『続狂短歌人生論』70 どんでん返しの《感情》その3
前号を読み終えて「だから『続編』の最後に《どんでん返し》とつけたのか」とつぶやいたのではないでしょうか。
前著『狂短歌人生論』と本稿『続編』の下書きが書かれたのは(高校教師退職直後の)2000年ころ。原稿用紙にして1000枚。表題は『自立と成熟への道』でした(^_^;)。
完成を知らせた友人たちから「長すぎる。誰も読まない。大げさな表題だ」と悪評ふんぷん。まーさりなんと書籍化をあきらめ、辛うじて前半を『狂短歌人生論』として出版したのが2007年。世の話題になることなく、(すでに出版3冊目で)続編作成のオゼゼと気力が尽きました。
執筆から勘定すれば早二十数年。生まれた赤ん坊が20歳を過ぎるほどの年月の経過です。そりゃあ、私の考えだっていろいろ変わります。
しかし、前著と『続編』の元は同じ。一昨年前著のメルマガ公開に踏み切り、その後「下書きの後半を続編として公開しようか」と考えました。
当時最初に思ったことは「公開に値するか」との不安。何しろ20年の空白があります。ただ、答えは『自立と成熟への道』1000枚(!)を読み直してすぐに出ました。
と言うか前著をメルマガ公開しつつ、「もう出版できそうにないので続編はメルマガにしよう」と思っていました。脅迫・批判、傍観・受容の四タイプについて深掘りした部分や、「四タイプ統合の人格」を前著ではカットしていたからです。
オゼゼのなさは変わらないけれど、意欲が復活しました(^_^)。
同時に二十数年を経て変わったこともあり、それをどう続編に反映させるか。これが悩みの種でした。
前号のように下書きでは「核家族、共稼ぎの親が我が子を保育士に育ててもらう」ことは「子捨てにあたるのでは?」との例は「保育士が四タイプ統合の人格をもって育てる方が1タイプの親が育てるよりいい」に変わっていました。
他にも同様の例があって結局それは最後に入れるしかない。そのときはそれまでの記述をひっくり返すことになる。ゆえに「どんでん返し」とつけたわけです。
さて、前号の一読法的復習。
以下のところで「なぜできないのだろう」とつぶやきましたか。
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途中を省略して結論を語ると「ゆえに子を持つ親御さんも四タイプ統合の人格をもって子どもを育ててほしい」と言いたいわけです。
ところが、保母さん保父さんにはできても、実際の父親、母親が同じことを行うのはとても難しい。
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なぜ難しいのか。この答えは本文の中にほのめかされています。
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仕事だから素の自分や感情を抑えて演技できる。だが、帰宅すれば、我が子や伴侶に対して「統合の人格者」を演じることをやめる。
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ここでどうしても「演技」について考えねばなりません。
演技という言葉から思い浮かぶイメージを「ひっくり返す」必要があるからです。
演技と聞けば「自分ではない人やものを演じる」と思っていないでしょうか。
これをひっくり返すとは?
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(^_^)本日の狂短歌(^_^)
○ 演技だと言いつつ演じられるのは その人自身 生きざま全て
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***** 「続狂短歌人生論」 *****
(^_^) ゆとりある人のための20分エッセー (^_^)
【『続狂短歌人生論』70 どんでん返しの《感情》その3 】
その3「演技と真の姿?」
みなさんは「演技・ドラマ」の言葉にどのようなイメージを持ち、何を連想しますか。
やはり映画、演劇、テレビドラマ。演技する男優、女優の俳優さんでしょう。役者という言葉があり、かつては河原乞食なる言葉もありました。
そして、彼らは訓練を積み重ねたプロ、玄人であり、我ら一般人は素人。演技なんかできないと思いがち。
だから「四タイプとは性格・人柄ではなく演技である。統合の人格も演技であり、我々はドラマを演じているんだ」といくら強調しても、すんなり受け入れがたい。何となく違和感を覚えるのは「演技・ドラマ」の言葉ゆえでしょう。
余談ながら、私たちは「演劇とは舞台上で人が役柄を演技する」と思っています。
たとえば、泥棒とおまわりさんが登場するなら、ある俳優Aは泥棒を演じ、別の俳優Bがおまわりさんを演じていると。
当たり前の話ながら、Aさんは泥棒ではなく、Bさんはおまわりさんではない(^.^)。
観客が見ているのは(演技された)泥棒であり、おまわりさんである。
ということは別の俳優Cさんが泥棒となり、Dさんがおまわりさんとなっても大差ない。私たちは依然として演じられた泥棒、演じられたおまわりさんの言動を見ている(と思っている)。
