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2025.03.31

高松宮記念、結果とほぞ噛み

 高松宮記念、結果は――新方式3複的中、幸先良い出足(^_^)

 1着―モレイ 10サトノレーヴ…………[◎]牡6 単勝=3.8
 2着―ルメル 14ナムラクレア…………[◎]牝6
 3着―川 田 15ママコチャ……………[●]牝6
 4着―横山武 12トウシンマカオ………[●]牡6
 5着―川 又 13エイシンフェンサー…[・]牝5

 一覧順位[A→B→C→F]馬群[1→1→1→2]
 前日馬順[B→A→F→E]枠順[B→A→A*→E](*は代行)

 枠連=5-7=5.7 馬連=10-14=8.2 馬単=14.6
 3連複=10-14-15=29.0 3連単=110.8
 ワイド12=3.6 W13=11.5 W23=8.6

--------------
 本紙予想結果
 印騎 手番馬      名 馬 結果
 ◎ルメル14ナムラクレア   A 2
 ◎モレイ10サトノレーヴ   B 1
 ●横山武12トウシンマカオ  E 4
 ●川 田15ママコチャ    F 3
 △西村淳06ル ガ ル    D  7
 △坂 井01マッドクール   C  6
 ・川 又13エイシンフェンサ H 5

--------------
【高松宮記念、過去8年の実近一覧結果】
    一 覧     馬 順     [1234]群
2025年 A→B→C→F B→A→F→E 1→1→1→2
2024年 D→A→QE→QD D→A→H→12 1→1→4→3 乖離3着
2023年 QF→A→QD→D 12→A→15→H 4→1→3→1
2022年 B→QB→QD→QE H→E→16→G 1→3→3→4 乖離2着
2021年 A→D→B→QF B→A→D→17 1→1→1→4 
2020年 QE→B→F→QG F→B→D→15 4→1→2→4 乖離1・3着
2019年 G→QD→QI→A E→14→17→A 2→3→4→1
2018年 QF→G→B→C C→B→09→D 4→2→1→1 乖離1・2着
2017年 F→B→A→QH E→C→A→17 2→1→1→4
2016年 A→C→D→QJ A→B→C→18 1→1→1→4

 以下一覧データの結果

****************************
 【高松宮記念 実近一覧表】 中京 芝12 18頭 定量58キロ
                  (人気は前日馬連順位)
順=番|馬      名牝歳|予OZ{実近}[展]3F|馬|乖|3指単複 印着
[1]
A=14|ナムラクレア 牝6| 3.0{AB}[15]C|A| |AAAA ◎2
B=10|サトノレーヴ  6| 4.5{BC}[7] |B| |BCBB ◎1
C=15|ママコチャ  牝6| 4.8{DA}[4]B|F| |FGH09 ●3
D=01|マッドクール  6| 6.4{CD}[6] |C| |CBDE △6
[2]
E=17|ドロップオブラ牝6|11.0{GH}[11] |15| |
F=12|トウシンマカオ 6|11.1{H09}[12] |E| |EEED ●4
G=06|ル  ガ  ル 5|11.2{E12}[3] |D|乖|DDCF △7
H=05|オフトレイル  4|12.6{F14}[17]A|10| |     ・
[3]
QA=03|ビッグシーザー 5|14.6{11E}[5] |G|乖|GFFC ★
QB=18|ベアボルックス 4|14.8{13F}[10]D|11| |
QC=02|ウイングレイテス8|15.8{1011}[2]E|12| |
QD=09|キタノエクスプレ7|19.4{17G}[8] |13| |
[4]
QE=11|スズハローム  5|21.6{1610}[13] |14| |
QF=08|カンチェンジュン5|22.3{13H}[18] |09|乖|090909H ・
QG=13|エイシンフェン牝5|23.0{1513}[9] |H|乖|HHGG ・5
QH=16|バルサムノート 5|25.4{1616}[1]逃|18| |
QI=04|トゥラヴェスーラ10|28.4{17D}[16] |17| |
QJ=07|モズメイメイ 牝5|35.2{18G}[14] |16| |

 注…「馬」は馬連順「3」は3複順「単複」は単複順位
----------------------------
 ○ 展開予想

※展開(3Fは前走の上がり優秀5頭)
 逃げ     先行     差し     追込
 16 02 06 15 -03 01 10 09 -13 18 17 12 -11 07 14 04 05 08
覧 ▲ △ 〇 5 6 ◎
3F E B D C A
馬 12 D F G C B H 11 E A 10 09
予 ● ★ ◎ ● ◎
結 3 1 5 4 2
----------------------------
 注…馬順はAから12まで掲載。予想は◎2頭と御影のウラ●と枠穴★。
--------------
 [枠連順位]

 枠連=ABCD/EF/GH/ 
 枠順=7513 62 48 枠順[B→A→A*→E](*は代行)
 馬順=ABCD EG 0911 馬順[B→A→F→E]
 代行=F131210 1417 1615
 代2=H 18
 ―――――――――――――
 結果=231   4

 [オッズ分析]
 枠連型=A流れE [AB型] 枠順AB= 7.2
 馬連型=A流れD [4巴]  馬連AB=10.1
 ・A7枠に馬順[F・H]の補強あり。 結果Aより2着、3着
 ・枠H(23倍)までカットできない。

 [AI予想]◎A=14ナムラクレア B=10サトノレーヴ
 ◎A→579(681011)=14→12 03 08(15 13 05 18)番
 ◎B→684(750911)=10→15 13 06(03 12 08 18)番
 裏D→C=06-01番
 3複[1=2→56789]=[14=10→12 15 03 13 08]番 的中

 [御影のウラ●予想]
 馬順●=E[12トウシンマカオ]4着・F[15ママコチャ]3着
 枠順★=F2枠(馬順G[03ビッグシーザー])

--------------
 [寸 評]
 ほぼ本命決着とは言え、新方式で3複(5点)29.0倍の的中。
 ればたらはないけれど、F川田15ママコチャ2着なら、[2→6→1]となって馬連[B→偶数筆頭馬順F]の的中でした。
 私は3単ウラから少ししか買わなかったけれど、馬順Bを1着固定にして[→ウラ●→馬順A流し]で3連単も当たっています。

 ちょっと問題な点は馬連予想で「抑え」が多いこと(^.^)。
 今回は「枠Hまでカットできない」ので増えています。
 そこをあきらめれば、本線の[56789]とすることができます。

 それにしても、18頭の中で6歳は6頭出走。うち4頭が1~4着だから、この世代はまだまだ強いということですね。
 そして、私が予想前置きで「事前上位人気」5頭として取り上げた上位3頭が[2→1→3]着でした(^.^)。一覧もトップABC3頭の123着。

 以上です(今後はこの程度になります)。

************************

 以下はさらなる「寸評」

 ところで、この結果を見て「他のレースはどうなんだ?」と気になるかもしれません。何しろ馬連1番人気の2頭を軸にするチョー簡単「AI予想」ですから(^_^;)。

 そこで、土日の東西10から12とローカル中京の11、計14レースの結果をお知らせします(当日午前9時頃のオッズ使用)。

 土曜7レース=
 A軸成功2回(3着4回) B軸成功3回(3着0)
 日曜7レース=
 A軸成功2回(3着1回) B軸成功1回(3着0)

 正直かんばしくありません。
 土曜の成功は東10[1→4→6]、西11[2→7→4]、中京11[2→1→4]西12[2→6→1]の4レース。
 相手が奇数偶数にはまっていないし、買わない馬連A-Bも1レース。

 また、日曜の成功は高松宮記念[2→1→6]と東12[6→1→7]、西12[4→2→6]の3レース。こちらも……イマイチ。

 もしも馬順ABの馬連はホントに買わず、各軸の相手を奇数・偶数に絞ると……全滅という悲惨な結末(^_^;)。
 3複軸なら(特にAで)効果ありそうですが、[1=2→]馬券は土日計3レース(3番手にDを入れても)にとどまります。

 ただ、データ検討によって「A・Bどちらかに絞る」ことができれば、馬券点数は減らせます。
 また、昨年前期はAよりBの結果が良かった(7回成功)。しかも、Bは6レース(/12)で1着だった。
 この傾向が驚くべきことにこの土日でも現れています。成功した7レースのうち馬順Bは4レースで1着(馬順Aの1着は1回)です。

 特に土曜西11レースG3毎日杯(10頭)は[2→7→4](相手は奇数)ですが、この馬連は66倍(馬単98倍)。Bを軸として5678を2番手に選定したとき、3番手に413を選ぶ(特に偶数Dは必至)なら、3複が的中して払い戻し1万4千(3単7万)馬券の的中でした。

 もう一つ。高松宮では馬連ウラとして[C-D]を追加しています。
 これは「[AB軸にCD蹴って5678]のウラは[CD]」のルールからです。
 ただ、ある条件下ではこのウラの馬連が[CDE]ボックスになることもあります。これはかなり少なく昨年前期GIでは0回。

 ところが、日曜は東10[5→3→7→4]、西10[5→7→3→2]と[C-E]の馬連が一つ成立し、3複[357]が2レース成立しています。

 実は(今回書かなかったけれど)馬順Aを軸とする3複はオール奇数の[1357]ボックスがルールです(B軸は[2461])。
 馬順Aが消えたときの抑えが[357]であり、日曜2レースで的中していたことになります。この3複ともに万馬券です(^_^)。

 どうです? 
 奇数偶数馬券「ちょっと面白そう」な気になりましたか。

 馬順A、Bは誰でも一目瞭然ですが、C、D以下は馬連の並びを見て抽出しなければなりません。「企業秘密」と言いたいところですが、新方式の解説後半と馬順の作り方を次回予想にて披露します。

 (これでホントの)以上です。
 目が不調なのに、やっぱり長くなる…。
 ほんとに「ぼくの悪いくせ」(杉下右京(^.^)。


==============
 最後まで読んでいただきありがとうございました。

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2025.03.29

高松宮記念直前予想とお知らせ

== お知らせ ==
 目下このブログは土曜競馬予想(と月曜回顧)をたまにしか公開していません。
 エッセー・論文中心にしたためです。
 今年はある事情から予想・回顧パターンを変更することにしました。
 以下説明と直前予想を読んで、興味を持たれたなら、「まぐまぐ」サイトよりメルマガ購読を申し込んでください。
 無料です。↓
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***********************************
【 高松宮記念直前予想 】

 さーいよいよ前期芝GIの本格開催。明日よりほぼ毎週の開催です。
 今年もほぞ噛みをよろしくお願いいたします。m(_ _)m

 ――と例年通りの口上ですが、今年はちょっと予想パターンを変更します。

 結論を先に書くと、土曜直前予想に掲載していた(ものすご長い(^_^;)「本紙予想」を今年はやめます。また、月曜配信の「結果報告」も着順結果のみとして「回顧」をやめます。

 今まで何度か短くすることに挑戦し、結果いつも元の木阿弥になっていたのが予想と回顧。短くできないから「やめる」わけではありません(^_^;)。

[ここで鋭い一読法読者なら、「『今年は』とあるから今年だけなのかな?」とつぶやかれたかもしれません。この言葉二度出ています。なければ「今後全て」と読めます。特に二度目に出てきたときはかなり重い内容だから、このつぶやきが出てしかるべき。かくして以下の記述に続きます。]

 今後ずっとそうなるかどうかはビミョーで、今の気持ちとしては今年限りにしたいと考えています。

 理由は以下の3点。
1 目の関係で長時間のパソコン活動が辛くなった。
2 空海論後半を今年中に終わらせたい。
3 予想ではその都度軸馬、相手馬を変えていたが、オッズ予想に切り替えたい。

 ちょっと説明します。

1 私の持病は痛風、脊柱管狭窄症に白内障ですが、前2つは薬を飲みつつなんとか小康状態を保っています。よって、パソコン活動に支障はない。問題は最後の白内障。
 これは数年前に発症して以後眼薬を使っています。最近カスミ目、ぼやけなど視力の低下、眼精疲労甚だしく、医師によると手術して眼内レンズを入れなければ改善できないとのこと。
 今や「いつやるか」状態なのに、「今でしょ」と言えない事情があってまだしばらくこのままでいくしかない。結果長時間の執筆活動が困難になっています。

2 空海論は現在「プレ後半」です。つまり、まだ後半に入ってなく、前半の要約・抜粋が中心。実はこの間後半の下書きを同時に書いておき、プレ終了後直ちに「後半突入」のつもりでした。ところが、週一発行のため再構成と修正に手間取り、後半の下書きができないまま(-_-)。

 GI予想と回顧、データ整理などは金曜から月曜まで4日間フルに使っているので、空海論に費やせるのは火曜から木曜の3日くらい。4月末から後半に入りますが、以前は1ヶ月1回の発行でした。

 そのペースではまた2年か3年かかるので、ひと月2回分は執筆したい。
 そうなると競馬予想と論文執筆を並行させるのはかなり厳しい。
 かくして「競馬メルマガを減量させるしかない」との結論に達しました。

3 最後に関してはいつもの「直前予想」欄にて詳しく説明します。

 前置きも当然短くなります。ただ、それ以外の実近一覧表、展開図、過去の結果などは今まで通り掲載します。また、オッズ分析は文章ではなく特徴のみ列挙します。 基本、データばかりになるとご理解ください。

 もしかしたら私の長文予想とほぞ噛みだらけの「回顧」を楽しみにしている(奇特な方がいらっしゃる)かもしれず、忸怩(じくじ)たる思いにかられます。
 えっ、「そりゃない」って?(^_^;)

 ともあれ、白内障の手術が終わり、空海論後半も書き終えたら、また今までのような長文予想と回顧を復活させます。
 それまではデータとオッズ予想を参考にしてでっかいのを当ててください。


 さて、明日の高松宮記念。全18頭。
 事前人気は以下5頭の5強気配。(馬名の後は前走)

・ルメル14牝6ナムラクレア…12月G2阪神C1着(1人)
・モレイ10牡6サトノレーヴ…12月香港GIスプリ3着(3人)
・川 田15牝6ママコチャ …G3オーシャンS1着(1人)
・岩田康01牡6マッドクール…12月G2阪神C2着(6人)
・西村淳06牡5ル ガ ル …12月GI香港スプリ11着(2人)

 この5頭で1~5番人気だと、4頭が6歳というかなり珍しい上位人気。
 また、ママコチャ以外の4頭は昨年12月以来で今年初出走。
 なんとなく一筋縄でおさまりそうにない気配濃厚。人気薄の単勝を買ってみたい気分です。


 過去9年の実近一覧結果は以下の通り。

【高松宮記念、過去8年の実近一覧結果】
    一 覧     馬 順     [1234]群
2024年 D→A→QE→QD D→A→H→12 1→1→4→3 乖離3着
2023年 QF→A→QD→D 12→A→15→H 4→1→3→1
2022年 B→QB→QD→QE H→E→16→G 1→3→3→4 乖離2着
2021年 A→D→B→QF B→A→D→17 1→1→1→4 
2020年 QE→B→F→QG F→B→D→15 4→1→2→4 乖離1・3着
2019年 G→QD→QI→A E→14→17→A 2→3→4→1
2018年 QF→G→B→C C→B→09→D 4→2→1→1 乖離1・2着
2017年 F→B→A→QH E→C→A→17 2→1→1→4
2016年 A→C→D→QJ A→B→C→18 1→1→1→4

