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2024.04.26

『続狂短歌人生論』61 四タイプ統合の人格 その1

 ちょっと最終章の執筆(特に狂短歌作成)に手間取っています。苦吟と言いましょうか。
 つらづら思うに「『杜子春』を一読法で読む」を根詰めて書いた反動かもしれません。最終章の下書きはあるものの、イマイチペンが進まないのです(もちろんキーボード入力の比喩)。
 予告なく一週間休刊するかもしれませんのでご容赦ください。

 それでも「ぼーっと読んでると不意打ち食らいますよ」といった感じの落とし穴は掘っています(^.^)。一読法的読みを迫るいじわるな体質は衰えることを知りません。
 読者は前号「おやあ」とつぶやきましたか。後記です。

 後記冒頭に「考えてみれば『堪忍袋の緒が切れる』って面白い言葉ですね。英語では何と言うんだろう」とあって、英語表現をネット検索した件が書かれています。

 これって単なる雑学であり、どーでもいい話題ではあります。
 しかし、一読法読者なら「おやあ、後記はだいたい本文に関係するクイズとか、しっかり読んだか問う質問が多いのに、ここはえらいゆるい雑談だな」とつぶやき、「何かあるかあ」と《作者なぜ?》の疑問を抱いていいところです。

 本文には立ち止まってほしい箇所が一つありました。
 終末に書かれていた以下の部分です。

 弱弱しい傍観者・受容者が脅迫者・批判者と戦う際、
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 具体的には強い脅迫者・批判者と一対一で戦うことはお勧めできない。話し合いの場には中立的な第三者か、(傍観・受容者タイプの)味方を参加させるべきだ。つまり、一対一で戦うのではなく、一対二とか一対三で。[援軍に脅迫者、批判者タイプを選んでいけない理由。もちろんわかりますよね?]
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 最後に「援軍に脅迫者・批判者タイプを選んでいけない理由」、「もちろんわかりますよね?」と書かれています。
 これに対して「もちろんわかる。それは……だから」と言えた人は結構。
 しかし、「えっ、なぜ援軍に脅迫者と批判者を選んだらいけないんだ?」とつぶやいた方は立ち止まって理由を考えねばなりません。

 筆者は「もちろんわかるはず」と言っている。すると「その答えが思いつかない自分は劣等生だ」と思いがち。そこで黙らず、あるいはスルーせず、わからないときはまず「わからない」と言うことが大切です。
 もしも私が読者の前にいたら、「それはなぜですか」と(ここで)問うべきです。
 すると私は「では一緒に考えてみましょうか」と言って答えは教えません(^.^)。

 以前も『一読法を学べ』(21-4)で書きました。芥川龍之介の『鼻』において弟子が渡来の治療法を内供に紹介すると、内供は「すぐに試したい」と言わず、弟子が説得させるよう仕向ける。作者は「内供のこの策略がわからない筈はない」と書いている。私は授業で「じゃあ君たちはこの策略の意味わかるか?」と聞いたものです。「こんな簡単なことがわからないのか」といった作者の策略に引っかかってはいけません。

 前置きの閑話休題(^_^;)。
 では「援軍に脅迫者・批判者を選んではいけない」理由とは?

 前号を再読すれば、初っ端に答えがあります。
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 人は「正しいことを言ったり、やったりすれば、みんなわかってくれる」と思いがちである。だが、こちらが正しいと思っても、向こうは正しいと思わない。そんな例はごまんとある。だから、口論が起こり、そこに感情が入れば口げんかとなり、国や民族、主義・宗教は力づくで解決しようとする……。
------------------------------
 この「力づくで解決しようとする」代表的な二タイプが脅迫者と批判者です。

 もしも変わってほしいと思う相手が脅迫者か強烈な批判者の場合、こちらの援軍として脅迫者と批判者を用意すればどうなるか。
 彼らは冷静な話し合いなどできません。最初は穏やかに始まったとしても、やがて口角泡を飛ばす激論となり、口げんかとなって決裂しやすい。下手すると殴り合いになる。それが目に見えています。

 同時にもう一つ理由があります。「だから英語の例を出したのか」とつぶやいたかどうか。

 たとえば、みなさんが英語を習得しようと海外旅行に出かけるとしましょう。その際英語を喋れる人と二人で行ってはいけません。この理由、もちろんわかりますよね(^.^)。

 それはその人におんぶにだっこ、会話を全て頼ってしまって自分から英語を使おうとしないからです。ゆえに、理想は一人で行くことであり、せいぜいろくに喋れない英語初心者同士で行くことです。
 傍観者・受容者はそばに脅迫者や批判者がいればその人に頼り切ってしまいます。自立のためにはときに一人で立ち向かう必要もあるのです。

 ……とまー前号後記からここまで読み取れたら、もう立派な一読法実践者だと賞賛いたします。
 対して読者は「そりゃ無理だ。そこまで考えながら読めない」とつぶやくでしょう。
 だから、この「前置き」(と言うより前号解説?)を書いているわけです(^_^)。

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 (^_^)本日の狂短歌(^_^)

 ○ 四タイプ統合させる生き方こそ 我らが目指す理想の人格

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***** 「続狂短歌人生論」 *****

 (^_^) ゆとりある人のための20分エッセー (^_^)

 【『続狂短歌人生論』61 四タイプ統合の人格 その1 】

 実は前著『狂短歌人生論』から本稿『続編』においても至る所に「脅迫・批判・傍観・受容」の性格を統合しようとの記述を散りばめています。小説作法で言うなら《伏線》です。

 たとえば、前著や本節で再度取り上げた「四タイプの長所」(28号「なぜ変えられないのか その1」参照)。
 詠みあげた狂短歌は以下の四首でした。

1 脅迫者 彼の勇気は世界一 スーパーマンは我らがヒーロー
2 批判者は正義に基づき述べ立てる その弁論が我らを正す
3 傍観者 人が浮かれて騒ぐとき その一言が我らを冷ます
4 受容者のやさしさみんな知っている まるで聖母か観音様

 そして、四タイプの長所としてまとめた言葉が以下
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脅迫者……勇気 批判者……正義
脅迫者・批判者……強さと頼もしさ
傍観者……忍耐 受容者……やさしさ
傍観者と受容者……弱さと思いやり
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 『続編』28号のテーマは四タイプが「なぜ自分を変えようとしないのか」であり、それは「長所と思うから」でした。
 その末尾に以下のように書いています。
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 それが四タイプの長所であるなら、本人は変えようと思わない。
 こちらから相手に「変えてください」と言っても、「どうして変えなければならないんだ」とつぶやくでしょう。再度冒頭の狂短歌を提示すると、

 〇 四タイプ それが長所と信じれば 変えなければと思うことなし

 そして、もしも身近の人が長所あふれた人柄なら、私たちは相手に「変わってほしい」などと思うでしょうか。
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 もしも我々の周囲にいる人が勇気と正義、強さと頼もしさを持ち、忍耐強く優しくて弱い人を思いやることができる人なら――そう、あのスーパーマンのような人なら、それこそ理想の人格ではありませんか。

 この四タイプ統合の人格を図式化したのが以下。
 斜めの線[\]・[/ ]は先っちょに矢がある[→]と想像してください。
 各自は中央の「統合の人格」を目指そうということです。

 ※ 四タイプ統合の人格
┌─────────────────────┐
│ 脅迫者    [強 さ]    批判者  │
│ [勇 気]  行動力・積極的  [正 義]│
│ 脅迫暴力            批判説得 │
│ 怒 り   \      /  腹立ち  │
│ 強 さ    ┌────┐   厳しさ  │
│        │統 合 の│        │
│        │ 人 格 │        │
│ 傍観者    └────┘   受容者  │
│[忍 耐]  /      \ [優しさ] │
│ 待 つ    [弱 さ]    許 し  │
│ 臆 病    想像力・消極的  不 安  │
│ 無関心中立           弱者包容 │
└─────────────────────┘

 スーパーマンは所詮小説か漫画かテレビドラマの空想的ヒーローに過ぎない。突っ込めば彼は人類ではなく宇宙からやって来た宇宙人の末裔。「現実の人間にそのような人はいない」と言いたくなるかもしれません。

 が、昨年の3月WBC――日本がワールドカップベースボールで優勝したころ、私は第6号前置きに以下のように書いています。
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 高校野球について「もう脅迫と批判しかできない監督や連盟トップは総退陣願った方が良い」と書きました。では「脅迫・批判タイプが監督・顧問にふさわしくないとすればどのタイプがいいのか。傍観か受容か」との疑問。
 答えはどちらもダメ(^_^;)。そもそも外部招聘なら傍観者・受容者は監督に選ばれない。顧問ならあり得ます。

 傍観者は無関心が基本だから部活のことなどどうでもいい。受容者は自己を主張せず何でも受け入れる。よって、この二タイプは部活動を生徒に丸投げする。「自由にやりなさい」と放任する。
 部員は顧問をあてにせず自分たちで勝手にやる。結果、筋トレとかスタミナをつける持久走などはつまらないからやらない。試合形式の楽しい練習ばかりするので、チーム(団体)は強くならない。

 それでも部員の中から一人キャプテンが決まる。選ばれるのは力強い脅迫タイプか優秀な批判タイプ。このキャプテンがチームを強くしようと独裁的になると、集団の規律を乱す部員を追い出そうとしたり、脅迫と威嚇で部活内をまとめようとする。いじめも起きやすい。
 だが、傍観・受容タイプの顧問は独裁的キャプテンをコントロールできない。

「おいおい。それじゃあ監督・顧問にふさわしい人材はいないじゃないか」と言われそうです。
 そのとおり――と答えざるを得ないけれど、さすがに常識的・良識的顧問はWBC日本監督のように、部活動を指導している(と思います)。どうやって?

 彼は(もちろん)選手を殴って従わせるようなことはしない。「オレの言うことを聞け」と命令することもない。「そこが悪い、ここが悪い」とあれこれ批判することもない。選手と積極的に対話して自発をうながす。誰かが不調であっても復活を信じて待っている。全て受け入れて「最後に責任を取るのは自分だ」と公言できる。(おそらく)裏に回って愚痴を言うこともない。

 つまり、WBC監督は脅迫者ではなく、批判者ではなく、傍観者でもない。受容者でありつつ単なる受容者ではない。実は私が本稿ラストにおいて描こうとする人格の理想像がここにあります。
 それは四タイプの悪しき特徴を露にすることではなく、脅迫・批判・傍観・受容の統合を目指すことです(^_^)。
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 私たちの周辺にもこのような人を何人か思い浮かべることができます。
 それこそ四タイプ統合の人格の持ち主ではないかと思うのです。

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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:今号は特になし(^_^)。連休を楽しんでください。

 ――と言いたいところながら、本気で考えねばならない課題を一つ書きます。
 5月は「例年になく暑い」との中期予報が出ています。
 そろそろ日本の学校において3月卒業、4月入学をやめて「6月卒業、9月入学」について再考するべきではないでしょうか。新型コロナ流行期に突如沸き起こって立ち消えとなったテーマです。

 もちろん最大の理由は日本の夏の異常な暑さ。また、9月入学にすれば春休みは必要ない。猛暑の夏に勉強するより秋、冬から春にかけてしっかり勉強した方がよっぽど身につくと思います。

 大学4年目の求職活動も卒業後の2ヶ月(卒業をひと月前倒しすれば3ヶ月)に、はめ込めばいいと思うのです。私は高校以上の入試廃止論者ですが、どうしてもやりたければ、6月卒業後に入れる。それまでは学業に専念するべきです。特に大学は求職活動のため3年間しか学んでいないように見えます。

 ――と言えば「4月桜の入学式、入社式がいい。それが日本の伝統だ」と言われそう。
 しかし、そのような感傷的異論をとなえている場合でしょうか。

 児童生徒も学生も3月ひと月をまともに勉強しない。2月も入試があるので、最終学年は実質1月末までで授業を終えねばならない。そして、その分を猛暑の夏に詰め込んでいる。この愚かさに気づくべきだと思います。

 私の若い頃はそれを根性論で乗り越えた。だが、今や根性で立ち向かうレベルを超えた猛暑酷暑が襲っている。政府官僚・議員・有識者は「だから冷房施設を全国の学校に設置した」と言ってのほほんとしているようです。彼らは冷房病の怖さを知らないのでしょう。

 私は予備校で過ごした1年間、夏は冷房のある寮と予備校を往復するだけで冷房病になり、8月ひと月参考書・問題集を全く開けないことがありました。冬に暖房病になることはありません(^_^;)。
 夏の2ヶ月をどう過ごすか。学年末だから当然宿題はなく自由研究も課さない。高2生にぽんと100万渡してやりたいことを自由にやらせてはどうでしょう。国内のお勧めは農林水産業や職人の体験、ボランティア活動。国外は貧しい国に一人で行くことです。

[ここで「なるほど前置きの『英語』の件は伏線だったか」とつぶやきましたか。意味不明の方は再読してください。]

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2024.04.23

『続狂短歌人生論』60 「変えることに失敗」した理由

 今号より『続狂短歌人生論』最終章に突入します。
 昨年2月に『続編』を開始して当初腹積もりでは12月に終える予定でした。
 が、思わぬ展開となって1月に執筆意欲減退。これはすぐに回復したものの、2、3月に「『杜子春』を一読法で読む」を入れたため、最終章がここまで延びてしまいました。
 まっ、それもまた人生。想定通りにことは進みません(^_^;)。

 先に最終章の見出しと狂短歌を掲載する――つもりでしたが、いまだ完成していません。
 できあがったら、披露することにしてゆっくり書いていこうと思います。
 [本文は「である」体]

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 (^_^)本日の狂短歌(^_^)

 ○ 何ゆえに 変えることにしくじった むやみやたらに戦ったから
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***** 「続狂短歌人生論」 *****

 (^_^) ゆとりある人のための20分エッセー (^_^)

 【『続狂短歌人生論』60 「変えることに失敗」した理由


 前号(37号)、再読してもらえただろうか。
 注意したいことは四タイプの中でも脅迫者と批判者は「自己を変えようとして失敗する」ことが多い。逆に傍観者・受容者は「自己を変え、身近の人を変えようとして失敗しやすい」ことだ。
 本号は四タイプがなぜ変えることに失敗したのか、そのわけを探りたい。
 大ざっぱな結論を言えば、戦術もなくむやみやたらに戦えば負けは目に見えているってこと。

 人は「正しいことを言ったり、やったりすれば、みんなわかってくれる」と思いがちである。だが、こちらが正しいと思っても、向こうは正しいと思わない。そんな例はごまんとある。だから、口論が起こり、そこに感情が入れば口げんかとなり、国や民族、主義・宗教は力づくで解決しようとする……。

