『続狂短歌人生論』71 掉尾を飾るどんでん返し(^_^)
前号後記に「次をもって『続編』終了」と予告しました。
が、実のところ、まだまだ書き足りない思いがあって(我ながら)「まるで無尽蔵の執筆エネルギーやなあ」とあきれます(^.^)。
もっとも、そう言えば聞こえはいいけれど、「だらだら書きつないでいるだけ」と思われる可能性も高いので、ほんとにこれで終わりとします。
表題に「掉尾を飾るどんでん返し」と書きました。
内容は以下の通り。
※ 「愛すること、愛されること」をひっくり返す
※ 山登りではなく、山を下るような楽な生き方を
※ 上下関係をやめて対等の付き合いを
※ 絶望(-_-;)…なんて甘ちゃんの独り言
おいおい、また長くなりそうやなあ……と心配することなかれ。
これらに関連して詠んだ9首の狂短歌を少しだけ解説して擱筆いたします。
どんでん返しもあるし、以前の狂短歌の再掲載もあって「もっと書き込みたい」欲求がむらむら湧いて困ります(^_^;)。が、読者の自立をうながす意味でも最低限にとどめます。
それから前著『狂短歌人生論』冒頭の狂短歌とエッセーを掲載します。
結局、ここに戻ってこれさえも「ひっくり返す」からです。
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前著『狂短歌人生論』冒頭エッセー
〇 本当は愛することより大切な 愛されてると感じられるか
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キリストの聖なる言葉を拝借するまでもなく、人を愛することの大切さはこれまで多くの人に語られてきた。
最近政府広報の新聞広告でも似たようなコピーを見出した。それは命が大切とか貴重だとか百万言をもって説得されるより、たった一人「あなたが必要です」と言ってくれる人がいるだけでいい――という内容だった。素晴らしいと思った。
だが、よくよく考えてみると、私たちは「あなたが必要です」と言われたことがあるだろうか。あるいは逆に、友人や夫婦、親子の間で「あなたが必要です」と口に出して言ったことがあるだろうか。
恋人同士なら、告白の言葉として「あなたが必要です」と言うことはあるだろう。ところが、結婚してしまえば(特に日本人において)その言葉はほとんど使われない。いわんや親子兄弟をや、である。仕事仲間や友人間で発することもまずないと思う。
強いてそのわけを探すなら、「あなたが必要です」などと言うのは照れくさいからではないか。せいぜいちょっとした言葉や態度によってその気持ちを示せるくらいである。事故や病気で入院したときなど、身内や親しい人の言葉から「ああ自分は必要とされていたんだ」と思ってほっとすることがある。
ということは、自分は必要とされていると思えるかどうか。そちらの方がより大きな意味を持つことがわかる。これを愛に置きかえるなら、重要なことは人を愛すること以上に、私は愛されていると感じられるかどうかである。
身近の人に「あなたを愛している。あなたが必要です」と言うより、《私は愛されている。必要とされている》と感じ、それを信じられるかどうか。それこそ大切なことではないだろうか。
もし自分が家族・友人・恋人・夫婦、さらに見知らぬ他人や世の中から必要とされ、愛されていると感じられるなら、心の中に穏やかであたたかな気持ちが芽生えるだろう。生きていて良かったと思い、自分もまた人を愛する感情に満たされるはずだ。
要するに、人を愛することより、もっと大切なことは、自分が愛されていると感じられるか、そしてそれを信じられるかどうかだと思う。
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〇 本当は愛することより大切な 愛されてると感じられるか
これをどうやってひっくり返したか。
ちょいとばかし予想してお読みください。
[以下いつもより多めの空白。すぐに答えが出るから(^_^)]
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(^_^)本日の狂短歌(^_^)
○ 愛されたい? 愛されなくて構わない 愛されてると信じて生きる
