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2025.06.17

『空海マオの青春』論文編後半 第35号 プレ「後半」(六) 否定観の仏教、その奥深さ 2

六道「地獄・天界・修羅界」について

 まずは(またも?)一読法の復習(^.^)から。
 前節途中あることをつぶやきましたか。

 過去の作品『続狂短歌人生論』について触れ、リンク先(URL)が明示されたところです。
 8号と30号、2カ所ありました。ところが、「最終71号にて」のところでは71号に飛ぶことができません。
 そのとき「あれっ71号はリンクされていない。つけ忘れたな(にやり)」とつぶやいたか。

 こう思った人は「しっかりじっくり読んで疑問・感想をつぶやける」B群の方。
 読み過ごして気づかなかった人は(詐欺にかかりやすい)C群の方。

 ではA群は?
「忘れたな(にやり)」とつぶやいた後で、「いや、もしかしたら作者の罠か」とつぶやける人。
 そーです。わざと71号に飛べないように作りました(^.^)。

 では特A群の人は?
 自ら努力して71号を探しに行って読む人です。

 8号、30号、71号の中身を思い出せる人はほぼほぼいないと思います。
 だから、飛んで行った方がいい。8号、30号はすぐに飛んで行ける。だが、71号はないから「やめる」。
 自ら探しに行く最も簡単な方法は8号か30号の画面から目次のある画面に飛んで、最終71号を探し出して読むことです。めんどくさい?
 ただ、71号は「最新号」として目次のトップにあるからスクロールの必要なし。

「おいおい。オレたちゃそんなにヒマ人じゃないよ」とつぶやくのは良し。
 だが、特に高齢者の方でヒマを持て余しているなら、ぜひこの「めんどくさいヒト手間」に進んでほしい。こうしためんどくささに慣れることこそ詐欺にかからない訓練なのです(^_^)。

 閑話休題。前置きの本論はここから(^_^;)。

 今節より『空海論』前半仏教回帰の3節より「六道」について書かれた部分を再掲します。
 こちらの表題は改めて「否定観の仏教、その奥深さ」とします。

 中国ドラマ『永遠の桃花』が仏教で神仙が暮らす「天界」の物語とわかったとき、そして、空海の到達点が「全肯定」であると明記したとき、「仏教の六道」について復習した方がいい、と思うに至りました。その後夏休みにしようと。

 以前書いたように『論文編』後半は空海密教の最終境「全肯定」について詳しく語ることになります。
 その際仏教について一般的にはどう理解されているか、当然それを知っておく必要があります。
 というのは仏教は「全肯定」とは真逆の――すなわち「否定」の宗教だと理解されているからです。

 と言われても、「そもそも全肯定がようわからんのに、仏教が否定の宗教だなんて……私ゃそんなに仏教に詳しくない」とつぶやかれるかもしれません。
 いいつぶやきですよ(^_^)。

 とは言え不思議なことです。
 核家族のお宅に仏壇はないでしょう。が、実家に帰省すれば、だいたい仏壇がある(あった)。そして、家族の誰かが亡くなると、お坊さんを呼び、葬祭場で葬式をやり、四十九日、初盆、一周忌など法事を重ねる。その都度お坊さんがお経を読み、喪主は(いくら渡せばいいんだろう)と思いつつ布施を用意する。

 お盆には墓参りをし、幼子に「両手を合わせてお参りするんだよ」と教える。観光で寺に行けばほとんどの日本人は合掌してお参りする。
 これは日本の習慣。韓国では「五体投地」という激しい拝礼もある。[意味不明の方は検索を]
 なのに「自分は無信仰」と言い、仏教そのものの理屈も「よく知らない」とつぶやく……(^_^;)。

