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2025.04.24

『空海マオの青春』論文編 後半 第28号


『空海論』前半のまとめ(五)の3

 空海は804年(30歳)入唐後長安青龍寺にて密教を学び、翌年第七祖恵果和尚の後を継ぐ第八祖に指名されます。さらに翌年帰国するや真言宗を創始して密教を日本に広めます。
 この密教の根本教義が《全肯定》。よって、全肯定は空海マオが入唐後学んだと思われています。

 私の新説(?)は「いやいや、空海は日本にいたときすでに全肯定の端緒をつかんでいた。それは早くも『三教指帰』の改稿の中に見出すことができる」との見解を提示しています。

 『空海論』前半のまとめ(五) 『三教指帰』成立過程論

 1 『聾瞽指帰』と『三教指帰』の比較 4月16日
 2 両著の「序」と結論部「十韻賦」の異同 4月23日
 3 『三教指帰』は全肯定の萌芽 4月30日
 4 なぜ両著の「本論」は同じなのか
 5 『三教指帰』脚本化の試み
 6 室戸岬百万遍修行における明星との交感とは
 7 『三教指帰』の文学史的位置付け

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 本号の難読漢字
・纓簪(えいしん)・勤操(ごんぞう)・衆生(しゅじょう)・医師(くすし)・不来方(こずかた)の お城[岩手県盛岡城]・忸怩(じくじ)・虚亡隠士(きょもういんじ)・糟(かす)や糠(ぬか) ・仮名乞児(かめいこつじ)・居諸(きょしょ)・蟷螂(かまきり、ここは「とうろう」)・虎豹(こひょう)・無知無明(むちむみょう)・常套(じょうとう)・齟齬(そご)・拘泥(こうでい)・些細(ささい)

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***** 空海マオの青春論文編 後半 *****

 後半第28号 プレ「後半」(五) その3

 『三教指帰』は全肯定の萌芽

 前節は『聾瞽指帰』・『三教指帰』の結論にあたる「十韻賦」の改稿を検証しました。
 末尾の「何ぞ纓簪(えいしん)を去らざらんや」には、室戸岬百万遍修行を終えた空海マオの「出家の決意」がこめられている――これは誰しも指摘するところです。
 しかし、先頭の「(儒・道・仏)三教は愚かなる心を導く」はあまり注目されなかった気がします。

 出家の決意と言ってもすでに仏教入門後四、五年経っています。ここはかんざしを差せるような頭を坊主にして「心から仏教邁進を決意した」と理解すべきでしょう。
 空海は得度の時期が入門直後、二十代半ば、入唐直前と諸説あって不明です。その中に入門数年後「勤操を師として和泉国槇尾山寺で得度した」との説があります。私はこの説に半分賛成、半分反対です。
 室戸岬百万遍修行後、心からの決意を頭を丸めることで果たしたと言う点では賛成。つまり、それまではせいぜい短髪ではなかったかと(^_^)。しかし、正式な得度ではなかったという意味で反対。

 私は「空海は日本では得度しないままだった」との説をとります。新しい仏教を求めて将来の入唐を意識するなら、日本で得度すると自由がきかない。遣唐僧に指名されたとき寺の指示を受けるからです。よって、空海は唐で得度しようと考えていたと思います。この件はいずれ一節設けるつもりです。

 さて、『三教指帰』には全肯定の萌芽が見られる――この件について再度両著十韻賦の冒頭を書き下し、口語訳とともに掲載します。なお、表記できない漢字はひらがなとし、脚韻を意識した書き下しとしました。

『聾瞽指帰』十韻賦冒頭

 心を作(な)して漁(あさ)る 孔教 ―― 脚韻
 憶(おもい)を馳せて狩る 老風   ――[風]
 雙(なら)びに営む今生の始め
 並びに怠る 来葉の終        ――[終]

 心をつかって孔子の教えをさぐり
 思いをめぐらして老子の導きをもとめる
 それらはともにこの世の始めだけを守って
 あの世の終わりの守りを怠っている

『三教指帰』十韻賦冒頭

 居諸(きょしょ)破る 冥夜(めいや)―― 脚韻
 三教ふさぐ 癡心(ちしん)     ――[心]
 性欲(しょうよく)多種あり
 医王異(こと)にす 薬鍼(やくしん)――[鍼]

 日月の光は暗き夜の闇を破り
 儒・道・仏の三教は愚かなる心を導く
 衆生の習性と欲求はさまざまなれば
 偉大なる医師(くすし)・仏陀の治療法もさまざま

 マオは『聾瞽指帰』十韻賦の冒頭にあった儒教・道教に対する批判の文言を削って長所の指摘に変え、「三教は我々を導いてくれる」と改稿。
 私はそこに《全肯定の萌芽》を読みとりました。それは空海が山岳修行から二度の百万遍修行を通じて獲得した境地であると思っています。

 これまで述べてきたように『聾瞽指帰』と『三教指帰』の間には室戸岬の百万遍修行が入ります。四国から戻ったマオは「さて『聾瞽指帰』をどう書き直そうか」と読み返したことでしょう。
 結果、不思議の感にとらわれたかもしれません。「本論は書き直す必要がないじゃないか」と感じたからです。ただ、序と結論(十韻賦)は改稿したいと思った。

 序に書き込みたかったのはマオ自身の履歴と二度の百万遍修行体験を紹介すること。そして、十韻賦に入れたかったのは「頭を丸めて心から仏教に突き進む決意」と「三教は人を導く」の言葉です。
 これらはまとめると、自分のことであり、作品全体の結論として「三教は人を導くとするのがいい」と思ったことを示しています。

 『聾瞽指帰』の十韻賦は完璧に仕上がっていました。なのに、脚韻を変更して新たに五言古詩を一編作り上げた。日本の近現代詩ならいざしらず、漢詩だから最初を変えたら残り全て同じ脚韻に作り直さねばなりません。
 23歳の空海はいともたやすくこれをやったように思えます。が、しんどい作業であることは明らか。つまり、それほどの思いをしてでも「書き換えたかった」ということになります。我々はその重みを感じ取らねばなりません。

 余談ながら、現代人にこういう芸当は不可能でしょう。マオが現代の子どもだったら、彼は中国語(漢詩)に精通した「空海」になれたかどうか。
 なにしろ現代人は小学校入学から大学卒業まで五教科、実技四科目など勉強することがあまりに多く、一つだけ集中してやることが許されていませんから。

 不登校も増加の一途(2023年度小中の不登校34万人余り)だし、そろそろ全人的平準的没個性的集団教育(^.^)に対する見直しを考えてもいいのではないかと感じます。もちろん最低限の読み書きそろばんは必要だけれど、十歳から二十歳くらいまで、好きな科目を一つ一日中やる。そのような学校であっても良いのでは、と思います。

 たとえば、授業内容を五分の四に減らして一週間五日のうち一日は本人の好きなことをやる。算数・数学、生物とか歴史に英語。あるいは、一日中絵を描く、楽器を弾く。小説を書いたり、漢詩や短歌俳句をつくる。茶道華道に野球やサッカー、ボルダリング。パソコンにテレビゲーム。テレビゲームなどはオリンピック種目になりました。一日中遊ぶことがあっても良いではありませんか。

 石川啄木に「不来方(こずかた)の お城の草に寝ころびて 空に吸はれし 十五の心」なる和歌があります。
 何もやらず一日ぼんやり空を見続けるのもありだと思います。なんだか学校に行くのが楽しくなりそうだと思いませんか(^_^)。

 [以下は2025年現在の追加]
 もしどうしても「カリキュラムを減らすわけにはいかない」と言うなら、提唱したいのは「中学校4年制」です。
 大学は4年制ですが、1年目から真面目に単位を取っていると、卒業に必要な単位修得はほぼ3年で終わります。4年目は卒論とか卒業研究ゼミの単位になることが多い。結果一日中図書館に籠もったり、部屋で関係論文を読んだり、原稿を書いたりします。大学にはたまに行くだけ。

 中学校も4年制にして必修単位を3年で終える。4年目は(先ほど述べた)自分の好きなことを1年中やる。そして、その集大成として発表会や大会を実施する。何らかの研究論文を書くことだってあり。もちろん「何も書かない、何も発表しない」だっていい。

 日本人は「何もしない」ことを怠け者の生き方として軽蔑します。しかし、無為だと思える1年間は決して無駄でも無意味でもないと思います。
 自由にさせたら、「一日中テレビゲームばかりするに決まっている」と言うかもしれません。良いではありませんか。

 今までは時間制限され、途中でやめる不快と不満をためていた。それがなくなってゲームに耽れば、普通半年くらいで「こんなことやってていいのかな」と思うもんです。インベーダーゲームが流行ったころの私がそうでしたから(^_^;)。
 そう思わなかったとしても、ならばEスポーツに進むという選択肢があります。
 あれはあれで大変だから、たぶんテレビゲームから離れます。

 平均寿命40~50年の時代なら不可能でしょう。しかし、今や人生100年の時代。
 走り続ける(走らせ続ける)日本人と子どもたちに、一息つける時間を与える。
 自分の好きなことだけを1年間やった十代――この時間はその後の人生にとって大きな養分となり、生きる力となるのではないかと思います。

 そして、その指導監督は学校外の人たち(特に高齢者)に任せ、先生は授業準備や雑務、会議に使う。これで教員の劣悪労働も軽減できるし、孤立しがちな高齢者が生き甲斐を持つこともできる。一石二鳥、三鳥の施策だと思うのですが……。

 閑話休題。ただ「三教は人を導く」を「全肯定」と呼ぶのはちょっと忸怩(じくじ)たる思いもあります(^_^;)。全肯定とは密教の根本概念です。

 というのは、以前百万遍修行論の冒頭に「百万遍修行体験とはいわゆる《悟り》と呼ばれるような境地ではなかった――空海研究者たちはそう指摘し、私も同感です。後年到達する密教的境地でもなかったと言われます」と書いています(^.^)。

 もっとも、「言われます」と記したように、これは既研究者による評価であって私は「もちろん密教そのものではない。しかし、芽生えとしての《全肯定ならあった》」と考えています。根拠としたのが「三教は愚かなる心を導く」の言葉です。いずれ本稿全体が完成したとき細部は書き直さねばなりません。

 このように、書き物は再考すると書き直したいところがぞろぞろ出てくるのが普通です。ところが、空海は『聾瞽指帰』から決定稿である『三教指帰』に移る際、本論は(漢字交換を除いて)ほぼ書き換えなかった。