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***** 「続狂短歌人生論」 *****
(^_^) ゆとりある人のための20分エッセー (^_^)
【『続狂短歌人生論』71 掉尾を飾るどんでん返し(^_^) 】
本論の前に我々がしばしば陥りがちな「絶望…(-_-;)」をちゃぶ台返し致します。
もしもキリストの教えどおり、人間がみな「人やものを愛することのできる生き物」であるなら、この世から…世界から、争いは雲散霧消するでしょう。国同士の戦争も民族・宗教の対立も。国内の犯罪も家庭内の殺人・虐待・口げんかも。ペットを平気で捨ててガス室送りにすることも。
が、残念ながらそうではない。ということはこの認識、ひっくり返した方がいい。
人間は人やものを愛することができない生き物である――と(^.^)。
「おいおい。そりゃあ極端過ぎる」と言いたくなりますね。
しかし、どちらに比重を置くか。こうも言えます。
100点満点から引いていくか、0点から足していくか。
人間は人を愛することのできる生き物である。敵でさえも愛することができる――これを100点満点とすると、現実のもろもろはそこからどんどん引かれていく。事件事故、戦争や飢餓のニュースを見るたび減っていく。やがて半分になり0点になったと悲観して絶望する。
だが、「人間は人を愛することができない生き物である」との認識に立てば、「おお、ここに愛を与える例がある、敵同士でさえ仲良くなった例がある。復讐の思いが氷解した話がある」とほっこりする。そのたびに点数が増える。
「10点になった。20点になった。とうとう50点になった。人間だって捨てたもんじゃない。もしかしたら将来100点になるかもしれない」と感じることができる……。
だから、思うのです。今自分や身の回りや世の中、世界に対して絶望しているなら、そこが0点である。あとはただ増えていくだけだと(^.^)。
ちなみに、この件は狂短歌にし辛かったので、平原稿としました。
では、ここから本論。以下掉尾を飾る9首の狂短歌と短い解説です。
もしも「ちょっと意味不明」な点があったとしても、解説にあげた以前の号を再読すれば、「なるほど」と納得できると思います。
えっ、「ということは9号分再読しろってことか」とつぶやきますか?
頭の片隅に残っていれば、もちろん再読なしですませますよ(^_^)。
[以下「である体」]
なお、ここから各号へのリンクですが、『続編』以外はリンクを張っています。
『続編』内のリンクは以下「目次」からそちらに飛んでください。
→『続編』トップページ(目次)
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[『続編』掉尾を飾るどんでん返し]
1 自らと相手を変える試みは 長~い目で見て 少しずつ
第11章37号「変えることに失敗」の中で、自分を変え、身近の人を変える試みが無残にも失敗に終わった例を取り上げた。すぐに変えようと思うからうまくいかない。
そもそも「変えたい」と思うことは短所であり欠点であり悪い癖。勉強でも有名な教訓がある。「不得意科目を勉強しても平均点以上にはならない。むしろ得意科目をどんどん伸ばせ」と。
2 上に立つ 人が《対等》意識する 日本のカースト終わらせる道
第12章「日本的カーストの絶望」38号~41号の中で語った。子どものころから上下関係をしつけられ、下の者には発言する権利も自由もないかのような日本的カーストへの絶望……。
これを克服するには[1]よりもっと長い時間がかかる。孫の世代、ひ孫の世代にその社会が実現することを夢みて、まずは上に立つ人が「上から目線」を改めること。そのためには親や先生、上の人が下の者に使っている「お前」の言葉を死語にする。「あなた」に変えるだけだ。英語の「you」のように。
3 愛されないと感じる人の哀れさよ 報復感情制御できぬ
隣の国から突然自国民1000人を殺されたら、「報復だ」と叫んで侵攻。敵国を破壊し尽くし、人々を殺す。死者3万人になっても殺害をやめない。ウクライナとガザを見て自国がそうならないよう、国のリーダーは武器を買い集め、核兵器を持ちたがる。