 まずは殊勝にも(?)変える道を歩み始めた脅迫者と批判者の失敗を眺めてみよう。


※ [脅迫者・批判者タイプの失敗]

 脅迫者・批判者が失敗した理由はただ一つ。
 あなたが「怒り」と「腹立ち」の感情を抑えつけたことにある。

 ――と書けば、
「おいおい、あんたが怒りと腹立ちを抑えろ、脅迫的・批判的ドラマをやめろと言ったんじゃないか。だから私は怒りと腹立ちを抑えたんだ。何なんだ! それは!」とお怒りになり、腹を立てるのはごもっとも。
 だが、失敗の理由は正しくそこにある。

 その後、脅迫者・批判者はどうなったか……(再掲すると)
------------------------------
 ところが、何日か経って、相手がミスをしたり、だらしなかったり、悪いことをやったりすると、あなたの心中の「怒り」と「腹立ち」の虫が、もぞもぞと頭をもたげてくる。だが、あなたは我慢する。怒ってはいけない、批判をしてはいけないと思う。だから、相変わらずの笑顔と「誉めること」で、周囲の人と「いい関係」を保とうとする。
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 ……ずっと誉め続けていると、人はそれに慣れてしまう。実際日々の生活で誉める事柄はそれほどたくさん起こらない。
 新しいことがなければ、いつもと同じことを誉めるしかない。だが、同じ事ばかり誉めていると、誉められた方はそれに慣れてしまってありがたみを感じなくなる。つまり、空気になる。

 それに、脅迫・批判のあなたは誉めることを「おべんちゃら」であり、「お世辞」だと思って居心地の悪さを感じている。
 あなたは相手を心から誉めることがとても苦手な人だ。だから、あなたの「お誉めの言葉」はどこか真実みに欠ける。本人も言っててくすぐったい。

 ただ、下手くそながらも誉めていた。しかし、相手があなたの意図する方向に変わってくれないと、あなたはむずむず、むかむかしてくる。それは今のところやむを得ない《正直な感情》である。
 それなのに、あなたは「怒ってはいけない、批判してはいけない」と我慢した。だから、爆発したのだ。

 日本にはこの状態を「堪忍袋の緒が切れる」と的確に言い表す言葉がある。耐えることのできる傍観者と受容者は堪忍袋をさほど破裂させない。ふくらんだ風船をぱんと破いて怒鳴ったり、叱責・小言を言いまくるのは脅迫者と批判者である。

 では、どうすれば良かったのだろうか。簡単だ。
 あなたは怒って良かった。批判をして良かったのだ。

 問題はあなたの怒り方、批判の程度にある。あなたは「待つ」ことができない。この一瞬、この三〇分、この一週間で、全てを自分の思い通りにしようとする。
 だから、脅迫者のあなたの「怒り」はさらなる怒りを呼び、最後は暴力に走る。
 また、批判者のあなたの「腹立ち」はさらに二倍の腹立ちとなって増幅され、くどくどくどくど、くどくどくどくど批判(悪口)を言うことになってしまう。

 脅迫者なら「一喝」で終わればいいではないか。
 批判者なら、1、2分の「小言」で済ませればいい。
 相手が変わることを長い目で待てばいいのだ。
 そうして、また誉める材料を探す。

 さらに、これからは口先だけでなく「本当に心から誉めたい」ときに誉めるようにする。それも閻魔顔で誉めたり、しかめっ面で誉めるのではなく、心からの喜びを顔一杯に出して誉めることだ。
「素晴らしい! すごいじゃないか(^o^)!」と。

 もちろんこれは演技を必要とする(だろう)。だが、あなた方は怒りを閻魔と般若顔で表現すること、腹立ちをしかめっ面で表現することにおいて天下一品の人たち。素晴らしい俳優だ。必ず逆の「誉める演技」ができるようになる。

 それに「我が子や身近の人間に誉める事柄が見つからない」なんて甘ったれた発言ではないか。
 あなたがたは人の悪い点を十のうち、八も九も気づく人だ。それほどまでに他者と事態をしっかり見つめているあなたが相手の良い点に気づかないはずがあろうか。
 そもそも人の良し悪しは五分五分である。あなたが発見した悪い点はウラから見れば、良い点である可能性が高い。あなたはそれに気がつけばいいのだ。

 ゆえに、脅迫者と批判者のあなたに必要なのは《反省》である。「自分は怒り過ぎたのではないか」、「自分は(叱責・小言を)言い過ぎたのではないか」と反省できれば、あなたは脅迫と批判を小さくしたり、少なくすることができる。
 そして、あなたに対して「怒り過ぎているよ」とか、「小言を言い過ぎている」と指摘してくれる人(あなたの身内、友人、同僚)の意見を大切にすることである。


※ [傍観者・受容者タイプの失敗]

 さて、もう一方の傍観者・受容者タイプの無惨な失敗例。

 まず、あなたがたは脅迫者・批判者に対する認識が甘いと言わざるを得ない。
 彼らは人と闘って(力や理屈で)相手に勝つことを生き甲斐としているようなタイプである。負けることはものすごい不快で、絶対に許されないと思いこんでいる。

 あなたはそんなやから[輩]と闘わなければならない。そのとき彼らが「強敵」と見なした相手に対して、情け容赦もない怒鳴り声や、猛烈な批判を浴びせてくるのはトーゼン予想される事態である。だから、彼らに下手に闘いを挑むと、ずたずたにやっつけられる可能性が高いのだ。

 対してあなたは武器を持たない傍観者であり、受容者タイプ(だった人)。
 こてんぱんにやられるのは「当たり前田のクラッカー(古いッ!)」ではないか。まずそれを認識するべきだった。[意味フメーの方は検索を]

 何かの会議で、あなたが笑顔で主張しようとした「良かれと思ったこと」とは何か。私はその内容を推理できる。
 あなたは傍観者・受容者が変わり、脅迫者・批判者にも変わってほしいという主旨を意見として述べようとしたのではなかろうか。

 例えば学校の生徒指導をめぐる職員会議において「殴ったり、きつく注意したりすることはやめよう」とか、「傍観しないで、もっと積極的に生徒と関係を持とう」とか述べることである。
 あなたのその主張は大袈裟に言うなら、何の準備も勝算もなしに、いわば丸腰で銃弾飛び交う戦場に飛び出すようなものだ。

 あなたの笑顔に笑顔で返してくれていた脅迫者・批判者はあなたの意見が彼らの思想・信条、考え方・感じ方に外れているがゆえに許せない。見過ごすことのできない意見だ(と思う)。彼らが怒鳴りまくり、強烈な理屈で反論してくるのは火を見るより明らかなのだ。

 そして哀しいかな、あなたの主張に理解を示す(はずの)他の傍観者・受容者タイプはあなたを援護してくれない。
 救援に乗り出せば、自分も標的とされ攻撃されるからだ。結局、あなたは一人で闘い、正しいことを述べたのに孤立無援で「負け」てしまった……。

 それは無理な戦い、無謀な闘い方であったと思わねばならない。
 脅迫者・批判者タイプが怒鳴ったり、激しく責めてきたら、すぐに白旗掲げて降参した方がいい。
 自分を変えることさえとても難しいのだ。いわんや、他者や全体を変えるにはかなりの時間と準備を必要とする。自分の弱々しい原性格をやっとこさ変え始めたあなたはまだまだ弱い。直ちに戦場に出陣できるほど強くなっていない。それを知る必要がある。

 だが、心配しなくていい。あなたは脅迫者・批判者タイプの性格とその生い立ちを知った。また自分が傍観者・受容者タイプである訳も学んだ。「敵を知って己を知れば、百戦危うからず」のことわざもある。
 あなたはきっと強くなれる。愛エネルギーを与える生き方が必ず「いいもの」を生み出してくれる。

 では、どうすれば良いか。

 傍観者・受容者タイプのあなたはまず賛同者を作る必要がある。そのためには強敵の少ない戦場に、弁当持ってのんびり出かけることだ。
 もっと小さい会議で、なおかつ理想を言えば、その出席者が「傍観者と受容者タイプだけの場(^_^;)」であれば最高である。

 なぜなら、傍観者・受容者タイプのあなたが良かれと思う意見は他の傍観者・受容者タイプも賛同する意見であることが多い。
 たとえば、それは弱い相手を思いやる意見であったり、弱い自分たちにはなかなか難しくてできない――といった考えだ。せいぜい普通の批判者、または反省できる批判者タイプまでなら、あなたの意見は「ホンネを言ってくれた」として、とても尊重されるだろう。

 そして、このときあなたが他の傍観者や受容者に対して普段から「笑顔と愛エネルギー付与」を心がけて対応していたことが思いがけず生きてくる。

 あなたからエネルギーを与えられてきた傍観者と受容者は、おそらく積極的にあなたに賛意を示すだろう。あなたは「相手がちっとも変わってくれない」と失望しかけていた。だが、思いがけない彼(彼女)の変化に驚き、きっと嬉しく思う。何とあなたには「援軍」が現れたのだ。

 あなたは傍観者・受容者だった彼らが「変わっているじゃないか」と思うに違いない。
 でも、種明かしは簡単なこと。今まであなたが感じていたことを実は彼らも感じていた。しかし、それを発言すれば、脅迫者・批判者タイプの攻撃を受ける、それが怖くて黙っていただけである。誰かが矢面に立ってくれるとわかれば、傍観者・受容者だって発言できるのである。[「矢面」の読み、「やめん」じゃないですよ]

 その先頭にあなたが立ったのである。なおかつあなたは普段から彼らに「愛エネルギー」を与えていた。だからこそ彼らはあなたを信頼できる人だと思い、あなたを援助しよう――愛エネルギーのお返しをするのである。
 あなたはその場で、何となく「変えられるかもしれない」とエネルギーがわき起こるのを感じるはずだ。

 傍観者と受容者タイプはとにかく弱々しい。孤立無援では闘うことができない。事態がトラブルとなったとき「誰も助けてくれない」と感じやすい。
 そう思うからこそ傍観者・受容者は行動できないし発言できない。しかし、助け(というエネルギーが与えられれば)傍観者・受容者タイプだって元気と勇気を持つことができる。傍観者・受容者タイプこそまず援軍をこしらえるべきだ。

 だから、傍観者・受容者タイプのあなたは自分を変え「他者を変える」道へ進もうと思うなら、脅迫者・批判者タイプに対してはとても慎重に行動しなければならない。
 真っ先に闘う相手として脅迫者・批判者タイプを選ぶことはお勧めできない。
 まず傍観者・受容者タイプに働きかけて支援者を作ることだ。

 もちろん家庭内において親や夫(妻)(そして子ども)が脅迫者・批判者タイプであるなら、あなたはとても困難な闘いに乗り出すと自覚しなければならない。
 そのとき大切な点はあなたが自身傍観者、受容者であることを意識すること。
 具体的には強い脅迫者・批判者と一対一で戦うことはお勧めできない。話し合いの場には中立的な第三者か、(傍観・受容者タイプの)味方を参加させるべきだ。つまり、一対一で戦うのではなく、一対二とか一対三で。[援軍に脅迫者、批判者タイプを選んでいけない理由。もちろんわかりますよね?]

 要するに、「自分の原性格に基づくドラマをやめる」だけでは、当面、日常の闘いにおいて失敗する可能性が高い。だから、自分の原性格を許しつつ、他の三タイプの生き方を採用しようと言いたいのである。
 実はこれこそ「四タイプ統合の人格」をゆっくり歩き始める生き方である。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:考えてみれば「堪忍袋の緒が切れる」って面白い言葉ですね。
 英語では何と言うんだろうと調べてみたら、
 1 I can't stand it anymore.
 2 My patience has run out!

 1は「これ以上耐えられない」、2は「忍耐が尽きた!」って感じでしょうか。
 直訳的でちと面白みに欠ける。他には以下。これが近そうです。
 3 This is the last straw.

 strawって「ストロー」ですが「ワラ」のこと。「最後の藁だ」と言うのです。
 ちょっと意味不明。以下のように言うのが本来だとか。

 This is the last straw that breaks the camel's back.

 「camel's back」とはラクダの背中(背骨)。ラクダの背骨を破壊する最後のワラである……つまり、これ以上は無理というところまで荷物を背負ったラクダに、もう1本(一束?)藁を載せたら、ラクダが背骨を折って倒れたってこと。
 堪忍袋に我慢と忍耐を貯めに貯めたけれど、最後にぶち切らせた感じとぴったり合致します(^.^)。

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2024.04.15

皐月賞、結果とほぞ嚙み

 皐月賞、結果はウラ●1着、[・]2着、〇3着なのに……この顔(-_-)

 1着―戸崎圭 13ジャスティンミラノ………[●] 単勝=4.8
 2着―モレイ 12コスモキュランダ…………[・]
 3着―川 田 08ジャンタルマンタル………[〇]
 4着―横山武 09アーバンシック……………[△]
 5着―坂 井 14シンエンペラー……………[△]

 一覧順位[F→QG→A→D] 馬群[2→4→1→1]
 前日馬順[B→G→D→F] 枠順[A→F→D→B*]

 枠連=7-6=18.9 馬連=13-12=35.5 馬単=55.7
 3連複=13-12-08=59.4 3連単=292.4
 ワイド12=14.6 W13=6.1 W23=16.2

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 本紙予想結果
 印騎手番馬        名 馬 結果
 ◎北村宏10レガレイラ     A  6
 〇川 田08ジャンタルマンタル D 3
 △坂 井14シンエンペラー   C 5
 △横山武09アーバンシック   F 4
 △浜 中02メイショウタバル  E  17
 ・モレイ12コスモキュランダ  G 2
 ・藤岡佑05ミスタージーティー 09  10
 ▲ムルザ17ビザンチンドリーム H  13
 ●戸崎圭13ジャスティンミラノ B 1

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【皐月賞、過去9年の実近一覧結果】
    一 覧     馬 順     [1234]群
2024年 F→QG→A→D B→G→D→F 2→4→1→1 乖離1・2着
2023年 G→QD→D→QH C→E→A→14 2→3→1→4 乖離1・2着
2022年 E→D→A→F F→E→A→B 2→1→1→2 乖離4着
2021年 D→QE→F→QA B→09→F→C 1→4→2→3 乖離4着
2020年 A→C→QC→QE A→C→09→17 1→1→3→4 
2019年 B→E→C→A A→D→B→C 1→2→1→1 
2018年 H→QD→E→B G→10→H→B 2→3→2→1 
2017年 QA→B→H→QJ 09→D→13→15 3→1→2→4 
2016年 QA→B→D→F H→B→C→D 3→1→1→2 乖離4着