演技のうまさ(下手さ)は泥棒がうまく表現されているか、おまわりさんをうまく演じているか、そこにあると思う。つまり、舞台俳優は泥棒やおまわりさんの《まねをしている》。俳優は泥棒を表現し、おまわりさんを表現していると……。
私は演劇についてずっとそう思っていました。私だけでなく多くの人に共通する感想ではないでしょうか。
ところが、ある本を読んでそれは勘違いだと知らされました。俳優は泥棒やおまわりさんのまねをしているのではない――というのです。
俳優が表現しているのは「その人自身」であると。すなわち、泥棒のまね、おまわりさんのまねではなく、俳優は舞台において泥棒Aになる、おまわりさんBになる。心の底から泥棒になる、おまわりさんになると考えればわかりやすいでしょうか。舞台に立つ限り、俳優は本物の泥棒、本物のおまわりさんとして生きるってことです。
これを突き詰めると、私たちが舞台で見ているのは(見るべきは)Aさん、Bさんその人である。
現実の泥棒やおまわりさんが何を思い、何を考え、何を感じるか。それは一人一人みな違う。よって、同じ役を演じてもCさん、DさんはAさん、Bさんと同じにはならない。
このことをわかっていない人は、たとえばシェークスピアの『ハムレット』を一度見たら、別の俳優がハムレットを演じたとしても、見に行かないでしょう。だが、表現されているのは俳優その人だと理解している人は見に行く(はず)。
ここんとこ演出の違いとか、「脚本(日本なら翻訳)が少々変わったそうだが、どう変わったのだろう」との関心で見に行く――とは意味が違います。
繰り返すと、俳優はハムレットのまねをしているのではない。俳優自身を表現しているのです。
二つ目の余談。
私は以前テレビドラマや映画――特に勧善懲悪の時代劇で、自分が登場人物を勝手に決められるなら、「こうしたい」と考えたことがあります。
それは悪役と正義の味方の主人公をひっくり返すことです(^.^)。
たとえば、暴れん坊将軍とか遠山の金さんとか大岡越前、水戸黄門など。
主人公徳川吉宗、遠山金四郎景元、大岡越前守忠相、水戸藩主・徳川光圀とその一派(?)は最初から最後まで正義の味方であり、弱きを助け強きをくじく。善人であり決して悪には染まらない。プロレスで言うなら善玉のベビーフェイス。
一方、それぞれには悪代官やお菓子の下に小判を忍ばせる悪徳商人、極悪非道の盗人やその配下――言わばみんなどうしようもない、根っからの悪人が登場します(^.^)。プロレスでは悪玉のヒールフェイス。
そして、悪役を演じる俳優はいつも同じ。いかにも悪そげな顔して悪を実行する。
主人公に悪を暴露されると、一度は認めて「ははーっ」とひれ伏すけれど、往生際が悪いことも共通して家来や配下に「殺してしまえ」と命令する。
かわいそうに部下は主人公にばったばったと斬り殺される(か峰打ちで痛い目にあう)。
この悪役と正義の味方役をひっくり返す――すなわち、善なる主人公を悪役側の役者が演じ、悪役とその配下を正義の味方である主人公側の善人たちが演じるわけです(^.^)。
どうです。想像しただけで「どう見えるだろう?」とわくわくしませんか。
えっ、「しない? 見たくもない?(^.^)」
かつてのプロレスはショーとしてベビーとヒールがあり、その入れ替えがありました。ただし、同じ国ではなく、たとえば日本ではベビーだけれど、アメリカに行けばヒールとなった。逆もまたしかり。ヒール役は凶器を隠しており、それを使ってベビー役を痛めつける。その極悪ぶりにアメリカの観客は「キルザジャップ!」と叫び「リメンバー・パールハーバー!」と叫んだ。
さて、私の余談は本論と無関係ではありません。
かくして、冒頭の狂短歌につながります。
○ 演技だと言いつつ演じられるのは その人自身 生きざま全て
どのようにつながるかと言うと、二方向。
一つは観客(視聴者)側の見方。私たちは常に正義派・善玉を演じる役者を見て彼が「善玉を演技している」ことを忘れ、「あの人はいい人だ」と思いがち。
逆に何度も登場してにくにくしげに笑い、極悪非道のことをする悪役を「彼は普段から悪い人間だ」と思いがち――てなことはない(^.^)。
さすがに後者は「そんなことはない」とセーブする気持ちが働くので、「あんな悪人殺してしまえ」と叫ぶ人はいない。
もっとも、その区別がつかない人がテレビドラマなど健気でやさしいヒロインをいじめるヒール役の女優に対して「あんたはひどい人間だ」と誹謗中傷のメールを送ったりする……。
以前悪役で有名な男優さんが青汁のCМに出たことがあります。
コップ一杯の青汁をごっくごっく飲んで、「かーっ、まずい!」と叫ぶ。
普通なら「うまい!」と来るところ逆転の発想で有名になりました。
彼は「悪役商会」を結成してその会長となっています。私以上に「悪役と善玉が入れ替わっていたら」と思ったかもしれません。
もう一つは演じている側の見方。常に善玉を演じる俳優さんは「良い人」と思われ、非難されることなく、誹謗中傷されることもない。
