戦)と経験済み。

 同馬は芝12で2戦[1100]のように、どちらかと言うと芝14~マイル中心の馬。ただ、全18頭の中で国内短距離Vは昨秋GIスプリSVのこの馬だけ。また、4走前京都OPV(芝14)の勝ちタイム1190はレコードと同タイム。4番手先行してこのタイムは秀逸。
 問題は今年初戦、3ヶ月休み明けがどうか。しかし、虎穴に入らずんばのたとえどおり、敢えて火中に栗拾い(^.^)。

 よって、この2頭の3着内は充分あり得ると見て人気薄14ママコチャを◎、03ナムラクレアを〇。残り7頭を相手として3複流し。うち乖離馬3頭を△に。

 さて、いつものウラですが、◎14ママコチャは人気薄で実質ウラ●みたいなもの。同馬を連単軸として少々買うことにしてそれ以外のウラ●はなしにします。

 本紙予想
 印騎手番馬        名 馬順
 ◎川 田14ママコチャ     F
 〇浜 中03ナムラクレア    A
 △ルメル05トウシンマカオ   C
 △武 豊08ソーダズリング   E
 △リョン10ビクターザウィナー H
 ・西村淳06ム  ガ  ル   B
 ・坂 井02マッドクール    D
 ・吉田隼01ビッグシーザー   09
 ・松山16ウインマーベル    G

 さて結果は?
 ちょっとは短い?(^_^;)

================
 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:「ほぞ噛み予想」は現在本ブログではGI全レースを公開しておりません。
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2024.03.22

『続狂短歌人生論』52 『杜子春』を一読法で読む 後半 その1

 クレームは参っておりませんが、前置きが「長すぎる」異常事態なので今号はちょっと短く(^_^;)。
 これより『杜子春』後半を読み解いていきます。一読法の読みがいかに深いか鋭いか、ご堪能ください。

 本文の前に第四節を再読してほしいなと思います。
 第四節でつぶやくであろう疑問・感想について考えてほしいからです。

 仙人・鉄冠子から「決して声を出すな」と言われた杜子春の前には、次から次に試練が現れます。
 最初は虎と大蛇に襲われ、次に天変地異の脅威。そして、身の丈【三丈】、【三又】の戟(ほこ)を持った巨大な神将が出現して「どうしてここにいるんだ。喋らないと殺すぞ」と脅されて…死ぬ。これ一、二、三ですね。

 ところが、作品には「神将が空を埋め尽くすほどの配下を呼び寄せて」杜子春に見せつける場面があります。「そうか。これが三度目か」と思えば、神将が杜子春を殺すのが四度目となって(我らには)了解できます。

 しかし、普通は神将が空を埋め尽くすほどの手下を招くところで、次のようにつぶやくでしょう。
「おいおい。杜子春一人殺すのに、兵隊そんなにいらんやろ」と。
 事実、その後神将は杜子春を串刺しのようにあっさり殺しています。

 そうなると、次の「作者なぜ?」が生まれます。
「芥川龍之介はなぜ空を埋め尽くすほどの神兵を描いたのだろうか」と。
「これってなくていいんじゃない?」とも言いたくなる。

 これはとても難解な「作者なぜ?」です。
 私はこの謎をある推理で解きました。
 読者は読まれて「そりゃ推理のし過ぎだよ」と言うかもしれません。
 しかし、根拠はあります。もちろん第四節の中に。
 この謎解き、本文を読む前に試みてください。

 青空文庫『杜子春』は→こちら

 なお、これまでは生徒との想定問答もずいぶん入れましたが、今後は問答の詳細や生徒の答えとなる部分は割愛したいと思います。


3月13日(水) 47号 『杜子春』を一読法で読む 前半その1
 〇 続編の掉尾を飾る具体例 それは『杜子春』 最適最高

3月15日(金) 48号 『杜子春』を一読法で読む 前半その2
 〇 過ちを繰り返すこと二度三度 愚かなれどもそれが人間?

3月18日(月) 49号 『杜子春』を一読法で読む 前半その3
 〇 痛い目にあってようやく変えられる 三度目ならばまだ救われる

3月20日(水) 50号 『杜子春』を一読法で読む 前半その4
 〇 やさしさと弱さゆえに変えられぬ 絶望の中希望はあるか

3月22日(金) 51号 『杜子春』を一読法で読む 前半その5
 〇 三度目に変わることなく 四度目を 迎えたならば命を失くす

3月25日(月) 52号 『杜子春』を一読法で読む 後半その1―――本号
 〇 かなえたい夢が我らを強くする されど命とどちらを選ぶ?

---------------
 (^_^)本日の狂短歌(^_^)

 ○ かなえたい夢が我らを強くする されど命とどちらを選ぶ?

===============
***** 「続狂短歌人生論」 *****

 (^_^) ゆとりある人のための20分エッセー (^_^)

 【『続狂短歌人生論』51 『杜子春』を一読法で読む 前半 その5 】


 第四節の冒頭は以下。
------------------------------
 二人を乗せた青竹は、間もなく峨眉山へ舞いおりました。
------------------------------
 杜子春は仙人と峨眉山に行きます。深い谷、断崖絶壁の一枚岩、北斗の星が「茶碗程の大きさに光って」いるところ。ものすごい高さであることが強調されています。
 そこは人跡未踏の地で「あたりはしんと静まり返って…曲りくねった一株の松が、こうこうと夜風に鳴る音だけ」が聞こえる。
 このあたり、山水画のような描写をじっくり噛みしめたいところです。

 その場で鉄冠子は「たといどんなことが起ろうとも、決して声を出すのではないぞ。もし一言でも口を利いたら、お前は到底仙人にはなれないものだと覚悟をしろ。好いか。天地が裂けても、黙っているのだぞ」と言って去ります。

 ここからは仙人になることを固く決意した杜子春が描かれます。
 試練は三度。四度目に命を失いかけます。

 最初に現れたのは「爛々と眼を光らせた虎が一匹、忽然と岩の上に躍り上って、杜子春の姿をにら」む。そして「四斗樽程の白蛇が一匹、炎のような舌を吐いて、見る見る近くへ下りて来」た。四斗樽の直径65センチ。
 だが、杜子春は恐怖を覚えながらも「平然と、眉毛も動かさずに坐って」いる。

 虎と大蛇は杜子春にとびかかった瞬間消え失せた。「杜子春はほっと一息しながら、今度はどんなことが起るかと、心待ちに待っていました」とあります。
 これは幻覚だ、現実ではないと知った。だから、「心待ちに待つ」と言えた。
 仙人が「おれがいなくなると、いろいろな魔性(ましょう)が現れて、お前をたぶらかそうとするだろう」と語っていましたからね。

 次に起こったのはすさまじい「雷鳴、稲妻、滝のような雨」――いわば自然の脅威。「その内に耳をもつんざく程、大きな雷鳴が轟いたと思うと、空に渦巻いた黒雲の中から、まっ赤な一本の火柱が、杜子春の頭へ落ちかかりました」……が、これも幻影だった。
 杜子春は思う。「鉄冠子の留守をつけこんだ、魔性の悪戯(いたずら)に違いありません」と。「杜子春は漸く安心して、額の冷汗を拭いながら、又岩の上に坐り直し」ます。

 次に現れたのが「金の鎧(よろい)を着下(きくだ)した、身の丈三丈もあろうという、厳かな神将」「神将は手に三叉の戟(ほこ)を持っていましたが、いきなりその戟の切先を杜子春の胸(むな)もとへ向けながら、眼を嗔(いか)らせて叱りつけ」ます。
 一丈は3メートルほどだから、三丈って約9メートル。これは恐怖です。
 ちなみに、東京の等身大ガンダムの身長はほぼ20メートルとか。これが意思を持って目の前に現れたら、きっと絶叫して逃げ回るでしょうね(^_^;)。

 それはさておき、神将は「その方は一体何物だ。この峨眉山という山は、天地開闢の昔から、おれが住居(すまい)をしている所だぞ。それも憚らずたった一人、ここへ足を踏み入れるとは、よもやただの人間ではあるまい。さあ命が惜しかったら、一刻も早く返答しろ」と言う。

 そして、配下の眷属たちが空を埋め尽くすほどにやって来る。これが三度目。
 結果杜子春はあっさり神将に突き刺されて死ぬ。これが四度目。

 神兵襲来の場面は次のように描かれます。
------------------------------
 驚いたことには無数の神兵が、雲の如く空に充満(みちみち)て、それが皆槍や刀をきらめかせながら、今にもここへ一なだれに攻め寄せようとしているのです。
 この景色を見た杜子春は、思わずあっと叫びそうにしましたが、すぐに又鉄冠子の言葉を思い出して、一生懸命に黙っていました。神将は彼が恐れないのを見ると、怒ったの怒らないのではありません。
「この剛情者め。どうしても返事をしなければ、約束通り命はとってやるぞ」
 神将はこう喚(わめ)くが早いか、三叉の戟(ほこ)を閃かせて、一突きに杜子春を突き殺しました。
------------------------------
 神将は「怒ったの怒らないのではありません」とあるが、「どっちだ?」と聞けば「わかりません」と答える生徒はいないでしょう。

 この部分前置きに書いた通り、かなり違和感を覚える表現です。

 まず神将側の「なぜ?」。一突きで殺せたのに、どうして配下の神兵、それも空が埋まるほどの数を呼び寄せたのか?
「おいおい。そんなに必要ないだろ」と言いたくなります。
 一読法なら余白にそう書き込みます。

 次に杜子春はあっさり殺されてしまいます。
 なぜ彼は三度目にあたる神兵を見て「あっと叫びそうに」なりながら黙ったのか。
 これは簡単でしょう。が、大きな理由が追加されたので、重視しなければならない問いです。

 これらは「作者なぜ?」に関係するつぶやきでもあってしっかり[?]マークをつけて考えたいところ。
 ここにおける「作者なぜ?」とは「神将が現れたのは試練の三度目にあたる。そのまま黙り続ける杜子春を殺せばいい。別に空を埋め尽くすほどの神兵を登場させる必要はないだろうに」との疑問です。
 神将が怒鳴って脅して「三又の戟(ほこ)」を杜子春に突き付けて「どうしても喋らないなら殺してやる」と描いて突き殺せばいい。そう思えます。

 ちなみに、なぜ普通の「槍」ではなく「三又の戟(=これも槍)」なのか。
 日本の戦国時代で「槍」と来れば先端は尖った一本。なぜ三又の戟は使われなかったのか。
 答えは「三又の戟」が重いから。ひ弱な足軽ではとても使いこなせない。相当の豪傑でなければ無理。身の丈9メートルの神将だからこそ三又の戟なのでしょう。人間が戦って到底勝てると思えません。

 まず杜子春が殺されそうになりかけても口を閉ざしたわけ。これは単純。
 もちろん答えは杜子春が仙人との誓いを守ろうとしたから。が、ここで新たな、もっと大きな理由が生まれたことも気づきます。さらりと読んではいけない部分です。

 それは《これまでの虎も大蛇も、恐ろしい天変地異もみな幻覚だった。魔性のいたずらであり現実ではなかった。ゆえに無数の神兵も神将も、神将が言った「返事をしなければ命を取るぞ」も全て幻想にすぎないと思った》からでしょう。

 だが、ここで杜子春に問わねばならない。三度と四度の違いを明瞭にした一読法読者なら次のように聞く(はず)。
「確かに今までは幻想だった。だが、四度目は本物かもしれないではないか。なぜ同じことが繰り返されると決めつけたのか」と。

 同時に《そもそも》論も語らねばなりません。
「もしも神将の言葉が本物で命をなくしたなら、仙人になりたいという夢はかなわないではないか。杜子春、あなたは命より夢の方が大切なのか」と。

 第四節の杜子春は前半同様「変わらない」姿を見せます。
 ただ、今度はやさしさでも善良ゆえでもない。ある決意に従って変わらない姿です。目的は仙人になること。この夢は杜子春を強くした。天変地異が起ころうと、野獣に襲われようとへこたれない強さ、屈しない強さを杜子春は身に着けた。それは「絶対仙人になるぞ」との決意です。

 となると、作者芥川龍之介が無数の神兵を描いたわけがわかります。
 それは杜子春の決意が半端でないことを示そうとしたと考えられます。

 みなさん方は神兵の実数、どのくらいと思いますか。テレビなどで時折空を固まって飛ぶ野鳥の大群を見たことがあると思います。あれってせいぜい数千から一万。空を埋め尽くすには数十万どころか数百万、数千万必要かもしれません。「それが皆槍や刀をきらめかせながら、今にもここへ一なだれに攻め寄せようとしている」のです(ここは「槍」ですね)。

 神将はなぜそれほどの部下を呼び寄せたのか。
 理由は杜子春の強さに恐怖を感じたから(としか思えません)。天下無敵の神将でさえ杜子春を恐れた。
 たとえば「なんだ、こいつは。この強さは何ゆえだ。もしかしたら孫悟空のようなとてつもない能力を秘めているのか。あるいは、強大な援軍がどこかに隠れて戦い始めると攻撃されるのか」と考えた。

 この推理もちろん根拠があります。神将が「よもやただの人間ではあるまい」と言うところです。「よもや」とは「まさか、万が一にも」という意味。
 神将にとっては見かけた最初から「こいつは普通の人間ではない」と決めつけているのです。

 私はここから孫悟空を思い出し、惑星の陰から巨大戦艦(型宇宙船)が登場する、あの名作SF映画を思い浮かべたわけです。
 [ちなみに孫悟空を出したのは急逝した漫画家へのリスペクトもあります。]

 だから、神将は配下を呼び寄せた。空を埋め尽くすほどの神兵たちを。
 作者芥川龍之介は杜子春の決意がそれに匹敵するほど固く強いことを描いたのです(お見事)。

 だが、杜子春は空を埋め尽くすほどの神兵を見せても怯えたように黙ったまま。どうやら援軍も現れそうにない。神将は怒った怒った。
 私なら生徒に「神将の怒りは杜子春に対してだけだろうか」と聞きます。