 キリスト教では『聖書』、イスラム教では『コーラン』が読まれます。どちらも分厚い聖典。ならば仏教信者として読むべきは『仏典』……とはならない。

 仏典が全て網羅された『大正大蔵経』は全100巻。これ漢文で現代語訳の『新国訳大蔵経』もあり、さらに今は『大正新脩大蔵経』テキストデータベースがあるので、パソコンで見る(読む?)ことだってできる。
 だが、読んでいるのはおそらく1万人か10万人に一人の仏教学者くらいでしょう。

 であるなら仏教には短縮経というのがあって多くのお葬式ではこれが読誦(どくじゅ)されている。
 浄土宗・浄土真宗では『仏説阿弥陀経』、真言宗では『般若心経』と『理趣経』。
 しかし、お坊さんがとなえるのは聞いたことがあっても、その内容は知らない。
 私なんぞある年代まで「お経って何か意味あるの?」と思っていました(^_^;)。
 読者各位も似たもん同士ではないでしょうか。

 かくして「仏教の内容? よー知らん」とつぶやく。
 やっぱり仏教解説が必要ですね(^.^)。
 空海『三教指帰』仏教編は仏教について簡潔に解説しています。私はそれをさらに簡潔に(ただ短くはできず)解説しました。

 これを読んで「仏教とはこんなに人間・人間界を否定的に見つめる宗教だったのか」とつぶやいてください。さらに「仏教は他と違ってなんと奥深い宗教なんだ」ともつぶやけると思います。

 端的な例を一つあげると、キリスト教、イスラム教、新興宗教……多くの宗教は「我が宗教を信じ、我が教えを人に勧めなさい。他宗・他主義に攻撃されたら戦え。戦って死んだら天国にいける」と説きます。
 が、仏教はそんなこと言いません。仏教を人に勧め、仏教を守る戦いをしても「地獄に堕ちることがあるぞ」と言っているのです。あらま(^.^)。

『空海論』プレ「後半」(六) 否定観の仏教、その奥深さ

1 中国ドラマ『永遠の桃花』紹介    6月11日
2 六道「地獄・天界・修羅界」について 6月18日
3 六道「人間・人間界」について    6月25日
   ……夏休み(^_^)

 『空海マオの青春』論文編――後半第35号 プレ「後半」(六)の2

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 本号の難読漢字
・六道(りくどう)・五体投地(ごたいとうち)・理趣経(りしゅきょう)・『三教指帰』(さんごうしいき)・輪廻転生(りんねてんしょう)・厭離穢土(おんりえど)・欣求浄土(ごんぐじょうど)・阿修羅(あしゅら)・殺生(せっしょう)・梵天(ぼんてん)・帝釈天(たいしゃくてん)・吉祥天(きっしょうてん)・韋駄天(いだてん)・現世利益(げんぜりやく)・天人五衰(てんにんごすい)・兆(きざ)し・披瀝(ひれき)・諫(いさ)める

・「四苦八苦(しくはっく)」について……生老病死の四苦と「愛別離苦(あいべつりく)・怨憎会苦(おんぞうえく)・求不得苦(ぐふとっく)・五蘊盛苦(ごうんじょうく)」の四苦。
 私はこれを逆転させて「四苦八苦は見方によって四喜八喜になる」と以前書きました。→ 論文編1号

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***** 空海マオの青春論文編 *****

後半第34号 プレ「後半」(六) 否定観の仏教、その奥深さ

 2 六道「地獄・天界・修羅界」について


 まず六道について。
 六道とは人が死んで生まれ変わる「天・修羅・地獄・餓鬼・畜生・人」の六つの世界を言います。車輪がぐるぐる回るように、人はこの六つの世界を生まれ変わっている(「輪廻転生」)というのです。『三教指帰』では餓鬼道・畜生道・修羅道について詳しく触れていません。なので、ここで六道全体を眺めておこうと思います。

 最初に誤解なきよう言っておきたいのは六道の中の「天」は「極楽」のことではありません。仏説の「極楽」とは六道の外に――と言うか、六道を超越した世界としてあります。
 極楽に迷いはないけれど、六道は全て「迷いの世界」であり、厭離穢土、欣求浄土の言葉が示すように、六道は汚れた世であるから、浄土を希求すべきだと言います。
 人間界を起点として極楽と六道の上下関係を図示すると、以下のようになります。