 馬群を見てわかるように、馬群1が馬連の中心で馬群4も結構激走しています。
 馬順もH以降の激走が見られ、かなり難解なGIです。

******************************************************************
 【高松宮記念 実近一覧表】 中京 芝12 18頭 定量58キロ
                  (人気は前日馬連順位)
順=番|馬      名牝歳|予OZ{実近}[展]3F|馬|乖|3指単複 印着
[1]
A=14|ナムラクレア 牝6| 3.0{AB}[15]C|A| |AAAA ◎
B=10|サトノレーヴ  6| 4.5{BC}[7] |B| |BCBB ◎
C=15|ママコチャ  牝6| 4.8{DA}[4]B|F| |FGH09 ●
D=01|マッドクール  6| 6.4{CD}[6] |C| |CBDE △
[2]
E=17|ドロップオブラ牝6|11.0{GH}[11] |15| |
F=12|トウシンマカオ 6|11.1{H09}[12] |E| |EEED ●
G=06|ル  ガ  ル 5|11.2{E12}[3] |D|乖|DDCF △
H=05|オフトレイル  4|12.6{F14}[17]A|10| |     ・
[3]
QA=03|ビッグシーザー 5|14.6{11E}[5] |G|乖|GFFC ★
QB=18|ベアボルックス 4|14.8{13F}[10]D|11| |
QC=02|ウイングレイテス8|15.8{1011}[2]E|12| |
QD=09|キタノエクスプレ7|19.4{17G}[8] |13| |
[4]
QE=11|スズハローム  5|21.6{1610}[13] |14| |
QF=08|カンチェンジュン5|22.3{13H}[18] |09|乖|090909H ・
QG=13|エイシンフェン牝5|23.0{1513}[9] |H|乖|HHGG ・
QH=16|バルサムノート 5|25.4{1616}[1]逃|18| |
QI=04|トゥラヴェスーラ10|28.4{17D}[16] |17| |
QJ=07|モズメイメイ 牝5|35.2{18G}[14] |16| |

 注…「馬」は馬連順「3」は3複順「単複」は単複順位
----------------------------
 ○ 展開予想

※展開(3Fは前走の上がり優秀5頭)
 逃げ     先行     差し     追込
 16 02 06 15 -03 01 10 09 -13 18 17 12 -11 07 14 04 05 08
覧 ▲ △ 〇 5 6 ◎
3F E B D C A
馬 12 D F G C B H 11 E A 10 09 
予 ● ★ ◎ ● ◎

----------------------------
 注…馬順はAから12まで掲載。予想は◎2頭と御影のウラ●と枠穴★。
--------------
 [枠連順位]

 枠連=ABCD/EF/GH/ 
 枠順=7513 62 48
 馬順=ABCD EG 0911 
 代行=F131210 1417 1615
 代2=H 18
 ―――――――――――――
 結果=

 [オッズ分析]
 枠連型=A流れE [AB型] 枠順AB= 7.2
 馬連型=A流れD [4巴]  馬連AB=10.1
 ・A7枠に馬順[F・H]の補強あり。
 ・枠H(23倍)までカットできない。

 [AI予想]◎A=14ナムラクレア B=10サトノレーヴ
 ◎A→579(681011)=14→12 03 08(15 13 05 18)
 ◎B→684(750911)=10→15 13 06(03 12 08 18)
 裏D→C=06-01
 3複[1=2→56789]=[14=10→12 15 03 13 08]

 [御影のウラ●予想]
 馬順●=E[12トウシンマカオ]・F[15ママコチャ]
 枠順★=F2枠(馬順G[03ビッグシーザー])

**************************

 ※ オッズ分析によるAI予想について

 ちょっとカッコよく「AI予想」などと書きましたが、なんのこたーない「アナログ的自動予想」です(^_^;)。

 これまで直前予想を公表してきました。正直(ときどき)大きいのを当てるけれど、常時的中とはとてもいかない。
 そもそも馬券が当たるためには、何はさておき軸が成功しなければなりません。
 ところが、その軸がしばしば着外に落ちてこんな顔(-_-)になっています。

 私はこの理由を「レースごとに軸馬、相手馬、穴馬などを変えているから」と考えています。
 競馬予想、馬券購入において至極当然の姿勢でしょう。
 しかし、これが的中率、回収率の低下、悪化につながっている――と言うより低レベルで停滞している(^_^;)。長年にわたる競馬生活(?)の実感です。

 これを「その都度軸や相手を変えることをやめ、オッズ分析に基づいて毎回軸馬、相手馬を同じ馬順の馬に固定しよう」ということです。

 簡単に言うと、その都度変えないで、常に同じ馬順の軸馬、同じ相手馬を選定する。
 実はその方が軸率・的中率が高い。GIレースに限っても半分近く的中できるし、軸に関しては最大3分の2くらい成功する。つまり、ほぞ噛まずに済むってことです(^.^)。

 以下本稿の見出しです。
 長くなったので、これから2~3回に分けて公開します。

 【オッズ分析によるAI予想について】

 [1] 軸馬選定――2頭軸(馬順A・B)
 [2] 相手馬――奇数偶数馬券
 [3] 実近一覧と枠連順位も利用

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 [1] 軸馬選定――2頭軸(馬順A・B)

 最初に昨年(2024)前期12レースの実近一覧と馬順・枠順の結果から「言えること」を書きます。
 見やすくするため、馬順はABCではなく123…としました。
 123番人気と見なしていいと思います。

 【2024年前期GI結果】
 レース=[前日馬順]   [枠順(*は代行)]
1フェブ=[12→6→14→7][H*→E→E*→H]
2高松宮=[4→1→8→12][C→B→G→D*]
3大阪杯=[4→2→11→8][E→A→G→D*]
4桜花賞=[2→1→7→6][B→A→B*→C*]
5皐月賞=[2→7→4→6][A→F→D→B*]
6天皇春=[2→4→8→13][B→D→D*→G]
7NHK=[2→1→8→4][B→A→C*→D]
8ヴィク=[13→4→1→09][H*→D→B→F]
9オーク=[2→1→3→4][D→A→B→C]
10ダービ=[09→1→7→15][D*→A→A*→B*]
11安 田=[2→4→1→7][B→D→A→H]
12宝 塚=[3→8→4→6][C→H→D→E]


 馬順1番人気と2番人気の結果に着目してください(以後「馬順」省略)。
 馬連購入の際軸になる2着以内に1番人気は5レース、2番人気は7レースで成功しています。軸率として悪くありません。特に2番人気は6レースで1着。

 もしもどちらも軸とする2頭軸(すなわちともに◎)を採用すると、計9レースで軸的中。不的中は1と8と12の3レース。
 この3レースは1[12→6→14]、8[13→4→1]、12[3→8→4]と、馬連・3複の的中はかなり難しい感じです。当然馬単、3単もチョー難解となって外れる可能性高し。
 よって、この3レースは「来たらあきらめる」ことにする(^_^;)。

 競馬は4分の1のレースにおいて「ほぼ全員が外れる」ようにできています。
 この馬券を手にする人は出目馬券か(穴馬的)騎手馬券を実践している人でしょう。 普通の発想(良い成績の馬が良い着順になるはず)と考えるデータチェックでは獲れません。だから、もうあきらめてオゼゼを使わない(^.^)。

 対して軸を馬順1番人気と2番人気に固定すれば、(昨年前期は)4分の3のレースで軸が成功していました。
 ゆえに、馬順1、2番人気を軸に固定してここからの当たり(だけ)を目指す。
 これが「2頭軸」の意味です。
 これ以外の軸は選定せず、馬券も買わない(と決意する)。

 ただ問題は枚数。ABの2頭軸だと相手は3番人気以降となります。
 ◎軸から(たとえば6頭に)流せば、当然購入枚数が2倍になります。

 それを嫌って(私は)これまでどちらかを◎軸にしていたわけです(ときには3番人気以降を◎やウラ●にしたことも)。

 だが、軸を1頭に絞ると、1番人気◎では成功5レースと半減し、2番人気◎でも7レースの成功。昨年前期は2番人気が良かったけれど、1番人気が圧倒することもあります。
 しかも、これは成功したときの結果であって逆を◎にすると、ウラが出て「そっちかよお!」と叫ばねばならない(^.^)。そして、それがとても多い。

 そもそも本紙予想とは◎1頭、〇1頭が基本でしょう。それを常に1番人気、2番人気としてはまるで機械かロボットの自動予想。人間の予想としては「何それ?」と疑問符がつきます。
 ゆえに、これまでは私もその基本に従って本紙予想を作成していました。

 が、これがすこぶる結果が悪い(^_^;)。しばしばウラ目が出て「軸が外れて全滅」がいかに多いことか。
 この人間的予想をやめるなら、馬順1、2番人気の軸率が高いことを利用しない手はない。もう機械的に両馬を◎にする――これが御影流AI予想の軸馬選定です。

「おいおい。それってAIでも何でもないだろ。馬連1番人気の2頭だろ?」とつぶやかれたかも。

 その通りです。だから、実質アナログ的自動予想(^_^;)。
 別に私の予想を見なくとも、誰でも、直ちに、軸を言える。
 馬連1番人気の2頭です。

 しかし、この2頭軸のやり方で昨年前期は12レース中9レースで軸が1、2着になっています。
 御影の◎より、いや各種専門紙・スポーツ紙のお気に入り予想より、きっと軸成功率が高い。再度「これを使わない手はない」と思います。

 そうなると、次に問題となるのは相手。
 これはいろいろ思案のしどころであり、通常は馬の成績、騎手などによって選定されるでしょう。では、御影流AI予想はどう馬券を組むか。

 その前に1番人気-2番人気の馬連を買うかどうか。
 昨年前期12レースでは4、7、9の3レースで馬連A-Bの[1・2着]となっています。

 結論を言うと、この馬連は買わない。理由は配当が安いから。

 忘れないでほしいのは全12レース、同じ方法で買うので、馬連1番人気を12レース分買うってことです。昨年は3レース的中だけど、ときには1レースだけだったり、当たってトリガミ必至。だから、馬連1番人気のA-Bは買わない。

 特に馬連1番人気が5倍を切るようなときは「銀行馬券」として無性に買いたくなります。それも普段2枚くらいのところ10枚にしてトリガミを防ぎたくなります。
 それでもダンコ買わない(^.^)。

 ただ、この2頭を2軸とする3複[1=2→345678]なら、ちょっと買い甲斐(?)があります。
 上記3レースの結果は4[2→1→7→6]、7[2→1→8→4]、9[2→1→3→4]と的中できるし、もう1レース11も[2→4→1→7]で的中だから計4レース成功(ただ3複[123]も低配当だから、これも基本買いません)。

 たとえば、馬連がAB2強の[AB型]の場合、私はよく「3複AB軸にCD蹴って5678流し」を推奨しています。枚数を減らしたければこれがお勧め。
 この場合昨年の的中は4と7の2レースとなります。

 閑話休題。
 それではAB2頭軸に対して相手馬をどう選定するか。
 結論はこれも毎回同じ馬順の馬を選びます。

 この件は見出し[2]「相手馬――奇数偶数馬券」に入るので、詳細は次号として簡単に結論のみ書きます。高松宮記念もこの買い目を掲載しています。

 [馬連・3複AI基本予想]
 ◎1→579(抑え68+α)
 ◎2→468(抑え57+α)
 3複[1=2→56789+α]

 言わば「1番人気の相手は馬順奇数、2番人気の相手は馬順偶数」を基本とする馬券です。各馬の成績・騎手、馬番の内外などは見ない。使うのは馬順人気だけ。
 もちろん各馬の成績をチェックして軽重をつけることは自由です。
 しかし、基本1番人気の相手は奇数人気、2番人気の相手は偶数人気とする。

 おそらく「何じゃそれ?」とつぶやかれたことでしょう。
 これもAI予想とは呼べぬアナログ的自動馬券(^.^)。

 なぜ相手を[→3456789]としないのか。
 理由は単純。[→3456789]だと馬連枚数(2倍だから)計14枚。
 それを奇数・偶数に絞ると、半分の6枚にできます(抑えを除くと)。

 もう一つは馬順[123456789]全9頭の3複ボックスを買うわけにはいかないから(総数一体何枚?)。しかし、奇数偶数で絞れば計6枚。
 最後の3複[1=2→56789]5枚を足して総計基本11枚の馬券となります。

 ただし、あるデータに基づくフタケタ人気などを入れるため、総枚数はもっと増えるけれど、これで馬連・3複の的中を目指すということです。

 問題はこの奇数偶数馬券では(ほんとに絞って買えば)[1→6・8]とか[2→5・7]の場合馬連が不的中となること(^_^;)。
 さすがに中位人気が2着内に入る馬券は(やっぱり)獲りたい。
 そこで、抑えとして偶数の馬も追加します。

 もっとも、これがめんどうなら――なおかつ競馬資金豊富な方は「1または2→3456789」全て買うのも「あり」かもしれません。
 ただ、これだと計14枚。むしろ[34]を切って[56789]にした方が(当たれば)うはうはだから、薄目を追加した方が良いと思います。

 資金貧乏な方はこの奇数偶数馬券がお勧めです。
 いずれにせよ、3複は(上記パターン以外)買わない方がいいと思います。
 もちろん3単も。買うなら宝くじと思って数枚だけ買って楽しむことでしょうか。

 かつて枠連と単複しかなかった時代、私はひと月競馬をやっても――競馬場に行っても、マイナス1万くらいでした。ひと月数万使って数万のとんとん回収も多かった。
 ところが、3複3単時代になってひと月の負けは10万を超え、競馬場に行けば、一度で5万負けました。明らかに3複3単のせいであり、(代行のない)馬連・馬単のせいです。

 枠連なら狙った馬が2着内に来なくても、隣の馬が激走して「あら、枠連当たっちゃったよ」がよくありました。これで枠連数十倍から万馬券が当たることもあるので、ぼろ負けしなかったのです。
 最近の私はGI以外のレースでだいたい2頭軸の奇数偶数馬券を実践しています。 ときどき当たって一息つきます(^_^)。

 なお、[御影の穴予想]はこれまでの本紙予想みたいなものとご理解ください。
 ◎の選定はAI予想に任せたので、基本人気薄の穴馬・穴枠を選んでいます。
 それを結論のみ書きます。根拠を書き始めると、長くなるのでやはり書きません。私はウラ●の単勝を買って馬順ABに流し、枠穴★印から枠順ABCDへの枠連を買うつもりです。

 以上です。

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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

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2025.03.27

『空海マオの青春』論文編 後半 第24号

 今節は室戸岬双子洞窟の百万遍修行追体験について。
 これは太龍山と違って失望のスタートとなりました。
 というのは室戸灯台のせい(おかげ?)で、あたりが満月のような明るさだったから。

 双子洞窟はホテルから徒歩5分ほどのところにあり、昼だけでなく深夜(午前3時頃)も難なく歩いて行けました。灯台の照明があれほど強いとは思いもしませんでした。
 かくしてダイヤモンドの明星は見ることができないまま(-_-)。

 もう一つ、解説看板の記述と違って右の神明窟からは明星が見えませんでした(この時期だけかどうかは不明)。左の御蔵洞(みくろど)窟に入ってやっと明けの明星と対面できました。