 彼の怒りは杜子春と言うよりむしろ「こんなやつを俺は恐れたのか。情けない」という自分への怒りだったのではないか。だから、神将はあっさりひと突きで杜子春を殺し、「からからと高く笑」うのです。

 [授業ではこの解説の後「どんな笑いか」生徒にやってもらうでしょう。どのような擬音語が出るか楽しみ。「わっはっはっ」・「あっはっはっ」・「かっかっかっ」……私「じゃあ、その笑いに照れくささか恥ずかしさをこめたら?」]

 ここまで読み取ると、直ちに未来予想に入ります。

 次の五節冒頭に「魂が地獄に堕ちた」と出て来るので、無意味に思えるけれど、「杜子春は神将に突き刺されて心臓が止まるまでの数秒から数十秒何を考えただろうか」と。
 選択肢は次の四つ。
A 三又の戟が突き刺さる前に、戟も神将も全て消えているはずと思った。
B 本当に死んでしまうのか。口を利けばよかったと後悔する。
C この後目が覚めて仙人から「よくぞ黙りとおした。お前の決意は固いことが明らかになった。これから仙人の修行に入るぞ」と言ってくれるだろうと期待する。
D その他(^.^)。

 ちなみに「地獄に堕ちてさらなる試練がやって来るかもしれない」はその他に入ります。
 現在死後の地獄・天国を信じる人はかなり少ないでしょう。でも、それが信じられた時代もあるし、現代だって「天国に行きたければ献金しろ、壺を買え」と言われて信じる人もいますね。

 以上が第四節の全体です。

 さて前半の杜子春について、読んだ人の多くは「三度大金を得たのに全て失うとは。なんて愚かな」と思った。第四節にも前半同様愚かな人間杜子春がいます。
 私なら「強くなった杜子春の愚かさはどこからわかるか」と問います。

 答えは「神将の戟(ほこ)に突き刺されて死ぬ」ところ。
 仙人になる夢は人間であってこそ、生きてこそ意味を持つ。死んでしまっては仙人になりたいとの夢は果たせない。

 そして、次の例を語るでしょう。
 これは「狂歌教育ジンセー論」57号「死に神と闘う」で触れています。おヒマなら一読を。

 あなた方は「歌手になりたい、俳優や声優になりたい、スターになりたい、アイドルになりたい。オリンピックに出てメダルを獲りたい」などの夢や目標を持つかもしれない。素晴らしいことだ。
 だが、もしも命を取るか、夢の実現をとるか二者択一を迫られたらどうだろう。命が亡くなったら、夢の実現なんぞない。だから、命を選ばねばならない。

 たとえば、ある陸上選手がいるとしよう。オリンピックに出ればメダル級の選手だ。
 だが、オリンピック直前に重大な病気が発覚、もしくは脚が壊疽(えそ)になって手術をしたり、切断しなければ、命が失われると宣告された。そりゃあ苦しい。脚を失うくらいだったら、死んだほうがましと思うかもしれない。

 そのとき手術や脚の切断をせずに死ぬことを選ぶか。オリンピックの夢は生きてこそ意味がある。死ねば夢の実現はない。もちろん脚を失えば、オリンピックそのものに出られない。だが、生きてさえいればまた別の道が開ける。パラリンピックという選択だってある。
 だから、どんなに苦しんでも人は手術と脚の切断を選ぶ。そちらを選ばなければ愚かと言わざるを得ない。

 杜子春もまた殺されることより声を発して生き延びる道を選ぶべきだった。
 もっとも杜子春がそちらを選ばなかったのは理由がある。
 それは自分を襲う試練はみな幻覚であり、現実ではないと思ったから。

 これを称して次のように言うと、読者はかなり違和感を覚えるかもしれません。
 これこそ「マインドコントロール」ではないかと。

 杜子春の未来はDに進む。 「えっ、地獄に堕ちるの?」と思ったかもしれません。

=================
 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:五節冒頭を先取る質問を。
 地獄に堕ちた杜子春に対して閻魔大王は「喋らなければ地獄の責めを味わわせるぞ」と言う。もちろん杜子春は黙り続ける。
 では、もしも杜子春がここで「実は…」と喋っていたら、杜子春は地獄に堕ちたか天国に行けたか。ちょっと考えてみてください。

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2024.03.21

『続狂短歌人生論』51 『杜子春』を一読法で読む 前半 その5

 前号後記の答えです。杜子春は仙人になれるかどうか。
 一読法では三節――前半を読み終えたら未来予想は必須です。
 必須の「必」は「必ず」、「須」は漢文の「すべからく~すべし」。すなわち、必ず「やる!」ってこと(^_^)。やらねばなりません。「この後どうなるんだろう?」と予想する。いくつ予想を言えるかで、あなたの想像力が試されます。

 以前『一読法を学べ』で書きました。たとえば、中学生の息子が勉強部屋で壁を殴って穴を開けた。次に母親に対して乱暴な言葉を吐くようになった。
 これが「起」であり「承」であると自覚して未来を予想しなければならない。

 その都度父である自分はどうすべきか(多忙だからとか、子どもの教育は妻に任せているなどと言わず)考えて実行しなければならない。「別に大したことじゃない」と楽観的未来しか予想できなければ、十中八九辛い未来がやって来る。
 現実生活でも必要な未来予想。一読法はその訓練を行っているのです。

 いくつかあげた杜子春の未来予想に対して仙人の言葉(三節)の中に答えがありました。
「そうか。いや、お前は若い者に似合わず、感心に物のわかる男だ。ではこれからは【貧乏をしても、安らかに暮らして行く】つもりか」とあります。

 後半を読まずとも、これが杜子春の未来だとわかります。数ある可能性の一つではなく、これしかない。abcを選ばないなら、《d》「フツーの生活を送ること」だからです。
------------------------------
d 杜子春は仙人になれなかったけれど、なれなくていいと感じ、「大金は得られなくとも穏やかに生きていこう」と思って貧しい暮らしを始める。
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 通読だと仙人の言葉はすーっと通り過ぎるでしょう。だが、一読法なら[?]マークをつけてつぶやきます。「どうして仙人はそのように断言できるのだろうか?」と(答えは本文にて)。

 ちなみに、C予想の「a 自殺する b 無差別殺人に走る c 詐欺師か強盗になる」が現代の若者の絶望と悲観の未来(現在?)を描いていることはもちろんお気づきでしょう。杜子春はabcを選びません。

 逆に「e 夢をかなえる」若者もいる。たとえば米大リーグで大活躍する二刀流のあの人、日本の将棋界で八冠を達成したあの人。ともに二十代。
 もちろん今夏のパリオリンピックに出場を決めたアスリート、歌手やアイドル、俳優、芸能界で華々しく活躍する若者もいる。

 仙人は杜子春に「金持ちにうんざりしたなら《d》か」と尋ねた。すると、杜子春は「《e》 夢をかなえたい」と答えたわけです。

 最終的に多くの若者は夢破れて「d 貧しくとも穏やかに暮らそう」と思って平凡な人生を歩む。
 仙人鉄冠子(作者芥川龍之介)は若者にそれを教えているように思えます。
 現代の危機は若者に《d》の生き方さえ難しいと感じさせていることかもしれません。

 もう後半に入っても良いのですが、どうしてもこの未来予想の意味するところと、前半にあったキーワード「三度」について語っておかねばなりません。

青空文庫『杜子春』は→こちら


3月13日(水) 47号 『杜子春』を一読法で読む 前半その1
 〇 続編の掉尾を飾る具体例 それは『杜子春』 最適最高

3月15日(金) 48号 『杜子春』を一読法で読む 前半その2
 〇 過ちを繰り返すこと二度三度 愚かなれどもそれが人間?

3月18日(月) 49号 『杜子春』を一読法で読む 前半その3
 〇 痛い目にあってようやく変えられる 三度目ならばまだ救われる

3月20日(水) 50号 『杜子春』を一読法で読む 前半その4
 〇 やさしさと弱さゆえに変えられぬ 絶望の中希望はあるか

3月22日(金) 51号 『杜子春』を一読法で読む 前半その5―――本号
 〇 三度目に変わることなく 四度目を 迎えたならば命を失くす

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 (^_^)本日の狂短歌(^_^)

 ○ 三度目に変わることなく 四度目を 迎えたならば命を失くす

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****** 「続狂短歌人生論」 ******

 (^_^) ゆとりある人のための20分エッセー (^_^)

 【『続狂短歌人生論』51 『杜子春』を一読法で読む 前半 その5 】

 本題の前にしばし授業風景を。
 仙人は杜子春に「金持ちにうんざりしたなら貧乏でも安らかな生活を送るか」と尋ねた。
 すると、杜子春は「仙人になる夢をかなえたい」と答えました。
 対して仙人の様子は以下のように描かれます。
------------------------------
 老人は眉をひそめたまま、暫くは黙って、何事か考えているようでしたが、やがて又にっこり笑いながら、
「いかにもおれは峨眉山に棲んでいる、鉄冠子という仙人だ。始めお前の顔を見た時、どこか物わかりが好さそうだったから、二度まで大金持にしてやったのだが、それ程仙人になりたければ、おれの弟子にとり立ててやろう」と、快く願いを容(い)れてくれました。
------------------------------

 私なら生徒に「仙人は暫く黙って一体何を考えたのだろう」と聞きます。
 仙人の「眉をひそめた」とは重い表現です。「困った」てな意味合いがあります。
 また、「暫く」も「ああいいよ」って感じの即答でなかったことを表しています。そして「にっこり笑っ」た――のはなぜか。
 この答えはここにはない。いろいろ推理してほしいところです。

 授業ではもう一つ、「暫く」ってどのくらいだろう、と考えてもらいます。
 辞書を引けば、[すぐではないが、あまり時間がかからないさま。 少しの間]とあります。
 では、10分か、5分か、2分か、1分か?
「眉をひそめて何か考えるんだから、最低1分はあるんじゃない?」との結論が出るでしょう。

 そこで授業では隣同士か前後の二人を一組として一人が杜子春、もう一人が仙人となってそれぞれ演じてもらいます。
 杜子春役に以下の言葉を言ってもらって仙人役には(私が時計を見ながら)1分間無言演技をしてもらい、最後ににっこり笑いながら上記のセリフを言う。

「それも今の私には出来ません。ですから私はあなたの弟子になって、仙術の修業をしたいと思うのです。いいえ、隠してはいけません。あなたは道徳の高い仙人でしょう。仙人でなければ、一夜の内に私を天下第一の大金持にすることは出来ない筈です。どうか私の先生になって、不思議な仙術を教えて下さい」

 部屋中にこの言葉が広がって隣まで聞こえそうなほど。
 私「おい。セリフが棒読みになっているぞ。杜子春の必死さが感じられない。もう一度!」とテイク2をやって本番(^_^)。

 カウントはしないので、一転室内には静寂が広がります。
 そして1分後(私が手を振り)、仙人役が上記を「にっこり笑いながら」言って「カット!」。
 1分間生徒の反応が見ものです。眉をひそめて四苦八苦。
 終えておそらく「長(なげ)えぇ」と叫ぶでしょう(^.^)。

 さて、ここから本論。今号の狂短歌を再掲。

 ○ 三度目に変わることなく 四度目を 迎えたならば命を失くす

 これは49号の狂短歌、

 〇 痛い目にあってようやく変えられる 三度目ならばまだ救われる

 ――と「同じこと言ってない?」とつぶやくかもしれません。
 しばし考えた後「いや。ちょっと違うな」とつぶやいた方は読みの力が増しています。
 わからないなら、二度三度狂短歌を読み比べてください(^.^)。

 そして、「49号のは三度目に変われば救われること、だが、今号のは三度で変わらないまま四度目を迎えると命を失うと書かれている。つまり、三度で変われってことだ」と読み取ってほしいものです。

 杜子春は(作品を結末まで読むと)「仙人になれなくてよかった」と感じ、「大金は得られなくとも安らかに暮らそう」と思う。
 第三節に書かれている仙人の言葉はそのまま杜子春の未来予想でした。

 その部分を引用します。今度は杜子春の様子に注意してください。
------------------------------
 老人は杜子春の言葉を聞くと、急ににやにや笑い出しました。
「そうか。いや、お前は若い者に似合わず、感心に物のわかる男だ。ではこれからは貧乏をしても、安らかに暮らして行くつもりか」
 杜子春はちょいとためらいました。が、すぐに思い切った眼を挙げると、訴えるように老人の顔を見ながら、
「それも今の私には出来ません。……
------------------------------

 老人すなわち仙人・鉄冠子は杜子春に進むべき未来を教えています。
 それは《貧乏をしても安らかに暮らす》こと。
 ただ、これは《理屈》です。仙人は理屈を語っている。論理的結論(帰結)と言ってもいいでしょう。

 人間に絶望した。「もうあの連中と一緒に生きていけない」と思えば、自死を選ぶか。
 選ばなければ、もう一度(4度目の)金持ちとなって、また同じ生き方をするか。

 それはもううんざりなら、貧乏でもいい、穏やかに安らかに暮らしていくことが選択肢となる。いや、それしかない。それが理屈の結論であり、仙人は「その未来に進むか」と指摘したことになります。

 対して杜子春はためらう。
 杜子春は仙人の言葉に対して「ちょいとためら」い、「それも今の私にはできません」と言う。なぜためらって「できない」と言うのか?

