« December 2024 | Main | February 2025 »

2025.01.23

『空海マオの青春』論文編 後半 第15号

 本節は南都仏教入門、仏道修行、仏典研究から南都学問仏教、仏教界への失望について眺めます。空海マオは「このままでは新しい仏教を創始することはできない」と考え、当時流行りでもあった山岳修行に乗り出す。そして、修験道から道教・神仙思想を発見します。

 空海は南都仏教に入門しながら、寺を飛び出して山岳修行に進出する理由を終生語っていません。しかし、南都仏教に失望したに違いない。ここでも大学寮の《入学→失望→退学》とよく似た経緯――すなわち《仏教入門→失望→寺院を離れての山岳修行》があったと推理できます。

 マオの仏教入門はあくまで新しい仏教創始が目的です。おそらく一年も経たずして「このままでは新しい仏教を生み出せない。現実の仏教は腐っている」と感じたかもしれない。それゆえ、寺を離れて山岳修行に飛び出したのです。

 本節にて仏教界に対する失望を眺めますが、その前に《現代仏教の問題点》について触れたいと思います。以下四項目が考えられるのではないでしょうか。

 1 僧侶がただお経をとなえるだけで、意味を理解せず、説くこともしていないこと。
 2 葬式仏教であること、苦しむ人の心を救う働きかけがなされていないこと。
 3 ああだ、こうだと不毛の仏教論を交わす学問仏教に陥っていること。
 4 法事やお墓に多額の金銭を徴収する金儲け主義に陥っていること。

 論文編前半をお読みの方はおわかりと思います。
 この4項目は奈良から平安初期の仏教界が陥った「腐った現状」のまとめなのです。

 なお、本節の詳細は空海論前半第23節にあります。

 『空海論』前半のまとめ(三) その2

 1 仏教入門後の大まかな流れと九つの謎 1月22日
 2 南都仏教――僧侶個人への失望 1月29日
 3 学問仏教、大寺院の経済活動への異和感
 4 山岳修験道進出、道教発見
 5 神仙思想への失望から仏教回帰、『聾瞽指帰』執筆
 6 新しい仏教を求めて一度目の求聞持法百万遍修行
 7 室戸岬にて二度目の百万遍修行、改題『三教指帰』公開
 8 二度の百万遍修行を経て体得した《全肯定》の萌芽について

------------------
 本号の難読漢字
・斑鳩(いかるが)・勤操(ごんぞう、大安寺の僧)・論疏(ろんしょ、仏教注釈書の経典)・読誦(どくじゅ)・出挙(すいこ、種もみを貸し出す経済活動)・『続日本紀(しょくにほんぎ)』・神祇(じんぎ)信仰・八百万(やおよろず)の神々・崇仏(すうぶつ)・開眼(かいげん)供養・鑑真(がんじん)・念誦(ねんじゅ)・僧綱(そうごう)・僧正(そうじょう)・僧都(そうず)・律師(りっし)・霊験(れいげん)・濫(みだ)りがましい・徒(いたずら)に・侮(あなど)り・濫行(らんぎょう)

------------------
***** 空海マオの青春論文編 後半 *****

 後半第15号 プレ「後半」(三) その2 

 南都仏教――僧侶個人への失望


 空海十代から二十代の頃、仏教を学ぶには平城京奈良が最適の場でした。新しい仏教創始に突き進むと言っても、まずは古い仏教、今ある仏教を知らねばなりません。当時仏教修学の場として南都仏教にまさるところはありません。

 マオは長岡を出て旧都平城京に向かいました。ときは延暦12年、マオ19歳。
 長岡ではすでに建物の解体が始まっていたでしょう。弥生三月の頃なら、春の息吹を感じつつ「南都仏教は一体どのようなものか。儒教が仁の風とするなら、仏教はいかなる風を世にもたらすのだろう」などと考えたのではないでしょうか(^_^)。

 以前書いたように平城京から長岡に遷都した際、南都七大寺の移転は許されませんでした。平安京遷都が決まったとき、七大寺の重鎮は新都移転を夢見たかもしれません。ところが、七大寺は平安京にも移れなかった。

 遷都後平安京には「帝都を守るため」東寺・西寺の巨大寺院、また周囲の山々に多くの寺院が建てられます。しかし、それらは全て《新仏教発掘・育成》のためであり、南都仏教の古老に声はかからなかったようです。新進気鋭の僧の中に比叡山の若き最澄がいたことはすでに述べたとおりです。

 ちなみに、南都七大寺とは興福寺・東大寺・西大寺・薬師寺・元興寺・大安寺・法隆寺の七寺を指します。法隆寺は奈良市内ではなく斑鳩(いかるが)にあるので、法隆寺にかわって唐招提寺を入れる説もあるそうです。
 マオは叔父の勧めに従って奈良仏教の門を叩いた。彼が入門した寺は大安寺と言われます。師事したのは勤操大徳とも。この件について私の新説はなく、定説に従いたいと思います。

 当時南都仏教は六宗に分かれていました。それが以下。中心的な寺院名も列挙します。
 《南都六宗》
・法相(ほっそう)宗――興福寺・薬師寺
・倶舎(ぐしゃ)宗―――東大寺・興福寺
・三論(さんろん)宗――大安寺・東大寺南院
・成実(じょうじつ)宗―元興寺・大安寺
・華厳(けごん)宗―――東大寺
・律 (りつ)宗――――唐招提寺