 仕方ないので「空海の時代に灯台はない。彼は求聞持法をとなえながら、前夜のような光り輝く明星を見たはず」と想像することで追体験に臨みました。
 頭の中で昨夜の明星を思い浮かべ、1200年の時空を超えた空海の視線を感じ取ろうと思いました。金星の日面通過が起こったのは西暦798年の6月末。7月15日、空海は確かにここにいた。そして、真言をとなえつつあの明星を見た……はずと。
 1200年など数億、数十億という地球史の中ではせいぜい十分前くらいでしょう。空海マオがこの洞窟から光り輝くでっかい明星を見たら、大感激したと思います。

 ところが、追体験のこの日、私は太龍山以上の恐怖に襲われます。
 それはみくろど窟の中でした。
 昼間は(不気味だったけれど)別に恐怖は感じなかった。しかし、深夜の洞窟でペンライトを消すと、どんなに目を見開いても漆黒の闇があるだけ。鳥肌が立って寒気を感じ、それ以上前に進めませんでした。この恐怖はきっと空海マオも感じたに違いないと思いました。
 本節はこの怖さについて深掘りし、どうやって克服したか探求します。


 『空海論』前半のまとめ(四) その3
 1 仏教広布の悩み  2月26日
 1補「一読法の復習と仏説補足」 3月05日
 2 百万遍修行と年月確定  3月12日
 2補「百万遍修行画像特集」 3月19日
 3 太龍山百万遍修行追体験――恐怖と呪文称名 3月26日
 4 室戸岬双子洞窟追体験――魔物との戦い 4月02日――本節
 5 太龍山と双子洞窟で学んだ自力と他力
 6 二度の百万遍修行を経て体得した《全肯定》の萌芽について

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 本号の難読漢字
・御蔵洞(みくろど)窟・求聞持(ぐもんじ)法・虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)・陀羅尼(だらに)・黄泉(よみ)の世界
 以下は読めなければ、出てきたとき検索を
 建立・境内・七堂伽藍・塞ぐ
 [建立は「けんりつ」でなく、境内は「きょうない」ではありませんよ]
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***** 空海マオの青春論文編 後半 *****

 後半第23号 プレ「後半」(四) その4

 「室戸岬双子洞窟追体験――魔物との戦い」


 本論の前に前節の訂正と言うか補足です。
 末尾に「(空海マオは)深夜一人で南の舎心岳に登れば、きっとあの恐怖感を味わっただろうと思います。さらに、呪文をとなえ続ければ、恐怖が薄れ、なくなることも体感したはず」と書きました。

 同時に「集団百万遍修行」のことも触れているので、論文編前半を読めば、私の結論は「太龍山の百万遍修行は集団、室戸岬双子洞窟は一人」であるとわかってもらえると思います。この集団百万遍修行についてもう少し触れておきます。

 太龍山太龍寺の開創はホームページによると「延暦12年、桓武天皇(在位781~806)の勅願により堂塔が建立され、弘法大師が本尊の虚空蔵菩薩像をはじめ諸尊を造像して安置し、開創」とあります。境内には求聞持堂もあって「空海以後」に説得力があります。

 しかし、延暦12年とは西暦で言うと793年(空海20歳)。このころのマオはいまだ無名の修行僧です。空海の華々しいデビュー(?)は入唐帰国後の806年以降。実績を積み重ね、僧界・政界に確たる地位を得たのが高野山開創後だとすると、さらに後40代になってから。

 ホームページの解説は「空海の開創」と読めるけれど、寺院創設は桓武天皇の平安遷都前後であり、空海とは無縁と理解すべきでしょう。
 ちなみに、境内の解説看板には「神武天皇東征のときこの地で通夜して云々」とありました。戦の成功を祈願したと解釈できます。また、本尊は虚空蔵(こくうぞう)菩薩像です。[これ数行後の伏線です]

 ともあれ、空海が太龍山で百万遍修行を実践した22歳(延暦14年)時、いくつかの堂塔はすでにあり、とりわけ求聞持堂が完成していた可能性が高い。
 阿波の国には(現在15番札所となる)国分寺がすでにあります。七堂伽藍を有する大寺院だったようです。桓武朝廷はそこに追加して太龍寺まで――しかも平地ではない山中に建立した。

 そのわけと言うか、南都仏教界からの請願について考えてみると、「太龍山は南の舎心岳と北の舎心岳を持ち、神武東征の折には祈願が行われた聖地です。今は百万遍修行が盛んに行われております。ぜひここに堂塔を」との要請があったのでは、と推察されます。
 本尊が明けの明星を化身とする「虚空蔵菩薩像」であること(私は開創時からの本尊と推理)も、百万遍修行との関連を感じさせます。

 すなわち、南の舎心岳での百万遍修行は集団であり、なおかつ雨天荒天のときは求聞持堂の中で百万遍修行が実践された可能性が高い。

 以前も論証したように、南の舎心岳での百万遍修行は空海22歳の時。明けの明星は1月から7月初めまで6ヶ月出現しています。1、2月はさすがに寒いので、3月1日開始だと6月末まで約4ヶ月。よって120日のうち100日間の百万遍修行となります。
 求聞持堂の中で暖を取りながらやれば、1、2月だってできなくはありません。しかし、さすがに冬、それも深夜の野外に7、8時間もいたら(暖かい四国とは言え)死人が出ます。

 新暦の3月から7月は旧暦だとほぼ4月から8月。文字面としては百万遍修行が充分可能。しかし、梅雨の時期は曇天、降雨が続く。外でやるにはやはりしんどい。しんど過ぎる(^.^)。そこで「ぜひ求聞持堂を」との要望が成り立ちます。

 かくして空海の太龍山百万遍修行は集団であり、なおかつ半分は建物内で行われた可能性が高いと推理しました。もちろん4月5月、初夏の晴天時にはダイヤモンドの明星を見ながら、感激して真言をとなえたでしょう。

 ただ、集団修行では山中の恐怖があったかどうか疑問。よって、空海が恐怖を感じたのは翌年室戸岬双子洞窟のときと考えられる。一人で実践してはじめて底なしの恐怖を感じた。しかし、真言陀羅尼をとなえることで恐怖が薄れ、「これが念仏の力かっ!」と感激したのも室戸岬双子洞窟であったと思われます。

 小説編『空海マオの青春』では「集団百万遍修行への異和感」、「一人山中を歩く怖さ、だが真言をとなえると恐怖が消える感激」を描くため、百万遍修行は最初奈良近郊の生駒山において集団で開始され、マオは途中から一人太龍山南の舎心岳に移動した――との構想を採用しました。これは太龍山の怖さと双子洞窟内の怖さが「違う」ことを描くためでもありました。

 閑話休題。ここから本論です。
 太龍山の怖さと室戸双子洞窟の怖さ。どう違うのか。

 2004年7月15日は金星の日面通過後、明星最大光輝の日であると聞いていました。
 残念ながら太龍山で見たダイヤモンドのような明星を見ることはできなかった。
 ただ外が明るかった分、みくろど窟の暗闇ぶりは際だっていました。洞窟内に明かりはなく、ペンライトを消して十歩も歩けば真性の闇。どんなに目を見開いても何も見えない。

 振り返れば入り口である窓は(月明かりのような明るさのせいで)くっきり見えました。
 なのに洞窟の奥に目をやれば一寸先も見えず、まるで漆黒の壁が立ちふさがっているかのようでした。
 洞窟内はとても静か。昼間聞こえたコウモリの声は消え失せ、不思議なことに入り口で聞こえた潮騒の音も、十歩入ったくらいで聞こえなくなりました。突然静寂と暗黒の別世界に飛び込んだ感じです。

 明星を見ながら真言をとなえるわけだから、当然洞窟の奥に背を向けねばなりません。
 それがまた恐怖の極み(^_^;)。正に「総毛立つ」感覚で、頭髪が後ろに引っ張られ、夏なのに寒気がして鳥肌が立ちました。私は必死の思いで真言をとなえました。

 このときの恐怖は太龍山と違うように感じました。前夜の「石仏が動いたらどうしよう」とか、「何千本もの手を持つ大木が襲ってくる」と妄想する恐怖ではなく、背後に何ものかがひそんでいると感じる恐怖でした。

 太龍山ではそれ――物は目の前に見えていました。ところが、真っ暗な洞窟内では見える物がありません。見えない闇の中にまがまがしい何ものかがひそんでいそうな想像です。
 だから、奥に背を向けることがとてつもなく怖かったのです。

 こうなると、ペンライトを照らすことも怖い。背後を照らしてもしもそこに何かが立っていたら……これはもうホラー映画の世界です。
 私の頭に浮かんだのは映画「エイリアン」(1979年公開)の怪物エイリアン。登場人物が後ろを振り返って絶叫・悲鳴をあげる場面が何度もありました。振り返ってあいつがいたら、そして必ず殺される(正確には仔の宿主としてしばし生かされる)んだから、そりゃあ絶対叫ぶでしょう。
 このときの気持ちが正にそれ。ほんとに逃げて帰りたいと思いました。

 分析してみるなら、私に思い浮かんだのは「ここは魔界・冥界とつながっているのではないか」という想像です。洞窟の奥にいるのは魔物ではないかと思った。
 日中洞窟に入るときは考えもしなかった妄想です。洞窟は昼間不気味は不気味だったけれど、お天道様が内部を充分照らしていましたから。

 しかし、深夜の丑三つ時、洞窟の中は十歩も入れば、もう外の光が届かない真性の暗闇。
 そして、一度「洞窟は黄泉(よみ)の世界とつながっているのではないか」といった想像にとらわれると、奥の闇を見るのはものすごく怖い。背を向けて入り口を見るのはもっと怖い。振り返ったら魔物が立っているような気がするからです。
 今すぐ洞窟から出たい。「こんな時間に来るところじゃない」と思って震えました(-_-;)。

 それは私に子供時代読んだことのあるさし絵付き「古事記物語」を思い起こさせました。
 イザナギ・イザナミの国づくりのラストは愛するイザナミが死ぬお話です。イザナギは黄泉(よみ)の国まで妻を連れ戻しに行って大変な目にあいます(詳細はネットでご確認下さい)。

 私が読んだ物語ではイザナギが洞窟に入り、やがて扉をはさんでイザナミと言葉を交わす……ように描かれていました。洞窟は黄泉の国とつながっている。もしかしたらそれは私たちの共通理解かもしれません。

 その後『古事記』原典を読んで、イザナギは「洞窟に入った」と書かれていないことを知ります。イザナギは出雲の国にある「黄泉比良坂(よもつひらさか)」を下り、扉をはさんでイザナミと対面した――とあります。

 思うに、これって妙な舞台設定です。現実の空間であれ、異次元空間であれ、単なる坂の途中に扉があるのはへん。それだとドラエモンの「なんでもドア」になってしまいます(^.^)。
 洞窟なら「現世と冥界を隔てる扉が洞窟を塞いでいる」との設定はすんなり受け入れられます。

 その後イザナギは腐り果てた体となった妻を見たことから、「約束を破ったな」とイザナミに追いかけられ、黄泉比良坂(よもつひらさか)まで戻ります。そして、千人力を必要とする巨岩「千引(ちびき)の岩」を坂に置いて道を塞ぎます。

 これもまた妙。山腹の断崖絶壁にある道ならいざ知らず、単なる坂の頂上に巨岩が置かれたら、脇を通ればいいではありませんか(^.^)。

 しかし、イザナミは岩の向こうで、これ以上追えない怒りと恨みから「お前の国の人間を毎日千人殺してやる」と言うのです。イザナギが「それなら私は毎日千五百人生もう」と応じるのは有名。
 これはやはり「比良坂」という名ながら、黄泉の国に通じる道は洞窟の中にあると考えた方がすっきりします。洞窟の入り口を巨岩で塞がれたら、さすがにもはや通れないでしょうから。

 推察するに、古事記作者は「黄泉比良坂(よもつひらさか)とは洞窟の入り口であること、イザナギは洞窟を進んで黄泉の世界に至ったこと」――これをわかり切ったこととして、洞窟だと明示しなかったのかもしれません。

 この件でネット事典を検索したら、『日本書紀』の同じ場面に「黄泉比良坂は「熊野の有馬村の花の窟」であると書かれているそうです。「窟」とは洞窟のこと。
 また『出雲風土記』にも「北の海岸沿いに洞窟があり、そこに入れば人は必ず死ぬ。これを黄泉の坂・黄泉の穴と名付ける」とあるとも(未確認)。

 よって、私が未明真っ暗闇の洞窟に入ったとき、「この穴は魔界・冥界とつながっているのではないか」と感じたことはあながち的外れではなかったと思います。

 古代に生きた空海マオもみくろど窟で奥に背を向けたとき、ものすごい恐怖を感じ、「ここは黄泉の国とつながっているのではないか」と感じたのではないか。そして、求聞持法の真言をとなえてその妄想と恐怖を追い払ったと思います。

 私もまたそうしようと懸命に真言をとなえた……はず。
 ところが、旅の記録を再読してみると、前夜と違って「妄想や恐怖を心から追い払えた」と書いていません。

 今振り返ってみると、真言をとなえることで恐怖感が薄くなったことは間違いないと思います。しかし、このとき感じたのは「洞窟の中で真言をとなえ、外に浮かんだ明けの明星を見ることは太龍山のときと何かが違う」という感覚でした。

 何かが違う。だが、旅の時点ではその違いを表現できなかった。だから、何も書かなかった(書けなかった)のだと思います。
 空海マオもまた双子洞窟での百万遍修行に、南の舎心岳の求聞持法とは違う何かを感じたのではないか。それが何か考える必要があると思いました。

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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:文中『古事記』の中でイザナミが「お前の国の人間を毎日千人殺してやる」と言い、対してイザナギが「それなら私は毎日千五百人生もう」と応じる話があります。国の成長を表しているでしょう。
 日本は長らく死者千人、出生千人が続いていました(奈良時代から室町時代までほぼ5~600万人)。江戸末期で3千400万人。明治末5千万人となって1.5倍を達成しています。
 昭和、特に戦後ぐんぐん増えてとうとう1億2千万人まで来ました。しかし、今後イザナギは七百人くらいしか産めず、数十年後日本は人口6千万人くらいになる……と騒がれています。

 こでちょいと違った観点を紹介(^_^)。
 この狭い国にちょうどいい人口って今の半分くらいかもしれません。
 世界で「日本と同じくらいの面積で6千万人ほどが住んでいる国はどこだろう」と探してみたら南欧スペインがありました。面積は日本の1.3倍。人口5千万人弱。
 あの国は陽気な人が多く、昼休みを2~3時間取ることで有名。
 なんとうらやましきスローライフ。

 対して我が日本は海のそばに住めば津波が襲う。河川沿岸に住めば豪雨洪水が家を押し流す。じゃあと高台の山の麓に住めば、土砂崩れや山火事が家を破壊し燃やしてしまう。
 もう平野部の都市に住むしかない?

 だが、都市はぎつぎつの人口過多にうんざりし、犯罪者に襲撃され、困った隣人に悩まされる。ウサギ小屋も高くて手に入らない。かと言って田舎はいずれぽつんと一軒家。
 ああ我ら日本人、どこへ行く……てか(^_^;)?

