『空海マオの青春』論文編後半 第36号 プレ「後半」(六) 否定観の仏教、その奥深さ 3
[近3号は34→35→36号の順にお読みください]
またまた(くどいほどの)一読法復習(^_^;)。
前節を読み終えて「否定観の仏教って詳しく書かれていたかなあ」とつぶやきましたか。
あるいは、「《先に》仏教の奥深さを書いたんだ……なぜ?」と。
表題は「否定観の仏教、その奥深さ」とあります。対して前節末尾は以下の通り。
-------------------------------
要するに、仏教弘布に尽くす者も、仏教のために武器を持って闘う者も、閻魔大王の裁きを受けて地獄に堕ちることがある――そう説いているのなら、仏教とはなんと奥深い宗教なんだろうと思います。
-------------------------------
「要するに」という言葉は結論を表しています。結論って表題同様本文全体のまとめであり、とても大切なところ。
だから、最低限二度読んで「全体の内容」を振り返りながら、「なるほど」とか「確かに」と賛同したり、「私はそうは思わない」など異和感や反対の感想をつぶやいていい。
なのに、まずこれをしていない。一読法では教科書や本などを読み終えたら「余白に短く感想を書き込みましょう」と教えます。
前節の結論は「仏教とはなんと奥深い宗教か」であり、この結論に至る記述も天界、阿修羅などを説明して「仏教はご利益があると人に勧めたり、仏教を守るために戦ったからと言って天国に行けるわけではない」ことを語っている。ゆえに「奥深い宗教である」と結論を書いています。
ところが、「仏教が人間を否定的に見ている」の記述はなかった。そもそも「否定」の言葉がどこにも出てこない。すなわち前節は「否定観の仏教」について何も語られていない――そのことに(読み終えて)気づかなければならない。
だから(さーっと読むのではなくちゃんと読んでいれば)、「おかしいなあ」の感想が出ていいところです。
「えっ、そんなこと考えたこともない?」
(失礼ながら)国語能力の低さ、人の話の聞き方、文章の読み方を学んでいない欠点が水道管破裂のように噴出しています(^.^)。
たとえば、誰かと会話するとき、相手が「今日はAとBについて話したい」と言えば、普通[A→B]の順に語られると思います。
なのに、B→Aの順に話されたら、こちらとしては「あれっ」と思って「どうしてAから話さないんですか」と聞くべきだし、相手は通常「先にBから語りたい」とか、Bから始める理由を言うはず。
六章の表題は「否定観の仏教、その奥深さ」とあります。よって語られる順番はA「否定観の仏教」→B「その奥深さ」である。なのに、前節の内容と結論はB「仏教の奥深さ」だけ。
そして、本文にも前置きにも後記にも「なぜ仏教の奥深さ」を先に語るのか、その理由は書かれていない。
読者はトータルとしてこのことに気づき、「どうして先にBから語られたんだろう?」との疑問・つぶやきが出てしかるべき――と指摘したわけです。
ここで「A→Bの順に語らなかった、Bを先にした理由を書いていないのは一読法の罠か?」とつぶやいたなら、大いに結構。落とし穴に落ちましたね(^_^)。
この理由は後記にて明かします。
[これは「作者なぜ?」にあたる最も難解な問い。自力挑戦しますか?