 これも不思議な話です。いちゃもん付けるなら、「序と結論を変えたのに、本論変えなくていいの?」と言いたくなります。

 現代なら締め切りがあって「間に合いそうにないから本論はそのままにした」と言えなくもありません。しかし、売れっ子作家・研究者でもない23歳のマオに、時間はたっぷりあったはず。
 ここは「本論は変える必要がないと思った」と言うしかありません。次節にてこのわけを推理します。

 さて、ここからやっと(本節の)本論です(^_^;)。
 なぜ「三教は人を導く」が《全肯定の萌芽》と言えるのか、もっと詳しく語りたいと思います。

 三教とはもちろん儒教・道教・仏教のこと。空海は儒教・道教を経て「仏教こそ最上である」と主張した。ならば「儒教はダメ、道教なんぞくだらない。仏教だけが人を導くんだ」と書いていいところです。

 事実作品において道教を説く虚亡隠士は儒教否定の言葉を吐きます。「儒教は素晴らしいなどくだらぬ言葉だ。世に言う君子は道教では糟や糠みたいなものであり、仙術世界にとって瓦や小石程の値打ちしかない」とばっさり切って捨てます。

 この他宗(他主義)を否定する言葉はおよそ世界の宗教・主義に共通した考えというか感情でしょう。信奉者は「我が宗教・主義こそ最高である。他の宗教・主義は小石だ、クソだ」と言っているはずです(^_^;)。だけでなく「他の宗教は邪教だ、異端だ。他の主義は間違っている」と敵視し、「オレの宗教・主義に変われ」と主張します。

 たとえば、キリスト教はイスラム教を敵視する。イスラム教はキリスト教を敵視する。資本主義は共産主義を敵視し、共産主義は資本主義を敵視する。民主主義は独裁主義を敵視し、独裁主義は民主主義を敵視する。

 結果、《正しい教義、正しい理論》に基づいて紛争・戦争が始まり、テロが引き起こされる。「自国が、全世界が一つの宗教、一つの主義の下に治められれば真の平和が訪れる」と高邁なる理想に基づいて戦争は続けられ、テロも絶えることがない……(-_-;)。

 彼らはお互い同じことを言います。「お前達が信じている宗教は邪教だ、お前達の主義は間違っている」と。
 別に大集団だけでなく、最小単位である家族――親子、夫婦の間でも対立すると、同じ言葉が交わされます。「あなたが間違っている」と。自分を肯定し、相手を否定するのが世の常と言うか、人間の根本的資質なのでしょうか(-.-)。

 よって、空海も仏教の立場から、儒教、道教に対して同じことを言っても、なんら不思議ではありません。
「仏教が最もすぐれている。儒教、道教なんぞ三文の値打ちもない」と。

 その通り儒教亀毛先生、道教虚亡隠士に続いて最後に登場した仏教仮名乞児は二教を批判します。
 両者はちっぽけな斧を持つ蟷螂(とうろう)であり、自らは仏陀の子、まさかりを抱く虎豹である。二人は自分は正しく相手は間違っていると言うが、いずれも小さな水たまりの雑魚であり、大魚を知らない。所詮小鳥であり、鵬(おおとり)の存在を理解できない。「ああ、目の見えるものと見えないもの、愚かなものと愚かでないもの、(中略)なんという見識の狭さだ」と。
 そして、「きみたちは最も偉大な覚れるものの教え、真理の帝王の道である仏教について聞いたことはないのか」と仏教を説き始めるのです。
 儒道二教は「天地造化の世界の皮相な道理を卑近に説いている」に過ぎず、「永劫の時間にわたる深遠な哲理」を説いていないと批判します。
 だからこそ『聾瞽指帰』を完成浄書したとき、空海は結論として「儒教道教には欠点がある」とまとめました。

 ところが、室戸岬百万遍修行を終えて『三教指帰』に改稿したときは、二教の欠点を長所に変え、「儒教・道教・仏教の三教は人を導く」に変えた。
 すなわち「儒教もいい、道教もいい、仏教もいい。中でも仏教が最高だ」と言ったのです。これこそ否定とは真逆の理屈、全肯定ではありませんか(^o^)。

 『三教指帰』十韻賦一行目の「居諸冥夜を破り」は「日月の光は暗き夜の闇を破り」と訳されます。もちろんこれは比喩。「暗い夜の闇」とは人間の愚かさであり、無知無明であり、言うならば何も学ぶことなく、野性的本能的に行動するオオカミのような存在ということでしょう。

 では「日月の光」とは何の比喩か。儒教だけを指すか、道教か。はたまた仏教のみを言うのか。いえいえ、次行「三教癡心を導く」を見ても、「光」が儒道仏三教を指すことは明らかです。儒教は光であり、道教も光。仏教ももちろん最大最輝の光明。
 空海が『三教指帰』を完成させたのは23歳の12月。室戸岬二度目の百万遍修行を終えた時点で、彼は早くも《全肯定》に達していた――その萌芽を得ていたと言えるのです。

 しかしながら、事はそう単純ではありません。さらに深く読み解き、深く考察しなければなりません。
 実は儒道仏について語られた《本論》もすでに「全肯定の萌芽」が見られるのです。『聾瞽指帰』の本論(=『三教指帰』の本論)です。

 ところが、マオは『聾瞽指帰』の結論(十韻賦)では儒教道教を批判する(すなわち否定的な)言葉を置きました。よって、以下のように言わねばなりません。

 要するに、『聾瞽指帰』執筆段階ではまだ全肯定に達していなかった、もしくは「自作が三教全肯定を述べている」ことに気付いていなかった。道教は儒教を否定し、仏教も儒教・道教を批判しているからです。

 それが二度目の室戸岬百万遍修行を終えて全肯定の境地に達した、もしくは「自作が三教全肯定を書いている」ことに気付いた(この詳細は次節)。
 だから、『聾瞽指帰』の結論である十韻賦冒頭の儒教道教を批判・否定する文言が(俗な言葉で恐縮ながら)「気にくわなかった」。
 となると「脚韻を含めて全部作り直すのか。めんどくせえなあ」(^.^)と思いつつ、「変えるべきだ。十韻賦を変えよう」と決めた――このような心理経過です。

 ここでようやく《理屈と感情》の言葉が出てきます(^_^)。私はマオが突き当たったのは理屈と感情の問題であったと思うのです。

 これまで何度も書いてきたように、一見(一聞)正しい言葉は《理屈》です。
 たとえば、「いじめは良くない」とか「戦争は悪」の言葉が理屈でしかないように、「三教全肯定」――これもまた理屈でしょう。

 キリスト教信者と話をすれば、「愛こそ世界を救う。白人も黒人も、イスラムの人とも仲良く暮らすべきだ」と言い、穏健なイスラム教徒と話をすれば、「テロリストは間違っている。キリスト教を信じている人とも平和に暮らすべきだ」と言うでしょう。資本主義信者と共産主義信者も同じことを言うはずです(こちら「主義」の方も敢えて《信者》と書きます^_^;)。

 ところが、《感情》は違います。感情は「イスラム教を信じるお前たちはおかしい」と思い、かたや「キリスト教は間違っている」と感じている。
 かたや資本主義国で暮らす人は「全体の平等など不可能。むしろ怠け者を生み出すだけで、やるべきではない。共産主義は誤りだ」と思い、かたや共産主義国の人は「資本主義は貧富の差を解消できず、むしろ拡大させている。金持ち優遇の非人間的な主義だ」と思っている。

 つまり、心の底では相手を否定している。特に危険が迫ると、理屈より感情が噴き出して「あいつらはおかしい」と思う。そして「彼らが敵対行動を取るなら戦わざるを得ない。私の正しさを証明するにはあいつらを滅ぼすしかない」と感じる……(-_-;)。理屈は肯定だけれど、感情は依然として《否定》のままです。

 空海に戻ると、彼は山岳修行中、道教信奉者が激しい言葉で儒教を否定したとき、内心そう思えなかったでしょう。「儒教にもいい点がある」と感じたはずです。儒教全否定の言葉に同調することはなかった。

 しかし、論文として書くなら道教は儒教を否定し、仏教からも儒教・道教の欠点を指摘し、批判しなければならない。そもそも論文とは理論表明です。自らの良さ・正しさをアピールしたいなら、「他はダメだ」と言うのが常套手段です。

 空海マオは太龍山の百万遍修行を終えたとき、「もう儒教、道教には戻らない。仏教こそ最上の宗教だ。私は仏教に突き進む」と結論を出したでしょう。だから、『聾瞽指帰』を完成させた。そこには二教批判・否定があるから、結論にも当然二教批判の「まとめ」を入れた。
 だが、「本当にこれで良いのだろうか。私は心の底から仏教を信じ、突き進むことができるのだろうか」と感じた。それが理屈と感情の齟齬と言うか異和感です。

 私は小説『空海マオの青春』で、『聾瞽指帰』を書き上げたマオに「どうにも得心できない。聾瞽指帰は未完だ」と言わせました。ほぼ完成しているけれど、どこか欠けている、何かが足りない。だが、それが何かはわからない。だから、もう一度百万遍修行に出かけることにした。
 その結果、欠けていたのは「私自身のこと、心から仏教に邁進する気持ち」と「仏教だけでなく儒教道教をも肯定する三教全肯定だ」と気付いた。そこで、そのことを『聾瞽指帰』に盛り込むべく改稿に着手した……。

 ここで突然現代作家の話に飛びます(^_^;)。私は卒論で志賀直哉を取り上げました。
 志賀直哉こそ最大テーマは「理屈と感情」でした。彼はしばしば書いています。「理屈ではわかっている。だが、感情が許さないのだ」と。そして「拘泥する・こだわる」という言葉を至る所に書いています。

 父との不仲、友人達との心理的確執、妻との微妙なすれ違い。「父親や友人とけんかするな。妻子と仲良く暮らしなさい」と言われる。しかし、それは理屈。感情がそれを許さない、しっくり来ない。小さなことにこだわってしまう。だから、父と口げんかをし(最後は絶縁までする)、友人の無頓着な言葉や態度が許せず、妻に対してひどい言動を取ってしまう……。

 父との対立、友人との確執はこだわりの原因が多々述べられ、よく知られています。奥さんへのこだわりの原因はなんだったか、あまり書かれていません。私は次のように推理しています。
 志賀直哉の奥さんは再婚でした。直哉は生涯それについて何も触れなかったけれど、彼は妻が初婚でなかったこと、平べったく言うと処女でなかったことに「こだわっていたのではないか」と邪推しています。