 《極楽》
  ↑[六道を脱して極楽・浄土へ]
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 《六道》[迷いの世界]
 1 天界
   ↑
 2 人間[人間界以下の五道を「欲界」と言う]
   ↓
 3 修羅
 4 畜生
 5 餓鬼
 6 地獄
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 人は死ぬと三途の川を渡って閻魔大王の裁きを受けます。生前犯した罪の軽重に応じて堕(お)ちる世界が《三悪趣》と言われる「畜生道・餓鬼道・地獄道」です。罪が軽ければ畜生道、中くらいなら餓鬼道、最も罪深い者が地獄行きの判決を下されます。

 まず修羅界について。
3 修羅……奈良興福寺の阿修羅像が有名です。阿修羅(アスラー)とは本来ヒンドゥー教において帝釈天と闘う悪神でした。それが仏教に採り入れられて仏法の守護者となりました。生前妄執によって苦しみ、争いの果てに悪業を負った者が死後阿修羅として生まれ変わります。
 阿修羅は常に闘う心を持ち、闘いに明け暮れ、心休まることがない。また、一度として勝つことがなく、ひたすら負け続けます。それでもなお闘う。闘い続け、負け続けて一生を終えます。

4 畜生道……生前愚痴や不平が多く感謝することの少ない者が、死後牛や馬など人に使役される動物として生まれ変わります。食べることと眠ることしか休息はなく、むちで打たれ、ひたすら働かされて一生を終えます。

5 餓鬼道……生前物惜しみをして嫉妬・羨望が強く、貪欲な行為をした者が死んで生まれ変わります。がりがりに痩せて腹がふくらんだ餓鬼は道の傍らにいて常に飢えと渇きに苦しみ、水や食べ物を求めてさまよう。だが、食べ物や飲物を手に取った瞬間それは火に変わる。それゆえ、決して満たされることがないまま一生を終えます。

6 地獄道……最も罪の重い者が地獄に堕ちます。地獄には焦熱地獄、極寒地獄、阿鼻地獄、叫喚地獄などがあり、無限とも思える長い間責め苦を受けねばなりません。それでも服役を終えると、再びこの世界に生まれ変わります。

 余談ながら先日某テレビ局の番組で興福寺の阿修羅像について語られていました。阿修羅像は正面から見ると悲しい顔をしているように見える。「それは闘いをやめた」姿だと解説していたので、あれっと思いました。私はその解釈間違っていると思います。
 阿修羅は一生闘いをやめることができない。あの顔は戦い続けることの悲しさを表現しているのだと思います。

 犯した罪悪によって人は畜生、餓鬼、地獄に生まれ変わります。仏説によると、人は生まれ変わった世界で反省したり、心を入れ替えることがありません。つまり、「私が悪かった。二度と悪いことはしないので助けてください」と言うことはないのです(言っても聞いてくれないようですし)。剣山刀樹の例(仏教解説32節参照)を見ればわかるでしょう。剣の山に登る罪人は自ら進んで登っています。痛い目にあうとわかっていても、欲に駆られて登り続け、降り続けるのです。

 生前闘うこと、争うことを生き甲斐のようにしてきた人間が「ならば死後は阿修羅に生まれ変わって一生闘い続けなさい」と判決が下され阿修羅に生まれ変わります。よって、阿修羅も反省することなくただひたすら戦い続けます。

 また、阿修羅像は細い腕と身体、とてもひ弱な肉体の持ち主として造形されています。筋肉隆々の金剛力士像と比較すれば、とても戦士とは思えない。つまり、「阿修羅よ。あなたは闘うような存在ではないのですよ」と言っているのです。

