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2024.10.29

『空海マオの青春』論文編 後半 第6号

 その3(四)「空海『即身成仏』と全肯定」

 前号後記に「何しろ全肯定です。全肯定に《否定》はありません」と書きました。
 たとえば、多くの対立――友人・夫婦・親子間の口げんか、国家間の戦争。全て自分(自国)を肯定して相手(他国)を否定することで発生します。すなわち、自分が正しく相手は間違っている(正しくない)と主張する。当然全肯定ではない。
 アメリカ大統領選、日本の与党野党、ロシアのウクライナ侵攻、イスラエルのガザ制圧。聞こえるのは自分肯定、相手否定の主張ばかりであり、しばしば感情的になっています。「許せない」という感情です。

 もしも「全肯定だ」と言いながら、対立するAかBどちらかに味方して他を「良くない」と言うなら、それは片方肯定であって(もちろん)全肯定とは言えない。ゆえに、全肯定とはA、Bどちらも「正しい」と見なすことになります。

 えっ、「何じゃそれ?」とつぶやきますか(^_^;)。
 さらに、「そんな態度はあり得ない。それじゃあコウモリだ」と言うなら……(ここで立ち止まって)
Q「では、自分肯定、相手否定を押し進めるとどうなるか」考えてみてください。

 プレ「後半」その3 空海論「前半」再掲載
(一) 理屈と感情        10月09日
(二) 四苦八苦と四喜八喜    10月16日
(三) 観念論と唯物論      10月23日
(四) 空海「即身成仏」と全肯定 10月30日

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 本号の難読漢字
・即身成仏(そくしんじょうぶつ)・数(すう)でいう零(ゼロ)・抽象化された空(くう)の一点
・利他(りた)の行(ぎょう)・『般若心経』(はんにゃしんぎょう)・『理趣経』(りしゅきょう)・読誦(どくじゅ)
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***************** 空海マオの青春論文編 後半 ******************

 後半第6号 プレ「後半」その3(四)「空海『即身成仏』と全肯定」

 空海論の結論とでも言うべき、空海が到達した最終境について一足お先に語ろうと思います。
 実はこれまですでに何度か触れていました。空海の到達点を一語で言うなら《全肯定》であると。

 空海の最終境は普通「即身成仏」の言葉で表されます。
 この「即身成仏」なる言葉、わかりやすいようで実はとても難解です。「成仏」が「死ぬ」の意味で使われるように、仏になるには死ぬしかない。生きて仏になるなど不可能――それが一般の理解でした。それに対して空海は「生きたまま仏になれますよ」と説いたのです。

 ところが、「即身成仏」の意味するところ、では一体どうすれば生きているうちに仏になれるのか。これに関しては空海の著書を読んでも、諸氏の解説書をつまみ食いしても、「なんだかよくわからない」と言わざるを得ません(^_^;)。

 たとえば、空海を最もわかりやすく解説してくれた『空海の風景』の司馬遼太郎は次のように説明しています。「自然の本質と原理と機能が大日如来そのものであり、そのものは本来、数でいう零である。零とは宇宙のすべてが包含されているものだが、その零に自己を即身のまま同一化することが、空海のいう即身成仏ということであろう」と。
 さらに、「空海はすでに、自己を密教の宇宙観によって抽象化してしまっている。その抽象化された空(くう)の一点であることが、即身にして大日如来になること」とも書いています。

 こう聞くと、なんとなくわかったような気になりますが、結局、「どういうことですか?」と聞き返さねばなりません(^_^;)。
 研究者や真言宗関係の方々もいろいろ解説しつつ、最後は「奥深く神秘的な宗教的境地」と言ってすましているように感じられます。まるで到達できたのはただ一人、お大師さんしかいなかったとでも言うかのように。

 私は『空海マオの青春』小説編の後書きで、この言葉について次のように書きました。
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 空海が最後に到達した境地は「即身成仏」と言われます。私はそれを「現世を楽しく充実させて生きること」と理解しました。現世でこの身のまま成仏するとは生きることが楽しくて仕方ない極楽の世界に行くことです。死後の極楽ではなく、現世で極楽のような充実した生を送ること。そして利他の行に励むとき、人は宝を得て夢を叶えることができる――私は本気でそれを信じています。
---------------------------
 どうでしょう。これならわかりやすいのではないでしょうか(^_^)。

 現世を楽しく充実させて生きる。そして、死すべき時が来たら「これまで生きて辛いこと苦しいことはあった。でも、まとめれば楽しい人生だった」と思ってあの世へ行く。即身成仏の意味が《現世を楽しく充実させて生きること》であるなら、フツーの人だって充分到達できそうです(^.^)。

 私は空海はとても難しいことを言っていると考えていません。彼はただやさしくわかりやすく説明してくれなかっただけです。著書が全て漢文であることも難解さに拍車をかけています。私はそれを代弁したいと思って長編『空海マオの青春』を書きました。

 その結果、空海が到達した最終境を現代の言葉で表すと《全肯定》になりました。もちろん司馬氏もこれがまとめの一語であるとして「大肯定」と呼んでいます。ならば「即身成仏とはなんですか」と聞かれて「大肯定だ」と答えれば良かったのに、と私は思います。

 生きることが楽しくてたまらない「即身成仏」の境地に達するには《全肯定》が必要であり、逆に言うと《全肯定》の境地に至れば、この世は楽しく歓喜に満ち、ぎっしり詰まって充実していると感じられる。そして、「もっと生きよう。もっと生きたい。なぜなら、毎日毎日楽しくて仕方ないから」と感じられる境地なのです(^_^)。

 たとえば、遊びに夢中な子どもが時の経つのを忘れ、夕方になって「明日もまた遊ぼうね」と言って友だちと別れる。翌日も翌々日も遊ぶことは面白くて楽しくて仕方ない。やがて成長して学ぶことも楽しい時期があった。働くことが楽しくて仕方ない時期もあった。いつからかその気持ちが失われているなら、全肯定によって子どもの心を取り戻すことができるとも言えます。

 さりながら、私は論文編の初めで次のようにも書きました。
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 あらゆることを――いやなことも辛いこともあわせて全て肯定できる。それも理屈として肯定するだけでなく、感情でも肯定できる。つまり、心から「これでいい」と納得して許せる。それが密教最終境なのです。
 もっと現代風に言うなら、いじめられても、親から虐待されても、友人から裏切られても、失恋しても……それを肯定できる。仕事で辛いことがあっても、セクハラ・パワハラを受けても、差別されても、迫害されても、大病を患っても、事故で片腕を失っても、レイプされても……それを肯定できる。あるいは、愛する親や子、世界に一人、かけがえのない恋人を、理不尽な理由で殺されたり、戦争や災害で失っても……それを肯定できる。
 それも理屈として肯定するのではなく、心から肯定して許せる。これこそ密教最終境です。
 このように書くと、《全肯定》とは簡単な言葉ながら、この境地に達するのは相当難しいことがわかると思います。普通の人にはほとんど不可能とさえ思えます。
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 即身成仏とは「現世を楽しく充実させて生きること」と書けば、フツーの人でも到達できそうな気になります。「現在を充実させて生きよう!」とはしばしば聞く言葉でもありますから。
 しかし、上記のように具体的に書いてみると、全肯定の難しさが浮かび上がります。多くの人が「全肯定なんて無理無理無理。私には絶対無理!」と叫びそうです(^_^;)。
 あらゆることを心から許して肯定するなんて、フツーの人にはとてもできそうに思えません。

 しかし、我ら凡人が到達できるかどうかはともかく、《全肯定》は私にとってあなたにとって、日本や世界の人にとって必要だと思います。
 ちょっと大風呂敷を広げる発言で恐縮ですが(^_^;)、私はこの《全肯定》こそ、人を救い癒し、日々を生きるエネルギーを生み出してくれる源泉となり、個々の不和をなくし、民族・宗教の対立をなくし、戦争をなくすことができる究極の境地(言葉)であると考えています。

 この詳細は後に触れることにして、これからしばらく空海の最終境が《全肯定》であると結論づけた根拠を、二つのお経によって示すつもりです。一つは『般若心経』であり、もう一つが『理趣経』。
 どちらも真言宗で読誦されている重要なお経です。『般若心経』は仏教伝来当初から日本にありましたが、『理趣経』は空海が唐より持ち帰った経典です。

 いずれ二経について詳しく眺めますが、今号ではもう少し《全肯定》の誤解というか勘違いについて触れておきます。

 「全てを肯定する」と聞くと、全肯定とは「我慢することであり、あきらめることだろう」と思われがちです。我慢するもあきらめるも肯定系の言葉に見えます。しかし、よく考えると否定の言葉です。
 なぜなら、「我慢する」にはほんとうは我慢したくないのに自分を押し殺している、自分の自由な思いや行動を打ち消して「じっと耐えている」感じがあります。つまり、本当は我慢したくないのに耐えている。自分のあるがままの姿や思いを否定する言葉です。
 また、「あきらめる」の言葉も本当はあきらめたくない、本心はあきらめないで、なんとかしたいと思っている。だが、いろいろな理由でもうあきらめるしかないと感じている。本当はあきらめきれないのだから、やはり自分の内心を否定しています。

 愛する人が無慈悲に殺された、大地震や大津波によって死んでしまった。何をどう思っても、死んだ人は生き返らない。あきらめるしかない。そう自分に言い聞かせても、あきらめることができない。つまり、本当はあきらめきれないのだから、やはり自分の内心を否定しています。
 妙な言い方ですが「我慢する・あきらめる」には「我慢したくない・あきらめたくない気持ち」が隠されています。それを一生懸命否定して「我慢しよう・あきらめるしかない」と自分に言い聞かせているのです。
 ところが、全肯定は我慢しません。あきらめません。ただただ、事態を、自分を肯定するだけです。もっと正確に言うと、我慢できない自分を肯定する、あきらめきれない自分を肯定するのです(^_^)。

 さらに、生きて日々活動することを「戦う」と言うなら、なんでも肯定する全肯定は日々の《戦い》を放棄しているかに思われます。
 我々は《戦う》とは相手を否定するための行動だと思っています。スポーツやゲームにおいて我々は確かに相手を負かし、自分が勝つために戦います。これは自分を肯定し、相手を否定するために戦っているように思えます。相手を負かしてやるとの思いがエネルギーの源泉だと考えています。それゆえ、相手を肯定してしまったら、戦う気持ちをなくすだろうと思われがちです。

 確かに対象を否定する「許せない」とか「負かしてやる」との思いが戦いのエネルギーとなるでしょう。その気持ちがなくなったら、戦えないような気がします。
 しかし、これも間違いです。全肯定は日々の戦いをやめることではありません。否定のための行動を取るのではなく、肯定した上で戦うということであり、ひたすら肯定して今日を生きるということです。
 スポーツやゲームにおける肯定の戦いとは、相手を負かすために戦うのではなく、相手が私に勝とうとしていることを認め受け入れ、その上で戦うということです。「対戦相手は私に勝とうと思っている。私も相手に勝とうと思っている」――そう考えて戦うのが全肯定の戦いなのです。

 上記の具体例を再度取り上げるなら、かつていじめられた。親から虐待された。友人に裏切られた。失恋した。仕事で辛いことがあった。セクハラ・パワハラを受けた。差別され迫害された。大病を患い、事故で片腕を失った。レイプされた……。
 それらを肯定するとは、ひどい目にあったのに我慢することではない。あきらめることでもない。そもそも「許せない、我慢できない、あきらめきれない」感情を否定しては全肯定になりません。自分の外で起こった出来事を肯定するなら、自分の内面も肯定するのが全肯定です。

 また、愛する親や子、世界に一人、かけがえのない恋人を、理不尽な理由で殺されたり、戦争や災害で失った。殺した犯人、敵国の人間を絶対許せないと感じる。自然災害の場合は不運としてあきらめるしかない。しかし、理由が何であれ、悲しみと喪失感から「自分も死んでしまいたい」と思う。あきらめなければならないけれど、忘れられないし、あきらめきれない。「自分も死んだ方がいい」とまで思う。
 このどうしようもなく湧いてくる感情を否定してはやはり全肯定になりません。とにかく全肯定とは外の出来事、ものごとを肯定するだけでなく、自分の心を含めた全てを肯定することだからです。

 よって、愛する親や子、世界に一人、かけがえのない恋人を、理不尽な理由で殺され、「殺した相手を許せない、報復したい」と思うなら、その感情を肯定します。「犯人を殺してやりたい」と思っていいのです。
 あるいは、戦争や災害で最愛の人を失った悲しみから立ち直れず、「自分も死にたい」と思うなら、そう考え、そう感じていいということです。

 何をどう思っても、死んだ人は生き返らない。あきらめるしかない。あきらめきれない自分はダメな人間。前向きに生きられない情けない人間だ……などと思わず(否定せず)、いつまでも嘆き続ければいい。死んだ人の年を数えて悲しみに浸ればいい。前向きに生きられない自分を許していい――それが全肯定です。

 ここが愛の宗教キリスト教と大きく違うところでしょう。
 キリスト教の牧師に「娘を殺した犯人を絶対許せない。殺してやりたい」ともらせば、牧師は言うでしょう。
「気持ちはわかります。でも、そんなことを考えてはいけません。愛をもって許しなさい」と。
 あるいは、「もう生きる意味がない。死にたい」と訴えれば、「これからいいことがあります。決して死んではいけません」と言われるでしょう。

 読めばおわかりのように、これは否定の言葉です。事態を肯定し、相手を許しなさいと言いながら、あなたの感情は否定しなさいと言っています。
 しかし、全肯定は「娘を殺した犯人を絶対許せない。殺してやりたい」という感情を肯定します。そう思っていいのです。絶望感から「もう死んでしまいたい」と感じるなら、その思いも肯定します。それが全肯定です。