ヒントは「中国ドラマ」を紹介したことと下の2行の中にあり。たとえば「夏が来た」と「来た、夏が」に似て……。]
かくして今節は「否定観の仏教」――仏教が人間をいかに否定的、悲観的に、もっと言えば絶望的に眺めているか、それについて語ります。
『空海論』プレ「後半」(六) 否定観の仏教、その奥深さ
1 中国ドラマ『永遠の桃花』紹介 6月11日
2 六道「地獄・天界・修羅界」について 6月18日
3 六道「人間・人間界」について 6月25日
7、8月は夏休みです(^_^)
『空海マオの青春』論文編――後半第36号 プレ「後半」(六)の3
----------------
本号の難読漢字
・『三教指帰(さんごうしいき)』・貪瞋癡(とんじんち)煩悩(ぼんのう)・貪(むさぼ)る・蚤(のみ)・永劫(えいごう)・讒言(ざんげん)・厭(いと)い悔(く)いる・嫉(そね)み・誹謗(ひぼう)・遊蕩放逸(ゆうとうほういつ)・汚辱(おじょく)・鋸(のこ)・鑿(のみ)・殺生(せっしょう)・偸盗(ちゅうとう)・綺語(きご)・瞋恚(しんに・しんい)・掉尾(とうび)
以下中国ドラマ『永遠の桃花』の登場人物
・白浅(はくせん)…青丘の女帝、若い頃司音(しいん)と名乗って修行する。
・夜華(やか)…天界の皇太子。記憶を失って人間となった白浅と夫婦になる。
・墨淵(ぼくえん)…天族の武神。白浅が仙人修行をするときの師匠。
----------------
***** 空海マオの青春論文編 *****
後半第36号 プレ「後半」(六) 否定観の仏教、その奥深さ
3 六道「人間・人間界」について
前号では六道のうち天界・修羅界について詳しく眺めました。今号は六道の上から二番目に位置する我ら人間・人間界について『三教指帰』の解説中心に眺めたいと思います。
まず六道を再掲します。
《六道》[迷いの世界]
1 天人界……仏教を弘布・守護する天人が住む
2 人間界……貪瞋癡に苦しむ人間が住む
3 修羅界……仏教を守護し闘い続け、負け続ける阿修羅が住む
4 畜生界……人に使役される牛馬が住む
5 餓鬼界……飲み物食べ物を求めて得られぬ餓鬼が住む
6 地獄界……各種地獄で責め苦を受ける罪人が住む
仏教では貪瞋痴(とんじんち)を「心の三毒」と言い、「煩悩」とも呼びます。
ウィキペディアを参考に意味を書くと、
・「貪」は「貪欲(とんよく)」の「貪」、むさぼるように求めてやまない欲求。
・「瞋」は「瞋恚(しんに)」の「瞋」、怒りや憎しみ、妬みの感情。
・「痴」は「愚痴(ぐち)」の「痴」、思わず飛び出す人の愚かさ。
愚痴は一般的にはいやなことをだらだら口にすることですが、仏教では「瞋恚」に入るようです。確かに愚痴を言う人には抑えきれない怒り、それをどうすることもできないくやしさ、周囲と自分に対する怒りが根底にあるようです。
ここで言う「痴」とはやってはいけないことをやってしまう愚かさ。やらない方がいい(言わない方がいい)と思っても、思わずやってしまう(言ってしまう)愚かさを意味するようです。
これを基礎知識として空海の人間観を眺めます。マオ独自の見解と言うより、仏教が説く一般的な人間観でもあります。
まず人間を魚や動物にたとえ、主としてその内面(本質?)を次のように説明します。(引用は福永光司訳)
いわく「貪欲なもの、怒りっぽいもの、ひどく愚かなもの、ひどく欲ばりなものがおり、~この大魚は泳ぐかとみれば海中に沈み、心の動きが気まぐれで財物を貪るかとおもえば飲食を貪り、性根がねじまがっている。~略~
欲が深くて、将来の災いなど念頭になく、鼠のように蚤のように貪りくらって、あわれむ気持ちも可哀そうだと思う気持ちもない。誰もみな永劫の時間にわたる輪廻の苦しみは忘れ果て、ともどもにこの世かぎりの出世と幸福だけを望んでいる」と。
さらに、鳥類にたとえて「へつらいだますもの、讒言しおもねるもの、そしるもの、悪口をいうもの、おしゃべり、どなりちらすもの、人の顔色をうかがうもの、くよくよと厭い悔いるものなどがあり、翼をととのえて道にはずれた方向に飛びたち、高く羽ばたいて気楽なところに飛んでゆく」とも言います。
また、その他の動物にたとえて「おごりたかぶりと腹だち、ののしりと嫉み、自己賛美と他人の誹謗、遊蕩放逸と恥知らずの厚顔、不信心、無慈悲、邪淫、邪見、憎悪と愛着、栄誉と汚辱、殺し屋の仲間、闘争内紛の一味などがあり、外見は同じでも心はさまざま~鋸のような爪、鑿のような歯をもっていて慈愛の心などほとんどなく、穀物を餌とする」など人間についてさんざんな評価です。