 この詳細を語ることは本論の趣旨と外れますので、詳しくはネット事典をご覧下さい。
 全体の特徴として六宗は実践的仏教と言うより、学問仏教の趣が強かったようです。それも経典そのものより、論疏(ろんしょ)が研究されていました。
 論疏とは先人が書いた仏典注釈書ですが、読誦されて経典のように扱われたようです。

 さて、新仏教創始という燃える思いをもって南都仏教に入門したものの、仏教界への失望は早かったと思われます。空海論文編前半では以下のように4節にわたって推理・解説しました。
 [南都仏教への失望]
 第23 その1……マオが山岳修行に乗り出したわけを、二冊の史書から探る。
 第24 その2……南都学問仏教の詳細とマオの思いについて。
 第25 その3……大寺院による高利貸しのような経済活動「出挙(すいこ)」について。
 第26 その4……鎮護国家仏教への異和感について。

 要約なんぞしたくないけど、敢えて短くまとめます(^_^;)。

 前置きで列挙した「現代仏教」の問題点。それは空海が南都仏教に入門した奈良、平安初期の仏教――寺院や僧侶に対する批判です。
 誰が批判したか。桓武朝廷です。
 どこにあるか。史書の中に書かれています。

 具体的には桓武天皇治世前後が書かれている『続日本紀』(宇治谷孟訳、講談社学術文庫)と『日本後紀』(森田悌訳、講談社学術文庫)の二書です。

 さて、インドで生まれた仏教が中国や朝鮮半島を経由して日本にもたらされたのは六世紀半ば。538年とも552年とも言われます。
 当時日本の土着宗教は神祇信仰、すなわち「八百万の神々」でした。
 世界各地の宗教・信仰がいずこも排他的であるように、日本とて例外ではなく、輸入当初は日本の神々と仏の対立があったようです。それは崇仏・廃仏論争と言われます。

 六世紀の終わり頃仏教受容派が勝ち、明日香に日本最古と言われる飛鳥寺が建立。そして、聖徳太子による四天王寺・法隆寺建立と続き、七世紀に入ると神仏習合も始まったようです。「なんときれいな平城京」――710年奈良時代が始まるころ、仏教は鎮護国家の宗教として重要な位置を占めるようになります。

 その後諸国に国分寺・国分尼寺の設立、総本山の東大寺建立。そして、天平17(745)年、聖武天皇による大仏造像が発願され、7年の歳月をかけて完成するや、天平勝宝四年に開眼供養が行われました。
 この年唐僧鑑真が来日したことも日本仏教にとって重要なことでした。それまで受戒の作法(正式な僧となるための誓いの儀式)は日本に伝わっておらず、鑑真が初めて日本にもたらしたからです。

 よって「鳴くよウグイス平安遷都」の794年ころは仏教導入から200年を経過しています。
 このような流れを経て空海マオが生まれたのが東大寺大仏開眼供養の22年後(774年)のことでした。同年4月11日の条に『人民は般若心経をとなえよ』と詔勅があります。「立っているときも座っている時も歩いている時も、皆(般若心経を)念誦せよ」とあるので、全国津々浦々で般若心経をとなえる声が聞こえたことでしょう。

 ところが、同時に仏教界の腐敗、堕落ぶりも史書に取り上げられるようになります。
 詳細は論文編前半第23節をご覧ください。

 いくつか抜き書きすると、「近年の僧侶の行為は俗人と変わらず、上は無上の慈悲深い仏の教えに違い、下は国家の法律を犯しているという。僧綱(教団統括者、僧正・僧都・律師)が率先して行いを正すならば、他の者は皆正しくなるであろう。~略~また、諸国寺院の統括管理者がもっぱら権力のある者に私事を頼み込んでいる。このような不正は、この上放っておくべきではない」とあります。

 桓武天皇即位二年後の延暦2(783)年(マオ9歳)の条には、貴族が田地を寺に寄進する問題について記述があります。「このままでは、もし年代がたてば寺でない土地はなくなるであろう」と言い、同年12月6日には借金で苦しむ民の惨状が語られ、「寺は高利貸しに走り、官人は見逃している」として諸寺に詔が出されます。寺が高利貸しに走っているとは聞き捨てならぬ言葉です。

 延暦14(795)年(マオ21歳)5月25日の条には10年前の勅令について触れ、「出家した人は本来仏道を修行するのがつとめである。~しかるに仏法の趣旨に背き、~略~仏の霊験と偽り称して愚かな民を欺き誤らせたりしている。このような僧尼は畿外へ追放せよ」と決めた。ところが、十年経っても守れていないとして次の勅令が出されました。

「(この制令に従わぬ)違反者が多数となっている。髪を切り俗世間と縁を絶つのは、もとより修行のためであるのに、うわつき濫りがましいさまは右のとおりである。これでは僧尼でありながら、かえって仏教の教えを破り、徒に教界を汚すだけでなく国家の法を乱すことになる」とあります。

 さらに延暦17(798)年(マオ24歳)4月15日の条には、「(僧侶の中には)『法華経』と『金光明最勝王経』の音読は学習しても、教説を理解していない者がいる状態である。仮にも僧侶となり課税されないという特権を与えられながら、かえって大切な仏教の戒律を棄て学業を廃しているのである。これでは形は僧侶でありながら、行いは在俗と同様である」とあります。