 この件の詳細は後日また触れたいと思います。ここには大きな問題である「ではその思いを実行するかどうか」がありますから。ここではただ全肯定についての誤解を指摘するだけにとどめます。
 自分の外で起こった不快な事実、不運な事実を全て肯定するのが全肯定なら、そこから生み出される自分の感情も全て肯定する――それが全肯定であるということです。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:前置きのQ「では、自分肯定、相手否定を押し進めるとどうなるか」考えてみましたか。
 答えは以下、
 相手を否定し続ければ、友人は絶交し、夫婦は離婚し、親子は絶縁する。ときには殺し合う殺人に発展する。戦争は(支援する国がある限り)相手国を殲滅するまで終わらない……。
 だが、全肯定はそれさえも否定しない。「自分だけを肯定して相手を否定してもいいよ」と言う。だって《全肯定》だから。

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 以下は別件。10月27日衆議院総選挙が投開票されました。
 結果は裏金事件が影響したか与党215(-73)、野党250(+77)と与党が過半数223を割り込みました。
 この結果についてマスコミは「与党惨敗」と報道しています。

 私は選挙後いつも「比例代表得票率に基づく各党議席数」を算出しています。それが本来の民意であり、正しい議席数だからです。
 得票率を反映する本来の議席数で自民は過去いつも「惨敗」でした。それが小選挙区と比例復活制度によって常に過半数――どころか6割前後の議席を獲得してきました。
 たとえば、前回2021年の総選挙では本来なら与党(219)野党(246)でした。
 今回の与野党議席数はこの数字にとても近い。では今回は本来の議席数が結果に現れたのか?
 この件は『狂短歌ジンセー論』別稿にて近日公開します。

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2024.10.28

天皇賞秋、結果とほぞ嚙み

 秋天レース後……ちょっとした落ち込みがあって「今回は予想もたくさん書いたし、回顧は『惜しかった』と短く書いて終わりにしよう」と思いました。
 が、書き始めたら、特にレース周回ビデオを見てからは「こりゃあ書かねば」と執筆意欲再燃(^.^)。またも長くなりました。
 目次をつけましたので、一気に読もうとせず、数日かけてお読みください。

 [天皇賞秋回顧]
(1)川田12リバティアイランドとルメール14レーベンスティール敗退
(2)武豊07ドウデュース[〇]印の意味
(3)逃げ馬09ホウオウビスケッツを無印にした理由
(4)下手こいたなあ……のつぶやき
(5)年度代表馬とJC、有馬展望

 ここで一読法読者なら「下手こいたなあって何だあ?」とつぶやき、
読み進めて「これが下手こいた理由か」と相槌を打つべき流れです(^_^)。

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********************
【前回GI結果】

 天皇賞秋、結果は――ウラ●クビ差4着では……の総外れ(=_=)

 1着―武 豊 07ドウデュース……………[〇] 単勝=3.8
 2着―松 山 04タスティエーラ…………[・]
 3着―岩田望 09ホウオウビスケッツ……[?]
 4着―坂 井 11ジャスティンパレス……[●]
 5着―横山典 02マテンロウスカイ………[?]

 一覧順位[C→QE→G→F] 馬群[1→4→2→2]
 前日馬順[B→H→09→E] 枠順[B→F→G→D]

 枠連=4-3=32.4 馬連=07-04=96.6 馬単=135.6
 3連複=07-04-09=1021.8 3連単=3971.0
 ワイド12=30.0 W13=29.8 W23=182.8

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 本紙予想結果
 印騎手番馬        名 馬 結果
 〇武 豊07ドウデュース    B 1
 △ルメル14レーベンスティール C  8
 △川 田12リバティアイランド A  13
 △横山和01ベラジオオペラ   D  6
 ・横山武06ソールオリエンス  F  7
 ・Cデム10ダノンベルーガ   G  14
 ・松 山04タスティエーラ   H 2
 ・シュタ08キングズパレス   11  12
 ●坂 井11ジャスティンパレス E 4
 ?岩田望09ホウオウビスケッツ 09 3 
 ?横山典02マテンロウスカイ  12 5

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【秋天過去8年の実近一覧結果】
    一 覧     馬 順     [1234]群
2024年 C→QE→G→F B→H→09→E 1→4→2→2 乖2着
2023年 A→H→C→G A→F→C→D 1→2→1→2
2022年 A→QB→H→C A→G→D→C 1→3→2→1 乖2・3着
2021年 D→A→B→QA C→A→B→09 1→1→1→3
2020年 A→H→B→F A→D→B→E 1→2→1→2 乖2着
2019年 A→D→H→F A→D→F→G 1→1→2→2
2018年 B→F→C→D B→D→G→E 1→2→1→1 乖2着・逆3着
2017年 E→H→QF→A A→B→14→C 2→2→4→1 乖1・2着
2016年 C→D→G→E A→F→E→D 1→1→2→2

 GI最高峰とも言える秋天だからでしょう、能力評価がかなり定まっています。
 123着は22、17年を除いて第1、2群8頭内から出現。馬順もほぼAからGで決着。
 うち馬順Aは1着6回2着1回(/8)。今年もこの流れなら馬順Aが連単軸。
 意外なのは馬順B。1着1回2着1回3着2回。せいぜい▲でしょうか。
 そこで浮上するのが馬順D。Dは(4着まで入れると)[0312]。
 かたやCは[1012]。採用したい3複3単買い目は[A→FGE→DCB]。
 さて。今年は?
-------------------

 結果は過去8年一度も出ていなかった馬順H(第4群)が2着激走。
 この馬第4群の馬順Hであり、乖離馬の印を付けていなかった(回顧では乖離馬とします)。また、3着一度しかない第4群が2着。

 よって過去データをそのまま当てはめた買い目[A→FGE→DCB]を買っても当たらなかったことになる。
 一覧ABCが馬順ACBの3強なのに、2頭消えるとは想定外と言えよう。が、そろそろ「変わり頃・今まで出ていなかった馬の出頃」とは言える。
 にしても3強から2頭消える[軸→薄目→薄目]馬券はなかなか取れない。

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 【天皇賞秋実近一覧表】 東京 芝20 15頭 定量58キロ
                  (人気は前日馬連順位)
順=番|馬       名牝歳|予OZ{実近}[展]3F|馬|乖|3指単複 印着
[1]
A=12|リバティアイラン牝4| 2.2{AB}[11] |A| |AAAA △13
B=14|レーベンスティール4| 6.6{BC}[7] |C| |BCCB △8
C=07|ドウデュース   5| 6.7{CA}[10] |B| |CBBC 〇1
D=08|キングズパレス  5| 7.8{DD}[9]A|11| |10101111 ・12
[2]
E=01|ベラジオオペラ  4|11.7{EF}[5] |D| |DDEE ・6
F=11|ジャスティンパレス5|12.8{GE}[15] |E| |EFFD ●4
G=09|ホウオウビスケッツ4|13.4{FG}[1]D|09| |     ?3
H=10|ダノン ベルーガ 5|22.0{0912}[12] |G| |GGGG ・14
[3]
QA=02|マテンロウ スカイ5|23.2{H13}[4]B|12| |     ?5
QB=06|ソール オリエンス4|25.3{1010}[14]E|F|乖|FEDF ・7
QC=03|ステラヴェローチェ6|25.9{1209}[5] |13| |
QD=05|ノース ブリッジ 6|26.8{1111}[3] |10| |
[4]
QE=04|タスティエーラ  4|35.3{13H}[8] |H|乖|HHHH ・2
QF=15|ニシノ レヴナント4|49.2{1514}[13] |15| |
QG=13|シルト ホルン  4|49.4{1415}[2]C|14| |

 注…「馬」は馬連順「3」は3複順「単複」は単複順位
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 ○ 展開予想

※展開(3Fは前走の上がり優秀5頭)
 逃げ     先行     差し     追込
 09 13 05 02 -01 03 14 04 -08 07 12 10 -15 06 11
覧 5 〇 △ ▲ ◎ 6
3FD C B A E
本 △ △ ・ ・ 〇 △ ・ ・ ●
結3 5 2 1 4
-----------
 [枠連順位]
 枠連型=A流れD[AB型] 枠順AB=5.2
 馬連型=3巴  [AB型] 馬連AB=5.9

 枠連=ABCD/E/FG/H 
 枠順=7486 1 35 2 枠順[B→F→G→D]
 馬順=ABCE D H09 12 馬順[B→H→09→E]
 代行=14F15G 1011 13
 ―――――――――――――
 結果= 1 4 23 5

[オッズ分析]
 馬連はABCの3強。同時にDからGの4頭を含む7頭が人気集中で7つ巴的な様相を示している。
 それが枠連にも影響したか枠連はD6枠[E11ジャスティンパレス・G10ダノンベルーガ]がE1枠[D01ベラジオオペラ]と転換している。ただし、このDE転換は1枠が単枠だからとも言える。
 枠連は3巴ではなく、また4巴でもない。かと言って5つ巴でもない。
 どうも全体的なオッズ相としては「信頼に値する枠がない」感じである。

 最も単純な予想はもちろん馬順ABCの[123]着。3複1本。
 AB型を信じるなら、[AB軸のCD蹴ってEFGH]。
 馬連3巴軸は[ABC軸のDEF蹴ってGH。ウラDEF]。

 枠のA~E内で決まる場合代行F[06ソールオリエンス]とG[10ダノンベルーガ]に注意。
 もしかしたら馬順ABC(つまり枠順ABC)が3着以下に落ちることがあるかもしれない。 その場合は枠連ウラの[DEF=613枠とDDゾロ目]が面白い。

 結局、いろいろ買ってABC決着となったらトリガミ必至。
 ここは好きな単勝1枚、3複ABC1本、枠連ウラを買ってケンするレースだろうか。

[結 果]
 オッズからは少額買ってケンするレース――としたので、被害は少ない(^.^)。
 5着(も記入した)が枠順Hだから、枠順結果は[B→F→G→D→H]となって[B軸の(AC・DE飛んで)→FGH]で獲れたことになる。
 型としては「AB型を信じるなら、[AB軸のCD蹴ってEFGH]」が正解ということ。

 だが、枠連をAまたはB軸とした場合、相手EFGHだと計8枚の購入。
 今回は枠連[B-F=32倍]となったが、本命決着が予想されていたし、その結果が出るとトリガミ。とても買うことはできない。やはりケンが正解であろう。

 ……と書きつつ、実は前日オッズでは枠連の軸がAでもCでもなく「Bにしなさい」という兆候が出ていました。つまり枠連[B→DE/FGH]を買えたということです。
 が、これだって5枚の購入。やはりケンすべきでしょう。

**********************
 ※ 回  顧


(1)川田12リバティアイランドとルメル14レーベンスティール敗退

 レース後ちょっと落ち込みました(-_-)。
 本稿は「理屈による的中」・「オッズ分析による的中」を目指しています。
 理屈による的中とは過去データや実績近走一覧表などを駆使して馬券を絞ること、オッズによる的中とは前日オッズの単複・馬連・枠連、3複を人気順に並べた一覧表を使って買い目を検討しています。

 今回終わってみれば、どちらも「的中があったなあ」と悔やむ…と言うか振り返ることができます。

 たとえば、1番人気(一覧トップ・5種オッズもオールA)の牝4歳川田12リバティアイランドは以下の不安点をあげていました。

1 ドバイ以来7か月の休み明け
2 古馬になって初の56キロ(あのアーモンドアイでさえ3着)。
3 牝3冠馬だが、古馬相手の近2走で2着、3着。

 この他「5歳と4歳を比較すると、5歳の方が強そう」や(書かなかったけれど)「牡牝混合戦、牝馬の1番人気は危険」もあります。

 これがズバリでリバティアイランドは先行したけれど、残り200メートルでは伸びを欠いてなんと13着惨敗。「そこまで負けるか」の悲惨さでした(ただ勝ちタイム1573に対して1581だからコンマ8差)。
 この言葉、夜の衆院選開票速報で某与党の惨敗を示すキーワードの先取りだったようです。

 それはさておき、一覧B、馬順Cの牡4ルメール14レーベンスティールも以下のいちゃもんつけていました。

1 G2を2勝して前走G2Vながら、GIは1戦(香港ヴァーズ)8着
  (1人)の一度のみ。3歳時3冠とは無縁。
2 父レアルスティール(ディープインパクトの仔)は供用3年目でまだ
  産駒GIVなし。
3 14番枠ながら東京芝20では不利な外枠。

 これもズバリでレーベンスティールは8着(ただしコンマ5差)。

 が、私の最終結論は両馬を[△]。カットどころか、「2、3着はあるかも」の印でした。
 なかなかカットできません。


(2)武豊07ドウデュース[〇]印の意味

 リバティもレーベンも4歳馬。その他の4歳馬を検討しても、どうも5歳の方が強そうだ。
 というわけで、ピックアップしたのが5歳の以下2頭。
 ともに昨年のGIV馬。
 表〇武豊07ドウデュース
 裏●坂井11ジャスティンパレス

 表の◎は設定しなかったので、ドウデュースは馬連・3複軸の◎。
 一般には◎〇ということです。
 結果はドウデュースが1着、ジャスティンパレス4着。
 ここで最初のほぞ噛み。武豊ドウデュースを連単軸の◎にしていたら、2着04タスティエーラには印を付けたので馬連90倍・馬単万シューの的中がありました。

 武豊教信者でありながら、私は同馬を連単軸の◎にできなかった(^_^;)。

 というのはデータ的には同馬を「ぜひ」というほど信頼していなかったからです。3強のうち1、3番人気にはいちゃもん多々あった。同時にドウデュースだっていちゃもん結構あったのです。ただ、書かなかっただけ。

 たとえば、全成績13戦[6116](着外多すぎ)、GI[3015](同!)、東京[2002](勝つか負けるか)。芝20[0111](1着なし)。
 これらいちゃもんに触れれば「印は良くて2、3着の△」でしょう(^.^)。