これって空海の時代でも平安時代初期――今から1300年前の言葉です。仏教が中国に伝わったころから勘定しても1700年以上。
最近の様々な犯罪、詐欺行為、恋愛におけるストーカーとか殺人、夫婦の浮気に不倫、パワハラ・セクハラ・モラハラ、いじめやSNSの誹謗中傷などなど。
このような人間の悪しき側面(本質?)って「大昔から全く変わっていない」と思わせます。
そして、人間とはこのような動物であるから十悪を犯すと続きます。
「十種の悪業の沢辺で羽ばたきする。~飛んでは鳴いて眼前の豊かな生活にあくせくし、生まれては死んで未来の苦の果報を忘れる」と。
十悪とは次のような十ヶの悪しき行いです。
・殺生(生き物を殺す)
・偸盗(ものを盗む)
・邪淫(よこしまな恋情を抱く)
・妄語(うそをつく)
・綺語(見栄を張って飾り立てた言葉をはく)
・悪口(人の悪口を言う)
・両舌(二枚舌を使う)
・貪欲(あらゆるものを必要以上に求める)
・瞋恚(激しい怒りや恨み、憎しみを持つ)
・邪見(誤った見方、考え方にとらわれる)
さて、ここまで読んでみなさんはどう感じたでしょうか。
先に私の感想を言わしてもらうと、仏教って「どうしてこんなにも人間の負の側面ばかりを強調するのだろう」と思います(^_^;)。
人間の愛とか優しさ、人への思いやり、家族や仲間のために行動するなど、人間にも良いところがあると肯定するのではなく、人間を否定的に眺めていると言えるでしょう。
四苦八苦もそうでした。人として生まれ、人として生きる苦しみ、老いる苦しみ、死ぬ苦しみ――すなわち「生老病死」の四苦を強調し、生きるにあたって日々起こる四つの苦しみを指摘します。
それは次の四つ。
1 愛別離苦(あいべつりく)…愛する人と死別・離別しなければならない苦しみ。
2 怨憎会苦(おんぞうえく)…いやなやつと日々会わなきゃならない苦しみ。
3 求不得苦(ぐふとっく)…欲しいものがたくさんあるのに求めて得られない苦しみ。
4 五蘊盛苦(ごうんじょうく)…人間活動が盛んなるがゆえの苦しみ。
最後の「五蘊盛苦」をもう少し簡単に言うと、人があらゆる苦しみを「苦しい」と感じてしまうのは人が生きて活動するからであり、苦しいと感じる心を持っていることを意味します
人生には喜びや楽しみもあるのに、仏教の人間観は苦しみと悪しき人間像だけを見つめるかのようです。人間を性善説・性悪説で分けるなら、仏教は明らかに性悪説でしょう。「人を見たら泥棒と思え」にも似ているし、今なら「警察、検事、銀行、役場からかかる電話は詐欺と思え」ですね(^.^)。仏教は慈悲を説くのに、かくも悲しい人間観に基づくとは不思議です。
もっとも、それゆえ仏教は人間の悪しき面を正し、より良い人間になるために「仏教を信仰しなさい、その教えに従って正しい生活を送りなさい、善行を積みなさい」と説くわけです。
これは逆に言うと、「仏教に基づく生活を送らなければ、人は良い人間にならない」と主張するのと同じ。
余談ながら、この考え方は仏教にとどまらず、キリスト教やイスラム教など《全ての宗教》に共通した発想でしょう。宗教だけでなく、資本主義・自由主義に民主主義、社会主義や共産主義、独裁主義など全ての《主義》に通じる発想でもあります。
よって、その宗教や主義を正しいと信じる人たちは国内を、世界を我が宗教、我が主義で覆い尽くそうとします。
卑近なことわざに「類は友を呼ぶ」があります。これは同質等質の人間が集まれば友だちになりやすいということであり、異質の人間はそのままではなかなか仲良くなれない。ゆえに、全人類が同じ主義、または同じ宗教の下で一つにまとまるべきだ。そうすれば、世界から悪と争いがなくなるはず――と言うのです。
我が主義が正しいという人、我が宗教を人に勧める人はそれを信じて活動に励んでいる。宗教指導者はもちろん、各国のリーダー、政治家もそう思っている人が多いはず。
しかし、私は思います。そもそもこの発想そのものが間違っているのではないかと。世界を我が宗教、我が主義で覆い尽くそうと考えることがかえって世界中に争いを引き起こしているのではないでしょうか。
このように考える根拠は単純です。人類が誕生し、やがて社会生活を送るようになり、宗教が生まれ、主義が生まれて数千年。人類はかつて一度も一つの宗教が世界を覆い尽くしたことがない。近代以後一つの主義が世界を覆い尽くしたこともない。