ならばと極論を一つ。アメリカとロシアが持つ核兵器を全ての国に10ヶずつ配備したらどうだろう。「隣の国を攻めよう」と思わなくなるかもしれない。悲しい極論だが……。
報復感情は人間の感情の中で最も処理と克服が難しい。あおり運転をする人たちの顔を見れば、「どうして自分は愛されないんだ。譲ってくれないんだ」との感情がにじみ出ている。
彼らが報復したいのは上の《やつら》。だが、それができないから下の者と見なした連中に報復感情を発散する。カスタムハラスメントしかり。芥川龍之介『鼻』の中童子しかり。
4 愛エネは無償と思う勘違い お返しあるよ 違うとこから
第10章「変えることに成功」35号~36号の中で「愛エネルギーを与え合って人と付き合う」大切さを語った。誉めること、認めること、ねぎらうこと。それがエネルギーを与えることであり、逆に与えられるとエネルギーがもりもり湧いて元気になると。
だが、口先だけ、演技ならできてもこの生き方に疲れる人は多いだろう。やがてこの生き方をやめるのはこちらがそれを実践しても、相手がエネルギーを与えてくれないから。
愛はお返しを求めるもの。「無償の愛を与えるほど自分はお人好しでも人格者でもない」と思いがち。小さな報復と言ってもいい。「そっちが与えてくれないなら自分だって与えるもんか」と。
そう感じた方は「狂短歌ジンセー論」第49号「有償の善行」を一読あれ。
一見無償の善行(愛エネルギー付与)に思えるけれど、お返しが違う所からやって来る。
それが嬉しくてエネルギーが尽きることなく湧いてくることを語っている。
同103号「右折車に道を譲る」も同じような実例。
日本には「情けは人のためならず」という名言がある。愛エネを人に与えていると、お返しは違う所から自分にやって来るということだ。
なお、全章・全節を読み終えた今、第35号後半「変わることに成功したドラマ」を再読すれば、「なるほどこれか」とつぶやくこと間違いなし(^_^)。そこに描かれたのは四タイプ統合の生き方に進み始めた人たち。
特に3の狂短歌「こちらからエネルギーを与えてとほのめかす」こと。つまり、「誉めてよ、認めてよ、すごいと言ってよ」もありってこと(^.^)。
5 忙しい 後にしてよと言うも良し 我らは自分の人生歩む
第46号「『杜子春』読みましたか?」の中で以下のように書いた。
私は「芥川龍之介『杜子春』をぜひ読んでほしいといつもと違う表現でくどいほどに書き込んだ。だが、それでも読まなかった人に対して「あなたの最も愛する人がいつもと違う様子を見せたとき、気づかない人です」と。
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あなたは相手が悩みを打ち明けたとき、いや、ただ「ちょっと話があるんだけど…」と言われて「今忙しいんだ」と答えたり、「後にしてくれ」と言う人です。その後「話ってなんだ?」と聞いて「別に…大したことじゃない」と言われ、「そうか」と応じて終わりにする人です。
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これもどんでん返しすると「何それ?」と思われるだろう。が、「それでいいんです」と言いたい。
私たちは生まれてこの方自分の人生を歩んでいる。親子であってもそれぞれがそれぞれの人生を歩む。心に余裕がなければ「今はゆっくり話を聞けない」と言っていい。
この実例の問題は最後にある。「そうか」と言って終わりに……してはいけない。
きっと「いつもと違う」と感じ取る。一日後、二日後、ひと月後、心に余裕ができたときに「何か悩みがあるんじゃないのか」と聞くことだ。
6 統合の人格を持つ相手こそ 愛されてると感じられる
第16章「最終章――四タイプ統合の道」62号~64号に脅迫・批判、傍観・受容一つにこだわるのではなく、四タイプを統合させること。それが目指す境地であり、成熟した人格につながると書いた。
統合とは「強く厳しく突き放し 甘えを許し受け入れる」こと。これによって子どもや相手は「自分は見捨てられていない。愛されている」と感じることができる。
では、いつ強く厳しく言うか、いつ突き放していつ甘えを許すか――判断基準はない(^.^)。
感ずるがまま……?