 しかし、3強の中から1頭残すとすれば、この馬しかいない。
 だから、「1着はなくとも2着なら最も可能性が高い」と思っての〇でした。すなわち(◎なき)表の〇印は豊教信者の私にとって最高位の印だったのです。

 もしも豊ドウデュースが2着なら、勝つのは坂井ジャスティンパレスしかない!
 そう思ってのジャスティン、ウラ●指名でした。

 予想に書かなかったけれど、この2頭だけは自信があって他は「帯に短くたすきに短し」で何が来るかさっぱりわからない。
 そこでひそかに3複[●-〇→総流し]を買っていました(^_^;)。
 全15頭だから1枚でも計13枚。それくらいなら資金があります。

 予想では途中で以下のように4頭絞りができていました。
-----------------------------
 しかし、5歳からは07ドウデュース1頭だけか。
 5歳残り2頭は無理スジと見れば、4歳下位の3頭が浮上。

 4歳下位=09ホウオウ・06ソールオリ・04タスティ

 この7頭の戦いかもしれません。
-----------------------------
 この「7頭」とは1234番人気4頭と4歳下位の3頭という意味です。
 ここで終わりにしていれば、[07→04→09]が入ってほぼ全的中でした。

 ところが、先ほどの「5歳が強く4歳弱い」が余計な考察として影響します。
 私はこの4歳下位3頭をみな軽視しました。
 09ホウオウビスケッツは無印。06ソールオリエンスと04タスティエーラは良くて3着の[・]印。


(3)逃げA09ホウオウビスケッツを無印にした理由

 我が予想を一読法で読んでいれば、最後の「本紙予想」に文中何も触れていない1頭が入っていたことに「あれっ?」とつぶやいたかもしれません。
 牡5歳シュタルケ08キングズパレスです。

 一覧は第1群のD。馬順11位。逆乖離に当たるけれど、前走上がりトップのAでした。成績はGI・G2出走なくG3の2着2回が最高。
 無理スジながら20戦[4.10.33]と2着10回は魅力的。シュタルケ騎手でもあるし、「たぶんダメだろうなあ」と思いつつ追加しました。

 このときもう1頭追加したい馬がいました。
 それが逃げAの位置にいた牡4歳岩田望09ホウオウビスケッツです。
 前走G2毎日王冠を逃げて2着、前走上がりはD(4位)でした。
 印をつけてもいいなと思いつつやめたのは展開図の数値にあります。

 以下展開図の再掲。
---------------------------------------------------------
 ○ 展開予想

※展開(3Fは前走の上がり優秀5頭)
 逃げ     先行     差し     追込
 09 13 05 02 -01 03 14 04 -08 07 12 10 -15 06 11
覧 5 〇 △ ▲ ◎ 6
3FD C B A E
本 △ △ ・ ・ 〇 △ ・ ・ ●
結3 5 2 1 4
---------------------------------------------------------
 この先頭4頭の指数は以下(末尾に馬順)
          齢=指数 馬順
 09ホウオウビスケッ4=2.0  09 
 13シルトホルン  4=2.7  14
 05ノースブリッジ 6=2.8  10
 02マテンロウスカイ5=4.8  12
 01ベラジオオペラ 4=5.1  D

 指数1点台の逃げ馬なく3頭が2点台。
 このようなときは「3頭が逃げ争いを演じて共倒れとなることが多い」と傾向を出しています。なので、ホウオウビスケッツを無印にしてしまいました。

 実際09ホウオウと13シルトホルンが当初逃げ争いとなって09ホウオウが勝ち、以降ずっと先頭。「残れないだろう」と思ったけれど、1000通過が59.0と聞いたとき「あれっ」と思いました。
 GIメンバーとしてはスローペースです。不安は的中して3着粘り込み。

 改めてデータを見返すと、前走一貫して逃げたのはホウオウビスケッツただ1頭。しかも上がり良くG2を2着。そして、一貫して逃げたときの成績は4戦[3100]。逃げ馬として軽視すべきではなかったと反省です。

 ホウオウビスケッツは過去5戦鞍上岩田康でした。彼が札幌記念1着のお手馬05ノースブリッジを選んだので、子の岩田望に回ってきました(初乗り)。逃げてスローに落とし込んでの3着は称賛できると思います。


[4]下手こいたなあ……のつぶやき

 さて、ここからが本題(^_^;)。「下手こいたなあ」のつぶやき。
 もちろん我がウラ●の4着11ジャスティンパレスの鞍上坂井瑠星騎手に対しての批評です。

 レース直後も周回ビデオ視聴後も、つぶやいたのが
「ジャスティンの坂井騎手下手こいたなあ」であり、逆に
「ドウデュース武豊はさすが!」でした。

 先にドウデュースですが、結果を見て驚いたのは同馬の上がり。
 これまでの最速上がりは昨年のダービーで、4角14番手から勝ったとき33.7(1位)を出していました。
 ところが、今回の上がりはなんと32.5。もちろんレース最速上がり。

 レースはスローペースだったし、直線残り200では09ホウオウの1着もあり得そうな粘り。そのとき武豊ドウデュースは(横斜め映像ながら)大外を数馬身以上離れて絶望的な位置に見えました。
 ところが、そこからぐいぐい伸びて外の2着04タスティエーラにコンマ2差までつけて1着。再度上がり32.5!

 逆に言うと、4角ほぼ最後方で残り200でもまだ中団。そこから勝つためにはその上がりを出さないと無理。久しぶりにディープインパクト並みの末脚を見せつけられた気分でした。

 残り100で1着07ドウデュース、2着04タスティエーラが突き抜け、内で逃げた09ホウオウビスケッツが粘り、さらに内を11ジャスティンパレスが迫った時は声が出ました。ジャスティン3着なら3複3万馬券の的中があったからです。

 が、3着は牡4歳岩田望09ホウオウビスケッツ。
 3着ホウオウと4着ジャスティンは同タイムクビ差。
 そして、上がり2位は4着ジャスティンパレスの33.0。

 〇ドウデュースとウラ●ジャスティンの5歳両馬はスタート直後後方に並んでいました。
 2角を過ぎたところで武豊ドウデュースは坂井ジャスティンの後ろにつく。
 ジャスティンの外にはルメール14レーベンスティール。

 この内坂井11ジャスティン、外ルメール14レーベンは直線入り口までずっとそのままであり、その直後を走る武豊ドウデュースもそのまま。
 15頭の14番手となるドウデュースの外に馬はいません。

 これが効きました。武豊さんを称賛したい。
 4角から直線武豊ドウデュースは大外に出して追いあげていく。逆に(ルメール14レーベンスティールに伸びはなく)坂井ジャスティンは外に出せない。
 ればたらを言うと、あそこで外に出していたら、おそらくドウデュース
とともに大外を伸びて……同馬の1、2着争いだったと思います。

 そうなると、坂井ジャスティンはどうしたか。前は2重3重の馬の壁。
 その時点で私は「終わったよ。下手こいたなあ」のつぶやき。

 同馬は残り400では外に出そうとし、無理と分かって内に進路を取り、それでもまだ前に壁。残り200でようやく内へ内へと進んで(ほぼ最内を)鋭く伸びる。私は思わず「坂井! 坂井!」の声(^.^)。

 先ほど書いたとおり、2着はなくとも3着なら[〇-●→・]の3複的中があったからです(3万馬券)。
 が……坂井11ジャスティン、同タイムクビ差の4着。ふにゃ。

 ジャスティンパレス、これまでの最速上がりは昨年秋天の33.7でした。
 11頭立ての4角10番手からイクイノックスの2着(イクイノックスのレコード1552のコンマ4差)。
 今回の4角11番手からの上がり33.0はもしも大外を追い上げていたら、おそらく32秒台を出せたと思います。
 ドウデュースの勝ちタイムは1573で2着松山04タスティエーラはコンマ2差。2着からジャスティンはコンマ1差。少なくとも2着があり得た。

 坂井騎手は9年目ながら重賞17勝(GI5勝)をあげており、若手の中ではB級上位と言っていいでしょう。それでもあのような騎乗をしてしまう。
 坂井騎手もレース後「結果的には下げて外に出していればもう少し際どかったかもしれません」とコメントしています。つまり、それは大外に出して武豊ドウデュースと並走することです。

 こんなこと書くと顰蹙ものかもしれませんが、(宝塚に乗った)ルメールさんなら、あの下手さはしない。武豊も川田も横山武もしない(であろう)。

 同情すべき点は坂井騎手がジャスティン初乗りだったこと。しかし、千載一遇のチャンスを自ら失ったと言うしかありません。
 おそらく次走はA級騎手に戻るでしょう。もしも同騎手のままなら、一層の奮起を期待したいと思います。まだ9年目ならこれも勉強です。


(5)年度代表馬とJC、有馬展望

 毎年秋天後に年度代表馬について考え、返す刀でJC、有馬を予想しています。
 今年3歳牡馬の3冠はなく、牝3冠馬も不在。オークスVルメル・チェルヴィニアが秋華賞も勝ってGI2勝。これが最多。
 高松宮、安田記念、スプリSも勝ち馬は別々。

 そして、年度代表馬争いに最も関係する古馬中長距離GIの勝ち馬が以下。
 大阪杯=横山和ベラジオオペラ
 春 天=菱 田テーオーロイヤル
 宝 塚=菅原明ブローザホーン
 秋 天=武 豊ドウデュース

 つまり、古馬のGIVは目下1勝どまり。
 今後秋天Vドウデュースは[JC→有馬]を考えているようで、3連勝すれば文句なしの年度代表馬でしょう。
 JCはダービー1着の舞台とはいえ、今回上がり32.5を出した反動が出やしないか。私は単勝ビミョーと見ます。
 その場合はJCV、または有馬V馬によってGI2勝が最多GIV馬となって年度代表馬の声が出るでしょう。

 春天Vのテーオーロイヤルは次走JC予定。春天V以来7ヶ月ぶり。
 うーん、どうでしょう。
 また、宝塚V馬ブローザホーンは先日京都大賞典を走って(11頭立て)1番人気11着(2秒4差)惨敗。次走JC→有馬予定らしいです。
 う~~ン。無理スジ?(^.^)

 そうなると今年の3歳ダービー馬ダノンデサイル、菊花賞馬アーバンシックがどうするか。前者は菊花1番人気6着で休養入り。後者も休養入りで、有馬の出走はなさそうです。

 えっ、「皐月賞馬は?」ですって?
 もう忘れましたか。ジャスティンの下3文字が違うあの馬。
 皐月レコードを出して秋天出走予定だったのに浅屈腱炎で取り消して放牧中です。

 むしろオークス・秋華賞Vの牝3歳チェルヴィニアがJCに出走するようです。
 これはルメール騎乗だし斤量4キロ減によって面白い存在。勝てばGI3勝となって一躍年度代表馬最右翼となるでしょう。

 ところが、今年ジャパンカップは珍しく骨のある外国馬が参戦します。

 筆頭はディープインパクト産駒の牡4歳オーギュストロダン。
 昨年の英愛ダービーなどGI6勝をあげている。通算15戦8勝。
 もう1頭が7月のGIキングジョージ&クイーンエリザベスを勝った騙馬4歳ゴリアット。
 このレースで上記オーギュストロダン(5着)に先着。通算9戦5勝。

 迎え撃つはドウデュース他の日本馬。面白そうです。

 近年はアウェーとなる外国馬の不振続き。
 ここでドウデュースが勝てば、有馬のVが視野に入り、僅差負けても有馬Vで年度代表馬……を願いたい気がします。
 やっぱりJC→有馬は武豊ドウデュースを連単軸の◎にしようかしら。
 豊教信者ですからね(^_^;)。

 以上です。

===============
 最後まで読んでいただきありがとうございました。

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2024.10.26

天皇賞秋、直前予想

 さー「明日は秋の大一番天皇賞。[秋天→JC→有馬]と続く古馬王道GI第一戦です」

 と昨年、一昨年書いたことを、そのまま使わせていただきます(^_^;)。
 怠けではなく「2」に意味があります。

 と言うのは神様仏様ルメール様は目下GI2連勝。菊花賞は騎手2連覇。
 そして、今回の秋天はイクイノックスの3歳→4歳で2連覇しました。
 同馬は次走JCVをもって引退種牡馬入り。引退しなければ今年3連覇に挑戦して…達成したかもしれません。

 今回目の上のたんこぶがいなくなって秋天Vを目指すのが昨年JC2着の川田12リバティアイランド。昨年の牝3冠馬です。3冠後は[JC2着→今年3月ドバイGIシーマC3着(1人)]。それ以来だから7か月の休み明け。

 同馬は休み明け[2110]ですが今回過去最長。これがどうか。
 休み明けの2勝は阪神JFV→桜花V、オークスV→秋華V。
 2、3着が新馬V→G3アルテミス2着、JC2着→今年3月ドバイGIの3着。

 リバティはドゥラメンテの仔で[5210]。さすがの爆発力ですが、芝24のオークスは勝ったものの、古馬相手の近2走(ともに2400のGI)が2着、3着。これまたちょっと引っかかる。
 たとえば、同じ牝3冠のアーモンドアイは2018年3歳時古馬との初対戦JCで1着(斤量53キロ=古馬の牡馬と4キロ差)。翌年秋天でも1着(斤量56キロ)。

 また、前2走はJC54キロ→ドバイGI54.5キロでした。それが今回秋天は牡馬58キロ、牝馬56キロだからリバティは56キロ。過去最重量が55キロなので56キロは初。
 2キロ減の54キロで牡馬に勝てなかったのに、「初物尽くしで牡馬に勝てるかしら」と思います。
 あのアーモンドアイでさえ、初めて56キロを背負った19年の安田記念は3着でした(170円の1番人気)。というわけで私の印は良くて2着の△。