 戦前から戦後のある時期まで日本は自由恋愛より見合い結婚が主流でした。だから、男女とも結婚が初めての女性・初めての男性であることが多かった。特に女性が。
 ところが、有名な吉原など売春は政府の公認でした。よって、男の多くは二十代にもなれば、堂々と童貞を卒業することができた。が、女性にとって「売春」ならぬ「売男」制度はない。

 そうなると、自身は芸者や女給遊びに耽っても、結婚相手には純潔を求めるような身勝手男が結構いたようです(^.^)。志賀直哉は戦前の男です。彼もまたそうではなかったかと。
 人には決して言えないけれど、「妻の身体を別の男が通っていったと思うとなあ」とひそかに感じるような。「そんなことを思ってどうする、感じてどうする」と言われるだろう。だが、感じてしまう、こだわってしまう。それが理屈と感情。わかっているけど、感じてしまう……。

 直哉にとって「理屈ではわかっていることを感情が認めない、許さない。どうしてもこだわってしまう」――それは生涯にわたる大テーマでした。「些細なことにこだわるな」と言われても、感情が許さなければ、父や友、妻との一体感、心の平穏は訪れません。
 そして(結論を一気に書くと)、志賀直哉はその克服(理屈と感情の一致)を、長編『暗夜行路』で描いた、と私は考えています。
 ああ、早く空海論を書き上げて志賀直哉論に進みたい……これはまーどうでもいい、私のこだわりの言葉です。

 本節終わりが近いのに、二度目の閑話休題(^_^;)。

 空海マオも百万遍修行前、同じ理屈と感情の問題に突き当たったのだと思います。
 理屈ではもう儒教にも道教にも戻らない。仏教こそ最上である。自分は仏教に突き進むとわかっている。だが、感情はいまだそれを許していない、認めていない。「理屈と感情が一体となれる何かがほしい」と感じた。そのこだわりが二度の百万遍修行――とりわけ室戸岬の体験で溶かされた。
 理屈でしかなかった「三教全肯定」は心からそう思えるようになった。だから、十韻賦を改稿して三教全肯定の思いを『三教指帰』の結論にしたのだと思います。

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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:最終回となる「後記5」です(^_^)。
 実は「後記2」で終わるつもりでした。しかし、本章が旧稿のほぼ再掲載にすると決めたとき、「最近の話題を本論に採り入れづらい。せめて後記くらい読んでなるほどと思える話題を提供しよう」と思ってふくらませました。途中から喫緊の課題「特殊詐欺にかからないための根本的対策」に変えました。

 まずは結局ネット検索に進まなかったBC群読者(^_^;)のために「日本とスペインの生活比較」について。
 両国のGDP(国内総生産)と一人当たりGDPが以下。

 日 本GDP=4兆3700億ドル 一人当り=3万5千ドル(525万)
        (609兆2887億)
 西班牙GDP=1兆5800億ドル 一人当り=3万3千ドル(495万)

 国民総生産、日本は世界の4位、スペインは15位で日本の約3分の1です。
 ところが(見てわかるとおり)、一人当たりGDPに大きな差はない。

 一体「どーいうこと?」と思うけれど、かりに人口半減によって国民総生産が半分になっても、一人当たりGDPが今と変わらなければ、我々の生活も現在の生活水準を維持できる(と言えるかも)。

 何よりスペインはお昼休みを2、3時間取ってのんびり働いている。対して日本の都市市民は満員電車の通勤に往復2時間かけ、昼食休憩は辛うじて1時間弱。誰も「世界4位の金持ち国」などと思っていない。一人当たりGDP世界の37位というのが実感に合っています。

 ちなみに、世界1位の金持ち国(なのに「ビンボーだー、貿易不公平だー」と叫んでいる(^.^)アメリカのデータが以下。

 アメリカ(人口3億4千万、面積日本の26倍)
 GDP =26兆1900億ドル 一人当たり=7万8千ドル(1170万)

 が、アメリカのラーメン一杯3000円。
 トランプさん、物価を下げなさい。なぜ日本人がアメ車を買わないか。手が出ないほど高いからですよ。価格100万の軽をつくってくれたら、そりゃあ私だって(中古の)アメ車を買いますよ(^_^;)――と言いたいと思いませんか。

 そして、GDP世界2位の中国のデータが以下。
 中国(人口14億1900万、面積日本の26倍)
 GDP=19兆2400億ドル 一人当たり=1万3600ドル(204万)

 アメリカが貧富の差を解消できない資本主義国家なら、中国だってもはや共産主義とは呼べぬ貧富の格差大国。

 米中両国リーダーに言いたい。
 敵対して(いざというときのために)稼ぎを軍事費に使うのではなく、国民全体をもっと豊かにしなさいと。これって日本もそうですよね。

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2025.04.16

『空海マオの青春』論文編 後半 第27号

「『空海論』前半のまとめ(五)の2」

 本節は『聾瞽指帰』と『三教指帰』の「序」と結論でもある「十韻賦」の異同を検証します。
 幸いなことに(?)「本論」儒道仏三教解説部に「異」はありません(漢字が少々変更されているだけ)。あれば大変(^.^)。それだけで数百枚の研究論文になります。

 ところが、結論の「改稿」について書いた(だけなのに)本節はすげえ長いです(^_^;)。
 心してお読みください。
 さーっと読んだ方、後記(も長いけど)こちらは一読法でじっくり読んでくださいね。


 『空海論』前半のまとめ(五) 『三教指帰』成立過程論

 1 『聾瞽指帰』と『三教指帰』の比較 4月16日
 2 両著の「序」と結論部「十韻賦」の異同  4月23日
 3 『三教指帰』は全肯定の萌芽
 4 なぜ両著の「本論」は同じなのか
 5 『三教指帰』脚本化の試み
 6 室戸岬百万遍修行における明星との交感とは
 7 『三教指帰』の文学史的位置付け

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 本号の難読漢字
・『聾瞽指帰(ろうこしいき)』・『三教指帰(さんごうしいき)』・十韻賦(じゅういんふ)・校異(こうい)・蛭牙公子(しつがこうし)・兎角公(とかくこう)・範疇(はんちゅう)・脚韻(きゃくいん)・六波羅密(ろくはらみ)・真如(しんにょ)・医師(ここは〈くすし〉)・教義も利益(りやく)も・衆生(しゅじょう)

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***** 空海マオの青春論文編 後半 *****

 後半第27号 プレ「後半」(五) その2

 両著の「序」と結論部「十韻賦」の異同


 まずはいつもの伏線的余談から(^_^)。
 前号で「そもそも『三教指帰』を思想書であり、論文と見なしたことが誤りだと言わざるを得ません。戯画化が施された私小説ですよ、なんてことを言ったのは私が初めてでしょう」と書きました。
 今回それと矛盾するようなことを書くのは恐縮至極ながら、『三教指帰』が論文としての体裁を取っていることは間違いありません。

 みなさん方は公務員試験とか推薦入試などで「小論文」試験を受けたことがありますか。原稿用紙2枚くらいで、試験科目にあれば、当然何度か練習したことと思います。
 その場合参考書を読んでも、学校の先生も「小論文は序論・本論・結論の順で書きなさい」と教わります。
 まず設定されたテーマについて数行の序を書き、次にその内容について賛成・反対・中立の立場であれやこれや論ずる。これが本論。最後に自分の主張や要旨を数行にまとめれば、結論となって「序論、本論、結論」の小論文ができあがる。

 ところで、この序論・本論・結論の三部構成を持つ「論文」――これを「史上初めて書いた日本人は誰でしょう」とクイズにすることができます。

 私は日本の古典を網羅するほど知っているわけではありませんが、この答えは空海ではないかと思います。彼が23歳(797年)のとき執筆・公開した『三教指帰』こそ「序論、本論、結論」の三部構成を取っているからです。

 当然ながら、『三教指帰』の(完成的)草稿とも言える『聾瞽指帰』も、全く同じ構成を持っています。それが以下、
 『聾瞽指帰』構成
 ・序論――執筆理由を語る「序」
 ・本論――儒道仏の三教論
 ・結論――末尾の「十韻賦」

 そして、『三教指帰』でも以下。『聾瞽指帰』からの改稿ありなしを注記します。
 『三教指帰』構成
 ・序論――執筆理由を語る「序」……改稿あり
 ・本論――儒道仏の三教論   ……改稿なし
 ・結論――末尾の「十韻賦」    ……改稿あり

 日本の古典研究者にとって必須の岩波書店「日本古典文学大系」――その『三教指帰 性霊集』には『聾瞽指帰』と『三教指帰』の校異一覧が掲載されています。
 そこに「序」と「十韻賦」は二著の原文が掲載されています。しかし、本論の「三教論」は漢字の変更が記されているだけです。つまり、『聾瞽指帰』から『三教指帰』において追加訂正されたのは「序」と結論に当たる「十韻賦」だけということになります。

 これまで『聾瞽指帰』と『三教指帰』の異同について細かく検証した論文はいまだ見たことがありません。理由は単純で「ほとんど差がないから」に尽きると思います(^.^)。「序」と末尾の「十韻賦」に違いはある。しかし、本論とも言うべき「儒道仏三教論」においては漢字の変更こそあれ、内容は同じ。一文の構成さえ同じだから「異同を検討する価値さえない」ってところでしょう。

 もっとも、私は蛭牙公子について『聾瞽指帰』では「兎角公之外姪」とあるのに、『三教指帰』では「兎角公之外甥」となっている。「姪」から「甥」に変えられた(むしろ「甥」と書くべきところを、最初は「姪」とした)点に大きな意味を見出しました。やはり異同はしっかり検証すべきだと思います(「空海論前半」第12節参照)。

 そもそも、本稿は『三教指帰』の「序」に加えられた「異」について、いろいろ考えた末の論述でした。
 主たる違いは空海マオ自身の経歴が追加されたこと。すなわち『聾瞽指帰』の序は儒道仏三教を比較する序論、『聾瞽指帰』の執筆理由、自身仏教に進んだ経緯などが書かれているけれど、仏教理論から離れることはない。
 端的な例は出家の理由について書かれたところです。空海は「立身出世や世俗の栄達を競う世の中をうとましく思い、夢・幻でしかない人のはかなさから悟りの道を考え、出家しようと思った」と書きます。これが定型のような理由でしかないという点も検証しました。