 理屈では確かにその通りかもしれない。だが、すんなり受け入れられない。
 邪魔をするのが《感情》です。

 私はしばしば「理屈と感情」について語ってきました。「理屈ではわかっている。だが、感情が認めない、受け入れない」――これは志賀直哉の有名な言葉です。

 今の杜子春が正にそれ。(書かれてはいないけれど)杜子春にとってあの楽しい生活には未練があるでしょう。しかし、もうあの連中とは付き合いたくない。かといって金を得れば自分はまた彼らに流される。彼らを拒否できない。
 では貧農の群れに入るか。おそらくその生活は苦しい。極貧の乞食生活はもっと苦しい。貧乏でもいい、心安らかに生きる生活をどうやって営むのか。その自信はない。

 だから、杜子春は仙人になろうと考えた。仙人になれば何でもできる。友人をあてにしなくてすむ。地道な生活に困ったら黄金を少し掘り当てて生活費にすればいい。それ以上の望みはない。

 かくして杜子春は「ですから私はあなたの弟子になって、仙術の修業をしたい」、「どうか私の先生になって、不思議な仙術を教えて下さい」とお願いした。

 ここで素朴な疑問として「では杜子春は仙人になって何をしたいのか?」が浮かびます。が、作品には一切書かれていません。
 この件は作品を全て読み終えたとき、また考えたいところです。

 以上、三節までのまとめでもある「杜子春の未来予想」について語りました。

 この推理から四節、五節は杜子春が仙人の言う「貧乏をしても安らかに暮らしていく」境地を受け入れること、心からそれでいいと感じることが描かれるだろう――との未来予想が成り立つのですが、さすがに三節まで読んだ時点でこの予想を出すのは至難の業でしょう。が、仙人の言葉「これからは貧乏をしても、安らかに暮らして行くつもりか」に傍線を引ければ、不可能ではないと言っておきます。

 そしてもう一つ。三節終了時点でしっかり頭に留めておくべきキーワードがあります。
 それが「三(度)」です。

 前号にて次のようにまとめました。
------------------------------
 仙人が洛陽の都を訪ねたのはこれが三度目。杜子春と会うのも三度目。杜子春に黄金のありかを教えるのも三度目。そして、たぶん四度目はない。黄金は頭、胸、腹の三カ所しか埋まっておらず、仙人は杜子春に三度しか教えるつもりはない。
 だが、杜子春は《二度目なのに》「もう金はいらない」と言った。これは仙人にとって驚きでしょう。
------------------------------

 このまとめの前に、授業では前半にある【三】を生徒に指摘してもらいます。
 生徒は次のように答えるはずです。

 [一二三節における【三】]
・杜子春は三度大金を得るが使い切って三度一文無しになる。
・仙人は都に三度やって来て杜子春に二度黄金のありかを教え、三度目も教えようとした。
・仙人が掘れと言った黄金のありかは伸びた影の「頭→胸→腹」という三カ所。

 生徒はこれで「おしまい」と言った顔を見せるので、
「いや、まだまだあるぞ。よーく読んでごらん」と探してもらいます。
 以下は出なければ、私が指摘します。

 一節より
・日は暮れるし、腹は減るし、その上もうどこへ行っても、泊めてくれる所はなさそうだし……日が暮れ、腹が減り、泊るところがない。
 私「困窮の三点セットだ」。
 生徒「そりゃまーそうだけど……」と若干不満顔。

・もう気の早い蝙蝠(こうもり)が二【三】匹ひらひら舞っていました。
 生徒「いやいや。そりゃ単なる数字でしょ」
 私「でも三があるじゃないか(^.^)」

 二節より
・とうとう【三年目】の春、又杜子春が以前の通り、一文無しになって
・ですから車に一ぱいにあった、あのおびただしい黄金も、又【三年ばかり経つ】内には、すっかりなくなってしまいました。
 これは異存なし。

 三節より
・「お前は何を考えているのだ」
 片目眇(すがめ)の老人は、【三度】杜子春の前へ来て、同じことを問いかけました。もちろん彼はその時も、洛陽の西の門の下に、ほそぼそと霞を破っている【三日月】の光を眺めながら、ぼんやり佇んでいたのです。

 私「ここには二つあるね。『三度と三日月だ』」と言うと、生徒から異論続出。
 生徒「いやいや、三日月は三度に入らないでしょう」と。
 私「じゃあここ満月にするかい? 最後の漢詩にある仙人が都を訪れた回数は五でも六でもいいじゃないか。だが、作者は『三たび岳陽に入れども人識(し)らず』と『三度』にする。
 ここだって【三】を意識させるため『三日月』にするんだ。もっとも、作者に聞いたわけじゃないけどね」
 生徒憮然……(^.^)。

 この表面的にもサブリミナル的にも繰り返される「三」の数。[意味不明なら検索を]
 これは後半を読む際、頭に留めておきたい言葉です。なぜなら後半も「三度」が出てきます。そして「四度目に」杜子春は命を失いかけます。

 〇 痛い目にあってようやく変えられる 三度目ならばまだ救われる

 〇 三度目に変わることなく 四度目を 迎えたならば命を失くす

 今号冒頭の狂短歌はすでに四節、五節を読み終えた段階を先取りしています。
 本来の一読法ならその段階でこのことをまとめるのですが、読者はもう何度も全体を読んでいるので、ここで指摘しておきます。

 一二三では杜子春は大金を三度得たけれど、四度目の前に気づいて「これではダメだ。自分を変えよう、変わりたい」と思った。「夢を実現させるために生きよう」と。これが前半です。
 つまり、前半は人に流され、愚かだ、情けないと言われかねない《弱い》若者杜子春が描かれます。

 対して後半(四・五節)は試練に耐えて仙人との約束を守る、夢に向かって突き進む《強い》若者杜子春が描かれます。

 峨眉山の絶壁における試練は三度。四度目に【三又】の戟(ほこ)で突き殺される。
 地獄に堕ちても杜子春は強い。決して言葉を発しない。試練は三度数えられる。
 そして、四度目。杜子春はとうとう言葉を発した。

 すると仙人は言う。「もしお前が黙っていたら、おれは即座にお前の命を絶ってしまおうと思っていたのだ」と。「えっ、なぜ?」と思います。
 仙人の言葉は三度を超えて四度目になった、と理解すれば納得できる(かもしれません)。

 以前人の弱みをゆすって大金を手に入れようとする輩は「三度までは許してくれる。だが、四度目に大金を得たときに命が失われる」例をあげました。

 現実世界の例をもう一つあげてみましょう。

 医師が健康診断の血液検査を見て「このままだと病気になりますよ」と暴飲暴食、肥満を改善して酒・コーヒー・たばこなどを控えようと注意する。
 これを一度目とするなら、二度目は脳梗塞・脳出血、心臓病などで倒れて救急搬送される。幸い命が助かるだけでなく後遺症などもなく生還できた。これが二度目なら、ここで自分の生活習慣を変えれば、次の発症はない(かもしれない)。
 だが、いつかしら痛みを忘れて以前と同じ生活に戻る。医師だけでなく身近の家族・友人が忠告する。だが、彼は変わらない。そして、三度目の緊急事態となって……死ねばまだいい。だが、生き残って後遺症とともに余生を送る羽目になる。そのときやっと気づく。変わるべきだったと。


=================
 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:冒頭一読法授業には「続き」があります。
 最初にジャンケンをして勝った方が仙人、負けた方が杜子春になる。
 仙人役の方が難しいので、「なんで勝った方が仙人なの?」の抗議は無視。

 演技を終えると、1分間の「暫く」がとても長いと感想が出るでしょう。
 そこで、役柄を替えてもう一度同じことをやる。生徒「ええーっ!」

 今度は仙人役に「1分間で仙人が何を考えたか、考えろ」と課題を与え、終了後答えてもらいます。一生徒「だから負けた方が先に杜子春だったのか」
「全員言ってもらうから答えられなかったら減点。言えたらプラス点」と脅します(^.^)。

 今度の仙人役はもっと真剣に「考える」表情を見せ、終了後多くの生徒が「ダメだ。1分じゃ短い。わからない」と答えるでしょう(^_^)。

 それでも、先ほどよりはるかに多く「推理」が語られるはずです。
 たとえば、
・杜子春が仙人になりたいなどと言うとは思わなかった。これは困った。
・言うかもしれないと思ってはいたが、まだ三度目だから黄金を得れば満足すると思った。まさか二度目で言うとは。どうしよう?
・仙人になる修行は厳しい。こんなひ弱な若者にできるだろうか。
・いや、たぶん無理だ。ならば、しばらくその気分だけでも味わわせてやるか。どうせすぐ音を上げるに違いない。あれこれ悩むほどのことではない――等々。

 かくして仙人は「にっこり笑いながら……快く願いを容(い)れてくれ」たわけです。

 次号より後半に入ります。

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2024.03.20

『続狂短歌人生論』50 『杜子春』を一読法で読む 前半 その4

 一読法で読む『杜子春』――相変わらず長文を「変えられない」筆者(^_^;)で恐縮ながら、解説はまだ前半(一~三)です。

 ちなみに、『杜子春』全六節は前半と後半(四節以降)に分けられます。それは「全体を通読したから」と思われるかもしれません。多くの(三読法)国語授業が通読後、前半後半に分けて精読を開始します。

 しかし、一読法は先を読みません。第一節で立ち止まり、二節で立ち止まり、三節末に来たとき、「杜子春は三度も大金を得て三度もそれを失う。なんて愚かな。だが、三度で気づいて仙人になりたいと思う。ここから話は違う方向に進む」とわかります。だから、「ここまでを前半にしよう」とまとめるわけです。

 そして後半を読み進めて、さらにまた違う展開が始まったら、そこまでを「中盤」として「第三節までは序盤としよう」と切り変えます。上中下とか序盤中盤終盤の三部構成かと思って「これから終盤が始まるな」と予想を立てるわけです。
 起承転結のように四つに分けることもあります。切れ目は丁寧に読んでいれば自ずとわかります。

 たとえば、禅智内供の『鼻』も当初は長い鼻に苦しむまでを前半、それを短くするところから後半開始。それに成功して「さて、どうなるだろう?」と思う。事態が転換するので、そこまでは「中盤」に変更して「終盤」の開始。
 そして、周囲の意外な(内供にとっての)反応と暴力事件まで発展して最後に鼻が元のように長くなる「結末」を迎える。ならば、「中盤」までは「3つに分けるべきだ」と振り返る。かくして『鼻』は以下のように起承転結の4つに分けられる、と最終結論を出すわけです。

 起=内供の鼻が長くて苦しんでいること。だが、内供はそれを誰にも打ち明けない。
 承=鼻を短くする荒療治をして成功したこと。これでもう誰も嗤うものはあるまい。
 転=周囲の意外な反応、内供はそれを敵意と見なして報復し暴力事件に発展。
 結=内供の鼻が元のように長くなったこと。これでもう誰も嗤うものはあるまい。

 これまた作者芥川龍之介の巧みな短編創作法と言えるでしょう(お見事!)。
 一読法なら、通読しなくても転換部分に来たら「それまでをまとめ、次の展開を予想する」ことで、この起承転結に気づくことができます。

 さて、今号は前半における「老人」=「仙人鉄冠子」の思いを探ります。

 [この前置きを読んだとき、「そうか。なら『杜子春』の構成はどうなんだろう」とちょっと立ち止まって考える――そんな癖をつけたいですね(^_^)。たとえば、以下。

 一二三は「前半」、四以降は後半……とした。(すでに読者は後半を読み切っているので、杜子春が仙人になろうとして失敗することを知っている。結果峨眉山で杜子春を襲う試練(四節)、次いで地獄に堕ちて「おっかさん」の言葉を発するところ(五節)まで来て第六節は「結末」が描かれている(ことに気づく)。
 ということは(?)……一二三は《起承転結》の起であり、四が承、五が転で、六が結か、と思う。
「何だか起がえらい長いなあ」と思えば、一が起で二三が承、四五が転で六が結かと修正する。

 私はどちらでも構わないと思います。なんにせよ四段階で事態が流れる。芥川龍之介はそれを描いたということです。
 ちなみに、これをつくりものの世界と思ってぼーっと現実世界を眺めるのが何も学ばない悪い癖。現実の事件・小さなトラブルも「起承転結で流れているかも」と思って未来を予想する。それが賢く「明のある」人の生き方です(^_^)。→『一読法を学べ』第23~24号参照]

 青空文庫『杜子春』は→こちら


3月13日(水) 47号 『杜子春』を一読法で読む 前半その1
 〇 続編の掉尾を飾る具体例 それは『杜子春』 最適最高

3月15日(金) 48号 『杜子春』を一読法で読む 前半その2
 〇 過ちを繰り返すこと二度三度 愚かなれどもそれが人間?