ところが、つくりあげられたイメージは俳優を苦しめるかもしれません。少なくとも私生活は清く正しく生きねばならない(でしょう)。善玉のイメージを壊せないから、仕事は常に善玉の役を演じるしかありません。
たとえば、将軍吉宗、大岡越前、遠山の金さん役の俳優は現代版刑事ドラマに登場してもやはり善玉であり正義の味方。決して悪役を演じることはない。すると、観客はますます彼が「生来の善人であり、正義の味方だ」と思う。
ここでさらに私的余談。私は十代のころ映画『ベンハー』を見て大いに感動しました。前後編3時間半の大作。当時70ミリという大画面の映画館があって土肝を抜かれる大迫力で二十代まで再公開のたびに見に行ったものです。
主人公ジューダ・ベンハーの波乱に満ちた半生、キリストとからませた物語。最後のレースシーン、そして恋人エスサの愛と奇跡によって復讐の思いが氷解する……。とても一言では説明しきれないので、見たことがなければビデオをご覧ください。今でも私のベスト1です。
それから20年くらい経ってアメリカのニュースで「全米ライフル協会」総会の映像を見ました。会長が壇上で何やら語っています。
全米ライフル協会とは「銃の規制に断固反対する」組織として有名。そのとき壇上の会長の顔を見て「あれっ、チャールトン・ヘストンじゃない?」とつぶやきました。ベンハーの主人公です。後にそうだとわかり、ちょっとショックを受けました。あの映画の主人公を演じながら、愛を信じることのできない人だったかと思って。
閑話休題。
脅迫・批判、傍観・受容という四タイプは演技である――もこれと同じ。
脅迫者が見せる閻魔と般若の怒り顔、怒鳴り声。
批判者が見せるしかめっ面、批判と言う名の悪口。
傍観者が見せる喜怒哀楽のない無表情と沈黙。
受容者が見せる敵意のなさを示す優しい微笑み。
それらは子どものころから身に着けた演技である……が、同時にその人自身である。
善人役の俳優が悪人を演じることが難しいように、各タイプは他のタイプを演技できない。かたや悪人役の俳優が正義の味方を演じたいと思っても、プロデューサーも監督も、観客・視聴者もそれを許さない。
もう少し簡単な言葉で言うと、人は四タイプを演じているうちに心底そのタイプになりきったということです。その人の身近にいて彼・もしくは彼女を見ている人は(善人役の俳優は善人だ、悪人役の俳優は悪人だと感じるように)心底脅迫者だ、批判者だ、傍観者だ、受容者だと感じてしまう。
ここから出る結論は「そんなことはない。演技なんだから四タイプの心底は違うんだ」となります。
では「彼らの心の奥にある真の姿とは?」と問うなら、本稿にてすでに答えは出ています。第4号の狂短歌、
〇 四タイプ 人と闘う基地と武器 心はみんな弱いニンゲン
さらに、「心の弱さとは何か」と問うなら、これも第27号の狂短歌、
〇 愛されたい認められたい誉められたい 心に秘めて人と付き合う
愛されたい、誉められたい、認められたくてある人はケンカが強いことを誇示する脅迫者になった。
愛されたい、誉められたい、認められたくてある人は懸命に勉強して90点以上を取れる完璧さと言葉を駆使する批判者になった。
愛されること、誉められること、認められることをあきらめてある人は事態を傍観する傍観者になった。
誉められず、認められなくても愛されるために、ある人は何でも受け入れて相手に従う受容者になった。
ならば、結論は明らか。
私たちは四タイプの脅迫・批判、傍観・受容者に対して「愛すること、認めること、誉めること」ではないだろうか。
だが、ここで最大の壁、解決困難な(と思える)難問にぶつかる。
こちらが四タイプに対して「愛してる、認めている、誉めている」と思っても、四タイプはそう感じてくれないことだ。
これについては次号。『続編』ラストを飾るにふさわしい(^_^;)、最後のどんでん返しを。
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最後まで読んでいただきありがとうございました。
後記:突然ですが、次号をもって狂短歌人生論『続編』にエンドマークを打ちます。ようやく終わりかあ……とは読者の偽らざる心境でしょうか。
もっとも、私の方はまだ少し(びろう[尾籠]な表現で恐縮ながら)残便感、残尿感があります(^_^;)。「おいおい」てか?
しかし、すでにお気づきと思います。「どんでん返し」と言いつつ、内容はこれまでの繰り返しが多いことに。
と言うのはこれまで「こうこうこうだ」と書きつつ、どんでん返しの部分をほのめかしたり、それを含んで書いていたからです。ただ、各章各節の時点で「ここはひっくり返していますよ」と明示しなかっただけ(^.^)。
かくして本節最後の「壁・難問」について考えてみようという方は
「第13章 人はみな愛されないと感じて生きる」の(45号、46号)を読み直してください。答えが見つかると思います。
第45号狂短歌
〇 人はみな愛されてると思うより 愛されないと感じて生きる
第46号狂短歌
〇 気づくこと あの親だけど愛された あの人だけは愛してくれた
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