 それが『三教指帰』の序になると、空海マオ自身の(志学・大学寮入学・叔父は阿刀家など)経歴が書き込まれ、二度の百万遍修行のことにも触れられる――といった改稿がなされます。

 そこで、巻末の「十韻賦」について。
 これも一読すると「違いはない」ように見受けられます。しかし、しっかり読み込んでみると違いが見える。しかも、私はかなり重大な違いであると認識しています。

 ちなみに、十韻賦とは五文字二十行の漢詩です。四行をひとかたまりとして五ヶ連なった漢詩と言えるでしょう。
 中高の漢文で五文字四行詩は「五言絶句」、七文字八行詩は「七言律詩」などと学んだはず。この範疇(はんちゅう)に入らない多数行の漢詩は「古詩」と呼ばれます。よって、五文字二十行の十韻賦は「五言古詩」ということになります。

 二十行なのになぜ「十韻」かと言うと、偶数行の末尾に置かれた十ヶの漢字(脚韻)が全て同じ音の響きを持っているからです。二著の十韻賦は二点を除くとほぼ同内容です。しかし、空海は脚韻の違う二つの五言古詩を創作しました。空海の半端ない天才ぶりがよくわかります(^_^)。

 ※『聾瞽指帰』の脚韻
 [風・終・通・籠・衆・功・空・夢・融・宮]……ウー

 ※『三教指帰』の脚韻
 [心・鍼・林・臨・深・禽・沈・音・岑・簪]……~ン

 同時に(本論の改稿が一切ないのに)「どうしても結論に付け加えたいものがある。このままでは良くない。変えよう」と思った。だからこそ完成形とも言える『聾瞽指帰』十韻賦の改稿に取り組んだことがわかります。それこそ彼が室戸岬百万遍修行体験によって《獲得したもの》と言えるのです。

 本来ならここで『聾瞽指帰』の十韻賦と『三教指帰』の十韻賦を全文掲載したいところですが、原典はそのまま表記できない漢字があります(末尾に書き下し文を掲載しました)。
 仕方ないので、口語訳を使って対比させ、そこから何が読みとれるかを書きたいと思います。
 私の結論は「全肯定の萌芽と出家の決意」が読みとれることです。口語訳は改行し、各連に番号を付けました。

 まず『聾瞽指帰』の十韻賦(口語訳、筑摩書房『弘法大師空海全集』より)

1心をつかって孔子の教えをさぐり
 思いをめぐらして老子の導きをもとめる
 それらはともにこの世の始めだけを守って
 あの世の終わりの守りを怠っている

2まさにこのときに現れたのが円満なさとりの尊者
 絶対の教えだからすべてに通じる
 その誓いは深く 海に溺れるものの橋になり
 その慈しみは厚く燃える鳥籠に水を注ぐようである

3そのあわれみは生き物皆にいきわたり
 その恵みはわが子のように人びとにもひとしく注がれる
 他人を救うことをもっぱらの仕事にし
 自分で精進することも合わせてつとめにする

4洪水のときには六度(六波羅蜜)の修行を船にし
 ひきあげるときには二つの空(我空、法空)を車にする
 よく清らかにする静かな悟りの世界に高く飛び
 濁ってきたない幻のような世界を泳ぐ

5二つの真理(真諦、俗諦)は異なったものではない
 ただ一つの心が閉じたり開いたりするだけである
 どうか乱れきったともがらに
 速(すみ)やかに真如の宮殿を拝ませてください

 注意してほしいのはこの十韻賦が『聾瞽指帰』序と本論全体のきれいなまとめになっていることです。本論では孔子の儒教・老子の道教のいい点が語られますが、仏教から見ると、二教は「現世のこと」しか見ていないと批判されます。それが結論に当たる十韻賦でも、1「ともにこの世の始めだけを守って あの世の終わりの守りを怠っている」とまとめられます。
 そして、そこに現れたのが「円満なさとりの尊者」シャカであり、仏教であると続きます。

 2以後は一貫して仏教の良さが語られます。それも本論の流れ通りです。そして、「どうか乱れきったともがらに 速やかに真如の宮殿を拝ませてください」と結ばれます。
 この言い方は「仏教はかくまで素晴らしいのだから、他の人たちもぜひ仏教に進んでほしい」との思いがこめられているでしょう。この裏には当然「私はすでに仏教に入り、仏教の良さを実感している」があるはずです。

 しかし、『聾瞽指帰』の序と本論を読む限り、空海マオ自身の《内心》――つまり、心底仏教を信奉しているかどうかはわかりづらい、そのような表現になっています。
 典型的な例は仏教編のエピソードとして描かれた、親戚から「忠孝の儒教に戻れ」と説教された場面です。普通そのように言われたら、「いえ、仏教こそ儒教以上に素晴らしい教えです」と反論するでしょう。もちろんマオも少々は反論した。しかし、尻切れトンボに終わり、「進むべきか退くべきか迷った」と書かれています。

 ところが、一度目の太龍山百万遍修行を終えてみると、『聾瞽指帰』を完成させた。心の底から仏教を信奉できると思ったからこそ、完成させることができたと言うべきでしょう。それでも自身のことは作品に書き込まなかった。
 そして、室戸岬二度目の百万遍修行を達成したとき、自身のことを書き込むべきだと気付き、「序」を書き直した。当然結論とも言うべき十韻賦も書き直さざるを得なかった。

 以下『三教指帰』の十韻賦です(口語訳、福永光司『空海 三教指帰』)。いくつか漢字を変え、句読点は省き、こちらも番号を付けました。

1日月の光は暗き夜の闇を破り
 儒・道・仏の三教は愚かなる心を導く
 衆生の習性と欲求はさまざまなれば
 偉大なる医師(くすし)・仏陀の治療法もさまざま

2三鋼五常の教えは孔子にもとづいて述べられ
 これを学べば高官の列に入る
 陰陽変化の哲学は老子が授け
 師に就き伝授すれば道観に地位を持つ

3仏陀の大乗ただ一つの真理は
 教義も利益(りやく)も最も深遠である
 自己と他者とをともに利益救済し
 獣や鳥をも決して見すてない

4春の花は枝の下に落ち
 秋の露は葉の前に沈み
 逝く水の流れは暫くもとどまりえず
 つむじ風の音たつること幾ばくのときもなし

5感覚知覚の世界は衆生を溺れさせる海
 常楽我浄の世界こそ身を寄せる究極の峰
 この世界の束縛の苦しみを知ったからには
 宮仕えなどやめて出家するこそ最上の道

 『聾瞽指帰』と比較すると、儒道仏三教、特に仏教の素晴らしさを語る点は同じです。
 ここでも注目してほしいのは最初と最後です。「日月の光は暗き夜の闇を破り 儒・道・仏の三教は愚かなる心を導く」とあります。『聾瞽指帰』十韻賦の冒頭は儒教道教への批判から始まっていました。「それらはともにこの世の始めだけを守って あの世の終わりの守りを怠っている」と。
 それが『三教指帰』十韻賦では「儒・道・仏の三教は愚かなる心を導く」と改稿されています。
 これを「大した違いではない」と言われますか。いえいえ、これは大きな違いです。

 そして、2も儒教・孔子の教えを学べば「高官の列に入る」、道教・老子の哲学を学べば「道観に地位を持つ」と立身出世ができたり、高位に達することができる。いわば二教の「良い点」を述べるだけで欠点は削除されました。

 もちろんそれ以上に仏陀の真理が「自己と他者とをともに利益(りやく)救済」してくれる。つまり、仏教こそ素晴らしいと語る点は変わりません。しかし、儒教・道教だって愚かな心を導いてくれる――すなわち、三教は良いものだと述べている。
 二度目の室戸岬百万遍修行を終えたとき、空海が付け加えたかったものはこれだとわかります。彼がどうしても変えたかったのは「三教は愚かな我らを導いてくれる」との文言です。私はここに《全肯定》の萌芽を見出しました。

 そして末尾。『聾瞽指帰』十韻賦の結論は人々に仏教を勧めることでした。対して『三教指帰』は「宮仕えなどやめて出家するこそ最上の道」とあります。
 この原文は「何不去纓簪」。書き下しは「何ぞ纓簪を去らざらんや」(纓簪のエイは糸へんに嬰)で、どうしてかんざしを棄てずにおられようか=頭を丸めて出家の道に進まざるを得ない――という出家の決意が書かれていると解釈できます。

 空海マオが結論とも言うべき「十韻賦」に施した改稿は二点。一つは儒教・道教の欠点を言い立てるのではなく、「三教が人を導く」という観点。もう一つは「出家の決意」です。

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★ 参考

 『聾瞽指帰』十韻賦書き下し文(筑摩書房『弘法大師空海全集』より)

 心を作(な)して孔教を漁(あさ)り 憶(おもい)を馳せて老風を狩る
 雙(なら)びに今生の始めを営み 並びに来葉の終りを怠る

 方(まさ)に現ず種覚の尊 円寂にして一切に通ず
 誓いは深くして溺海に梁たり 慈しみは厚くして焚籠(ふんろう)に灑ぐ

 悲しみは四生の類に普(あまね)く 恤(めぐみ)は一子の衆に均し
 他を誘いて専ら業と為し 己を励まして兼ねて功を作(な)す

 氾濫には六度を船とし □抜には両空を車とす (注1)
 能浄寥覚(りょうこう)に翔(かけ)り 悪濁塵夢に泳ぐ

 両諦は殊処に非(あら)ず 一心塞融を為す
 庶(こい)幾(ねがわ)くは擾擾(じょうじょう)の輩 速(すみ)やかに如如(にょにょ)の宮を仰がん

 注1……□抜の□内漢字は「者」の下に「飛」

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 『三教指帰』十韻賦書き下し文(福永光司『空海 三教指帰』より)

 居諸冥夜を破り 三教癡心(ちしん)を□(ふさ)ぐ (注2)
 性欲(しょうよく)多種あり 医王薬鍼(やくしん)を異にす

 綱常は孔に因って述ぶ 受け習って槐林(かいりん)に入る
 変転は□公(老子)の授くるところ 依り伝えて道観に臨む (注3)