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2025.03.22

『空海マオの青春』論文編 後半 第23号

 太龍山南の舎心岳と室戸双子洞窟の画像を見て――とりわけ磐座(いわくら)の存在に気づけば、空海マオが百万遍修行をそこで実践したことが「間違いのない事実」としてわかってもらえたのでは、と思います。

 というのは二カ所ともいまだ「伝」として、すなわち「と伝わっている」場所として認知されているようだから。「そこで確定」と言いたいものです(^_^)。
 室戸の双子洞窟は道のすぐそばにあるので、お遍路さん、観光客とも訪れる人は多いようです。しかし、太龍山南の舎心岳の方は私が(昼間)いた一時間ほどの間、誰も来なかった。「大したところじゃないだろ」と軽んじられている気がしてなりません。

 太龍山は南の舎心岳、北の舎心岳という二つの磐座を持つ聖なる山であること。ロープウェーで登れば、このパワースポットを(女人禁制でもなく)簡単に見学できる。特にお遍路さんにはぜひ足を延ばしてほしいと思います。

 次に問題になるのは「では空海は百万遍修行によって何を感得したか」です。
 が、これがチョー難解。空海が書き残した感想は以下二行。

・阿波の国太滝岳によじのぼり、土佐の国室戸岬にて勤念した。
・「谷不借響、明星来影」……谷響きを惜しまず、明星来影す。

 そとれもう一つ。これも「伝」ながら「室戸岬で明星が口に飛び込む神秘を得た」と言われます。
 しかし、こちらも意味不明。「個人の感想、幻想でしょ」と言われればそれまで(^.^)。

 これについて検討する前に、私が太龍山と双子洞窟で深夜実践した、せいぜい数千回の百万遍修行追体験について語っておきます。
 私が感得したのはとにかく底なしの恐怖でした。
 画像特集でその一端に触れましたが、今節と次節においてもう少し詳しく振り返ります。

 なお、今節3と次節4は私の百万遍修行追体験の記述が中心になったため、以下のように見出しを変更します。合わせて太龍山と双子洞窟の百万遍修行によって空海が「自力と他力」を学んだ(と推理した)論考を「5」として追加します。


 『空海論』前半のまとめ(四) その3
 1 仏教広布の悩み      2月26日
 1補「一読法の復習と仏説補足」3月05日
 2 百万遍修行と年月確定   3月12日
 2補「百万遍修行画像特集」  3月19日
 3 太龍山百万遍修行追体験――恐怖と呪文称名 3月26日――本節
 4 室戸岬双子洞窟追体験――魔物との戦い
 5 太龍山と双子洞窟で学んだ自力と他力
 6 二度の百万遍修行を経て体得した《全肯定》の萌芽について

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 本号の難読漢字
・求聞持(ぐもんじ)法百万遍修行・太龍山(たいりゅうざん)・大滝嶽(たいりゅうだけ、太龍山の別名)・勤念(ごんねん)・求聞持(ぐもんじ)堂・磐座(いわくら)・陀羅尼(だらに、呪文)・自然との溶融(ようゆう)感・鎮(しず)める

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***** 空海マオの青春論文編 後半 *****

 後半第23号 プレ「後半」(四) その3

 「太龍山百万遍修行追体験――恐怖と呪文称名」


 私が太龍山南の舎心岳に登ったのはまず7月13日の昼間。
 百万遍修行は深夜から未明にかけて行われるので、追体験しようと思えば、深夜行かねばなりません。さすがに一度登っておく必要があると思っての行動です。

 宿から車で20分ほど。太龍山東の麓にある駐車場に着きます。
 最後の10分ほどはぎりぎり一車線のチョー狭い道でした。対向車が来たらいやだなあと思いつつ走り、一度だけ来たときは離合できる広さがあったので「ラッキー」と思ったものです。

 駐車場から歩いて20分ほどで山門(手前に咲き誇ったアジサイの花々と数体の石仏)に到着。
 道は舗装されていたし、傾斜もそれほどきつくなかったので楽な山登りでした。片側にはたくさんの小石仏や石組み、賽銭箱があり、お賽銭が置かれていました。

 境内の本堂や大師堂、求聞持堂を参拝、散策してロープウェー乗り場を横目に「空海修行の地」である南の舎心岳まで歩きます。
 十数体の(奉納された?)石仏群を右に見つつ歩くこと15分ほどで磐座の頂点である南の舎心岳に着きました。
 最後は左が深い崖だったので一番の難所でしたが、傾斜は軽いし道幅2メートルはあったので危険はなく、「これなら深夜歩いて来られる」と確信しました。

 ところが、簡単そうに思えた深夜の山行が困難というか、とてつもない恐怖を感じました。
 これ以上行きたくない。やめて宿に帰りたいほどの恐怖にとらわれたのです。
 昼間歩いたときは全く感じない恐怖でした。
 では、私はどうやってこの怖さを克服したか。
 試したのは般若心経真言や求聞持法の陀羅尼をとなえることでした。

 以下、箇条書きに昼間との違いを書きつつその経過をたどります。

・深夜太龍山麓の駐車場までの道は街灯もなく当然のように真っ暗。車のライトだけが頼り。左は数メートルの崖だし「こんなところで脱輪したら、叫んでも人は来ないし、しばらく誰も見つけてくれないだろう」と早速不安が湧きます。

・それでも駐車場に着き、ペンライトを灯して寺への山道を登る。歩き始めてすぐ、背筋にぶるぶるっと震えが走ります。向こうの方に白っぽい何かが立っている。総毛立つ感じで頭髪が後ろに引っ張られる。むき出しになった腕に鳥肌が立ちます。

・ライトを下に向け、遠くを見ないようにして歩く。それでもうすぼんやり見える樹木が不気味。やがて道のかたわらにナイロン製の賽銭箱が置かれた石積みが現れる。なぜかまた鳥肌が立ち、背筋がぞくっとして震えに襲われる。

 ここらであまりに怖いので帰りたくなりました。だが、やめるわけにはいかない。
 そこで般若心経の真言「ギャーテー、ギャーテー、ハーラーギャーテー、ハラソーギャーテー、ボージーソワカー」をとなえてみました。口の中でとなえ、声に出してとなえます。
 そのうちなんとなく心が落ち着きました。そこでとなえるのをやめてまた歩き出す。

・ところが、ちょっと進むと、路傍の小石仏が現れ、おぞましさがわく。背後の木の枝が落ちる音にどきっとする。ヒグラシが突然カナカナと鳴き始める。そのたびに背筋が震えてぞくぞくする。
 いるはずもないのに、もしもイノシシとかキツネが出てきたらどうしようかと思う。
 これはもうとなえるしかない。また「ギャーテー、ギャーテー」と激しくとなえる。

 そのうち面白いことに気づきました。ギャーテー、ギャーテーの真言をとなえることに集中していると、恐怖心が薄らぐのです。
 ところが、真言を口ずさんでいても、心が別のことを考えているとダメ。背筋にまた震えが走る。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」なることわざがある。つまり、恐怖や妄想は自分の心がこしらえているということ。正にその通りだと思った。他のことで心の中を満たすと、妙なこと怖いことを思い浮かべなくなるのです。

 だとしたら、となえる言葉はなんでもいいのだろう。私はためしに、なむあみだぶつととなえ、弁証法的唯物論ととなえた。さらに、アーメンキリスト、精霊の御名から、アッラーの神に聖戦――ととなえた(^_^;)。

 そして、それを真剣にとなえている限り、恐怖は薄れた。辺りで物音がしても、先に妙なものが見えても怖さを感じない。全く普通に歩くことができた。不信心ながら「なるほど」と思ったことです。

・やがて寺の直前、アジサイが群生するところまでやって来ます。そこには石仏数体が並んでいる。
 石仏は人間の味方であり、安心できる仏像であるはず。なのに、私の恐怖はまた芽生えた。
 これがふと動き出したら、きっと絶叫して逃げ帰るだろう――そう思うと恐怖にとらわれて動けない。私はここでもギャーテーギャーテーをとなえました。
 もちろん石仏は動かなかった(^.^)。

 それから太龍寺の境内を通って南の舎心岳を目指します。
・右側には数メートル間隔で例の石仏像が並んでいる。やはり動き出したらどうしよう、と妙な妄想が浮かんで立ち止まる。また鳥肌が立ち、髪の毛が後ろへ引っ張られる。これまたすぐに「ギャーテー、ギャーテー」をとなえた。

 この後ふと上空を見上げて架線にロープウェー本体がぶら下がっていることに気づきます。そして、その上に下弦の月が浮かび、明星がきらめいている。明星は次第に白っぽさを増し、明るく大きく輝き始めていました(^o^)。

・十五分後私はようやく大師座像のある断崖絶壁に着きます。辺りは真っ暗。それでも祠や立て看板がぼんやり見える。誰かが近くにひそんでいるような気がして仕方ない。
 カナカナ、カナカナとヒグラシが鳴き出し、その声が不気味に聞こえる。もしも人がやって来たら、私は自殺者だと思われるかもしれない、などと思う……。

 また芽生えた恐怖心を克服するため、ここでは求聞持法の真言をとなえてみることに。幸い真言は解説の石碑に書かれています。
 ライトでそれを照らしながら、「ノウボウ、アキャシャー、ギャラマヤ、オンアリキャー、マリボリソワカー」をとなえた。
 スピードもどんどん上げてみた。空海がとなえた雰囲気を感じ取ろうと思ったからです。五分ほど一心不乱と言った感じでとなえると、心が落ち着きました。

 ここから東の空を見上げると、下弦の月は断崖の先端にある空海座像の右斜め上にある。そして、その右下に明星が浮かんでいる。今は月も明星も白く強く輝いている。明星はいっそう明るく大きく輝いているように見えた。まるでダイヤモンドのように、光の束が四方八方に伸びている。
 私は光の束の先端を半径として円を描いてみた。するとちょうどお月様の円の大きさだった。これで金星最大光輝の前日である。私は驚くと同時に大感激であった(^O^)。

 以上が深夜の太龍山百万遍修行追体験の全てです。
 私が体得したのはとにかく恐怖であり、恐怖感を薄めてくれる般若心経や求聞持法の陀羅尼(真言)でした。

 おそらく読者各位は私の「恐怖」を大げさであり、「石仏が動き出したらと思うなど情けないし、そもそもあるはずがないじゃないか」とつぶやくでしょう。

 もしも私が本文を読む一読者なら、その後太龍山を訪ね、寺への道、南の舎心岳への小道を歩いたとしても、このような恐怖や妄想を感じることはないと思います。

 が、それは昼間の話。時は深夜。辺りは真っ暗。明かりは小さなペンライトだけ。
 もしも可能なら「深夜に一人で歩いてみてください」と言いたい。
 きっと同じ怖さを感じ、「もしも石仏が動き出したら」との妄想にとらわれると思います。

 そして、この怖さを克服してくれたのが真言であり、陀羅尼。つまりは呪文の言葉でした。
 基本唯物論者ですから、「これが仏教の御利益だ。効能だ」と言うつもりはありません。本文途中にも不信心な表現があります。
 結論を言えば、となえる言葉はなんでもいい。それが心の中を満たすことです。

 以下素人ながらこの体験と言うか現象を脳科学的に分析してみました。

 実は深夜の登頂前、もしかしたら『暗夜行路』大山登山の「自然との溶融感」を得られるかもしれないと思いました。

 志賀直哉『暗夜行路』のラストは大山登山の《自然との溶融》が有名。他にも自然との交流・一体感を描いた小説があるかもしれません。
 私も出かける前は深夜の山中で明けの明星を眺めたら、「なんらかの溶融を感じられるかも」と期待しました。

 ところが、とんでもない(^_^;)。溶融感とか自然、山々、夜空、三日月、明けの明星……それらと溶け合った気がする――なんぞ露ほども感じない。私に湧いたのは子供が肝試しを怖がるのと同じ、ただひたすらの恐怖でした。

 そして、この恐怖を鎮めてくれたのは「ギャーテー、ギャーテー、ハーラーギャーテー、ハラソーギャーテー、ボージーソワカー」の呪文です。「ノウボウ、アキャシャー、ギャラマヤ、オンアリキャー、マリボリソワカー」の求聞持法真言も効き目がありました。
 呪文をとなえると、恐怖が薄らぎ、また歩き出すことができたりです。

 先ほど書いたように唯物論者を自認しているくらいだから、「それこそ仏教のすぐれた効能であり、呪文・称名には力があるんだ」などと言うつもりはありません(^_^;)。

 私の脳科学的分析は以下の通りです。

 昼間の発想、感性において怖いものは何もない。かんかん照りの山道を歩いているとき、「石仏が動いたらどうしよう」など考えもしない。境内にはお遍路さんや参拝者がたくさんいました。
 ところが、深夜たった一人で行動すると、不安が次から次に湧いてきます。「車が脱輪したら誰も助けに来てくれないだろう、切り立った崖から落ちたらそのまま死んでしまうかもしれない」などと感じる。一人だから感じる不安であり、怖さでした。

 そして、ずらりと並んだ石仏の前に立つと、「もしもこれが動き出したらどうしよう」と思う――考えてしまうのです。「そんなバカなことがあるはずはない、動くわけがない」と脳内の知性・理性は否定します。
 99パーセントない。いや。99.9パーセントあり得ない。だが、いくら否定しても否定できません。残りの0.1パーセントを否定できない。もしかしたらあるかもしれないと思う。まがまがしい空想・妄想が頭を離れないのです。

 科学的理性はこの妄想を「バカげている」と否定する。幽霊なんぞ存在しない、枯れた立木やススキが人の姿に見えているだけ。石仏が動くわけないだろと。
 だが、それは昼間の理屈だった――と体験後の今なら言えます。

 時は深夜の丑三つ時(^.^)。のろいのわら人形を打ちつける時間帯……。
 向こうの大木の枝は巨人の手のように見える。風に揺れてざわざわ音を立てると、巨人のだみ声に聞こえ、襲われるように感じる。

 あるいは、人を守ってくれるはずの石仏がひょいと動き始めたら、自分は「ぎゃあ!」と叫んで逃げ帰るに違いない……その空想を振り払うことができないのです。
 昼間なら「幽霊なんていないよ」と簡単に言える。しかし、深夜の山中では否定できません。「幽霊はいるかもしれない」と思う――そう感じるのです。

 闇の中でとらわれた妄想は理屈ではなく感情です。夜の闇の中で「そんなことがあるはずがない」という理屈は何の力も持っていない。私は背筋を震わせ、凍り付いてそれ以上歩けなくなり、もう逃げて帰りたいと思いました。

 ところが、呪文をとなえると、その妄想が消えました。消えると言うより、心が呪文で一杯になり、妄想について考えなくなるといった方が正確でしょう。
 心に浮かんだ不安や恐怖、妄想が呪文をとなえることによって追い払われるのです。
 結果、再び歩き始めることができました。

 そのとき私は『般若心経』の一文を理解しました。
 『般若心経』は「この教えを声に出してとなえなさい」と言います。
 となえることでどのような効能があるか。『般若心経』は言います。

 心無圭礙、無圭礙故、無有恐怖
(しんむーけーげー、むーけーげーこー、むーうーくーふー)