 続いて「現実の僧侶は仏教の優れた学業を大切と思わず、ある者は経済活動を営み村里に出入して通常の民と異ならない状態である。このため、多くの人たちが僧侶を侮り、仏教の教えが衰亡する事態となっている。道に外れた僧侶は仏教の真理を汚すだけでなく、国法にも違反している。今後はこのような僧侶を寺へ居住させたり、供養してはならない」とあります。

 同年7月28日の条にも「平城旧京には元来寺が多く、淫らな僧尼による濫行がしばしば発生している。正五位下右京大夫兼大和守藤原朝臣園人を起用して検察させよ」とあります。これは僧尼による恋愛を指し、それを乱れた行いとして摘発したと考えられます。

 仏教を学びながら、経典は読めるけれど、内容は理解していない。そして、行いは在俗と変わらず、大寺院は高利貸しのようなことをしている。「何をやっておるんじゃ!」という桓武朝廷のお怒りが感じ取れます。

 結果、桓武朝廷は(今までなかった)得度試験の実施を決定します。
 上記延暦17年4月15日の条に「年ごとに定員枠のある年分の得度者は若年の者から採用することが慣例となっているが、『法華経』と『金光明最勝王経』の音読は学習しても、教説を理解していない者がいる状態である。~今後、年分の度者には年齢が三十五歳以上で出家としての心構えが定まり、仏教の知識・修行共に十分で漢音を習得した、僧侶たるにふさわしい者を選んで充てるべきである」とあります。

 具体的には毎年十二月以前に得度試験を実施する。内容は十条の口頭試問を行い、五ヶ以上答えられた者を仮の得度とし、受戒の日さらに十の試問を行う。そして、八ヶ以上で合格と決められました。

 つまり、今まではお経が読めさえすれば十代でも二十代でも得度ができ、葬式のお経上げに参列できた。もちろん布施ももらえた。だが、これからは35歳以上、なおかつ仏教の内容を理解できていなければ、得度できないことになるわけです。

 この勅令に対して空海マオはどのような反応を見せたか。
 同輩僧が「大変だ、大変だ。得度試験が始まる。しかも、三十五歳になるまで得度できない」と駆けてくれば、マオはすずしい顔で「本当に仏典の内容を理解しようと思えば、入門後十年二十年かかって不思議ではない」と応じ、「良いことだ」と言ったのではないでしょうか(^_^)。

 この年マオは二十四歳。仲間が「お前は三十五になるまで得度できないのだぞ。それでいいのか」と言えば、マオは「私はまだ新しい仏教を生み出していない。それまで得度するつもりはなかったから、どうってことはない」と答えたのではないかと思います。
 さらに、「これからはお経をとなえるだけでなく、内容までしっかり理解しなければならないということだ。本人のみならず仏教界にとっても良いことだと思う」と続けたような気がします。

 以上、南都仏教界の僧侶個人に蔓延した問題点について語りました。
 南都仏教が空理空論の学問仏教に陥ったこと、寺院が高利貸しのような経済活動に走った点については次号に回します。

==============
 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:先日兵庫県議の男性が亡くなりました。自殺とみられています。S知事のパワハラを問う百条委員会で積極的に発言していた人でした。
 そのころから彼への誹謗中傷がSNSで飛び交い、自宅は特定され、身の危険さえ感じて知事の再選後辞職していました。それでも誹謗中傷がやむことはなかった。

 最近発信元とも言えるN党T党首が「警察が彼を調べている。逮捕が近い」と書き、それは数十万人のフォロワーによって拡散されていたそうです。
 警察は自殺を受け、異例とも言える「そのような取り調べの事実、逮捕の予定はなかった」と発表し、T党首は「間違っていた」と過ちを認め、謝罪の動画を出しました。

 知事のパワハラ(これはまず事実でしょう)が二人目の犠牲者を出した――私にはそう思えます。罪深いことです。
 いろいろ書きたいことはあれど、一つだけ「誰かに対して根拠がなくとも批判の言葉を書くことは正しい」と思っている方々。それを「いいね」として無条件に拡散することは「もっと良いことだ」と思っている方々へ。

 日本では言論の自由があります。しかし、誹謗中傷のSNSが過ぎると、この言論の自由は規制されるようになります。
 あなた方は「日本を中国やロシアや北朝鮮のような、国民が物言えぬ国にしたいのですか」と。反省を促すとともに私自身も自戒にしたいと思います。 御影祐

| | Comments (0)

2025.01.18

『空海マオの青春』論文編 後半 第14号

 いまだ空海論後半前の「プレ」です(^_^;)。
 今号より空海マオが大学寮を退学(19歳と推理)して南都仏教界に入門、以後23歳まで5年間の流れをまとめます。

 奈良大安寺に入門後仏教研究に励んだけれど、ほどなくして寺を飛び出し山岳修験道に進出する。そこで道教神仙思想を知ると、二度の「求聞持(ぐもんじ)法」百万遍修行を経て23歳の暮れに『三教指帰』を公開する――その5年間です。
 これは『空海論』前半第21節から30節、第39節から55節の全26回に渡って語った部分です(間の31~38節は「仏教回帰」と題して仏教のイロハを解説)。

 昨年末再読して「短くするのは至難の業やなあ」と感じております。
 正直「全てそのまま再配信したい」誘惑にも駆られました(^_^;)。
 「おいおい」てか?