 となると、対抗馬として牡5武豊07ドウデュースと横山和01ベラジオオペラにルメール14レーベンスティール。週中4強気配です。

 うち神様仏様のルメールが騎乗するレーベンスティールは前走G2オールカマーVながら、GIは1戦(香港ヴァーズ)8着(1人)の一度のみ。父レアルスティール(ディープインパクトの仔)は供用3年目でまだGIV産駒はなし。14番枠ながら東京芝20では不利な外。私は懲りずに(^_^;)軽視。

 むしろ01ベラジオオペラの方が今春GI大阪杯V(2人)。前走宝塚記念3着(5人)。
 宝塚記念以来の秋天はそれほど悪くないので、こちらに触手が動きます。
[ここで「触手が動く」と書いて「はて?」とネット辞典を確認したら誤用とわかりました。
 何が間違っているかわかりますか? 答えは後記にて]

 それに他に面白そうな穴馬として何頭かピックアップできました。
 昨年は11頭のほぼ本命決着。今年は15頭となって一筋縄ではいかないような気がしています。

 まずは過去8年の実近一覧結果から。

【秋天過去8年の実近一覧結果】
    一 覧     馬 順     [1234]群
2023年 A→H→C→G A→F→C→D 1→2→1→2
2022年 A→QB→H→C A→G→D→C 1→3→2→1 乖2・3着
2021年 D→A→B→QA C→A→B→09 1→1→1→3
2020年 A→H→B→F A→D→B→E 1→2→1→2 乖2着
2019年 A→D→H→F A→D→F→G 1→1→2→2
2018年 B→F→C→D B→D→G→E 1→2→1→1 乖2着・逆3着
2017年 E→H→QF→A A→B→14→C 2→2→4→1 乖1・2着
2016年 C→D→G→E A→F→E→D 1→1→2→2

 GI最高峰とも言える秋天だからでしょう、能力評価がかなり定まっています。
 123着は22、17年を除いて第1、2群8頭内から出現。馬順もほぼAからGで決着。
 うち馬順Aは1着6回2着1回(/8)。今年もこの流れなら馬順Aが連単軸。
 意外なのは馬順B。1着1回2着1回3着2回。せいぜい▲でしょうか。
 そこで浮上するのが馬順D。Dは(4着まで入れると)[0312]。
 かたやCは[1012]。採用したい3複3単買い目は[A→FGE→DCB]。
 さて。今年は?

*************************
 【天皇賞秋実近一覧表】 東京 芝20 15頭 定量58キロ
                  (人気は前日馬連順位)
順=番|馬       名牝歳|予OZ{実近}[展]3F|馬|乖|3指単複 印着
[1]
A=12|リバティアイラン牝4| 2.2{AB}[11] |A| |AAAA △
B=14|レーベンスティール4| 6.6{BC}[7] |C| |BCCB △
C=07|ドウデュース   5| 6.7{CA}[10] |B| |CBBC 〇
D=08|キングズパレス  5| 7.8{DD}[9]A|11| |10101111 ・
[2]
E=01|ベラジオオペラ  4|11.7{EF}[5] |D| |DDEE ・
F=11|ジャスティンパレス5|12.8{GE}[15] |E| |EFFD ●
G=09|ホウオウビスケッツ4|13.4{FG}[1]D|09| |
H=10|ダノン ベルーガ 5|22.0{0912}[12] |G| |GGGG ・
[3]
QA=02|マテンロウ スカイ5|23.2{H13}[4]B|12| |
QB=06|ソール オリエンス4|25.3{1010}[14]E|F|乖|FEDF ・
QC=03|ステラヴェローチェ6|25.9{1209}[5] |13| |
QD=05|ノース ブリッジ 6|26.8{1111}[3] |10| |
[4]
QE=04|タスティエーラ  4|35.3{13H}[8] |H| |HHHH ・
QF=15|ニシノ レヴナント4|49.2{1514}[13] |15| |
QG=13|シルト ホルン  4|49.4{1415}[2]C|14| |

 注…「馬」は馬連順「3」は3複順「単複」は単複順位
------------------------
 ○ 展開予想

※展開(3Fは前走の上がり優秀5頭)
 逃げ     先行     差し     追込
 09 13 05 02 -01 03 14 04 -08 07 12 10 -15 06 11
覧 5 〇 △ ▲ ◎ 6
3FD C B A E
本 △ △ ・ ・ 〇 △ ・ ・ ●

------------
 [枠連順位]
 枠連型=A流れD[AB型] 枠順AB=5.2
 馬連型=3巴  [AB型] 馬連AB=5.9

 枠連=ABCD/E/FG/H 
 枠順=7486 1 35 2
 馬順=ABCE D H09 12
 代行=14F15G 1011 13
 ―――――――――――――
 結果=

[オッズ分析]
 馬連はABCの3強。同時にDからGの4頭を含む7頭が人気集中で7つ巴的な様相を示している。
 それが枠連にも影響したか枠連はD6枠[E11ジャスティンパレス・G10ダノンベルーガ]がE1枠[D01ベラジオオペラ]と転換している。ただし、このDE転換は1枠が単枠だからとも言える。
 枠連は3巴ではなく、また4巴でもない。かと言って5つ巴でもない。
 どうも全体的なオッズ相としては「信頼に値する枠がない」感じである。

 最も単純な予想はもちろん馬順ABCの[123]着。3複1本。
 AB型を信じるなら、[AB軸のCD蹴ってEFGH]。
 馬連3巴軸は[ABC軸のDEF蹴ってGH。ウラDEF]。

 枠のA~E内で決まる場合代行F[06ソールオリエンス]とG[10ダノンベルーガ]に注意。
 もしかしたら馬順ABC(つまり枠順ABC)が3着以下に落ちることがあるかもしれない。
 その場合は枠連ウラの[DEF=613枠とDDゾロ目]が面白い。

 結局、いろいろ買ってABC決着となったらトリガミ必至。
 ここは好きな単勝1枚、3複ABC1本、枠連ウラを買ってケンするレースだろうか。

************************
 ※ 直前予想


 まずは15頭を年齢別に分けておきます。出走予定だった3歳皐月賞馬ジャスティンミラノが休養に入ったので、今回3歳馬の出走はなし。
 [秋天年齢構成]
 4歳=8 5歳=5 6歳=2頭 牡14頭(騙馬2)牝1頭

 唯一牝馬が12リバティアイランド。昨年の牝3冠馬。
 6歳2頭は無理スジとカットして4歳5歳の有力馬を3頭ずつあげると、

 4歳=12リバティ・14レーベン・01ベラジオ
 5歳=07ドウデュ・08キングズ・11ジャスティン

 しかし、5歳からは07ドウデュース1頭だけか。
 残り2頭は無理スジと見れば、4歳下位の3頭が浮上。

 4歳下位=09ホウオウ・06ソールオリ・04タスティ

 この7頭の戦いかもしれません。

 しかし、4歳対5歳のどちらが強いか。このテーマに関しては5歳の方が強そうです。
 前置きに書いたリバティとアーモンドアイとの比較ではリバティがアーモンドクラスとは思えない。また、昨年の皐月賞馬・ダービー馬のその後もイマイチ観ありあり。その馬名言えますか?

 先に5歳から。
 5歳07ドウデュースは一昨年のダービー馬。その後昨年有馬記念V。
 5歳11ジャスティンパレスも一昨年(皐月・ダービーともに9着だが)菊花3着から昨年春天V。秋天も2着。ともに4歳でGIを勝っている。

 対して昨年のダービー馬(皐月2着・菊花3着)=04タスティエーラはその後GI[6→11→7着]。ほげ。
 昨年の皐月賞馬(ダービー2着・菊花3着)=06ソールオリエンスはその後GI・G2-3戦[8→4→7着]。前走宝塚記念辛うじて2着(7人)。
 ふにゃ。

 よって、4歳対5歳では5歳が強いと思います。
 そこで穴馬には4歳下位より、5歳11ジャスティンパレスの方が面白いのではないか。同馬は前走宝塚2番人気10着。1秒6の大差ですが、ウラ●候補です(^.^)。

 次に古馬王道と来ればやはり格。GI、G2をV多順に並べてみると、

◎GI 1勝以上 6頭 [GI]
A12リバティアイランド[4110]阪神JFV・牝3冠.2着JC
B07ドウデュース   [3015]朝日杯・ダービー・有馬3V
C06ソールオリエンス [1212]皐月V.2着ダービー・前走宝塚
D04タスティエーラ  [1203]ダービV.2着皐月・菊花
E11ジャスティンパレス[1226]春天V.2着2歳ホープ・秋天
F01ベラジオオペラ  [1012]大阪杯V.3着前走宝塚

〇G2 1勝以上(GIVなし)
・14レーベンスティール2勝 GI[0001]3歳セント・前走オールカマV
・05ノースブリッジ  2勝 GI[0013]22年AJCC・前走札幌記念V
・03ステラヴェローチェ1勝 GI[0125]
・02マテンロウスカイ 1勝 GI[0001]

△G3V(GI・G2Vなし)
・10ダノンベルーガ  1勝 他GI[0125]
・09ホウオウビスケッツ1勝 他GI[0002]G2.2着2回

 ルメル14レーベンスティールはGIVのないG2Vに位置しています。
 G2を2勝しているのだからGIを勝って不思議ないけれど、同馬は3歳時3冠とは無縁の馬でした。ルメールは勝つと秋天騎手3連覇達成。
 またも神の手炸裂か、はたまた上手の手から水が漏れるか?

 最後に前走ステップ別に並べてみます。
 GI休み明けか、9、10月のG2経由か、その他G3以下に分かれます。
 過去10年を見ると、宝塚など休み明けでも充分走っています。ただ、最長は大阪杯(Vコントレイル)の7か月でドバイからの休み明けはまだ3着内がありません。

 前走ステップ別 馬番馬名
1休み明け 7頭
   宝 塚4頭 06ソールオリ2着・01ベラジオ3着・
         07ドウデュ6着・11ジャスティン10着
   春 天1頭 04タスティ
   ドバイ2頭 12リバティ・10ダノンベル
2G2   7頭
 毎日王冠 3頭 09ホウオウ2着・13シルト5着・02マテンロウ8着・
 オールカマ3頭 14レーベン1着・03ステラ6着・15ニシノ9着
 札幌記念 1頭 05ノース1着
3G3以下 1頭 08キングズ

 さて、結論です。
 オッズは4強ではなく3強。特に単勝は3頭にど集中。
 一覧トップ3頭が馬順BCA。
 参ります。3頭の[123]着となっても全く不思議なし。

 12-07-14の3連複は前日9倍前後。この並びの3連単が38倍。
 この3連複100万買ったつもりで、成立したら「やっぱり来たかあ」と嘆くことにして(^_^;)断固買わない。
 ただ、3単は馬順[C→B→A]と武豊頭の[B→C→A]を1枚ずつ購入。
 リバティアイランドにあれだけいちゃもんつけた以上良くて3着と見ます。

 というわけで表の◎はなく、〇が武豊07ドウデュース、△ルメール14レーベンスティールと△川田12リバティアイランド。D以下Hまでの5頭に[・]印をつけます。
 そして、ウラ●が坂井5歳11ジャスティンパレス。
 先ほど書いたように、同馬は3歳皐月・ダービーはイマイチ。
 しかし、菊花3着から翌年(昨春)春天を勝っています。
 その後は[宝塚3→秋天2→有馬4着]。有馬では1番人気でした。
 そして今年3月ドバイGIシーマ4着から前走宝塚2番人気10着(1秒6差)。
 宝塚の敗戦がなければ、ここで3強の一角に入っても不思議ない馬です。

 問題は宝塚の大差10着をどう見るか。ムリ筋であることは明らか。
 過去10年、宝塚記念から秋天挑戦で3着内に入った馬は計7頭。
 その中で宝塚の着順が悪かった馬が以下の2頭。
 2017年宝塚1番人気9着(1秒3差)→秋天1番人気1着
 =武豊キタサンブラック
 2014年宝塚3番人気9着(1秒2差)→秋天2番人気2着
 =川田→戸崎圭ジェンティルドンナ

 ジャスティンパレスはぎりぎりこの2頭に比肩できるのではないか。
 そう思って――願って祈ってウラ●とします。

 ただ、鞍上坂井騎手はいまだA級とは言いづらい。
 春天Vはルメールであり、宝塚10着もルメール様。
 神はパレスを見捨てたようです。
 が、だからこそ坂井君には奮起してほしい。

 書き忘れました。同馬はディープインパクトの仔です。
 実況アナの「ディープの仔が1着ですぅ!」と絶叫する声が聞こえる(^.^)。

 以上です。 

 本紙予想
 印騎手番馬        名 馬順
 〇武 豊07ドウデュース    B
 △ルメル14レーベンスティール C
 △川 田12リバティアイランド A
 △横山和01ベラジオオペラ   D
 ・横山武06ソールオリエンス  F
 ・Cデム10ダノンベルーガ   G
 ・松 山04タスティエーラ   H
 ・シュタ08キングズパレス   11
 ●坂 井11ジャスティンパレス E

 さて結果は?