宗教と主義は人の悪行も集団間の戦争もやめさせることができなかった。むしろ、対立する宗教・宗派間、主義対主義、主義対宗教など、異質間の戦争はより激しく悲惨になっている気がします。
もう一つ。主義や宗教が同じであっても、国同士対立したり、戦争に至ることもある。その根幹にあるのが愛国主義。
これは主義と言うより感情と言うべきか。「国を愛しなさい。愛せない人間は非国民だ、国のために戦えない国民は出ていけ」などと主張する。そして、自国に不利益をもたらす相手国と対立し、ときには戦争まで発展する。
最近某大国が見せている内乱間近の分断、他国に仕掛けた関税戦争など典型例でしょうか。
ちと脇道が過ぎました。私は仏教や空海について論じながら、宗教と主義に対してとても懐疑的なのです(^_^;)。
閑話休題、六道に戻ってその意味を考えてみます。
六道のごく一般的な解釈は生と死の対比による輪廻転生です。つまり、人が死んだら生まれ変わる世界とされます。人は「善行を積めば天人界に生まれ変わり、悪行を積むと畜生や餓鬼として生まれ変わる。悪行が残酷で非道な場合は地獄に堕ちる」として人が死後生まれ変わるお話と見なされています。
よって、死後の世界なんぞ信じられない唯物的人間は「輪廻転生なぞありえない、地獄は存在しない、作り話だ」と言うでしょう。
かつて多くの人が地獄・極楽の存在を信じた時代もあります(と言い切っていいかどうか疑問ですが、とりあえず「信じていたであろう」としておきます)。今の世で「悪いことをしたら地獄に堕ちるぞ」との言葉を信じる人は少ないでしょう。
幼稚園とか小学校低学年のいたずら坊主なら有効かもしれません。高学年になると「へーん。地獄なんかないよ~」とあっかんべーされそうです(^.^)。
ただ、妙なことに「地獄はない、人間の空想だ」と言いつつ、幽霊の存在とか魂はあると信じ、(地獄かどうかは別にして)死後の世界が存在すると信じる人は結構いるようです。
六道には別の見方も存在します。六道とはつまるところ「総体としての人間・人間界」を語っているというのです。
たとえば、四苦八苦、喜怒哀楽という観点から六道を眺めると、以下のようになります。
《苦と喜怒哀楽の六道》
1 天人界……死の間際まで苦しみはなく、日々怒りや哀しみもない。あるは歓喜と快楽ばかり。
2 人間界……生老病死の苦しみがあり、日々怒りや哀しみがあるが、喜びや楽しみもある。
3 修羅界……闘いの連続ゆえ喜び・楽しみはなく怒りと哀しみしかない。
4 畜生界……人に使役される牛馬に喜怒哀楽はない。
5 餓鬼界……飲み物・食べ物を求めて得られぬ苦しみと哀しみしかない。
6 地獄界……罪を償うための苦痛しかない。
牛馬に喜怒哀楽の感情がない――とは言い過ぎかもしれません。丹精込めて育てた食肉用の牛は屠殺場への車に乗るのをいやがって悲しい声で鳴くと言います。馬は笑うと言うし、競馬場でゲートに入ろうとしない馬のお尻をつつくと、後ろ足を跳ね上げます。あれ、きっと怒っているのでしょう(^_^)。
とは言え、まー人間以外の動物の感情はわかりません。六道界の中では人間だけに全ての感情があります。それこそ五蘊(ごうん)盛苦であり、五蘊盛喜です。
また、人が生まれた境遇や環境、その後の生き方という観点から六道を眺めることもできます。
《人生としての六道》
1 天人界……裕福な家の子として生まれ育ち、金持ちとして何不自由なく生きる人生。
2 人間界……ごく普通の家の子として生まれ育ち、可もなく不可もなく、苦しみはあるが喜び楽しみもある、ごく平凡な人生。
3 修羅界……貧富に関係なくどんな手段を使っても闘いに勝って金持ちを目指す人生。
4 畜生界……貧しい家に生まれ育ち、こき使われて働くしかない人生。
5 餓鬼界……貧しい家に生まれ育ち、あれがほしいこれがほしいと思ってかなわぬ人生。
6 地獄界……貧乏であれ、金持ちであれ、親から虐待されて苦痛しか感じない人生。
富裕層は人類の1パーセント以下ですから、私も含めて多くの人は普通か貧乏な家の子として生まれます。子ども時代、金持ちの子がおもちゃなどをたくさん持っているのを見て「あの家に生まれたかったなあ」と嘆息をもらした人は多いのではないでしょうか(^.^)。