 しかし、さすがにそれは鼻白み、眉をひそめる、顰蹙もの[読めなければ検索を]の行為。
 なんとかがんばって以下のように8回にまとめようと決意しました。なので原則週一で配信します。

 1 仏教入門後の大まかな流れと九つの謎
 2 南都仏教――僧侶個人への失望
 3 学問仏教、大寺院の経済活動への異和感
 4 南都仏教への失望から山岳修験道進出、道教発見
 5 神仙思想への失望から仏教回帰、『聾瞽指帰』執筆
 6 新しい仏教を求めて一度目の求聞持法百万遍修行
 7 室戸岬にて二度目の百万遍修行、改題『三教指帰』公開
 8 二度の百万遍修行を経て体得した《全肯定》の萌芽について
 今号はその1として「南都仏教入門後の大まかな流れ」をまとめます。

------------------
 本号の難読漢字
・求聞持法(ぐもんじほう)・『聾瞽指帰』(ろうこしいき)・『三教指帰』(さんごうしいき) ・三教(単独のときは「さんきょう」)・神祇(じんぎ)・阿刀(あと)の大足(おおたり)・玄昉(げんぼう)・善朱(ぜんじゅ)・蛭牙公子(しつがこうし)・入唐(にっとう)
------------------

***** 空海マオの青春論文編 後半 *****

 後半第14号 プレ「後半」(三) その1 

 仏教入門後の大まかな流れと九つの謎

 本論前に前節の補足を。
 マオに仏教転進を勧めたのは叔父阿刀の大足であると語りました。
 文中大足が「腐敗堕落した仏教界で新しい仏教を生みだしてみないか」と言ったこと、そして「彼は帝都の社会、政治状況をよく知っている。もちろん仏教界についても詳しい」と語ったところ。その詳細は論文編前半第16節にあります。

 ごくごく簡単に紹介しておくと、桓武朝廷が南都(奈良)仏教に対して嫌悪感があったことは歴史上よく知られており、長岡京、平安京に南都七大寺の移転を全く許さなかったことが例証としてあげられます。

 また、桓武即位前の769年には法王道鏡の宇佐神宮神託事件もありました。道鏡を天皇にしようという企みは失敗したけれど、藤原氏など重臣にとっては仏教界が力を持ちすぎるとして警戒されたでしょう。
 しかし、神祇信仰、儒教の力が弱まり、人民の支配に当たっては仏教に頼るしかない。ゆえに、新しい仏教が求められ、最澄など若手僧侶に期待が寄せられていた。阿刀の大足は当然これらのことをよく知っていたと思われます。

 さらに、かつて阿刀家から従五位下に到達した人は一人もいないけれど、僧正玄昉、秋篠寺の善朱和尚は史書と『日本霊異記』に「俗姓阿刀」とあります。よって、阿刀の名は学問、僧界において知られていたことがわかります。

 さて、ここから本論。仏教入門後の空海マオについてまとめます。

 これまで書いてきたように、空海マオにとって仏教への転進は一つの挫折でした。本当は高級官僚・天皇側近の政治家を目指していたのに、それをあきらめたわけですから。
 今なら千人に一人の逸材であれば、東大に行って容易く(?)望みがかなえられるでしょう。しかし、奈良から平安時代は能力より門地の時代でした。

 親の身分が高く由緒正しき家柄であれば、ぼんくら息子でも(^.^)たやすく出世できたけれど、それがなければ出世の道はほぼ閉ざされていた。田舎郡司の子弟でしかないマオは大学寮入学後すぐにそれを悟ったでしょう。

 その絶望感を最もよく理解したのは儒学者である叔父大足であり、だからこそ彼は門地のない仏教界、能力が高ければ最後は大僧正となって政治と関わり、天皇と対面さえできる仏教を勧めたのだと思います。新しい仏教創始は桓武朝廷喫緊の課題でもありました。
 退学は挫折ではあるけれど、新たな目標を見出したことでマオの意気は高く、挫折感を引きずることはなかったろうと思います。

 大学寮に入学したのはマオが17歳のとき。一年間通って授業に失望し、進路に絶望して退学を思い始める。しかし、十数年に渡って儒教を学んだ身ゆえ、ドロップアウトは決断しづらく、叔父や両親に言い出せぬままずるずる通い続けた。

 翌年「もう一年頑張ってみよう」、あるいは「やめてどうする? どうなる? 先のあてもめどもない」まま通ったけれど、相変わらずの大学寮に萎えた気持ちが回復することはなかった。この間《飲む打つ買う》の自堕落な生活があり、それは「蛭牙公子」としてやや自虐的に描かれました。
 そして、帝都を襲った二度の大洪水によって遷都が決まるや、「私も大学寮をやめて都を出よう」と決意し、叔父の勧めによって仏教転進となった……。

 よって、マオの仏教入門は18歳の末か、19歳――延暦10(西暦791)年に入ったころだろうと推理しています。

 余談ながら、みなさん方はこれまでの人生を百八十度大転換するような道に進んだことがあるでしょうか。もしあるなら、最初は「これまで学んだこと、やったことが全く無意味になった」と思われるはずです。
 しかし、それから十年、二十年経ったとき「あのとき学んだことは転換後の人生で大いに役立った」と振り返ることもあります。それはマオも同じだったでしょう。