================
 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:「こちらに触手が動きます」の誤用とは?
 食指が動く・触手を伸ばす――が正解。どちらも「興味が湧く・惹かれる」という意味ですが、食指は人差し指であり、触手はイソギンチャクなどの小さな突起のこと。触手は延ばせるけれど、人差し指は伸びない。つまり、「食指は動く」であり、「触手は伸ばす」。
 「触手が動く」と書きつつ「はて?」と感じ、ネット辞典を確認したのは一読法のたまものです(^_^;)。

================

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2024.10.24

『空海マオの青春』論文編 後半 第5号

 その3(三)「観念論と唯物論」

 この表題を見ただけで、「読む気がしない」方がいるかもしれません。
 しかし、私はとてもわかりやすく具体的に解説しています。読めば「なるほど」と納得すること間違いなし(^_^)。安心してお読みください。
 そして、この二つの見方(考え方)は私たちの目の前に現れる事実・出来事を「どうとらえるか」――そのことと大きく関係しています。もちろん空海全肯定とも関係ある。
 その機微を読み取ってほしいと思います。

 なお、冒頭に『般若心経』・『理趣経』という仏典の名が出てきます。
 いずれ詳しく語りますので、ここは(一読法では厳禁ながら)スルーしてください(^_^;)。
 もちろんネット検索して(少々の)理解を試みることは素晴らしい読書術として称賛いたします。

 プレ「後半」その3 空海論「前半」再掲載
(一) 理屈と感情        10月09日
(二) 四苦八苦と四喜八喜    10月16日
(三) 観念論と唯物論      10月23日
(四) 空海「即身成仏」と全肯定 10月30日


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 本号の難読漢字
・観念論(かんねんろん)・唯物論(ゆいぶつろん)・滅却(めっきゃく)
・『般若心経』(はんにゃしんぎょう)・『理趣経』(りしゅきょう)
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***** 空海マオの青春論文編 後半 *****

 後半第5号 プレ「後半」その3(三)「観念論と唯物論」


 さて、そろそろ『般若心経』や『理趣経』に触れ、空海の最終境について詳しく語っていきたいところです。
 しかしながら、まだまだ前置きとしていくつかの言葉を解説しておかねばなりません。

 と言うのは『般若心経』について最も一般的で、妥当として評価されている解釈が、どうもわかりにくいからです。
 『般若心経』はとにかく「ないないない。なんにもない」と説いています。これまでそれは観念論として解釈されてきました。観念論は「ものごとは存在しない。我々があると思っているものは我々の心に映った像に過ぎない」と主張しており、『般若心経』の「空」や「無」はそれと同じことを言っていると理解されてきました。

 そこで《観念論》とは何か、もう少し知っておく必要があり、同時に観念論の対極にある《唯物論》についても語った方がいいと思ってこの節を設けました。
 もっとも、私は哲学の専門家ではないので、二語の詳しい内容は専門書やネット事典をご覧下さい。私が浅く薄く理解している範囲で説明したいと思います(^_^;)。

 この二語は「心が先か身体が先か」の論争であり、「ヒトは神がつくったか。あるいは、ほ乳類が進化して人間になったか」の論争でもあります。
 前者に関して観念論は「心が先だ」と言い、唯物論は「身体が先だ」と言います。かたや観念論は「人間は神がつくった」と小声で主張し、かたや唯物論は「ほ乳類が進化して人間が生まれた」と自信を持って断言します。

 観念論の代表は宗教であり、唯物論の代表は自然科学です。多くの宗教は「人間や世界は神がつくりたもうた」と主張し、神は存在すると言います。
 対して自然科学は「人間は元をたどればアメーバーのような原始生物であり、それが進化した結果、魚類、両生類、は虫類、ほ乳類、類人猿に進化してやがて人類が誕生した」と説明します。唯物論の側は「進化の過程に神は関係ない。神なんぞ存在しない」と主張します。

 私たちは身体が存在するから心で思い感じることができます。身体がなくなる、つまり死ねば感じたり考えたりすることはできません。また、心の元とも言える脳を取り去ったら、生きているとしても、やはり感じたり考えたりすることはできません。よって「心が先か身体が先か」の論争は唯物論の勝利のように思えます。

 しかし、ことはそう単純ではありません。厳密に言うと、脳を取り去れば人は死にます。そして、死後の世界は一人もそこに行って戻ってきた者がいません。ゆえに肉体が消滅することは間違いないとしても、魂があるかないか、死後の世界があるかないか、いまだ証明されていないのです。
 そこを指して観念論者は「死後の世界、魂は存在するのだ」と言い、唯物論者は「死後の世界も魂もあることが証明されていないので、存在しない」と言います。

 もっとも、この唯物論者は少々頭が固いと思います(^.^)。まっとうな科学者なら「存在が証明されていないものは存在しない」などと言わないでしょう。それでは科学が成り立ちません。

 最近ようやく存在が証明された素粒子の「ヒッグス粒子」などいい例です。ずっとその存在が予想されながら証明されていませんでした。科学者は「それが存在するはず」と信じて実験を続けたのです。
 よって、観念論者のように「死後の世界、魂はあるのだ」と断言できないとしても、頑固な唯物論者のように「そんなものはない」とも言い切れない。正確には「わからない」と言うべきでしょう(^_^)。

 それはさておき、一時(今も?)観念論者は「我々が外界にあると思っているものは本当は存在しない。我々の心に映じた像に過ぎないんだ」と主張します。
 映画を見れば、それが写された像に過ぎないこと、そこに実物が存在するわけでないことは明らかです。それと同じように我々が見ているものは心の映像に過ぎない。なぜなら、「自分が見ているものが本物かどうか我々は確認できない。さらに、人によって見ているものが変わるからだ」と観念論者は言います。

 たとえば、かつて大人気だったテレビの『スパイ大作戦』(近年映画になって『ミッション・インポッシブル』)。そこではスパイ達がターゲットとする悪役を陥れ、だますために様々な活動を行います。
 ターゲットが自宅に帰って日常生活を送っている。夜になると雨が降り出して雷が鳴る。その後次々に妙なことが起こり始め、悪役は次第に精神状態がおかしくなる……。

 ところが、彼が自宅と思っている家は実はスパイ達がこしらえた全く同じ外見・間取り・室内備品の家であり、雨も雷もスパイが作ったにせものであるというわけです。これをいたずらでやれば現代のバラエティ番組「ドッキリ」になるでしょう。大物歌手がテレビ局の控え室に入ってくつろいでいると、壁や天井から突然お笑い芸人が飛び出してびっくりする……。

 自分がこのターゲットになったと想像すれば、「物はほんとうに存在するかどうか疑わしい」というのがよくわかります。自分は確かに窓から外の景色を見ている。雨が降る様子を眺め、雷の音を聞いている。あるいは、テレビ局に入って「ここは控え室だ」と思っている。しかし、それが「ほんとうかどうか確実ではない」と観念論者は言うわけです。

 また、セクハラなぞは《本人次第でものごとが変わる》端的な例でしょう。
 男性上司が女性社員の肩を抱くようにして「がんばれよ」と言ったとき、それがセクハラかどうかは女性社員の感じ方次第です。好意と受けとめればセクハラではないし、不快な行為と受けとめれば、セクハラとなります。
 いま私は「肩を抱くように」と表現しました。「それは間違いなくセクハラだよ」と言われそうです(^_^;)。では「女性社員の肩をぽんと叩いて」と表現したらどうでしょう。微妙ですよね。

 我々の感じ方次第で見ているものが変わるようでは「それが本当に存在するかどうか」わかったものではありません。事実多くの裁判で「その行為があったかなかったか」が争われます。かたや「なかった」と主張し、かたや「あったではないか」と主張します。
 人はうそをつくし、映像や音声で証拠が残されていない限り、ほんとうのところはわかりません。つまり、ものごとが存在するかどうかは人間一人一人によって変わっているのです。

 この最たるものが「心頭滅却すれば火もまた涼し」でしょう。燃え盛る火は熱いものです。しかし、心の持ちようで熱い火さえも涼しく感じられる。だから、火も「我々が心に映し出した映像に過ぎない」と観念論者は言います。
 もっとも、これに関して唯物論の側は「それはあなたの心の問題に過ぎない。熱い火が燃えていることは間違いない。温度を測れば、百度を超えており、手をかざせばヤケドをする。だから、燃えている火がそこにあることは間違いなく、ゆえに全ての物は我々の心に関係なく存在するのだ」と断言します。

 さすがにこれらの論争は唯物論の勝利のように思われます。物が先であって心は後である。ものごとは我々の心に関係なく存在する。人間という物がまず存在し、脳という物体があるから、いろいろ感じたり考えたりすることができる。デカルトは「我思う。ゆえに我あり」と言った。唯物論者に言わせると、これは間違い。「我あり。ゆえに我思う」と言うべきであると。

 しかし、観念論者がひるむことはありません(^.^)。
「そりゃあ確かに火は百度以上で燃えているだろう。さわればヤケドをする。しかし、夏の暑さをどう感じるかは人次第ではないか。気温30度で暑いと言う人がいれば、それほどでもないと言う人がいる。

 そもそも湿度が高いと25度でも蒸し暑くて不快になり、湿度が低ければ30度でもからっとして今日は涼しいなどと言ったりする。それゆえ「気温30度は暑いと言うのは真実ではない。湿度によって、人によって違うのだから」と反論します。
 夏の真っ盛りにクーラーをがんがんに利かせて室温20度にすると「寒い」と思います。しかし、真冬に気温20度となれば、「今日はとてもあったかい」と言うでしょう。

 面白いことに唯物論の代表自然科学の中の物理学(量子論)では、「物は人間と無関係に存在しているわけではない」と言います。原子や陽子という微少世界では、その微小粒子の動きを観測しようとすると、見ている人間の視線、つまり光によって動きが変わってしまう。よって、素粒子の正確な場所を特定できない。物が人間によって影響を受けていると言うのです。

 あるいは、数学のカオス理論に「バタフライ効果」というのがあります。
 とある場所で一匹の蝶が羽ばたいた。それは世界の動きに全く関係ないと思われている。ところが、そこから何千キロも離れた場所の天候にその羽ばたきが大きな影響を及ぼすというのです。
 一匹の蝶にそれが言えるなら、一人の人間がどう感じ考え、行動するか。その動きは遠く離れた地域の物事に影響を及ぼすと言えるでしょう。つまり、《外界のものごとは一人一人の人間と無関係に存在しているわけではない》ということです。

 さすがに一匹の蝶云々は言いすぎのような気がします。しかし、先進国や発展途上国の人々が文明の利器や石油・石炭の化石燃料を大量に使っている。それが地球を温め氷を溶かし、海水面を上昇させる。その結果遠く離れた太平洋に浮かぶ小さな島が海中に沈もうとしている。これは一人一人の行為が遠く離れたところに影響を及ぼす実例と言えそうです。

 自然科学は我々の心や見え方に関係なく物が存在すると見なさなければ、進化発展しなかったでしょう。我々には太陽は地球の周りを回っているように見える(もっと正確に言うと、太陽は東から現れて西に沈むだけと見える(^_^;)。

 けれども、科学は地球が太陽の周りを回っていると明らかにしました。科学が宇宙船をつくりだし、宇宙空間にぽっかり浮かぶ地球の姿を見せてくれることによって「地球は間違いなく丸い」とわかりました。もっと言うなら、我々はみな宇宙船「地球号」の乗員であることを教えてくれました。

 以上、観念論と唯物論について語りました。哲学用語の解説はここまでとして次号より『般若心経』について語ろうと思います。
 これまで「ないないない。なんにもない」と説く《空無》の『般若心経』は観念論として理解されてきました。
 「我々が見ているもの、聞いているものはない。目はなく、耳もなく、鼻も舌もない。ものごとはなく、身体も存在しない。あらゆるものは我々の心に映った像に過ぎないんだ」と。
 私はこの解釈が『般若心経』最大の誤解であり、誤読、誤訳であると思っています(^_^)。

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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:最後の『般若心経』云々の部分もスルーしてください(^_^;)。(次号ではなく)そのうち詳しく語ります。
 ここで最低限脳裏にとどめてほしいことは私たちが見聞きしているもの――テレビ、ラジオ、パソコン、スマホなど(難しい言葉で言うと)外界の事象について「何が真実か。何がフェイク(うそ)か。何が正しくて何が誤っているか」それを見分けることはとても難しいということです。ところが、ある種の人たちは明らかにフェイクニュースとわかっても、それを信じ続ける。

 個人として信じるだけならまだしも、それを差別や偏見、誹謗中傷、人を傷つけたり、暴動として行動に移す。昔もそうだし、現代になっても同じ過ちを犯す……。
 どうやら人類は文明をこの上なく進化させたけれど、心の中は太古の昔から現代にいたるまで、ちっとも進化していないようです。

 ここで「全肯定」を出すと「それでもそのような人たちを肯定するのか」と言われそうです。が、答えは「はい」。肯定する。
 何しろ全肯定です。全肯定に《否定》はありません(^_^;)

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2024.10.18

 『狂短歌ジンセー論』臨時号

 10月27日(日)投開票、衆議院選の真っ盛りです。
 自分一人投票したからって何も変わらない。そう思って棄権する有権者が約4割。
 いやいや「変わるぞ、変えたい」、「変わるな、このままでいい」と思って投票する人が6割。
 どちらも肯定できる――と言いたいけれど、ここはやはり投票してほしいし、このままで構わないと思っている人に再考をうながしたい(^_^;)。

 昨年『続狂短人生論』34号に「出産子育てと消費税」と題して以下の狂短歌とエッセーを公表しました。

 〇 働かぬ人から税を取る日本 産めば産むほど 納税増える

 衆院選を前に「もうお忘れかも」と思って再配信いたします。


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 『続狂短歌人生論』34 出産子育てと消費税

 以前「出産子育ては労働ではない」と書きました(→14号)。
「どんな労働でも働くことは賃金と交換である。賃金がもらえなければ人は働かない。だが、赤ん坊のめんどうをみても《赤ん坊》はお金をくれない。つまり、出産と子育ては《労働》ではないってことだ」と。

 その際「では何なのか」に関する答えは保留しました。
 本号はそれについて深掘りし、返す刀で「消費税」を斬りたいと思います(^.^)。

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 (^_^)本日の狂短歌(^_^)

 ○ 働かぬ人から税を取る日本 産めば産むほど 納税増える

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***** 「続狂短歌人生論」 *****

 (^_^) ゆとりある人のための20分エッセー (^_^)

