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2024.06.16

『続狂短歌人生論』69 どんでん返しの《感情》その2

 前号後記のクイズ――統合の人格を演じている職業とは?

 再読すれば、本文冒頭の言葉がヒントだと気づいたでしょう。
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 以前「子どもに愛エネルギーを与えよう」と書いた。子どもに対して「すごいじゃないか」と誉めること、「がんばれ」と励ますこと、「よくやったね」とねぎらうこと。これによって子どもはエネルギーがふつふつと湧いてくる。元気になる。
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 さらに付け足せば、子ども同士のけんかに対して理由を聞き、「それはあなたが悪い」と強く叱ることができる。
 何かを始めたとき、同じことが他の子どもにできてある子にはできない。だが、焦ることなく、「ダメね」と言うことなく、「いいんだよ」と慰め、達成するまで待つことができる(^.^)。

 もうおわかりでしょう。
 その職業とは子ども園や保育所、幼稚園の先生。
 いわゆる保育士。保母さん、保父さん、幼稚園教諭の方々です。

 今号はこの件について語ります。狂短歌は以下。

 〇 保育園 先生方は統合の人格もって 幼児を導く

 趣旨としては「統合の人格をもって子どもたちと接することが子どもたちを四タイプ統合の人格者に育てている」と言いたい。

 が、前半を読み終えたとき、「どうしてこれがどんでん返しなんだ?」との感想を抱くと思います。
 いや、一読法実践者なら、そうつぶやいてほしい。小見出しは「四タイプ統合の保育」とある。狂短歌も内容も保育に関わる方々が統合の人格をもって子どもに接している――と語っているだけ。それがどうして「どんでん返し」なのか。

 どんでん返しとは何かがあってそれをひっくり返す(ひっくり返される)こと。
 保育士や幼稚園の先生について語った話題は「一体何に対してどんでん返しなの?」と感じるはず。

 そこで「ここから後半」のところで立ち止まって考えてみてください。
 しかし、この問いは相当の難しさです。筆者の私にしかわからないかも(^_^;)。
 それでもこの難問に挑戦しようと試みる方のためにヒントを一つ。

 ヒントは『続編』第6章「子捨て、親捨てのドラマ」(17号~22号)にあります。

 おヒマなら狂短歌を読み、気になったところを再読してみてください。
 実は前々号(67号)のある個所はこの件の伏線になっています。
 おそらく前々号を読んだとき、「ここは何かの伏線かも」とつぶやいた人は皆無でしょう。
 さらにおヒマな方は本文を読む前に67号の再読も勧めます。

 そして「ここが伏線かもしれない」と気づけば……今号の答えを見い出すことができるかもしれません(^.^)。 [本文は「である」体]


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 (^_^)本日の狂短歌(^_^)

 ○ 保育園 先生方は統合の人格もって 幼児を導く

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***** 「続狂短歌人生論」 *****

 (^_^) ゆとりある人のための20分エッセー (^_^)

 【『続狂短歌人生論』69 どんでん返しの《感情》その2 】

 その2「四タイプ統合の保育」

 以前だったら、奥さんいない、子どもはいない、育てたこともない、私のような個人が保育園、幼稚園のことを実地に見ることはほぼ不可能でした。
 ところが、近年はケーブルテレビの復旧で地域の行事、小中高の入学式・卒業式、授業や運動会、文化祭などが放映されます。その中に子ども園も出てきます。私はときどき眺めて「ははあ」と現状を把握できるわけです。

 その前も(母の死後)実家の裏に幼稚園と保育所ができたので、帰省したときなどいやでも子どもたちや先生方の声が聞こえてきました。
 屋内で活動しているときは静かだけれど、外を走り回って遊んでいると、きゃあきゃあ、わいわい言う声がうるさいほど聞こえます。
 もっとも、10年ほど前二つは「子ども園」として統合され、場所も移転したので、子どもの声や叱る先生の声も聞こえなくなりました。

 こうした現実を見聞きして、保母さん、保父さんたちが「脅迫・批判、傍観・受容の四タイプ」を統合させて子どもに接している――ことがよくわかりました。

 前置きを再掲すると、
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 以前「子どもに愛エネルギーを与えよう」と書いた。子どもに対して「すごいじゃないか」と誉めること、「がんばれ」と励ますこと、「よくやったね」とねぎらうこと。これによって子どもはエネルギーがふつふつと湧いてくる。元気になる。
 さらに付け足せば、子ども同士のけんかに対して理由を聞き、「それはあなたが悪い」と強く叱ることができる。
 何かを始めたとき、同じことが他の子どもにできてある子にはできない。だが、焦ることなく、「ダメね」と言うことなく、「いいんだよ」と慰め、達成するまで待つことができる(^.^)。
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 これこそ統合の人格であり、そのドラマを演じている様子です。
 これが何をもたらすかと言うと、子どもたちがどうも「統合の人格者に育っているのではないか」と感じます。
 この詳細は後述としてまず次の点を語っておきます。

 途中を省略して結論を語ると「ゆえに子を持つ親御さんも四タイプ統合の人格をもって子どもを育ててほしい」と言いたいわけです。
 ところが、保母さん保父さんにはできても、実際の父親、母親が同じことを行うのはとても難しい。
 なのに、保育士にはできる。違いはどこにあるのか?