 金仙(仏)の一乗の法 義益最も幽深なり
 自他兼ねて利済す 誰か獣と禽とを忘れん

 春の花は枝の下に落ち 秋の露は葉の前に沈む
 逝く水は住まること能わず 廻る風は幾たびか音を吐く

 六塵は能く溺るる海 四徳は帰する所の岑(みね)
 已(すで)に知んぬ三界の縛 何ぞ纓簪(えいさん)を去らざらん (注4)
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 注2……□(ふさ)ぐの□内漢字は寒の下の二点が消えて「衣」
 注3……□公 の□内漢字は耳へんに冉(「再」の上の「ー」なし)
 注4……纓簪は脚韻の関係から「えいしん」ではないかと思いますが、福永氏は「えいさん」と読んでいます。
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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:今回も前節の続き、「後記4」です(^.^)。
 そろそろ「御影よ。後記を長々連載するお前の狙いは何なんだ?」との疑問をつぶやかれたなら、その人にはさらに一読法段位昇進を認定します。

 後記1では「日本と同じくらいの面積で人口半分ほどのスペイン」を話題としたけれど、一人一人の暮らしがどうかは書かれていない。
 後記2でそのことを指摘し、「みなさんネット検索して答えを見つけますか」と書いたけれど、「めんどくせえなあ」とやらない人がほとんどでしょう。
 あるいは「やらない人はB群ですよ」なんてこと言われたら、意地でも「やるもんか」と拒否する人も一部(^.^)。

 それでも後記3の文末2行に至って「おや?」と思われた……かどうか。
----------------------------------
 さー自ら答えを探してネット検索するか、あるいは、B群であり続けるか。
 この《答え》は次号にて(^.^)。「後記3」
----------------------------------
 この《答え》とはスペインの暮らしぶりのこともあるけれど、それだけでないことも明らか。
 問うているのはA群に進むか、相変わらずのB群であり続けるか。

 これに気づけば、次節(=本節)配信前に「自分はどうするか」考えねばならない。
 が、問われていることに気づくことなく、何も考えないのがB群、C群(疑問をつぶやくこともなく、人の話やテレビ・本をぼーっと見ている・読んでいる)人。
 一方、「ちょっとA群を目指してみようかな」と思う人はB群からの脱皮、A群への道を歩き始めると言えます。

 こうしたことを読み取っていれば、
「一体この後記の狙いは何なんだ?」との疑問が出てもいいところです。

 これに対する答えが以下。

 読者各位が特殊詐欺に引っかかることを防ぎたい――これが真の狙いです。

 今や特殊詐欺の被害総額は一昨年452億、昨年721億(前年比1.6倍)。毎月数十億の金が詐欺師集団に渡っています。
 異常だと思いませんか。そして、最近は高齢者だけでなく、中年や若者も(投資詐欺や架空請求詐欺に)引っかかって大切な虎の子を失っています。

 対して加害者である悪人はすでに世界規模になっている。一つの村が詐欺拠点であり、そこに各国から「かけ子」を集めてこき使うミャンマーの例が教えてくれました。
 彼らは「電話詐欺は儲かる」とばかりに組織化してランダムに電話をかけ(させ)、メールを送り続けています。

 独断であり偏見かもしれないけれど、私は詐欺に引っかかる人はB群であり、C群の人だと思っています。
 詐欺にかからないために大切な点は「疑問をつぶやき、人(やテレビ)の話を自分のこととして考えること。そのためにはA群に進まねばなりません。

 たとえば、電話の相手が「警察の者だが…弁護士だが…」と言ったとき「あれっ?」と思う。突然自宅を訪ねてきた人が「何々の検査に来ました」と言う。
 最近は古典的な「おふくろ、大変だ。事故った・恋人を流産させた」は減っているようだけれど、相変わらず続いている。

 いずれにせよ、この取っ掛かりから「おやあ?」とか「ほんとかな」と疑問を抱くこと。
 そのための訓練が一読法であり、A群への道だと言いたいわけです。

 「後記4」[次回でこの後記を終わります(^_^;)]

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2025.04.10

『空海マオの青春』論文編 後半 第26号

「『空海論』前半のまとめ(四)の6」→(五)の1に改稿

 これまで空海二度の百万遍修行の詳細、太龍山と室戸双子洞窟との違いなどを考察しました。これにて「百万遍修行」はひと段落として今節は
----------------------------
 (四)の6 二度の百万遍修行を経て体得した《全肯定》の萌芽について
----------------------------
 ――短くまとめて「プレ後半」を終える予定でした。

 これは『空海論前半』では「『三教指帰』成立過程論」と題して第49節から55節まで7節に渡って書かれています。

 最近再読して「この中身を短くするのは至難の業(わざ)だ」と思い、「さて、どうしよう?」と思案投げ首の体(てい)でございます(古い?^.^)。

 実は『空海論前半』のヤマというか、私独自の(あまり既研究でお目にかからない)新説として3点構築したと自負しています。
 一つは「蛭牙公子=空海マオ論」(『三教指帰』放蕩の〈甥〉蛭牙公子とは空海マオの戯画化された姿である)。二つ目は「二度の百万遍修行」の詳細。

 この途中にも「空海マオが大学寮をやめた理由、仏教転進は叔父阿刀の大足に勧められたこと、新仏教創始を目指して入門したこと」など、今までにない新説を提起したと自信があります。

 そして、三つ目が『聾瞽指帰』と『三教指帰』の関係について論じたところ。
 二著の異同を検証して「『三教指帰』には空海が入唐帰国後到達した全肯定の萌芽がある」なんて結論を出したのは私だけかもしれません。いわば論文編前半のクライマックス(^_^)。

 ところが、ちと問題があってこれまでは余談雑談を多くして研究論文など読んだこともない読者を想定して執筆しました。
 しかし、この章だけは純然たる論文的記述。くだけた表現を心がけているとは言え難しいと思います。あるいは数行読んだだけで「面白くねえ」と感じるかもしれません。
 となると「忙しいし、そのうち読もう」とうっちゃられる可能性高し(「そのうちはないよ」と言っているのに)。

 かくして開き直りました(^_^;)。
 短くするのはあきらめ「そのまま掲載しよう」と。

 第53節(『三教指帰』脚本化の試み)は余談ゆえ割愛しようかと思いましたが、仏教の「本地垂迹(ほんじすいじゃく)」説が出てきます。これは後半にとっても大切な考え方なので、無視できない。よって、全7節全て週一で公開します。見出しも若干改めます。

 2ヶ月近い配信となりますが、これによって「後半執筆」の時間をつくれるので、私にとって一石二鳥の名案(^.^)。
 以前も書いたように、後半は膨大な資料や下書きはあるものの、いまだ全体構想、各章各節の詳細などできていません。この7節ももちろん最後のプレ後半。終了後直ちに『後半』本体を配信できるかもしれません(必ずと約束できないのは目の関係でパソコン活動がしんどくなっているため)。

 読者各位はこれまで私の長文エッセー・論文を読み、何より一読法を実践してきたと思います。ならば読書力は相当ついているはず。
 もちろん読むも読まぬも読者の自由。私にゃ確認するすべはない。
 この7節はほぼ再掲載ですから「一読法で読んでますか」のチェックは設けません。
 どうか気楽に「さーっと?」読んでください(^_^)。

 ところで、前節「後記」を読んで「おやあ?」とか「あれっ」とつぶやいたでしょうか。
 そして「何か妙だ。この『後記2』も一読法のわなが仕掛けられているんじゃないか」と思ったなら、一読法の段位昇進を認定します(^.^)。


 『空海論』前半のまとめ(五) 『三教指帰』成立過程論
 1 『聾瞽指帰』と『三教指帰』の比較   4月16日
 2 両著の「序」と結論部「十韻賦」の異同
 3 『三教指帰』は全肯定の萌芽
 4 なぜ両著の「本論」は同じなのか
 5 『三教指帰』脚本化の試み
 6 室戸岬百万遍修行における明星との交感とは
 7 『三教指帰』の文学史的位置付け

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 本号の難読漢字
・『聾瞽指帰』(ろうこしいき)・『三教指帰』(さんごうしいき)・蛭牙公子(しつがこうし)・滑稽(こっけい)・戯画化(ぎがか)・「六国史」(りっこくし)・『続日本紀』(しょくにほんぎ)・神祇(じんぎ)信仰・習合(しゅうごう)・筐底(きょうてい)・入唐(にっとう)・最澄(さいちょう)・形而上(けいじじょう、精神的思想的な面)・形而下(けいじか、肉体的現実的な面)・智泉(ちせん)・惻隠(そくいん)の情・凌駕(りょうが)する・忽(たちま)ち

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***** 空海マオの青春論文編 後半 *****

 後半第26号 プレ「後半」(五) その1

 『聾瞽指帰』と『三教指帰』の比較


 今号より新章「『聾瞽指帰』と『三教指帰』」に入ります。空海マオの青春期を二十三歳の著書『三教指帰』を境として前後半に分けるなら、前半ラストに位置づけられるテーマです。

 もっとも、これまで語ってきたことは主として『三教指帰』の読解によって得られたもの。空海入唐までを研究したければ、誰でもまず『三教指帰』を熟読する。同時に既研究の山々に挑み、私のように当時の歴史背景を知ろうと「六国史」も読む。さらに『三教指帰』の草稿と見なされている『聾瞽指帰』も研究する。そうした流れをたどるでしょう。おっと、もう一つ四国の太龍山や室戸岬に行ってみる――もあるかと思います(^_^)。

 国文研究の基本は初読の中で生まれる異和感というか疑問を解くべく考察を重ねることでしょう。既研究に答えがあれば、それは正しいかどうか検証する。違うのではないかと思えば、さらに考察して自分の答えを探し出す。

 私が『三教指帰』を初めて読んだときは「なぜ蛭牙公子を母方の甥としたのだろう」が素朴な疑問であり、「儒教・道教論者をなぜ滑稽な人物に造型したのか?」が次の疑問でした。
 これまで空海を研究した方々はどうもこのような疑問を抱かなかったようです。
 [これぞ一読法の真骨頂(^_^)]

 関連して「蛭牙公子のモデル不明」というのも、最初は「そうか」と思うだけでした。しかし、登場人物の戯画化に気づいたとき、「蛭牙公子も大げさに描かれているのではないか」と思い、それを取り除けば「モデルは三教を遍歴する空海マオ自身じゃないか」との結論に達しました。