 口語訳すると「心にこだわりがなくなる。こだわりがなくなるゆえに、不安や恐怖が消え去る」との意味です。

 そして、最後の呪文が以下。

 羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提 薩婆訶
(ギャーテー、ギャーテー、ハーラーギャーテー、ハラソーギャーテー、ボージーソワカー)

 太龍山での恐怖体験は一人だから感じたのだと思います。二人だったら、あるいは集団だったら、それほど恐怖は感じなかったでしょう。お互い言葉を交わしたり、励まし合うことができるからです。

 以前「空海は集団百万遍修行を嫌ったのではないか」と書きました。この推理は私が深夜一人で太龍山に登ってみて生まれました。昼間現地を訪ねただけでは思いつかなかったでしょう。お日様の下の舎心岳登山に怖さはありませんでしたから。

 空海の場合は本能的にと言うか直感として「集団百万遍修行ではある境地に達することができない。仏教的感得は得られないだろう。一人でやろう」と思ったのではないか。
 そして、深夜一人で南の舎心岳に登れば、きっとあの恐怖感を味わっただろうと思います。さらに、呪文をとなえ続ければ、恐怖が薄れ、なくなることも体感したはず。

 私はそれを脳科学的に分析しました。結論はとなえる呪文はなんでもいい。
 しかし、若き空海マオ――脳科学的分析なぞしなかったであろう空海――は、
「これが仏教の力か! 呪文の効能かっ!」と思って大感激したのではないかと思います(^_^)。

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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

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2025.03.13

『空海論』前半のまとめ(四) 百万遍修行画像特集

 空海百万遍修行の画像は『論文編』前半や『四国明けの明星の旅』にあるので、「そちらをご覧になってください」と書いてきました。「おヒマなら」との条件付きで。
 しかし、分量多く、いちいちたどるのは大変そう、と私自身やってみて感じました(^_^;)。

 たぶん最もヒマなのは私であろう。そう思って急遽画像をまとめて「百万遍修行画像特集」を作成しましたのでご覧ください。

 [ここ「急遽」の漢字を読めなかった人は「ぼーっと読んで」いますよ。
 前節前置きに「急きょ[急遽]」として出ていました。]

 本号はこの連絡のみで終えていいのですが、それじゃああまりに短いので、文字部分のみ掲載します。☆印が画像です。
 最後の[まとめ]は明けの明星の旅より引用、「後記」は今回書きました。
 もちろん画像特集にありますが、こちらの方が読みやすいようでしたらどうぞ。ただ、ものすご長くなってしまいました。


***** 空海マオの青春論文編 後半 *****
 後半第22号 プレ「後半」(四)

  空海百万遍修行画像特集

 ――前置き――

「そうだ。四国行こう(^_^;)」と思い立ったのが2004年6月ころ。

 2000年に二十数年勤めた高校教員を早期退職後、小説や評論・エッセーを書きつつ空海に興味を持ち始めました。やがて前半生は多くの謎があり、特に百万遍修行については時期やなぜ四国だったのか、実態が全く解明されていないと知ります。

 そして2004年。この年は空海入唐1200年。122年ぶりに金星の日面通過が起こり、7月は「明けの明星が最も光り輝く」年でした。
 まるで何かの啓示のように感じ、「これはもう行ってみるしかない」と思って百万遍修行の謎を究明すべく出かけました。
 7月13日から16日まで3泊4日、四国遍路旅のおもむきでした。

 なお、御影祐のHPでは「四国明星の旅」と題して旅の様子をもっと詳しく語り、画像も豊富に掲載しています。
 おヒマならそちらもご覧ください。

===== 目次 =====
[1] ミスから始まった車遍路旅
[2] 太龍山太龍寺
[3] 深夜の南の舎心岳、ダイヤモンドの明星
[4] 室戸岬双子洞窟
[5] 深夜の双子洞窟、漆黒の恐怖
[6] まとめ

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 本号の難読漢字
・太龍(たいりゅう)寺・磐座(いわくら)・金峯山(きんぷせん)・東の覗(のぞ)き、西の覗(のぞ)き・仰角(ぎょうかく)・求聞持(ぐもんじ)法・鯖大師(さばだいし)本坊・鹿岡鼻(ししおかはな)・夫婦(めおと)岩・最御崎(ほつみさき)寺・津照(しんしょう)寺・金剛頂(こんごうちょう)寺・神明窟(じんみょうくつ)・御蔵洞窟(みくろどくつ)・鵜の瀬(うのせ)・遠敷川(おにゅうがわ)・松明(たいまつ)・護摩(ごま)・霊験(れいげん)・役行者(えんのぎょうじゃ)小角(おづぬ)・泰澄(たいちょう)・籠山(ろうざん)・蔵王権現(ざおうごんげん)
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***** 空海マオの青春論文編 *****

 「百万遍修行」画像特集


[1] ミスから始まった車遍路旅

 四国(車)遍路の旅は失敗から始まりました。
 7月13日午前、徳島阿波おどり空港に降り立つとすぐにレンタカーで出発。空海一度目の百万遍修行の地と伝わる21番札所太龍寺(太龍山)を目指しました。
 大まかな地理は頭に叩き込んでおいたけれど、細部はナビを頼る予定でした。

 私の腹積もりは海岸線の国道55号を南下して最後に内陸に入ること。ところが、ナビはすぐに内陸へ入る道を指示し、従ったら道がどんどん狭くなって急傾斜のくねくね道を登ります。
 どうやら20番札所鶴林寺へ連れて行こうとしていることがわかりました(歩き遍路のルートだったようです)。

 ただ、ナビのミスリードというわけではなく、山を登ったあるところで「右鶴林寺、左太龍寺」の分かれ道に来ます。太龍寺は21番札所。
 で、「まっいいか(^_^;)」と鶴林寺参拝。太龍寺を目指して山中の道を下りました。

 その途中道のそばの林の中にコンクリ製の鳥居を発見。鳥居わきにでっかい石柱があって、そこに「神光本宮山之宮(磐座)」と書かれています。「磐座」にはわざわざ「いわくら」とふりがなが振ってありました。

☆ 「神光本宮山之宮の石柱」

 珍しいな、見に行こうかと思ったけれど、道はなくどのくらい時間がかかるかわからずあきらめました。
 この時点では「磐座」の文字を見ても「ふーん」てなもんです。
 翌日室戸岬双子洞窟で(三度目となる)磐座を見出したとき、「答えがすでに出ていた!」と叫びました。
 失敗は失敗とは限らない。私にとって必要なミスだったようです(^_^)。


[2] 太龍山太龍寺

 その後太龍山から少し離れた民宿に到着。部屋に荷を下ろしてすぐ太龍山に向かうことに。
 外にいた宿の主人に「太龍山はどの山ですか」と尋ねたら、南の小山を指さして「南の舎心岳はあれです」と教えてくれました。
 周囲には似たような小山がたくさんあったので、ますます「なぜあの山なのか」不思議に思いました。

 太龍山には西側にロープウェーがあり、東側には歩き遍路用の山道があります。車はその東山麓の駐車場に停め、歩いて太龍寺を目指すと30分ほどで山門に着きました。

☆ 太龍(たいりゅう)寺本堂

 境内にはロープウェーの乗り場もあり、観光客や遍路姿の人もかなり見かけました。参拝を終え、空海百万遍修行の地と伝わる「南の舎心岳」を目指します。指差し案内には680メートルとありました。

☆ 舎心が嶽までの案内標識

  山道はそれほどきつい上りではなく、奉納された数十体の石仏群を右に歩くこと十数分、突然南の舎心岳に出ました。
 まだまだ先だろう、上だろうと思っていただけに拍子抜けする近さです。看板があって崖の突端には巨岩上に空海座像。背後にはいくつも小さな祠がありました。

☆ 「南の舎心岳磐座の空海座像と遠景」

 そこは磐座の頂点で、東に開けており、空と四国連山が眺められる絶景の場所でした。
 上空にはロープウェーの架線、太龍山の頂上はもっと上でした。つまり、南の舎心岳とは太龍山の東南側山腹にあったのです。

☆ 「大師像のある岩場」

 最後の道は断崖でしたが、道幅は充分あって「これなら深夜でも歩いて来られる」と確信して帰路に就きました。空海の百万遍修行を追体験するには深夜行かなければなりません。

 途中「北の舎心岳」という案内看板があり、躊躇したけれど行きました。
 歩いて10分後北の舎心岳に到着。磐座(いわくら)の全体像はわからなかったものの、たぶん一枚岩の断崖絶壁なんだろうと見当をつけて下山。宿に戻りました。

☆ 「北の舎心岳の祠」

 後日太龍山には「南の舎心岳」と「北の舎心岳」という二つの磐座(いわくら)があると知り、聖地だったことを確認。「足を延ばして良かった」と思ったものです。
 もっとも、この時点ではひらめきも何もなく、ただ漫然と眺めていただけ。室戸岬に行って初めて「磐座が答えかっ!」とつぶやいたのです(^_^;)。


[3] 深夜の南の舎心岳、ダイヤモンドの明星

 そして、深夜(14日)午前1時過ぎ私は宿を抜け出し(^.^)、昼間と同じように太龍山麓の駐車場に車を停め、暗闇の中ペンライトを照らして寺への山道を上りました。
 昼間通った道とは言え、深夜山の中を一人歩くのは生まれて初めて。
 これがいかに怖かったか。何度も背筋に悪寒が走り、やめたくなりました。
 では、どうやってこの怖さを克服したか。詳細は「四国明星の旅 4」をご覧ください。

 それでもなんとか仁王門に到着。午前三時頃。門は開いており、境内はところどころに灯火がありました。昼間の道をたどって本堂下のロープウェー乗り場まで来ると、その辺りはライトがなければ、歩けないほどの暗闇でした。

 そのときふと左の空を見上げると、仰角十度ほどの中空に赤い下弦の月が見える。そして、月の右斜め下にきらきら輝く星が一つ。妙な表現ながら、その星は静かに浮かんでいました。
「えっ、あれが明星?」と思いました。明星にしては輝きが赤色っぽい。しかし、見渡しているのは東の方角なので、明星に間違いあるまい。やっと明星を発見したと思って嬉しくなり、恐怖心は全くなくなっていました(^o^)。

☆ ロープウェー乗り場から見た月と明星(7月14日午前3時20分)[ブレました(^_^;)]

  上空には満天の星。五つの星粒Wのカシオペア座がくっきり見える。私はそこで月と明星を撮影しました(が、カメラを固定しなかったのでみんなブレブレ(T_T)。

 そして、空海座像のある南の舎心岳に移動。昼間は何でもなかった石仏群が不気味で、今にも動き出すのでは、との妄想が頭から離れません。もしもほんとに動いたら「ぎゃっ!」と叫んで逃げ帰るだろうと思いました。再度呪文をとなえて恐怖心を追い払い、午前4時前やっと空海座像の場所に到着。

 そこから東の空を見上げると、下弦の月は断崖の先端にある空海座像の右斜め上にある。そして、その右下に明星が浮かんでいる。今は月も明星も白く強く輝き、明星はいっそう明るく大きく見えます。まるでダイヤモンドのように、光の束が四方八方に伸びていました。

 光の束の先端を半径として円を描いてみると、ちょうどお月様の円の大きさになります。これで金星最大光輝の前日。私は驚くと同時に大感激でした(^O^)。

☆ 「南の舎心岳の月と明星(午前4時25分)」

 しばらくここで求聞持法の真言をとなえ、空海の心情を追体験したかったけれど、せいぜい数百回の称名では特に感ずるものなく(^_^;)……東の空を上る日の出を見つつ下山しました。

☆ 「南の舎心岳の日の出」


[4] 室戸岬双子洞窟

 翌14日、朝食後民宿を出発。室戸岬へ向かいます。
 この日もナビは歩き遍路のルートをたどりました。結果かんかん照りの中何人もの歩き遍路の方々を見かけ、思わず(車内から)「がんばって~」と応援したものです(^_^;)。

 その後は22番札所平等寺→23番薬王寺→海岸沿いの南阿波サンラインを走り、鯖大師本坊(番外札所)に寄ってその後は一路室戸岬を目指します。
 海岸沿いは切り立った崖が多く、サンラインは中腹をへばりつくように通っています。道がなければ海岸を歩くのはほぼ不可能。空海の時代(どころか江戸時代頃まで)人々は日和佐から室戸まで船で行ったのではと思いました。

☆ 阿南海岸(展望台より)

 その後は室戸まで約五十キロ。海岸沿いの道をひたすら南下。途中おやと思う美しい景色もありました。特に「鹿岡鼻」の夫婦岩辺りはいい雰囲気で、私は帰りに立ち寄ろうと思いました。

☆ 阿南海岸夫婦岩

 そして、双子洞窟近くのホテルに到着。過ぎるとすぐ右側に双子洞窟がありました。
 一見してぴんと来ました。断崖を背後に二つの洞窟がぽっかり口を空けている。周辺のむき出しになった岩場は高さ十数メートル、険しいがどっしりと力感ある岩場です。
 見た瞬間「磐座(いわくら)じゃないか!」と叫んだのです。

☆ 双子洞窟左手の磐座(いわくら)

 舎心岳の岩場同様、双子洞窟周辺も思った以上に迫力ある美しい場所でした。
 はっきり確信しました。双子洞窟もまた磐座を持つ聖地に違いないと。
 そのとき私はあっと叫びました。前日鶴林寺を出て山を下ってくるとき、大きな鳥居があり、そこに「神光本宮磐座」とあったのを思い出したのです。

 思わず笑みがこぼれました。答えが暗示されていたからです。
 空海が修行した南の舎心岳は磐座であり、ここ室戸の双子洞窟も明らかに磐座。
 空海はなぜ数ある山の中、太龍山で求聞持法の修行をしたのか、なぜわざわざ室戸岬までやって来たのか。

 答えはそこが東の空を見渡せる磐座であり、聖地であったからに違いない――そう思いました。

 その後24番札所最御崎(ほつみさき)寺に行き、室戸灯台も見学。さらに南の25番津照寺、そして26番金剛頂寺――の室戸三山を参拝してホテルに戻りました。
 しばらく休憩するとホテルから歩いて空海修行の双子洞窟に向かいます。
 むき出しの断崖、その最下部にぽっかり空いた二つの洞窟。洞窟の間は十メートルほどでしょうか。右の洞窟が「神明窟(じんみょうくつ)」、左が「御蔵洞窟(みくろどくつ)」。いずれも穴の前に鳥居が建てられていました。

☆ 双子洞窟外観
☆ 双子洞窟中間より太平洋を見る
☆ みくろど窟内部

御蔵洞窟(みくろどくつ)に入ると、仏像前まで進んで入り口を振り返りました。
 入り口は思った以上に小さな《窓》。それでも下部の陸地、真ん中に太平洋の水平線、そして上部の空――それらが三段となってしっかり見えます。

 確かに空と海が見える。ただ、ここから眺める空と太平洋は雄大な景色ではない。妙に息苦しい。弘法大師空海の名に感じられる太平洋の雄大さは洞穴の中からは感じられないと思いました。

☆ みくろど窟内より眺める窓の外(^_^;)