3月18日(月) 49号 『杜子春』を一読法で読む 前半その3
 〇 痛い目にあってようやく変えられる 三度目ならばまだ救われる

3月20日(水) 50号 『杜子春』を一読法で読む 前半その4―――――本号
 〇 やさしさと弱さゆえに変えられぬ 絶望の中希望はあるか


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 (^_^)本日の狂短歌(^_^)

 ○ やさしさと弱さゆえに変えられぬ 絶望の中希望はあるか

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******* 「続狂短歌人生論」 ********

 (^_^) ゆとりある人のための20分エッセー (^_^)

 【『続狂短歌人生論』50 『杜子春』を一読法で読む その4 】

 私たち《ニンゲン》は「人間」の漢字が示す通り、人の間で生きている。離れ小島や山奥で一人暮らすなら、そこが温暖な気候で住む家と充分な食糧、水と火さえあれば、一つを除いて何の悩みもないでしょう。
 が、人の間で生きる限り――小説がそれを描く限り、主人公だけ取り出せばいいとはならない。必ず周囲の人(登場人物)との間で様々なことが起きる。

 このような当然のことを敢えて書くのは小説『杜子春』の前半を読んで、杜子春のことだけ取り出してあれこれ考えたり、感想を言うことに違和感を覚えるからです。
 特に杜子春が感じたこと、語ることを「真実」として《正しいことが語られている》と受け取りやすい。他の可能性があることを考えない。

 前置きで取り上げた『鼻』の主人公禅智内供もそうでした。彼は周囲の僧俗がみんな「鼻の長い自分を嘲笑している」と思い込んで他の可能性を考えなかった。ならば、読者としては「他の可能性を考えつつ読みたい、自分だったらどうするか考えて読む」――それが一読法授業です。
(『鼻』の一読法的解釈については『一読法を学べ』実践編Ⅱ第19号~))

 『杜子春』には単なる脇役以上と言える「都の金持ちの子女」と「仙人鉄冠子」が登場します。
 杜子春が三度大金を失う愚かな人間とまとめるなら、金持ちの若者や娘だって杜子春と同じように三度たかったり冷たく対応する。それを「ひどい、友達甲斐がない」と批判することはたやすい。

 だが、杜子春が貧乏から一文無しになったとき、三度「泊めてほしい、食事を恵んでほしい、せめて一杯の水を」と頼って来たとき、相手は徐々に冷たくなる。(金持ちではない)我々だって同じ対応を取らないか。これもまた人間としてよくある姿でしょう。つまり、知人友人たちは三度助けてほしいとやって来る杜子春に「愛想をつかした」のです。

 杜子春はそのことに気づいて友人の家を巡るのは二度目、三度目でやめるべきだった。四度頼ったから誰も助けてくれない羽目になった。そうも言えます。
 だが、前号後記で書いたように、杜子春にはこれ以外の生き方ができない。

 では、なぜ作者芥川龍之介はそのような(個別の)詳しい事情を『杜子春』で書かなかったのでしょう。これに関して生徒から次のような「作者なぜ?」の疑問が提起されるかもしれません。
「確かに杜子春の知人友人たちは最初から一文無しの杜子春に冷たくしたわけではないかもしれない。その方がリアルだ。でも、芥川龍之介はなぜそのように描かなかったのだろうか」と。

 これに関して以下二つの答えが考えられます。
 一つは「このように詳しく描写すると、長くなって短編でなくなってしまう。杜子春が一人っ子かどうかとか、親が金持ちになった経緯なども書いたらどんどん長くなる。短編にする意図があれば、いろいろな表現は切り捨てる」

 もう一つは「知人友人たちの態度を薄情だと感じたのは杜子春であり、彼がどう感じたかを書けばいい」。つまり、実際のところどうだったか、どのような経緯だったかは問題ではないと。
 私なら生徒に次のような質問をします。
「たとえば、あなたのことを親とか先生がいろいろ批判したり誉めたりするとき、先にいい点を言って最後に悪いところを言う。あるいは、逆に先に悪い点を言い立てて最後に良い点を誉める。誉めるのも悪い点を言うのも同じ1だとすると、どちらがより誉められたと感じるかい?」と。
 生徒はほとんど「最初より最後に誉められた方」と答えます。

 つまり、杜子春は貧乏になって住む家もなくなったとき、暖かく迎えてくれた一度目、二度目より、冷遇された三度目、四度目の方が強く心に残っている。
 特に知人友人は数百人もいるのに、最後はたった一人さえ泊めてくれない、食事も出されず、水さえ恵んでくれない。その印象が強いので「人はみな薄情だ」と黒一色に塗りつぶす。
 今無一文になって街角にたたずむ杜子春にとって誰かから「薄情でない人がいるかもしれないよ」などと言われても肯定できない。杜子春は「いや、全ての人は薄情だ、冷たい」と言い張るだろう。作者はそれを描いたと。

 閑話休題。
 杜子春に充分対抗できる登場人物「老人=仙人鉄冠子」について表現をたどっておきます。
 仙人そのものについてはネット検索してください。ちょうど『空海マオの青春』論文編(29-30号「山岳修行」)で道教・神仙思想について詳しく語っています。おヒマなら一読を。

 『杜子春』前半の大きな疑問は「仙人はなぜ杜子春に黄金のありかを教えて助けたのか」――これに尽きるでしょう

 第一節の段階では杜子春が「今夜寝る所もないので、どうしたものかと考えている」と正直に答えるのを聞いて「可哀そう」と思ったからと書かれています。これは一般的には「乞食」であり、今なら浮浪者・ホームレスと呼ばれます。
 いくら都であっても、そのような「乞食」は何人もいるだろう。なぜ仙人は杜子春に黄金のありかを教えたのか。私ならいろいろ推理を言ってもらって次の選択肢にまとめます。

 [なぜ老人は杜子春に黄金のありかを教えたのか?]
 A 華やかな都だから乞食は一人もいない。杜子春が目立っていた。
 B 杜子春が正直な人間でかわいそうだと思った。
 C 仙人の気まぐれ(^.^)。
 D その他[       ]。

 杜子春は「さすがに眼を伏せて、思わず正直な答えをしました」とあるように、普通の人は(恥ずかしくて)困っていると正直に答えない。仙人は正直な杜子春がかわいそうだと思った――と読み取れば、Bが正しいように思えます。

 だが、実はAとC、Dも捨てがたいのです(Dは後述)。
 Aの可能性は以下。
 私は二十年ほど前友人と二人で中国西安(かつての長安)観光をしたことがあります。
 [これもおヒマなら詳細は→「西安宵の明星旅」8-9にて。西門の城壁など画像もあります]

 西安に今残っている城壁は明代のものですが、それ以前の長安も一辺数キロの城壁に囲まれた都城でした。城壁は周囲約14キロの長方形であり、壁の高さ12メートル、底の幅18メートル、頂部の幅15メートルもあって壮観でした。

 洛陽も全盛期は一辺4キロの城壁に囲まれていたようです。その城壁の中に皇帝の宮城や家臣、商人の館があり、東西の市場があった。つまり、城壁内には中流以上の人々が住んでいるとすれば、そこに物もらいの乞食はいなかったかもしれません。城壁の外に田畑を耕して暮らす貧農とさらに下層の乞食が住んでいたのではないか。
 杜子春が西門の外でたたずんでいたというのはもはや城内では暮らしていけない。今後城を出て外の貧農か乞食の群れに行くか(あるいは自殺するか)迷っていたかもしれません。ぼんやりたたずむその姿は仙人の目を引いた――と考えられます。

 C「仙人の気まぐれ」説は第三節末尾にある鉄冠子の漢詩が根拠です。
 三行目に「三たび嶽陽がくように入れども人識しらず」(三度洛陽の都に入ったけれど、人は私が仙人だと気づかない)とあります。

 ということは、仙人は初めて洛陽に来たとき、杜子春と会って黄金のありかを教えた。それから三年後、二度目に洛陽を訪れ、杜子春がまた西門でぼんやりしているのに気づいてもう一度黄金のありかを教えた。
 そして三年後三度目の洛陽訪問。(ちょっと文学的表現を拝借するなら)「なんとあの杜子春がまた西門の外にたたずんでいるではないか」と思って杜子春に声をかけた。

 よって、47号に提示した「仙人が最初に杜子春と出会ったとき、『彼は杜子春が以前金持ちの息子であることを知っていただろうか』」との疑問は「知らなかった」とわかります。二人はほんのちょっとしか言葉を交わしていないので、仙人は杜子春の生い立ちなど詳しく知る機会はありません。

 同時に仙人は黄金のありかを教えたのが杜子春であると承知していたこともわかって次の部分が納得できます。
 私は前号末尾で以下のように書きました。
------------------------------
 このように考えると、「老人=仙人」が「頭→胸」と来てもう一度杜子春に「腹」のところを掘ってみろと言うわけがわかります。(なぜ杜子春か、その疑問は置くとして)仙人にとって杜子春に黄金のありかを教えるのはまだ「三度目」なのです。つまり、まだ救ってもいいってこと(^.^)。
 対して杜子春にとっては(また黄金を得て金持ちになれば)これは四度目であり、四度目の無一文も見えている。さすがに「このままではダメだ」と感じて不思議ありません。
------------------------------

 仙人が洛陽の都を訪ねたのはこれが三度目。杜子春と会うのも三度目。杜子春に黄金のありかを教えるのも三度目。そして、たぶん四度目はない。黄金は頭、胸、腹の三カ所しか埋まっておらず、仙人は杜子春に三度しか教えるつもりはない。
 ものすごくどうでもいい余談ながら、日曜夕方の大喜利番組。3月末であの落語家さんが卒業します。彼の著名な持ちネタが「いやんバカん(^.^)」。顔や胸、腹と来て以後は歌わない。それに似ています。

 ところが、杜子春は《二度目なのに》「もう金はいらない」と言った。これは仙人にとって驚きでしょう。

 作品は仙人の様子を次のように描きます。
------------------------------
 老人は杜子春の言葉を聞くと、急ににやにや笑い出しました。
「そうか。いや、お前は若い者に似合わず、感心に物のわかる男だ。……」
------------------------------
 急に「にやにや笑」って「お前は若い者に似合わず、感心に物のわかる男だ」と言う。
 ここから普通は三度過ちを犯してやっと気づくところ、「よくぞ二度で気づいたな」と感嘆の気持ちがあることがわかります。
 ところが、杜子春にとって無一文になるのは三度目だった。仙人はそれを知らないということです。

 こうして三節末から振り返ってみると、先ほどの「なぜ老人は杜子春に黄金のありかを教えたのか?」の疑問について別の解釈が生まれます。都の人は誰も老人が仙人だと気づかないというのです。ということは仙人らしい不思議を見せた人間はただ一人杜子春しかいないことになります。
 生徒に「もしもあなたが空を自由に飛び回れる、どこに財宝が埋まっているか透視できる能力を身に付けたらどうだい?」と聞いてみれば、D「その他」が出て来るかもしれません。

 [なぜ老人は杜子春に黄金のありかを教えたのか?]
 A 華やかな都だから乞食は一人もいない。杜子春が目立っていた。
 B 杜子春が正直な人間でかわいそうだと思った。
 C 仙人の気まぐれ(^.^)。

 D その他[       ]。
 仙人は「都の人間は誰もオレが仙人だと気づかない。ならば、一人くらいオレ様が仙人だとわからせるようなことを見せてやろうか」と考え、たまたま困っていそうな杜子春に宝のありかを教えた。
 華やかな都で豪華な姿格好で行き交う人々の中で、途方に暮れたようにぼんやりたたずむ人は杜子春しかいなかった――だから助けることにしたというわけです。
 かくして私の「仙人はなぜ杜子春を助けるのか」について答えはAからD全てです。

 三節最後の問題として杜子春の仙人になりたいとの思いは実現できるか未来予想をします。
 杜子春がめでたく仙人になれるかどうか。

 生徒には「作品を読んだことがある、あらすじを知っている」としても、読まないものとして予想してもらいます。当然[三]までの杜子春の人となりは参考になります。

A 見事仙人になって自分で黄金を見つける。四度目どころかなくなればまた黄金を掘り出し、都一の大金持ちになる。もはや貧乏になることはなく豪華な邸宅で妻子を得て死ぬまで幸せに暮らした。めでたしめでたし(^.^)。これは楽観的未来。

 もう一つの予想は「仙人になれなかった」。この場合の未来はさらに二通り考えられます。

B 杜子春は同じ過ちを三度も繰り返すような人だから、仙人になる試みも失敗したのではないか。結局極貧生活を続けるしかなく、乞食となって自身と人間への失望・絶望を抱えながら、しかし悪人にはならずに老衰で死ぬ。これは悲観的未来。

C 仙人になれなかったが、以下五つの予想が可能。これが中間的予想であり[その他]でしょう。

a 杜子春は全てに絶望して山奥で首をくくって自殺する。誰も杜子春が死んだと知らず気にも留めない。

b 自分を冷遇した金持ちの子女のうち最も冷たかった数人を殺して死刑になる。都中で「あの杜子春が?」と大きな話題になる。

c 仙人になれないなら金持ちの金を奪う義賊になろうと、詐欺師や強盗の元締めとなって大金を得る。獲得した金はひそかに地面に埋め、やがて掘り起こすことなく死んでしまう。

d 杜子春は仙人になれなかったけれど、なれなくていいと感じ、「大金は得られなくとも穏やかに生きていこう」と思って貧しい暮らしを始める。

e 仙人にはなれなかったが、なにくそと奮起して自分の体験を小説に書き、小説がベストセラーとなって大金を得る。さすがに以前のようなぜいたくな暮らしはせず、落ちぶれた友達が来たら「帰れ帰れ」と追いやる。

 冒頭の狂短歌は相変わらず杜子春の思いを取り上げています。

 〇 やさしさと弱さゆえに変えられぬ 絶望の中希望はあるか

 三度も同じ過ちを犯したのは杜子春の弱さであり、やさしさゆえであり、不器用であるとも言える。
 だが、器用な生き方を誰からも学ばなかったか。親もそれを教えなかったのではないか。教える前に亡くなったのかもしれません。
 杜子春が絶望の中思いついたのが仙人になること。
 この願いが叶うかどうか、実現できるかどうか。後半で語られることになります。

=================
 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:一読法クイズです。
 授業において(a)~(e)の未来予想の中、私が「90パーセントの確率で正解は《d》だとわかる」と言うと、
 生徒は「そりゃあ先を読んでるからでしょう。自分だってあらすじ知ってるから、それが当たりだとわかりますよ」と非難ごうごう。

 私は「いや、[三]を読めば、この未来予想が正しいことは一目瞭然。
 それはどこからわかるか。探してごらん」と言って部分の二度読みを促すでしょう。
 みなさんも試みてください。
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2024.03.17

『続狂短歌人生論』49 『杜子春』を一読法で読む その3

 前号後記一読法クイズの答えです。
 杜子春が変われない人なら、彼の周囲にも変われない人、変わろうともしない人《たち》がいた。
 それは「朝夕遊びにやって来る友だち・洛陽の都に名を知られた才子や美人」たち。すなわち「お金持ちの息子や娘たち」です。彼らも三度同じことを繰り返します。

 [ここで「えっ、一人じゃないの? 一人だと思ったからわからなかった」と答えた方。
 小中のテストで設問を早とちりして間違ったり、答えを一つと思って減点されるタイプだったでしょうね(^.^)。
 別にいじわるなひっかけ問題ではありません。金持ちの子女ひとりひとりに甲さん乙さんと名前があれば、それを答えるでしょう。名前がないのだから全体を答えるしかありません。大衆の「衆」と同じです。]

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3月13日(水) 47号 『杜子春』を一読法で読む 前半その1
 〇 続編の掉尾を飾る具体例 それは『杜子春』 最適最高

3月15日(金) 48号 『杜子春』を一読法で読む 前半その2
 〇 過ちを繰り返すこと二度三度 愚かなれどもそれが人間?