 結果は第2群の乖離馬Bが1着→第4群乖離馬G2着→第1群トップ3着。
 昨年に続く乖離馬の1、2着となった。
 一覧トップをもっと信じるべきだったと反省。

 以下一覧データの結果です。
*****************************
 【皐月賞 実近一覧表】中山 芝20 18頭 定量57キロ
                  (人気は前日馬連順位)
順=番|馬      名牝歳|予OZ{実近}[展]3F|馬|乖|3指単複 印着
[1]
A=08|ジャンタルマンタル| 2.0{AA}[6]B|D| |DDEE 〇3
B=10|レガ レイラ  牝| 3.1{BB}[12] |A| |BAAC ◎6
C=14|シン エンペラー | 3.6{CC}[7]| |C| |CBDD △5
D=09|アーバン シック | 6.2{DD}[16] |F| |FFFA △4
[2]
E=17|ビザンチンドリーム| 8.6{FE}[18]E|H| |H09H10 ▲13
F=13|ジャスティンミラノ| 9.1{EG}[2]A|B|乖|ACBB ●1
G=15|サンライズアース | 9.9{GH}[4] |13| |
H=03|エコロ ヴァルツ |10.4{0909}[9]C|12| |
[3]
QA=05|ミスタージーティー|11.8{11F}[15] |09| |09HGH ・10
QB=07|ルカランフィースト|12.0{H11}[13] |16| |
QC=18|ウォーターリヒト |13.8{1012}[17]D|17| |
QD=02|メイショウタバル |15.2{1310}[5] |E|乖|EECF △17
[4]
QE=06|アレグロブリランテ|23.2{1216}[1]逃|14| |
QF=04|シリウス コルト |27.1{1417}[10] |15| |
QG=12|コスモキュランダ |30.0{1714}[11] |G|乖|GG09G ・2
QH=16|ダノン デサイル |31.0{1616}[14] |10| |
QI=01|サンライズジパング|31.2{1518}[8] |11| |
QJ=11|ホウオウブロサンゲ|33.2{1813}[3] |18| |

 注…「馬」は馬連順「3」は3複順「単複」は単複順位
-----------------------------
 ○ 展開予想

※展開(3Fは前走の上がり優秀5頭)
 逃げ     先行     差し     追込
 06 13 11 15 -02 08 14 01 -03 04 12 10 -07 16 05 09 18 17
覧 6 ◎ ▲ 〇 △ 5
3F A B C D E
本 ● △ 〇 ▲ ・ ◎ ・ △ △
結 1 3 5 2 4
----------------------------
--------------
 [枠連順位]
 枠連型=A流れD [AB・4巴(AE)型] 枠順AB= 5.0
 馬連型=A流れC [4巴型]       馬連AB=10.4

 枠連=ABCD/EF/GH/ 
 枠順=7514 86 23  枠順[A→F→D→B*]
 馬順=BAED HG 1209  馬順[B→G→D→F]
 代行=CF1116 1018 1514
 代2=13 17
 ―――――――――――――
 結果=14 3 2

 [オッズ分析結果]

 馬順ABCDのうちBD[13-08]がAD[10-13]より「買われている」と書いたが、結果は13ジャスティンミラノの1着、08ジャンタルマンタルの3着となった。
 これからもこうした異常事態は指摘していきたい。

 ちなみに、この異変は金曜の夜から始まって土曜朝になっても解消されず、驚くべきは日曜朝もまだBDがADより上にあった。結果馬連BDとはならなかったが、3複軸にはなったことになる。

 枠順A・Bは補強かオトリか――に関しては枠Aが補強で軸となった。
 枠Bの代行Fが4着だから、やはり注意すべきだろう。
 枠連AB型の買い目は基本[AB→CD蹴ってEFGH、ウラCD]。
 枠連のお勧めとして[AB→EF]に留めていれば的中があった。

 以下予想を再掲。
------------------------------
 馬順はABCD=10レガレイラ、13ジャスティンミラノ、14シンエンペラー、08ジャンタルマンタルの4巴。ところが、ちょっと異変がある。

 通常馬連はAB-ACの順に並び、次はAD(-AE)が来るかBCが来て3巴となる。ところが、まれに[AB-AC-BD-AD]の順になることがある。つまり、馬連BDがADより買われているということ。今回はこのパターンである。誰か(?)がBD(13-08)を多めに買っていることになる。

 これが正しければ、馬連はBDになるし、見込み違いだとBDでは決まらない。
 なんにせよ馬順A~Dの4強ということであり、馬連・3複本命決着なら、この4頭から123着が出ても不思議ではない。馬連4巴を信じれば、4強の3複ボックス4枚。

 馬連に対して枠連はもっといびつ。まず枠ABはA7枠[BC]、B5枠[AF]同居の補強枠(かオトリ)。よって枠連はAB型である。が、CDも意外に強くて(AEが入った)4巴型になっている。

 AB枠の転換は気にしなくて良さそうだが、CD枠の馬順はE(02メイショウタバル)-D(08ジャンタル)となってここにも転換がある。ただ、これは1枠02が強く、4枠08が弱いと言うべきかもしれない。

 枠順ABCD内で決まる場合、代行F(09アーバンシック)にも注意が必要。荒れるとすれば、枠EFGHが絡む場合で、E8枠F6枠までの絡みと思えるが、G2枠H3枠もカットできない。よって結論はケンが無難。

 敢えて買うなら枠連AB型を信じていつもより大荒れかと見て
 枠連表[AB→GH=7・5-2・3]、
 ウラ[CDEF=1・4・8・6BOX]。

***************************

 ※ 回  顧

 いやー強かったですねえ。ウラ●戸崎圭13ジャスティンミラノ。
 馬群はタテ長だったし、「1000メートル通過57.5」の放送を聞いたとき、ジャスティンミラノは先頭から5番手くらいの位置にいたので、一瞬不安がよぎりました。
 しかし、4角から直線にかけて先に抜け出した川田08ジャンタルマンタルをとらえたときに勝利を確信しました。残り100くらいだったでしょうか。

 問題はそこから。ずいぶんいちゃもんつけたジャンタルマンタルの先行抜け出し、直線での粘りは驚きだったものの、唯一牝馬10レガレイラは全く姿が見えない。
 となると2着は08ジャンタルであってほしい。だから、「そのままそのまま」と叫びました(^.^)。

 というのはジャスティンの直後にモレイラ12コスモキュランダが迫っていたからです。私の印は13ジャスティンミラノ●、08ジャンタルマンタル〇、12コスモキュランダは3着候補の[・]印。

 このままの並びなら、もちろん単勝・馬連・馬単・3複・3単の完全的中。
 ところが、12コスモキュランダ2着だと……馬連・3複のみの的中になります。
 単勝はもちろん買っていたけれど、馬単・3単が当たらないと大きな払い戻しとなりません。
 それを予感しての「そのままそのまま」だし、「やばい。川田粘れっ!」と叫んだところがゴール。はっきりくっきり08ジャンタルマンタル3着とわかりました。ほげ(-_-)。

 戸崎圭13ジャスティンミラノの勝ちタイムはレコード更新の1571。17年アルアインが出した1578をコンマ7も縮めました。そこまでの馬だったかとびっくり。新馬→G3共同通信杯→GI皐月賞の3連勝。ダービーで無敗2冠を目指すことになります。
 父は(ディープの仔)キズナ。キズナは供用6年目で重賞27勝、GIこれで5勝目。これからもっと活躍しそうです。

 2着モレイラ12コスモキュランダは騎手力でしょうか。ずっと中団追走で4角8番手から上がり3位の34.2(トップとはコンマ3差)で2位まで追い上げました。
 同馬は7戦[2203]。前走G2弥生賞を勝ったけれど6番人気。また、1つ勝つのに4戦もかかっています。特段優れた上がりもなかったので、3着候補かなと思いました。乖離馬とは言え第4群だから成績イマイチということ。だから、2着候補にしづらかった。

 1着ジャスティンミラノの上がりが4角4番手から34.7ですから、残り100でこの2頭の末脚は際立っていました。ダービーでは両馬の1、2番人気。そしてワンツーとなっても驚きません。
 コスモキュランダの父は皐月前レコード保持馬アルアイン。アルアインはまだ供用2年目で今後が楽しみ。

 ちなみに、今回G2V馬は2頭いました。1頭は08ジャンタルマンタル(2歳G2デイリー杯)。もう1頭がこの12コスモキュランダ(G2弥生賞V)。つまりコスモキュランダは実質唯1頭のG2V馬といって良かったのです。やっぱりG2V馬をバカにしてはいけませんね。
 私は展開面から8枠ムルザ17ビザンチンドリームを裏の▲としました。もしも唯一G2V馬12コスモキュランダを裏の▲にしていたら……空しいればたらだから書くのやめます(=_=)。

 ジャスティンミラノは亡き藤岡康太騎手が調教でまたがっていたことがあったとか。クビ差の勝利は「康太の後押し」と戸崎圭は語っていたし、調教師の友道師も「この勝利は彼のおかげ」と言って号泣していたとか。改めて藤岡康太騎手の冥福を祈りたいと思います。

 それから唯一牝馬にして76年ぶりの牝馬Vを目指した北村宏10レガレイラ。
 コンマ5差の6着に終わりました。終始後方で4角も13番手。馬群的には先頭から7馬身くらいの位置でしょうか。
 そこから上がり最速33.9を出したけれど6着が精一杯。しかし、勝ち馬とコンマ6差だから、同馬も旧レコードをコンマ1切っています。
 ればたらはないけれど、この馬たちでなかったら、レガレイラは76年ぶりの皐月賞牝馬になっていたのかもしれません。

 ところで、最後に私的悲劇を。
 表題に「結果はウラ●1着、[・]2着、〇3着なのに……この顔(-_-)」と書いた意味も含めて。

 この日もいとこ宅で一緒に競馬を楽しみました。初夏の陽気でむしろ暑いほどでした。
 私はこの日結構好調で、まず中山10レース。3Wクラス(芝2500)で武豊騎手が乗った08セイウンプラチナ。これが逃げ馬でした。単勝20倍ほど。
 彼はたぶんメインはないだろうと思ったし「逃げる豊は買い」の(マイ)ルールに従って単勝購入。

 いとこに「中山2500って有馬記念と同じ距離です。普通逃げ馬は無理と思われているけれど、たまに逃げ馬が穴あけるんです」と言ったら、さすがの豊さん。絶妙な逃げで粘って逃げ切り。単勝ゲットできました(^_^)。

 また、福島11レースでも馬連を当て、皐月賞は「連単馬券はダメだったが、まー馬連・3複的中だからプラスは確実。本日黒字決算だな」と思って帰宅。
 ルンルン気分でネット収支を確認しました。すると……。

 なんと皐月賞。単勝と馬連的中のみで3複の払い戻しがありません。
 結果他レース的中分と合わせても一日トータル元取りにしかなっていないのです。「なんで?」と思って調べたら理由が判明。

 私は裏の▲として17ビザンチンドリームを選んだので、表の●→◎10レガレイラ流しの3複と●→▲17ビザンチンドリーム流しの3複は買った。
 ところが、●→〇ジャンタルマンタル流しの3複は(もう資金が尽きて)買わなかったのです。それをすっかり忘れていました。
 最後に「とほほ(T_T)」で終わった皐月賞でした。

 以上です。

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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

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2024.04.13

皐月賞、直前予想

 最初に6日(土曜)阪神7レースで落馬、入院していた藤岡康太騎手が10日亡くなったと訃報がありました。意識がよみがえることなく逝ったとのことです。
 同騎手は07年デビューの35歳。通算803勝。GIは2勝で09年NHKマイル(10番人気ジョーカプチ-ノ)と昨秋マイルCS(5番人気ナミュール)がありました。
 私の予想でもときどき名を出していただけに残念です。その前ドバイでルメール騎手も落馬骨折の重傷を負ったし、改めて騎手の落馬って命と隣り合わせだと痛感させられます。

 昨秋マイルCSの大外16ナミュールは当初ムーア騎手でした。
 私はウラ●に坂井瑠06ジャスティンカフェを選び3着。唯一牝馬のナミュールは△、2着モレイラ01ソウルラッシュは3着候補の[・]印でした。
 馬順ABの09シュネルマイスターと01セリフォスを表の〇=〇として3複総流ししたくらいだから、馬順[E→D→G]だと普通外れです。が、オッズ分析から
------------------------------
 枠連3巴パータンでまさかのABC枠3着以下となることがある。
 そのときは枠連DEF[8・1・3]のボックスが出現するかもしれない。
 抑えたい馬連が[D-E→GH=01-16→05 06]。
------------------------------
 というわけで、ウラの枠連と3複3万馬券が当たりました。

 ナミュールがムーアからレース直前藤原康太騎手に乗り替わったと知ったのはレース後でした。
 東京ならいざ知らず、直線短い中山で4角ほぼ最後方から前の14頭をごぼう抜きしての勝利は今でも目に鮮やかです。「さすがムーア」と感心していたら、優勝インタビューに藤原康太騎手が現れたので、「えっ、なんで?」と思ったものです。

 回顧には的中報告の最後にこの件と藤原康太騎手について書いています。
 長くなりますが、哀悼の意をこめて引用いたします。

 [昨秋マイルCS「回顧」より]
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 最後に勝った16ナミュールについて。
 急きょ騎乗となった藤原康太16ナミュールは3角も4角も09シュネルマイスターと並んで最後方でした。そこから上がり最速33.0で前の14頭をごぼう抜きしたから驚きます。鞍上はおかげで(?)GI2勝目をゲットしました。
 おめでとう――ではあるけれど、藤原康太騎手はすでに35歳の中堅。17年目にしてGI2勝目は少ないでしょう。これまで重賞21勝(/448)、GI1勝目は3年目(2009年)だから、もっともっと踏ん張るべきかなと思います。

 ナミュールの単勝は5番人気なのに17.3倍の高配当でした。
 確か10倍切っていたはずだがと思って調べたら、前日単勝8.3倍。当日
朝も9.5倍でした。それが最終17.3倍だから1000円近く跳ね上がっています。
 おそらくムーア→藤原康太の乗り替わりを知った単勝ファンが「こりゃもう16番の頭はない」とばかりにABCDの単勝を追加買いしたのでしょう。その分ナミュールの単勝が上昇した。
 結果を知って「追加するなら、こっちだったか」とほぞ噛んだかもしれません(^.^)。
 こういうオッズ激変の起こらない騎手であってほしいですね。