 もう一つ。あらゆる父親、母親が統合の人格者である可能性はとても低い。
 おそらく彼らは四タイプの一つ――脅迫者であったり、批判者であったりする。
 躾と称して子どもを叩いたり、怒鳴ったり、くどくど説教して「あれが悪い、これが悪い。すぐに直せ」と言う。できないと「ダメなやつだ」とつぶやく。さすがにその言葉は言わなくても、「どうして同じ失敗を何度も繰り返すんだ」と責める。改善を待つことができない。

 あるいは、子どもをぼんやり眺めて誉めるときに誉めず、悪いことをしても見過ごして傍観する。子どもが「見て見て聞いて」と言っても、「ふーん」と応じてスマホから目を離さない。
 さらに、受容タイプは何でも受け入れて「うちの子はいい子です。どんどん誉めてください」と言ってひたすら甘やかす。つまり、多くの親御さんは統合の人格者ではない。

 一方、子どもたちを統合の人格をもって育てている保育士さんだが、彼らは私生活において「統合の人格者ですか?」と問えばどうだろう。
 多くの人は次のように答えるのではないか。
「職場の子ども相手ならできる。でも、私生活においてはなかなか難しい」と。

 つまり、職場では統合の人格を演じて子どもと接することができても、家に帰れば(四タイプ統合を目指すとしても)それがなかなかできない。夫や妻に対して、《自分の》子どもに対して。
 むしろ自分の本来の姿であり、気質・性格だと思っている脅迫・批判、傍観・受容の中の1タイプ(ひとつだけ!)を私生活において発揮しているだろう(^.^)。

 これをまとめると、次のように言うことができる。

 子を持つ普通の父や母=脅迫・批判、傍観・受容の中の1タイプをもって我が子と接している。
 子どもを預かる保育士=四タイプ統合の人格をもって子どもたちと接している。

 これを逆にまとめると、
 子を持つ普通の父や母=子どもを統合の人格をもって育てられない。
 子どもを預かる保育士=我が子や伴侶に対して4タイプの中の1タイプをもって接している。

 先ほど保育士さんが「職場の子ども相手ならできる。でも、私生活においてはなかなか難しい」と答えるだろうと書いた。
 それは統合の人格が演技であること。実際の自分と我が子の間では(そうありたいと思っても)困難であることを示している。

 もっと簡単な言葉でまとめると、仕事だから素の自分や感情を抑えて演技できる。だが、帰宅すれば、我が子や伴侶に対して「統合の人格者」を演じることをやめる――とも言える。
 もっと言えば、子どもが小学校、中学校、高校と大きくなるにつれ、それぞれの先生方はもはや統合の人格者を演じることさえしない。素の自分、生の感情を抑えることなく、多くは脅迫・批判、傍観・受容の1タイプを演じる(!)。

 もちろん私の主張――最終結論は「四タイプ統合の人格者を目指しましょう」ということ。
 多くの人はそれは演技だ、自分の真の姿ではないと思う。だが、「四タイプの一つだって演技なんだ。おさない頃から身に着けてきた生き方なんだ」ということ。
 四タイプ統合の人格だって演じているうちにやがてそれが身につく。その生き方ができるようになる――と言いたいわけです。


 さて、ここから後半(^_^;)。[以下「ですます」体]

 上記の内容の「どこがどんでん返しなんだ。何に対するどんでん返し」なのか。

 以前(第17~19号)において黒田三郎の詩集『小さなユリと』を取り上げ、「子捨て、親捨てのドラマ」と題して子どもが親――特に母親から「捨てられる」ことについて語りました。

 あのとき読者各位は「子どもを赤ん坊のときから保育所にあずけることは子どもを捨てることになるのか」と感じた人がいるかもしれません。少なくとも「筆者はそう思っているんだな」とつぶやいたのではないでしょうか。

 この件は第20号でも読者の反感・反論を想定して次のように書いています。

 母親が入院することを「子捨て」とまとめるなんて「作者はちょっとおかしいんじゃないか」とか、「核家族と共稼ぎ――必然的に子どもを保育所・子ども園にあずける――を批判しているように感じたかもしれない」と。
 それに対して私は「だから共稼ぎをするな」とか「親と一緒に暮らしなさいと言いたいわけではありません」と強調しています。