それに一人で全てやろうとするから難しくなる。相棒がいれば、任務分担をすることができる。第64号「四タイプ統合の人格 その4 三善の策」を再読してほしい。
7 愛という水が心にたまらない コップに穴が開いているから
前号本文ラストに「脅迫・批判、傍観・受容者に対して『愛すること、認めること、誉めること』こそ最も大切と書いた。だが、ここで最大の壁、解決困難な(と思える)難問にぶつかる。
こちらが四タイプに対して「愛してる、認めている、誉めている」と思っても、四タイプがそう感じてくれないことだ。彼らはそれをお世辞と思い、空気のように受けとめ、心からの言葉だと思わない。
いくら誉められても、認められても、愛してくれても、満足できない人がいる。 なぜか。
彼、もしくは彼女の心にあるコップに穴が開いているからだ。周囲からもたらされる愛エネルギーはその人の心にたまらず漏れてしまう。
穴が開いている理由も明白。かつて愛されなかったいやな記憶。今愛されていない不快とさみしさの海に溺れているから。では、克服法は?
愛されなかった事実と思い込みを記憶から引っ張り出してノートに箇条書きにしてみよう。
これもあった、あれもあった、裏切られた、失望した、運命に愛されず、自然から愛されなかった……いやな記憶を列挙しまくるのだ。
少なくとも数十ヶ、多ければ100ヶあるかもしれない。なんと自分はみじめか。不幸で不遇で不運か。それを白日の下にさらけ出す。日の光を当てる。そして――
8 気づくこと あの親だけど愛された あの人だけは愛してくれた
その後やることは「人から愛された記憶」をよみがえらせて書き出すこと。
それは親かもしれない。兄弟姉妹かもしれない。友人かもしれない。家族から愛されたと思えなければ、子ども時代、学校時代、成人後、あの人だけは自分を心配してくれた、愛してくれたと感じる人がいる。その人との交流を列挙しよう。
あるいは、「愛されていたかどうかはわからない。何となく心に残っている出来事、忘れがたい事実がある」なら、もちろんそれも書く。
すると、「悲惨だ。10ヶしかない」とあなたはつぶやくかもしれない。
それに対して私ならこう言う。
「素晴らしい! 10ヶもあるんですか」と。
「だが、いやな記憶が100ヶもあるのに、こっちはたった10ヶだ」とあなたはまたつぶやく。
ほらほら一読法で読んでいないから、そのような不満がもれる。
本文冒頭を読み直してください。100と比べるから10ヶは少ないと思う。
だが、0ヶと比べれば10ヶはなんとたくさんなことか。
もしかしたらある人はもっと少ない。1ヶしか思い出せないかもしれない。
その人は原稿用紙10枚分にその詳細を書こう。書くことは脱出行為。自分を愛してくれた人を思い出すことで、心に開いたコップの穴はきっと埋められる。
杜子春は「母だけは自分を愛してくれた」とわかったときに変わった。愛想の尽きた人間界に戻ることができた。
9 愛されたい? 愛されなくて構わない 愛されてると信じて生きる
仏教には人間が死んで生まれ変わる六つの道(六道)の中に「餓鬼」というものがある。
餓鬼とはがりがりに痩せ、腹がふくらんだ姿で道の傍らにうずくまっている。いつも飢えと渇きに苦しみ、水や食べ物を求めてさまよっている。だが、食べ物や飲物を手に取った瞬間それは火に変わる。それゆえ決して満たされることがないまま一生を終える。
愛されたいとの思いをもって生きることは餓鬼に似ている。
ならば「愛されなくて構わない」と思ってはどうか。求めて得られないから苦しみがある。
そうつぶやけば、「本当は愛されたいんでしょ」と言われそうだ。強がりの言葉、虚勢の言葉と思われがち。
だが、自分は愛されていると信じるなら、それは餓鬼と違う。誰かに、自然に、運命に愛されていると信じることができれば、愛は求めなくてもやって来る。
自分は愛されてると信じた人は統合の人格をもって歩き始める。心のコップにたまった愛があふれ出すように、人に愛エネルギーを与えることができる。与えてもエネルギーが尽きることはない。そのときもはや「愛されなくて構わない」とつぶやくこともない。自然体で気楽に生きるだろう。
以上です。
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最後まで読んでいただきありがとうございました。