 先行有利の京都コースで、(差し追いタイプとは言え)16ナミュールは終始最後方、直線だけの競馬を選択しました。ルメール09シュネルマイスターも同様だし、大外だったから必ずしも悪いわけではない。
 それは陣営の指示だったか、彼が考え実行したのか。いずれにせよ無欲の、もしかしたら開き直りの激走だったのではないかと思います。

 うじうじぐずぐず悩むくらいなら、死んだ気になって思い切ったことをやる。すると向こうから好結果がやって来る――典型的な例かもかもしれません。
 騎乗が彼のところにやって来たのは偶然、たまたま。
 しかし、偶然を活かすも殺すも本人次第。
 これをきっかけに一皮むけてほしいものです。
 やっぱり「GI2勝目おめでとう!」と言いましょう。

------------------------------
 GI3勝目を祝うことはもうありません。
 さみしくはあるけど、一人の若者が輝いて逝ったと思いたいものです。
 冥福をお祈りします。


 さて、明日の皐月賞。難しい感じです。
 ただ、私は(昨秋マイルCSを見たからではないけれど)唯一牝馬の10レガレイラを表の◎とします。ルメール騎乗予定が北村宏に乗り替わりました。
 北村宏騎手は99年初騎乗今年26年目。重賞37勝(/864)GI4勝。先週桜花賞でアスコリピチェーノに乗って1番人気2着でした。
 騎手も馬も「桜花賞に出てた?」とつぶやいたからからやばいです(^_^;)。
 アスコリピチェーノは[新馬→新潟2S→阪神JF]3連勝の馬でした。そう言えば、阪神JF1、2着が馬順ABで、休み明け桜花2、1着になったのでしたね。


 まずは皐月賞過去8年の実近一覧結果から。

【皐月賞、過去8年の実近一覧結果】
    一 覧     馬 順     [1234]群
2024年 →→→ →→→ →→→
2023年 G→QD→D→QH C→E→A→14 2→3→1→4 乖離1・2着
2022年 E→D→A→F F→E→A→B 2→1→1→2 乖離4着
2021年 D→QE→F→QA B→09→F→C 1→4→2→3 乖離4着
2020年 A→C→QC→QE A→C→09→17 1→1→3→4 
2019年 B→E→C→A A→D→B→C 1→2→1→1 
2018年 H→QD→E→B G→10→H→B 2→3→2→1 
2017年 QA→B→H→QJ 09→D→13→15 3→1→2→4 
2016年 QA→B→D→F H→B→C→D 3→1→1→2 乖離4着

 大まかな傾向ながら、123着は馬順Aから10位まで。馬群第4から3着内は1頭だけ[09位]。4着に3頭入っているが、馬順は[14・17・15]とチョー人気薄。逆に乖離馬は4着が多く、昨年は5頭いて「そろそろ出ごろ」と書いたら、1、2着となった。

 一覧の傾向が今年も続くようなら、第4群で取り上げるのは馬順10位まで。他は基本カット。
 第1群より1、2着に入った馬順は[B・D・A・A・B・E]。よって、第1群4頭の馬順A・Bは重い印を付けたいし、(3着まで含めると)馬順CDEにもやや重い印を付けたい。そこから馬順10位まで流す……ってのはいかがでしょう。

*****************************
 【皐月賞 実近一覧表】中山 芝20 18頭 定量57キロ
                  (人気は前日馬連順位)
順=番|馬      名牝歳|予OZ{実近}[展]3F|馬|乖|3指単複 印着
[1]
A=08|ジャンタルマンタル| 2.0{AA}[6]B|D| |DDEE 〇
B=10|レガ レイラ  牝| 3.1{BB}[12] |A| |BAAC ◎
C=14|シン エンペラー | 3.6{CC}[7]| |C| |CBDD △
D=09|アーバン シック | 6.2{DD}[16] |F| |FFFA △
[2]
E=17|ビザンチンドリーム| 8.6{FE}[18]E|H| |H09H10 ▲
F=13|ジャスティンミラノ| 9.1{EG}[2]A|B|乖|ACBB ●
G=15|サンライズアース | 9.9{GH}[4] |13| |
H=03|エコロ ヴァルツ |10.4{0909}[9]C|12| |
[3]
QA=05|ミスタージーティー|11.8{11F}[15] |09| |09HGH ・
QB=07|ルカランフィースト|12.0{H11}[13] |16| |
QC=18|ウォーターリヒト |13.8{1012}[17]D|17| |
QD=02|メイショウタバル |15.2{1310}[5] |E|乖|EECF △
[4]
QE=06|アレグロブリランテ|23.2{1216}[1]逃|14| |
QF=04|シリウス コルト |27.1{1417}[10] |15| |
QG=12|コスモキュランダ |30.0{1714}[11] |G|乖|GG09G ・
QH=16|ダノン デサイル |31.0{1616}[14] |10| |
QI=01|サンライズジパング|31.2{1518}[8] |11| |
QJ=11|ホウオウブロサンゲ|33.2{1813}[3] |18| |

 注…「馬」は馬連順「3」は3複順「単複」は単複順位
----------------------------
 ○ 展開予想

※展開(3Fは前走の上がり優秀5頭)
 逃げ     先行     差し     追込
 06 13 11 15 -02 08 14 01 -03 04 12 10 -07 16 05 09 18 17
覧 6 ◎ ▲ 〇 △ 5
3F A B C D E
本 ● △ 〇 ▲ ・ ◎ ・ △ △

----------------------------
--------------
 [枠連順位]
 枠連型=A流れD [AB・4巴(AE)型] 枠順AB= 5.0
 馬連型=A流れC [4巴型]       馬連AB=10.4

 枠連=ABCD/EF/GH/ 
 枠順=7514 86 23
 馬順=BAED HG 1209 
 代行=CF1116 1018 1514
 代2=13 17
 ―――――――――――――
 結果=

 [オッズ分析]
 馬順はABCD=10レガレイラ、13ジャスティンミラノ、14シンエンペラー、08ジャンタルマンタルの4巴。ところが、ちょっと異変がある。

 通常馬連はAB-ACの順に並び、次はAD(-AE)が来るかBCが来て3巴となる。
 ところが、まれに[AB-AC-BD-AD]の順になることがある。つまり、馬連BDがADより買われているということ。今回はこのパターンである。誰か(?)がBD(13-08)を多めに買っていることになる。

 これが正しければ、馬連はBDになるし、見込み違いだとBDでは決まらない。
 なんにせよ馬順A~Dの4強ということであり、馬連・3複本命決着なら、この4頭から123着が出ても不思議ではない。馬連4巴を信じれば、4強の3複ボックス4枚。

 馬連に対して枠連はもっといびつ。まず枠ABはA7枠[BC]、B5枠[AF]同居の補強枠(かオトリ)。よって枠連はAB型である。が、CDも意外に強くて(AEが入った)4巴型になっている。

 AB枠の転換は気にしなくて良さそうだが、CD枠の馬順はE(02メイショウタバル)-D(08ジャンタル)となってここにも転換がある。ただ、これは1枠02が強く、4枠08が弱いと言うべきかもしれない。

 枠順ABCD内で決まる場合、代行F(09アーバンシック)にも注意が必要。荒れるとすれば、枠EFGHが絡む場合で、E8枠F6枠までの絡みと思えるが、G2枠H3枠もカットできない。よって結論はケンが無難。

 敢えて買うなら枠連AB型を信じていつもより大荒れかと見て
 枠連表[AB→GH=7・5-2・3]、
 ウラ[CDEF=1・4・8・6BOX]。

********************************

 ※ 直前予想

 週中昨年の皐月賞予想と回顧を再読しました。
 というのは週中人気では「確たる軸不在で荒れ模様」と出ていたからです。
 それは昨年も同様でした。

 そして、昨年の皐月賞は事前予想通り(と言うか)一覧馬群[2→3→1→4]、[G→QD→D→QH]で決まりました。これ普通だったらとても獲れそうにない組み合わせです。
 ところが、馬順は1、2着乖離の[C→E→A→14]。3単は2万馬券だったけれど、3複は37倍。枠連も[C→B*→A]だったから、どちらかと言うとオッズは本命決着でした。
 競馬では「あるある」ですね。「荒れるぞ荒れるぞぉ」と思わせて「何だよ本命かよ」ってやつ(^.^)。

 昨年はどうして事前予想でみなさん「荒れる」と見なしたのか。
 再読して理由が判明しました。
 昨年は2歳GI朝日杯とホープフルSの勝ち馬が出ていなかったのです。
 結果、前走3勝目をあげた4頭が人気になったけれど、入着したのは3着1頭だけ。

 それより格下の2頭(横山武01ソールオリエンス(新馬→G3京成杯V)と松山14タスティエーラ(前走G2弥生賞V)が1、2着となりました。

 2歳GIの1着馬不在なら「2着馬!」と誰でも思うけれどGI馬2着馬は以下のように惨敗。つまり、昨年の結果は以下の通り。
------------------------------
・ルメル07ファントムシーフ=新V→OPV→GI4→G3V 4戦[3001]3着
・松 山14タスティエーラ =前走G2弥生賞V      3戦[2001]2着
・横山武01ソールオリエンス=新馬→G3京成杯V     2戦[2000]1着
・武 豊16タッチウッド  =新馬→G3共同通信2着   2戦[1100] 13
・川 田12ダノンタッチダウ=GI朝日杯2・G2デイリ2着3戦[1200] 18
・横山典08トップナイフ  =GIホープ2・弥生賞2着  8戦[2312] 7
------------------------------

 どうしてこのような話題から入ったかと言うと、今年は一転して2歳GI朝日杯・ホープフルS勝ち馬が出走したのに、やはり昨年同様「荒れそう」と見なされているからです。

 ここから今年の予想ですが、私の週中予想はものすご単純。
「だったら2歳GI2頭を◎〇にして3複ほぼ総流し路線だな」と(^_^;)。

 2歳GI朝日杯とホープフルS勝ち馬が以下の2頭。
・川 田08ジャンタル =新V→G2デイリV→GI朝日V→G3共同2着[3100]
・北村宏10レガレイラ =新V→OPアイビー3着→GIホープフルV  [2010]

 うち10レガレイラが唯一牝馬で76年ぶりの牝馬優勝かとひそかに、大げさにささやかれています。
 私は牝馬とは言え、ホープフルSの勝ち方、上がりの強烈さから充分勝ち負けになると見て10レガレイラを◎。08ジャンタルマンタルも前走G3共同通信杯2着でも上がりは32.6だったし、GI馬の底力から勝ち負けとなって不思議なし――と思って〇とするつもりでした。

 ところが、その後の検討、前日オッズを見てどうもこの「◎〇→ほぼ総流し」路線、成立しないのではないかと感じています。
 ちなみに「ほぼ総流し」というわけは第1、第2群の他6頭中オッズ↓を除く4頭と第3、4群の乖離馬並びに馬順09位の05ミスタージーティーの3頭に流すと言う意味です。

 しかし、実近一覧ではこの2頭が一覧トップABになりました。
 もしもこの◎-〇の馬連決着となったら、「余計なこと考えないで買やあ良かった」とほぞ噛む羽目になる可能性あり。
 よって、まず週中単純予想の◎-〇の馬連1枚と3複以下の半流し7枚を買っておきます。
 馬順[A=D→C F H B 09 E G]
 3複[10=08→14 09 17 13 05 02 12]

 さて、ここからがウラ●予想。
 まず表の◎〇へのいちゃもん(^_^;)。

 北村宏10レガレイラですが、過去3戦は全てルメール騎手。今回北村宏の乗り替わり。これがビミョー。
 そして、ホープフルSV以来の休み明け。昔暗号予想で有名だった人が「牡馬は休み明け初戦でも走る。だが、牝馬は2戦目で」と書いていたのを思い出します。
 最近はそうでもなさそうだけど、こけたら「それが理由か」と言い訳が用意されている点が気に食わない。

 何より不満なのは前日単勝1番人気・馬順Aであること。牡牝混合戦の「牝馬1番人気は切れ!」が我がルールです。また、複勝はC3番手。馬連の並びが「ADよりBDの方が買われている」ことも気がかり。やはりAの信頼度低し。
 もちろん勝てば「すごいです! 史上最強牝馬」と称賛すればそれで良し。よって、ウラでは良くて2着の▲印(のつもり)。父スワーヴリチャード。

 次いで08ジャンタルマンタル。まず父馬が不満というよりわけワカメ。「パレスマリス」って誰?
 調べたら外国の馬で日本未出走、20年供用開始の5年目。産駒出走頭数わずか7頭。重賞3勝(/5)、うちジャンタルマンタルが唯一のGI・G2V馬。「よくまー」って感じ。

 ネット検索したら父パレスマリスは19戦[7426]。結構重賞を勝っていましたが、1例を除いてダートでした。これはトンビがタカか。はたまたこのときだけの突然変異か。
 もしも来たらこれまた「ご立派!」と称賛することにしてウラでは良くて3着の△印(のつもり)。

 そこでウラ●。実は週中から狙っていた馬があります。
 戸崎圭13ジャスティンミラノです。わずか2戦。ともに東京で[新馬(芝20)→G3共同通信杯(芝18)]の2連勝馬。
 この馬前走が魅力的。東京芝18を5番手から3、4角2番手進出して上がり32.6(2位)で勝ちました。勝ちタイム良1480。
 このレース入りの3F37.3、1000メートル通過62.7のどスロー。だから、32秒台の末脚が出ても不思議ないけれど、番手追走しての上がりだから価値があると思います。この上がりは前走全馬のトップAです。
 今回ぎんぎんの逃げ馬不在で同馬は展開順2番手の位置。おそらく先行して4角抜け出して粘り込むのではと期待します。

 最後にもう1頭。レースのペースはさほど速くならないのではないか。
 そういうときこそ外枠の差し・追い込み馬の激走。ムルザ17ビザンチンドリームも[新馬→G3きさらぎ賞V]の2戦2連勝馬です。阪神芝20、京都芝18を10番手前後から上がり1位の33.9、33.7で差しており、不気味。ここはウラの▲扱いとして重視したいと思います。

 以上です。

 本紙予想
 印騎手番馬        名 馬順
 ◎北村宏10レガレイラ     A
 〇川 田08ジャンタルマンタル D
 △坂 井14シンエンペラー   C
 △横山武09アーバンシック   F
 △浜 中02メイショウタバル  E
 ・モレイ12コスモキュランダ  G
 ・藤岡佑05ミスタージーティー 09
 ▲ムルザ17ビザンチンドリーム H
 ●戸崎圭13ジャスティンミラノ B

 さて結果は?