3月18日(月) 49号 『杜子春』を一読法で読む 前半その3―――――本号
 〇 痛い目にあってようやく変えられる 三度目ならばまだ救われる


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 (^_^)本日の狂短歌(^_^)

 ○ 痛い目にあってようやく変えられる 三度目ならばまだ救われる

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****** 「続狂短歌人生論」 ******

 (^_^) ゆとりある人のための20分エッセー (^_^)

 【『続狂短歌人生論』49 『杜子春』を一読法で読む その3 】


 杜子春の友人たちは杜子春が大金持ちのときは蜜や砂糖にたかるアリのように集まり、やがて杜子春が貧乏になり、一文無しになれば離れて見向きもしない。彼らもまた三度同じことを繰り返した。

 生徒に「こんな人たちどう思う?」と聞けば、「友達甲斐がない、友達とは言えない、ひどいと思う」と感想が返って来るかもしれません。
 ただ、彼らに対して生徒も読者も(?)「愚かだ・ダメ人間だ」とは言わないでしょう。
 むしろ賢いのではないか。もっと言えば「ずる賢い」だろうか。「要領がいい」という言葉もある。うまく立ち回っていい目にあって自分の財産を失うことなく生き延びているとも言えます。

 私は以前(46号後記にて)「杜子春はフツーの人であり、正直で善良な人間です。みなさんと同じように」と書きました。
 確かに杜子春は愚かかもしれない。だが、悪人ではないし、悪人になろうと決意することもない。
 [この言い方、芥川龍之介のある小説を意識しています。わかりますね]

 杜子春は落ちぶれた二度目も三度目も「泊まるところがなくて困っている」と言う。それ以前を考えるなら、一文無しになったとき「強盗をやって手に入れた金で宿に泊まる」選択だってあり得る。あの「羅生門の楼閣で老婆の着物をはぎ取って闇に消えた下人」のように。
 だが、杜子春はかつての友達を頼る。バカにされただろう、叱責されたかもしれない。
 それでも、杜子春は悪事を働いて金を得ようとはしない。

 杜子春同様、彼の周囲でうまく立ち回る金持ちの子女たちも悪人ではない。友達甲斐はないし、善人と言いたくないけれど、悪人ではない。
 ということは? 周囲の人間もみなフツーの人だ。

 では、杜子春が「人間は皆薄情だ」と言って友人たちに愛想をつかす(=絶望する)ところはどう解釈されるのか。この告白はとても説得力がある。
 私なら次のように話して考えてもらいます。

 杜子春は「贅沢に飽きたのじゃありません。人間というものに愛想(あいそ)がつきた」と打ち明ける。彼はさらに詳しく説明して次のように言う。
---------------------
「人間は皆薄情です。私が大金持になった時には、世辞も追従もしますけれど、一旦貧乏になって御覧なさい。やさしい顔さえもして見せはしません。そんなことを考えると、たといもう一度大金持になったところが、何にもならないような気がするのです」
---------------------
 ここでふくらませたい、ふくらませるべき問題が「人間はみんな薄情」かどうか。

 私なら、漢字の成り立ちにおける「三つになるとたくさんの意味を持つ」を伏線として次のように語ります。

 杜子春が無一文になったときのことは詳しく書かれていないが、《三度はたくさん》を思い起こせば、以下のような流れが想像できる。

 杜子春が一文無しとなり、住む家もなくなったとき、知人友人宅を訪ねて「今夜泊まらせてくれないか」と申し出る。もちろん断った金持ちはいるだろう。が、みんながみんな断りはしなかったのではないか。
 何しろ杜子春の知人友人は「洛陽の都に名を知られた才子や美人が多い中で、杜子春の家へ来ないものは、一人もない」とあるのだから数百人はいるだろう。

 おそらく一度目は「いいよいいよ」と快く迎えてくれた。食事もごちそうをふるまってくれた。数日から一週間泊めてくれたかもしれない。
 だが、「そろそろ帰って」と言われれば、出て行かざるを得ない。すると、別の知人友人を頼る。それが一回りして二巡目になった。いやな顔をされつつ「今夜一晩だけなら」と言われる。ありがたいと一晩泊めてもらった。粗末な(下人用の)夕食も準備された。

 それが二回り目なら、三回り目に「泊めてほしい」と頼んだ時、彼らはいろいろ言い訳をして「今夜は無理だ」と断る。でも、まだ泊めてくれるところはあった。
 ところが、四回り目になると、もはや誰も泊めてくれない。食事もめぐんでくれない。
 杜子春が「ではせめて椀に一杯の水を」とお願いすれば、「あんたにあげる水などない。帰れ帰れ」と追いやられる。あるいは、門を固く閉じて誰も出てこない……。

 これは別に根拠のない空想ではありません。作品に「一文無しになって見ると、広い洛陽の都の中にも、彼に宿を貸そうという家は、一軒もなくなってしまいました」とある。つまり、住む家がなくなった当初、杜子春を泊めてくれる人がいたことが隠されている。

 このように三度同じことを続けたら、人はそれが今後永遠に続く(と考える)。だから、友人たちは杜子春に冷たくなった。二度と来てほしくないから。
 これは稼ぐことをせず、お金を使い続けた杜子春の自業自得とも言える。
 だが、杜子春の気持ちもわかる。「家やお金があるとき、私は友達がくれば泊めたし、食事もふるまった。冷たくしたことはなかったのに」と思っただろう。

 ここで生徒から「なぜ杜子春は働かないのだろう?」との質問が出るかもしれません。
 いいつぶやきですね。みなさんはなんと答えますか。[答えは後記に]

 私は次の例も話します。
 別に漢字のたとえだけでなく、日本の刑事ものドラマだって人の弱みを握って《金をせびる輩》がよく登場するじゃないか。一回限りだと言いつつ、彼は「もう一度頼むよ。これっきりだ」と言って二度目も金をせしめる。
 だが、またやってくる。脅された方が「これっきりだと言ったじゃないか」と怒れば、「いいのかい。ばらせば大変なことになるぜ」と脅してまた金を手にする。
 そのとき脅迫された善良なる市民に殺意が芽生える。「このままだと一生たかられる」と思って。

 私は「だから、人の弱みにつけこんで金を手に入れようと思うなら、ゆすりは二度か三度でやめなければならない。四度目に金を得たときには同時に命を失っている可能性が高い」と結びます(^.^)。
 何かを得ると何かを失う。これは(ゆすりで)大金を得ると命を失う例でしょうか。

 あるいは、会社の人間関係で居酒屋とか遊びを誘って声をかける。「今度どうだい?」と。一度目に「用事があるから」と断わられ、二度目また声をかけて断られ、三度目も断られたら、もう二度と声をかけないだろう。それに似ているとも話をします。
 人の弱みにつけこむゆすりだって三度で終わりにしていれば、相手から殺されることはないでしょう。

 冒頭に掲げた狂短歌は以下、

 〇 痛い目にあってようやく変えられる 三度目ならばまだ救われる

 ――この末尾には次の言葉が続きます。
 「四度同じ過ちを犯したら、もう救われない」と。

 このように考えると、「老人=仙人」が「頭→胸」と来てもう一度杜子春に「腹」のところを掘ってみろと言うわけがわかります。(なぜ杜子春か、その疑問は置くとして)仙人にとって杜子春に黄金のありかを教えるのはまだ「三度目」なのです。つまり、まだ救ってもいいってこと(^.^)。

 対して杜子春にとっては(また黄金を得て金持ちになれば)これは四度目であり、四度目の無一文も見えている。さすがに「このままではダメだ」と感じて不思議ありません。


=================
 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:さて、杜子春はなぜ働かないのか。それは彼が金持ちの子として生まれたから。
 杜子春は働いて金を得るとはどういうことかわからない。どうやって働き口を探すのか、探す能力も職人になる技術も持っていない。商売だって(おそらく)これから学ぼうかと思う矢先に両親が亡くなったのかもしれない。番頭、使用人はみな出て行った(?)。
 幼いころから食事はいつも出てきた。欲しいものは親が何でも買ってくれた――か、(厳しい親なら)「贅沢は厳禁」と言われ、ちょっとしか買ってくれなかった。

 本稿との関連で語れば、前者なら親の愛は空気になってありがたみを感じない。後者なら「うちは金持ちなのに冷たい親だ」と思って親の愛を疑う。
 そして両親が亡くなり、自由に使える遺産が手に入った。杜子春にできることはそのお金を使うことだけ。二度ならず三度も大金を得たけれど、彼にはやはり使うことしかできなかったと解釈できる。作者芥川龍之介はそれをやや極端に描いた――と言えるのではないでしょうか。

 もう一つ。前号にて「杜子春同様三度変われない人は誰か」と問題にしました。
 そのとき以下の質問も可能でした。「杜子春は知人友人に愛想をつかした」とあるが、作品にはむしろ「杜子春に愛想をつかした」人がいる。それは誰か。
 さすがにおわかりでしょう。あの「人たち」です。

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2024.03.16

『続狂短歌人生論』48 『杜子春』を一読法で読む その2

 前号後記のつぶやき。老人が仙人とは限らない理由について。
 根拠は黄金のありかを杜子春に教えるとき、夕日に伸びた影の「頭→胸→腹」とあるところ。
 老人は「黄金がその三カ所に埋まっている」ことを知っているだけではないか。もしかしたらかつて王家とか大臣、豪商と縁があった人で、たとえば戦乱や天変地異で当主がそこに黄金を埋めたことを知っている。その後彼だけが生き残って秘密を知る人間は他に誰もいない。だから、それを杜子春に教えることができたと。

 もちろん作品は「いかにもおれは峨眉山に棲んでいる、鉄冠子という仙人だ」と告白される。そうなると、何でもできる仙人なら彼が黄金を作り出す技術を持っているかのように思えます(西洋ではかつて「錬金術師」と呼ばれる人たちがいて懸命に鉄を金塊に変えようとしました。これがその後化学に発展したと言われる)。

 が、掘った場所が違うのだから仙人は錬金術師ではない。千里眼かレントゲンのような透過術を身に着けたと言うべきでしょう。つまり、彼は地面のどこに金銀財宝が埋まっているか透視できる。それを杜子春に教えたわけです。

 一読法なら、老人はなぜ仙人だと打ち明けたか。なぜ弟子にしてもいいと思ったか。当然[?]マークをつけるところです。

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3月13日(水) 47号 『杜子春』を一読法で読む 前半その1
 〇 続編の掉尾を飾る具体例 それは『杜子春』 最適最高

3月15日(金) 48号 『杜子春』を一読法で読む 前半その2―――――本号
 〇 過ちを繰り返すこと二度三度 愚かなれどもそれが人間?

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 (^_^)本日の狂短歌(^_^)

 ○ 過ちを繰り返すこと二度三度 愚かなれどもそれが人間?

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****** 「続狂短歌人生論」 ******

 (^_^) ゆとりある人のための20分エッセー (^_^)

 【『続狂短歌人生論』48 『杜子春』を一読法で読む その2 】


 再度『杜子春』前半からわかった杜子春の人なりをまとめておきます。

・杜子春はうそつきではない。正直な人だ。大金を得たことを隠さなかった。
・杜子春は知人友人を大切にしている。訪れる人を拒んでいないし、共に酒盛りをしている。
・杜子春はやさしい。落ちぶれた乞食のような人に対しても食事や水を恵んだと思われる。
・杜子春は愚かな人だ。せっかくの大金を三度も失っている。同じ過ちを繰り返している。

[ここで一読法読者なら「おいおい」と立ち止まらねばなりません。前号杜子春の人となりをまとめたところで、「杜子春は愚か」はなかったし、あんたは以前「杜子春は愚かな人でしょうか。いや違う」と書いていたじゃないかと。
 私が「気づきましたか?」と聞けば、「それくらい気づくよ」と答えるでしょうね(^.^)。]

 茶々はそれくらいにして本論開始。
 前号の趣意は作品を読み終えてすぐ「杜子春は愚かな人だ。ダメ人間だ」とただ一つにまとめてしまう。それを問題視しました。
 だから、丁寧に読めば、杜子春は正直であり善人だ。やさしい人と読み取れる部分があることを指摘したわけです。
 しかし、さすがに「杜子春は愚か」を入れないわけにはいきません(^.^)。
 せっかく大金を得たのに、三度も同じことをやって失うなんて。

 でも、冒頭の狂短歌で詠んだように「ではダメ人間か」と問うなら、「それが人間だ」と言わなければならない。私たちは愚かだと思っていても、同じ過ちを二度三度繰り返してしまう。人間とはそのような生き物ではないでしょうか。

 たとえば、懲役刑となるような罪を犯して刑務所に入る。刑期を終えて出所してもまた同じ犯罪で捕まる。特に軽微な犯罪の再犯率は5割近いと言われます。
 有名人による麻薬とか覚醒剤なども初めて逮捕され、仮釈放となって警察を出るとき深々と謝罪する。その後テレビなどで復帰することもある。だが、何年か経って同じ人が「また逮捕された」と報道される。よく聞く話です。

 では、彼らはどうしようもないダメ人間だろうか。私なら授業で生徒に問いかけます。
「あなた方は同じ過ちを二度、三度繰り返したことはないかい?」と。

 たとえば、親から「悪い癖だから改めなさい」と言われたことはないか。
 先生から生活態度を注意されたら、二度と同じことで注意されないか。
 私なら遅刻の多い、髪の毛を赤く染めているBさんに聞くでしょう。
「君は遅刻が多いと注意されたら二度と遅刻しないかい?」と。
 彼女は正直に(たぶん顔赤らめて)「いえ…」と答えるでしょう。