 ただ、あれは二十数年前の執筆(ほぼそのまま)でした。
 続けて以下のようにも書いています。
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 そもそもどちら(共稼ぎ・核家族)も日本国政府の大方針です(隣の大国が一人っ子政策をとったのと同じように)。結果、大家族は滅亡寸前であり、子どものいる核家族世帯は全体の8割。世帯の7割は共稼ぎ世帯です。もはや昔に戻ることはできません。
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 この書き方って「現状追認」ですね(^.^)。
 今隣の大国は一人っ子政策を撤廃した。だが、もはや笛吹けど踊らずで、今後人口減が到来することは必至。彼らは「もっと早く気づくべきだった」と反省するかどうか。
 対して日本は一足先に人口減が現実となった。もしかしたら日本のリーダーたちは「共稼ぎと核家族化政策は失敗だったか」と反省する?(しないでしょうねえ(^.^)

 繰り返しになるけれど、「もはや昔に戻ることはできない」といった書き方は現状追認であり、いやいやながらの肯定、未練たらたらの肯定であって積極的肯定でない……ことは明らか(^_^;)。

 実は「子捨て、親捨てのドラマ」を公開したときから、私は「今の気持ちはこのころと同じではないんだが」とつぶやいていました。そして、「それは最後の方で書こう」とも。

 つまり、前著と下書き段階から二十数年経って私の気持ちは変わっていた。「子どもを人にあずけて育ててもらうことは子捨てではないかもしれない」に変わったということです。むしろ幼い頃から(親が働いている時間帯は)人に育ててもらうのが良いことかもしれない。積極的に肯定できるのではないかと。

「おいおい」と言いたくなりませんか。「なにそれ?!」って。

 これ以上ないほどの「どんでん返し」です(^_^;)。
 すなわち今号の「どんでん返し」とは以前言及した「子捨て、親捨て」の「子捨て」の部分をひっくり返しているのです。

 以前第12号「愛の獲得競争 その4」後記において以下のように語っています。
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後記:今節は20年前の拾遺なので「幼稚園」が出てきます。もちろん今だって幼稚園はあるけれど、共稼ぎの増加とともに、子育て施設の主流は「子ども園・保育所」に変わりました。早いと0歳時から保育士に育てられます。下の子が生まれると、二人とも保育所に通わせることが多いようです。
 結果、20年前と現在では親と幼子との間に変化があるように感じます。

 たとえば、5歳児の「チコちゃん」じゃないけれど、近年幼児の成長と自立ぶりが顕著です。使う言葉の量と質、親や大人への配慮・気遣い。自分の5歳前後を振り返れば「そんな言葉は使ったことがない、親を気遣ったことなどない」と驚くほどの事態が起こっています。
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 地方のケーブルテレビだけでなく、地上波にときどき登場する小学生にも驚かされます。
 何よりインタビューに対して堂々と答えることができる。私の子ども時代ではあり得なかった様子です。

 最近保育関連の入所に関して収入制限が撤廃されました。すなわち世帯が高収入であってもあずけていいってこと。
 また、子どもが二人になって在宅育児する場合は保育所にあずけることができなかった。しかし、在宅育児が可能でも一定時間あずけて構わないに変わりつつあります。
 つまり、これからは誰でも子どもを保育所・子ども園にあずけていい時代になるということです。これは(特に女性の)出産と育児の負担を軽減させるでしょう。[気づくのが遅すぎる?]

 小学校の放課後児童クラブなども強化されている。それは子どもを親以外の人が育てることのメリットが、親だけが育てるより大きいと見なされたゆえでしょう。むしろ核家族と離婚全盛(?)の世の中で親だけが子どもを育てるデメリットが――幼児虐待、無理心中など――拡大しているから、とも言えます。

 前著「狂短歌人生論」や下書き段階から二十数年を経て私の考えも変わった。
 ただ、それをいくつかの章で披露(告白)するわけにはいきませんでした。書けば「なんじゃそれ?」と思わせること間違いなく、じくじ[忸怩]たる思いを抱きながら公開していたのです。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:何がどんでん返しなのか。前置きに以下のように書いています。
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 ヒントは『続編』第6章「子捨て、親捨てのドラマ」(17号~22号)にあります。
 おヒマなら狂短歌を読み、気になったところを再読してみてください。
 実は前々号(67号)のある個所はこの件の伏線になっています。
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 前々号の伏線とは67号「前置き」にあった以下の部分。
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「よって、前号読了後62号を探しに行って再読する必要はない――ってことです(^_^)。
 この狂短歌を参考にして「筆者は過去の号を読んでほしいと書きながら、なぜリンクを張らなかったのか」その理由を考えれば良いのです。
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 再読する必要はない、見出しや狂短歌はその号全体のまとめだから、それを参考に考えればいい。

 何がどんでん返しか――この疑問に対して考えるヒントは「子捨て、親捨てのドラマ」とあります。
 この「子捨て」に気づけば、以前の号に戻る必要はなかったのです。

 前々号の内容がちょっとでも頭に残っていれば、「筆者が本号で語っていることは子捨てのドラマをひっくり返したのか」との答えに到達できたでしょう。

 えっ、「そりゃ無理だ」とつぶやきました?(^_^)

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