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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

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2024.04.12

『続狂短歌人生論』59 「変えることに失敗」再掲載

 読者は「『杜子春』を一読法で読む」が全10号にもなり、さらに各号がえれえ長かったことにうんざりされたことと思います(^_^;)。私も全く予想外の展開でした。
 しかし、おかげで『続々狂短歌人生論』の執筆に行かずに済みそうです。

 今号より(昨年末お知らせしたとおり)最終章の執筆・配信に取り掛かります。
 以前お知らせしてちょっと触れた最終章の見出しは以下の通り。

 最終章「山頂のご来光――四タイプ統合の人格」

※ なぜ変えることに失敗したのか
※ 四タイプ統合を目指す
※ どんでん返しの結論 その1 変えることをやめる
※ どんでん返しの結論 その2 一読法の訓練を積め(^_^;)

 このトップ「なぜ変えることに失敗したのか」は本年1月10日に発行した37号「変えることに失敗」を受けています。
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01月10日 変えることに失敗――あなたを襲う悲喜劇と絶望
 〇 変えようと思って歩み始めたが 変えられなくて元の木阿弥
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 あれからもう3ヶ月。どのような内容であったか、はて2割くらい残っているであろうか。ぼんやりとしか残っていないのではないかと推察します。

 前号後記に書こうと思ってやめたことがあります。
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 次号は本稿本線に戻って最終章の配信を始めます。トップは「なぜ変えることに失敗したのか」の表題です。これは本年1月10日に発行した37号「変えることに失敗」を受けています。
 どのような内容だったか、忘れているでしょうから37号を再読してください。
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 こう書いても「たぶん読んでくれないだろうなあ」と思ったので、今号「37号の再掲載」をはさむことにしました。
 これによって次号「なぜ変えることに失敗したのか」がより一層理解できるだろうし、その後披瀝する「四タイプ統合の人格」の意味もよくわかってもらえると思います。ぜひお読みください。

 以下37号の前置きです。前後の見出しと狂短歌も読んで「そう言えばあったな」とうっすら思い出してください。

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  変えることに失敗――あなたを襲う悲喜劇と絶望

 2024年明けましておめでとうございます。
 年末で終える予定が年越しして新年の挨拶からスタートする羽目になりました。

 世界の情勢を見ると、とても「おめでとう」と言う気になれません。が、前号後記に書いたように、戦争が終焉し、各地の敵対関係を解消して人類共通の敵である地球温暖化、貧富の解消に向けて歩き始める――祈念の年として「明けましておめでとう」と声かけ合うもいいかな、と思うことにします(^_^;)。

 さて、「変えることに成功」して「エネルギーを与え合うことの大切さ」を語った前2号に対して今号は「変えることに失敗」した例です。ただし、ドラマ仕立てにはしていません。変えること、エネルギーを与えることに失敗したいきさつ[経緯]を書いています。

 注意していただきたいのは以下のように、新しく次号の見出しと狂短歌を掲載していること。
 年末書いたように、山頂前の難所、二か所の絶望です。今週絶壁のような絶望感にとらわれ、次週変えることの困難を思ってさらなる絶望に浸ってください(^_^;)。[本文は「である」体]


12月20日 35号 変えることに成功――エネルギーを与え合う
 〇 エネルギー 与え合うことなきドラマ 変えてうれしい花いちもんめ(^_^;)

12月27日 36号 前著結論「エネルギーを与え合う」
 〇 お互いがエネルギーを与え合う その生き方に いま進むべき

01月04日 37号 変えることに失敗――あなたを襲う悲喜劇と絶望 ―――本号
 〇 変えようと思って歩み始めたが 変えられなくて元の木阿弥

01月10日 38号 山頂前最後の難所――日本的カーストという絶望
 〇 美しき伝統 それは上と下 これぞ我らが日本の誇り(?)
01月17日 39号 一読法の復習
 〇 一読法 かくも復習するわけは どんでん返しの結論だから

01月24日 40号 日本的カーストを補強する日本語
 〇 日本では親や先生部課長を「お前」と呼ばぬ 礼節の国

01月31日 41号 一読法の復習――の復習(^.^)
 〇 上はなぜ変われないのか 報復の感情 下に発散するから


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 (^_^)本日の狂短歌(^_^)

 ○ 変えようと思って歩み始めたが 変えられなくて元の木阿弥

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***** 「続狂短歌人生論」 *****

 (^_^) ゆとりある人のための20分エッセー (^_^)

 【『続狂短歌人生論』37 変えることに失敗――あなたを襲う悲喜劇と絶望 】


 脅迫者は脅迫のドラマをやめ、批判者は批判のドラマをやめる。
 すなわち、脅迫者は怒りを見せて人を支配することをやめ、批判者は批判することで言うことを聞かせることをやめる。
 かたや傍観者は傍観のドラマをやめ、受容者は被害・受容のドラマをやめる。
 すなわち、傍観者は無関心をやめ、受容者は弱者を演じ、泣き言を吐くことをやめよう――と主張した。

 もしもこの段階で、この結論を実践された方がいらっしゃるとすれば、あなたはその後どう変わり、どう思っただろうか。
 例えば、怒りを抑え、批判(悪口)を抑えた。かたや傍観をやめ、弱々しい泣き言を言わなくなり、自己を主張し始めた。さらに、他者を誉める生き方まで実践したとしよう。それはうまくいっただろうか?

 私はその試みがほとんど「失敗に終わったであろう」ことを予測できる。
 理由? 簡単です。私自身がやってみて、うまくいかなかったからです。
 そして、今はその訳も説明できる。

 詳しく語る前に基本的なことを述べておきたい。私のこの本を読み、この説に賛同して自らの原性格に気づき、四タイプのドラマをやめようと決意する。そして、他者に愛エネルギーを与える生き方に進み始めるのは、一体どのタイプだろうか。

 例えば、あなたは前著『狂短歌人生論』を身近の人(親、夫、妻、子ども、先生、生徒)に、「いい本だから読んでごらん」と薦めるかも知れない。そういうことをやろうとするのは四タイプのうちどのタイプだろうか。

 私が推測するに、第一は傍観者タイプの方々。次いで受容者タイプ――そして……この二タイプだけで終わり、と推理する。

 なおかつ居直っていない傍観者・受容者タイプだと思う。傍観者や受容者タイプで、自分の性格に悩み、他者の傍若無人ぶりに苦しめられ、どうにかしたいと思っている方々だけである。

 その方々に声を大にして言いたい。あなたは身近の誰かに『狂短歌人生論』を薦めるかもしれない。
 だが……、
 脅迫者タイプは絶対に本書を読まない!
 強烈な批判者タイプ、完璧主義者もまず読まない!
 普通の批判者タイプは人付き合いや子育てで悩みがあれば、読むかも知れない。悩みがなければまず読まない。
 居直った傍観者と居直った受容者タイプもたぶん読まない。彼らは「傍観して何が悪い」と反論し、「変えようたって変えられないんだ」と怒るだろう。

 そして、脅迫者タイプの子ども(所謂札付き連中や、家庭内暴力児童)も本書を読まない。愛されていない(と思いこんだ)「傷ついた野良犬のような目をした子ども」も読んでくれない。

 つまり、あなたが本書の中身を理解し納得して、自分を変え、他者を変える道を歩き始めようとするなら、あなたはこの本をあてにすることなく、一人でその道をスタートするしかない――ということだ。それはとてもしんどい道である。

 あるいは、百歩譲って(?)、脅迫者や批判者もこの本を読んだと仮定してみよう。
 彼らは途中、猛烈に怒ったり、腹を立てたり、批判したりしながら、とにかく最後まで読んだ。そして、脅迫者や批判者タイプの末路がどうか、「友も家族も見捨てる独りぼっちの地獄だよ」(第2号「四タイプの老後」)とまで脅したので、彼らだってもしかしたら「私も変わらなければいけないかなあ」と思ったかもしれない。
 その人たちが、脅迫と批判のドラマをやめ、「他者を誉め、エネルギーを与える」生き方を始めた――と仮定してみる。先にこっちから行こう。

 変わろうと思った脅迫者・批判者

 まずあなたは脅迫者か批判者タイプである。あなたは脅迫と批判のドラマをやめ、人に愛エネルギーを与えるドラマを始めてみる。

 それは最初うまく行く。あなたの周囲の人や子どもはあなたが怒らなくなったこと、腹を立て批判や悪口を言わなくなったことに驚く。
 さらにあなたは機会を見つけては「誉めてくれる」。そんなあなたを身近の人は「優しくなった」と思うだろう。相手は笑顔を見せ、あなたも笑顔で応える。
 あなたは相手が何かしら今までと変わったと感じる。もしかしたらこのやり方は「いけてる」かもしれない、あなたはかすかな期待を抱く……。

 ところが、何日か経って、相手がミスを犯したり、だらしなかったり、悪いことをやったりすると、あなたの心中の怒りと腹立ちの虫がもぞもぞ頭をもたげる。
 それでもあなたは我慢する。怒ってはいけない、批判をしてはいけないと思う。だから、相変わらずの笑顔と誉め言葉で、周囲の人や子どもといい関係を保とうとする。
 だが、相手は変わってくれない。いくらあなたが誉めたり笑顔を見せても、相変わらず小さなミスを犯し、だらしなかったり、悪いことをやったりする。誉める事柄もだんだんなくなっていくではないか。

 そしてある日、とうとうあなたは堪忍袋の緒を切らす。小さな事件をきっかけに、猛烈に怒り出し、猛烈に批判を始める。

 あなたは思う、「相手を誉めるなんてことはちゃらちゃらしたおべんちゃらであり、お世辞でしかない。悪い奴ら、だらしない連中は笑顔を見せていたら、何でも許されたと思ってつけ上がるばかりじゃないか。相手にエネルギーを与えるなんてとんでもない。こんなやり方は人を変えない。むしろ人をダメにするだけだ!」と。
 あなたは、怒りまくり、腹立ちまくってェ……元の閻魔顔・般若顔としかめっ面に戻る。[うーん、何てこったぁ]

 さて、お次は「変わる」必要性を最も感じている、本命の傍観者・受容者たち。
 その「自分を変え、他者を変える」ドラマの、始まり始まり~。

 変わろうと思った傍観者・受容者

 あなたは誠実な傍観者か受容者タイプである。あなたは傍観のドラマをやめ、弱者のドラマをやめ、他者と積極的に関わり、誉める形の《エネルギー付与》を実践し始める。

 こちらも最初はうまく行く。あなたの周囲の人々はあなたが傍観しなくなったこと、泣き言や愚痴を吐かず、積極的に発言するようになったことに驚く。
 さらにあなたは機会を見つけては「誉めてくれる」。そんなあなたを、身近の人や子どもは「一層優しくなった、積極的になった」と思うだろう。
 相手は笑顔を見せ、あなたも笑顔で応える。あなたは何かしら周囲の人が今までと変わったと感じ始める。もしかしたら、このやり方は「いけてる」かもしれない、あなたはかすかな期待を抱く……。

 ところが、あなたの相手の中には名にし負う脅迫者・批判者がいる。
 とある場所、何かの会議で、あなたが良かれと思ったことを、笑顔で主張したとしよう。すると、この二タイプは(それが彼らの思想・信条、考え方・感じ方に外れている場合)怒鳴り声と強烈な理屈で反論してくるだろう。

 その攻撃はたぶん情け容赦ない。弱々しかった頃のあなたは彼らにとって守るべき味方でこそあれ、敵ではなかった。
 だが、いつのまにかあなたは強くなった。自分自身をしっかり主張し、その意見は彼らの意向(信念!)に背くものである。今やあなたは彼らにとって手強い《敵》になったのである。脅迫者・批判者はあなたに勝つために何でもやるだろう。テーブルをばんと叩いて「あんたは甘い」と怒鳴る。重箱の隅をほじくるような批判を繰り返す。

 そして哀しいかな、あなたはそのような怒鳴り声や批判に弱いタイプである。
 あなたは一生懸命に反論を試みる。だが、もちろん怒鳴ることはない。理路整然と理屈を述べることだってあまり得意ではない。
 だから、あなたの声はだんだん弱々しくなり、しどろもどろになる。おどおどして蚊の鳴くような声になったあげく、最後は議論に負けて黙りこくる。

 あなたの敗北感。切り裂かれた心の傷はいかばかりだろう。せっかく事態をよくしようと思って積極的に発言したのに、結果は自分にとってさんざんなものになった。

 やっぱり発言したってダメだ。それに彼らに対して笑顔やエネルギーを与えても、彼らは全くありがたみを感じてくれない。こっちにはちっとも笑顔やエネルギーが返ってこない。「やっぱり黙っていた方がいいんだ」と寂しく呟く。そして、この《エネルギー付与》というやり方に失望する……。[何てこったァ!]

 また、あなたの周囲の(同タイプの)傍観者や受容者に対しても、あなたは笑顔と愛エネルギー付与を心がけて対応してきた。
 するとこの二タイプはあなたが笑顔でじっくり話を聞いてくれるので大感激、自分のことをたくさん話してくる。

 あなたは全て聞いて上げる。ねぎらいを言い、大変だねと慰め激励する。もちろん誉めることも忘れない。毎日、毎日それが続く。

 相手はあなたを見つけては話したがる。だが、相手はちっとも変わってくれない。相変わらず傍観者であり、相変わらずの受容者タイプである。
 自分が脅迫者・批判者と口論しているとき、彼らは助けてくれるか、援助の声をあげてくれるか。いやいや傍観して眺め、黙っているだけだ。

 あなたは次第に疲れてくる。あなたは自分のエネルギーが相手に吸い取られるばかりだと感じるだろう。
 こんなことを続けていては自分がつぶれるじゃないか。エネルギーを与える生き方をしたって相手はちっとも変わってくれない。こんなことはやるだけ損だ。

 あなたはそう思って、最後に《愛エネルギー付与》の生き方をやめてしまう。
 あなたは元の傍観者か受容者に戻って黙りこくる……。
 せっかく開いた貝の口を固く固く閉ざしてしまう。[何てこったぁぁぁ]

 「自分を変え、身近の他者を変える」道を歩み始めたあなたは思う。
 人間という生き物は人から愛エネルギーを奪うばかりで、エネルギーを与える生き方なんてできないんだ。不可能なんだと。

 ああ、もう人間に絶望するしかないんだろうか?