 また、「六国史」のうち空海前後の時代がわかる『続日本紀』や『日本後記』を読んだときは、次のような状況がわかりました。
 空海が仏教こそ最高最上とする『三教指帰』を公開したころ、朝廷は人々に盛んに仏教を勧めていた。当時の日本は古来からの神道(神祇信仰)国家であり、仁義忠孝の儒教国家であり、仏教国家でもあった。
 これを一言で言うと《習合》していた。しかし、神道も儒教も力を失いつつあり、最も頼りとしたい仏教は腐敗と堕落が始まり、長岡京遷都の頃、桓武朝廷は南都仏教を排斥して「新しい仏教」を求めていた。

 そのような中、空海マオは新しい仏教創始の思いを抱いて南都仏教に飛び込んだ。
 であるなら、著書は新仏教を提示したかったはず。もちろんそんなものがたやすく発見できるわけはなく、簡単に生み出せるはずもない。だからこそ、完成した『聾瞽指帰』は筐底深く仕舞われた。儒道仏三教を比較対照したのは新しい試みだったにせよ、仏教編は新奇さのない仏教解説書だとわかっていたから。

 ところが、二度の百万遍修行を経ると、単なる仏教解説書を(本論はほぼそのままなのに)『三教指帰』と改題して公開した。マオはなぜ公開できたのか。これが大きな疑問であり、本章で論じるテーマとなります。

 さらに、多くの研究書が空海の十代後半から入唐までを《資料不足》としてさじを投げているのも引っかかりました。若き空海については少しの言及しかなく、どれも似たり寄ったり。説明できないからか、入唐帰国後の最澄とのあつれきや権力との交わりにおける空海像を、そのまま若き空海にあてはめる――これなども既研究に対する不満でした。

 特に司馬遼太郎の名著『空海の風景』には相当異和感を覚えました。絶対的天才として、形而上的苦悩はあっただろうが、形而下の悩みは何一つなかったかのような解説に「はてそうだろうか?」といぶかしく思ったものです。

 たとえば、「空海はこの中間階級出身者にふさわしい山っ気と覇気を生涯持続した」とか、大学入学頃のマオは「清らかな貴公子という印象からおよそ遠く、それどころか全体に脂っ気がねばっこく、異常な精気を感じさせる若者」であると描いています。強く自信に満ちあふれた空海。これは帰国後の空海像でしょう。

 『三教指帰』をちょっと丹念に読めば、マオが親戚から「お前は大学寮をやめたと思ったら、乞食坊主のような格好でうろついて何をやっているんだ。忠孝の儒教に戻れ」と説教され、「進むか退くか悩んだ」と告白する表現があるというのに。
 そもそも『三教指帰』を思想書であり、論文と見なしたことが誤りと言わざるを得ません。「戯画化が施された私小説ですよ」なんてことを言ったのは私が初めてでしょう(^_^)。

 ただ帰国後の空海について司馬氏のような見方をすることは必ずしも間違いだと思いません。帰国後真言宗を創始した空海は対立宗派――特に最澄天台宗と論争し、天皇朝廷と結びつき、自信満々の口調で「密教こそ最高である」との主張を繰り返し、祈祷に明け暮れています。

 その裏には舶来の新仏教を強調するあまり、実は密教が『大般若経』の再評価であることを隠したように思われます。
 この件はいずれ語りますが、組織を守り、権力と結びついた宗教家は司馬氏のように思われて仕方ない面を持つと思います。

 ちなみに、帰国後の空海が唯一弱音を吐いたのが甥であり一番弟子であった智泉(ちせん)が亡くなったときです。空海はただひたすら「かなしいかな」を繰り返しています。これも全肯定であること、いずれ触れる予定です。

 もう一つ繰り返しになりますが、司馬遼太郎氏が『空海の風景』の中で、「儒道仏の三教である必要はなかった。儒仏二教で充分だった」と述べたことについて新しい見方を示しておきます。私には同氏がなぜそのような結論を出したのか、どうにも理解しがたいところです。

 空海マオにとって道教は必須だった。なぜなら、仏教では儒教を否定できないからです。それだけでなく『三教指帰』は三教にすることによって論文としての完成度を高めました。

 空海マオが仏教入門後すぐに書き上げたのは儒教・仏教対比の『草稿』だったでしょう。
 しかし、「これだけでは足りない」と気づいた。慈悲の仏教では惻隠の情の儒教を否定できない。いや、死後の世界を取り上げることで、現世の幸福追求でしかない儒教を否定できる。それはわかっていたでしょう。しかし、それでは足りないと感じた。もっと強い言葉で儒教を否定(批判)したかった。

 そこに現れたのが山岳修行中の道教信奉者です。神仙思想に基づき仙人を目指す彼らはいともたやすく儒教を否定した。「儒教なんぞ小石だ、クソだ」と。マオは「これだ!」と思ったでしょう。
 その後道教を研究して儒教否定となる道教を取り入れ、三教とした。道教から儒教を眺め否定し、さらに仏教から二教を見て仏教こそ二教を凌駕する最高最上の教えであると論じた。

 これによって「儒教→道教→仏教」の流れは《肯定→否定→高次の肯定》という弁証法的論述の典型的な進行となりました。論文としてもより優れた作品になったと言える。まっこと空海にとって道教は必須であり、三教とする必要があったのです(^_^)。

 さて、『聾瞽指帰』と『三教指帰』を論ずるにあたり、まず書誌的というか仏教入門後『三教指帰』完成までの道のりをたどっておきたいと思います。
 以前取り上げた空海十九歳後明けの明星の期間を記した表に執筆過程を重ねると、以下のようになります。

 年齢 明けの明星の 期間 可 執 筆 過 程
 19歳 01月01日~04月03日 × 儒仏二教対比の『草稿』執筆
 20歳 03月14日~11月30日 ○ 二山登拝後、道教を取り入れて改稿 
 21歳 10月21日~12月31日 × 三教対比の『聾瞽指帰』執筆 
 22歳 01月01日~07月07日 △ 太龍山百万遍修行(3~6月末か)
 23歳 05月31日~12月31日 ○ 室戸岬百万遍修行(7~10月末か)

 帰京後 11月『聾瞽指帰』改稿……12月『三教指帰』完成

 『三教指帰』の序には百万遍修行のことが書かれており、『聾瞽指帰』にはそれがない。よって『聾瞽指帰』が前で『三教指帰』が後。また、両著には「金峰山・石鎚山の山岳修行体験」が書かれている。マオはこの修験道修行によって神仙思想・道教を知ったと思われるので、『聾瞽指帰』の完成は二山登拝後(仏教編には二山登拝が失望に終わったことも書かれている)。
 そうなると山岳修行前に「儒教・仏教」二教対比の『草稿』を書いていたと思われ、二山登拝後道教を追加して三教対比の『聾瞽指帰』を書き上げた――という流れです。

 まとめると、
 ○ 儒仏二教対比の『草稿』執筆
   ↓(金峰山・石鎚山修験道修行)
 ○ 道教を取り入れた『聾瞽指帰』執筆
   ↓(二度の百万遍修行)
 ○ 『三教指帰』完成        ――となります。

 ここで問題としたいのは日本に一つしかない『聾瞽指帰』原典とも言うべき「巻物二巻はいつ浄書されたか」という疑問です。
 拙著『空海マオの青春』では、太龍山の百万遍修行開始前に『聾瞽指帰』は完成しており(しかし、公表されることなく筐底に仕舞われ)、二度の百万遍修行後『三教指帰』に改題、完成したとしました。しかし、両著をよく読めば『聾瞽指帰』の完成・浄書は一度目の百万遍修行実践後であったことがわかります。

 というのは、『聾瞽指帰』仏教編において「仮名乞児」が語る言葉の中に次のような記述があるからです。

 「私は日本国讃岐、多度の郡、屏風ヶ浦に住み(生まれ?)、はや二十四年の歳月を過ごした」と。
 この部分、原文は「忽経三八春秋也」――書き下し「忽(たちま)ち三八(さんぱち)の春秋を経るなり」と読めます。

 『三教指帰』序には「志学」(十五歳)のとき、帝都長岡に上京して叔父の元に寄宿し、「二九」(にく、十八歳)の年に大学寮に入学したとあります。仏教編の「三八春秋」とは「二九」に続く年齢表記です。

 三×八=二十四――つまり二十四歳。これは数えだから満年齢なら二十三歳。
 この「三八春秋」は『聾瞽指帰』も同一表現なので、『聾瞽指帰』仏教編が書かれたのは二十三歳ということになります。
 ということは執筆過程の表によると、太龍山百万遍修行を終えた二十二歳の後半から翌年五月くらいまでに『聾瞽指帰』を推敲完成させ、巻物二巻として浄書したと解するのが自然です。そして、二度目の百万遍修行を実行すべく室戸岬に出発したと。

 よって、厳密に両著執筆過程をまとめると、

 ○ 儒仏二教対比の『草稿』執筆
    ↓(金峰山・石鎚山修験道修行)
 ○ 道教を取り入れた『聾瞽指帰』草稿執筆
    ↓(一度目の太龍山百万遍修行実践)
 ○ 『聾瞽指帰』推敲完成・浄書
    ↓(二度目の室戸岬百万遍修行実践)
 ○ 同年末『三教指帰』に改題・完成      ――となります。

 以上、本章とっかかりはこの程度にして今後の流れを箇条書きしておきます。
 『聾瞽指帰』と『三教指帰』の重なる点・違う点、いわゆる異同を検証しつつ、次の四項について語っていきます。
 1 全肯定の萌芽  2 理屈と感情
 3 三教弁別    4 三教融合

 結論を前もって書いておくと、この二著には(やがて密教で獲得することになる)全肯定の萌芽が見られること。また、仏教解説書でしかなかった『聾瞽指帰』を公開できると思えるようになったのは理屈でとらえていた仏教を感情が許し認めたから。その契機こそ二度の百万遍修行であったこと。

 そして、『三教指帰』とは「三教を比較して仏教の優位を述べた」などと安易にまとめられるような著書ではなく、習合していた日本宗教を儒道仏の三教に弁別した――そこに意味があったのであり、同書には三教融合の観点さえかいま見える。

 私は『三教指帰』の文学史的意義とは「日本の習合宗教を三教に分け、さらに儒道仏の融合を目指した」ことにあると考えています。この解釈なら、単なる三教・仏教解説書ではなく、全く新しい論文であると評価できるでしょう。

 もっとも、当時の人々が『三教指帰』をこのように解釈してくれたかどうか。
 失礼な言い方ながら、現代の研究者でさえ「『三教指帰』は三教を比較して仏教の優位を述べた」と規定しているくらいだから、当時の朝廷人・学者各位は気づいてくれなかったのではないかと思います(^.^)。

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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:前節の後記について。最後に「後記2」とあるのを見たとき、「おやあ?」と目が止まったでしょうか。そして「はて、前の後記に[1]ってあったかな?」とつぶやいたり、「確か[1]ってなかったよな」と思う。1がなくても2と来れば、次は[3]。
 つまり、次回もこの件について語られそうだ――と推理できる。「これはわなかも」と思えば、もう一度「後記2」を読み返す。

 そして、A群(疑問やつぶやきを解決しようと行動する)とB群(何も行動しない)に分かれるなど、一読法の大切さが書かれているが、当初の疑問「日本の人口が半分になったら、生活はどうなるんだろう。スペイン一人一人の暮らしはどうなんだ?」に対して答えが書かれていないことに気づく(私から言うと「気づいてほしい」)。

 そーです。これが前節「後記2」の仕掛けであり、わなです。
 新たな疑問を書いているのに、答えがないわけです。どうしますか?