 それからみくろど窟を出て東側の神明洞窟へ行きました。
 夕方の太陽が山の上に見えるので、洞窟は東方に開いているようです。「弘法大師修行の地」とある解説の石碑によると、向かって左(西側)を御蔵洞窟(みくろどくつ)と言い、そちらは住居として、右(東側)の神明窟(じんみょうくつ)が修行の場だと書かれています。

☆ 双子洞窟東側「神明(じんみょう)窟」

 神明窟も洞窟の中へ入ってみました。内部は五、六メートル幅で高さも同じ程度。
 こちらの奥行きはそれほど深くない。水滴は滴っているものの少なく、司馬氏が『空海の風景』に書いていた通り、乾いている感じでした。

☆ 東側「神明窟内より眺める空と海」

奥から入り口を振り返ると、こちらの《窓》の方が大きい。景色も三段に分けられ、陸地、海、青空と見える。かなり広々と見渡すことができました。
 ここから明日未明、明けの明星を見るかと思うとわくわくする気持ちでした。

 その後海岸沿いの遊歩道を散策して奇岩や「大師行水の池」と伝わる清水の湧く池を見学してホテルに戻りました。

☆ 大師行水の池


[5] 深夜の双子洞窟、漆黒の恐怖

 15日未明、ホテルを出発。道は前夜の山道と違って満月のような明るさ。灯台の明かりが周辺を照らしていたからです。ペンライトは必要なく楽々と双子洞窟まで歩いて行きました。
 前の広場も思った以上に明るく、私はそこからしばらく月と明星を眺めました。いずれも雲に隠れたり顔を出したりして四時頃ようやく二つの輝きが安定しました。

☆ 室戸岬上空の月と明星(午前4時2分)

最初に神明窟に入って外を見ると、明星が見えません。案内にはこちらで百万遍修行がなされたとあったけれど、明星が見えない。それは常にそうなのか。この時期だけか。
 いずれにせよ明星が見えなくては神明窟にいても仕方ない。私は西側の御蔵洞(みくろど)窟へ向かいました。

 入り口の鳥居をくぐり中へ入ります。こちらからは明星が見えました。
 さすがに奥が深いせいか歩いて行くに従って真っ暗闇に。昼間あったコウモリらしきものの鳴き声が全く聞こえず、しんとして静か。
 鳥肌が立ってぞくぞくと身体が震えました。ライトなくして歩けない。しかも、明かりに照らされた大小の石仏が前夜同様不気味で仕方ない。
 途中で入り口方向を振り返ったときには総毛だちました。背後から何ものかに襲われそうな恐怖が走ったからです。

 私は求聞持法の真言「ノウボウ、アキャシャー、ギャラバヤ、オンアリキャー、マリボリソワカ」を一生懸命となえました(^_^;)。

☆ みくろど窟内より見た月と明星(午前4時8分)(大きくブレました(T_T)

☆ 夜明け前の月と明星(午前4時29分)(これはくっきり(^o^)

 その後日の出を見ようと遊歩道に向かいました。遠く水平線の辺りは雲がかかっているのか朝日が見えません。
 そのときご婦人二人連れと男性が一人遊歩道を歩いてくるので、婦人の一人に日の出の方角を聞きました。
 すると彼女は一カ所だけ雲が赤く明るいところを指さして「紫だちたる雲の細くたなびいたところでしょうか」としゃれたことを言いました。
 結局、日の出は見えなかったけれど、その後浮かび上がる太陽を見ることができました。
 そのころは月も明星も消えていました。

☆ みくろど窟より見る日の出(午前5時25分)


[6] まとめ

 室戸岬の海岸にはエボシ岩とかビシャゴ岩の奇岩、大師行水の池など奇勝があった。しかし、あの付近で「聖地」としてふさわしい場所を一つだけあげるとすれば、双子洞窟以外にないと思った。
 空海が生きた時代、もし朝廷――天皇家から「美しい名勝地を差し出せ」と命じられたなら、私は迷うことなく双子洞窟を選ぶだろう。

 京都、奈良周辺や紀伊半島には歌枕に読まれ、天皇の離宮に指定されたところがある。そこへ行ってみると、今でもはっと驚くほど美しい場所である。
 たとえば、東大寺お水取りの聖地として有名な若狭の「鵜の瀬(うのせ)」など、ごくごく普通の遠敷川(おにゅうがわ)数キロの中で、その場所だけとても美しい岩肌が見られ、きれいな流れの瀬になっている。毎年3月2日には、そこで盛大に松明や護摩がたかれ、お水送りの神事が行われている。

 琵琶湖西岸の滋賀の辛崎(からさき)しかり、吉野の宮滝離宮近くの宮滝川しかり。それらは全て美しい場所であり、厳かな神さびた聖地の雰囲気を持っている。

 天皇家にとって古代より続く神事は皇居内だけと限らないだろう。特にかつては行幸先の聖地で祈りが捧げられたのではないか。
 その祈りの場所としてふさわしい聖地を各国に差し出させる。天皇は各地を巡幸し、宮廷歌人はその景勝地を歌に詠んだ。

 聖武天皇の時代全国に造営された国分寺。奈良には総国分寺としての東大寺があった。空海が生きた少年時代、国分寺とは壮大な文明建造物だったはずだ。各地の国分寺から集められた情報は総国分寺としての東大寺へ集まるだろう。国分寺とは仏教による祈りの聖地でもあった(当時神仏は混然一体である)。

 人がもし自然の中で宗教的な修行を行うなら、霊験あらたかな所――聖地を選び、そこで修行するだろう。
 空海に先立つこと数十年から百年前には、二人の偉大な山岳修行者がいた。
 一人は吉野大峰(おおみね)の「役行者(えんのぎょうじゃ)小角(おづぬ)」であり、もう一人は越後白山の「泰澄(たいちょう)」である。

 役行者小角は、金峯山(きんぷせん)山上で一千日の籠山(山ごもり)修行をして蔵王権現を感得した。
 かたや泰澄聖人は白山山頂で祈りの末に、十一面観世音の姿を見たと伝えられている。

 ほぼ同時代を生きた空海の耳に二人の逸話は届いていたはずだ。山林修行に乗りだした空海が、聖地こそ祈りを成就させると考えたとしても、なんら不思議はない。

☆ 舎心が嶽磐座(いわくら)
☆ 双子洞窟磐座(いわくら)

 求聞持法百万遍の修行は、部屋の中で行われる場合、南に丸い穴を開け、明けの明星を見ながら行われるという。
 しかし、空海は部屋の中での真言百万遍修行に、何も感得するものがなかった。

 彼はその修行を自然の中で行いたいと考えた。だが、修行はどこでもいいわけではない。人がたやすく行けないような所、そして神さびた場所、聖地である必要がある。現代の修験者達の山行登拝を見ても、修行は聖地で行われる。あるいは、修行の場所は聖地と見なされている。

 空海の場合はなおかつその地が東か南に開けている必要がある。
 さらに真言百万遍を実践するには、その地に数ヶ月とどまらねばならないから、人家がある程度近くにあった方がいい。条件はかなり厳しい(^.^)。

 これらのことを考え合わせれば、空海はただやみくもに山林に分け入って聖地を探し求めたとは思えない。彼は東か南に開けた聖地を探したはずだ。そして、そのような聖地がないかと尋ねたとき、南の舎心岳、さらには東に開けた室戸の双子洞窟の話を聞いた。ともに磐座(いわくら)を持つ聖地でもある。人里に適度に近く、適度に離れている。

 南の舎心岳の方は神武東征伝説もあり、聖地として広く知られていただろう。一方、室戸の双子洞窟は未だ聖地として知られていなかったかもしれない。しかし、二つの洞窟が南に開け、そこに磐座(いわくら)があるとわかれば、それは修行の場として最適な聖地である。

 若き空海マオが「そこには洞窟が二つあるだけなのか」と問えば、相手は「いえ、その上部に巨大なむき出しの岩があります」と答える。
 空海はきっと目を輝かせて「いわくらがあるのか!」と叫んだに違いない。

 空海はそれらの情報を修験道の先達、もしくは東大寺に集まる国分寺の僧達から得たのではないだろうか。
 修験道の聖地として最も有名な金峯山(きんぷせん)は「東の覗き・西の覗き」という二つの磐座がメインである。太龍山には「南の舎心岳・北の舎心岳」、そして室戸岬は双子洞窟。

 つまり、南の舎心岳と室戸岬双子洞窟は、求聞持法の修行を行える聖地として、空海がピンポイントで選んだと思える。
 空海はたまたま室戸岬へ来たのではない。聖地双子洞窟のことを聞き、真言百万遍修行を目的としてこの地を訪れたに違いない。


=============
 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:2004年の旅では室戸岬双子洞窟の中まで入ることができました。
 その後落石があって洞窟への立ち入りが禁止。それを知った時「04年に行っておいて良かった」と思ったものです。
 2019年から再び入れるようになりました。ただ、朝から夕方までで深夜の侵入(?)は禁止されているようです。

 私が室戸の双子洞窟を訪ねたのは後にも先にもこのときだけで、深夜1時間ほど中にいて求聞持法をとなえました。2日間ほぼ徹夜状態だったので、帰りの運転は眠くて眠くて大変でした。今ではとてもできない苦行(^_^;)。まだまだ若く元気でした。

 四国明星の旅は翌年に回すことも可能でした。しかし、翌年3月実家の父が癌を発症して入院。一時瀕死状態に陥ったため、退院後は実家で父と暮らしました。
 その後入退院を繰り返すこと4度。2006年1月父が亡くなり、3月東京に戻ったけれど、喪失感から鬱状態となって何も手がつかない。どこかへ行く気も起きない。つまり、2004年をのがすと、四国に行かないままだったかもしれません。
 この体験がなければ、小説『空海マオの青春』は(書いたとしても)既説を取り入れただけの作品になったでしょう。

 チャンスと感じたら「いつやるか。今でしょ(古い?)」と即行動する。
 ここでも「そのうちやろう」はないんだ――と実感した遍路旅でした。
 意味不明の方(読んだけど忘れた方)は以下の狂短歌エッセーを。

〇 そのうちに何々しよう そのうちに はたと気づくと もはやできない


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2025.03.06

『空海マオの青春』論文編 後半 第21号

「『空海論』前半のまとめ(四)の2」

 前節と前半第37節を読み終えて仏教に対する理解がちょっとでも深まったなら幸いです。
 ただ(くどいようで恐縮ながら)、読みつつ新たなつぶやきや疑問が浮かんだかもしれません。
 たとえば、「救われるって一体どういうこと?」とか「今苦しいと言っても、感じる人と感じない人がいるような…」とか、「そもそも信じるってよくわからない」など。

 特に最後は私が20歳前後のころ抱いた疑問です。周囲には宗教や思想(主義)を信じて活発に活動している人がいる。彼らはだいたい活き活きしていた。熱弁をふるった。
 対して私――信じるものなき私(^_^;)は「彼らはどうして信じられるのだろう」と不思議で仕方なかった。

 この課題については追々語っていくことにして今は「閑話休題」、空海マオの求聞持法百万遍修行に戻ります。

 二度の百万遍修行についても第39節から48節まで10節に渡って論じました。
 おヒマならそちらをひとつずつたどってもらえれば(画像付き!)、これから3節は不要なのですが…… まー私自身確認する意味もあるので、なんとか短めにまとめます。

 特に「なぜ太龍山であり、室戸岬だったのか」空海の作品(触れているのは『三教指帰』のみ)や既研究を読んでもちっともわからない。
 博覧強記の大家であり、『空海の風景』の著者司馬遼太郎氏をもってしても解明できない。
 私は「現地に行って」やっとわかりました。大学の先生方のおかげです。

 この詳細は第40節にあります。高校生や文系大学生にはぜひ読んでほしいところ。
 簡単に説明しておくと、卒論(『暗夜行路』成立過程論)提出後行われる口頭試問が元になっています。
 ある教授から「君は大山に登ったか」と問われ、「いえ登っていません」と(私の論文は紀行文ではありませんとの気持ちで)答えた。『暗夜行路』のラストは大山における自然との溶融として有名。

 当時は「そんなの大したことないだろ」と思ったけれど、「なぜ太龍山か、なぜ室戸岬か」の疑問を解くにあたってこれを思い出し、現地に行きました。そして、その後書き上げた上記論考は「紀行文になった(^_^;)」ことを示しています。

[ここで一読法の復習。どーでも良さそうなこの話題、本論の伏線になっています。ある個所で「だから、前置きで卒論の件が書かれたのか」とつぶやける……かどうか?]

 『空海論』前半のまとめ(四) その2
 1 仏教広布の悩み 2月26日
 1補「一読法の復習と仏説補足」 3月05日
 2 百万遍修行と年月確定 3月12日――本節
 3 新しい仏教を求めて一度目の求聞持法百万遍修行
 4 室戸岬にて二度目の百万遍修行、改題『三教指帰』公開
 5 二度の百万遍修行を経て体得した《全肯定》の萌芽について

------------------
 本号の難読漢字
・求聞持(ぐもんじ)法百万遍修行・『聾瞽指帰』(ろうこしいき)・『三教指帰』(さんごうしいき)・陀羅尼(だらに、呪文)・太龍山(たいりゅうざん)・金峰山(きんぷせん)・石鎚山(いしづちやま)・沙門(しゃもん)・遇(あ)っている・土霊(どれい)・大滝嶽(たいりゅうだけ、太龍山の別名)・磐座(いわくら)・舎心(しゃしん)岳・結願(けちがん)
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***** 空海マオの青春論文編 後半 *****

 後半第21号 プレ「後半」(四) その2

 「空海百万遍修行と年月確定」

 空海マオが実践した求聞持法百万遍修行。それはマオにとって新しい仏教を求め、行き詰まった自身を打開する試みでもありました。

 以前も書いたように、求聞持法百万遍修行とは深夜から未明の戸外、晴れ渡った夜空に浮かぶダイヤモンドのような明けの明星を見ながら、ただ一つの陀羅尼(呪文)を一日一万回となえる修行。呪文は以下の通り。

 ノウボウ、アキャシャーギャラバヤ、オンアリキャーマリボリソワカー…
 ノウボウ、アキャシャーギャラバヤ、オンアリキャーマリボリソワカー…
 ノウボウ、アキャシャーギャラギヤ、オンアリキャーマリボリソワカー…

 最も難行の比叡山千日回峰行や山岳修行と比べれば簡単そうです。が、いざやるとなると、単純すぎてしんどいと思います。
 3秒で1回なら1分20回、1時間1200回。早口でやってもトータル8~9時間。1日一万回の称名だからとにかく100日かかることは明らか。

 座禅を組み、回数は数珠で勘定するそうです。ただ、監督官がいるわけではあるまいし、ずるをするかしないかは本人次第。卑近な例で恐縮ながら、審判は自分というゴルフと一緒。
 私なんぞ崖下のOB付近に飛んだボールがラインをちょっと越えて見つかると、「セーフだった」と言ってすぐ打ったし、何打も叩くと1つくらい減らしてカウントしたものです(^.^)。

 さすがに冬はやらないと仮定すると、実践は春、夏、秋であろう。しかも明けの明星が出ているときに限られる。となると春から秋であっても宵の明星の時期はできない。
 さらに、この日本で(熱帯地方でもあるまいし)100日間全て曇りも降雨もない、なんてことは今も昔もあり得ない。