 彼が儒学で学んだ「漢文読書術」は仏教典籍を読むにあたって大いに役立ったはず。マオは仏教経典をすらすら読破していったに違いありません。わずか1年か2年で『聾瞽指帰』仏教編としてまとめられたことを見れば、それがわかります。

 『聾瞽指帰』仏教編には仏教のイロハが書かれています。今なら「これを読めば仏教の全てがわかる」とか、ネット事典によって仏教の初歩を知ることができます。しかし、事典も入門書もなかった時代。原文の経典を読みあさってそれを論文化するなど、一体どれほどの能力があれば可能なのか。
 空海は千人に一人どころか、一万人、十万人に一人の逸材だったとしか言いようがありません。

 ところで、進路変更の見方には少々いちゃもんをつけることもできます(^.^)。
 振り返って「あのときは無意味になったと思ったが、その後役に立った」と言えるには、転換後の人生で何らかの《成功》が必要です。進路変更前に学んだことを使って成功できたからこそ、「役に立った」と言えます。

 もしも成功がなかったら悲惨(^_^;)。進路変更したが、うまくいかなかったと思うし、学んだことは全てムダだったと感じるのではないか。そうして「進路変更なんぞしなければ良かった」と後悔するかも知れません。

 前者が成功の進路変更なら、後者は失敗の進路変更です。これもまた大いにあり得る人生ドラマでしょう。全ての人、全ての進路変更が必ず成功するわけではない。
 もしも読者の中に「進路変更して失敗だった」と感じている人がいらっしゃるなら、一つアドバイスを提供します。私は「ならばもう一度進路変更しては?」と思います。

 あるいは、それは元に戻る進路変更かもしれません。例えば、ピアノとかバイオリン、絵画など芸術方面に進もうとしたけれど挫折。その後進路変更したものの、それもうまくいかず二十年。そこに至ってもう一度楽器を弾き、絵筆を取ったとき、以前と全く違う表現力を身につけ、今度こそ成功に至るかもしれない……し、やっぱりダメかもしれません(^.^)。

 でも、それで良いではありませんか。一度しかない人生です。やりたいことをやりたいようにやれば。成功しようが、失敗しようが。

 あだしごとはさておき、仏教入門後マオが『聾瞽指帰』を執筆して改題『三教指帰』として公開したのは23歳の暮れ。それまで正味5年あります。
 この間に仏教修行と仏典研究→山岳修行進出→求聞持法百万遍修行との出会い→太龍山・室戸岬、二度の百万遍体験(この間『聾瞽指帰』執筆)と流れます。

 かなり濃密な時間を過ごしているものの「新しい仏教」は生み出せていません(『三教指帰』の仏教編にそれがないことでわかります)。

 この5年間を仏教編前半とするなら、後半は『三教指帰』公開後の24歳から、遣唐使節の一員として入唐する30歳までの7年間、さらに入唐の旅から長安滞在、帰国までの3年間となります。この結果、ようやく新仏教である《密教》を得て日本に戻るのです。

 まとめれば以下のようになります。
(ア)仏教入門から『三教指帰』公開までの5年――[19~23歳]
(イ)著書公開後遣唐使節一員となるまでの7年――[24~30歳]
(ウ)入唐の旅から長安滞在、帰国までの3年―――[31~33歳]

 私はこの前半生を、若き空海、めめしく悩むマオが失意失望、挫折を繰り返しながら、やがて夢をかなえる青春時代として描きました。
 論文編はさらに詳細を語り、どうやって挫折を乗り越え、夢をかなえたのか、その秘密に迫ろうとしています。

 この三期間全てに解きがたい謎が含まれていますが、まずは仏教編前半における謎――と言うか疑問点を列挙しておきます。9項目にまとめました。

 1 なぜ寺院内の修学から山岳修行に進出したのか。
 2 『聾瞽指帰』執筆の意味――特に儒教・道教・仏教の三教を比較したわけ?
 3 求聞持法百万遍修行とはマオにとってなんだったのか。なぜ四国太龍山か、なぜ室戸岬だったのか。
 4 なぜ百万遍修行を二度行ったのか。これによって何を得たのか。
 5 修験道・山岳修行への失望と、道教を捨てて仏教に戻ったわけは?
 6 『聾瞽指帰』を書き上げた時期、完成『三教指帰』との関係は?
 7 『聾瞽指帰』と『三教指帰』の内容にはほとんど差がない。そのわけは?
 8 『三教指帰』に新しい仏教は書かれていない。なのに、なぜ公開できたのか。
 9 『三教指帰』に追加された《全肯定》の萌芽とはどういうことか。

 残念ながら、空海自身これらの疑問に全く答えていないので、推理するしかありません。
 以後語ることは私の推理による報告です。
 この推理が妥当かどうかはもちろん読者の判断にゆだねられます(^_^)。

=============
 最後まで読んでいただきありがとうございました。

| | Comments (0)

2025.01.10

『空海マオの青春』論文編 後半 第13号

 2025年も早10日。寒中お見舞い申し上げます。m(_ _)m

 空海論文編後半は今年中の完成を目指しています。
 が、「プレ」だけですでに13号。どうなることやら、自信はございません(^_^;)。
 寛容の心にてお付き合いいただけたら幸いです。