 人間同士が殺し合う現実の戦争において負けた方が大きく傷つくなら、勝った方だって(その瞬間は戦勝に湧いたとしても)後日辛い傷を負っていたことに気がつく。戦争を行っても真の意味で勝者は存在しない。なのに人よ、どうして戦い続けるのか、その愚かさと悲しみに気づいてほしい――そのような思いから阿修羅像は悲しい顔をしているのだと思います。

 最後に六道の最上部に位置する天界・天道について

 修羅道、三悪趣が罪深き人間が堕ちる世界なら、できれば生まれ変わりたい世界が天界です。
 天界は花々が咲き誇り、穏やかな気候で、まるで極楽かと思えます。そこに暮らす天人はみな長寿であり、人間の一年を一日として五百年から数千年も生きる(中国ドラマ「永遠の桃花」では何十万年も、老いることなく生きるとされている)。
 また、空を飛ぶなど神通力も持っている。天界は快楽に満ちており、生老病の苦しみがないというのです。うーん、天人に生まれ変わりたい(^.^)。

 では、どのような人間であれば天界に生まれ変わることができるのか。いろいろネット資料をあさってみましたが、いまだその答えを得ることができません。

 ただ、悪行を犯した人間は当然のように下に堕ちるでしょう。
 仏教で言う悪行とは現実の法律に違反しているかどうかではありません。端的に言って「殺生」(生き物を殺すこと)・「妄語」(うそをつくこと)は仏教において重大な犯罪です。

 ところが、我ら人間で蝿・蚊・ゴキブリなど小さな生き物を殺したことのない人はいない。牛肉・豚肉・鶏肉・魚を食べたことのない人もいないはずです。
「私は牛、豚、鶏を殺したことはありません」と言うかもしれません。しかし、誰かが殺してくれた動物の肉を買い求めて食べています。法律では金を渡して誰かを殺してくれと頼んだ者は実行犯以上の刑罰を受けます。

 屠殺場で毎日食用動物を殺す仕事をしている人がいます。「あなたは地獄に堕ちてください。私は肉を食べているだけで罪はありません」と閻魔様に言ったなら、閻魔は怒りの形相をもって断罪するでしょう。「お前こそ地獄に堕ちよ。だが、屠殺人は罪一等を減じて畜生道とする」と。
 また、生まれてこの方うそをついたことのない人も皆無だと思います。誰かと争ったことのない人もいないでしょう。

 よって、我ら人間は死ねば下に堕ちて修羅か畜生か餓鬼か地獄に生まれ変わること間違いありません。なのに、仏教では長寿・快適な天界を設定してそこに生まれ変わることがあるとしているのです。
 一体どういう人間だったら、天界に生まれ変わることができるのか。
 この答えは天界の住人を検討してみれば推測できます。

 そもそも天人や神々が住む世界を天界と呼んでいますが、彼らは基本的に仏教の守護神です。以前は仏教以外の神々であった。それが仏教に取り入れられて守護神となったのです。
 具体的には「梵天、帝釈天、四天王(持国天・増長天・広目天・多聞天=毘沙門天)、吉祥天、弁才天、鬼子母神、大黒天、竜王、夜叉、聖天、金剛力士、韋駄天、天龍八部衆、十二神将、二十八部衆」などです。
 これら天人は全て仏教・仏法を守る神々であり、七福神に代表されるように、人間に現世利益をもたらしてくれるありがたい神々です。阿修羅は当初天界に住んでいました。穏やかで争いのない天界にはふさわしくないとされたのか、修羅界に追放されたようです。

 ということは天人に生まれ変わりたいなら、仏教を信奉し守り広めることでしょう。そうすれば、その功績によって閻魔様から「天界に生まれ変わることを許す」と言われるのかもしれません。

 しかし、この天界、前述したように極楽世界ではない。あくまで六道の一つであり、迷いの世界であると言います。それはなぜか。
 まず何十万年生きると言っても、天人は不死ではない。やがて年老いて「天人五衰」という兆しが現れ、死を迎えます。初めは体が垢にまみれて悪臭を放つようになる。脇から大量の汗が出て自分の居場所を好まなくなり、頭上に咲いていた花がしぼんでしまうというのです。