 ということは明けの明星が出ていなくてもやるであろうし、雨風が激しいときはやめたり、建物の中で行われたかもしれない……そのようなことが想像されます。
 現に空海マオ一度目の百万遍修行が行われた太龍山太龍寺には「求聞持堂」というお堂があります。おそらくときにはその中で実践されたのでしょう。

 ここで百万遍修行における問題点をまとめておくと以下の三点です。

 1 求聞持法百万遍修行とはマオにとってどのようなものであったのか。なぜ四国太龍山か、なぜ室戸岬だったのか。そもそもこの修行を実践したのは何歳の時か。

 2 なぜ求聞持法を二度行ったのか。この修行を通じて何を得たのか。

 3 その結果『聾瞽指帰』を改稿して『三教指帰』として完成させた。だが、二著の内容は序と最後の漢詩を除いてほとんど差がない。そこにはどのような心境の変化(もしくは無変化?)があったのか。

 まず百万遍修行の年代を確定させます。ヒントはもちろん明星。

 既研究時代は「鳴くよウグイス平安遷都」のころ明けの明星、宵の明星が一年のいつころだったか調べようがなかったと思います。
 しかし、今やそれをコンピューター計算してネットに公開してくれた人がいます。
 その結果に基づいて百万遍修行が可能かどうか年表として列挙したものが以下(「可」とは百万遍修行の可否)。

 【空海マオと明けの明星】
 年齢 明けの明星の 期間=可[宵の明星の期間]
 19歳 1月1日~4月3日=×[4月~12月末]
 20歳 3月14日~11月30日=○[1月~2月末と12月]
               (平安遷都794年)
 21歳 10月21日~12月31日=×[1月~9月末]
 22歳 1月1日~7月7日=△[8月28日~12月末]
 23歳 5月31日~12月31日=○[1月~5月18日]
               (金星の日面通過)
 11月末 改題『三教指帰』完成

 マオは17歳のとき大学寮入学。1年後か2年後退学→仏教入門と勉学→儒教・仏教対比の「聾瞽指帰」草稿執筆→金峰山・石鎚山登拝修行→道教を取り入れ『聾瞽指帰』完成→太龍山百万遍修行→室戸岬百万遍修行……と流れます。
 よって、マオが百万遍修行を行うにふさわしい年代はどんなに早くても19歳以降となります。

 最初に百万遍修行が可能なのは20歳の時です。しかし、仏教入門後の濃密な流れを考えると、とても20歳の年に太龍山百万遍修行が行われたとは考えられません。

 ただ、794年は春から秋にかけて8ヶ月も明けの明星であり、百万遍修行者にとって最適の年です。当時「百万遍修行はブームだった」との指摘もあります。
 私はマオの金峰山・石鎚山登拝修行はこの年であり、そのとき山中で百万遍修行に励む「一沙門」に遭遇したのではないかと推理しました。

 もしかしたら、翌21歳時すぐにでも百万遍修行を開始したかったかもしれません。
 だが、この年は1月から9月末まで宵の明星だから、百万遍修行には適さない。
 そこでこの年『聾瞽指帰』を完成させたと見ることもできます。

 かくして太龍山百万遍修行は22歳の春3月頃から6月末まで。
 室戸岬百万遍修行は翌23歳の6月から11月ころであろうと結論を出しました。
 その後寺に戻って『聾瞽指帰』を改稿、12月1日『三教指帰』として完成させたという流れです。

 「改稿をたったひと月でやったのか」との疑問が湧くと思います。が、この改稿は「序」と結論にあたる「漢詩」だけ。本論部分は漢字の微修正に留めているので充分可能です(そこが新たな不可思議になるわけですが)。

 ともあれ、この推理が正しいとすると、22歳の太龍山百万遍修行はかなり窮屈であることがわかります。春まだ浅い(寒い)3月1日から始めたとしても、結願(けちがん)は6月末。四ヶ月120日しかありません。翌年なら6月1日から11月末として6ヶ月、たっぷり180日ある。

 これもまた百万遍修行を二度やった理由になり得ます。一度目は「感ずるものはあったけれど不充分だった。もう一度やってみたい」と思った可能性です。

 では、百万遍修行は「なぜ四国太龍山だったのか、なぜ室戸岬だったのか」――私はこの謎を解いたと自負しています。

 その前に司馬遼太郎氏『空海の風景』について少々語ります。
 名著だと思います。しかし以前も触れたように、空海前期に関してはかなり研究・考察不足が感じられます。現地を訪ねているのに、あと一歩がない。

 他の諸論文を読んでも、なぜ百万遍修行の場として太龍山と室戸岬が選ばれたのか、その理由がさっぱりわかりません。私は「これはもう行くしかない」と思い、東京からはるばる四国まで文字どおり飛んでいき、レンタカーを借りて徳島・高知を周遊しました。

 訪ねたのは2004年7月。日本で122年ぶりに明星の日面通過が生起した年です(この年は空海入唐1200年にも当たります)。
 車内はエアコンで涼しかったけれど、外はかんかん照り。なのに、道をてくてく歩くお遍路さんをしばしば見かけ、「自分にゃとてもできないなあ」と感嘆しました。札所のいくつかを訪ねたし、ちょっとした遍路気分でもありました。

 結果、太龍山南の舎心岳と室戸岬双子洞窟を訪ねて、行かなければ決してわからないことがわかりました。現地に行ってみる――を実践してやはり先達の言葉は謙虚に耳を傾ける必要があるなあと実感する体験でした(^_^)。

 まず太龍山について。
 空海マオが百万遍修行を実践した太龍山は海抜602メートル、とても低い。麓から眺めると、似たような小山が周辺にいくつもある。マオは百万遍修行をなぜこの小山で行ったのか、大いなる疑問であり謎でした。

 司馬氏は『空海の風景』の中で、太龍山が選ばれたわけを次のように推理しています。
 四国を選んだのは厳しく寒い北国より暖かいからであり、「山の名になじみがあるだけでなく、自分の精神の体温に遇っている」からであろう。空海は四国上陸後「奇(く)しき山はないか」と「土地の者に、土霊の棲みついている山をあちこち聞きまわ」り、「奇しきは大滝嶽こそ」と「教えてくれた者があったのであろう」と。
 残念ながら司馬氏は「奇しく」の内容を説明してくれず、結局「なぜあの山なのか」の疑問に答えていません。

 私も現地に行って太龍山近くの民宿に泊まったとき、宿の主人に「太龍山はどの山ですか」と尋ねました。主人は南の小山を指さして「あの山です」と教えてくれました。

 そのとき周囲には高さも規模も同程度の山がいくつも見えたので、「はて?」と思いました。
 遠くから見上げただけでは空海が百万遍修行の場として「どうして太龍山を選んだのか」、見当もつきませんでした。

 司馬氏は二度目の百万遍修行の場である土佐室戸岬、双子洞窟についても「なぜそこが選ばれたのか」の答えを提示していません。
 こちらも誰かから室戸岬の名を聞いた。その後道なき道、やぶだらけのけもの道を切り開いて室戸岬にたどり着いた。すると、たまたま百万遍修行に最適な(東に開けた)双子洞窟が見つかった――その程度の推理にとどまっています。

 私は太龍山、そして室戸岬双子洞窟の現地を訪ねてわかりました。
「なるほど、ここは間違いなく百万遍修行が行われたところであり、他の小山と区別できる大きな特徴があったのだ」と。

 なぜ数ある小山の中で太龍山が選ばれたのか。なぜ室戸岬双子洞窟だったのか。

 答えは「そこが聖地だから」です。もっと言うなら、修行者達に聖地として知られており、百万遍修行を実践するに最適の場所として知られていたのだと思います。

 百万遍修行は明けの明星を見ながら呪文をとなえるので、東と南に開けている必要がある――それは最低限の必要条件です。しかし、それだけでは数ある小山の中でなぜ太龍山なのか、なぜ室戸岬双子洞窟だったか、その説明がつきません。
 最大の理由は修行の場が聖地である必要があった。逆に言うと、空海は修行の場として《聖地》を探し求めた。その際重要なキーワードは以前も取り上げた《磐座(いわくら)》です。

 空海が山岳修行を実践した場として明確なのは四ヶ所。まず金峰山(大峰山)であり石鎚山。これは山行登拝。そして、百万遍修行を実践した太龍山南の舎心岳と室戸岬双子洞窟。この全てに巨岩――磐座(いわくら)があります。

 太龍山で空海が百万遍修行を実践したのは「南の舎心岳」と呼ばれる磐座でした。
 そこから歩いて十数分の所には「北の舎心岳」と呼ばれる磐座もあります。
 太龍山は小さな山ながら磐座を二つ持つ聖地だったのです。

 ちなみに、金峰山のパワースポットは巨大な一枚岩がある「東の覗き」と「西の覗き」であり、今も女人禁制の聖地と見なされています。
 東と西(の覗き)、南と北(の舎心岳)、室戸岬磐座下に穴を開けた双子洞窟。二つあることも特筆すべき聖地として知られていたことをうかがわせます。

 修行の場が聖地であるとの理解に立てば、空海がやみくもに山々を登り、百万遍修行を実践できる場所を自分一人で探し、結果太龍山と室戸岬双子洞窟をたまたま見出した――とは到底思えません。

 そもそも石鎚山や金峰山は初心者が一人で登れる山ではありません。先達や仲間と一緒だったろうし、太龍山と室戸岬双子洞窟も先達が指導したか、「百万遍修行を修するならこれこれの所がいい」と聞いたのでしょう。
 特に百万遍修行は最低でも四ヶ月間、戸外で深夜から早朝にかけて行われます。支援者が必要だったのではないか。であれば、適度に人里近いところである必要があります。

 これらを総合的に勘案すると、当時百万遍修行を実践する場としていくつか候補地が知られていたのであり、空海はそれを受けて太龍山と室戸岬に出かけたのだと思います。

 それにしても、博覧強記の司馬遼太郎氏が、なぜ太龍山と双子洞窟から磐座を想起しなかったのか不思議でなりません。無知浅薄な私でさえ、現地を訪ねて磐座に気づいたというのに(^_^;)。

 おそらく司馬氏は太龍山南の舎心岳に登らなかったのではないかと思います。
 『空海の風景』は1973年から75年にかけて雑誌『中央公論』に連載されました。太龍山のロープウェイが完成したのは1992年。それまでは麓から山道を登らねばなりませんでした。
 1923年生まれの司馬氏は1970年なら50歳前。まだまだ登れないほどの年ではなかったと思うのですが。

 一方、室戸岬の双子洞窟は近くまで行っているので(昼間のようです)、洞窟の上部が巨大な岩山になっていることは気づいたはず。しかし、それ一つでは磐座を想起しなかったのでしょう。やっぱり「二つ」見る必要があるのです(^.^)。
 もしも司馬氏が南の舎心岳まで登って(北の舎心岳にも気づいて)いれば、おそらく磐座に思い至っただろうと思います。
 河童の川流れと言うか、弘法も筆の誤りと言うか、上手の手から水が漏れた例になったと言わざるを得ません。

=============
 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:もちろん前置きの一読法課題。途中で「ここかっ!」とつぶやきましたよね(^_^)。
 わからなかった方は文面を冒頭からスクロールしてさーっと眺めてください。
 一読法のパソコン的二度読み(これはオッケー)です。
 なお、太龍山南の舎心岳、室戸双子洞窟の画像は第42節~43節以下にあります。本節ではいとも簡単に磐座に気づいたように読めますが、実際はかなりミスがあったし、それゆえの暗示もありました。

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2025.03.01

前節補足 一読法の復習と仏説補足

 『空海マオの青春』論文 後半 第20号

 突然ですが、「その2」の前に「一読法の復習と仏説補足」と題して前節の補足を配信いたします。
 というのは前節公開後ある重大な問題に気づいたからです。
 読者に「一読法」を勧めているくらいだから、私も文章を読む際(人の話を聞く際)極力一読法を心がけています。
 それは自分が書き上げた作品に関しても同様で、私は自分の文章を公開後いろいろつぶやきながら読んでいます。

 その中には作者ならではの「しまった。これは良くない表現だった」とか「これは言い過ぎだ」と感じるものもあります。
 それほど多くはないけれど、問題だと思ったときは次節にて訂正・修正しています。

 これはひとえに各部を書き、全体を書き終えてから配信――しないことが原因です(^_^;)。
 読者各位にしてみれば、突然はさみこまれる「一読法の復習」(と題した前節の復習やちゃぶ台返し)は「おいおい」と言いたくなるし、「全部書き終えてから配信しろよ」とつぶやかれるかもしれません。

 もちろん「ぼーっと読んでいませんか」と(一読法的)注意喚起の思惑はあります。
 しかし、部分を書きつつすぐに公開する。この執筆態度、私は「これで良いのではないか」と思っています。厳密に言うと、ある時期からそう感じ始めました。

 というのはそれが《人生》だからです。大げさ(^.^)?

 私たちは自分の人生を生きるにあたって「全て終わって振り返る」なんてことはあり得ない。そのときすでに棺桶の中にいるのですから。
 私たちは途中途中でいろいろ感じたり、考えたりして成長する。幼児期には幼児期の、小中高は小中高の。一応の区切りはあるけれど、あくまで《途中》である。

 そして、社会に出て働き始め、恋人を得たり得なかったり、結婚して子供が生まれ親となったり、あるいはずっと一人暮らしであったり、誰かと結ばれても子どもはいなかったり……と大人になってからも常に《途中》を生き続ける。

 やがて老境を迎え、「そろそろ人生の終わりかなあ」と思っても、死ぬ瞬間まではあくまで途中。
 途中に終わりはない……うーん名言(^_^)?