 【『続狂短歌人生論』34 出産子育てと消費税


 以前出産・子育ては「労働」ではないと書いた。出産補助金、子育て支援金を目的化してはいけない。出産奨励金など「もってのほかと思う」と。

 なぜなら、子どもを産めばお金をもらえる「労働」にしてしまうと、生まれる子にとっても親にとっても不幸が待っているからだ。

 普通どんな労働も「きつい、しんどい」とか、「この仕事は自分に合わない」と思えば、やめることができる。「こんなにがんばって働いているのに賃金が低い」と思えば、別の会社に移ることができる。職場の上司が気にくわなければ、辞表を叩きつけて出ていくことだってできる。多くの労働(仕事)はそれが可能だ。

 憲法にも「働くことは日本国民の義務である」と規定されているけれど、第18条に「犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない」とある。つまり、労働が苦役であると感じたときはいつでも自由にやめていいってことだ。

 だが、赤ん坊を産んで育て始めると、子育てという《労働》はやめることができない。
 子育てを苦役と感じ、「しんどいからやめたい」と思っても放棄できないのである。

 たとえば、出産から2年間、計200万円を現ナマでもらえることになったとしようか。
 そのお金に釣られて子どもを産んで育て始めたら、「とても割が合わない。1000万もらっても産まない方が良かった」と感じた。だが、産まれた以上「子育ての仕事やーめた」と言えない。それが出産子育てだ(「釣られて」は誤字ではありません)。

 残念ながら、育児放棄・ネグレクトとか幼児虐待、あげく幼児・児童殺人の根っこにこれがあると思う。
 特にシングルマザー(や育児無関心の夫を持った妻)がこの事態に陥りやすい。子育てがつらくしんどいと感じても、自分ひとりで対処しなければならない。やめたいと思っても誰も「やめていい」と言ってくれない。むしろ「お前がやるしかない、産んだ責任がある」と言われる。もう死ぬしかない。「子どもを殺して自分も死のう」と思いつめる……。
 だから、出産と子育てを労働にしてはいけない。これだけは《労働》ではないのだ。

 これに関連して「消費税」の罪深さというか不条理、非合理な点も述べておきたい。
 子どもをたくさん産めば産むほど税金(納税)が増えるのだ。
「えっ、児童手当は子どもの数が増えると増額されるよ」とおっしゃいますか。
 そこがそれ、出産子育て版(朝三暮四の逆バージョン)「朝四暮三」だ。

 消費税は日本国民の食糧、衣類、住居、雑貨、電気製品、ガス・水道・電気、車、ガソリンなど、ありとあらゆる買い物や取引――つまり生きて暮らす上で必要な全ての物と活動が税の対象とされる。

 対して所得税・住民税というのは所得すなわち収入のある人から税金を徴収している。こちらは年間収入が一定金額以上の人に対して税金が課せられるので、低収入の人は免除される。納税者であっても扶養する妻子、お年寄りがいれば、「扶養控除」と言って税金が減らされる。

 言い換えれば、収入のない人、低収入の人からは税金を取らない制度である。
 たとえば、川辺の青テントで暮らし、空き缶を集めて何とか生きている人は所得税を取られない。一方、年金生活の高齢者は働いていなくても(ある金額を超えれば)税金を徴収される。これが所得税や住民税だ。

 ところが、消費税はこの国で暮らす全ての人に対する税金である。収入がなくても生まれた瞬間から死ぬまで、生きている限り税金を徴収される。ホームレスだってコンビニでおにぎりとペットボトルを買えば、消費税を納めている。

 赤ん坊は働いていない。もちろん小学校児童も中学生も(芸能界の子役以外)働いていない。彼らには収入がない。なのに税金を徴収される。それが消費税だ。

 赤ん坊のおべべやおむつ、ミルクは購入すれば消費税を支払う。税金がないのは母乳くらいのもんだ。
 小中の教科書は無料配布される。さすがに小中高大の授業料、入学金・検定料は無税だが、予備校・塾・そろばん塾などの授業料には消費税が課される。都市部の高校生は多くが塾に通う。親は消費税が足された領収書を眺めてため息をつくかもしれない。もちろんノートや文房具、参考書は買うごとに税金を払わねばならない。

 妙な言い方だが、消費税導入前は勉強というチョー真面目な活動に対して税金を納める必要はなかった。だが、1989年以降は「勉強したければ納税しろ」ってことになった。
 この国に生まれ、生きる知恵と知識を学ぶ活動、社会に役立つ人間になろうとする活動に対して税金が課されるのだ。

 収入がないのだから、子どもは税金を納めることができない。では誰が子どもに代わって納税しているのか。
 親しかいない。親がいなければ祖父母とか親戚など子どもを保護、養育する人だろう。
 なんにせよ、誰か大人が子どもに代わって税金(消費税)を納めなければ、この子は一瞬たりとも(は大げさだけど)生きていけない。

 子どもを一人産めば、子どもが働いてお金を得るとき(通常は高卒、専門学校、短大・大卒)まで、親は子どものために消費税を払い続ける。
 子どもが少しでも親を助けようと、けなげにバイトに励めば(バイト代に消費税はかからないけれど)、バイトに関係して物を買えば消費税が含まれる。

 子ども一人分の子育て、約20年間にかかる消費税を1とすれば、二人産めば2倍、三人産めばそれは3倍に増える。
 子どもを一人産んでくれたら……二人、三人と増やしてくれたら「報奨金をあげますよ」と言われ、それに乗ったら親は毎年子どもの納税を肩代わりする羽目になる。それが消費税だ。

 少子高齢化に関して若者が結婚しなくなった、子どもを産まなくなったと言われ、その理由が取りざたされている。だが、誰も「消費税が原因ですよ」と言ってくれない。
 どなたか(学者さん)、1989年を境として出産子育てに対する意識がどう変わったか、調べてほしいものだ。あれ以後出産子育ては「重くなった」のではないだろうか。
 比喩的に言うなら、子どもは納税という足かせをつけられた。それを親が代わってつけているようなものだ。

 政治家は「だから、扶養控除、児童手当を出しています」と言うだろう。
 だが、どちらも消費税実施前からあったのだからカンケーない(厳密に言うと1972年~2006年は月3000円の児童手当と「年少者扶養控除」であり、2007年から月1万の児童手当支給開始。同時に年少者扶養控除は廃止され、高校3年間の扶養控除開始)。

 それに消費税分を補うのが目的なら、子どもが自ら働くそのときまで児童手当は支給されるべきではないか。なのに、児童手当は中卒までである。高卒が9割を超える時代になってさえ、児童手当は中卒までだった。
 今ようやく「高卒まで児童手当」などと言い出しているが、時すでに遅しと言うしかない(年末には高卒まで児童手当を導入する分、高校3年間の扶養控除減額が決まった)。

 閑話休題。
 収入がないのに税金を徴収される。それを親が肩代わりしている。
 これを重税と呼ばずしてなんと呼ぼう。正に朝三暮四の税金版ではないか。
 今どんぐりは3ヶから4ヶに増やされた。だが、後の4ヶは3ヶに減らされている。すなわち「朝四暮三」。
 いや、むしろこう言うべきだ。「朝ドングリを7ヶもらった。だが、夕方までにドングリを8ヶ拾って飼い主に差し出さねばならない」と。児童手当は消費税によって常に減額されているようなものだ。

 物価高対策として低所得者に年間10万円支給などと言われる。ありがたーいお上の政策だ。
 このお金はだいたい食料や生活必需品に回される。すると、物の価格には消費税8~10パーセントが含まれるから、国にとっては税金として還元(?)される。つまり、給付金も全額自由に使えるわけではない。常に9割分しか使えないのだ。

 年金やパート収入が年100万なら所得税・住民税はない。では「無税か?」と言えばそんなことはない。全額生活費として使い切ってしまえば、10万は納税している勘定になる。

 サラ金の仕組みをご存じだろうか。10万借金すると、最初からひと月分の利息(10パーセントなら)1万が引かれて9万渡される。それと同じ……と言ってはさすがに言い過ぎか?
 消費税導入前これはなかった。給付金も各種手当も納税に関係なく満額自由に使えたのだ。

 若い夫婦に余分なお金をあげても、赤ん坊を一人、二人と産んでくれれば消費税で取り戻せる。子どもが大人になって子ども(孫)を産めば、二世の親、プラス三世からも消費税を搾り取れる。
 今までは二世三世が働くまで納税はなく(国にとっては)出て行くばかりだった。だが、消費税によって赤ん坊からも、小中高校生からも税金を取れるようになった。

 なんと素晴らしい制度だろう。生きる限り逃れようのない、節税もできない、(国にとっては)取りっぱぐれのない制度だ。

 一方、富裕層と呼ばれる方々は手持ちの大金を《運用》して配当という不労所得を得る。世界が不安定になると、金塊を買ってため込む。金の値段が上がるのをにたにたして眺めている。
 なのに、ほんのちょっとしか納税しない。増やそうというと、猛反対が起きていつも尻すぼみになる。
 富裕層から反対がある以上に、議員さんが「そんなことしたら富裕層が我が国を逃げ出す」からだと言う。

 逃げてもらったらどうだろう。愛国心なき人なんだから。この国を本当に愛する方々なら、逃げ出しはしないと思う。この国よりお金を愛する富裕層が逃げ出すのだ。
 あるいは、大きな会社はできるだけ赤字に見せるよう会計操作して法人税の節税を心がける。もちろん全部(全員)とは言わない。一部でしょう、あくまで一部(数の多い?)。

 消費税をつくった人は言うだろう。「そのような金持ちや企業からもきちんと納税させることができる。それが消費税ですよ」と。鼻高々だ。
 だが、そのおかげで収入のない赤ん坊、子どもからも税金を取る。「これ以上公平な、素晴らしい納税策はない」と考えた学者・官僚・政治家は立派な方々だが、どこか抜けていると言わざるを得ない。
 いや、彼らがこんな理屈を知らないはずがない。ただ、難しいことは放棄して簡単なことをやろうとする方々なんだろう。

 むろん税金を否定する気はない。公共サービス、行政、警察、司法、教育など全体から少しずつ集めて大きな仕事、全体に必要な仕事をなしとげる。そのためにぜひ必要な金集め(?)だ。

 それに「クロヨン」とか「トーゴーサン(ピン)」の言葉もあるように、自己申告の納税はごまかしたり節約できる。企業は赤字だと法人税0円である。消費税は自営業者・会社が赤字であろうと何だろうと売り買いする限り、必ず税金納付がある。よって、ごまかしようがない。
 [語句の意味不明の方はこの場で即ネット検索を。年末某政党のパーティー券収入の裏金づくりによって政治家のピンぶりがまた明らかになりました。]

 だが、問題は赤ん坊から小学校、中学、高校と収入のない子どもたちに税金を課し、それを親に肩代わりさせること。そのうち消費税は10パーセントから20パーセントにされる。出産子育ての納税も倍増する。手当や給付金は(生活費に使われる限り)常に2割減額されているようなもの。あれっ、やっぱりサラ金と同じじゃないか。

 この国をリードする政治家は声高に言う。
「日本を愛しなさい。国を守るため、戦争が起こったら兵士として戦場に行きなさい。子どもをたくさん産みなさい」と。
 だが、収入のない子どもにまで税金を課すような国を、我々はどうして愛することができようか。

 では、出産・子育てをどうとらえるのか。
 出産子育てが労働でないのなら、それは何か。

 その前に次のような人は子どもを産むべきではない(と私は思う)。

 それはまず生きることに喜びを見出せない人。
 自分の人生を苦役と感じている人がどうして赤ん坊を産み、育てることができようか。
 生きることはつらい、苦しいと感じているなら、(おそらく子どもを産もうと思わないだろうが)間違って産んでしまうことはある。間違いが起きないよう気を付けないといけない。

 次に赤ん坊や子どもを見て「かわいい」と思えない人。こちらも子どもを産んではいけないと思う。しかし、結婚したりパートナーができると、気が進まないながら、産んでしまうことは大いにあるだろう。
 特にこのような女性が「子どもを欲しい」と思う男性と結婚したときは、夫としっかり話し合うべきだ。むしろなぜかわいいと思えないのか。親との関係を振り返り、自分の心の中を探求する必要があると思う。

 三番目。以前も書いたように「何かを得たら何かを失う」。この理屈を納得できない人も子どもを産んではいけない。
 赤ん坊が生まれたら、当初はお母さん、お父さんに24時間自由はない。映画、観劇、好きな歌手のライブ、全て行けない。父となった夫は釣りの誘いも接待ゴルフも断るべきだ。
 赤ん坊のミルク、おむつ、衣類を買わねばならないから、自分のおしゃれも我慢する。赤ん坊を得たら、それらの自由が失われる。夜泣き出せば安眠さえ妨害される。それがいやなら子どもは産まない方がいい。

 四番目。三番目の逆、子どものために自分の全てを犠牲にしても構わない、と思う人も子どもを産まない方がいい。この気持ちは子育ての難しさに直面したり、子どもと良好な関係を築けないとき、「自分の全てを犠牲にして尽くしているのに報われない」と感じやすい。そのとき悲劇が起きるからだ。

 ――とまー、このように書くと、これから赤ん坊を産もうと考えている人はうんざりされるかもしれない。
 だが、反論は可能。これらは所詮理屈、感情は別である。

 赤ん坊を産んで自分の子を育てたいと思う――なら、そう思うことは自由だし、おそらくこの感情は生き物全てに与えられた本能のようなものではなかろうか。

 以前私たち一人が生まれるためには30代5億人の父母が必要だと書いた。それは鳥類・哺乳類など多くの生き物についても同じ。オス、メス5億のつがい[番]が必要だ。独り立ちするまで親が育てるのも同じ。親鳥はエサをせっせと巣に運ぶ。野生動物も獲物を仔に与える。