=================
 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:この「変えることに失敗する」ドラマは下書きでは後半の先頭に置かれていました。繰り返しになりますが、前著の結論は「脅迫・批判・傍観・受容」の生き方をやめ、人に愛エネルギーを与える生き方に進もう――ということでした。ラストにはそれに成功するドラマまで書きました。

 だが、それがうまくいかないことはわかっていました。もしも実践したなら、上記のような経緯をもって「自分の生き方を変えること、身近の人に変わってもらう」ことはこの上なく難しいと感じたことでしょう。

 結局のところ述べたことは理屈に過ぎない。「戦争は良くない、平和が大切だ」が理屈に過ぎないように、理屈によって世界は、個人は変わりません。理屈と《感情》が一致する必要があるのです。

 そこで続編が始まりました。四タイプの生き方の根源にある感情を探ったわけです。幼いころの親との関係、兄弟姉妹が陥る愛の獲得競争、子ども時代の大人との関係。何より「愛されたい、認められたい、誉められたい」と思って生きている……のに、認めてくれない、誉めてくれない、愛してくれないと感じる。

 さまざまなキーワードを提示して「自分が変わることの難しさ、人を変えることの難しさ」を書きつづった。それが『続編』です。

 そして、続編ほぼ最後に上記「変えようと思って歩み始めたが 変えられなくて元の木阿弥」のドラマを置きました。「何てこったぁ」と絶望感に浸りましたか(^.^)?

 次号、さらなる絶望の深淵に落とされるでしょう。「一体なんなんだ?」と戦々恐々の思いでお待ちください。マッターホルン北壁にも似た断崖絶壁です。

―― 追 記 ――

 2024年初っ端から悲惨な災害と航空機事故が起こりました。
 1日震度7の能登半島地震と2日羽田空港での航空機事故。日本航空の飛行機が着陸直後、滑走路上に進入した海上保安庁の貨物機と衝突炎上しました。
 貨物機は地震の被災地に支援物資を届けるための飛行機だったから、地震がなければその衝突もなかった。そう思えば二次災害と言えましょう。
 機体が燃え盛る中、日航機の乗客乗員が全員無事脱出したことは奇跡的であり、不幸中の幸いでした。
 地震で亡くなった方、海保航空機で犠牲となった方の冥福を祈ります。
 被災者の方々にも心よりお見舞い申し上げます。

―― 追々記(4月8日) ――

 4月3日午前8時前、台湾東部花蓮地方でマグニチュード7.2の大地震がありました。
 震度6強ということで、公開された映像では建物の倒壊、部屋の中の破壊、山崩れなど激しい地震だったことがうかがえます。
 他国ではあれど、東日本大震災や能登半島地震で過分の義捐金が送られた国。犠牲になった方の冥福を祈り、被災した方々に心よりお見舞い申し上げます。
 私がちょっと思ったのは日本も台湾も地震の多い国。決して近くの大国と戦争状態になってはいけないということ。そのための話し合いを(やっていなければ)始めるべきだし、やっていれば(決裂させることなく)続けるべきだと思います。

  → 38号

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2024.04.06

『続狂短歌人生論』58 『杜子春』を一読法で読む 後半 その5-2

 『杜子春』を一読法で読む――その5の2。
 これをもって杜子春読解終了です。

 前号にて仙人・鉄冠子が後継者を探していたなら、大金を三度も使い切る杜子春は「愚かどころか大物かもしれない」と書きました。

 仙人になるには人間の欲望と情愛から超越している必要がある。天涯孤独の杜子春はぴったりであり、ならばあらゆる試練に耐えて仙人になっても不思議ではない。
 杜子春が仙人になった数十年後、泰山の麓のぼろ屋でひっそり暮らす世界をA時空とするなら、彼に満足はあるだろうか。充実した仙人生活を送っているだろうか。

 いやいや、さにあらず。お金に超越したから自ら金銀財宝を掘り起こすことはない。それを掘り出して貧しい人のために使えばいいじゃないか、と思うのは我ら凡人。彼はまたお世辞と追従の人間たちに振り回されると考える。王臣に仕えれば、密偵か暗殺者として便利使いされるのが関の山。

 仙人の力を空中飛行くらいしか使っていないとしたら、なんと皮肉なことか。「おれは一体何をやっているのだろう」と空しさにとらわれ、「仙人修行に費やされた数十年に意味はあったのだろうか」と思う……。中にはこのような仙人だっていたかもしれません。

 私がこの構想を思いついたのは2月半ばころのことです。あるニュースを知って鉄冠子に投影させました。
 鉄冠子(=仙人となった杜子春)は老いさらばえて空しさにとらわれ、仙人になるための数十年は無駄だったと思って自死を決行しようとする。それも過去の自分を抹消するという形で。

 では、鉄冠子はどうやってこの感情を克服したか――創作『鉄冠子の独白』はそれを描きました。
「えっ、そんなことが書かれていたの?」とつぶやいた方のために、今号があります(^_^)。

 青空文庫『杜子春』は→こちら


3月13日(水) 47号 『杜子春』を一読法で読む 前半その1
 〇 続編の掉尾を飾る具体例 それは『杜子春』 最適最高

3月15日(金) 48号 『杜子春』を一読法で読む 前半その2
 〇 過ちを繰り返すこと二度三度 愚かなれどもそれが人間?

3月18日(月) 49号 『杜子春』を一読法で読む 前半その3
 〇 痛い目にあってようやく変えられる 三度目ならばまだ救われる

3月20日(水) 50号 『杜子春』を一読法で読む 前半その4
 〇 やさしさと弱さゆえに変えられぬ 絶望の中希望はあるか

3月22日(金) 51号 『杜子春』を一読法で読む 前半その5
 〇 三度目に変わることなく 四度目を 迎えたならば命を失くす

3月25日(月) 52号 『杜子春』を一読法で読む 後半その1
 〇 かなえたい夢が我らを強くする されど命とどちらを選ぶ?

3月27日(水) 53号 『杜子春』を一読法で読む 後半その2
 〇 夢のため耐えて唇噛みしめる 自分を 人を 犠牲にしても

3月29日(金) 54号 『杜子春』を一読法で読む 後半その3
 〇 [狂短歌は本文末尾に掲載]

4月01日(月) 55号 『杜子春』を一読法で読む 後半その4-1
 〇 仙人はまさかのタイムトラベラー(?) 過去を訪ねたその目的は

4月03日(水) 56号 『杜子春』を一読法で読む 後半その4-2
 〇 仙人はまさかのタイムトラベラー(?) 過去を訪ねたその目的は

4月05日(金) 57号 『杜子春』を一読法で読む 後半その5-1
 〇 杜子春と未来人の仙人に 重なる記憶 愛されなかった

4月10日(水) 58号 『杜子春』を一読法で読む 後半その5-2――本号
 〇 杜子春と未来人の仙人に 重なる記憶 愛されなかった

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 (^_^)本日の狂短歌(^_^)

 ○ 杜子春と未来人の仙人に 重なる記憶 愛されなかった

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***** 「続狂短歌人生論」 *****

 (^_^) ゆとりある人のための20分エッセー (^_^)

 【『続狂短歌人生論』58 『杜子春』を一読法で読む 後半 その5-2


 本論の前にちょっと文学研究的な話題を少々。読者にとっては面白くないお話かもしれず、「タイムトラベル理論」同様さーっと通読されて結構です(^_^;)。

 これまで私は『杜子春』の読解について――初読のつぶやきや「作者なぜ?」の疑問を提示して解釈や推理を語って来ました。
 これらの疑問について『杜子春』単独を丁寧に何度も読むことであれこれ考えました。あくまで作品の説明・描写を元に推理を組み立てた。それが一読法だからです。

 が、世の中――特に大学で行われている文学研究では、作品のみの考察はほとんど評価されません。特異な解釈であればあるほど「根拠」が求められます。
 そして、根拠は作者の伝記的読み解き(?)から導き出される。すなわち、作者の生い立ち、人となり、家族・友人関係、文壇の交友等々。それが作品にどう反映されたか。それら作家研究を経てようやく「この解釈は正しい」と言えるわけです。

 また、作品に原典がある場合はそれとの比較対照で作品の解釈がなされる。これも文学研究の常套手段です。
 ちょっと回りくどい言い方で恐縮です。簡単に言うと、芥川龍之介の短編は昔の作品を元にして書かれていることが多い。たとえば、禅智内供の『鼻』は日本の古典である『今昔物語』・『宇治拾遺物語』に原典があります。それを「現代の小説としてよみがえらせた」として高い評価を受けました。

 同じことは『杜子春』にも起こっています。作品は中国の古典である伝奇小説『杜子春』を元にして書かれた。芥川龍之介の知人宛書簡に「唐の小説杜子春伝の主人公を」用いたが、3分の2以上は「創作」だと打ち明けています(ウィキペディアの孫引きです)。

 もう一つ。『杜子春』は1920(大正9)年雑誌『赤い鳥』に発表されました。『赤い鳥』は童話・童謡が掲載された児童向けの雑誌です。

 ということは前者を重視すれば、「作品のさまざまな疑問は原典との対比によって説明できる」ことになります。また、後者を意識すれば「作品に《そこまで》描かれていると言えないだろう」との批判が生まれます。「そこまで」とは私が提起したもろもろの推理・解釈のことです。

 実際「『杜子春』を一読法で読む」を書きつつ、授業風景も取り入れつつ、「これを小中の国語授業でやるのは厳しいかもしれない」と感じました。

 特に鉄冠子が杜子春を「殺すつもりだった」理由について考えるところなど、小学校児童にはちと難しすぎる。やるとすれば高校でしょうか。
 しかし、高校の教科書に『杜子春』は掲載されていない(だろう)し、自主教材としてやることも今では難しそうです。

 私は芥川龍之介の『蜘蛛の糸』は小中高全ての国語教科書に掲載されて授業でやるといいのに、と思います。今回そこに『杜子春』も追加されました。
 が、このような提案が文科省・教科書会社に取り上げられることはなく、自主教材として読まれることもない……まー無職無名の有識者(?)の発言は黙殺される運命です(^_^;)。

 それはさておき、私の解釈に原典『杜子春伝』との対比は全く取り入れていません。
 が、ネットにあった研究成果はいくつか読みました。もしも読者の中に「そんなものがあるなら読んでみたい」と考えるなら、以下のサイトを紹介します。某大学研究者による精緻な対比が書かれています。
 →『『日本と中国、二つの「杜子春」――唐代伝奇「杜子春伝」と芥川龍之介「杜子春」の比較』

 お名前はトップページにあるので記載していいのですが、以下の2点で批判したいので控えます。
 一つは杜子春が「お母(っか)さん」と叫ぶところ。
***************************************
原典:杜子春が「ああ」と声を出したのは、母が子を思う「愛」の気持ちから。
芥川:杜子春が「お母さん!」と声を出したのは、子が母を思う「孝」の気持ちから。
***************************************
 とありました。私は杜子春が「お母(っか)さん」と叫んだのは「母はこれほどまでに自分を愛してくれていたのかわかったから」と解釈しました。

 もう一つ。仙人・鉄冠子が杜子春を「殺すつもりだった」と言うところ。
***************************************
原典:テーマは「信義」。杜子春は自分が約束を守れなかったことを深く恥じる。
芥川:「嘘も方便」。杜子春は約束を守れなかったが「反つて嬉しい気がするのです」と幸せな表情を浮かべ、 仙人も「もしお前が黙つていたら、おれは即座にお前の命を絶ってしまおうと思つていたのだ」と、とんでもないことを言う。
***************************************
 「嘘も方便」は意味不明。もしかしたら「仙人は最初から杜子春を殺すつもりで、《弟子にする(=仙人になれる)》との言葉は嘘だった」と解釈しているのかもしれません。よって「とんでもないことを言う」と、仙人の理不尽ぶりを指摘することになります。その感想は当然出ていい。問題は仙人がなぜそう言ったのか。どうもその解説はなさそうです。

 私の解釈は「その三・四」で語ったとおりです。杜子春が自分を犠牲にするだけでなく、人を犠牲にして構わないと思うような人間なら、仙人にするわけにいかないと思ったから。これは途中から「気持ちが変わった」との解釈です。

 前号では「仙人は後継者を求めて各都市の若者何人かに大金のありかを教える試験を課した。大金を三度使い切るような人間なら仙人になる資格があると考えていた」との推理を新たに提示しました。これも試練の途中から「ここまで黙り通すようではかえって仙人にするわけにはいかない」と考えが変わった――と解釈できます。

 もう一つはもしも仙人が未来からやって来た杜子春なら、彼は自分を抹消しようと思っていた。だから「実は殺すつもりだった」と言う。
 こちらは「杜子春が黙り通して仙人になるとすればどうか」との未来予想に基づいた別建ての構想です。
 前号、今号は最後の突飛な「杜子春タイムトラベラー説」について解説しています。


 さて、ここから本論。
 前号に続いて創作『鉄冠子の独白』について語ります。

 この発想は2月半ばころひらめきました。
 今年1月末かつて革命の志に燃えた(であろう)男が一人逮捕されました。
 1974年に企業爆破事件を起こして指名手配され、50年間逃亡生活を送った男です。

 1月26日のネットには「逃亡50年…連続企業爆破事件のK容疑者(70)の身柄を確保 神奈川県の病院に入院中」との見出しが躍りました(報道は実名でしたが、イニシャルとします)。末期がんを患い偽名を使って入院していた男性が突然「実は」と自分のことを明かしたのです。

 これまでなぜ逮捕されなかったのか。その理由が驚きでした。「木を隠すなら森の中」のたとえを忠実に実践していた。自分の身の上、思想を全く明かすことなく、妻子も得ず、親しい友人もつくらず、ひっそりバイトをして暮らし続けた。健康保険証や免許証も持っていない。事件を起こしたときが20歳ころで、自分を明かしたのが今年古稀を迎える50年後。
 [このへんまで読めば、彼のことを『鉄冠子の独白』に投影したとの経緯がわかるでしょう]

 私はもしも彼がタイムマシンに乗って過去の自分に会いに行ったらどうだろう、と考えました。彼は十代後半の自分に何を語るだろう。逃亡生活の中ひっそり暮らす三十代、四十代の自分にも何を語るだろうかと。
 もしかしたら「最初の段階で変わってほしい」と思ったかもしれない……このように考えたとき「鉄冠子タイムトラベラー」説が生まれました。

 もしも仙人が過去の自分、数十年にわたる仙人修行と現在の自分を肯定しているなら、彼から仙人になったことを後悔する述懐は出ないでしょう。時間旅行の秘術を学ぶ必要はないし、過去の自分に会いに行くこともない。
 いわんや、昔の自分を変えようと思うことはなく、変わらなければ「殺してしまおう」という――形を変えた自殺を選ぶこともないでしょう。