六道を人生として見ると、生まれ変わらなくとも現世で天人になる人が現れます。つまり、粉骨砕身働いて出世したり実業家になったり、類まれなる能力を発揮して芸能人、芸術家、アスリートになり、芝生の庭とプール付き豪邸に住む人たちです。六道とは人間や社会の縮図であるとも言えそうです。
このように理解すると、前号に疑問として提示した「天人は仏教を弘布し守護する存在であるのに、どうして迷いの世界である六道なのか」の答えがわかります。
裕福な家に生まれ育ち、何不自由なく暮らしている人がみな幸福かと言えば、そうとは言えないでしょう。貧乏人には貧乏人の、中流には中流の苦しみがあるように、金持ちには金持ちの苦しみと喜怒哀楽があるはず。
富裕層と付き合った経験がないので、なんとも言えないのですが、どんな金持ちだって年を取るし病気になる。小国の国家予算並みの資産を持ったとしても、死後の世界に持っていくことはできない。息子や娘に欲しい物を何でも買い与えていたら、横柄でろくでもない人間になったと嘆く話は枚挙にいとまありません。少なくとも、天人が死の間際、地獄の十数倍もの苦しみを感じるというのは納得できます。
年を取って寝たきりになった。何億、何十億の金を持っているのに、もう動けない。かつて絶世の美女とうたわれた人も老醜をさらすと人前に出ようとしない。「健康な身体がほしい、老いはいやだ、死にたくない!」との思いは富裕層ほど切実でしょう(^.^)。
また、天人のような富裕層が仮に仏教信者であったとしても、彼らがすなわち解脱した菩薩や仏とはとても言えない。天人はやはり六道の一員なのです。
[以下は今回追加]
最後に「愛」という面から六道を眺めてみます。
この場合人間を肯定的に眺めるなら、それは「愛する」であり、否定的な見方としては「愛することができない」でしょう。これは我が『続狂短歌人生論』の一貫したテーマでした。
先ほど述べた「三毒(貪瞋痴)」を振り返ると、その根底には人の「愛されない、愛されなかった」不快な感情があると思います。それは過去の記憶であり、現在の(ひそかな)不満となって現れます。
かつて親に愛されなかった、友人に、先生に愛されなかった、初恋は成就せず、異性に愛されなかった、自然に運命に愛されなかった……それが事実の場合と思い込みである場合がある。
いずれにせよ「愛されなかった」記憶が多ければ多いほど人は愛を求める、愛されたいと思う。
これまで生きて愛されなかった、今愛されていない(と感じる)悲しみは怒りとなってふつふつと湧く。「どうして私は愛されないんだ」と思えば、現在と過去に対して愚痴を言いたくなる。
つまるところ、三毒とは心の底にわだかまっている「愛されない」感情の湧出ではないかと思います。
[ここで一読法の復習。「湧出」読めましたか? 読めなければ、ほったらかさずに検索を。そして、前置きに「欠点が水道管破裂のように噴出する」の言葉を思い出して「使い分けているな。ここで湧出としたのはなぜだ?」とつぶやきたいところです。]
だが、「それなら我々は人を愛することができる生き物だろうか」と問うことができます。
『狂短歌人生論』最終71号「掉尾を飾るどんでん返し」の冒頭は以下の言葉で始まっています。
-------------------------------
本論の前に我々がしばしば陥りがちな「絶望…(-_-;)」をちゃぶ台返し致します。
もしもキリストの教えどおり、人間がみな「人やものを愛することのできる生き物」であるなら、この世から…世界から、争いは雲散霧消するでしょう。国同士の戦争も民族・宗教の対立も。国内の犯罪も家庭内の殺人・虐待・口げんかも。ペットを平気で捨ててガス室送りにすることも。
が、残念ながらそうではない。ということはこの認識、ひっくり返した方がいい。
人間は人やものを愛することができない生き物である――と(^.^)。
-------------------------------
これって間違いなく「人間を否定的に見つめる」否定観でした。
人間とは「愛することができない、いつも愛されたいと思っている。自分が愛されないことは許せない、なぜ自分を愛してくれないんだ」と怒り、嘆き、悲しみ、苦しんでいる生き物だ――この観点から六道を再構築してみると、
[愛されたい人生]
1 天人界……誰からも愛される幸せな人生
2 人間界……愛し愛されることがあれば、愛されないこともある人生
3 修羅界……愛されたくて策を弄し戦うけれど、負け続ける人生