 進化の初めから考えると、宇宙クラスの無量大数が連綿とつながっている。多くの生き物は(たぶん何も考えることなく)この本能に従って仔を生み育てる。ひとり人間のみ「ああだこうだ」と考え思い悩む(^_^;)。

 これに関連して私は中学校時代理科の先生だった一人の女性を思い出す。
 彼女はとてもきつい性格の人で、一言で言うと怖い先生だった。さすがに殴ったりはなかったけれど、授業はいつもぴりぴりしていた。笑顔を見せることなく、生徒に注意する言葉も情け容赦ない感じだった。当時私は「大人になったらこんな人とは結婚したくない」と思ったものだ(^.^)。

 ところが、その先生が結婚した(よくまー)。そして、赤ん坊を産んで1年後復帰した。私は先生からまた授業を受けてびっくりした。がらりと変わっていたからだ。
 生徒に対するぎすぎすした言葉遣いがなくなり、笑顔さえ見せるようになった。一言で言うと優しく穏やかになった。私は「きっと赤ん坊が生まれたからだ」と思った……。

 出産子育ては「労働ではない」と書いた。
 だが、多くの親御さんは「そんなことはわかっている」とつぶやいたのではないだろうか。

 出産も子育ても労働ではない、苦役ではない。お母さんは苦役だと思わないから、10ケ月我慢して骨折以上の痛みに耐えて赤ん坊を産む。お父さんは我が子のため、家族のために働く。子どもの危機には走っていく。

 さて、労働ではない、苦役でないなら何か。
 私に考えはあるけれど、ここでは書かない(ヒントはすでに出ています)。
 答えは読者各位が見つけ出すものではないだろうか。

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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

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2024.10.13

『空海マオの青春』論文編 後半 第4号

その3(二)「四苦八苦と四喜八喜」

 本節は2013年『空海論文編』前半冒頭に掲載した文章です。
 それは同時に2004年『狂短歌ジンセー論』創刊号の文章でもあります。
 つまり、ある意味私の根幹をなす考え方と言えましょう。それが空海全肯定につながっていたとは後にわかりました。

 プレ「後半」その3 空海論「前半」再掲載
(一) 理屈と感情        10月09日
(二) 四苦八苦と四喜八喜    10月16日
(三) 観念論と唯物論      10月23日
(四) 空海「即身成仏」と全肯定 10月30日

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 本号の難読漢字
・四苦八苦(しくはっく)・雅(みやび)・滑稽(こっけい)・生老病死(しょうろうびょうし)
・愛別離苦(あいべつりく)・怨憎会苦(おんぞうえく)・求不得苦(ぐふとっく)
・五蘊盛苦(ごうんじょうく)・自足(じそく)
 以下は造語
・四喜八喜(しきはっき)・尊愛会喜(そんないえき)・愛別離喜(あいべつりき)
・知足得喜(ちそくとっき)・五蘊盛喜(ごうんじょうき)

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***** 空海マオの青春論文編 後半 *****

 後半第4号 プレ「後半」その3(二)「四苦八苦と四喜八喜」


 人生について考えていたとき、ちょっと面白い親父ギャグを思いついた。
 題して「四喜八喜の人生」――もちろん有名なことわざ、「四苦八苦」の逆パターンだ。

 四苦八苦とは人がとても苦しいとき、一生懸命がんばっているときによく使われる言葉。
 しかし、この言葉は仏教本来の意味を持っている。

 それはまず人が抱える四つの苦しみ――「生老病死」の四苦を根本として、さらに次の四つの苦しみを言う。

 第一に、愛別離苦(あいべつりく)
 第二に、怨憎会苦(おんぞうえく)
 第三に、求不得苦(ぐふとっく)
 第四に、五蘊盛苦(ごうんじょうく)

 仏教では生老病死の四苦と、この四苦を合わせて《四苦八苦》と呼んでいる。

 生老病死の四苦とは――生きる苦しみ、老いる苦しみ、病気になる苦しみ、そして死ぬ苦しみの四つ。正に人間の不安と恐怖、悩みと苦しみをずばり言い得て素晴らしい(?)言葉だ(^.^)。

 だが、私は思う。
 人生とはかく言うほどに苦しみの連続なのか。そんなに苦しくつらいことばかりなのか。
 むしろ、これを逆に言うことはできないだろうかと。

 そのようなことを考えているとき、ふと「四喜八喜(しきはっき)」の言葉が浮かんだ。
 人生における四つの喜び、さらに四つの喜び……人にはそれがあるではないかと。

 まずは生老病死の《喜び》(^_^;)について。

 第一に生きることの喜び――
 人生には自然の美しさに触れ、人の温かみや優しさに触れ、家族・友人と共に生きる喜びがある。学ぶことで新たに知る喜び。働くことで自己を実現する喜びがある。
 仕事は確かに辛いこと、いやなこと、苦しいことが多い。だが、働くことで張り合いと生き甲斐を持てる。あるいは、趣味やボランティアによって生き生きと活動することができる。それは人生における《喜び》と言えるのではないか。

 第二に老いる喜び――
 年を取ってようやくいろいろなことを味わえるようになる。食べること、遊ぶこと、仕事。若い頃はただがむしゃらに《食べる》だけだった。年を取るにしたがってようやく《味わえる》ようになった。そして、高齢者になったときは《長老》として後輩や若者達を見つめる喜びがあるのではないだろうか。

 第三に病気になる喜び(^.^)――
 病気になって初めて体験する感情がある。それは自分を「気にかけ、心配してくれる人がいる」とわかる感情だ。普段はしばしば口ゲンカをしたり、煙たい存在の家族であっても、病気になって「自分は愛されているんだ」と気づかされる。この人は《かけがえのない存在》であることに気づく。
 あるいは、病気になり、痛い目にあってやっと生活習慣が変えられる(^_^;)。病気になって初めて弱々しい人の気持ちがわかるようになる。それは病気になることで得られる、新たな喜びと言えないだろうか。

 第四に死ぬ喜び(^_^;)――
 死とは現世を離れ、違う世界へ旅立つことへの期待感……ということもできる。
 ある漫画家は人が永遠に生き続けることの苦痛を描いている。人にとって不老不死は永遠の願望かも知れない。だが、永遠に生き続けることが果たして幸せかどうか、ちょっと想像しただけですぐにわかる。いつかピリオドが打たれる。だからこそ限りある人生が光り輝く。

 最後はかなりこじつけ臭いと言われそうだ(^.^)。
 しかし、私は「生老病死」とは四つの喜びではないかとあえて言いたい。
 もっと厳密に言うなら、四苦と四喜は五分五分だと思う。つまり、生老病死とは四つの苦しみであると同時に、四つの喜びでもあるのだと。
 もちろん四喜の前提として飢えがなく、戦争がなく、奴隷ではなく、差別や迫害を受けない世の中である必要があるだろう。

 さて、それでは愛別離苦をはじめとして、さらに四つの苦しみを四喜とこじつける方はどうだろう(^_^)。

 第一に愛別離苦(あいべつりく)――
 確かに愛する人と別れ、離れなければならないことはつらい。しかし、別れがあるからこそ新しい出会いがある。
 愛する親が死ぬことは悲しい。だが、もはや自分を束縛する根源がなくなる。愛する伴侶、愛する我が子が死ぬことはもっと悲しくつらい。ときには「一緒に死んでしまいたい」と思うことさえある。
 だが、悲しみを乗りこえれば、自分が生きて残された意味や使命に気づくことがある。そして、今までと違う人生をゆっくり歩き始めることができる。

 第二に怨憎会苦(おんぞうえく)――
 確かに人はどこかで怨(うら)み憎む者と会わなければならない。それはいやなことだし、心は不快と嫌悪でいっぱいになる。そいつに頭を下げなければならないときは、もっとつらくて苦しい。
 しかし、離れ小島で一人暮らしてみればすぐにわかる。ひとりぼっちで人恋しいとき、あんな奴でもそばにいたらと思う。普段はいみ嫌っていた相手でも、二人だけで暮らしてみれば、誤解していたことに気づくかもしれない。

 どこに行ってもいやな人間はいる。だが、周囲の人間全てがそうではない。怨憎会苦(おんぞうえく)の裏には「尊愛会喜(そんないえき)」があると私は思う。愛し尊敬できる人と出会う喜びだ。
 その人と一緒にいると心が落ち着き、楽しくなる。わくわくする。友と一緒に遊ぶことはこの上なく楽しい。恋は成就しなければ苦しみばかりだけれど、出会いなくして恋は生まれない。つまり、人生には人と出会う喜びがあるのだ。
 そして、過去を振り返ってみたとき、「あの人と出会ったからこそ今の自分がある」――そう思える人が何人もいる。人と出会う喜びはこの人生にしかない。何と素晴らしいことかと思う(^_^)。

 第三に求不得苦(ぐふとっく)――
 確かに求めて得ることができないのは苦しくつらい。物質的なものであれ、精神的なものであれ、我々にはほしいものがたくさんある。
 だが、「限りないものそれは欲望」という言葉もまた真実。求めるばかりで満足を知らないと、この苦しみは死ぬまで終わらない。大切なことは《知足》(ちそく)――足るを知ることではないか。

 足るを知れば、求めて得ることのできない苦しみはその途端に喜びに変わる。ああ、これを得ることができた――その喜びが心からわいてくる。
 何かを求めて生きてきた。そして、これまで生きて獲得したものがある。取りあえずそこで立ち止まって振り返るなら、自分はなんと多くのものを得てきたことかとわかる。

 ただ、満足することと、そこで求めることをやめることは違うだろう。私は足るを知りつつなお求めていいと思う。求めることは生きる上での張り合いを与えてくれるからだ。
 そもそも求めること自体は苦しみでも悪いことでもないだろう。満足できないことが苦しみを生むのだ。「こんなに求めているのに得ることができない。苦しい」と目をぎらつかせるのではなく、「今はこれだけを得た」と満足する。
 求不得苦ではなく《知足得喜》(ちそくとっき)――足るを知れば、人生はいつでもどこでも喜びが得られる(^_^)。

 最後に五蘊盛苦(ごうんじょうく)――
 五感(五官)が盛んであること。これはもう苦しみでも辛さでもない。ものすごい人間的感情であり、生命の高らかなる賛美の表現だ。それはむしろ「五蘊盛喜(ごうんじょうき)」と言うべきだ。

 苦しみや悲しみ、自分の痛みと人の痛み、人間以外の動物の痛み、物の痛み……それを感ずることのできる人。それこそ五蘊(ごうん)が豊かで盛んな証拠。素晴らしい人間ではないか。

 逆に、痛みを感じない人。人の痛み、動物の痛み、物の痛みを感じない人……そのような人は強い人と思われている。だが、鈍感で無神経な感性の持ち主であり、やせ細った心の持ち主ではないか。
 傷つくことのできる人、人の痛みを感じることのできる人こそ素晴らしい。五蘊盛苦ではなく五蘊盛喜――五蘊が盛んであることは喜び以外の何ものでもない。

 生老病死の四喜、愛別離喜、尊愛会喜、自足得喜に五蘊盛喜。四苦八苦の裏面には四喜八喜がある――私はそう思う(^_^)。

 いや、表が喜びで、裏が苦しみと言ってもいい。そして、苦しみを表に出すか、喜びを見いだして表に出すか。それはその人の生き方しだいではないだろうか。


  ○ 苦しみと 悩みを超える四喜八喜 生老病死に喜びを見る


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:前置きで書いたように、本文は2004年の『狂短歌ジンセー論』創刊号の文章です。それから約10年後の2013年、『空海論文編(前半)』の冒頭に掲載しました。さらに10年経った今でもこの内容になんの修正も加えようと思いません。

 振り返れば、これは私の《全肯定》だったか――そう思います。「四苦八苦なんぞしたくない」と誰でも思う。だが、その裏には《四喜八喜》があり、もちろん歓喜を否定する人はなく、全て肯定できる。

 あの頃「空海の最終境が全肯定である」ことなぞ全く知りませんでした。
 2013年の『空海論文編』創刊号末尾には以下のように書いています。
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 当時《四苦八苦》を《四喜八喜》と取る見方は、仏教用語を借りた思いつきに過ぎなかったのです。
 ただ、人生を苦しみの連続と見るか、それとも歓喜あふれる人生ととらえるか。
 私が十数年前に到達した境地は正に後者であり、その思いをこれまで小説やエッセーに書いてきました。今振り返るなら、その結果として空海の姿が見えてきたと言えそうです。

 どうやら空海は人生を充実させて生き、歓喜あふれる生き方を説いているようだ。それは私の到達点と一致している……その感触から私は空海を読み始めました。
 偉大な歴史的人物と平々凡々たる自分を並置するなど、おこがましいことながら、私は空海を読めば読むほど確かな手ごたえを感じました。その結果、様々な謎を解くことができたと自負しています。
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 最後には表が「苦」なら裏は「喜」である。いや、表が「喜」で裏が「苦」なのかもしれないともあります。コインに表裏はあるけれど、それは一体であると「20年前に書いていたのかあ」としみじみ思います。

 それから最近のニュースより一つ。
 目下ノーベル賞の選考シーズンですが、日本の被団協(日本原水爆被害者団体協議会)がノーベル平和賞を受賞しました。おめでとうございます。
 受賞理由は「核兵器のない世界を実現するための努力と、目撃証言を通じて核兵器が二度と使用されてはならないことを実証したことに対して」とあります。

 同団体は1956年結成、以後核兵器廃絶を訴えてきました。ロシアやイスラエルが核兵器を後ろ盾にして戦争に突き進む今こそ、核廃絶を世界の誓いにしようということでしょうか。
 残念なのは日本がいまだに「核兵器禁止条約」に参加していないことです。
 そのうちこの問題を取り上げたいと思います。