 天人としての一生が苦もなく快楽に満ちていただけに、それがなくなるかと思えば、不安感と恐怖はいかばかりか。
 たとえて言うなら、貧乏人がわずかな全財産を泥棒に盗られてもあまり痛みは感じない。しかし、お金持ちが全財産を失ったら、ものすごい痛み、苦しみを感じるでしょう。
 そのように天人に死が近づいたときの苦痛は地獄の責め苦の十数倍にもなるとか。人は生老病死の四苦を持つ。天人に生老病の苦はないけれど、死だけは免れない。

 『永遠の桃花』ではこのことを「混沌に還(かえ)る」と呼んでいます。天人には生老病の《苦》がないので、小仙から上仙、小神から上神に昇格するときには雷に撃たれる苦痛が課されたり、四苦八苦を体験するため人間界に堕ちるとされています。

 閑話休題。
 かくして天人も死を迎え、三途の川を渡って閻魔大王の裁きを受ける。その罪業(などないように思えるのですが)に応じて人間界から地獄まで五道のいずれかに生まれ変わる。もしも生前の記憶を持っていたら、元天人は人間界を最悪の世界だと感じるでしょう。

 私は六道の中で天界と修羅界が最も不可解でした。天人は七福神に代表されるように人の御利益(ごりやく)のために活動している存在です。なのに、天界は極楽ではない、六道――すなわち迷える世界の一つと言うからです。
 最近ようやくこの不可解さを解く理屈を思いつきました。これ私が見いだしたものか、すでに誰かが言っていることかわかりません。取りあえず我が解釈を披瀝したいと思います(^_^)。

 注意したいのは天界の神々も阿修羅も「仏法の守護者」と見なされていることです。六道は当初五道(五界)であり、阿修羅は天界に入っていました。それが独立して修羅道となり、合わせて六道となったのです。
 彼らは仏教を守り、仏説を広めています。阿修羅など仏教のためにひたすら戦い続ける存在なのです。ところが、天界も修羅界も《人が生まれ変わる世界として良いこと》とはされていない。

 と言うことは仏教を守って闘うこと、仏教は御利益があると人々にすすめ、大いに広めること――それさえも迷いの世界であり、それだけでは極楽ではない、極楽には行けないと言っていることになります。一般的には「仏教を守って闘う者は極楽に行けるぞ」と信者に言うでしょう。

 某宗教の原理主義者は「我が宗教・宗派を守り、無知蒙昧の民に布教せよ。他宗・他宗派が攻撃して来れば闘え。敵をせん滅するまで闘え。死ねば天国に行けるぞ」と言って自爆テロを強要する。信者はその言葉を信じて爆弾を身に巻き付け、人混みの中で爆発させます。

 かつては仏教も武器を持って時の権力と闘い、他宗教・宗派間で殺し合ったことがあります。彼らにとってそれは仏教を広め、守るための闘いだったでしょう。
 だが、それは修羅道であり、迷いの世界であると言うのです。阿修羅は当初天界に住んでいたけれど、独立して修羅道となった。
 これは何を意味するか。それは仏教のために武器を持って闘うこと、慈悲の心と真逆の敵を殺したり、争うことは仏教の求める姿ではないと言っているのではないか。むしろそうなりがちな仏教信者に対して諫める言葉、戒める言葉ではないかと思います。

 要するに、仏教弘布に尽くす者も、仏教のために武器を持って闘う者も、閻魔大王の裁きを受けて地獄に堕ちることがある――そう説いているのなら、仏教とはなんと奥深い宗教なんだろうと思います。

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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:本文中地獄や六道の解説に際して引用媒体を書いていませんが、ネット事典――特にウィキペディアを参照したことを報告いたします。

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