「どうでもいいや」と作者の答えを待つ(これぞB群)か。
「それなら自分でネット検索して答えを探してみよう」とネット検索する(これがA群)か。
 まー私と違ってみなさん多忙でしょうから、全員B群かもしれません(^.^)。

 もしも「どうネット検索すればいいのかわからない」方のために、(やさしい作者だから)ヒントも書いてあります。「スペイン一人一人の暮らし」のところです。
 国全体の生活程度として「国民総生産(GDP)」の言葉は有名。もう一つ「一人当たりGDP」もあります。それで一人一人の生活程度を比較できます。
 さー自ら答えを探してネット検索するか、あるいは、B群であり続けるか。
 この《答え》は次号にて(^.^)。「後記3」

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2025.04.03

『空海マオの青春』論文編 後半 第25号

 空海マオは二度の百万遍修行によって何を感得したか。
 私は「自力と他力」を学んだのではないかと思いました。

 その前に『四国明星の旅』や『空海論文編前半』に書かれていたことで、プレ後半でカットしたことにちょいと触れておきます(もちろん本論の伏線です)。

 太龍山南の舎心岳と室戸双子洞窟での百万遍修行追体験では、どちらもとてつもない恐怖を覚え、さまざまな妄想にとらわれた。しかし、何でもいい呪文や言葉をとなえて頭の中を一杯にすれば、恐怖・妄想は消え失せた――と書きました。

 ただ、太龍山で果たせなかった行動があります。それは「でっかい声で求聞持法真言をとなえる」ことです。「谷不借響、明星来影」のように「山々から帰って来るこだま」を体験したかったから。
 しかし、太龍寺にはお坊さんが寝ているし、もしも麓まで声が届いたら「なんだ、なんだ!?」と大迷惑なこと間違いなし。下手したら警察に通報されるかもしれない(^_^;)。
 それを思えば、ちょっと大きな声を出してみるのが精一杯でした。

 もっとも、この不如意は空海の感慨を探求するにあたって大いに役立ちました。
 人はだいたい失敗や不甲斐ない出来事に遭遇すると落胆して落ち込みやすい。でも、ちょっと見方を変えれば、意外に良いこともある――と言いたい例になりました。

 余談ながら私は子ども時代とても臆病な子で、怖いことが大嫌いでした。
 そのころ父方の伯父の家は昔の百姓家で茅葺きの家は古く、便所は(当然奈落式)母屋から離れたところにありました。いとこが二人いて行くのは楽しみでしたが、トイレだけはいやだった。薄暗くて夜中目が覚めても絶対一人で行けない。幼児のころは親が一緒に行ってくれたけれど、小学校高学年になると訪問が激減しました(^_^;)。
 なぜって? 以下狂短歌をお読みください。

 〇 一人行け? 行くに行けない 親戚の旧家の離れ 深夜のトイレ


 『空海論』前半のまとめ(四) その3
 1 仏教広布の悩み  2月26日
 1補「一読法の復習と仏説補足」  3月05日
 2 百万遍修行と年月確定 3月12日
 2補「百万遍修行画像特集」  3月19日
 3 太龍山百万遍修行追体験――恐怖と呪文称名 3月26日
 4 室戸岬双子洞窟追体験――魔物との戦い 4月02日
 5 太龍山と双子洞窟で学んだ自力と他力 4月09日――本節
 6 二度の百万遍修行を経て体得した《全肯定》の萌芽について

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 本号の難読漢字
・求聞持(ぐもんじ)法・太龍山(たいりゅうざん)・覿面(てきめん)・勤念(ごんねん)・千日回峰(かいほう)行・自力は難行(なんぎょう)、他力は易行(いぎょう)・虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)・魑魅魍魎(ちみもうりょう)
 以下は読めなければ、出てきたとき検索を
 高を括る・菩提寺・信仰心篤い・拙い体験・魔物たちが蠢いている

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***** 空海マオの青春論文編 後半 *****

 後半第25号 プレ「後半」(四) その5

 「太龍山と双子洞窟で学んだ自力と他力」

 深夜の山中を歩く、真っ暗闇の洞窟の中に立つ。ともに人生50年の初体験でした。
 どちらも昼間訪ねただけに高を括っていました。「軽くできるだろう」と(^.^)。
 それが子どもの頃親戚の家で深夜外の便所に行ったとき、あるいは、夏の夜実家上の小学校の運動場を行き来するだけの肝試しのような――いや、それ以上の怖さを感じました。

 空海の百万遍修行を追体験するという目的がなければ、途中で切り上げたに違いありません。
 そして、般若心経真言の「ギャーテー、ギャーテー」や求聞持法真言「ノウボウ、アキャシャー」をとなえ、頭から妄想を追い払うことで、ようやく恐怖が薄れ、そこにいることができた。

 このときわかったことがあります。それは心から本当に集中してとなえなければいけないということです。うわの空でとなえたり、何か他のことを考え出すともうダメ。また、まがまがしい妄想が心に浮かんで鳥肌が立つ。私は必死の思いでとなえました(^_^;)。

 なるほどこれが念仏をとなえる効果・効能かと思いました。
 私の母が亡くなった後の法事で、菩提寺の住職はよく「南無阿弥陀仏の念仏をとなえましょう」と言っていました。
 その頃の私はそれを聞いたからといってとなえるはずもなく、意味のないことと思っていました。そもそもお坊さんはどんな効能があるか説明してくれませんでしたし(^_^;)。
 しかし、百万遍修行追体験によって「確かに効果があるんだ」と感じたことです。

 と同時に妄想を打ち消すだけなら、となえる言葉はなんでもいい。
 ここらが信仰心のない無宗派人間たるゆえんでしょう(^_^;)。
 私はいろいろ言葉をとなえてみました。落語「寿限無」の「じゅげむ、じゅげむ、ごこうのすりきれ……」も全部覚えているのでとなえました。効果覿面でした。

 空海の場合は私なんぞと違って真面目で信仰心篤い人だったでしょう。彼も求聞持法をとなえることで恐怖を克服できたなら、「これが真言の力か、仏教の効力かっ!」と大感激したことと思います。

 私は深夜の百万遍修行追体験によって舎心岳と双子洞窟のそれは何かしら違うと感じました。であれば空海マオもまた双子洞窟の百万遍は南の舎心岳と違うと感じたはず。
 どう違ったのか。四国から帰宅後思いをめぐらせました。

 ここでも空海が残した言葉からそれを推理しようとすると、ヒントは『三教指帰』のわずか二行しかありません。

 ・阿波の国太龍岳によじのぼり、土佐の国室戸岬にて勤念した。
 ・「谷不借響、明星来影」……谷響きを惜しまず、明星来影す。

 まずこの二行を分析してみました。普通に読むと、これは太龍山と室戸岬の百万遍修行について、ただ全体的な感想を書いた――かに見えます。
 しかし、これが漢文で有名な対句表現であることは一目瞭然。対応させると以下のようになります。
 ・阿波の国太龍岳――谷響きを惜しまず
 ・土佐の国室戸岬――明星来影す

 マオが求聞持法をとなえたとき、明けの明星を見ることは両方に共通しています。
 よって「明星来影」は太龍山でもあったはず。そこで、この部分を我ら凡人が書くと以下のようになりそうです。

 ・阿波の国太龍岳に登って求聞持法をとなえたときはこだまが谷に響き渡り、明けの明星が光り輝いて感動的だった。また、土佐の国室戸岬の洞窟で勤念したときも明星が強く輝いて私に迫った……とでも。

 うーん、平々凡々(^.^)。対句のかけらもなく文学的表現でもない。むしろ同じ言葉を繰り返して下手の極みではないか。
 よって、空海の感慨は対句的文学的表現のため、太龍山南の舎心岳のまとめでは、語句が重なる「明星来影」をカットした――そのように思えます。

 しかし(また私の拙い体験から推しはかると)、太龍山は空海にとって初めての百万遍修行であり、初めての求聞持法。
 深夜暗闇の中で真言をとなえ始め、やがて東の空に輝き始めるダイヤモンドのような明けの明星を見た……なら、その感動をカットするでしょうか。

 たとえば、後半を反対にしてみるとどうなるか。
 ・阿波の国太龍岳――明星来影す
 ・土佐の国室戸岬――谷響きを惜しまず

 これは事実としてあり得ない対句です。なぜなら室戸岬双子洞窟は海岸すぐそばにあって周辺に山々はない。よって、称名に応えるこだまはない(洞窟内の反響はあったでしょうが)。
 空海が書き留めた「谷響きを惜しまず」というこだまは南の舎心岳のみであり、室戸岬の事実ではありません。

 ということは空海は太龍山では明星来影をカットして「谷響きを惜しまず」――山々から返ってくるこだまを取り上げたことになります。つまり、太龍山では明星来影より「こだまの方がより強く心に残った」と見るべきです。

 わずか二行の感想ながら、南の舎心岳で印象的だったのは明けの明星であるより、むしろ「称名に応える連山のこだま」だった。そして、室戸岬双子洞窟の百万遍修行では称名以上に「光り輝く明けの明星」が心に残ったと解釈できます。

 後に「空海は室戸岬において明星が口に飛び込む神秘を得た」と言われます。
 これも太龍山の話ではありません。やはり極め付きの神秘――明星との交感は室戸双子洞窟において生起したのです。