 さて、今節は前半のまとめ「(二)その5」として空海マオが大学寮をやめ、仏教界に転進した事情についてまとめます。

 その3でマオが「めめしく悩む若者だった」ことを証明しました。そして、前節において希望に燃えて大学寮に入学したものの、訓詁注釈ばかりで創造性のない講義に失望したこと、また親が高位なら、子も昇進において優遇される「蔭位の制」について語りました。それがマオに絶望を抱かせたと。

 特に後者についてはマオと同年齢の藤原緒嗣、仲成が17歳にしてすでに従五位下である点。地方郡司の子で後ろ盾のないマオはどんなに優秀な成績で大学寮を卒業したとしても、天皇にお目通りがかなう従五位下に到達するまで官位十六階を上らねばならない。
 だけでなく地方出身者には「外(げ)」階の昇進が用意されており、上り詰めても外従五位下止まり。宮中を闊歩することはない。マオが自身の将来に関して暗澹たる気持ちにとらわれたことは間違いないでしょう。

 今節はそのような現状への失望、将来への絶望にとらわれた若者がどのような生活を送るか眺め、その後大学寮を退学し、南都仏教界に転進した経緯について語ります。
 仏教転進は空海マオの意思かどうか。私は誰かに勧められたと推理しました。

 なお、今節の詳細は論文編前半第14~16にあります。

 プレ「後半」その4 空海論 前半のまとめ
(一) 空海の前半生、前期(生誕~23歳) 11月20日
(二) 前期4つの謎について
 (その1)『三教指帰』を一読法で読んで謎を見い出した   11月27日
 (その2)「蛭牙公子」とは誰か、登場人物の戯画化について 12月04日
 (その3)空海マオはめめしく悩む若者であったことを証明  12月11日
 (その4)空海マオが大学寮をやめた事情          12月18日
 (その5)空海マオが仏教界に転進した経緯       25年01月15日

------------------
 本号の難読漢字
・訓詁注釈(くんこちゅうしゃく)・蔭位(おんい)の制・藤原緒嗣(おつぐ)、仲成(なかなり)・従五位下(じゅごいげ)・暗澹(あんたん)・蛭牙公子(しつがこうし)・『聾瞽指帰』(ろうこしいき)・『三教指帰』(さんごうしいき)・三教(単独のときは「さんきょう」)
・得度(とくど、正式な僧となること)・出家遁世(しゅっけとんぜ)・山家(やまが)・阿刀(あと)の大足(おおたり)・未曾有(みぞう)・大極殿(だいごくでん)・藤原種継(たねつぐ)・早良(さわら)親王・皇太子安殿(あて)親王・紀古佐見(きのこさみ)・山背(やましろ)の国葛野(かどの)郡宇太(うだ)村

------------------
***** 空海マオの青春論文編 後半 *****

 後半第13号 プレ「後半」その4(二) その5 

 空海マオが仏教界に転進した経緯


 もちろん空海自身が大学寮をやめた理由、仏教に進んだ経緯について何か語っている文書はありません。以前も書いたように、マオの内心やどのような事情があったかは私の推理です。

 推理に当たって当時の歴史的事実――政治社会状況を探ることで真実に到達しようとしています。取り分け「今も昔も人の心は変わらない」を推理の根幹に置いています。
 この点疑問と不審をお持ちの方は→後半第7節を参照ください。

 さて、めめしくうじうじ悩む若者が大学寮に失望し、将来に絶望したとき、どのような生活を送るか。これに関しては空海マオ自身が次のように語っています。
--------------
 ここに一人の若者がいる。「その心は狼のようにねじけ、人から教えられても従わない。心が凶暴で、礼儀など何とも思わない。賭博を仕事にし、狩猟に熱中し、やくざでごろつきのならずもので、思いあがっている。仏教でいう因果の道理を信ぜず、業の報いを認めない。深酒を飲み、たらふく食べ、女色に耽り、いつまでも寝室にこもっている。親戚に病人があっても、心配などしないし、よその人に対応して敬う気持ちもない。父兄に狎れて侮り、徳のある老人を小馬鹿にする」ような人間である。
--------------

 『聾瞽指帰』(改題『三教指帰』)の中で自堕落な若者として描かれた蛭牙公子。
 彼は儒教も道教も仏教も学んでいない。ほとんど野性であり、文明人とは言いづらいかのよう。この蛭牙公子が空海マオの戯画化であることは論証しました。

 よって、大学寮と将来に絶望した空海マオもまた朝寝朝酒、バクチと女郎通いに明け暮れた――は言い過ぎながら、「飲む打つ買う」の酒と女とバクチに耽溺した可能性があります。大学寮落ちこぼれ組の悪友もいたのではないか。

 マオはこの若者を「蛭牙公子」と名付けました。「蛭」とは「ヒル」のことで、山間の沼地で動物や人間の血を吸う。ヒルに牙があるかどうか不明ながら、周囲から忌み嫌われるヒルのような存在との意味がこめられているでしょう。

 ただ、このような自堕落生活に対して大学寮教授や阿刀家親戚から叱責、説教を受けたかどうか。『聾瞽指帰』仏教編に忍び込んだ親戚による「乞食坊主のような生活はやめて儒教に戻れ」同様の言葉をかけられたか――と言うと、たぶんなかったと考えられます。