 その都度いろいろ感じ、考え、ときには「失敗だった」とか「こうすれば良かった」と後悔することもある。

 この、聞けば当たり前の生き方――それを文章(著作)にあてはめるなら、書きつつ公開する。そして、間違ったなら、あるいは「言い過ぎた」などあれば後日修正して反省する。これもまた社会において大いにある事態です。

 ……と大上段の言い訳を書いておいて(^_^;)、では一体前節のどこに「補足」が必要だったのか。

 それは前置きと後記に書いた以下の部分。
--------------------------------
1 仏教はどうして今を生きる人は「救えない」と公言する宗教なのか。
--------------------------------

 これに関して「釈迦の後を継ぐ弥勒菩薩は釈迦入滅の56億7千万年後、仏として生まれ変わって人を救うと仏典にある……ということは現在生きている人も、これから生まれる赤ん坊も、ほぼ永遠に『人は救われない』と言われているようなもの」と書きました。

 もう一つ
--------------------------------
5 自分が良いと思ったものを人に勧めないのは悪いことか。
--------------------------------
 に関しても「これって仏教にカンケーある?」とつぶやいた方は第37節をご覧ください――としてリンク先を示しました。

 私は配信後、37節に飛んで(自筆自作ながら)一読法で読みました。
 そして……読みつつ「あること」をつぶやき、「これは前節の修正が必要だ」と考え、急きょ[急遽]本節を挿入することにした――というわけです。

 さて、以下は相当難しい問いです。
 37節に飛んで読まなかった人はこれからぜひ同節を読んで、

 作者御影祐は前節「1」のどこに問題があると考えたのか。
 第37節のどこで「あること」をつぶやいたのか。

 これを探して考えてみてください。

 さらに作者の指示通り第37節に飛んで読んでくださった真面目な読者各位へ。
 (別に読まなかった人が不真面目と言いたいわけではありません)
 素晴らしいと思います。が、敢えてきつい一言を(^_^;)。

 途中で「あること」をつぶやかねばなりません。
 一読法で読んでいれば、必ずつぶやきます。
 もしも(読んだけど)つぶやかなかったなら、相変わらず「ぼーっと読んでいる」ことを意味します。
 反省してもう一度(都合3度目?)再読して「あること」を探してください。
 本文を読む前に……。

 『空海論』前半のまとめ(三)

 1 仏教入門後の大まかな流れと九つの謎           1月22日
 2 南都仏教――僧侶個人への失望              1月29日
 3 学問仏教、大寺院の経済活動への異和感          2月05日
 4 山岳修験道進出、道教発見                2月12日
 5 神仙思想への失望から仏教回帰、『聾瞽指帰』執筆     2月19日

 『空海論』前半のまとめ(四) その1
 1 仏教広布の悩み                     2月26日
 1補「一読法の復習と仏説補足」               3月05日――本節
 2 百万遍修行と年月確定
 3 新しい仏教を求めて一度目の求聞持法百万遍修行
 4 室戸岬にて二度目の百万遍修行、改題『三教指帰』公開
 5 二度の百万遍修行を経て体得した《全肯定》の萌芽について

------------------
 本号の難読漢字
・四弘誓願(しぐせいがん)・煩悩(ぼんのう)・成仏(じょうぶつ)・涅槃(ねはん)・阿修羅(あしゅら)
------------------

***** 空海マオの青春論文編 後半 *****

 後半第20号 プレ「後半」(四) その1 補足

 「一読法の復習と仏説補足」


 前節「仏教はどうして今を生きる人は『救えない』と公言する宗教なのか」に対して
「そんなことはないぞ」と、直ちに反論の言葉をつぶやいた方がいらっしゃると思います。

 そして「仏教だって人を救えると説いている。いい加減なことを言うな!」とお怒りの言葉さえ発したかもしれません。

 このようなことをつぶやかれたのは仏教信奉者、具体的にはお寺で日々念仏をとなえている僧侶各位。あるいは、長年仏教を研究してきた学者の先生方。
 もしかしたら、やや軽蔑の念をもって「だから素人は困る。仏教をろくに勉強もせず、ニセ情報を流して平気でいる」と内心思った可能性もあります。

 第37節を読めば、この方々は「なるほど《仏教は人を救う》と書いているな」とおわかりになるでしょう。しかし、読まなければ、作者御影祐への反感にも似た誤解(?)は解けないままです。

 また、第37節を読んだフツーの方々。
 こちらはあるところで次のようにつぶやかねばなりません。
「あれっ、御影は《仏教は人を救えない》と書いていたが、ここでは仏教は《人を救う》と書いてある。どーいうことだ?」と。

 最後に第37節に飛ばず、前節を読んだだけで終わった方々。
 その人は私が書いた「仏教は今を生きる人を救わないんだ」との言葉だけが頭に残ります。
 もしも今人生への絶望にとらわれているなら、「人間はほぼ永遠に救われない」の言葉を読んで、さらに絶望感を深め、暗い気持ちになり、「やっぱり人間って救われないんだ」とつぶやいて死の誘惑を断てないかもしれません。

 この三者三様の感想・つぶやきをそのままにして次節に進むわけにはいかない。
 これが本節を挿入する理由です。
 私が途中でつぶやいたのは「こりゃあ37節を読んでくれないと、とんでもないことになる。今流行りのフェイク情報と受け取られる」との言葉でした。

 では第37節「仏教入信の誓い《四弘誓願》」のどこにつぶやくべき言葉があったか。

 前振りとしてちょっと四弘誓願(しぐせいがん)について確認しておきます。
 これは釈迦の後を継ぐ菩薩たちと仏教入信者に課せられた四つの誓いであり願いという意味です。

 四つの誓願とは何か。私はウィキペディアの解説を紹介しました。

 その1として「衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)」とあり、「地上にいるあらゆる生き物をすべて救済するという誓願」、234として「煩悩を断とう」・「仏教という法を全て知ろう」・「仏の道を歩んで必ず成仏しよう」とあります。

 これを受けてさらに以下のように説明しています。
--------------------------------
 この四誓願、234は個人の誓いというか、仏教信仰における誓い・決意を述べているように受け取れます。煩悩を断ち、仏法を学び、必ず成仏するという誓いを立てようと。
 ただ、1は若干違います。それは地上にいるあらゆる生き物――特に衆生(人間)を救済しようという誓いです。
--------------------------------
 ここが最初の「あれっ?」とつぶやいていいところ。
 仏教は「衆生(人間)を救済しよう」とする宗教なのです。

 さらに、次の部分。
--------------------------------
 (仏教は)いまだ救われていない者、いまだ仏法を理解していない者、いまだ安心(あんじん)の境地――涅槃・悟りの境地に達していない人を「救済せしめん」というのです。
 何を理解させるのか、何を使って救済するのか。もちろん仏教であり、仏説でしょう。つまり、四弘誓願とは仏教を人々に広め、理解してもらい、いまだ安心の境地に達していない人に、安心の境地に達してもらおうとの誓いなのです。
--------------------------------
 ここでつぶやくべきは、
「あれっ、御影は『仏教は今を生きる人を救えない』と書いていたけど、違うじゃないか」との言葉です。

 先ほど書いたように、仏教のことをよく知っている人がこの部分を読めば、
「なるほど御影は《仏教は人を救う》と書いている」と安心(この場合は「あんしん」)してもらえる記述です。

 おわかりでしょうか。
 第37節に飛んで読んでくれないと、仏教信奉者・研究者が抱いた誤解は解けず、フツーの人も「仏教は今を生きる人は救えないんだ」との印象だけが残ることになります。
 それは即仏教への失望に変わるでしょう。

 私は仏教信者ではありません。が、このような失望を読者に与えたくはない。
 むしろ「仏教回帰」の第31節~38節を読んでもらえれば、空海がまとめた仏説を紹介しつつ、「仏教が他の宗教にない奥深さを持っている」ことを書いています。

 たとえば、六道の一つ、天界に住む天人は菩薩ではなく、天界は極楽ではないこと。阿修羅は仏教を守るために戦っている。だが、それは極楽に至る道――生き方ではないことなど。(→第32節)
 他の宗教・宗派、原理主義者が語る「我が宗教・宗派を守るために戦えば天国に行ける、有り金全て差し出さないと地獄に堕ちるぞ」との言葉に比べれば、なんと良心的であることか。詳しくは関係する節をご覧ください。

 それはさておき、以上のようにつぶやいて終わりにするようでは、まだまだ真の一読法読者とは言えません。

 次なる疑問は御影祐の言う「仏教は今を生きる人は救えないと公言している」との関係です。
 御影はなぜそのようなことを言ったのか。上記「仏教は人を救うことを誓いであり願いとしている」との違いとは――と考えを深めねばなりません。

 この答えは以下の通り。
 まず私の「仏教は今を生きる人は救えない」の言葉はあることへの反論として書かれています(作者からすると、反論として書きました)。

 仏教の[       ](ほにゃらら)
 ↑
 御影の反論「仏教は今を生きる人は救えない」

 もうおわかりと思います。この「あること」には「(仏教の)教えは人を救う」という言葉が入ります。仏教理念というかご利益というか、仏教の根本的な教説です。
 それに対して私は「《今を生きる》人は救えない」と提示したのです。

 そして、第37節を読み進めれば以下の部分に突き当たります。
--------------------------------
 要するに、仏教を知らない一般大衆は現世で苦しみ、死して地獄で苦しむ。仏法(仏教)を知って信心すれば、死後極楽へ行くことができる。この素晴らしい教えを大衆に知らせようではないか、と言うわけです。
--------------------------------
 このまとめで肝心な点は「一般大衆は現世で苦しみ、死して地獄で苦しむ」のところです。

 多くの人はこう思っています。
 人は現世で苦しむが、死ねば苦しみから解放される。よって、自殺とは苦悩に満ちた自分の生を断つことで「救われる」最後の手段だと。

 だからこそ日本では以前は3万人、今でも年間2万人の人が自殺する。苦しみから解放される手段として自殺を選んでいます。
 悲しいことに近年はそれが若年化して2011年以降小中高校生の自殺は毎年300人を超え、2024年は過去最多の527人(1月29日発表)になりました。
 この背後には(おそらく)何千人もの自殺志願者がいるでしょう。全ての大人が本気で考えねばならない悲惨な事態だと思います。

 ところが、仏教はこう説いています。「死んでも苦しみますよ」と。
 死は苦しみから解放される手段にはならないと言っているのです。

 たとえば、いじめに耐えられず自殺する。パワハラ・セクハラ、職場の虐待、働き過ぎて過労死した……。
 閻魔大王の前で自分はいかに現世で苦しんだか力説して「極楽に行かせてください」と懇願する。だが、極楽に行ける判決が出るとは限らない――と仏教は言うのです。

 閻魔大王は自殺してやって来た人に言うかもしれません。「お前は殺生を行ってきた。うそを言い続けた」と。
 しかし、殺人犯でもなければ「確かに私は小さな生き物を殺したし、生きるために動物の肉は食べました。でも、人は殺していません。むしろ殺されたようなものです」と訴えるでしょう。

 すると閻魔大王は言います。「お前は最後に人を一人殺したではないか」と。
 さらに「お前は耐える必要のないところで耐えて苦しんだ。それはうそにまみれた生き方ではないか。その結果として自分を殺した。それが罪でないとどうして言えるのだ」と断罪して地獄行きを宣告するのでしょう。「現世で苦しみ、死して地獄で苦しむ」とはこういうことです。

 閑話休題。
 仏教は今の生き方を改めなさい。仏教を信仰して正しい生き方をすれば(現世の苦しみは消えないけれど)、死後は苦しみのない世界=極楽へ行くことができる――と説きます。
 たとえば、「成仏(じょうぶつ)」とか「シャカになる」はともに死ぬことを意味します。現世で仏になることはない。死ねば仏になれる(かもしれない)。だから、仏になるという「成仏」は死を意味するようになりました。

 ここが「信じるかどうか」の境目です。
 死後の地獄、極楽を信じることができれば仏教信者となって生きる。だが、死後の世界を信じられなければ、仏教信者となることはなく、自分の生き方を変えようとも思わない……でしょう。

 ここまで来れば、私がまとめた前節の言葉「仏教は今を生きる人は救えない」がちゃんと仏教のことを説明していることがおわかりいただけたと思います。
 まとめると、仏教は《死後救われるための生き方》を説いているのです。

 これは信者にとって安心して死ねる考え方であり、死に対する恐怖をやわらげてくれるでしょう。と同時に人々を支配する、リードする人たちに都合のいい教えでもあります。

 なぜなら「今苦しいことがあっても耐えろ。耐えれば死んだら極楽に行けるぞ」と言えるからです。奈良時代当時、毎年のようにどこかで飢饉が発生し、天変地異も多かった。それら全てに対して「耐えなさい。般若心経をとなえて耐えれば極楽に行ける」と言えます。

 朝廷が仏教を人民に勧めた最大の理由がこれでしょう。仏教が説く「正しい生き方」を全人民が実行してくれれば、日本から犯罪はなくなります。もちろん国家は安泰、反乱など起こらないはず。が、現実はそうではない……。

 もう一つ。このように仏説を理解すると、本文冒頭の表現も修正が必要になります。
 前節私の言葉に対して「仏教だって人を救えると説いている。いい加減なことを言うな!」とお怒りの言葉さえ発したかもしれない、仏教信奉者や学者の方々。
 きちんと仏教を理解している人ならこのような言葉は発しない、怒ることもない。
 失礼ながら、中途半端に理解している人、一読法で読めない人が怒りの言葉を発するのです。

 私は「今を生きる人は救えない」と書いています。この《今を生きる》が大切で、仏教をしっかり把握している人は「そんなことはない!」と怒鳴るのではなく、「そのとおり。確かに仏教は今を生きる人の苦しみを救うことはできない。だが……」と同意した上で反論の言葉を語るでしょう。

 反論の言葉とは「だが、信じることで心の不安を取り除き、安心を得ることができる」と。
 これで代表的な人は浄土真宗の開祖親鸞さんでしょう。

 あるとき信者から「極楽浄土は本当に存在するのですか」と問われて「私もまだ行ったことがないからわからない。わからないが、私はあると信じている」と答えました。
 信じることで今を生きられる、心の平穏を保つことができると言うのでしょう。

 もう一つ。「5 自分が良いと思ったものを人に勧めないのは悪いことか」の言葉に関しても触れなければなりません。
 この言葉を見た読者は直ちに「別に悪くはないだろう。よくやっていることだ。御影はほんとにへんなことを言うやつやなあ」とつぶやいたのではないでしょうか。
 が、第37節を読めば、そんなに簡単なことではないとわかったと思います。

 私たちは自分が良いと思ったものを人に勧める。それがフツー。
 しかし、これが宗教・主義の話になると、ことは単純ではない。組織と個人の関係で言うと、宗教教祖、何々主義のリーダーは「良いものだから人に勧めろ」と信者にやんわり命令する(主義信奉者も「信者」と言いたくなるのはアメリカの花札大統領支持者を見れば納得できるでしょう)。
 ところが、人々がそれを受け入れないと、「あいつらは悪い奴らだ。自分が正しく反対する者は敵だ」と言い張る。

 かくしてオウム真理教はテロに走った。アメリカでは花札対トランプ(?)の分断が起こって内戦寸前に至る。世界では宗教間の戦争、資本主義対共産主義の争いが起こり、今は民主主義対独裁主義が争う。「自分が良いと思ったものを人に勧める」ことが人類から戦争がなくならない原因ではないか、と私なんぞは考えるのです。言い過ぎ(^_^;)?

 長くなって恐縮です。そろそろ本節のまとめを。

 この「仏教は今を生きる人間を救うことができない」点が私の仏教に対する不満であり、同時に(その人と並列して語るのは僭越ながら)空海マオの(旧)仏教への不満であったと思います。

 空海は「現世は苦しみに満ちている。だが、死後なら救われる」との教えではなく、「現世で救われる」生き方を求めた。それこそ新しい仏教であると考えたのです。
 そして、はるか先の結論を先取りして書くと、空海はこの難題を解きます。
 彼が到達した最終境地「即身成仏」とは正に現世で救われる生き方を説いているのです。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:末尾に関連して最近見た刑事ものドラマの主人公の言葉を紹介します。
 彼は過失を犯し絶望に浸っている部下に向かって次のように言います。
「あるフランスの哲学者が語っていた。絶望するな……たとえ絶望したとしても」
 さらに続けて「絶望とともに生きろ!」と。

 いい言葉だなと思いました。これを言い換えると、「苦しみを消すことはできない。苦しみとともに生きなさい」ということです。

 私自身の書き物で恐縮ながら、私はこのことを狂短歌エッセー創刊号「四喜八喜の人生」で書きました。狂短歌は以下、

〇 四苦八苦 悩みばかりの人生と嘆かず見ようよ 四喜八喜

 おヒマならお読みください(^_^)。

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