 今年1月浮上した元革命戦士の思いを推察するなら……。
 彼は黙って死に「行旅死亡人」として無縁仏になる道を選ばなかった。これはどっちだろうと考えました。ほんとは自分の過去を抹殺したかったのか。「自分の半世紀は無意味ではない。オレは死ぬまで黙り続けたぞ。すごいだろう」と訴えたかったのか。

 あるいは、指名手配犯の写真を外してほしかったのか。考えてみれば、逮捕されない限り、あの顔写真は全国に掲載され続ける。さらに50年後「死亡したと思われる」としてようやく写真は外される。そのときまで――自分の死後も指名手配犯であることに耐えきれなくなったか……。

 そこで私の『鉄冠子の独白』は過去の自分を殺そうと思って時間旅行をしたけれど、実は《変えるべきは現在の自分である》との構想に基づいて書かれました。
 元杜子春の鉄冠子は仙人になったことを心から受け入れていない。肯定できていない。
 そのように構想するなら、どんな小説ができあがるだろうか。

 最近テレビドラマなどで、過去にタイムリープして昔の自分をやり直すお話が盛んです。
 失恋や仕事の失敗など、過去と違うことをやることによって不如意・不祥事を消すことができるというのでしょう。

 SFの空想物語としてわからなくないけれど、私は悲しい構想(空想?)だと思います。
 なぜなら過去の自分――成功も失敗も、歓喜も挫折も全て受け入れて今の自分がある。それを成功だけの現在にしたいとは。
 それってつまり《現在にちっとも満足していない》ことを表明しているではありませんか。私はそのようなSF小説・脚本を書きたいと思わない。

 これらを受けて創作『鉄冠子の独白』を書きました。
 タイムトラベル理論で語ったように、鉄冠子が過去に飛び込んだ瞬間、彼が知る過去と違う時空が始まった。もはや時空はA時空からB時空に変わっている。
 目の前の杜子春は貧乏ではなく金持ちの子だった。だから、金持ちから貧乏となる三度目は鉄冠子が知る二度目であり、二度で今の杜子春は「仙人になりたい」と申し出た。

 しかし、その後は「夢に固執する杜子春」が続く。そして、地獄で馬となった父母を鞭打つ場面に来る。
 かつてA時空で鉄冠子は一切喋らずに目が覚め、先代鉄冠子から「よくぞ黙り通した」と言われた。

 今閻魔大王に変化(へんげ)した鉄冠子は思う。
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 不思議なことだ。このときおれの心には目の前の杜子春が自分だと思えなかった。
 両親を鞭打てと命令したことも、やむを得ぬこととは言え、心の痛みを感じなかった。
 馬は――畜生になった父母は苦しそうに身を悶え、眼には血の涙を浮べたまま見てもいられない程嘶(いなな)いた。
 杜子春は必死に目をつぶっている。閻魔大王のおれは辛い場面を見ている。
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 ここで一読法読者に考えてほしかったことがあります。

 閻魔大王(鉄冠子)は父母が鉄の鞭で打たれ苦しむ様子を見てなぜ黙って見ていられたのか。鬼どもに「親を鞭打て」と命令したとき、なぜ心の痛みを感じなかったのか。

 前号で考えたように、A時空における杜子春は「親の愛を感じていなかった」から。
 自分の過去で馬となった父親は鞭打たれながら杜子春をののしっていた。
「この不孝者め。お前は親がひどい目にあっても見て見ぬふりをするのか。お前を育てた恩を忘れたか。お前のような奴は人間ではない。畜生以下のけだものだ」と。
 そして、母は何も言わず黙っていた。そのときかつての杜子春=鉄冠子が母の内心を思いやることはなかった。

 ここでまとめるなら、私たちは人に責められ、非難されて変わろうと思わないでしょう。
 北風と太陽の話がいい例です。旅人は北風がいくら吹き募っても決してマントを脱がない。逆に太陽が暖かい日差しを浴びせるだけで自らマントを脱ぐ。

 また、何も言ってくれない人から愛を感じ取ることは難しい。
 かつて杜子春が黙り通して仙人修行に入れたのは父の愛も母の愛も感じられなかったから――と私は描きました。それがA時空です。

 敢えて言うなら、先代鉄冠子も「仙人になるには親子の情愛など不要」と感じるような人であり、(もっと言えば)そのような人間らしい感情を持たない人間だったから仙人になれたとも言えます。

 結果、以前の杜子春は黙り通して仙人になれた。だが、彼自身はこの数十年を肯定できない。空しさにとらわれ自死の思いを消せない。ならば、過去の自分と現在の自分を同時に抹消してしまおう、と過去に出かけることにしたわけです。

 ところが、鉄冠子が飛び込んだB時空において最大の(A時空と違う)出来事が始まります。
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 だが、今父に言葉はなく、黙って責めに耐えている。そして、母からは声とは呼べないくらいかすかな声が伝わって来た。
「心配をおしでない。私たちはどうなっても、お前さえ仕合せになれるのなら、それより結構なことはないのだからね。大王が何とおっしゃっても、言いたくないことは黙っておいで」と。

 おれはそれを聞いて目に涙が浮かんだ。閻魔大王であることを忘れ、吹上(ふきあげ)のように涙があふれ出た。
 母はこれほどまでに私を愛してくれていたのか。知らなかった。もしもこの言葉を聞いていたら……。
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 我が子を責めることなく黙っている父。そして、母の子を思いやる言葉。
 この言葉は目の前の杜子春を変えた。それだけでなく、年老いた鉄冠子自身の氷のような感情も溶かされた瞬間だったと思います。

 以前「我慢の限度は三度まで」の話をしました。弱みを握られ強請られたとしても三度までは何とか我慢する。だが、三度目に生まれた殺意は次にやって来たとき実行されると。

 また、杜子春は冷たくされた知人友人に「愛想が尽きた」と感じた。だが、彼も知人友人に「今夜泊めてくれ」と頼っただろう。それが三度を超えて四度目になったとき「もう来ないでくれ」と言われ、一杯の水さえ恵んでくれなくなった。いかに善良な友人も限度を超えれば杜子春に愛想を尽かす。

 だが、母だけは三度を超えても、鉄の鞭を何度打たれても我慢できる。杜子春に愛想を尽かすことはない。「私たちはどうなっても、お前さえ仕合せになれるのなら、それより結構なことはない」と言う。
 息子がしたいように、やりたいように生きなさいと言ってくれる。それが若い杜子春を変えたなら、仙人となった杜子春も「母だけは自分を愛してくれた」と感じられる言葉になった――それを表しています。

 私は45号、46号に以下の狂短歌をアップしました。

 〇 人はみな愛されてると思うより 愛されないと感じて生きる
 〇 気づくこと あの親だけど愛された あの人だけは愛してくれた

 今愛されていないと感じて生きる辛さ、さみしさ。それを認めたくないと強がりを見せる。虚勢を張って素直になれない。それだけでなく、愛し合っているかに見える人たちを見て羨望と嫉妬を覚え、人に対して攻撃的になる。

 しかし、あの親だけは愛してくれた、あの人だけは愛してくれたとわかったとき、このいやな感情が溶かされる。過去の自分、今の自分を心から受け入れ、認めることができる――私は『杜子春』をそのように理解したし、さらにその補助として『鉄冠子の独白』を創作しました。

 芥川龍之介『杜子春』が二十代の終わり、そのことに気づく杜子春を描いたとするなら、創作『鉄冠子の独白』は古稀目前になって気づく仙人を描いた。
 思うに「あの親だけど愛してくれた、あの人だけは愛してくれた」と気づくことは年齢を問わない。いくつになっても過去の記憶をたどってよみがえらせればいい、と思うのです。

 もしも「そのような物語だったのか。気づかなかった」と思われるなら、もう一度、そして最後に『杜子春』と『鉄冠子の独白』を味わって読み直すことを勧めます(^_^)。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:ひと月前には書き上げているはずの前号と今号、脱稿したのは先週です。
 配信の間隔を短くしたためですが、本線に戻るにあたって執筆時間が必要となりました。
 なのでちょいと休刊して本稿最終章は4月24日(水)より週一に戻って再開します。が、17日(水)に37号「変えることに失敗――あなたを襲う悲喜劇と絶望」を再配信します。理由はその前置きにて。

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2024.04.02

『続狂短歌人生論』57 『杜子春』を一読法で読む 後半 その5-1

 『杜子春』を一読法で読む――後半の5回目。これをもって最後です。
 が、前号までで作品一通りの読みは終えています。よって、今号より『続編』本線に戻って最終章を書き進めていいところ。

 ところが、「どうしよう。前号で終わりとするか。もう一号書くか」(一週間ほど)迷った……あげく「作品後半の読みとしてもう1号書こう」と決めました。

 迷った理由は本号が芥川龍之介『杜子春』について語るのではなく、自作『鉄冠子の独白』について語ろうとするものだからです(^_^;)。

「おいおい。それじゃあ『後半その5』と言えんやろ」とのご批判甘んじて受けます。

 しかし、『鉄冠子の独白』について語ることは『杜子春』の読みをさらに深めることになり、特に(これまで語ってこなかった)別の解釈の紹介でもあります。
 一例をあげれば、仙人・鉄冠子が杜子春に近づいた理由。それは後継者(弟子)を探すためだった、と推理して描いています。この解釈これまで全く語っていません。

 ここで一つクイズ。もしも鉄冠子が後継者を探していたとすれば、仙人になるためには何が必要か。逆に何が必要でないか。仙人の立場になってしばし考えてみてください。
 私は二つあるかなと思います(答えは本論冒頭にて)。

 もう一つの理由は(失礼ながら)読者は「『鉄冠子の独白』を一読法で読んだだろうか。たぶん読んでいないだろうなあ」との思いがあります。
 さーっと読むと、おそらく「何これ。意味ワカンネ」となりかねない。じっくり読めば「なるほどそう来たか」との感想が出る(かもしれない)。どちらでしょう。

 というのは芥川龍之介の向こうを張って私も「短編」にするためかなり説明を省いたからです。「意味不明」派が多いかもしれないと危惧します。
 ここはやはり自作を解説しておきたい。このような気持ちから本号を追加することにした次第です。
 なお、またも長くなったので、配信は「その5-1、2」として分割します。

 青空文庫『杜子春』は→こちら

3月25日(月) 52号 『杜子春』を一読法で読む 後半その1
 〇 かなえたい夢が我らを強くする されど命とどちらを選ぶ?

3月27日(水) 53号 『杜子春』を一読法で読む 後半その2
 〇 夢のため耐えて唇噛みしめる 自分を 人を 犠牲にしても

3月29日(金) 54号 『杜子春』を一読法で読む 後半その3
 〇 [狂短歌は本文末尾に掲載]

4月01日(月) 55号 『杜子春』を一読法で読む 後半その4-1
 〇 仙人はまさかのタイムトラベラー(?) 過去を訪ねたその目的は

4月03日(水) 56号 『杜子春』を一読法で読む 後半その4-2
 〇 仙人はまさかのタイムトラベラー(?) 過去を訪ねたその目的は

4月05日(金) 57号 『杜子春』を一読法で読む 後半その5-1―――本号
 〇 杜子春と未来人の仙人に 重なる記憶 愛されなかった

4月10日(水) 58号 『杜子春』を一読法で読む 後半その5-2
 〇 杜子春と未来人の仙人に 重なる記憶 愛されなかった

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 (^_^)本日の狂短歌(^_^)

 ○ 杜子春と未来人の仙人に 重なる記憶 愛されなかった
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****** 「続狂短歌人生論」 ******

 (^_^) ゆとりある人のための20分エッセー (^_^)

 【『続狂短歌人生論』57 『杜子春』を一読法で読む 後半 その5-1

 まず「仙人は後継者を求めていた」との解釈。これは未来人であるなしに関係ないので、この件から片付けます。
 こう考えると、二つの疑問が解決され、同時に読者が「杜子春はせっかく手に入れた大金を三度も失う。なんて愚かな」とつぶやいた――その初読の感想が全く違う意味合いを持つことに気づくでしょう。

 仙人・鉄冠子が後継者を探していたと考えると、以下の描写が納得できます。
 それは杜子春と二度目、三度目に会った時、仙人が最初と全く同じことを言うところです。あのとき「あれっ仙人は相手が杜子春だと気づいていないんじゃない?」と思わせました。この感想的中です。

 仙人は後継者選定に当たっていくつかの都市で何人かの若者に大金のありかを教えた。杜子春はその一人であった。そう考えた方が筋が通ります。

 条件は二つ。みすぼらしく金がなくて困っていそうな若者。
 そして親戚縁者のいない天涯孤独の若者。

 鉄冠子は大きな都で貧しそうに見える若者何人かに、同じように金銀財宝のありかを教えた。少なくとも四大古都と呼ばれる洛陽、長安、南京、大都(北京)に降り立って各都市一人ずつ金銀財宝のありかを教えた。それも三年おきに三度教えると決めていた。

 だから、三度とも(相手に関係なく)「お前は何を考えているのだ」と同じ声かけから始まり、金を失っていれば「そうか。それは可哀そうだな。ではおれが好いことを」と頭、胸、腹が違うだけで全く同じ内容を語った。もちろん若者が大金を失っていなければ再会はなく、失っていれば三年後もう一度教えた。

 何のため? それこそ仙人修行最初の試験です(^_^)。

 仙人になるためには何が必要か、逆に何が必要でないか。
 これを考えれば彼の行動がうなづけます。
 私の考えは以下のとおり。
 1 人間の欲望から超越していること
 2 人間の情愛から超越していること

 言い換えると、人の欲望は必要ない。情愛もない方がいい。

 この世で生きる人間にとって最大の欲望とは何でしょうか。
 それはお金であり愛です。お金は誰でもうなずける。14歳の少年でさえ見切っている(15号後記N少年の卒業文集)。「金の無い者は生きていけない…いくら綺麗事を言っても、実際の社会では金が全ての面においてモノを言う…逆に言えば、金さえあれば何でもできる」と。

 一方、愛に関する欲望とはもちろん人を愛することではない。人から愛されること、自然や運命から愛されることである(と私は思います)。
 本稿の一貫したテーマであり、以下の狂短歌で示しました。

 〇 愛されたい 認められたい 誉められたい 心に秘めて人と付き合う

 想像してみてください。たくさんのお金を得てそれを自由に使える。惚れた相手にコクれば「私もあなたを愛しています」と言ってくれる。結果結ばれ、子どもを得て家族から尊敬され愛される。お金で苦労することはなく、家族問題で悩むこともない。