 私は彼女と親しいCさんに尋ねます。
「では君に聞きたい。二度三度と遅刻を繰り返すBさんはダメ人間かい?」
 するとCさんは憤慨して「そんなことありません。確かに遅刻は多いけどいい人です」と答えます。
「Bさんはバイトをしているね。君はバイトで毎回のように遅刻するかい?」と聞けば、
 彼女は「いえ。しません」と答えます。
「そうだろうな。だってバイトで二度も三度も遅刻したり、黙って休まれたら『明日から来なくていい』と言われるだろう。学校には遅刻するけど、バイトでは遅刻しないんだから君はダメ人間ではない。敢えて言えば、学校には甘えているってところかな?」
 (余談ながら、学校の先生が本稿を読んでいるなら、私はBさん、Cさんとの間に信頼関係を構築した後だから、こうした問答ができるとご理解ください)

 このような例を出しつつ、二度三度同じ過ちを繰り返すのはよくあることであり、それもまた人間というものだとまとめます。

 そして『杜子春』に戻ります。
 杜子春が「三度大金を得て三度失うという過ちを繰り返した理由」についてみんなで考えます。
 ここは結論のみ書きます。

・杜子春は断ることができない。人に対して冷たい対応をとれず、流されてしまう。
 以前も抜き出したように「訪れる知人友人が貧乏になったら付き合いをやめる、一晩泊めてくれと頼まれても断る、「せめてお椀一杯の水」さえ恵まない――そういう人はお金を失わない。つまり、杜子春の「やさしさ」が大金を三度も失う原因になっていると言える。

 もちろんこれだけではない。最も大きな理由は
・このぜいたくな生活が「楽しい」から。「気持ちいい」から。
 知人友人と一緒に酒盛りをするのは楽しい。金銀財宝の山に囲まれてちやほやされるのは気持ちがいい。だから、杜子春は一度始めたこのぜいたくを途中で変えることができない。

 こうして悟ったことは?
 仙人が三度目も現れて「ではおれが好いことを教えてやろう」と、再度黄金のありかを教えようとしたとき……、
------------------------------
 杜子春は急に手を挙げて、その言葉を遮(さえぎ)りました。
「いや、お金はもういらないのです」
「金はもういらない? ははあ、では贅沢をするにはとうとう飽きてしまったと見えるな」
 老人はいぶかしそうな眼つきをしながら、じっと杜子春の顔を見つめました。
「何、贅沢に飽きたのじゃありません。人間というものに愛想(あいそ)がつきたのです」
------------------------------

 愛想が尽きた――すなわち人間というものに絶望した理由を、杜子春は以下のように語ります。
------------------------------
「人間は皆薄情です。私が大金持になった時には、世辞も追従もしますけれど、一旦貧乏になって御覧なさい。やさしい顔さえもして見せはしません。そんなことを考えると、たといもう一度大金持になったところが、何にもならないような気がするのです」
------------------------------
 そして、杜子春は「仙人になりたい」と言います。

 ここで尋ねたいのは当然「なぜ仙人になりたいのか」という疑問ですが、小説上の答えとしては「人間は皆薄情だ、人間というものに愛想が尽きたから」となります。

 しかし、(書かれていないけれど)、次のような理由も考えられます。
・仙人は大金をくれるというけれど、また貧乏になって一文無しになったら現れてくれると限らない。仙人になれば、大金を自分で生み出せるはず。そうなれば死ぬまで大金を生み出せる。こりゃあ仙人になった方がいい……と。

 もう一つは「人間に愛想が尽きた」と言う「この《人間》の中に杜子春自身は入っているだろうか」と問題にします。選択肢は次の二つ。

A 杜子春が大金持ちになったら、知人友人はお世辞・追従をするけれど、一旦貧乏になったらやさしい顔を見せない。杜子春は一椀の水さえ恵んでくれない彼らに失望した。だが、「自分はそんなことはない」と思うなら――愛想が尽きた人間の中に杜子春は入っていない。

B 大金を三度失わなければ愚かさに気づかない自分。三度同じ過ちを繰り返しても「自分は変われない」ことがわかった。もう一度大金を得ても、自分はまた同じことを繰り返すだろうと予想できる。このような自分に失望して絶望した――なら、愛想が尽きた人間の中に杜子春自身も入っている。

 私は後者の方が強いかなと思います。それは人間でないもの、人間を超えた存在である仙人になりたいと思うからです。

 ここで次のような意見が出てきたら賞賛したいし、出なければ「C その他」として「何かもう一つないかな?」と考えてもらいます。

C その他
 仙人になりたい理由として友人たちを「見返してやる」があるかもしれない。
 彼が過去二回「黄金を掘り当てた」と語っていたなら、友人たちは「すごい、すごい」と称賛しただろう。そして、たかるだけたかって金が尽きれば見捨てられた。
 もしもこれで三度目となる「黄金を掘り当てた」と言ったとしても、また同じことが繰り返されるだけ。自分はもっとすごい力を身につけたと彼らに見せつけてやりたい。それが「仙人となって彼らの目の前で空を飛び回ること」と考えたかもしれない。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:一読法クイズです。
 財産を三度も失う、変われない杜子春を「愚かだ、ダメ人間だ」と言うなら、前半には杜子春同様変われない人がいます。それは誰ですか? そちらは愚かでダメ人間ではないのでしょうか。
 すぐに答えられないようなら、一、二、三節を再読してください。

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2024.03.10

『続狂短歌人生論』47 『杜子春』を一読法で読む その1

 さすがに前号を再読したり、『杜子春』を三度読めば、本稿と『杜子春』の共通点がわかったと思います。
 狂短歌「気づくこと あの親だけど愛された あの人だけは愛してくれた」はヒントだったし、前号末尾には以下のように「答え」さえ書いてありました。

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 私自身の過去を語れば、「愛されていないと感じたけれど、あの人だけは愛してくれたとわかる」具体例となる。ところが、それは長いので『続編』に採用できない。
 昨年12月には「もう具体例はないまま『続編』を終えよう」と決めた。自分以外のいい例が思いつけなかったからです。
 が、1月に発見しました。短い具体例、それが『杜子春』です。
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 すなわち、小説『杜子春』は(人間というものに愛想が尽きた=人間に絶望した)一人の若者が「母親だけは愛してくれた」とわかる物語なのです。

「本稿にとって最適な具体例が見つかった」とつぶやくもむべなるかな、でしょ?
 がしかし、それだけではありません。
 1月末に『杜子春』を読んだとき、「この小説は『続編』にとって最適であるだけでなく、最高の作品だ!」と叫んだものです。

 本稿『続狂短歌人生論』後半の大きなテーマ――変われない、変えられない人たち。
 自分が変わることの難しさ、身近の人を変えることの困難について語ってきました。
 日本的カーストを生み出している上下意識。これは日本語に基づいているから、変えるのはとてつもなく難しい。一朝一夕には到底変わらない。

 これらを語る際できるだけ「具体的に」と心がけたけれど、所詮論文的な表現に終始しています。
 論文が語るのは《理屈》です。最後に結論として「戦争は良くない。平和が大切」とか「いじめはやめよう」と主張する。これらは抽象語であり、ほとんど反論できない正しい理屈です。でも、戦争もいじめもなくなりません。

 残念ながら短い結論とか抽象的な理屈によって人を動かすことはできない。感情が認めて「ほんとうにそうだ」と心から納得する必要がある。そう感じさせるのが具体的な話です。小中高の校長先生は朝礼で理屈ではなく具体的な話題を語るべきです。

 本稿は論文ではなくエッセーだけれど、かなり論文的――抽象的に語られている。
 もっと具体的な話がほしい。それこそ人の感情に訴える力を持つから。
 後半のテーマである「変わること」について良い具体例はないかと探していた。それがようやく見つかったのです。

 すなわち、小説『杜子春』は《人が変われない》物語だった。それだけでなく、変われない理由と変わるきっかけさえ書かれていました。

 これはもう触れないわけにはいかない。読者にもぜひ読んでもらって……おそらく浅い読みしかできないだろう(^.^)から、一読法による読みを詳しく語らねばならない。そう思いました。

 最終章の前に突然もう一章入れるなんぞ、「構想不足の下手なエッセー、赤面ものの情けなさ」と思います。そう批判されても挿入しないわけにはいかない。
 私にとって『杜子春』はそれほどの衝撃作だったのです(^_^)。

 なお、短く終える予定でしたが、一読法で解釈し始めると、原文も掲載するので、どうしても長くなります。特に前半(三節まで)を丹念に読んでいつもの長文となりました。
 ある部分で切って「一読法的クイズ」も取り入れたいので、今号より数日おきに配信することにします。
 また、原作も部分の読み直しをしたり、読みつつ考えることを勧めます。
 並置するため毎号「青空文庫」の原作とリンクしておきます(マウスを右クリックして小窓の「新しいタブをクリック」ボタンを押すと並置できます)。

『杜子春』


3月13日(水) 47号 『杜子春』を一読法で読む 前半その1―――――本号
 〇 続編の掉尾を飾る具体例 それは『杜子春』 最適最高

 注…「掉尾」は「とうび・ちょうび」、意味不明の方は検索を。

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 (^_^)本日の狂短歌(^_^)

 ○ 続編の掉尾を飾る具体例 それは『杜子春』 最適最高

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***** 「続狂短歌人生論」 *****

 (^_^) ゆとりある人のための20分エッセー (^_^)

 【『続狂短歌人生論』47 『杜子春』を一読法で読む その1 】


 それでは『杜子春』前号5つの問いに対して一読法はどのように考え、読みを深めたか、流れを書きたいと思います。
 『杜子春』は全六節から成り立つ短編小説です。本来なら第一節から順番に語るところですが、前号にて全体的な疑問・つぶやきを書いてしまったので、まずその点をピックアップして解釈しておきます。
 順番は杜子春の問題である(1)、(4)、(3)を中心に、仙人の側となる(5)(2)はその都度触れます。

 なお、私は『杜子春』を授業でやったことはないので、生徒とのやりとりは一部を除いて想定問答であるとご理解ください。また、重要部を除いて細かい語句の意味などは省略します。不明の場合は直ちにネット検索してください。
 もう一つ、『杜子春』は現代仮名遣いの方も現在ならひらがなとなる部分が漢字になっています。それはひらがなに転換して引用します。句点の多さが気になるものの、さすがにそれは原文のままとします。

 まず主人公「杜子春」について素朴な確認から。

(1) 杜子春は仙人から二度宝のありかを教えてもらって大金持ちになり、二度とも使い果たして一文無しになる。三度目に「もうお金はいりません。仙人になりたい」と申し出ます。
 しかし、杜子春が金持ちから一文無しになったのは二度ではなく三度です。それに気づきましたか。それはどこからわかりますか。気づかなかった人は一読法で読んでいません。

 これは冒頭をしっかり読んだか、問う質問です。
 以下『杜子春』冒頭。
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 ある春の日暮です。
 唐の都洛陽の西の門の下に、ぼんやり空を仰いでいる、一人の若者がありました。
 若者は名を杜子春といって、元は金持ちの息子でしたが、今は財産を費(つか)ひ尽くして、その日の暮しにも困る位、憐れな身分になっているのです。
------------------------------
 杜子春は元「金持ちの息子」だった。そこから「財産を費ひ尽くして」極貧生活に落ちてしまった。

 このとき「門の壁に身をもたせて、ぼんやり空ばかり眺め」ながら考えたことが以下。
------------------------------
「日は暮れるし、腹は減るし、その上もうどこへ行っても、泊めてくれる所はなさそうだし――こんな思いをして生きている位なら、いっそ川へでも身を投げて、死んでしまった方がましかも知れない」
 杜子春はひとりさっきから、こんな取りとめもないことを思いめぐらしていたのです。
------------------------------
 親の遺産を使い尽くしたこと、昨日までは誰かが泊めてくれたこと、だが、今夜泊めてくれる人はなく、何も食べていないので腹も減ってきたことがわかります。
 こうなると「死んでしまった方がましかも知れない」と「ぼんやり」考えている。

 ここの「ぼんやり」はしっかり傍線を引きたいところです。「ぼんやり」は二度出ています。二行目の「ぼんやり空を仰いでいる、一人の若者」と「杜子春は相変わらず、門の壁に身をもたせて、ぼんやり空ばかり眺めていました」のところ。

 この言葉から杜子春はまだ本気で死のうと決意したわけではないことがわかります。「死んでしまった方がまし」も生き続けることと死ぬことを天びんにかけている。天びんは自死に傾いているけれど、そちらに振れ切っているわけではない。「かも知れない」も可能性であってまだ死のうと決めたわけではないことを表しています。

 こうした思いをまとめる言葉が「取りとめもない」です。この言葉はそれこそぼんやり知っているでしょう。しかし、私なら辞書やネットで意味を確認します。
 すると「取りとめもない」は「まとまりや目的・結論などがなく、バラバラとしたさま」とあります。つまり、どこかで誰かが泊めてくれれば、食事がもらえれば、まだ死ななくて済む。自死の気持ちは数ある思いの中の一つに過ぎないこともわかります。

 一読法では冒頭数行から十数行を念入りに読みます。ここだけは一度ならず二度三度と読む。短編小説――特に芥川龍之介の作品――は冒頭に豊富な情報が含まれています。
 華やかな都の様子や夕方になっても行き交う多くの人々。対照的に杜子春の「ひとり」ぼっちが浮き彫りになる。人は誰も杜子春のことを気にも留めない。
 この「ひとり」も冒頭に「一人の若者」、そして「ひとりさっきから」と繰り返して杜子春の孤立・孤独を強調しています(お見事!)。

 これだけ豊かな内容を持っているのに、ここをさーっと読んでしまう。
 余談ながら、私は文学作品とはフランス料理みたいなものと思っています。あれってどう見ても少ない(^.^)。でも、時間をかけてじっくり味わうと、一時間後にはお腹いっぱいになって「おいしかった」と思う。

 対してさーっと読む通読とは食事を味わうことなくがつがつ食らうようなもの。結果頭には何も(?)残ってなく、読後「杜子春は二度金持ちから一文無しになった」と語る……。
 これでは理解度40しかないと言われても仕方がないでしょう。通読の弊害噴出です。