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2024.10.04

『空海マオの青春』論文編 後半 第3号

プレ「後半」その3(一) 「理屈と感情」

 まずは前号後記、一読法で読んでいれば、つぶやいていい疑問に関して。
 文中以下のように書いています。
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 ストレスとプレッシャーに耐えかねて飲酒喫煙に走る。
 ライバルさえいなければと思って誹謗中傷をSNSに書き込む。
 ミスをして鉄棒から二度も落下する。
 対戦チームのミスによって勝ったり上位に行ける。
 相手のミスを祈る。……

 空海は「みんな思っていい、感じていい、やっていい」と受け入れます。

 と書けば、「おいおい。なんちゅーこと言うねん」と叱られそうです。

 しかし、これこそ空海が到達した境地――《全肯定》です。
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 ここで取り上げた例は5つ。本文には他に7月から9月に起こった国内外の話題を取り上げています。じゃあ(つぶやくべきは?)
「他の例はどうなんだ。みんな肯定するのか?」との疑問。

 ロシアのウクライナ侵攻、イスラエルのガザ空爆、花札元大統領の「移民が犬猫を食べている」との発言。日本国内の米騒動、検査不正、高速艇故障隠蔽、知事のパワハラ。また、過去の出来事から関東大震災の朝鮮人狩り、太平洋戦争、パールハーバー、都市の空爆、原爆投下などなど。
 それら全ても肯定する。受け入れる。もちろんそれも全肯定。
 すると、さらに「肯定できるわけがなかろうが!」と怒りの言葉が浴びせられそうです。

 この詳細はこれからとして一つだけ理屈を語っておきます。
 それは過去の出来事に関して「では否定できますか。どうやって否定するんですか」と問うて見ればわかります。
 私たちはすでに起こったことを否定できない。過去に戻ってやり直すことができない。つまり、過去に発生したことはどんなにいやでも、しまったと思っても《受け入れる》しかないということです。

 さて、これからしばらく『空海論』前半の論考をいくつか再掲載いたします。
 詳しく解析して論じた各節はちと難しいと言うか、つまらないと感じるかもしれません。よって前半57節( 目次 )は興味ある方に再読してもらうことにして総論的と言うかエッセー風に語ったところは読者各位の人生観や生き方の参考になるのではと思います。そこで、その部分を再掲載いたします。これは同時に「空海論後半」への導入になるはずです。

 プレ「後半」その3 空海論「前半」再掲載
(一) 理屈と感情        10月09日
(二) 四苦八苦と四喜八喜    10月16日
(三) 観念論と唯物論      10月23日
(四) 空海「即身成仏」と全肯定 10月30日

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 本号の難読漢字
・未曾有(読めなければ検索を)・大勢(「この場合は「おおぜい」ではない)
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***** 空海マオの青春論文編 後半 *****

 後半第3号 プレ「後半」その3(一)「理屈と感情」


 空海論文編を開始する前に、一つ語っておきたいことがあります。

 それは《理屈と感情》ということです(^_^)。

 よく言われる言葉として「理屈はよくわかっている……でもそう思えないんだ」というのがあります。

 たとえば、2011年の東日本大震災――
 巨大地震だけでも未曾有のことなのに、大津波で家族を失い、同僚、友人を失い、家を失った。そして、自分は生き残った。
 すぐに立ち直って働いたり、復興活動に励む人もいます。しかし、悲しみに打ちひしがれ、何もやる気が起きない人も多数です。
 どうしても元気が出ない人は「いっそのこと自分もあの津波で死んでしまえば良かった」とまで思う。

 そして、身近の人にそのようなため息をもらせば、相手は言います。
「悲しいのはよくわかる。でも、いつまでもくよくよしたって仕方ない。前向きに生きなきゃ。あなたが元気に生きること。それが亡くなった人たちの願いだよ」などと励ましてくれる。
 確かにそのとおりだ。前向きに、積極的に、明るく生きなきゃと思う。
 でも……できない(--;)。

 なぜできないかと言うと、相手の言葉が理屈だからです。人は理屈では明るくなれない。
 自分の感情が――心からそう思い、心からそう感ずることができなければ、そちらへ進めないのです。

 もう一つ。相変わらず振り込み詐欺が絶えません。

 最近では高齢者だけでなく、中年のお母さん方も引っかかるとか。
 詐欺のやり方が巧妙で言葉巧みということはあるでしょう。しかし、テレビなどでは盛んに防御法を教えています。それでも、つられて金を振り込む人、自宅に来た受取人にお金を渡す人が後を絶ちません。あれは一体なぜか。

 私は思います。それは「息子の一大事になんとかしたい」と思うのは感情で、「この話は詐欺かもしれないから気を付けて」は理屈だからだと。

 理屈は大概感情に負けます。パニックに陥った感情は冷静な理屈なんぞ蹴散らすのです。

 かくしてお母さん方は息子の危機に対して「さあ大変だ!」とお金を用意すべく銀行に走る――私はそう分析しています。

 また、感情というのは不思議なもので、たとえば《セクハラ》問題。

 とある会社で、男性社員や上司が女性社員の肩に手をかけ「がんばれよ」と言ったとき、彼女がその人に好意を抱いていれば、それは親愛の情が示されたと感じるでしょう。最低限好意も嫌悪もない中立状態なら、本人は別に気にしないと思います。
 けれども、忌み嫌う同僚、上役だったりすると、その行為はセクハラと感じるはずです(^_^;)。

 いじめの場合はどうか。
 どこかでいじめられた子がこの世の地獄だと思って自殺する。それが全国ニュースで流される。
 そのたびに「命の大切さを学ぼう。いじめてはいけない」と言われる。識者・評論家がテレビで訴え、全国の学校では校長先生が「いじめてはいけない」と児童・生徒に語りかける。
 この言葉は万人が認める真理、真実の言葉でしょう。しかし、いじめはなくならない。
 一体なぜか。

 私は思います。それは「命が大切だ。いじめてはいけない」が理屈に過ぎないからだと。

 このときいじめに潜んでいる感情は「弱々しい奴、気にくわない奴をいじめるのは楽しい、面白い」です。
 ある種の子ども、ある種の大人はこの感情にとらわれる。
 だから、いじめはなくならない。昔もあったし、今もあるし、将来もいじめは続く。
 なぜなら、いじめることは楽しいのだから(-_-)。

 こうして考えると、「命が大切だ。いじめてはいけない」なる言葉は真理かどうか疑わしくなります。
 この言葉は子どもや大人が心からそう思い、心からそう感じて初めて真理になるのではないか。
 逆に言うと、《どんなに正しい理屈も、感情がともなわなければ真理にならない》のだと思います。
 いじめの場合は犠牲者が出ることで、ようやく心から「いじめは良くない」と感じられるようになるのです。

 この最大の例が戦争でしょう。「平和は正しく、戦争は悪」――これは真理か?

 おそらく世界中の誰もが「それは真理だ」と答えるでしょう。
 普通の人も、議員さんも、大臣、大統領も。戦争のために日々訓練している兵士だって。「戦争は良くない。平和が大切だ」と答える。
 ならば、なぜ戦争はなくならないのか。二つの国や集団がいつ戦争が起こっても不思議ない対立・緊張関係に陥るのか。
 これもいじめと同じです。「平和は正しく、戦争は悪」――この言葉も《理屈》に過ぎないのです。

 たとえば、戦争が起こるときの感情はこうでしょう。
「理不尽な相手から理不尽な攻撃を受けた。何の罪もない国民が殺された。傷ついた。許せない! 報復だ! 国民を守り、国を守るためには反撃するしかない。報復しろ! 思い知らせるのだ!」と。
 この感情が理屈に勝ち、リーダーは戦争に走り、人々はそれを支持する。

 そして、戦争が始まり、多くの犠牲を出し、焼失した町を見て心から思う。「やっぱり戦争は良くなかった」と。
 感情がようやく理屈を認め、「平和こそ大切だ」――この言葉を心から受け入れる。
 しばらくの間は……(-_-)。

 この報復感情というのは日常生活でもしばしば見かけ、自らも感じる《感情》です。気づいていらっしゃるでしょうか。

 たとえば、ある居酒屋でこういう光景がありました。
 仲むつまじげな若い男女が二人、向き合っていろいろ語りながら、楽しそうに飲み食いしている。
 そのときふと女性の携帯に電話がかかり、彼女はそれに出るといろいろ話し始めた。時折笑い声も聞こえる。時間にして数分から十分くらい。男性はその間黙って飲み、食べている。
 それから何分かして今度は男性が自ら携帯を取り出し、どこかに電話をかけて話し始めた。彼の声はこちらにも聞こえてくる。
 その間女性は黙って食べ、黙って飲んでいる。つまらなさそうに。
 男性の電話が終わると、二人はまた二人だけの会話に戻る。ところが、さらに何分か経って今度はお互い携帯でメールチェックをやり始めた。それが一段落つくとやっと以前の雰囲気に戻り、二人は楽しそうに飲んだり食べたりを続けた……(^.^)。

 私はその様子を見ながら、「ああ報復合戦をやっているなあ」と思ったものです。

 あるいは、夫婦間などで、夕食後奥さんがダンナさんに「ちょっと、あなた……」と声をかける。
 そのときダンナはテレビか新聞に夢中、あるいは、別のことを考えていて返事をしない。
 すると、奥さんは黙る。
 しばらくして今度はダンナが奥さんに「実は今日なあ……」と何やら話しかける。
 すると、奥さんは最初聞こえないふりをして(または、ほんとに聞こえてなくて?)ややあってから「えっ、何?」などと返事する。
 ダンナさんは「いや、いい。なんでもない……」と応ずる。若干気まずい空気が流れる。

 これもちょっとした感情のすれ違いであり、ちょっとした報復合戦だと思うのですが、いかがでしょうか(^.^)。

 こうしたすれ違いが長く続くと「これじゃあ一緒にいても仕方ない」とか「一緒にいたくない」となって離婚の危機が始まるのでしょう。
 そのとき「子どものためにも離婚は良くない」と押しとどめる言葉は所詮《理屈》に過ぎず、「もう夫婦関係は続けたくない」という《感情》に負けるのです。

 私は大学で志賀直哉を研究しました。実は志賀直哉の大きなテーマがこの「理屈と感情」でした。
 彼はしばしば書いています。「理屈ではわかっている。しかし、感情が許さないんだ」と。志賀直哉の場合は主として父子対立であり、妻との問題でした。

 しかし、この言葉は以上のようにあらゆる場面で使われる――それこそ真理だと思います(^_^)。
 「理屈ではわかっている。しかし、感情が許さない、受け入れない」――この事例は私たちが生きている限り、この身にたくさんふりかかるでしょう。そのとき理屈と感情を一致させることはとても難しいのです。

 残念ながら、多くの心理学・哲学は感情の問題に明確な回答を与えていないような気がします。あるいは、分析・研究することが不可能なのかもしれません。
 なぜなら、《感情》というのは人が100人いれば、100人の感じ方の違いがあるからです。
 報復の戦争を支持するかどうかにしても、アンケートをとれば、60人は「賛成」と同一の答えを出すかも知れません。しかし、その人たちの感情が同じかと言うと、とてもそうは思えません。ひとりひとりに聞いてみれば、それぞれ違う感じ方を答えるはずです。
 あるいは、開戦時はその戦争を支持したとしても、何年か経って再度聞いてみると、「あのときはみんなにつられてしまった。ほんとうは反対だったんだ」なんて答えもあります。
 周囲の人や大勢に流されやすいのも感情です。怒りや悲しみ、悔しさの感情にとらわれ、どうしようもできない――それも感情です。

 さて、まとまりもなく「理屈と感情」について書いてきました。

 ここで空海論に戻って本号の結論らしきものを提示してみると、私は「理屈と感情」について我々になんらかの答えを与えてくれるのは宗教ではないかと思っています。

 ただ、ここで勘違いをしないでほしいのは、どこかの宗教に《入信する》ことで、感情の問題が克服・解決できると言っているのではありません。
 宗教は《感情を受け入れ、克服するためのもろもろを教えている》と言いたいだけです。

 たとえばキリスト教なら、それは《神》であり《愛》だし、仏教では《慈悲》であり《地獄・極楽・無常観》などです。

 キリスト教の「右の頬を打たれたら左の頬を差し出しなさい」は報復感情をいさめる言葉でしょう。仏教の慈悲も同じだし、「人を傷つけ、いじめるなどしたら地獄に落ちるぞ」も仏教の教えです。あるいは、「読経をしなさい、般若心経をとなえなさい」という言葉も「理屈と感情を一致させ、受け入れるための教えだったのか」と最近やっと理解しました。

 もっとも、キリスト教をバックボーンにするはずの英米両国はテロ攻撃を受ければ、すぐに「報復だ」と叫ぶし、「地獄は存在する」と思っている現代人は少ないでしょう。
 つまり、宗教の教義でさえも真理ではなく理屈だった――これが宗教に対する今の私の結論です。

 ならば、いかにして理屈を真理にするのか。いじめや戦争、報復感情をいかにコントロールするか。
 私は『空海マオの青春』小説編でそれを描きました。いや、描いたつもり――と言うべきでしょう(^_^;)。
 うまく描けたかどうかは、読者の判断にゆだねるしかありません。

 そして、これから書こうとする『空海論文編』は《理屈》を使ってこの問題をさらに探求する試みです。
 要するに「理屈ではわかっている。しかし、感情が許さない」――このテーマを空海青春論で語ってみたいのです(^_^)。

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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:前置きに書いた「過去に発生したことはどんなにいやでも、しまったと思っても《受け入れる》しかない」、肯定するしかない――これは理屈であり、「肯定できるわけがなかろうが!」と叫ぶのが感情です。
 今年元日に能登半島地震が起こった。津波被害は大きくなく、復興に向けて動き始めていた。ところへ9月末秋雨前線に台風が重なって千年に一度クラスの豪雨が発生した。土砂崩れや河川が氾濫して多くの住居が津波のような泥水に浸かった。さすがに心が折れる――これも感情です。

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