 住む家を突然の地震や津波で失うこともない。いや、自然災害で家を失ったとしても、家族が全員無事であればいい。たらふくあるお金で直ちに家を再建できる。
 そして、病気になることもなく寿命を迎え、家族に看取られて死ぬ……この上なく幸せな人生だったと思う(でしょう)。

 私たちは『杜子春』前半を読んだとき、次のように(ほぼ全員が)つぶやきました。
「せっかくの大金を三度も失うとは。なんて愚かな」と。

 この感想に全く別のライトが当たります。「せっかく得た大金を全く同じことをやって三度も失うとは……あなたはどこか違う。大物かもしれない」と(^_^;)。

 実はこれが仙人になれるかどうか、最初の試しだとしたら。
 杜子春を愚かと言う我ら市井の一般人――常識的人間は決して仙人になれないでしょうね。

 以前宝くじで1等(前後賞あわせて)9億円当たったら、と想像しました。
 もしもどんな理由であれ、それを3年で全て使い切ったとしたらどうか。
 途方に暮れた3年目の夕暮れ、たまたま以前と同じ宝くじ店の前にいる自分に気づく。懐には3000円入っている。使えば晩飯も食えない。でも、「ないだろうけど買ってみるか」と宝くじを10枚購入した。すると、まさかの1等当選! またも歓喜の9億を得た。

 もうこれだけで、私たちはその9億を後生大事に使う――というより、ちびちび使って多くを貯金か投信に回す。値上がりを期待して金や不動産を買う。
 もちろん知人友人に「宝くじがまた当たった」と知らせることなく、ひっそり余生を送る(でしょう)。「木を隠すなら森に」のたとえどおり、都心のタワーマンションか、お金持ちが多く暮らす一角に豪邸を買い、(借金の肩代わりをしなきゃならないような)親友はつくることなく日々を送る。

 だが、そのうち一人はまたも9億を使い切ってしまう。それが杜子春であった。
 仙人の腹積もりとしてはもう一度金塊を与えるつもりだった。だが、杜子春は生まれついての貧乏ではなく、金持ちの息子だったから、これが三度目となった。

 この流れが『杜子春』ですが、『鉄冠子の独白』では以下のように変えました。

 杜子春は元貧乏な家の生まれで、仙人から(想定通り)三度黄金のありかを教えてもらう。
 そして、三度失って「もう金はいい。仙人になりたい」と申し出た。仙人(先代鉄冠子)は「最初の試験に合格したが、決意のほどを試すべく」峨眉山と地獄の責めを体験させた。

 先ほど仙人になるには何が必要か考えました。人間の欲望や情愛から超越している必要があると書きました。なぜか。

 理由は単純です。もしもさまざまな欲望を持っていたら、仙人になれば何でもかないます。そこに情愛が絡めば、愛する誰かのために仙人の能力をフル活用するでしょう。
 それは必ずしも正しいこと、良いことに使われるとは限らない。正しくないこと、悪いことに使われるかもしれない。すると人間界はとんでもないことになる。
 ゆえに、仙人になる資格はそれら欲望や情愛から超越していること。親戚縁者のいない若者、恋愛に無縁な一人ぼっちの若者こそ有資格者と言える。

 であるなら、両親や係累のない、知人友人から見放された杜子春は格好の若者である。
 彼はさまざまな三度の試練に耐え、地獄で鞭打たれる両親を見ても声を発しなかった。
 欲望を超越し、情愛にも心を動かされない人間。これなら仙人になれる。
 杜子春は目が覚めると、先代鉄冠子から「よくぞ黙り通した。わしの弟子にしてやる」と言われた。この流れは充分あり得ると思います。

 創作『鉄冠子の独白』はこの発想と構想の元に書かれました。
 結果、杜子春は仙人修行に入って数十年の厳しい修業に耐え、見事仙人になった。

 ところが、いざ仙人になってみたら……。

 私はここに仙人=未来タイムトラベラー説を絡ませました。
 前号を読まれた読者の感想は「あまりに突飛な空想であり、勝手な構想に基づくスピンオフ小説だ。論評するほどでもない。どうぞご自由に」とつぶやいて終わりにしたのではないかと推察します。「芥川龍之介への冒涜だ」と怒り出す人さえいたかもしれません(^_^;)。

 しかし、以前第三節読了時杜子春が「仙人になれるかどうか」未来予想をしました。その中に次の予想があります。
------------------------------
 杜子春は見事仙人になって自分で黄金を見つける。四度目どころかなくなればまた黄金を掘り出し、都一の大金持ちになる。もはや貧乏になることはなく豪華な邸宅で妻子を得て死ぬまで幸せに暮らした。めでたしめでたし(^.^)。これは楽観的未来。
------------------------------

 この言い方、すでに「違うだろ」とつぶやく内容になっています。なぜなら、杜子春は三度大金持ちになって三度それを失ってうんざりした人。それが仙人になれたとして「これでいくらでも金銀財宝を掘り出せる」と豪邸で友人たちと遊び暮らす――なんてあり得ません。

 ただ、この未来予想を一言でまとめれば「仙人になれる」ということです。
 これをもっとふくらませるとどうなるか。

 仙人になれて「めでたしめでたし」と思う楽観的未来予想があるなら、この反対地点に「仙人になれたが、あまり良くなかった。むしろならない方が良かった」との悲観的・失望の境地がある――それに気づきます。これはふくらませていい未来予想です。

 [ここで「そうか。『鉄冠子の独白』はそれを描いたのか!」と膝を叩いてほしいところです(^.^)]

 私は仙人に次のように語らせました。
------------------------------
 しかし、仙人となって自分は一体何をやっているだろうか……海上を歩き、空を自由に飛び回れる。地面のどこに黄金が埋まっているか透視できる。それがなんだと言うのだ……先代を失くした今、おれのことを知る者はいない。愛してくれる人もいない。愛する人もいない。それはおれがもはや人間ではないから。仙人だから。
 おれは仙人になるためこの数十年を犠牲にした。そして、年老いて夢をかなえた。
 だが、この数十年に意味があるのか。夢をかなえても、おれは一人ぼっちで死にゆくばかりだ……
------------------------------

 これは私が勝手に想像した言葉ではありません。根拠はもちろん『杜子春』にある。
 杜子春は「人間というものに愛想を尽かした」人です。知人友人、男も女も金があればお世辞と追従を言ってちやほやしてくれる。だが、金がなくなれば冷たく扱う――結果、彼には親友がいない、恋人もいない。そのような人間が仙人になって年を取れば《考え、感じるであろう》姿です。

 杜子春には仙人になって「何かをしたい」というのがない。帝王になりたい、友人のため、恋人のため、子どものために仙人になりたいわけでもない。だって人間――人間界に愛想が尽きているのだから。

 杜子春は黙り通して仙人となる資格を得た。だが、仙人になってみて後悔しているかもしれない。いや、空しさと絶望さえ感じているなら、自死の誘惑に駆られても不思議ではありません。

 これらをまとめて以下のように読み取った人はかなりの読書力だと思います。

 杜子春は作品冒頭で「春の日暮れ…財産を費(つか)い尽くして」ぼんやりしているとき「いっそ川へでも身を投げて、死んでしまった方がましかも知れない」と考える。彼は二度目に大金を得てそれを失い、三度目にまた失ったときも同じことを考えたのではないか。

 仙人になる夢をかなえたとしても、誰のために使うか、何のために使うか――それがない人は空しさを感じる。二十代で自死の思いにとらわれた人は夢をかなえても、年をとっても同じ空しさを感じ、自死の思いを否定できない。
 創作『鉄冠子の独白』はそれを描きました。そして、どうやってこの思いが克服されるか――それも書きました(^_^)。

 閑話休題。
 もう一つ膝を叩いてほしいこと。
 それがタイムトラベル理論を使ったA・B時空の構想です。

A=杜子春が見事仙人になった世界。彼は全ての試練に合格して仙人になった。だが、夢を達成して後悔している。これをA時空とする。

B=これに対して「昔の自分に変わってほしい、仙人になる夢をあきらめてほしい。それができなければ殺してしまおう」と考えて鉄冠子は過去に飛び込んだ。その瞬間始まった時空がB時空。
 『鉄冠子の独白』はA時空とB時空を交差して描いています。

 ここがわかりづらいところなので、解説が必要だろうと思いました。

 A時空をまとめると、
 杜子春は仙人から教わった大金を三度得て三度使い切る試験に合格し、さらに峨眉山の試練、地獄の拷問と両親への責めを見て黙り通す試練に耐えた。これを受けて先代鉄冠子の弟子となり、厳しい修業の末仙人になることができた。

 B時空をまとめると、
 元杜子春の鉄冠子は杜子春を変えようと思って未来から現代にタイムトラベルする。その瞬間新しい時空が始まった。彼は昔と違う出来事が起こることにとまどう。だが、それは望むことでもあり、先代鉄冠子と同じ流れに乗って杜子春に対する。

 A時空の杜子春はなぜ両親が鞭打たれる責めを見ても黙り通したのか。
 そのわけは「B時空の反対だった」と考えることで導かれます。
 B時空の杜子春が「お母(っか)さん」の声を発したのは母の言葉を聞いたから。父が何も言わずに黙っていたから。

 この逆となるA時空では閻魔大王が杜子春を責める。「この親不孝者め」と。そして、父も同じ言葉を吐き、「お前は畜生以下だ、けだものだ」とののしる。母は黙って何も言わない――そのように構想したわけです。

 以前杜子春が峨眉山や地獄で黙り続ける理由として次の二つをあげました。
 1 仙人になりたいという強い決意があるから
 2 鉄冠子の言葉を信じて心を操られているから

 これによって杜子春は自分を犠牲にしても我慢し続ける。他人を――父と母を――犠牲にしても黙り続けるわけです。私はここにもう一つ付け加えたい。それが「杜子春は誰からも愛されなかった」との思いです。

 3 杜子春は父と母から愛されたと感じていないから

 杜子春は父と母から「愛された」と感じていない。愛されたと感じていないから、両親が鉄の鞭で拷問を受けても見ないふりをして黙り通す、と言えるわけです。
 たとえば、そこに杜子春の友人100人を並べて鉄の鞭を叩かせたらどうか。貧乏になったら冷たくされた友人たちに、杜子春は何の義理も恩も感じることはない。
「オレはお前の親友だったじゃないか。助けてくれよ。何か言ってくれよ」と哀願されたって杜子春は心の中で「お前はひと椀の水さえめぐんでくれなかったじゃないか」とつぶやくでしょう。つまり、黙り続ける。
 両親もまた愛されたと感じなければ、友人たちと同じ集団の一員に過ぎません。

 作品に両親と杜子春との関係は描かれていません。どのように育てられ、いつごろ亡くなったのか全く不明。ただ、一つだけわかっているのは杜子春が両親の死後受け継いだ財産をぜいたくをして使い切ったこと。
 たとえば、それに3年かかったとして20歳の春仙人に出会ったなら、両親は17歳までに亡くなっている。思うに母が先で父が後ではないか。すると二度目に仙人と会うのは23歳、三度目は26歳の春となります。

 私は以前金持ちの子として生まれた杜子春について以下のように書きました(49号「後記」)。
------------------------------
 幼いころから食事はいつも出てきた。欲しいものは親が何でも買ってくれた――か、(厳しい親なら)「贅沢は厳禁」と言われ、ちょっとしか買ってくれなかった。
 本稿との関連で語れば、前者なら親の愛は空気になってありがたみを感じない。後者なら「うちは金持ちなのに冷たい親だ」と思って親の愛を疑う。
------------------------------

 ここにもう一つ追加できます。
 たとえば、黒田三郎の詩です。詩集『小さなユリと』を参考に「子捨て」について語りました。幼いユリちゃんにとってお母さんが病気で入院することは《自分が捨てられた》ことを意味すると。
 親としては「仕方がないじゃないか。そんなふうに感じるのは良くない」と言いたいところ。だが、自分が困っているとき頼りたくても母は駆け付けてくれない。理屈では助けに来られないとわかっていても、「自分なんかどうでもいいんだ、捨てられた」と感じる。

 この最大のものが親の死でしょうか。母もなく父もいなくなれば、自分は完全に見捨てられたと感じてしまう。ならば、自分も父や母を見殺しにする。一体何が悪いんだ――そう感じるのも人間ではないでしょうか。
 これもまた拷問を受ける両親を助けに行かない=黙り続ける理由になるかもしれません。

 私は『続編』第22号「見捨てて当然の親」の中で以下の狂短歌を詠みました。

 ○ 四タイプ それをあらわにする親は 捨てるしかない 捨てて当然

 四タイプに固執する親の子は「愛されている」と感じられない。「見捨てて当然の親だ」と書きました。してみると、私は地獄で馬となって鞭打たれる両親を見て声を発しない人間と見なされそうです。

 杜子春は父と母から愛されたと感じていない。実のところ愛されていたと感じることはあったかもしれない。だが、人間は忘却の生き物であり、父母の死とともにどんどん忘れられる。
 大金を得て友人知人からちやほやされれば、そのときは「愛されている」と思うだろう。
 だが、金がなくなって冷たくされれば「愛されていない」と感じる。杜子春は三度体験して人間に愛想が尽きた。
 ゆえに、杜子春は夢のためには自分を、人を犠牲にして構わないと考える。『杜子春』の仙人・鉄冠子はそれを良くないことと考えたので、「黙り通せば殺そうと思った」と言う。

 しかし、人間の欲望と情愛を超越することが仙人になる条件なら、この対極には黙り続ける杜子春がいるはず。目覚めたら仙人から「よくぞ黙り通した」と言われて仙人になることに成功する。私はそれをA時空として『鉄冠子の独白』を書きました。

 ただ、この構想だけなら、仙人となった杜子春の数十年後を描く必要はないし、彼をタイムトラベラーとする必要もない。この構想には別の理由と言うか意図があります。

 この構想によって私が描こうとしたのは何か。
 過去の杜子春に変わってほしいと思う時、それは同時に仙人となった(数十年後の)杜子春が変わることも意味する、ということです。
 創作『鉄冠子の独白』で仙人は杜子春が仙人になったこと、数十年後の杜子春とする必要があったのです。

=================
 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:おそらく読者は末尾を読んで「えっ、どーいうこと?」とつぶやくでしょう。
 冒頭の狂短歌
 ○ 杜子春と未来人の仙人に 重なる記憶 愛されなかった

 ――この意味も今号だけでは意味フメーと思います。さらなる解説は次号にて……(^_^)。

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