 ただ、『一読法を学べ』で何度も書いたように、私は読者を責めているわけではありません。
 責めているのは「まず通読」の三読法を小中高の授業で教え続けた日本の国語教育です。何の反省も検証もなく、変えようともしない文部官僚・有識者・国会議員……読者諸氏はその犠牲者です(ぷりぷり(^_^;)。

 それはさておき、第三節まで読めばその後仙人が黄金のありかを教えて二度金持ちになり、また一文無しになる。つまり、杜子春は計三度金持ちから極貧に落ちたことがわかります。

 後に仙人の側からこの物語を考え直すなら、仙人が最初に杜子春と出会ったとき、「彼は杜子春が以前金持ちの息子であることを知っていただろうか」と問うこともできます。

 ここで私なら中国発祥の漢字について「3つ集まるとたくさんの意味になる」ことを話しておきます。
「漢字で一本の木は《木》、2本で《林》、3本で《森》。では木が4本の漢字は? ないよね。つまり、三本の木が集まった森は数えきれないほどたくさんの木々ということだ。
 同じような漢字に《品》とか大衆の《衆》がある。《衆》ってお日様の下に人が3人いる様子を表している。1、2、と数えて3に来たら『たくさん』とイコールなんだ」と。ちなみに「姦(かん)」もありますね。「姦しい」と読みます。[読めなければ検索を]

 また、冒頭部において(先を読むことなく)確認したり、ふくらませておきたいのは「杜子春がたぶん一人っ子であったこと」、「どのような親だったか・何か商売をしていたのか・先祖伝来の金持ちだったか・一代で築き上げたか」、「なぜ杜子春は親から譲り受けた財産を使い切って無一文になったのだろう・両親は杜子春をどのように育てたのだろう」との疑問。先は読まないものとして可能性を考えます。
 生徒からいろいろ(予想される)意見を引き出したいところです。

 ただ、読み進めれば、無一文になったわけはわかるけれど、他に関しては言及がないのでわからないままです。このことを作品全体として解釈するなら、杜子春は具体的な一人の人間というより、《金持ちの息子が三度無一文になった》という、その点だけで語られているとも言えます。

 以前本稿では一人っ子について以下のように書いています。
***********************************
 一人っ子は愛の獲得競争と無縁に思える。同胞(きょうだい)がいないのだから、両親と祖父母の愛を独占して全ての家族から愛されるだろう。一人っ子は愛の欠乏を感じることなく育つはずだ。
 一般的に一人っ子はお人好しで疑うことを知らないと言われる。常に愛されていれば、確かに人の愛を疑うこともあるまい。
 半面わがままに育ちやすいとも言われる。いつも甘やかされ、何でも許し受け入れられれば、そりゃあわがままな人間になりがちだろう。一人っ子政策によって大量に生み出された中国の一人っ子は「小皇帝」と呼ばれているらしい。(第13号) ***********************************

 これはごく一般的な見方であり、杜子春はどうだったか。そこのところは原作に書かれていません。
 読み進めた後(二度目の金持ち→貧乏、三度目の金持ち→貧乏)ここに戻って杜子春はなぜ親の遺産を使い切って一文無しになったのか、一人っ子との関連で考えてみるのもありでしょう。
 少なくとも、二度目三度目と同じように最初もぜいたくをして使い切ったであろう――と推理できます。

 では杜子春はどうすれば良かったのか。現代のみんなはどうするか。
 これもちょっと考えてみたいテーマです。通読した後でなく[一]~[三]の途中で。

 貯金するとか宝石・金塊を買い込んで隠す。積み立てニーサなど投資の話題にふくらませることもできます。
 私なら政府日銀がこの30年利子をほぼ0円としたことが投資話や詐欺に引っかかる理由だと問題にするでしょう。ただし、授業では深入りしない程度に(^_^;)。

 ちなみに、このような授業展開は一般の人だけでなく、生徒も国語の先生も不要だと言うかもしれません。
 しかし、これは小説という架空のお話を、他人ごとではなく《自分のこと》として――「自分だったらどうか」と考えるための作業です。

 その後読み進めれば、仙人から黄金をもらった後の表現で「一文無しになった経緯」が明かされます。
 その部分が以下。
------------------------------
・大金持になった杜子春は、すぐに立派な家を買って、玄宗皇帝にも負けない位、贅沢な暮らしをし始めました。……[細かい描写はじっくり味わいたいところ]

・するとこういう噂を聞いて、今までは路で行き合っても、挨拶さえしなかった友だちなどが、朝夕遊びにやって来ました。それも一日毎に数が増して、半年ばかり経つ内には、洛陽の都に名を知られた才子や美人が多い中で、杜子春の家へ来ないものは、一人もない位になってしまったのです。杜子春はこの御客たちを相手に、毎日酒盛りを開きました。
------------------------------
 授業ではもちろん「玄宗皇帝」について調べるけれど、本稿では「みなさん検索してください」に留めます。

 この部分の重要部として傍線を引いてふくらませたいのは「洛陽の都に名を知られた才子や美人が多い中で、杜子春の家へ来ないものは、一人もない」のところ。
 国語表現的にも「~ない(ものは)~ない」という否定の否定は《強い肯定》の表現だと解説します。

 私なら「一体何人の才子や美人、すなわち金持ちの息子や娘が杜子春の知り合いになったのだろう。全員というのだから、数百人はいるんじゃないか」とまとめます。
 かつて中国の「都」は日本の首都・東京などと違ってかなり狭かったことは触れておきたいところです。

 このぜいたくな暮らしと金の使いっぷりはおそらく親の遺産のときも同じだったと考えられます。結果、以下のようにお金が消えていく。
------------------------------
 しかしいくら大金持ちでも、お金には際限がありますから、さすがに贅沢家(や)の杜子春も、一年二年と経つ内には、だんだん貧乏になり出しました。
------------------------------
 仙人からもらった黄金の一度目も二度目も、同じようにぜいたくして同じように使い切って貧乏になったことがわかります。

 当然一読法でなくても、次の疑問がわく。

(4) せっかくの財産を三度も失うなんて杜子春は愚かでダメ人間か。

 これについて生徒に考えてもらうことになります。
 多くの生徒は「愚かだ・ダメな人間だ」と答えるでしょう。
 誰かが「そうではないかもしれない」との意見と根拠を表明したら、それをふくらませます。
 が、いないときは以下の例を取りあげます。

 私はある男子生徒A君を指名して
「君に宝くじが1億当たったらどうするか」と聞きます。
 隣の生徒B君は彼の部活の親友だと知っています。
「B君に宝くじが当たったと話をしたら、いくらあげるかい? 仲がいいんだから全くあげないってことはないよね」と。
 すると、A君はしばし考えて「10万あげる」と答え、クラスから失笑がもれます。
 B君はいいやつだから、「オレはそれくらいでいいよ」と殊勝なことを言います。

 これは実話で、私は「何かを得たら何かを失う――大金を得たら友情を失う」例として話をしました。
 そして「みんなは笑ったけど、A君は正直である」こと、もしも親友であれ、そうでない知人であれ、「宝くじで1億当たった」ことを打ち明けたら、相手は少しくらいもらえるのではと考える。親友ならなおさらだと話して以下のように続けます。

「だが、分け前が少なければケチな奴だと思われる。100万あげれば満足してもらえるかもしれない。ただ、100万を10人にあげればもう1000万だ。知人友人の前に両親とか同胞(きょうだい)とか親戚のおじさん、おばさんとか。気前よくあげていたら、1億くらいすぐなくなってしまう」

 そこで「じゃあどうするかい?」と聞けば、多くの生徒は「宝くじが当たったことを秘密にする」と答えます。今なら一等前後賞合わせると6億だから、6億でこの話を進めましょう。

「じゃあ6億全部貯金とか投資に回して全く使わないかい?」と問えば、さすがに「少しは使いたい…」と返答がある。
「そうだよね。6億手にしたら、せめて1億くらい使いたい。これは人情だ。私なら豪邸を建てるか買う。ベンツやポルシェを買って乗り回す。するとどうなる?
 私のことは町内のうわさになる。『どうもあいつは大金を得たらしい』と。
 知人友人たちはそれを全く知らされていない。いくら秘密にしても使えば漏れる、うわさになる。

 問題はここから。もしかしたら知人友人たちから聞かれるかもしれない。宝くじが当たったんじゃないかと。いや、そんなことはないとしらを切る、当たっていないとうそをつき続ければどうなる? 友人関係はぎくしゃくする。
 また、このようにも言える。単なる知人が友人になるのはお互い嬉しいことがあったら喜びを共有し、悲しいことがあった時は悲しみを共有する。それが親友だ。自分の弱みとか悩みを打ち明けるのは相手を信頼しているからだ。

 だが、宝くじが当たって大金を得たことを秘密にすれば、友人と歓喜を共有することがない。そして、彼は死ぬまでほんとのことを話せない。うそはしばしばうそを呼ぶ。友人関係はたぶん壊れ始める。あるいは、付き合うことをやめる。もう以前と同じ親友ではあり得ない。

 もしも秘密とうそに耐えきれず、何年か経って『実はあのとき宝くじが当たっていた』と打ち明けて友情を復活しようとするかもしれない。だが、相手は『どうしてあのとき言ってくれなかったんだ。自分は別に分け前なんか求めなかったのに』と思い、信じてくれなかった友にがっかりする。だから、友情が復活することはない……」

 このように語った後、私は「どうだい。大金を得ると友情が失われるんだ。わかっただろ」と締めます。そして、『杜子春』に戻ります。

 彼は三度大金を手にしている。その三度で大金を得たことを秘密にしたか。
 一度目は大金持ちだった両親の遺産だから誰もが知っている。それをぜいたくして使い尽くした。
 二度目、三度目はひそかに手に入れた大金だから秘密にできたはず。だが、杜子春は秘密にしなかった。なおかつ豪邸を買い、ぜいたくな暮らしを始めたのだから、すぐに知人友人の知るところとなった。そして、杜子春は金がなくなるまでその暮らしを続けた。三度目も同じことを繰り返した。

 ここからわかる杜子春の人となりは……

・杜子春はうそつきではない。正直な人だ。
・杜子春は知人友人を大切にしている。訪れる人を拒んでいない。共に酒盛りをしている。
・だが、杜子春に親友はいない。一文無しになったら誰も助けてくれない。
・杜子春はやさしい。

 杜子春は「やさしい」とのまとめは異論が噴出するかもしれません。
 生徒が「そんなことはわからない、書かれていない」と言うようなら、私は「いや。杜子春はやさしい若者だ。むしろ善良と言えるかもしれない。それはどこでわかるか。探してごらん」と部分の再読([二]節)を促すでしょう。

 それが以下。杜子春が一文無しになった時、知人友人たちに対して「薄情だ」と感じる部分です。これは杜子春が落ちぶれた状況を(客観的に)描いているだけのように見えるけれど、返照して杜子春が金持ちだった時、どのような人だったかを推理できます。

------------------------------
 一年二年と経つ内には、だんだん貧乏になり出しました。そうすると人間は薄情なもので、昨日までは毎日来た友だちも、今日は門の前を通ってさえ、挨拶一つして行きません。ましてとうとう三年目の春、又杜子春が以前の通り、一文無しになって見ると、広い洛陽の都の中にも、彼に宿を貸そうという家は、一軒もなくなってしまいました。いや、宿を貸すどころか、今では椀に一杯の水も、恵んでくれるものはないのです。
------------------------------

 この「一つ」を続ける表現の巧みさ、味わいたいところです。「挨拶一つ(しない)」「一文無し」「(彼を泊めてくれる知人友人の)家は一軒もない」「椀に一杯の水(さえ恵んでくれない)」。
 先の杜子春が金持ちになった時の表現「洛陽の都に……杜子春の家へ来ないものは、一人もない」と見事に対応させています。
 面白いことに以前の「一人もない」は否定なのに《全員訪ねてきた》という意味。一方、極貧となった杜子春を顧みることもない「一軒、一杯の水もない」は全くないという全否定です。
 まるでテレビカメラの映像のように、「広い都」→「宿を貸そうという家」→「椀に一杯の水」と、上空から杜子春の手元に降りて来る。それが目に見える(お見事!)。

 ここで確認しておきたいのは一文無しになる前には貧乏な状態があること。豪邸は当然維持費用がかかるから手放すはず。もしかしたら小さな家に住んで、まだ友人たちは訪ねてきたかもしれません。
 だが、宴会はできない、豪勢な食事も出ない。となると、どんどん杜子春から離れてゆく。そして、杜子春は小さな住む家さえ失う。

 私は「では、杜子春は貧乏だがまだ住む家があったころ、訪ねて来る人にどのような態度を示したか。この部分から次のように想像できる」と説明します。

 杜子春は知り合いを家に泊めてあげただろう、ご飯を食べさせただろう。自分以上に落ちぶれた人が来れば、一杯の水を恵んだのではないか。たとえば「食事を恵むことはできませんが、一椀(ひとわん)の水ならあげられます」と言って。だから、杜子春はやさしい人とまとめられるわけです。

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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:第三節末尾まで仙人は「老人」と書かれています。杜子春は仙人になりたいと打ち明けるとき、「隠してはいけません。あなたは道徳の高い仙人でしょう。仙人でなければ、一夜(ひとよ)の内に私を天下第一の大金持にすることは出来ないはず」と言います。
 しかし、私なら(本論からは若干それるけれど)「仙人とは限らないんじゃないか」と生徒に質問するでしょう。つまり、「黄金は彼が作り出したのではない」ということです。もちろん本文中に根拠があります。それはどこか。答えられなければ……まー再読しなくて結構です(^.^)。ちょいと考えてみてください。

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2024.03.08

『続狂短歌人生論』46「『杜子春』読みましたか?」

 本号の「狂短歌」を見て「あれっ」とつぶやいたかも。
 前号の途中に掲載した歌です。
 埋もれてしまうのはもったいないし、立ち止まりクイズのヒントになるだろうと浮上させました(^.^)。