 要するに、空海マオが南の舎心岳で感激したのは称名のこだまであり、室戸双子洞窟では「明星来影」であると。彼はそれを素直に対句として表現したと読み解くべきでしょう。

 これって私の追体験と正反対です。私は太龍山でダイヤモンドのように輝く明けの明星に大感激した。しかし、大声で真言をとなえなかったので、こだまは聞くことができなかった。一方、室戸岬では明けの明星に前夜の輝きがなかったため、明けの明星を見ても、さほど感激することはなかった……(^_^;)。

 以前も書いたように、太龍山での百万遍修行は1月から6月末であり、半分は建物内(求聞持堂)で行われたこと、なおかつ集団であった可能性が高い。梅雨の時期は曇天、降雨もあって明星を見ながらの称名ではない。
 曇天の野外で求聞持法をとなえたとき、明星が見えなければ感じることは何か。山々から帰って来るこだまでしょう。

 集団であれば、一人一人の声は低く小さなつぶやきでも、重なりこだまとして返って来る。まるで全山が求聞持法をとなえているような錯覚に陥ったかもしれません。
 私はCDで百人以上の若いお坊さんが一斉に般若心経をとなえるのを聞いたことがあります。まるで音楽のようでとてもきれいでした。

 一方、翌年の室戸岬双子洞窟での百万遍修行は6月から12月末まで7ヶ月(210日)たっぷりある(梅雨明けから始めても半年)。
 私は雨天曇天のときはとなえなかったのではないかと推理しています。快晴なら、深夜の洞窟から毎回ダイヤモンドのように光り輝く明星を見ながらの実践となったでしょう。
 想像してみてください。求聞持法をとなえなくとも、百日間洞窟から明けの明星を眺める。それだけでも「何らかの交感」を得られるような気がしませんか。

 要するに、二度の百万遍修行による違い。最も印象的だったことは太龍山の場合は称名とこだまであり、双子洞窟の方は明星との交感であったとまとめられます。

 この違いは何を生み出すか。私はマオは太龍山では「自力」を、双子洞窟では「他力」を学んだのではないかと考えました。

 自力・他力は仏教で大きな意味を持つ言葉です。それだけで本が一冊書けるほど深い言葉ながら、ここではごく簡単に意味を書いておきます。

 自力……厳しい修行を積み、自分の努力によって悟りに達しようとすること。
 他力……人間の力だけで悟りに達することはできず、仏の慈悲にすがり念仏をとなえることで救われようとすること。

 前者は座禅、滝行、山行登拝、極めつけは比叡山延暦寺の千日回峰行でしょう。常人にはかなり難しい修行です。
 一方、後者は浄土宗や浄土真宗など「念仏をとなえさえすれば誰でも極楽浄土に往生できる」と説きます。それなら軟弱者の私でもできる(^_^;)。

 よって、自力は難行、他力は易行(いぎょう)と言われます。求聞持法を一日一万回、野外で百日間となえる百万遍修行は難行に入るでしょう。
 ならば二度の百万遍修行を貫徹した空海は自力のすごさを学んだ、そう思われます。

 確かに太龍山では自力を学んだだろう。しかし、室戸岬では他力も学んだのではないか。根拠は「明星来影」の言葉です。

 たとえば、私なら「二度も百万遍修行をやって貫徹した。何かしら悟るものがあった」とでも書きます。漢文なら、
「我貫徹百万遍、有悟達之思(我百万遍ヲ貫徹ス。悟達ノ思ヒ有リ)」
 ――とでもなりましょうか(^_^;)。
 ところが、空海マオはそう書かなかった。あくまで室戸岬では「明星来影ス」と書いた。そこで、以下私の推理です。

 太龍山での百万遍修行。
 求聞持堂の中でとなえる百万遍の称名。あるいは、曇天で明星が見えなくても、夜明けまで野外で真言をとなえる。こうなると明星は関係ない。ひたすら真言をとなえる――それが大目的となる(でしょう)。

 百万遍修行は通常一日一万回の称名ですが、二万回となえて五十日で一気に貫徹することもあるそうです。そうなると明星はますます無関係になり、真言をとなえて百万回に到達することが最大最終の目標となります。

 その際頼るのは何でしょう。私は自力だと思います。頼ると言うより、自力でやるしかありません。食事は誰かが援助してくれるかもしれないけれど、修行は自力一本。
 くじけたら山を下りる。こんなもの何の役に立つと疑っても山を下りる。日々の修行は自分との闘いであり、貫徹すれば自分の力。根性というか、暗闇の恐怖を克服する勇気。あるいは、単純な繰り返しを耐え忍ぶ忍耐力(^_^;)。なんにせよ自力で百万回に達する。
 この修行は自力以外の何ものでもないと思います。

 ならば、マオは室戸双子洞窟で何を学んだか、何を感得したか。それが「他力」ではないか。
 自分一人の力で成し遂げる、貫徹できると思ったとき「そんなことはないぞ」と天が言う、自然がつぶやく。

 真っ暗闇の洞窟の中で感じる恐怖。それはこの穴が黄泉の国とつながっているのではないかという身の毛もよだつ空想。昼間なら「そんなアホな」とたやすく否定できる。しかし、深夜の洞窟ではなかなか否定できない。洞窟の奥に背を向けて座れば、背後に魑魅魍魎や魔物が蠢いていると感じる。「この穴は冥界につながっている」と思って底なしの恐怖にとらわれる。

 そのとき「ギャーテー、ギャーテー……」の般若心経真言、「ノウボウ、アキャシャー……」の求聞持法真言は果たして役立っただろうか。

 確かに称名によって恐怖を克服できる。私の追体験においても実感できました。
 だが、太龍山と室戸双子洞窟の真言称名は決して同じではない。何より太龍山は山の中、空も連山も見える開かれた空間。そして(おそらく)集団修行であった。対して室戸双子洞窟の称名は一人。洞窟は息苦しいほどの閉ざされた空間。この違いは大きいと思います。

 私は洞窟内の真言称名はさほど効果がなかったのではないかと思います。
 というのは真言をとなえているのは自分だけ。近くに励まし合える同輩はいない。「ちょっと休憩」ととなえることをやめれば、静寂と暗闇の中自分一人しかここにいないという……不安、心細さを感じる。そこに背後の魔物や魑魅魍魎が忍び込む。ひとりぼっちの現実、孤立無援を思い知らされる。

 当然必死の思いで真言称名を再開する。だが、この称名は(洞窟の反響もあって)自分がとなえる声に聞こえなかったかもしれません。「魔物がとなえているんじゃないか」と思うだけで、もっと強い恐怖にとらわれ、身体の震えが止まらない……。
 休むことはできない。かと言ってとなえ続けることも難しい。あるいは、「もうやめたい」と挫折の可能性さえあります。

 こういう状態を「にっちもさっちもいかない」と言います。
 自分一人の力ではいかんともしがたい。どうするか。誰か、助けてほしい!

 そう叫んだとき、洞窟の入り口である窓に、明星がこうこうと輝き始める……。
 あそこに虚空蔵菩薩がいる。「明星が自分を守ってくれる」と思ったとき――心からそう感じたとき、マオは魔物や魑魅魍魎を追い払えた。洞窟の奥の冥界に連れ去られる恐怖を克服し、自分はひとりぼっちではないと感じたのではないか。
 これは自力でしょうか。いや、自力ではない。明けの明星を頼りにした他力だと思います。

 マオは太龍山では自力で真言百万回に到達した。ここで「惜しまず」の言葉にも注意したいところです。惜しむことなく、いつも必ずということ。
 つまり、曇って明星が見られない日でも、(外であれば)山々はその都度こだまで応えてくれた。それは自分を励ます声であり、達成したときには称賛の声と感じたのではないか。よって、まとめると「谷響きを惜しまず」となった。

 一方、室戸岬の百万遍は真言称名よりむしろ明星との交感を重視した。前年不充分だったのはそれだから。常に明星を見ながらとなえた。そして、明星のおかげで恐怖を克服し、明星を見ながら百万回に到達した。「明星来影」とは虚空蔵菩薩との交流・交感を意味し、自力以上に《他力》も必要であることを学んだ――それを表現しているように思います。

 この思いが『三教指帰』の二行、
 ・阿波の国太龍岳→谷響きを惜しまず。
 ・土佐の国室戸岬→明星来影す。
 ――という事実と実感を表す対句表現になったのではないでしょうか。

 室戸双子洞窟において百万遍修行を貫徹したとき、マオは明星が口の中に飛び込んでくるような(幻覚かもしれないけれど)この上ない感動を覚えた。
 そのとき空海マオは「もう間違いない。これが仏教なら私は仏教を心から信じ、突き進むことができる。きっと新しい仏教を生み出してみせる」と感じ、決意したのではないかと思います。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:前節の後記について。「日本の適正人口とか半減したときのこと、スペインが近いかも」なんて話題を読んだとき、「一読法のわなが仕掛けられているかも」と気づいた人、果たして何人いらしたことか(^.^)。やっぱり「ぼーっと読んでいる」のでは?

 後記は「『古事記』イザナミ・イザナギの話→日本の古代から現代までの人口増→今後人口半減が予想される」と続き、「しかし、適正な人口は今の半分くらいかもしれない」との問題提起につながっています。「半減だ~大変だ~」と騒ぐことへのアンチメッセージです。
 これってあまり見かけない(コメンテーターが言わない)特異な意見だと思います。
「なるほど」とか「そうかなあ?」とか「それも一理ある」とつぶやいていいところ。

 ここで一読法読者なら、「人口が半分になったら、生活はどうなるんだろう。スペイン一人一人の暮らしはどうなんだ?」との疑問を抱きます。
 するとA群は「自分で答えを探してネット検索」を開始します。
 が、B群は疑問をつぶやいたとしても、何もせずそれで終わり(^.^)。

 自分が読んだ文章や人の話を聞いて疑問・感想をつぶやく――これが一読法の始まり。
 次にその疑問を自ら解こうと思い、行動を開始する(たとえば人に聞いたり、ネット検索して答えを得る)。これが真の一読法の実践。これぞ自力修行(^_^)。

 実は小中の子どもたちは現在多くの教科でこのような活動をしています。「課題(問題)解決学習」と言います。
 しかし、国語だけは相変わらず「最初はぼーっと読んでいいよ。二度目にいろいろ考えなさい」という読み方(=人の話の聞き方)を教えている。
 かくしてたくさんのB群の大人が育つ。なぜなら、もう一度読まないし、人は同じことを二度喋ってくれない。そもそも疑問のつぶやきさえ出てこない。
 ああ……てか(^_^;)? (「後記」2)

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