後記:まだ勘定していませんが、たぶん『続編』の原稿は(いつもの?)1000枚に達しているのではないかと思います(^_^;)。各号も「ぼくの悪い癖」(杉下右京)でかなり長い。本号も解説数行(を意図したのに)おさまらず、いつもの長さです。
しかも、読者には「一読法でじっくりゆっくり読むこと、途中で考えること、たまに以前の号に戻ること」を勧め――と言うか強要してきた。さらにこの顔(^_^;)。
よくぞお付き合いくださいました。改めて貫徹された読者各位に尊敬の念と「すごいです!」の言葉を贈呈します。
アメイジング! ワンダフル! エクセレント!(^_^)
もしかしたら「そのうち読もう」と思って受信箱にたまり放題かもしれません。
もちろんそれもこれも読者の自由。ただ、以前も書いたように、人生に「そのうちはない」との格言(年寄りの苦言?)を再度提示します。
未読の方は「狂短歌エッセー」144号「そのうちはない?」をご覧ください。
狂短歌は以下、
〇 そのうちに何々しよう そのうちに 思うばかりで時は過ぎゆく
また、予感通り何人かのメルマガ読者は購読会員をやめたようです。これもまた自由。おそらく読み始めて「こりゃあ大変だ」と感じたからでしょう。さらにさらに(^_^;)。
ところが、同じものを公開しているブログにはときどき数十人の読者が突如増加していました。「一体誰が読んでいるんだあ」と思いつつ、新規に読み始めて取りつかれた(?)方もいるようです。
さて、『続狂短歌人生論』を終えて次は……しばしお休みです。
いつものように7、8月は全メルマガ休刊して夏休み。これもあったので突然の『続編』ジ・エンドとしました。9月以降は延ばし延ばしになっていた『空海マオの青春 論文編』(後半)の執筆に取りかかるか、「『続編』の拾遺を少々書きたいなあ(^_^;)」との思いもあります。
「おいおい」てか?
それは次号からのお楽しみとして、まずはこの夏。
猛暑・酷暑が予想され、梅雨末期の線状降水帯はこれから本番。台風も巨大化して襲来するでしょう。地震だっていつどこで起こるか全くわかりません。災害は忘れたころにやってくる――との言葉はもはや死語同然。
世界も地球温暖化という人類共通の敵に立ち向かわねばならないのに、「戦争なんかやってる場合じゃないだろが、武器を買うために大切な虎の子使ってるときか」と各国リーダーに言いたい気分。
どうか生き延びて9月(か10月)のメルマガ再開にお付き合いください。
もちろん私も。まだまだ書きたいこと、書かねばならないことが山積みです(^_^)。
御影祐 m(_ _)m
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最後におまけの一読法クイズ(^.^)。
一つは第3章「三角関係の愛」第8号の話題。狂短歌は以下
〇 愛情は一対一なら10全て 三人ならば半分に減る
夫婦に子どもが産まれたとき、特に夫が「妻から自分への愛が半分に減った」と感じやすいことを書きました。末尾に「家族三人になったときの危機をどうやって防ぐか。答えは本稿最後の方に」として保留のまま。この答えが本文にあります。
「えーっ、わからないよ」と思う方は再読してください。
ヒント? 半分って5割ってことですね。そして、〇されてると〇〇〇ことです。
もう一つは以下。
後記を読んで、ある部分に来たとき「だから9に突然~~(ほにゃらら)が出てきたのか」とつぶやきましたか?
それは後記のどこ? ~~(ほにゃらら)の中に入る語句は?
こちらの答えは空白後の下に。
では答えです。
後記に「『空海マオの青春 論文編』(後半)の執筆に取りかかるか」とあります。
空海とはもちろん仏教「真言宗」の空海のこと。ここでつぶやけます。
9に「仏教には人間が死んで生まれ変わる六つの道の中に『餓鬼』というものがある」と突然(今までなかった)仏教の話が出てきます。あれ趣旨にふさわしい話題というだけでなく伏線です。
後記を読んで「だから、9に突然仏教が出てきたのか」とつぶやいてほしかったところです。
メルマガ『空海マオの青春』読者の方々。お待たせしました。本年後半には再開します。
過去の論文目次→『空海マオの青春 論文編』目次
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