4 畜生界……愛されたくて相手に奉仕し何でも言うことを聞く人生
5 餓鬼界……愛されたい、愛してほしいと思うばかりでかなわぬ人生
6 地獄界……愛されないことが許せず、相手を傷つけ、果ては殺害して破滅する人生
もちろん345は同じ一人の人間であり、踏ん張れば2にとどまる。だが、一線を超えると6に堕ちる。
この分け方、「なかなかうまくやった」と自画自賛(^_^;)していますが、読者は次のようなつぶやきを漏らすかもしれません。
「2から6はなるほどと思えるけど、1の天人界はビミョーだなあ」と。
しかし、天界に暮らす天人に苦しみはない(と想定されています)。愛における苦しみとは「愛されない」ことです。ならば、天人に愛されない苦しみはない。すなわち誰からも愛される――とまとめられます。うらやましぃ~(^.^)
ここで「なるほど」とつぶやいた方は以下のテーマについて考えてみてください。
人間界は「愛し愛されることがあれば、愛されないこともある人生」とまとめています。この「愛されない」ことに執着すると、阿修羅となり、畜生に堕ち、餓鬼となって愛に飢え、果ては愛してくれない相手を恨み憎み、地獄に堕ちる。
では、誰からも愛される幸せな人生を歩むためにはどう生きればいいのか。
これは難しい問いです。
「答えなんかあるのか」と口とがらせてつぶやくかも。
が、答えはある――と私は思います。
一つの答えは『永遠の桃花』に描かれていた。
だから、読者に勧めようと思いました。
もう一つ、私なりの答えは『続狂短歌人生論』に書きました。
最終71号に掲載した以下3つの狂短歌はその答えです。
〇 愛という水が心にたまらない コップに穴が開いているから
〇 気づくこと あの親だけど愛された あの人だけは愛してくれた
〇 愛されたい? 愛されなくて構わない 愛されてると信じて生きる
これが「私なりの答え」です。
もう一度71号を(可能なら作品全体を)再読してください。
ところが、それでもどこか合点できない、心から納得できない。
「わかるけど、やっぱり難しい」とつぶやいた方。
それは「信じることができない」という思いに集約されます。
私たちはいろいろなことを信じたい。だが、たった一度の裏切りで愛されているか疑い始める。そして、愛されていない事実が二度も三度も続く(そう思い込む)と、「もう何もかも信じられない」気持ちにとらわれる……。
結局、「理屈はそうかもしれない。だが、愛されていると信じて生き続けるのは不可能だ」とつぶやいた方。次号からの「論文編後半」をぜひお読みください。
後半はこの件について深く、浅く探求します(^_^)。
==============
最後まで読んでいただきありがとうございました。
後記:前置き一読法「作者なぜ?」の答えです。なぜB「仏教の奥深さ」を先にしてA「否定観の仏教」を後にしたのか。
ヒント「来た、夏が」と同じ。これは国語表現の倒置法。そして、主述を逆転させるのは一文を強調するため。
すなわち、仏教とは人間を否定的に見つめる。が、「仏教を人に勧め、仏教を守る戦いをしたからと言って天国に行けるわけではない」と説くなど、他の宗教と違う奥深さを持っている――その全体を強調したかった、というわけです。
また、中国ドラマ『永遠の桃花』を勧めるにあたってできるだけ早く「天界」を説明したい。それはB「仏教の奥深さ」の方にあるのでそれを先にした、という点も理由です。
そこで、同ドラマについて一読法的質問を一つ。私が「なるほどそうか!」と壮大な伏線に感動した部分です。
この作品は全部で58話。その最後3話。ヒロインの「白浅」は愛する「夜華」を失い悲嘆にくれる。まるで後追い自殺しそうなほどに。
このとき師匠の「墨淵」は白浅に大きな嘘をつく。それは最終話でうそとわかるけれど、白浅は師匠がなぜうそをついたか理由を聞かないし責めることもない。墨淵もうそをついた理由を説明しない。つまり、作品としてはその理由が描かれないまま終わる……。
この理由を考えてください。説明できる人は作品をしっかりじっくり見た人です(^_^)。
さて、本節をもって「空海論プレ後半」は終了。予告した通りこれをもって夏休みとし、9月より「空海論後半」を開始します。
今年も猛暑の夏、豪雨・洪水・台風の夏がやってきます。
読者各位と私も生き延びて秋を迎えられるよう祈念いたします。 御影祐
Recent Comments