 なぜなら、空海マオの大学寮での成績は相変わらずトップクラスを維持したと思われるからです。
 学友がどんなに必死に勉強してもマオには追い付けない。彼は居眠りをしていても、教授の質問に対して寝ぼけ眼でさらりと正答を答える。何しろ大学寮数年分の教科書(漢籍)を全て暗記しているような人です。何でも答えられたはず。
 教授は「生活態度を改めてもっと勉強しろ」の言葉を飲み込んだでしょう。
 阿刀家の親戚だって何も言わなかったに違いありません。

 以前も書きました。現在でも大学に失望し、絶望感に浸って乱れた生活を送る若者がいる。彼は「大学をやめたい」と思っているけれど、だらだら同じ生活を続けてしまう。「もう大学にいたって仕方ない。ほんとはやめたい。けど、両親は自分に期待している。息子のために田舎で懸命に働いている。それを思うと、やめたいと言い出せない。だが、今の自分は大学にも行かず悪友とバカなことをやって遊び暮らしている」とめめしく悩むタイプの学生がいると。

 空海マオには『三教指帰』仏教編に親戚から「乞食坊主なんぞやってないで儒教に戻れ」と説教されたとき、似たような言葉があります。
--------------
「私も人として父母の恩を片時も忘れたことがありません。親は年老い、家は傾き、親族も貧しい。私に託された期待を思うと胸が張り裂けんばかりです。しかし、非力な私に肉体労働はできず、仕官しようにも才覚がありません。かつての君子ももはや存在しないではありませんか。大たわけの私はこれからどのように生きたらよいのか。ただ途方に暮れ、ため息をつくばかりです」
--------------

 大学寮をやめるかどうか、ぐずぐず悩んだときの気持ちも、これと同じではないか。
 後述しますが、仏教界に転進してもマオには失望と絶望があり、打開すべく山岳修行に飛び込む。いまだ得度もせず、私度僧として乞食坊主のような格好のマオは、正道を歩む親戚にとっては鼻つまみ者。そこで進むか退くか悩んだのなら、大学寮でも同じように悩んだと推理できるのです。

 では空海マオが「もう大学寮をやめよう」と決意するに至った経緯はどうか。

 マオが大学寮退学後(もしくは休学状態で)仏教に進んだのはずっと《空海の意志》と思われ見なされてきました。根拠は『聾瞽指帰』の序において仏教入門のわけを次のように語っているからです。

「立身出世や世俗の栄達を競う世の中をうとましく思い、夢・幻でしかない人のはかなさから悟りの道を考え、出家しようと思った」と。

 しかし、これは定型のような出家の理由であり、マオの真意を明かしていないと思います。
 そもそもこのような言葉から出てくる境地は「出家遁世」――世を厭い、俗世間を離れて仏門に入ることでしょう。出家後は寺院や人里離れた山家の独居生活であり、静かにお経を読み、ひたすら座禅に明け暮れる毎日ではないでしょうか。後世になるけれど、『徒然草』兼好法師のような。

 ところが、マオはその後寺院を離れて山岳修行に入り、さらに後年日本を飛び出して唐に渡り、新しい仏教である《密教》を得て帰国します。
 帰国後は真言宗を創始して最澄の天台宗とともに平安仏教の二大勢力となり、政治の世界とも大きく関わります。
 定型のような出家の動機にはこの《能動性》と言うか《積極的な意志》が感じ取れません。私にはマオが入門当初から《新しい仏教創始》を思い描いていたと思えるのです。

 そもそもマオが大学寮退学を決意したとき、彼には「仏教に行こう」との気持ちはなかったのではないか。物心ついた頃から官僚(政治家)を目指し、ひたすら儒学一筋でやってきた少年です。
 その儒学を離れるなんて身についた肉をそぎ落とすようなもの。相当の痛みをともなっただろうし、そこを離れてどう生きればいいか、たやすく思いつくとは考えられません。『聾瞽指帰』の自堕落人間蛭牙公子は三教を聞く前の存在であり、それは仏教入門前、儒教にまみれた(だけの)マオ自身でもある。
 大学寮退学前のマオにとって仏教とは未知の世界、異世界だったと思います。

 マオは「これ以上はもう耐えられない」と大学寮退学だけは決意した。けれども、その先のあてはなかった。
 そのとき「大学寮をやめるか。ならば仏教に行ってみるか」と言った人がいるのではないか。私はそう推理しています。マオに仏教入門を勧めた人物がいるはずだと。
 しかも、その人は「腐敗堕落した仏教界で新しい仏教を生みだしてみないか」と言ったのではないか。こう考えることで、その後の能動性、積極性が納得できるのです。

 それは誰か。考えられる存在は一人しかいません。
 帝都で暮らすマオの後見人――藤原南家伊予親王の家庭教師となったマオの母方の叔父、阿刀の大足です。

 この時期の大足はおそらく三十代後半から四十代前半くらい。もちろん従五位下ではなく(助教にもなっていないので従七位と推理)、儒学者として将来は大学寮の助教から教授が期待されている人と思います。
 彼は帝都の社会、政治状況をよく知っている。もちろん仏教界についても詳しい。そして、空海マオの悩みを理解できる唯一の人であると思われます。