 今号は執筆後書き直すか、このまま公開するか悩みました。
 メルマガ読者激減の事態を引き起こすかもしれないと思って。
 結局、最初に書いたまま改稿しませんでした。

 文中、読者を不快にさせる表現があります。寛容の心にて読んでください。

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 (^_^)本日の狂短歌(^_^)

 ○ 気づくこと あの親だけど愛された あの人だけは愛してくれた

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******* 「続狂短歌人生論」 *******

 (^_^) ゆとりある人のための20分エッセー (^_^)

 【『続狂短歌人生論』46「『杜子春』読みましたか?」 】


 前号にてお勧めした『杜子春』、読みましたか。「読んだことのない人は読んでほしい。読んだ人は再読してほしい小説の一つ」と書きました。
 つまり、まだ読んだことのない人はもちろん、読んだことのある人、あらすじを知っている人も、もう一度――みんな「読んでほしい」ってことです(^_^;)。

 リンク先は明記してあるし、一日も二日もかかるほどの分量ではない。いかに多忙な方でも1週間内に読める……はず。
 だが、「そのうち読むか」と思って気づいたら、次号である本号を迎えた人。
 そのような方は人生に「『そのうち』はない?」と書いた過去の狂短歌エッセー144号をご一読ください。
 狂短歌は以下、

 〇 そのうちに何々しよう そのうちに 思うばかりで時は過ぎゆく

 さらに、前号では次のように書いています。箇条書きにして4点。

・私は10年ほど前再読して涙を流した。
・両親が健在だった子どもの頃読むのと、亡くなった後また読むのは感じ方が違うようだ。
・一読法を学んだ読者なら…中略…「こんなに目に見えるように描かれていたのか」と驚くはず。
・その読み方で最後まで読んでほしい。きっと違う読み、違う感じ方ができると思う。

 このときつぶやいてほしい言葉は、
「へーっ。そうなんだ。涙が出るほど感動したのか」とか、「自分にはまだ両親が健在だが…(または)自分も両親がいないが…どう感じるだろうか」とか、「目に見えるように描かれているってホントかな」とか、「違う読み、違う感じ方ができるってどういうんだろう?」などと思って読み始めた……か。

 あるいは、とにかく忙しくて「そんなヒマはない」と読まなかった人。
「さーっと読むんだったらいいが、一読法であれこれ考えながら読んだら、とても一、二時間じゃ済まないだろうな」と思ってリンク先に飛ばなかった人。取りあえず作品を読み始めたけれど、何となく読みづらくて途中でやめた人。

 以上、何にせよ読まなかった方々へ。以下きついことを書きます。

 何もせずただ読まなかったあなたは、あなたの最も愛する人がいつもと違う様子を見せたとき、気づかない人です。
 ちょっと行動を起こしたけど、結局読まなかったあなたも、身近の人に対して「何かへんだ」と感じたとしても、そのまま見過ごす人でしょう。

 あなたは相手が悩みを打ち明けたとき、いや、ただ「ちょっと話があるんだけど…」と言われて「今忙しいんだ」と答えたり、「後にしてくれ」と言う人です。その後「話ってなんだ?」と聞いて「別に…大したことじゃない」と言われ、「そうか」と応じて終わりにする人です。

 あるいは、子や孫が「失恋しちゃった」と告白したとき、「一度や二度の失恋なんか大したことじゃない。オレなんか十度は失恋した」と笑いながら言って相手の言葉を真剣に聞こうとしない人です。

 その後子や孫が自殺したと知って……「まさか!」とつぶやく人です。
 自殺はしなかったけれど、恋の相手を傷つけたと知って……「もっとしっかり聞けばよかった」と悔やむ人です。

 本稿はこれまでも「これを読んでほしい、あれを読んでほしい」と書いてきました。
 過去のエッセーにリンクを張って「ヒマなら読んでください」としばしば書きました。
 しかし、一度も読んでいないかもしれない。
 この流れの中に『杜子春』のこともあるので、同じように「読まない」ことを選択したかもしれません。

 だが、上記4点のように、前号では今までとちょっと違う(私から言えば「かなり違う」)ことを付け加えて「読んでほしい」と書いています。
 ほんとは「読んでほしい!」と「!」をつけたかったほど。すなわち、この「読んでほしい」はいつもと違うのです。

 なのに、読まなかった人は身近の人の小さな変化を気づかない人であり、悩みを聞くことのできない人であろう。
 一読法とは文章の小さな違いに気づこうという訓練です。それが身についていないんだから、愛する人の変わり果てた姿を見てやっと「そうだったのか」と後悔する人だと言わざるを得ません。

 では「いつもと違う表現だな」と思い、「読んだことはあるけど、そこまで言うんだったら、もう一度読んでみよう」と思って再読した人。こちらは身近な人の小さな変化に気づくと思います。素晴らしい!

 しかし、『杜子春』を一読法で読んだかどうか――つまり、相手の悩みをじっくり聞いたか、その様子をしっかり見つめたか――に関しては疑問符がつきます。

 私は前号「一読法の立ち止まり」として以下のように「作者なぜ?」の疑問を提起しています。

[なぜ『杜子春』を例に出したのか。金が乏しければ「お金が欲しい」例として取り上げたことは明らかだが、ずいぶんくどく「読んでほしい」と強調している。何か理由があるのだろうか?]
 さらに後記において「この答えは本文にはありません。『杜子春』を読めば、答えに気づくかもしれないし、気づかないかもしれません。答えは次号にて」とあります。

 この「作者なぜ?」の疑問は『杜子春』を読まなければ、答えがわかりません。

 では、『杜子春』を読んだ人へ。
 なぜこの作品を例として取りあげたのか。くどいほどに「読んでほしい」と訴えたのか。その理由わかりましたか。
「そりゃ難しい。ちっともわからなかった」とつぶやいているかもしれません(^.^)。

 なぜわからないのか。読みの力が弱いからか。
 いやいや、一読法がまだ身についていないからです。

 読んだ人に以下3つの質問を出します。
 これに答えられるようなら、あなたは一読法でしっかり読んでいます。
 だが、答えられないなら一読法で読んでいません。
 青空文庫の『杜子春』サイトは→→こちら

(1) 杜子春は仙人から二度宝のありかを教えてもらって大金持ちになり、二度とも使い果たして一文無しになる。三度目に「もうお金はいりません。仙人になりたい」と申し出ます。
 しかし、杜子春が金持ちから一文無しになったのは二度ではなく三度です。それに気づきましたか。それはどこからわかりますか。
 気づかなかった人は一読法で読んでいません。

(2) 仙人は杜子春に三回「ここを掘れば黄金が埋まっている」と教えます。それはみな違う所です。それに気づきましたか。
 二度目は気づかなくとも、一読法で読んでいれば三回目に「あれっ、違うかな?」と思って前の部分に戻る(これが一読法です)。そして、「近いけど三回とも違う場所だ」と確認する。
 そのとき「なぜ違うのだろう」とつぶやいたか。その場、、、で立ち止まってわけを考えたか。
 この違いに気づかなかった人は一読法で読んでいません。小さな変化を見落とす人です。

 ちなみに、「違うことは気づいた。そのわけも考えたけれど、答えはわからなかった」と嘆く人。素晴らしい!
 何でもかんでも答えがわかるわけではありません。大切なのは気づくこと、途中で「考える」ことです。

(3) 杜子春は仙人になるため「決して喋るな」との誓いを守って地獄に堕ちます。閻魔大王の前で馬となった両親が鉄ムチで打たれても、彼は言葉を発しない。
 しかし、母の「心配をおしでない。私たちはどうなっても、お前さえ仕合せになれるのなら、それより結構なことはないのだからね。大王が何と仰(おっしゃ)っても、言いたくないことは黙っておいで」と言うのを聞いて「お母おっかさん!」と叫ぶ。
 母の言葉の中に「私たち」とあるけれど、父親は何も喋っていません。なぜお母さんは「私たち」と言えたのか。一読法なら[?]マークをつけていい、疑問のつぶやきです。
「はて? お父さんは何も言っていないが…」とつぶやきましたか。

 もう2点。授業を一読法でやるなら、私は次の二つの質問を出して児童生徒に考えてもらいます。

(4) せっかくの財産を三度も失うなんて杜子春は愚かでダメ人間か。

(5) なぜ仙人の鉄冠子は一度ならず、二度、三度杜子春を助けるのか。なのに、「もしお前が黙っていたら、おれは即座にお前の命を絶ってしまおうと思っていた」と言う。それはなぜか。

 (4)は杜子春の人となりについてもっと深く考えるための質問であり、(5)は仙人の側に立ってこの物語を考え直すための質問です。(2)「仙人はなぜ杜子春を助けるのか」も仙人の思いを考えようという立ち止まりです。

 なお、仙人の深い意図は原文に書かれていません。なので、(2)も(5)も「考えたけど難しい」とか、「この推理で正しいかどうかわからない」と答えて構わない質問です。大切なことはこの(湧いて当然の)問いを自ら出すこと、そして考えることです。

 一読法なら、児童生徒は(4)に関して「どうして杜子春は三度も財産を失うのだろうか?」と「?」マークをつけたり、「愚かだ、ダメ人間だと思う」と短い感想を書き込むでしょう。
 もしも(4)の問いに対して児童生徒がそろって「杜子春は愚かだ、ダメ人間だ」と答えるなら、
「果たしてそうだろうか。私は違うと思うよ。それはどこでわかるか。よーく読んでご覧」と言ってもっと深く考えさせます。

 もしも本稿読者が『杜子春』を読んで、同じように「杜子春は愚かだ、ダメ人間だ」と即答するようなら、あなたは一読法で読んでいません。

 それは浅い、甘い読み方であり、そのような見方しかできないあなたは現実生活でも浅い見方しかできない(人であろう)と言わざるをえません。

 児童生徒はまだ子どもだから、深い読みができなくて当然(だから、授業をやる)。だが、人生経験豊富な大人なら、もっと深い読み、考え、感想を言えるべきです。

 ――と『杜子春』を読まなかったどころか、読んだ人にまで罵詈雑言のアメアラレ(^_^;)。
 うーん。これで「メルマガ読者数激減かも」と思えど、書かずにおれなかった、執筆意欲満々の御影祐でございます。

 以上ですが、読んだけれど5つの質問に対して「気づかなかった、考えてもみなかった」人に再チャンスを与えます。もう一度来週までに『杜子春』を読んでください。

 または本稿前2号(44・45)を再読すれば、「なぜ筆者は『杜子春』を例として取り上げたのか」その理由がわかると思います。こちらはさすがに無理強いとなるので、以下関係ある部分を再掲します。
 これを読んでから『杜子春』を再読(三度目?)すれば、かなり答えに近づくと思います。

 前号「人はみな愛されないと感じる生き物」で語られたのは、
 私たちは「愛されていると感じられない」生き物であり、ゆえに大切なことは「どうやったら愛されていると感じられるか」でした。

 この克服法として提起したのが以下の狂短歌。
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 〇 気づくこと あの親だけど愛された あの人だけは愛してくれた

 これが心のコップに水をためる方法です。
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 また、前々号「最終章の前にもう一章」の中で以下のように書かれています。
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 この具体例(注…どうやったら愛されていると感じるか)は私自身の過去を語ることでした。ある時期まで「自分は親から愛されていない」と感じていた。それがあることをきっかけに兄、母、父が私を心配し、愛してくれているとわかった。それが下書きには書いてあります。

 実は昨年初め『続編』をメルマガ公開したときから、このことはずっと考えていました。
 そして、12月になって「続編は充分書いてきた。『ではどうするか』について自分の具体例を取り入れたらさらに長くなる。もう最終章を提示して「この件は短く済まそう」と決めました。
 ところが、1月になっての執筆意欲減退、回復の中「短く済ませるな。だが、お前の体験を具体例として書くのは控えろ」とご宣託が下されたかのような事態発生。
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 私自身の過去を語れば、「愛されていないと感じたけれど、あの人だけは愛してくれたとわかる」具体例となる。ところが、それは長いので『続編』に採用できない。
 昨年12月には「もう具体例はないまま『続編』を終えよう」と決めた。自分以外のいい例が思いつけなかったからです。
 が、1月に発見しました。短い具体例、それが『杜子春』です。

 さすがにこれだけ書けば、本稿と『杜子春』との《共通点》に気づいたのではありませんか。

 えっ、「まだわからない」?
 もう一度『杜子春』を読んでください(^_^)。
 または、本号を再読すれば「これかっ」と気づくかもしれません。

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― 『杜子春』を再読される読者へ ―

 『杜子春』の「三」末尾には仙人鉄冠子が朗吟する漢詩が出てきます。
 原文には解説・口語訳などないので、簡単に訳(意訳)を書いておきます。

 【 鉄冠子の漢詩 】

 朝(あした)に北海に遊び、暮には蒼梧(そうご)。
 袖裏(しゅうり)の青蛇(せいだ)、胆気粗(そ)なり。
 三たび嶽陽(がくよう)に入れども、人識(し)らず。
 朗吟して、飛過(ひか)す洞庭湖。

 朝北の海の上空を飛んでいるかと思えば、夕方には遥か南の青々とした森を見下ろしている。
 袖の裏には青蛇を飼っているが、肝が据わって荒々しく怖いものなど何もない。
 三度洛陽の都に入ったけれど、人は私が仙人だと気づかない。
 今詩を高らかに吟じながら、洞庭湖さえ一気に飛び越える。

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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:本文最後の方に「これを読んでから『杜子春』を再読(三度目?)してください」とあります。
 この皮肉と言うか、「三度目」の言葉に着目しましたか。
 三度読まなければ『杜子春』の内容を理解できない……読者。
 みなさんは愚かでダメ人間でしょうか。
 いえいえ、そんなことはない(でしょ?)。

 ならば、財産を三度失う杜子春が「愚かでダメ人間」なわけ、ないではありませんか。
 彼はフツーの人であり、正直で善良な人間です。みなさんと同じように。

 最後に来てやっと読者を持ち上げることに成功しました(^_^)。

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