 ここで私的体験を一つ。私は今から?十年前、小学校5、6年の2年間、親に言われてラジオの基礎英語を勉強しました。確か朝の6時半ころの放送で、うつらうつらしながら「This is a pen.」とやりました。
 中学校の英語を前もってやらせれば、「英語でつまずくことはあるまい」との理由でしょう。おかげで中学校の3年間、私の英語は一貫して5段階の5でした。

 ここで質問。空海マオの大学寮数年分の教科書(漢籍)を丸暗記する勉強法は一体誰が教えたのか。
 答えはすぐに出るでしょう。叔父である儒学者阿刀の大足しかいません。

 彼もまた上の代からそのように教わり、漢籍を丸暗記して大学寮を優秀な成績で卒業した(と考えられる)。それがいざ大学寮に入ると、全く新味のない、すでに知っていることばかり繰り返され、講義をつまらなくすること、創造的人間にとって耐えられない授業になるとは思い至らなかったのでしょう。

 ちなみに、私の中学校英語授業はせいぜい1年分の知識しかなく、つまらないどころか評価5を維持するため一日2時間は英語を勉強したものです。さらに、その後大学卒業まで10年間英語を学んだのに、大卒後は英語を喋れない、英字新聞、小説・論文など読めない、読もうとも思わない。そのような日本の英語教育の悲しき犠牲者として「あの無駄な時間を返せ!」と言いたくなる(^_^;)。
 この件は以前『一読法を学べ』(第47号)で書きました。

 閑話休題。マオの大学寮退学に戻ります。
 マオの叔父阿刀の大足については論文編前半14~16節を再読下さい。

 長くなるので、ここはマオがいよいよ「大学寮退学」を決断した大きな「偶然」について語っておきます。
 今でも同じでしょう。いいろ迷ったあげく何かを決意するとき、自然――というか天のすう勢に背中を押されることがある。マオにとっては帝都長岡を襲った未曾有の水害、そして長岡から平安京へ――遷都の決定でした。

 大学寮二年目の延暦十一(七九二)年。この年前半はずっと少雨で干害が広がり、各地で雨乞いの儀式が行われました。六月に入ってようやく降り出した雨はやがて長雨となり、長岡の東を流れる桂川が徐々に水かさを増します。

 そして六月二十二日、雷鳴と豪雨が帝都を襲って桂川が氾濫。濁流は左京に流れ込み、式部省の南門が音を立てて倒壊しました。通りは川となり、家々は床上まで水に浸かったことでしょう。

 さらに、その後始末も終えぬ八月九日、前回にも増して激しい雨が降ります。
 大量の雨は桂川からあふれ、堤防が何カ所も決壊。激流が朱雀大路を越え、右京まで泥水に浸かった――と『続日本紀』にあります。大極殿は丘の上にあるので被害を免れました。

 長岡を都としてから八年。前年には平城京の朱雀門など諸門を移築しています。さあこれからというときの二度の水害。これは朝廷と民に相当ショックを与えたようです。
 長岡京は藤原種継暗殺と早良親王冤罪事件から始まっています。遷都後天皇の母と皇后の突然死、皇太子安殿親王が原因不明の病気にかかるなど変事が続き、天候不順で飢饉が毎年のように発生しました。
 この年も皇太子の長患いで、占わせたところ「早良親王の祟り」と出ます。
 桓武天皇は帝都を見下ろしながら「この地は穢れているか」とつぶやいたかもしれません。

 一説によると、すでに数年前から遷都の思いがあったのではと言われます。二度の水害はその決定を早めただけかもしれません。おそらく九月には《遷都》が本決まりとなっていたのではないか。これ以後天皇の鷹狩りが長岡東部で盛んに行われています。平安京候補地の視察が始まっていたことは間違いありません。

 鳴くよウグイス平安遷都――は水害の翌々年ですが、すでに翌年一月十五日には大納言藤原小黒麻呂と左大弁紀古佐見が「山背の国葛野郡宇太村」(平安京の地)に派遣され、土地の様子を視察しています。『日本後紀』には「遷都のため」と記されており、二度の水害を終えた頃には遷都が決断されたようです。

 遷都のうわさが民に広まるのは早かったと思われます。貴族の建物などが倒壊したり、泥に汚れてもそのままであったら「おかしい」と感じるものです。民は朝廷より早く「変事は早良親王の祟りだ」と語っていたでしょう。

 遷都のうわさはやがて大学寮に流れ、マオの耳に入る。藤原南家に連なっている叔父大足は最も早くこのことを知ったはずです。しかし「機密事項」なら、叔父がマオに語ることはなく、マオはやはりうわさで遷都を聞きつけたのではないかと想像します。

 マオはそれを聞いてどう思ったか。遷都すれば、大学寮も当然新都に移る。建物は新しくなるだろう。だが、そこで行われる学問は千年変わらぬ訓詁注釈。何も変わることがない。ここでマオは決心したのだと思います。
「いい機会だ。大学寮が長岡からなくなるなら、私もやめよう」と。
 その先のあてはない。しかし、やめることだけは決心した。それが水害後だったのではないか。自然がマオの決意を後押ししたのではないかと私は思います。


==============
 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:2025年初っ端から長文で申し訳ありません。つくづく短くするのが「下手やなあ」と思います。なお、昨年は週イチで公開していましたが、今後は2週にひとつとします。

| | Comments (0)

« December 2024 | Main | February 2025 »